頑張る40代!plus

2004年03月31日(水) 傾きかけた日々

 『傾きかけた日々』

 傷ついた部屋に閉じこもって
 ぼくは何気なくマッチをすった
 前からやっていたような気もするけど
 これが初めてのような気もする

  その日太宰府は雨の中にあった
  ただいつもと違うことは傘が二つ
  小さな梅の木はただ雨の中に
  そうやっていつも春を待つんだろう

 マッチをすっては何気なく消して
 また新しい火を起こしながら
 うつろに風を眺めている
 だけどそれも何気なく忘れて

  騒ぎすぎた日々と別れるように
  今日太宰府は雨の中にあった
  もう今までのようなことはないような気がする
  あるとすれば次には君がいる


ぼくは現在まで、オリジナル曲を200曲ほど作っている。
その中には、いろいろなタイプの歌がある。
恋愛の歌、人生の歌、生活の歌、回顧の歌、お笑いの歌、惰性で作った歌などである。
それぞれのジャンルの中にも、歌詞を重視した歌、曲を重視した歌がある。
今回プレイヤーズ王国で公開した『傾きかけた日々』は、歌詞に「君」だとか「傘が二つ」だとかいう言葉があるため、恋愛の歌と思われるかもしれないが、実は回顧の歌なのである。

その回顧とは、太宰府に行ったことではない。
この歌の中では、太宰府に行ったことは、すでに過去になっている。

その太宰府に行ったのは、高校2年の年の11月だった。
前の月からつきあい始めた彼女との、初デートの場所が太宰府だったのだ。
その日のデートは、完全に白けたものだった。
何となく面白くなさそうな彼女を見て、ぼくも不愉快な気持ちになったものだ。
話も弾まない。
ぼくはいつもの調子で話しているのだが、どうも彼女のノリが悪い。
そばに寄ると迷惑そうな顔をするし、ぼくはだんだんうんざりしてきた。
そのせいで、ぼくは帰りの電車の中でふて寝することになる。
それでも「このまま終わってはいけない」と思い直し、駅に着いて、ぼくは「何か食べて帰ろうか?」と食事に誘った。
が、彼女は「いらない」と言う。
「送っていく」と言ったが、それも「いい」と断る。
もう、勝手にしろ、である。

家に帰ってからも、ぼくは怒りが収まらなかった。
太宰府でのことといい、駅でのことといい、思い出せば出すほど、怒りの度合いは強くなる。
その状態がどのくらい続いただろうか。
だんだん怒ることが馬鹿らしく思えてきた。
つきあうことにも、「もうどうにでもなれ」という気持ちになっていた。
そのうちぼくは、放心状態になっていった。
覚えたばかりのタバコを取り出し、火をつけたまでは覚えている。
その後、いったい何本のマッチを擦ったのだろう。
気がつくとマッチの燃えかすが、灰皿の中に、何本も置かれていた。
ようやく正気に戻ったぼくに、「この先どうなっていくのだろう?」という不安がよぎった。
それは、二人の恋の行方に対することではなく、人生に関わることだった。
「今まで、少し浮かれていたのかもしれん。このままだとだめになっていくような気がする」
そう思うと、将来が怖くなった。
回顧していたのは、この時の、ぼくの心の中である。

さて、二人の仲がどうなったかであるが、こんなつきあいが長続きするはずもなかった。
その後、電話をすることも少なくなり、その月の終わりに、ぼくたちの仲は消滅してしまった。
当然のことながら、未練など何も残らなかった。

ところで、歌詞の最後に出てくる「君」だが、もちろん太宰府の彼女のことではない。
ぼくがオリジナルを作る、そのきっかけを作った女性のことである。
恋愛の歌のほとんどは、その人のことを歌っている。



2004年03月30日(火) 花見

ラジオでダイエー戦の中継を聴いると、「今日、福岡市に桜の満開宣言が出た」と言っていた。
今日たまたま福岡に行く用があって、昼から出かけたのだが、仰々しく「満開宣言」するほども桜は咲いてなかった。
いったいどこを基準にして、満開などと言っているのだろう。

ぼくは毎年観梅に行くほど、梅の花には興味を持っているのだが、桜の花には、まったくと言っていいほど興味を持っていない。
だから、花見なる行事には、あまり参加したことがない。
「出たがり」だった小学生の時ですら、花見には一度しか参加したことがない。
それは小学3年生の時に、親族一同で行った花見で、強制的に連れて行かれたのだ。
「行かんのなら、一人で留守番しときなさい」と言われ、渋々ついて行った。
それ以外にも、何度か花見に誘われことがあるのだが、友だちに誘われても、子供会の行事であっても、参加はしなかった。
中学や高校の時も、花見だけはしなかった。
というわけで、社会に出るまで、花見をしたのは、小学3年生の時の一回きりだった。

社会に出てからは、二度花見に参加している。
一度目は社会に出た翌年だった。
会社行事で参加したのだ。
もう一度は3年前、仲間内での花見だった。
さすがに3年前のことは覚えているが、20代の時のことはすっかり忘れてしまっている。
興味がないから、花見の印象が残らないのだ。
したがって、花見ネタは、ぼくには書けない、ということになる。

とはいえ、ぼくは別に花を見ることが嫌いなわけではない。
ただ、あの「花見」と銘打った宴会が嫌なだけなのだ。
元々野外で酒を飲むのは趣味ではないし、ゴザ敷いて弁当広げるのも好きではない。
しかも、桜咲く春より、梅ほころぶ春を喜ぶ人間であるため、桜の花を見ても浮かれた気分になれないときている。
桜を見ても何も感じないぼくには、車の中から愛でるくらいがちょうどいいのかもしれない。



2004年03月29日(月) 人間関係というのは実に難しい

前の会社にいる頃は、しょっちゅう上司が入れ替わっていた。
最初は、ぼくが異動になったために、必然的に主任が替わった。
次はその売場の主任が転勤になった。
それから1年して、後釜の主任が会社を辞めた。
その後は、ぼくがその売場の責任者となったため、直属の上司というのは店長になった。

その店長というのが、しょっちゅう入れ替わる。
短くて1年、長くても2年で転勤になるのだ。
昔から要領が悪く、上司なる人との付き合いをうまくできないぼくにとって、これは苦痛だった。
ようやくその人に慣れ、何とか折り合いがよくなった頃に他の人と入れ替わるのだから。
そこからまた、新しい人と人間関係を作らなくてはならない。

そんな店長の中には、ついに折り合いが悪いままに終わった人もいる。
ぼくに言わせてもらえば、彼らはろくな人間ではなかった。
いい加減な仕事しかせず、何か起これば、すぐに部下のせいにして逃げる。
しかも、そういう人が店長をやっている時に限って、大問題が起こっているのだ。
大問題が起こり、早々に彼らが退陣されられたからこそ、彼らとはいい人間関係を築くことができなかったとも言える。

さて、いろいろな上司の下で働く時、ぼくは一つのことを心がけていることがある。
それは、口先では「店長」と呼ぶものの、心の中では「店長」と呼ばないということである。
例えば、店長の名前が「正男」だったとする。
何か用がある時、口先では「店長」と呼びながらも、心の中では「こら、正男!」と呼ぶのだ。
また、小言を言われるたびに、「また正男が、馬鹿なことを言って」と思う。
そう思うことによって、店長という存在感が消え、心理的に楽になれるのだ。

なぜぼくが、そんなことをやっていたかというと、ある心理学の本に、「人を肩書きで認知すると、心理的な距離感が出来る」と書いてあったからだ。
つまり、その人と距離を置きたくないなら、肩書きで認知するな、ということである。
考えてみれば、店長という肩書きはあるものの、それがなければ彼は「正男」にすぎないのである。
ぼくはすぐさま、「店長」の肩書きを「正男」と認知することにした。
そのおかげで、肩書きから受ける重圧から解放されたのだ。

もし、上司との折り合いが悪くて悩んでいる人がいたら、一度試してみるといいだろう。
名前を思うのも嫌だったら、ニックネームで認知するのもいい。
きっと重圧を感じなくなるはずだ。

とはいえ、それで人間関係がうまくいくはずはない。
あくまでもこの方法は、心理的な重圧を克服するためだけのものだからである。
その証拠に、この方法を実行しだしてから、ぼくは「生意気だ」というレッテルを貼られ、人間関係は最悪なものになってしまった。



2004年03月28日(日) 浅草の想い出(後)

先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。
あれは、夏の帰省前のことだった。

いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。
前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。
その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。
どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。
しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。
そこでボーッとしていた時だった。
前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。
えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。
が、浅草に知り合いはいない。

おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。
そこでぼくも「こんにちは」と言った。
「いい天気ですねえ」
「はあ、いい天気ですね」
「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」
「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。

「どちらから、来られましたか?」
「八幡からです」
「ああ、八幡ですか。製鉄の」
「はい」
「観光か何かで?」
「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」
「ほう、それはいい心がけですねえ」
「はは…」

しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。
時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。
そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。

その時だった。
おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。
あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。
が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。
するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。
実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。
局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。

「やめて下さい!」
ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。
『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。
ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。
もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。

「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。
その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。
その言葉にカチンと来た。
が、ぼくは振り返らずに歩いた。
少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。
「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。
おじさんの横には、男の人がいた。
いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。



2004年03月27日(土) 浅草の想い出(前)

神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。
26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。
その道場には観音像が祭ってあった。
ぼくは中学の頃に、その道場に入門したのだが、入門した頃からずっと観音像の由来を先生に聞かされていた。
先生は支那事変の時に徴兵された際、浅草の観音様にお参りに行ったそうだ。
それが功を奏してかどうかはわからないが、大陸で敵弾にあたり負傷した際、夢枕に観音様が立ち、処方箋を与えてくれたという。
それ以来先生は、観音様へのお参りを欠かしたことがないということだった。

いわゆる観音霊験記である。
しかし、ぼくはその話を聞いて、素直に信じてしまった。
だから、東京に出たその日に、浅草寺に行っている。
浅草寺との縁は、その時から始まったわけだ。
その後、北九州に引き上げるまで、毎月一回以上は浅草寺参りをやっていた。

