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映画評・書評「国宝」ー近代と前近代の相克について - 2025年07月18日(金) 映画「国宝」をみてきたよ。 映画見に行く前に原作も読んでから行った。 ネタバレ注意なので、この先はまだ映画や原作読んでない人は見ないでね。 ====== モロッコで学会発表が終わったらお友達のなみなみちゃんと映画行こうと約束してたので、モロッコから飛行機に乗る直前にキンドルで原作本をダウンロードして飛行機の中でよみながら帰ってきた。 原作のほうはいやいや大変なお話でした。映画はストーリーよりもあの世界を映像化したというだけでも激しい話で、とりあえず吉沢亮の姿で喜久雄君が思い浮かぶようになり、原作世界がよりクリアになりました。 しかし、ストーリーの地獄の底は原作のほうが深かったです。 1960年代からから2020年代まで1人の少年が半世紀にわたって芸の道を究める中で周りの人々の幸せや栄光を養分のように吸い取ってただ一人孤高の存在になりながら、ひたすら舞台の上で輝く方向を目指して歩んでいく、憑かれたような物語。 少年:喜久雄は極道のおうちの子なのだが、極道も反社を脱ぎ捨てて、建設会社化して表の世界へと進出しようとする勢力と、極道のままでいいじゃん、という前近代的勢力の相克の中で、前近代派の喜久雄の父は命を落とす。この近代(カタギ化)と前近代(なあなあ)のせめぎあいというのが作品の随所に流れる重奏低音になって物語は進む。 喜久雄はわりと前近代でもいいの、芸さえ極められれば、って感じなんだけど、血縁重視の歌舞伎界で、芸だけで身を立てようとする喜久雄は存在自体が無自覚にも近代しちゃってる。 だけど「地方興行はヤクザさんのお世話になんなきゃやってられない」前近代や「歌舞伎役者は祇園に妾と子供がいても当然」の前近代が時代の流れの中で軋轢となってたたかれるとき血縁に守られない近代的存在であるところの喜久雄がスケープゴートとして差し出される。 長崎時代から大阪の丹波屋まで付き従う喜久雄の舎弟であり家族でもある徳次はメンタリティが前近代のヤクザ屋さんで喜久雄を守るべく付き従う影なんだけど、芸の力で喜久雄が近代歌舞伎の中で揺るぎない地位を占めるのを見届けてより深い闇を求めて中国へと渡っていく。 出色なのは娘綾乃の描き方で、綾乃が前近代の闇の中から前近代も近代も全て芸の肥やしにして幕一枚隔てた向こうにいる悪魔と契約した存在としての父の存在を喝破する火事のストーリーは結構鳥肌でした。 喜久雄の芸の肥やしとして出てくる丹波屋の人々もやはり前近代の泥の中でもがいてて凄まじいけど俊ボンと喜久雄の2項対立構造は映画の方が原作よりも顕著。映画では俊ボンの10年間の失踪の前半分の豊生君エピソードが端よられていて地獄の底が浅かった感もあり。 喜久雄の沖縄で撮影した映画って戦場のメリークリスマスっぽいとか、終盤お笑い界に身を投じる春江ちゃんって中村珠緒オマージュか?とか、中車のキャバクラでの叩かれ方は守ってもらえる後ろ盾のない世界での出来事かとか、改めて坂東玉三郎の人生をWikipediaで浚っちゃったりしましたが、いろんな出来事が投影されながら史実ではなく、あなたや私の近辺に転がってた近代化へのパラダイムシフト激闘の物語として読むのが正しいのかなと思いました。 歌舞伎に詳しい人には、渡辺謙に曽根崎心中の女形は無理とかいうことではなく、歌舞伎地方興業の近代化がいかになされたのかとかその辺についてご教示いただければ幸いです。 ...
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