で、何かいいことがあったのかというと、そうではない。
ぼくは、別にそういうことを期待して、お参りしていたわけではない。
ぼくが浅草寺参りをした理由は、他にある。
確かに、霊験なるものを体験したいという気持ちを持っていた。
しかし、それは最初の頃だけのことだった。
浅草に通っているうちに、だんだんそういう気持ちは薄らいでいった。
そういう不思議体験よりも、もっといい体験ができたからだ。
それは、そこに行くことで嫌なことが忘れられる、ということだった。
浅草寺で観音様を拝んでいるうちに、人間関係や貧乏生活などでくさくさした気持ちが、いっぺんで吹き飛んだのだった。
これこそ、本当の意味の霊験ではないだろうか。
言い換えれば、ぼくにとっての浅草寺は、ちょっといい気持ちになれる場所、ということになる。

ところで、ぼくは浅草に行っても、浅草寺以外に行くところはなかった。
地下鉄を降りたら、すぐさま雷門にむかい、仲見世を通って、浅草寺の境内に入った。
観音様を拝み、境内を少しブラブラし、来た道を戻った。
浅草の滞在時間は、平均すると30分くらいだった。
そんなわけだから、もし人から「浅草に何か想い出があるのか?」と尋ねられても、「浅草寺に行って、拝んで、すぐに帰りました」としか答えられないだろう。

ん?
何か忘れているような気がする。
・・・・・
ああ、思い出した。
そういえば、一つだけ強烈な想い出を持っていた。



2004年03月26日(金) 旅行に行きたい

「今年こそは」、と思っていることが、ひとつある。
それは旅行である。
前々から行きたいと思っていたのだが、暇と金がないためいつも諦めていた。
しかし、今年は何とか金の工面が付きそうなので、ぜひ連休を取って行きたいのだ。
で、どこに行きたいのかというと、それは東京である。

当初は沖縄もその候補に入っていたのだが、時期的なものもあるし、たった一泊では、沖縄を満喫することが出来ない。
ということで、行き先は東京ということになった。

まあ、東京に行くとは言っても、ディズニーランドやお台場といった、メジャーなところに行くわけではない。
それではどこに行きたいのかと言えば、それは浅草と神田神保町である。

十数年前、横須賀の叔父が亡くなった。
たまたまその日ぼくは休みだったので、すぐさま飛行機に乗り、横須賀に向かった。
横須賀に着いてから、しばらく通夜の準備をしていたのだが、それが終わると、通夜まで時間が余ってしまった。
そこでぼくは、「ちょっと、出かけてくる」と言って、京浜急行に乗り、そのまま浅草まで行った。
その後、神保町に行って、本を買い漁った。
横須賀に戻った時には、すでに通夜は終わっており、親戚一同からさんざん文句を言われた。

その少し後のこと。
KORG(楽器メーカー)の新製品発表会が東京であった。
出張扱いにすると、日帰りしなければならないので、ぼくは公休を利用し、東京で一泊することにした。
発表会は初日だけだった。
翌日はもちろん自由だった。
ということは、当然例の場所に行くことになる。
朝10時にホテルを出て、すぐさま浅草へと向かった。
観音さんにお参りした後、神保町の古書街に行き、そこで本を数冊買った。
その後、食事もせずに羽田に向い、帰りの飛行機に乗った。
午後1時の飛行機で、その30分前に搭乗手続きをしたから、ホテルを出てから2時間半後には羽田に着いていたことになる。
「もっとゆっくりしてくればいいのに」と、帰ってから母に言われたが、ぼくはそれで充分だった。
東京と言ったって、ぼくの興味がそこにしかないのだから、しかたがない。

おそらく、今回も同じところを回ることになるだろう。
とはいえ、今回は一人旅ではない。
当然嫁さん同伴になるだろうから、もしかしたら鎌倉まで足を伸ばすかもしれない。
しかし、ディズニーランドやお台場には行かん。



2004年03月25日(木) ぼくはマルチな人間ではない

先日、ある人から「久しぶりに詩を書いてみたら?」と言われた。
「詩を?」
「うん。最近書いてないでしょ?」
「ああ」
そういえば、最近、ちゃんとした詩を書いてない。
しかし、詩はそうそう簡単に書けるものではない。
第一、頭の中が、長い日記生活のために、すでに散文化してしまっている。
こうなると、韻文化することはかなり難しくなってくる。

よく「しんたさんはマルチな方ですね」と言われる。
ぼくは決してマルチな人間ではない。
確かにこのサイトでは、エッセイ、詩、果ては自作曲までも紹介している。
だから、マルチな人間だと思うのかもしれない。
しかし、これらは同時進行でやっていたわけではないのだ。

10代後半から20代前半にかけては主に歌、30代は主に詩、40代はエッセイだけというふうに、やっていた時代が違うのだ。
10代から30代にかけて、エッセイなんてまったく書けなかった。
その元になる日記すら、満足に付けたことがなかった。
30代、詩に情熱を燃やしていた頃は、歌は歌っていたものの、すでに作詞や作曲はやらなくなっていた。
また、40代になってからというもの、詩も作らなくなり、さらにホームページを始めてエッセイに没頭しだしてからは、歌も歌わなくなった。
頭の中の構造が、エッセイになってしまったために、他のことが出来ないのだ。
ギターを再開したのは、ついこの間のことだが、これもエッセイのを書くためのネタ欲しさから始めたのである。

以上見てきたとおりで、基本的にぼくはマルチな人間ではないのだ。
どちらかというと、一つのことに没頭するタイプの人間ということになる。
その時代時代で、没頭する興味が変わっていっただけの話である。

今、ぼくは観察に必死なのだ。
そう、日記ネタを探すためにである。
そういう現実を重視している人間に、深い感性を必要とする詩など書けるはずがない。
昔は比較的楽にやっていた作詞でさえ、満足に出来ないのだ。
もし、ぼくが詩を書くとしたら、次の時代に、ということになる。
ということは、50代か。
50代になれば、この「頑張る40代!」も終わっているから、日記に目の色を変えることもなくなっているだろう。
冒頭の方には、それまで待ってもらうことにしよう。
まあ、その時に、詩に興味を持っていればの話だが。



2004年03月24日(水) 夜汽車

 『夜汽車』

 風よ、ぼくはもうすぐ行くよ
 君のもとへ走る夜汽車に乗って
 はやる気持ちを抑えながら
 目を閉じて朝を待つよ

 まどろむ星は夜を映す
 遠くに浮かぶ街の灯り
 ふと君の影を窓に見つけ
 ぼくは慌てて目を閉じる

  暑い、暑い夜汽車よ
  ぼくを、ぼくを乗せて
  西へ、西へ向かう
  君の、君の元へ

 風よ、ぼくはもうすぐ行くよ
 眠れぬ夜を窓にもたれて
 君のもとへ走る夜汽車よ
 夜が明ければ君のもとへ


今日、プレイヤーズ王国に、『夜汽車』という歌を登録した。
歌詞は、上のとおりである。
これを作ったのは21歳の時だったから、もう25年が経つ。
と、プレイヤーズ王国で書いた『ショートホープ・ブルース』のコメントと同じことを書いたが、実際には『ショートホープ・ブルース』とは10ヶ月くらいの開きがある。
『ショートホープ・ブルース』を作ったのは1978年の晩秋で、この『夜汽車』を作ったのは1979年の初秋だった。
その頃、ぼくは東京にいたのだが、嫌なことばかりが起きていた。
下宿にダニが大発生し背中中を噛まれた事件があり、それから時を置かずして胃けいれんに襲われた。
胃けいれんは1週間続いた。
そのために、アルバイトを休まなければならなくなり、挙げ句の果てにクビになってしまった。
歌舞伎町のパチンコ屋で、置き引きにあったのもこの頃である。
また、後に『西から風が吹いてきたら』のネタ源である一連のN美騒動は、この頃から始まっている。
とにかく嫌なことばかりが続いていた。

そのせいで、望郷の念が強まっていった。
しかしその念は、「東京が嫌いだ」とか「福岡が好きだ」とかで強まっていったわけではなかった。
『西から風が吹いてきたら』の中で、「東京が嫌いだ」というようなことを書いているが、実はそうではなかった。
偶然そういう事件が重なったために居づらくなっただけで、基本的にぼくは東京の水が合っていた。
東京は、実に路地が多いところである。
ぼくの下宿も、路地に面したところにあった。
ぼくは、なぜかそういうところが落ち着くのだ。
言い換えれば、一歩奥に入ればどこも下町という、東京の街の雰囲気が好きだったということになるだろう。

では、なぜ望郷の念が強くなったのかと言えば、今思えば、当時好きだった子への未練からだった。
他に考えられないのだ。
いったんは諦めたつもりだったが、やはり諦めきれない。
故郷を遠く離れたことが、さらにその人の想いを強くしていった。
そして、数々の歌や詩になった。
『夜汽車』も、そういう歌の一つである。



2004年03月23日(火) H先生(下)

そういえば、この間のことだった。
先生の頬がなぜかげっそりと痩けていた。
そこでぼくが「先生どうしたんですか。具合でも悪いんですか?」と聞くと、先生は「休みなしで3日働いてるんですよ。きつくって」と言う。
ぼくとパートさんは呆れて、顔を見合わせた。
「そうだったんですか。そうですねえ、3日も続けて働くと、疲れますもんねえ」とぼくが言うと、「そうですよ。仕事は2日行って1日休みじゃないと」と先生は答えた。
翌日、薬局に行くと、先生はいなかった。
パートさんに「今日、ポマード(先生のこと)は休み?」と聞くと、パートさんは「ええ、ポマードはお休みでーす」と言った。
ぼくが「ああ、そうやろね、3日働いたけ、きっと熱がでたんやろうね」言うと、そのパートさんは「そうそう、先生は坊ちゃんですからね」と言って笑っていた。

ところで、そのH先生だが、実はぼくの高校の先輩なのだ。
ぼくは、ふとしたことでそのことを知って、内心「あっちゃー」と思ったものだった。
しかし、どんな人であれ先輩なのだから、無下には出来ない。
先生のほうも、ぼくのことを後輩だと思ってのことだろうが、ぼくを見かけると必ず声をかけてくる。
「で、どんな具合ですか?」
いつも「で、」で始まるこのセリフだ。
そう言われると、実に返すのが難しい。
最初の頃こそ、具体的に「今日は、けっこう忙しいです」とか「暇です」とか答えていた。
しかし、それが毎度のことなので、答えるのが面倒になって、ある時、「はい、こんな具合です」と答えた。
普通の人なら、こう返されると、あまり歓迎されないセリフだと思って、次からは他のことを言うだろう。
だが、先生の場合は違った。
それでも「で、どんな具合ですか」と聞いてくるのだ。

先日、ぼくの友人のオナカ君が訪ねてきた。
オナカ君は、ぼくの高校時代の同級生だから、もちろん先生の後輩である。
そこで、ぼくはオナカ君に「ちょっと会わせたい人がおる」と言って、オナカ君をH先生のところに連れて行った。
そしてぼくは「先生、同級生です」と言って、オナカ君を先生に紹介した。
すると先生は、急に例のぎこちない動きで、腕を振り出した。
何をやっているのかと見ていると、なんと小声で高校の校歌を歌っているではないか。
「先生、どうしたんですか?」
「いや、同級生やろ。だから校歌ですよ」
「‥‥‥」
これには、さすがのオナカ君も呆れていたようだった。



2004年03月22日(月) H先生(上)

先日、ぼくが社員用トイレの個室で用を足していると、誰かがノックしてトイレに入ってきた。
「取引先の人かな?」と思った。
社員用トイレは、四畳半ほどの広さで、小用が2器、大用が1器設置してある。
家にあるような、大小兼用の便器が一つだけしかないトイレではないので、従業員ならトイレに入る時、わざわざノックなどしない。
ぼくが、「取引先の人かな?」と思った根拠も、そこにある。

さて、その人は、用を足し手を洗った後にそそくさと出て行ったのだが、トイレの扉が扇ぐ風で、それが誰だかわかってしまった。
その風に乗って、あるにおいがしたからである。
そのにおいとは、ポマードである。
社員トイレは、けっこう多くの人が利用しているのだが、そういう人の中でも、ポマードを付けているのはたった一人しかいない。
薬剤師のH先生である。

「ああ、H先生やったんか。それにしても、何でノックなんかして入ってくるんかのう」とぼくは思ったが、すぐに「ああ、あの先生なら、そういうこともあり得る」と思い直した。
なぜなら、その先生、ちょっと変わっているからだ。

どこがどう変わっているのかということを、ここで説明するのは難しいのだが、強いて説明するとすれば、まずその動きだ。
H先生の動きは、何か堅くぎこちない。
ちょうどあの高見盛を見ているようである。
指先はいつも力が入っているのか、小刻みに震えている。
そのため、いつも先生には緊張感が漂っているように見える。
先生は、人と話す時、必ず大げさに手を動かすのだが、その際、緊張感漂う指はぎこちなく動いている。
例えば、「大丈夫です」という時、先生は指でOKサインを出す癖があるのだが、その時も指先は震え、うまく噛み合ってない。

笑う時は、必ず口元を手で覆い、「ヒッヒッヒ」と笑う。
従業員とすれ違う時などは、いつも額の汗をぬぐうようなパフォーマンスをしている。
「忙しいですか?」と尋ねると、甲高い声で「汗びっしょり!タオル3枚かえましたよ」と、いつも決まったセリフを言う。
それを言った後、決まって口元を手で覆い、「ヒッヒッヒッ」と笑っている。

さて、H先生は、かなり自己中心的な性格の人らしく、いつもそこのパートさんから不平不満を聴かされている。
あるパートさんが入ったばかりの頃、一人のパートさんが辞めた。
その時、H先生は「非常事態になりました。当分非常体制で臨みみましょう」とパートさんたちに言った。
ところが、その翌日、そこの長であるH先生は、当初のロ-テーションどおり休んだという。
「ふつう非常態勢なら、そこの長が率先して休みを返上するよねえ。でも、先生は違うんよ。私たちに休むなと言っておいて、しっかり自分だけ休むんやけ」と、そのパートさんは今でもこぼしている。



2004年03月21日(日) ライブやりたいなあ

またしてもプレイヤーズ王国のことを書く。
ぼくがプレイヤーズ王国に、歌を登録してから、何人かの方々が掲示板に感想を書き込んでくれた。
その中の3人の方は、ぼくと同じくプレイヤーズ王国で歌を登録している人たち、つまり同志である。
どの人も、現役でライブをやっている人たちばかりで、声の通りといい、説得力のある歌いっぷりといい、かなりぼくの上をいっている。
すでに現役を諦めているぼくは、そういう方々の歌を、感動と羨望と嫉妬の耳で聴いている。
おそらく、その人たちは地元ではかなり名が売れているのだろう。

さて、身近に、ぼくの歌を気に入ってくれている人が何人かいるのだが、そういう人たちから、よく「ライブやれよ」と言われている。
その都度ぼくは、「いつか暇になったらやるよ」と答えている。
しかし、これは逃げ口上である。
実際、ぼくは、ライブをやるような気概を持ち合わせてはいないのだ。
確かに、過去何度かライブハウスに立ったこともあるし、スナックで歌っていたこともある。
結婚式では弾き語りをせがまれ、数百人の前で歌ったこともある。
しかし、その時ライブをやっていたわけではない。
観客を盛り上げたり、惹きつけたりするようなるようなパフォーマンスをやることもなく、ただ淡々と歌をうたっていただけにすぎない。
主催者側からすれば、「これじゃ、金取れんな」という存在であったわけだ。

なぜ、ライブが出来ないのかと言えば、ぼくが極度の『あがり症』であるからだ。
初めて人前で歌った時など、歌っている途中に腹が痛くなって、ステージの上で座り込んでしまったほどだ。
歌うだけで精一杯なのに、パフォーマンスなんてとても出来るものではない。
普段は「口から先に生まれてきたんじゃないか」と言われるほどおしゃべりなのだが、大勢の人の前だと、急に黙り込んでしまう。
だから、昔ミュージシャンを目指していた頃でも、コンサート中心のミュージシャンではなく、ビートルズの後半のような、スタジオで曲作りに励むようなミュージシャンを目指したのだ。

ところが、ここ最近、同志たちの影響からか、ライブをやりたくなっている。
「別にパフォーマンスなんかやらなくても、歌だけで充分だ。わかる人はわかってくれる」とか、「そうか、これだけ日記を書いてきたんだから、別に歌にこだわらなくてもいいんだ。ネタに困らないから、歌だけじゃなく、エッセイを語ってもいいわけだ」というふうに、気持ちが変化してきたのだ。
しかし、気持ちはそちらに傾いたものの、具体的にどうやったらライブが出来るのかわからない。
とりあえず、以前歌っていたスナックにでも行って、もう一度歌ってみるか。
いや、夜の街に繰り出して、酔っぱらい相手に『酒と泪と男と女』でも歌ってみることにするか。
これだと、うまくいけば日銭も稼げるし。
ということで、まず、例の『あがり症』を何とかすることにしよう。



2004年03月20日(土) 負けず嫌い

このサイトは、言うまでもなく読み物サイトである。
ぼくの書いたエッセイや詩を、多くの人に読んでもらおうと思って立ち上げたのだ。
その姿勢は今でも変わっていない。
その証拠に、夕方になると、夕飯のおかずに悩む主婦のように、ぼくは日記のネタに悩んでいる。
過去3年間そうだったし、今もそうだ。
おそらくこの先もそうだろう。

しかし、読み物ばかりじゃ面白くなかろう、と思って2年前に『歌のおにいさん』という歌ものを始めた。
これは、ぼくがミュージシャンを目指していた頃に作った歌を、みなさんにお聴かせしようと思って始めたのだ。
このため、このサイトは純然たる読み物サイトではなくなった。

とはいえ、ここを訪れる方々は、やはりぼくの書いた物を読みに来ている。
最初の頃こそ興味本位に歌を聴いてくれて、その感想を頂いたのだが、そのうち飽きたのか、歌に関する感想を頂けなくなった。
しかし、ぼくとしては、それでよかった。
やはりこのサイトは読み物サイトなんだし、今書いている物を今読んでもらえる喜びは、何ものにも代え難いものがある。
別に、昔やっていたこと、荘子流に言えば「カス」のようなものに対して、感想を頂こうなんていうのは以ての外である。

さて、この2月から、ヤマハのプレイヤーズ王国なるところに、オリジナル曲を登録しだした。
若い頃なら「ここに歌をあげて、一発当ててやろう」などと野心を持ってやっていただろうが、今は「まあ、聞いてくれる人がいたらいいや」くらいの軽い気持ちで始めた。
もちろん、音楽を通してホームページの宣伝をしようという意図はあった。

ところが、曲を登録していくうちに、やっかいなものがあることに気がついた。
それは、ランキングである。
ぼくは、昔からランキングなるものを避けていく癖がある。
なぜかというと、一度ランキングにのめり込むと、ぼくの性格からして、上の方にランキングされていると、いい気になって大きな顔をするだろうし、逆にランキングが1位でも下がったら、落ち込んでしまい、飯も食わないだろうからである。
とにかく、ランキングなんかに振り回されるのが、大っ嫌いなのだ。
だから、ホームページや日記のランキングも参加していない。

しかし、このプレイヤーズ王国は、どうもランキングを避けて通れないようなのだ。
そのため、曲を登録するたびに、ランキングが気になってしかたない。
気にすまいとは思っているのだが、そう思った時点で、すでに持ち前の負けず嫌いが出てしまっている。
ランキングが下のほうだと、「くそー。じゃあ、今度はもっといい歌を上げてやろうやないか」などと思い、夜を徹していい曲探しをやっている。
そのため、最近はいつも寝不足である
ぼくの負けず嫌いは、体に毒なのだ。
どうにかしてランキングから抜け出さないと、このままだと体をこわしてしまう。



2004年03月19日(金) エッセイ人生

ふと思ったことだが、ぼくは生まれてこの方、ずっとエッセイを書いてきたような気がする。
生まれてこの方、というのは大げさだが、その日常がずっとぼくの記憶の中に留まって、それが、ある時は文章となり、ある時は詩となり、またある時は歌という形になっていったのだ。

文章はわかるが、詩や歌というのは違いじゃないか、と思われるかもしれない。
だが、どうもぼくの詩や歌というのは、エッセイとしか思えない部分が多々ある。
別にそういうことを意識して、詩や歌を書いてきたわけではないのだが、振り返ってみれば、ぼくの書いたものは想像の産物ではなく、すべて日常に即した日記的なものばかりだ。

作曲もそうだ。
長い間、意識的に聴いたり、無意識に耳の中に入ってきた音楽が自分の中で熟成され、何気ない日常生活の中で、ポツンポツンとちょっとずつイメージとして落ちてきたに過ぎないのだ。
あとは曲作りの経験で、一つの曲としてまとめ上げただけの話だ。
文章を書くのと、何ら変わらないことだ。
つまり、表現方法こそ違うものの、それらはすべてエッセイだということである。

そういうことに気がついたので、今日から、何でもいいからエッセイしてみようと思い立った。
想像ではなく、自分のたどってきた道を表現するだけのことだから、あとはそういうものをうまくまとめるだけの話である。
「こんな楽なことはない」と、さっそく身の回りにノートやギターを用意した。
ところが、いざそういうものを目の前にすると、何も出てこないものである。

しかし、焦ることはないんだ。
最近ぼくの手相に、創造線がくっきりと現れてきている。
おまけに、運命線もいい状態に伸びてきている。
おそらく、運命はぼくに、エッセイする能力を授けてくれたのだろう。
そう思うことにしよう。
そう信じることにしよう。
そうでないと、ぼくはただのしがないサラリーマンで終わってしまう。
そういう生き方を、ぼくは望んでないのだ。

運命が後押ししてくれる。
そう信じて、あとは好きなだけエッセイしていこう。
さあ、エセッイ人生の幕開けだ。



2004年03月18日(木) 【学校は進路指導をしないのか?】他

【学校は進路指導をしないのか?】
昨日、公立高校の合格発表があった。
うちの店の従業員の中に、受験生を持つ母親が何人かいるが、ぼくの知る範囲では、その人たちの子はみな合格したそうだ。
めでたし、めでたしである。

ところで、その母親の一人が受験前に、「塾の先生から『あの高校なら大丈夫』と、太鼓判押されたけね」と言っていた。
それを聞いて、ぼくは「学校は何やっているんだ?」と思った。
ぼくたちの時代も、確かに塾はあったが、進路はすべて学校で決めていた。
ぼくの場合、中学3年の2学期末に行われた三者面談で、「この成績だと、T校なら70パーセント、C校なら80パーセント、M校なら90パーセントでしょう」と担任から言われ、さんざん迷ったあげく、女子の多い80パーセントを受けることにしたのだ。
その選択が良かったのか、悪かったのか、今もってわからないが、担任の意見を参考に志望校を絞ったのは確かである。
それが今では、塾の先生頼みとは。
学校の先生たちは、自分たちを教育することに精一杯で、受験どころではないのだろうか?

【アルバイトとのバトル】
数日前から、アルバイトとバトルを繰り返している。
事の発端は、ぼくが「お前、高校どこやったん?」と、聞いたことに始まる。
彼女は「O女子高です」と答えた。
「ああ、O女か。うちの近くやのう」
「え、しんたさんって、あんな所から来ているんですか?」
「あんな所っちゃなんか?」
「田舎じゃないですか」
「お前、自分がどこに住んでいて、うちを田舎だと言うんか?」
「私は都会ですよ。T駅の近くだから」
「T駅ぃ? あそこのどこが都会なんか?」
「だって、サティは歩いてすぐだし、うちのマンションの横なんかパチンコ屋があるんですよ」
「お前ねえ、サティとかパチンコ屋が近くにあったら都会なんか?」
「だって、ネオンがギラギラしてるもん」
「うちの近くだって、大きなパチンコ屋が3軒あるし、夜はネオンギラギラしとるぞ」
「いや、うちは都会だから、輝きが違うんですよ」
「それは、周りが暗いけたい」
「そんなことないですよぉ」

「うちは近くにデパートがあるんやけど、お前んとこ近くにデパートはあるんか?」
「ありますよ」
「ほう、どこにあるんか?」
「うちの前にあります!」
「聞いたことないのう」
「あるじゃないですか、ベスト電器が!」
「アホか!ベスト電器のどこがデパートなんか!?」
「え、違うんですか?」
「大いに違う」

「でも、うちは都会ですよ。だって、駅まで歩いて行けるもん」
「悪いけど、うちだって歩いて行けるんぞ。それに、駅が近いからと言って都会だとは言わんぞ」
「じゃあ、何と言うんですか?」
「交通の便がいい、と言う」
「とにかく、うちは都会なんです!」
「だから、どこが都会なんか?」
こうやって、バトルは延々と続き、ぼくたちはいまだに闘っている。



2004年03月17日(水) ミヤコさんはお休みですか?

前の会社にいた頃、ぼくの部下にミヤコちゃんという女性がいた。
顔立ちがよく、大人しく、よく気のつく女の子だった。
ぼくが休みの時は、ぼくの代行として頑張ってくれていた。

さて、当時、毎朝主任の朝礼が行われていた。
内容はいつも数字の詰めだった。
予算通りに売り上げが行っている部門はともかく、予算を落としている部門の主任は、いつもくそみそ言われていた。
朝から、よくもこんなに怒れるものだと、変に感心していた。。

それが終わると、自分の売場に戻り、部門の朝礼をやっていた。
主任の朝礼を、そのまま部門に持ち込むわけではない。
数字の詰めといった馬鹿げたことを、部門朝礼でやっていたら、みな気持ちが萎えてしまい、その日の営業に差し支えるのは目に見えている。
そこで、ぼくの部門の朝礼は、まず達し事項を伝え、その日の予算の確認などを、雑談形式でやっていた。

そこでの話だが、先のミヤコちゃんが朝礼の場にいないと、決まって「今日はミヤコさんはお休みですか?」と聞く人間がいた。
誰あろう、モリタ君(エッセイ参照)である。
最初のうちは、別に気にもとめなかったのだが、それが毎回のことなので、ぼくは「おかしいな」と思うようになった。
そこで、ミヤコちゃんが休みの日、例のごとく「今日はミヤコさんはお休みですか?」とモリタ君が言った後で、ぼくはモリタ君に尋ねてみた。
「モリタ君」
「はい」
「あんた、ミヤコちゃんが休みやったら、何か問題があるんね?」
「いえ、別に問題はありません。ただ、今日はミヤコさんはお休みかな、と思って…」
「あのねえ、ミヤコちゃんがこの場にいないということは、休みということなんよ。ミヤコちゃんは、あんたみたいに遅刻せんとやけ。わかった?」
「は、はい」
そう返事しながら、モリタ君は憮然とした顔をしていた。

これで納得したものと思っていたが、また次の時も、同じように「今日はミヤコさんはお休みですか?」と聞く。
他の売場の人間も、おかしいと思っていたらしく、「モリタ君、ミヤコちゃんのことが好きなんね」などと、はやし立てるようになった。
意地の悪いミエコなどは、ミヤコちゃんが出勤している時に、「モリタ君、今日はミヤコちゃんはおるよ」などと言ってからかっていた。
モリタ君は、興奮すると、おでこの真ん中のところが瘤のように膨れあがるのだが、その時も興奮したのだろう。
しっかりと、おでこが膨らんでいた。
しかし、モリタ君は、妙に冷静を装って、「わかってます」と答えていた。

その後、モリタ君が異動になったため、朝礼時の一つの楽しみはなくなった。
が、ぼくはたまに朝礼で、「おはようございます」の挨拶の後、モリタ君の声をまね、「今日はミヤコさんはお休みですか?」と言って、笑いを取っていた。



2004年03月16日(火) 冷たい風が

 『冷たい風が』

 冷たい風が吹いている
 服の隙間を刺してくる
 ついさっきまで君の温もりを
 感じていたぼくに、風は
 ひとりぼっちの道で

 夢ばかり追いすぎた
 ぼくに君は飽きたのかい
 もう少しぼくを信じて欲しかった
 いつまでもぼくを支えて欲しかった。君に!
 叫んでみても届かない

 狂ったように風は
 大声上げて吹きまくる
 こんなに君のいたことが
 ぼくにとって大きなものだったなんて
 寂しい雨が降っている

 愛を知った男は
 じっと涙を堪えて
 女の幸せを望むように
 見え透いた笑顔で身を引く
 ぼくには、そんなことできやしない

  ぼくは悲しいから涙見せる
  本当に辛いから泣いてやる
  雨よ、すべてを流しておくれ


この歌は、旧『歌のおにいさん』でも公開したことがないので、今回のプレイヤーズ王国が初めての公開ということになる。

まあ、簡単に言えば失恋歌である。
この歌を作った時は、ただのドラマだったのだが、それから何年か後に、この歌詞通りの体験をすることになる。

東京から帰ったぼくは、長崎屋でアルバイトをすることになる。
そこで働きながら、高校時代から好きだった人との再開を望んでいた。
が、現実は甘いものではなかった。
結局、長崎屋にいた一年、彼女と再開することはなく、半ば彼女のことを諦めていた。

ちょうど長崎屋を辞め、新しい会社に就職した頃だった。
長崎屋近くの会社で、高校の頃の同級生が働いていた。
新しい会社は、JRで通っていたのだが、よく彼女と駅ですれ違っていた。
彼女とは、高校卒業後に、よくいっしょに遊びに行ったり飲みに行ったりした仲だ。
また、彼女はぼくの歌を認めてくれた、最初の女性でもあった。
駅でのすれ違いの毎日が、ぼくに恋心を落としていった。
好きだった人が遠く感じるようになった時、ふと気づくと近くに彼女がいた、というドラマなどでよくあるパターンに、ぼくは陥ってしまったのだ。
いつしか、「友だちづきあいも長いし、この人でもいいな」と思うようになり、彼女との結婚を考えるようになっていった。

二度ほどデートに誘った。
まあ、デートと言っても、飲み屋に連れ回すだけのものだったが。
ところが、三度目のデートで、彼女の異変に気がついた。
何かソワソワして、落ち着かない様子なのだ。
「おかしいな」とは思いながらも、ぼくはそのことには無関心を装った。
その頃のぼくは、けっこう彼女にハマってしまっていたので、そのことを聞くのが恐ろしかったのだ。

それからしばらくしてからだった。
友人から、彼女の結婚話を聞いたのだ。
結婚相手と付き合いだしてから、すでに一年以上経っているということだった。
ぼくは独り相撲を取っていたわけだ。
「飲みに行った時に、言ってくれればよかったのに」と、ぼくは彼女を恨んだ。
が、元はといえば、付き合っている人がいるかどうか確かめなかったぼくが悪いのだ。

それを聞いた日、ぼくはやけになって、夜の街を飲み歩いた。
その時、ぼくの頭の中には、この『冷たい風が』が鳴っていた。
25歳の、晩秋のことだった。



2004年03月15日(月) 資生堂パーラーのチーズケーキ

先月のバレンタインデーに、久しぶりに多く(一桁だが)のチョコレートをもらった。
もちろん義理ではあるが、それでも悪い気はしない。
しかし、喜んでばかりはいられない。
バレンタインデーにチョコレートをもらうということは、ホワイトデーにお返しをしなければならないということである。

平年は近くのコンビニで適当にお返しを買うのだが、今年はホワイトデー前日が休みだったため、ちょっと指向を変えてデパート(井筒屋)で買うことにした。
井筒屋には、ありきたりのクッキーやキャンディーが数多く並べてあった。
しかもホワイトデーの前日と言うこともあり、かなり多くの人がいる。
その多さにうんざりしながらも、ぼくは何か物珍しいものはないかと探した。

しかし、物珍しいものなんて、なかなか見つからない。
「しかたない。この辺で妥協するか」と諦めかけた時、後ろのほうで嫁さんが、「え、これ、ここにも売ってるんか」と声を上げた。
「何かあったんか?」とぼくが聞くと、「これこれ」と嫁さんはショーケースの中を指さした。
中には他で売っているものと何ら変わらない、何点かのお菓子が並べてあった。
「普通のお菓子やん」
「いいや、これね、銀座の資生堂パーラーで売っているものでね、こちらでは福岡の三越じゃないと手に入らんとよ」
「おいしいんか?」
「うん。すごくおいしいよ」
「じゃあ、これにするか」と、値段を見てみると、予算をはるかにオーバーしている。
「ちょっと高いのう」
「そうやねえ」
と、いったんは諦めた。
とはいえ、他にこれと言ったものが見つからない。
「しかたない。これにするか」
と、人数分をつつんでもらった。

さて、ホワイトデー当日。
ぼくは持って行ったチーズケーキを、バレンタインでお世話になった人たちに渡した。
「ああ、しんちゃん、ありがとう」と、いうお礼の言葉はもらったものの、「え、これ資生堂パーラーのやん」という声はなかった。
おそらく、みな知らないのだろう。
家に帰って、嫁さんから「反響はどうやった?」と聞かれたが、「あげた人、誰も資生堂パーラーを知らんかったぞ」と答えるしかなかった。

ところが翌朝、会社に着いて、休憩室でコーヒーを飲んでいると、休憩室奥にある女子更衣室から、「昨日しんちゃんからもらったチーズケーキおいしかったねえ」という声が聞こえた。
一人が出てきて、「しんちゃん、昨日はありがとう。すごくおいしかったよ、あれ」と言った。

その人が出て行った後、更衣室にいた、もう一人が出てきた。
「あれ、おいしかったねえ。うちはみんなで取り合いやった。普段ああいうものを食べないお父さんまでが食べたもんねえ」

売場に行くと、「昨日のおいしかったよ。私が半分食べて、残りを娘にあげようと思って、テーブルの上に置いてたら、犬に食べられたっちゃねえ。おいしい物は、犬にもわかるんやねえ」と、パートさんが言う。
他にあげた人は、その日は休みだったため、感想は聞けなかった。

それにしても、あげた物が喜んでもらえることは嬉しいことである。
予算をオーバーはオーバーしたものの、これだけ喜ばれると買った甲斐があるというものだ。
ということで、今後も、こういう時のために、普段からおいしいものをチェックしておこう、と思ったことだった。
しかし、犬に喜ばれたのは、初めてだ。



2004年03月14日(日) PM6時32分、職場にて記す

今日は、4月1日からの総額表示に向けて、プライスの貼り替えを行った。
別に重労働でも何でもない作業なのだが、それでも高い所に置いてある商品プライスの貼り替えは疲れる。
先月以来ずっと首の調子が思わしくないままだから、どうしても首をかばってしまい、変に肩に力が入ってしまう。
おかげで、首のほうは何ともなかった。
が、そのツケが肩に来た。

作業後、無意識に肩をかばう自分に気がついた。
おかしいなと思い、肩の付け根部分を触ってみると、一箇所、ズキンと痛みの走る所がある。

ところで、肩が痛い時、昔なら『サインはV』のジュン・サンダースをすぐに思い浮かべたものである。
建設現場の下を歩いていた朝丘ユミの上から、資材が落ちてきた。
それを、いっしょにいたジュン・サンダースがとっさにかばい、肩を痛めてしまった。
病院で診察した結果、ジュンの肩に、悪性の腫瘍があるのがわかった。
その後、ジュンは死んでしまうのだ。
それを見て以来、ぼくは肩に痛みを覚えると、そのことを思い出し、「骨肉腫じゃないか」と思うようになった。
この心の傷は後々まで続く。

社会に出てから、肩こりのため、しょっちゅう肩に痛みが走るようになった。
それ以来、肩の痛みは、すべて肩こりから来るものだと思うようになった。
それが幸いしたのか、長年悩まされていたジュン・サンダース症候群からは解放された。

話は元に戻るが、一度痛みが気になると、意識はそちらに集中してしまうことになり、最初はさほどでもなかった痛みが、徐々に重くのしかかってくる。
そのうち、痛みに心を占領されてしまうことになる。
そうなると、思うこと思うことが現実になってくる。
例えば、「こう腕を曲げたら、痛いんじゃないか」と思えば、その通り痛くなる。
「ここから上には、腕が上がらないんじゃないだろうか」と思えば、そのとおりに腕が上がらなくなる。

こんな暗示にかかっていくうちに、ついに肩は最悪の状態になった。
歩く時、腕を振るたびに肩に激痛が走るようになったのだ。
これはどうにかしないとと思い、何人かの人に「湿布持ってない?」と尋ねて回った。
幸い、一人のパートさんが湿布を持っていた。

湿布を貼った後に、そのパートさんが言った。
「それは五十肩よ、五十肩」
「まだ、四十代やけ、四十肩やろ」
「いいや、五十肩!」
その人のことを、ぼくはいつも「おばちゃん」と呼んでいるので、仕返しのつもりでそう言ったのだろう。
が、肩の痛みのため、その相手をする元気が、ぼくにはなかった。

さて、仕事が終われば、車を運転して帰らなければならない。
もしこのまま腕が上がらなかったら、困ったことになる。
腕が上がらないということは、バックが出来ないということに繋がるのだ。
「さて、どうしよう?」
いったい、ぼくは無事に帰れるのだろうか?
もし、無事に帰れなかったとしたら、この文章は永遠に日の目を見ることはないだろう。



2004年03月13日(土) 棚卸し(後)

ぼくが前の会社を辞める時も、同じようなことがあった。
その時は店長とやり合った。
「お前、よくもマイナスを出してくれたのう。お前は辞めるからいいようなものの、後に残った人間はお前のおかげで迷惑するんぞ。わかっとるんか!? もう一度やり直ししろ!」

その何日か前に、ぼくは辞表を提出したのだが、そのために感情的になっていた店長は、大声でぼくを責め立てた。
それまでぼくは、その店長に対しては、噛みついたことがなかった。
食いついても価値のない男だと、本能的に感じていたからである。
そのため、辞めるまで何も言おうとは思ってなかった。
しかし、棚卸しに対して、こだわりを持っている人間に、こういう言い方はない。

とうとうぼくは口を開いた。
「やり直しなんかしません!何回やっても同じです!」と言いながら、ぼくは一歩前に出た。
「どういう意味か!?」と言いながら、店長は一歩後ろに下がった。
「本社のシステムのせいで出るマイナスを、どうして棚卸しをやり直したことで修正出来るんですか!?」
「それは…」
「それはもこれはもないでしょう。こちらはそれだけ調べてから、棚卸しに向かっているんです。何も知らないくせに、本社への体面だけで、安易に再棚卸しなどということは言わないで下さいっ!」
店長は一瞬言葉に窮した。
しかし、他の社員への体面上、口を開いた。
「お、おう。それだけ言うなら、ちゃんとレポートを持ってこい。いいか、持ってくるまで辞めさせんぞ!」

(じゃあ、レポートを作ってやろうじゃないか)と、ぼくはすぐに事務所に資料を取りに行った。
そこには店長がいた。
彼はぼくを見ると近づいてきて、小声でこう言った。
「なあ、しんた君。頼むから棚卸しやり直してくれんか」と。
それを聞いて、ぼくは情けなくなった。
「だから、さっきから言っているでしょう。何回やっても同じだって」
「いや、そうしないと、他の部門に示しがつかんから…」
普段の虚勢を張った言動とは、打ってかわった弱気な発言だった。
(所詮これだけの人間なんだろう)
そう思ってぼくは、「じゃあ、やりますけど、マイナスの金額は変わりませんよ」と言った。
「ああ、わかった…」
それから一週間後に、再棚卸しをやった。
が、結果は同じだった。

さて、その時に作ったレポートを、ぼくは辞める日まで店長に提出しなかった。
彼はぼくの顔を見るたびに、「おい、まだか!」と声を荒げて言った。
しかし、ぼくは心の中で「馬鹿が」と思いながらも、もう噛みつくことはなかった。
提出しないことで、反抗したわけである。
ようやく提出したのは、最後の日の退社5分前だった。



2004年03月12日(金) 棚卸し(前)

何が嫌と言って、棚卸しほど嫌なものはない。
ぼくが社会に出てからというもの、いつもこの棚卸しに悩まされている。
何しろ、店にある在庫を、すべて漏らさずに数えなければならないのだから大変である。
なるべく時間をかけずに、しかも正確に棚卸しをするために、入念に準備をしておく必要がある。
面倒なことが嫌いなぼくにとって、この作業は苦痛以外の何ものでもない。

過去、この棚卸しで、何度泣かされたことだろう。
前の会社の時、入社してから3年目で売場を任されたのだが、その最初の棚卸しは悲惨だった。
何をどうしていいのかわからないままに棚卸しをやったので、多額のマイナスを出してしまった。
上司からは文句を言われ、再度棚卸しの憂き目にあってしまった。
これを機に、ぼくは真剣に棚卸しと向き合うことになる。
それが良かったのか、その後マイナスは大幅に減っていった。

しかし、ぼくに運がないのか、そういうことに縁があるのか知らないが、その後受け持った部門は、なぜかマイナスの多く出る部門ばかりだった。
しかたなく、棚卸しの半月ほど前から準備をし、極力マイナスを押さえる努力をした。
結果が出たあとは、マイナスがどうして出るのかの分析も怠らずにやった。
そのおかげで、マイナスの出るのは、システムのせいだと突き止めたこともある。
その時は、いつも棚卸しの結果で文句を言ってくる本社に、逆に食いついてやった。
ところが、本社というのはのんびりしているもので、こちらが原因を突き止めたにもかかわらず、それに対しての改善やってくれないのだ。

そのため、次の棚卸しで、また同じようなマイナスが出てしまった。
本社から電話が入る。
「どうして、毎回こんなに多額のマイナスが出るんですか!?」
「だから、前の棚卸しの時に、なぜマイナスが出るかということを説明したでしょうが。どうしてこちらが言ったことを実行してくれないんですか!?」
原因がわかっているだけに、こちらも強気である。
押し問答をやったあげくに、「すいませんが、もう一度棚卸しをやってもらいませんかねえ」と来た。
「何回やってもいっしょです。そんな無駄なことはやめて、ちゃんとこちらの要望通りにやって下さい!」
そう言って、ぼくは電話を切った。



2004年03月11日(木) 理科が嫌いだ

予想どおり、今日もパーだ。
つまり、今日も仕事が忙しかったということだ。
まあ、今やっている仕事の内容をここに書いたところで、何も面白くないだろうから、書かないが、まあ、半期に一度の大忙しと思って頂いたらいいだろう。

さて、昨日、福岡県の公立高校の入試があった。
さっそく今日の朝刊に、その入試問題が載っていた。
何問か解いてみたのだが、国語はほぼ完璧、社会はまずまず、英語はなんとか、数学は公式を覚えていない、理科に関してはまったく、だった。
現役時代の成績は、社会、国語、数学、英語、理科の順でよかったと思う。
現在、国語がいいのは、あの頃よりずっと本を読んでいるし、さらに駄文ながらも毎日日記を書いているおかげだろう。
作者の意図なんて、手に取るようにわかるのだ。
あの頃、ホームページなるものがあったとしたら、もう一つ上の学校に行けたのかもしれない。
社会が落ちたのも、うなずける。
年号を覚えていないのと、地理や公民がわからなかったことによる。

しかし、理科はあいかわらずだなあ。
高校受験の時、理科は半分も点が取れていなかった。
現役時代も、現役を離れた現在と同じく、問題の意味すらわからなかったのだ。
そのため、高校に入ってから、理科に泣くことになる。
1年の時は生物で追試、2年の時は物理で危うく追試になるところだった。
そのため、3年の時は、下駄を履かせてくれそうな先生が教える科目を選んだ。

何で、それほど理科が苦手なのかわからないが、ただ一つだけ言えることがある。
それは、理科にまったく興味がないということだ。
まあ、理科で関心を持っていることと言えば、気象学、つまりお天気と、あとはアルカリ食品くらいである。

ぼくは昔から実験が嫌いな子だった。
小学校の授業では、やたら時間をかけて実験をやっていた。
火を点けたり、唾とデンプンを絡ませたり、「こんなことやって、何になるんだろう」といつも思っていた。
中学の時は、かわいそうに、蛙やフナの解剖をやるし。
エーテルの臭いを嗅ぐと、気分が悪くなったものだ。
蛙の解剖は、一年の時にやったのだが、授業が終わった後に先生が、「犠牲になった蛙に、黙祷しましょう」と言った。
解剖された蛙はまだ生きていて、心臓がバクバク動いていた。
蛙としては、こんな悲惨な姿にされた上に、黙祷でごまかす人間を恨んだことだろう。
黙祷するくらいなら、最初から生き物を殺すような実験をするな!
元々嫌いだった理科が、この件でさらに嫌いになった。

さて、高校3年の時、下駄を履かせてくれそうな先生が教える科目を選んだと書いたが、その科目は生物Ⅱだった。
生物は、1年の時に追試という苦汁をなめた教科だった。
しかし、3年時はわりと楽だった。
別に勉強しなくても、欠点にはならなかった。
授業も苦痛ではなかった。
先生から質問されることもない。
そのため、生物の授業だけはさぼらなかった。

とは言うものの、そこで授業を聴いているわけではなかった。
わからないものは、いくら聴いてもわからない。
では、何をしていたのかというと、本を読んだり、作詞をしたりしていたのだ。
図書館などでさぼっていると、決まって邪魔が入るのだ。
そのため気が散って、読書や作詞が出来ない。
そういった意味で、生物の授業こそが、ぼくにとって一番落ち着ける場所だったといえる。

その後ぼくは、いちおう大学を受けることになるのだが、理科の試験がない大学を受けたのは言うまでもない。
理科の試験がない大学、つまり私立文系である。



2004年03月10日(水) パーな一日

何日かに一度、パーになる日がある。
今日はどうもその日らしい。
パソコンの前に座っても、何も考えることが出来ず、時間だけが無為に過ぎていく。
気がつけば、もう寝る時間になっている。
「今日の日記、どうしようか?」
「休もうか?」
「いや、朝しようか?」
などと、一人で問答しているが、手は一向に進まない。

その手は何をしているかと言えば、日記とはぜんぜん関係のないことをやっている。
ちなみに今日は、重要なメールのバックアップなんかをやっていた。
この前のパーの日には、ギターを弾いていた。
その前のパーの日は、新しいソフトを入れて、何度もパソコンを再起動させていた。

そういう時は、なぜか気が焦ることもない。
何かのんびりしているものだ。
「そうか、明日も仕事だったなあ」
「忙しいかなあ」
「そんなことはないだろうなあ。やっぱり暇だろうなあ」
「次の休みは、何しようかなあ」
「ああ、疲れるわい」
やはり、パーな日なのだ。
建設的な思考が停止している。

なぜ、こういうことが起こるのだろう。
もちろん、パーな日なのだから、その日には、そういうことはわからない。
ということで、パーでない日、つまり脳の活発な日に、そういうことを考えてみたことがある。
その時得た解答は、「仕事が忙しい日に、パーになる」ということだった。

そういえば、今日は棚卸し準備のために、朝からタバコを吸う間も惜しんで、一生懸命働いていた。
主に肉体労働だった。
重たい物を移動させたり、積み重ねたり、とにかく力を使った。
そのせいで、帰る時、水筒を持つ手が細かく震えてしていた。
ということは、パーにならないためには、働きすぎないことが肝要だ、ということになる。

しかし、棚卸しは明後日に迫っている。
いやでも働かなくてはならない。
しかも明日は、商品の大量入荷日ときている。
つまり、明日もパーな一日になるということだ。



2004年03月09日(火) 西から風が吹いてきたら(その後)

『西から風が吹いてきたら』を書いた後、しばらくしてから、ぼくは北九州に戻ってきた。
3月23日だった。
その日をなぜ覚えているのかというと、その日が東京時代に一番仲の良かった友人の誕生日だったからである。
とは言うものの、別にその日に友人の誕生祝いをしてから、こちらに戻ってきたわけではない。
ただ、羽田を発つ時、「ああ、そうか。今日はあいつの誕生日だったなあ」と、思い出しただけである。

東京を離れる時、別にこれといった感傷はなかった。
「さあ、東京シリーズは終わった。次のステップだ」と思ったくらいだ。
何に対してのステップかというと、当時はもちろんミュージシャンへのステップだった。
地元で働きながら、チャンスを狙おうと思っていたのだ。
当時、福岡には、いくらでもチャンスが落ちていた。
東京でかなえられなかった夢も、地元なら何とかなるのではないか、と甘い夢を見ていた。
しかし、それは確かに甘い夢だった。
なぜなら、その後いろいろとチャレンジしたが、一つもものにならなかったのだから。

さてその日、福岡空港に着いたのは午後3時頃だったろうか。
『西から…』の歌詞どおり、その日の福岡は晴れていた。
その晴れた空を見て、将来が輝いているように感じ、「これから新しい人生が始まるんだ」と、喜び勇んで家に帰ってきたものだった。

家に帰ってから、1週間ばかりは、地元にいる安心感からか、充実した生活を送っていた。
いくら大きな音でギターを弾いても、下宿にいた頃のように咎められることはないから、ギターやハーモニカでガンガンやったものである。
その時期に、ぼくは一つの歌を作った。
内容は大したことないのだが、『西から風が吹いてきたら』の返答歌になっている。


 『さわやかな春の日に』

 さわやかな 春の風
 懐かしい 海の香り
 ぼくは ここで暮らすよ
 そばに聞く 君の声と

 少しだけ 大人の君と
 少しだけ 子供のぼくと
 小さな 家を建てよう
 二人だけの 家を

  華やいだ 春の夢
  駆け回る 雲の上を
  君とぼく 二人だけで
  他にはもう 誰もいない

 暖かな 春の陽よ
 やさしく つつんでおくれ
 君をもう 離さないから
 やさしく つつんでおくれ


しかし、現実は厳しかった。
帰ったはいいものの、肝心の仕事がない。
1週間ほど骨休みをした後、ぼくは就職活動に奔走した。
が、3月の末に転がっている仕事なんて、ろくなところはなかった。
ほとんどが営業ばかり、それも家や土地の販売だ。
「そんなもの、よう売りきらん」と思って、最終的に探し当てたのが、長崎屋だった。
東京から帰って、およそ3週間後、4月の中旬のことだった。



2004年03月08日(月) 西から風が吹いてきたら(番外編)

先日、プレイヤー王国に『西から風が吹いてきたら』という曲を登録した。
この曲の説明は、以前(昨年3月15日16日)この日記に書いているので、今日は説明は省く。

さて今日は、なぜこの曲を登録したかの話だ。
以前ぼくは、ごく親しい人以外には、作詞や作曲をしていることを教えていなかった。
理由は、そういうことを人に教えても意味がないと思っていたのと、そういうことを教えることに照れを持っていたからだ。
そうやって、ごく一部の人だけに聞かせてきたオリジナル曲だが、どういうわけか、この『西から風が吹いてきたら』の評判が悪かった。
いや、評判が悪いというより、この曲に限って、誰も聞いてくれなかったのだ。
個人的に好きな歌だったので、「なぜ?」という思いでいっぱいだった。

その後、ぼくの興味はエッセイや詩に移行し、作詞や作曲といったものの興味は薄れていった。
もうその頃には、『西から風が吹いてきたら』のことはどうでもよくなっていた。

さて、エッセイや詩に興味が移ると、どうかしてこういうものを、より多くの人に読んでもらいたいと思うようになった。
そこで、ホームページを立ち上げることを考えた。
これなら雑誌などに投稿するといった、面倒な作業もしなくていいからだ。
パソコンを手に入れてから、一年後、ようやく自分のホームページを持つに到った。

もちろん、目的がエッセイや詩を読んでもらうことだったので、当初はただそれだけのサイトだった。
しかし、時が経つにつれ、だんだんそれだけでは飽き足らなくなっていった。
かといって、テキスト以外に何かやることがあるのか。
写真の趣味はないし、絵心もない。
いろいろ考えたのだが、何一ついい案が見つからない。
そこで「ここはひとつ、オリジナル曲でもやってみるか」ということになった。
音源はかつて作ったデモテープを利用すればいい。
ということで、『歌のおにいさん』を始めた。

まず、自分のお気に入りで、ということで、数曲をアップした。
もちろん『西から風が吹いてきたら』を入れていた。
テキストサイトの異変ということだったのだろう。
最初のうちは、少なからず反響があった。
だが、『西から風が吹いてきたら』に関しては、「ハーモニカも吹くんですね」くらいの感想しかもらえなかった。

ところが、ある時「この歌、最高」と言ってくれる人が現れた。
この歌を作ってから20年以上経ってから、初めての理解者である。
ぼくは嬉しくなり、この歌の背景や、本当の歌詞のことを書く気になった。
ところが、そこにあったドロドロのドラマを知って、「そんな内容だッたんか」と、理解者はかなりショックを受けたようだった。
「しまった。書かんほうがよかったか」とは思ったが、もう前には戻れない。
まあ、童謡の中にも、空恐ろしい背景を持つものがあるということだから、そういうことを気にしていたらきりがない。
「せっかくの理解者が…」とは思ったものの、やり過ごしておくことにした。
ところがその後も、その人のお気に入りは、あいかわらずこの『西から風が吹いてきたら』なのだという。
その理由は、「いいものはいい」ということだった。
そんなに気に入っているのなら、ということで、今回プレイヤーズ王国に登録する気になったのだ。

もう一度書いておくが、この歌の元歌詞は、

「何も告げずに行くよ
 N美もうぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 ホントにもう二度とね」

東京時代、勘違い女に翻弄されたことがあるのだが、この歌は、その彼女に向けた決別の歌である。



2004年03月07日(日) 大荒れの一日(後)

そういえば、腰から腹にかけて、痛みのあるところが冷たく感じる。
「冷たいなら温めてやればいい」
そう思って、風呂のスイッチを入れた。
何時間かかってもいいから、痛みがなくなるまで患部を温めようと思ったのだ。

風呂には、2時間ほど入っていた。
心なしか痛みが和らいだような気がする。
だが、まだ万全ではない。
このまま体を冷やしてしまうと、また元通りになってしまうだろう。
そう思って、次の手段をとった。
今度は、ファンヒーターである。
エビのように腰を曲げ、お尻から背中にかけて、ファンヒーターの風を当てるのだ。
これもまた2時間やった。
もういいだろうと思って立ち上がると、もうすっかり痛みは消えていた。
「よし、完治だ!」

ところがである。
ずっとファンヒーターにあたっていたせいか、頭が痛くなったのだ。
時間が経つにつれ、その痛みはひどくなっていった。
とにかく、瞬きしても頭に響くのだ。
時間はもう夜の7時を回っていた。
夕方から降り出した雨がひどくなり、時折雷も鳴っている。
それがまた頭に響く。
そこでまた、風呂に入って頭痛を追い出そうとしたのだが、今度はうまくいかない。

こうなったら寝るしかない、と思ったのだが、風呂で2時間、ファンヒーター前で2時間と、たっぷり睡眠をとっていたので、なかなか寝つかれない。
しかし、体を動かすと頭に響くし、目を開けると必然的に瞬きをするので、これもまた頭に響く。
「こうなりゃ意地だ」と思って、布団の中でずっと目を閉じていた。

気がつけば、もう夜中である。
あいかわらず、頭の痛みは治まらない。
このまま朝を迎えるのかと思うと、気が重くなった。
何度も鎮痛剤を飲むことを考えた。
が、それだけはしたくない。
一度これをやってしまうと、癖になり、薬に頼る弱い子になってしまうからだ。
とにかく、頭に刺激を与えないように、頭を固定し、寝つくまでその姿勢を崩さなかった。

その姿勢に疲れたのか、いつしか眠ってしまったいた。
目が覚めると、午前8時だった。
なんとか頭痛は治まった。
24時間前に腰の痛みを覚えて以来、ぼくはずっと痛みと闘っていたことになる。
前に胃けいれんをおこして、長い時間痛みと闘ったことはあるが、その時は痛み半分、鎮痛半分といった状態だった。
今回のように、一日中寸断なくどこかが痛いというのは、初めての経験だった。



2004年03月06日(土) 大荒れの一日(前)

金曜日の朝、目が覚めて起きようとしたところ、どうも腰が痛い。
腰が痛いのはいつものことなのだが、なぜか昨日はそれが気になった。
そこで、布団の中で寝ころんだまま、ストレッチをやって、腰の筋を充分に伸ばした。
それを5分くらいやってから起きあがり、出かける準備をした。
金曜日ということで、いつものようにぼくは休みだったが、嫁さんが仕事だったため、朝は送っていくことになっていた。
さらにその足で、小倉のドコモショップに行かなければならなかった。

準備をすませ、出かけようとすると、今度は腹が痛くなった。
みぞおちあたりが疼くのだ。
とはいえ、そこまで気にするような痛みではない。
まあ、ぼくの場合、多少の腹痛なら、気にしないでおくと治る場合が多いので、そのまま放っておくことにした。

ということで、予定どおり、嫁さんを送って行き、その足で小倉に向けて走って行った。
当初、都市高速を使うつもりでいたのだが、時間に余裕があったので、国道を通って行くことにした。
その間30分ほどだったか。
気がつくと、あいかわらずみぞおちのあたりが疼いている。
「おかしいなあ」
しかし、それでもぼくは、気にしないでおいた。
気にしないことが、ぼくにとっての治療だからだ。

ドコモショップで用をすませ、イスから立ち上がった時だった。
みぞおちの疼きに加えて、腰も疼き出したのだ。
その痛みが連動してぼくを襲う。
腰、脇腹、みぞおち、という順番に痛みが走る。
「これはひどい。とにかく早く帰って寝ることにしよう」と、来た道を30分かけて戻って行った。

家に戻ってからぼくは、すぐに床に就いたのだが、横になっている間も、腰や腹の痛みは楽にならない。
そのため寝つくことが出来ない。
そうやって、一時間ほど経った時、ふと、あることを思い出した。
それは、前に飲みに行った時に聞いた話である。
その飲み会に参加していた人の一人が、尿管結石になり、大騒ぎしたという話だった。
彼は「最初は腰痛かと思っていたら、だんだん腹が痛くなってねえ」と言っていた。
ぼくの痛みの経緯とそっくりじゃないか。
「ということは、尿管結石か?」

病院嫌いのぼくは、いつの頃からか、ある程度の病気なら、自分で治せることが出来るようになった。
つまり、病院を拒むことで、野性的な本能が目覚めたのだ。
しかし、それは普通の腹痛や、風邪の時などに限られる。
そう、ぼくの辞書の中には、尿管結石のノウハウがないのだ。
これは困ったことになった。
これでは、医者いらずを自負出来ないではないか。
とはいえ、この忙しい時期に、もし病院などに行って入院などということになったら、目も当てられない。
とりあえず、ぼくは自分の症状の分析を始めた。



2004年03月05日(金) デス歯科医院(後)

翌日、学校が終わってから、ぼくは歯医者に行った。
「昨日は、神経をとったばかりで、他の神経に響いたのかもしれん。今日はもう落ち着いているから、痛くないよ」と先生は、ニヤッと笑って言った。
ぼくはその言葉を信じて、口を開けた。
前日と同じ針が、ぼくの口の中に侵入する。
前日の記憶が蘇る。
「痛い!」
「痛いかね!?」
「やっぱり痛いです」
「そんなはずはない!」
「そんなはずあります。もうやめて下さい」
ぼくはそれ以来、その歯医者に行くのをやめた。
そして、歯医者自体に行くことが嫌になった。

さて、デス君は高校卒業後、歯科大に進学し、その後父親の後を継いだと聞いていた。
久しぶりに高校の近くを通った時、まだその位置に歯医者の看板がかかっていた。
が、何となく活気がなく見えた。
ふと、その真向かいに目をやると、以前はなかった新しいビルが建っていた。
よく見ると、そこに歯医者の看板がかかっている。
名前を見ると、おお、デス君の病院じゃないか。
ちょうど、虫歯で悩んでいたところだったので、「これは一度挨拶に行かんとならん」とは思ったのだが、どうも過去の記憶が蘇ってしまう。
しかも、同級生に口の中をいじられるのも、あまりいい気分がするものではない。
ということで、挨拶に行くことはやめた。

それからしばらくして、ぼくは街中でデス君に会った。
「デス君やろ?」とぼくが言うと、デス君はニヤッと笑って「お久しぶり」と言った。
ニヤッと笑うところは、まさに父親譲りである。
彼は鼻の下に、秋篠宮様のような髭を生やしていた。
畏れ多いことである。
思わず「無礼者、似合ってないぞ!」と言いかけたが、そこまで親しくないので、言うのをやめた。

今回、オナカ君にそこを紹介したのには理由がある。
もちろん、そこ以外の歯医者を知らないということもある。
が、一番大きな理由は、デス君の腕を知りたかったからである。
それをオナカ君に確かめてもらいたかったのだ。
オナカ君には悪いが、彼に実験台になってもらったわけだ。
もし腕が良ければ、オナカ君といっしょに、デス歯科医院通いを考えてもいい。

最初の電話がかかってから1時間後、治療が終わったオナカ君から電話が入った。
「終わったぞ」
「どうやった?」
「麻酔かけてから治療したけ、痛くはなかった」
「針とか使ったんか?」
「いや、レーザー使った」
「レーザー? 設備が売りなんかのう。で、デス君の腕はどうなんか?」
「わからん」
「そうか、わからんか…」
こうなったら、オナカ君の治療が終わるまで待つしかない。
まあ、ここまで何十年も虫歯を放っておいたわけだから、1,2ヶ月ずれても、治療の内容が変わることはないだろう。
オナカ君の顔が変形してないのを確認してから、デス歯科医院通いを考えることにしよう。



2004年03月04日(木) デス歯科医院(前)

先日、友人のオナカ君から電話があった。
「おい、この辺でいい歯医者知らんか?」
「この辺ちゃ、どこか?」
「H町」
「H町なんか知るか。お前の中学の校区やけ、お前のほうが詳しかろうもん」
「いや、この辺は知らん」
「おれ、そこは知らんけど、G町なら知っとうぞ」
「G町か。ちょっと遠いのう」
「車ならそうでもないやろ」
「で、どこなんか?」
「デス君とこ」
「ああ、デス君とこか」

デス君とは、高校の同級生である。
ぼくは、彼とはいっしょのクラスになったこともなく、それほど親しくはなかった。
だが、その存在だけは知っていた。
彼の存在を知った時には、すでに誰もが「デス」と呼んでいた。
なぜそう呼ばれるのかは知らない。
また、知りたいとも思わなかった。
デス君の話が出たついでに、オナカ君に「何で、デス君なんか?」と聞いてみた。
が、オナカ君も「知らん」ということだった。

デス君の父親は歯科医だった。
学校の近くで開業していた。
ぼくは、たった一度だけ、そこに治療に行ったことがある。
その時、奥歯の治療をした。
通い出して何日か目に神経を取った。
「はい、神経を取ったので、もう痛みはないと思います」
そう言いながら、デス君の父親は、2センチくらいの針をぼくの目の前にちらつかせた。
何をするのかと思っていると、それを神経を取ったばかりの歯の中に突っ込んだのだ。
「い、痛ーいっ!」
ぼくは大声で叫んだ。
デス父は、唖然とした顔をして、「え、痛いかね?」と言った。
「痛いです」
「そんな馬鹿な。神経とったのに、痛いわけないでしょう」
「そう言われても、痛いんです」
「おかしいなあ。残りがあるのかなあ。もういっぺんレントゲン撮ってみよう」
そう言って、デス父はレントゲンの準備をした。

レントゲンを撮った後、先生はぼくにそのフィルムを見せながら、「ほら、もう神経は残ってないでしょう。痛くないんだから」と言った。
そして再び、先生はぼくの歯の中に2センチの針を突っ込んだ。
「痛いっ」
「痛いわけないでしょう」
「痛いんです」
「しょうがないなあ。じゃあ、明日やることにしよう」
そう言って、その日の治療はやめた。



2004年03月03日(水) 『くまってます』

先日、嫁さんのもとに一通の封筒が届いた。
嫁さんの出身高校からのものだった。
中身を読ませてもらうと、「卒業生名簿を作りたいのだが、消息のわからない人がいます。もし知っている方がいましたらお知らせ下さい」と、いうようなことが丁寧に書いてあった。
その消息不明の人の名前が羅列してあったが、けっこう多数いる。
ぼくが、「お前んとこ学校は、行方不明者が多いのう」と言うと、嫁さんは「しかたないやん、女子高なんやけ。結婚したら家を出るし、もし実家が引っ越しでもしていたら、わからんようになるやん」と言った。
なるほど、そのとおりだ。

そういえば、10年ほど前だったか、ぼくの出身校の同窓会本部から、同じような手紙が届いたことがある。
ぼくの高校は共学だったため、さすがに女子高よりは消息不明者が少なかった。
ただ、その時の文書は、嫁さんの学校のように丁寧なものではなく、何とオヤジギャグが書かれてあった。
熊のイラストが書いてあり、その熊に「行方がわからないくて、くまっています」と言わせていた。
『くまってます』である。
ぼくはこれを見た時、急に不機嫌になったのを覚えている。

『くまってます』
こういうのはやめてほしい。
同じ時期を同じ空間で過ごしてきた者にとって、このギャグは実に寂しい。
こんなダジャレを書くくらいなら、真面目に書いたほうがましである。
おそらく、『くまってます』を考えついた人の中では、大ヒットだったのだろう。
思わず声を上げて笑ったのではないだろうか。
「これで笑いを取れるぜ~」とでも思ったのではないだろうか。
しかし、結果はぼくを不機嫌にさせた。
いや、ぼくだけでなく、多くの人が、この『くまってます』で不機嫌になったはずである。

在学中に先輩から聞いたのだが、ぼくたちの高校は、周辺の高校に比べると、ギャグのセンスが高いということだった。
その時は、何を言っているのかよくわからなかったが、卒業後にそのことを充分にぼくは理解した。
他の高校出身者のギャグでは、笑えなかったのだ。
おそらく、それを感じたのは、ぼくだけではなかっただろう。
それなのに、『くまってます』である。
おいおい、伝統を汚すなよ、である。

こういう文書の中で、もしギャグを入れるなら、もっと気の利いたものにしてほしい。
充分に練ったギャグでないと、ギャグセンスの高いOBは納得しないぞ。



2004年03月02日(火) 卒業(後)

その間、学校には何度か行った。
いちおう教室の掃除や、卒業式の練習などをやった。
しかし、みなすでに心そこにあらずで、何となく白けた様子だった。
ぼくはそれを見て、「ああ、高校生活も終わったんだなあ」と思ったものだ。

さて、その卒業式の日の朝のこと。
その数日前から、額の真ん中にニキビが出来ていたのだが、いつまで経っても治らない。
「こんな顔で写真とか撮られたくない」と思い、思い切ってニキビを潰した。
ところが、そのせいで大変なことになっていた。
潰したところが赤く、しかもお多福豆大に腫れ上がってしまい、まるで大仏さんのようになってしまっていたのだ。
痛みを伴っていたので、放っておくことも出来ず、オロナインを塗りたくり、その上からカットバンを貼って、卒業式に向かった。
学校に着くと、会う人会う人から「しんた、お前、おでこどうしたんか?」と聞かれた。
その経緯を話すのも面倒だから、笑ってごまかしておいた。
しかし、これでは写真を撮るわけにはいかない。

式は体育館で滞りなく行われた。
ぼくは心の中で、最後のハプニングを期待していたのだが、それもなかった。
ただ、担任がぼくの名前を呼ぶ時に、ちょっと声を詰まらせたのを覚えている。
3年時の担任は非常に頑固な性格の先生で、校外でも有名だった。
ぼくは、そんな担任の下でもかまわずに毎日遅刻をしていたし、最後は最後で、クラスでたった一人だけ進路を決めないはでやきもきさせたし、まあこんな生徒だったから、やっとやっかい払い出来たと思って、感極まったのだろう。


 『卒業』その3

 面倒くささも手伝って
 ぼくは卒業という舞台に
 それまでしたことの何もかもが
 もうどうでもいいような気がして

 そこからのことを考える
 気力も残ってなくてね
 ただ馬鹿のように笑っていたよ
 それにしては白髪も増えたな

  古い汗の染みこんでいる
  床の上でみんな、
  みんな上品ぶって座って
  中には泣きながら校歌歌って

 ぽつんと青空がのぞいていたよ
 それを見ても何も感じなかった
 もうそんな気力も残ってなくてね
 ただそこにいるのが馬鹿らしく思えた


後年、高校の卒業式を思い出して、こんな詩を作ったのだが、ぼくの卒業式は、こんな感じだった。
そう、ぼくはずっと空を眺めていたのだ。

式が終わり、一度教室に集まって解散となったのだが、ぼくは逃げるようにして学校を後にした。
もちろん、写真を撮りたくなかったからである。



2004年03月01日(月) 卒業(前)

2月はあっという間に過ぎ、いよいよ3月に入った。
いつもこの時期なると、ホッとする。
あと4日で啓蟄だし、いよいよ春は動き始める。

そういえば、今日は高校の卒業式だったのか。
ぼくたちの頃も、やはりこの時期だった。
2月の頭に最後の定期テストが終わり、その後は週一度程度しか学校に行かなくてよかった。
学校に行かないからといって、休みというわけではなかった。
大学受験のための自宅学習期間、という意味合いだった。
もちろん、大学に推薦で受かっていた者や、就職が決まっている者にとっては、誰はばかることもない休みであった。

最後の最後まで進路を決めきれず、先生が世話しようとした推薦も断ったぼくにとっては、中途半端な休みになってしまった。
その間、いちおう私立大学二校を受け、卒業後の公立大学受験に向けて勉強するはずだった。
が、私立を受けたところで、当たりが良くなかったので、「勉強はもういいや」という気分になってしまった。
で、何をやっていたのかというと、言うまでもなく、いつものようにギターを弾いたり歌を作ったりしていたのだ。
歌作りに関しては、高校卒業という、二度と経験出来ないことをテーマにした歌を作ろうと試みた。
その時『卒業』という歌を2曲書いたのだが、その1曲は人生をテーマにしたもの、もう1曲は恋愛をテーマにしたものだった。

 『卒業』その1

 雪は残り、花は遅れていた。
 しかし、彼らは知り尽くしていた。
 一つの旅が、終わったことを。

 みんな、どこでもいいから吹き飛びたいと言った。
 というのも、彼らの行くところはなかったから。
 一つの旅が、終わった時に。

  薄暗い空から、雨も降り始めていた。
  でもちょっと見回すと、晴れ間も見えていた。

 誰かが死んでもいいと言った。
 でも、もう死ぬところもないだろう。
 一つの旅が、終わっているから。

 何か一つ元気が欠けた。
 大人たちは喜んだ。
 一つの旅が、終わっていた。

  薄暗い空から、雨も降り始めていた。
  でもちょっと見回すと、晴れ間も見えていた。


 『卒業』その2

 ついさっき雨はやんでしまったばかりなんだから、
 もうこれ以上ぼくを苦しめないでほしい。
 いつも同じように、君はぼくをうかがっている。
 でももうぼくの目には、君の顔なんて映らない。
 君と話し合えた時、もっと打ち明けるんだった。
 同じ言葉を二度も、使わないぼくなんだから。

 ぼくがあの川の淵に座っていた時、君は言った。
 二人で人生を語り合えるなんて、素敵なことね。
 ぼくは狂った。そこから飛び込もうとした。
 でも小さな鳥は、羽を広げて誘い込んだ。
 二つのカードを握り、火の中に投げ入れるんじゃなかった。
 確かにそれがぼくの、いつもの損なんだから。

  というわけで、ぼくも今では小さな鳥
  古い巣の中から、羽ばたこうとしている。
  心の中に小さく君の面影しまい込んで、
  新しい巣の中に飛び込もうとしている。


といった、わけのわからない歌を作っていたわけである。
その他にも、卒業をテーマにした歌を何曲か作っている。
こんなことばかりやっていたから、その後の公立大学も合格するはずがなかった。
結局、その後もこんな生活から抜けきれず、長い浪人生活を余儀なくされることになる。


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