橋本裕の日記
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2001年06月30日(土) フランス啓蒙思想と奴隷制度

ギリシャ・ローマ以来、奴隷制度は広く行われてきた。とくに、キリスト教が広まるにつれ、そこには根強い人種的偏見、宗教的偏見が加味されるようになった。

 モンテスキュー(1689~1755)といえば、三権分立を唱えたフランス啓蒙主義の代表的思想家だが、彼でさえ主著『法の精神』の第5章「黒人奴隷制について」で、こんなことを書いている。

「もし、私が、黒人を奴隷とすることについてわれわれがもっていた権利を擁護しなければならないとしたら、私は次のように述べることになるであろう。ヨーロッパの諸民族はアメリカの諸民族を絶滅させてしまったので、あれほどの広い土地を開拓するのに役立たせるため、アフリカの諸民族を奴隷身分におかなければならなかったのである」

「砂糖を産する植物を奴隷に栽培させるのでなかったら、砂糖はあまりに高価なものとなるであろう。 現に問題となっている連中は、足の先から頭の先まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持ち主である。きわめて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない」

 「人間性の本質を形成するものは色であるという考え方は非常に自然であり、このゆえに宦官を作り出しているアジアの諸民族は、黒人とわれわれとの間にあるより顕著な類似点を、常に除去してしまうほどである」

「人は皮膚の色を髪の色から判断しうる。世界で最良の哲学者たるエジプト人のもとにおいて、髪の色は非常に重大な意味をもっていたのであって、彼らは、彼らの手中におちた赤毛の人間をすべて死刑に処した」

 「黒人が常識をもっていないことの証明は、文明化された諸国民のもとであんなに大きな重要性をもっている金よりも、ガラス性の首飾りを珍重するところに示されている」

 「われわれがこうした連中を人間であると想定するようなことは不可能である。なぜなら、われわれが彼らを人間だと想定するようなことをすれば、人はだんだんわれわれ自身もキリスト教徒でないと思うようになってくるであろうから」

 「気の小さい連中は、アフリカ人達に対してなされている不正をあまりに誇張している。というのは、もしこの不正が彼らの言っているほどのものであるとしたら、お互いの間であれほど多くの無益な協定を作っているヨーロッパの諸君公の頭の中に、慈悲と同情のために、これについて一般的協定をつくるという考えが浮かんだはずではなかろうか」

 モンテスキューはフランス革命を導いた啓蒙思想家で、「人間は生まれながらにして平等である」という天賦人権思想はアメリカ独立戦争にも影響を与えたと教科書に書いてある。それだけに、奴隷制度を正当化する彼の白人中心主義、キリスト教中心主義の主張に戸惑いを覚える。

 ここに語られた内容は彼の赤裸々な本音かもしれない。フランス啓蒙思想の限界だと考えることもできよう。しかし、私たちがこの21世紀の時代にあって、モンテスキューを批判できるほど、人種的偏見や、宗教的偏見から自由かどうか、疑問なしとはしない。
(参考)http://www.f5.dion.ne.jp/~arachin/essay/montesk.html


2001年06月29日(金) 貧しい国のかなしい光景

 国王一族殺害事件で揺れるネパールは世界で最も貧しい国のひとつ。1人あたり国民総生産はおよそ200ドルあまりで日本の150分の1だという。こうした貧しい国につきものの「人身売買」がこの国でも大規模に行われている。

 貧しい農村からは10歳にも満たない少女たちが毎年5000人以上人身売買され、インドに売春婦として送り込まれる。こうして20万人以上のネパール人売春婦がインドで働いているようだ。

 たとえば最近NGOの支援組織の手で助け出された13歳の少女は、8歳の時に仲買人によって村から連れ出され、インドの売春宿の主人に「稼ぎが少ない」と言われ、熱いアイロンを肌に押し付けられた。救出から3カ月たっても右腕には楕円形のやけど跡が生々しいという。(毎日新聞2001年6月21日朝刊)

 しかし人身売買は貧しい国の出来事ばかりとは言っていられない。世界で最も豊かな国日本でも裁判官や教師が中学生の少女を買春してつかまる事件が相次いでいる。「援助交際」に走る少女の数は増大する一方だ。

 日本とネパールに共通するもの、それは「貧しさ」である。日本は物質的は繁栄したが、心はますます貧しくなった。今では世界でもっとも「心の貧しい国」のひとつかもしれない。


2001年06月28日(木) 政治と選挙

政治家を選挙で選ぶことをはじめたのは、紀元前6世紀の古代ギリシャ人である。もっともギリシャ人は選挙よりも抽選制を尊重していた。ギリシャ民主政治の立て役者のペリクレスも抽選で外れてばかりいたので、結局執政官になれなかった。

 抽選制度をやめて選挙を絶対的な選抜方法に格上げしたのは古代ローマである。候補者を英語で「キャンディデイト」というが、古代ローマ時代、候補者は看板として目立つように輝く白に染めた衣装をまとった。この輝く白という意味のラテン語「カンディドウス」が語源だという。

 選挙制度が日本に導入されたのは明治維新以後である。そもそも為政者を選挙で選ぶなどと言う民主的な観念がなかったので、このことは随分奇異に感じられたようだ。福沢諭吉でさえ留学先のフランスでこの制度を知って、おおいに戸惑っている。「福翁自伝」から少し引いておこう。

「ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。わからないから選挙法とは如何な法理で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人はただ笑っている。何を聞くのかわかりきったことだというような訳け。ソレが此方ではわからなくでどうにも始末が付かない」

「また、党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬を削って争うているという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわかならい。コリャ大変なことだ。何をしているのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない」

 西洋において選挙制度はギリシャ・ローマ以来二千数百年の歴史を持っている。しかし、日本でその歴史はたかだか百年あまりにすぎない。諭吉が今の日本の政治を見たら、どう思うだろう。「何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわかならい」と、やはり苦笑するかも知れない。


2001年06月27日(水) 政治的解決とは何か

 昨日に続いて、「政治的解決」について書いてみよう。プラトンやアリストテレスはポリス(共同体)の理想や目的の実現が政治であると考えた。政治とはこうした目的を持って社会(共同体)の運営や秩序維持にかかわる人間の営みであるということができる。

 こうした立場に立って、政治的解決とは何かという問いに答えれば、それは「共同体によって定められた法と正義による解決」ということになる。これには最終的には権力の強制執行による解決が含まれているが、その場合も、公正な裁判が要求されることは言うまでもない。

 政治と宗教を分離し、近代的政治学の基礎を築いたのがマキャベリ(1469~1527)である。彼はローマ共和制を理想の国家と考える共和主義者だが、当時内戦状態にあったイタリアの現実を見て、国家の統一を優先させ、専制君主制の必要性を力説した。

 そして、政治家は必ずしも道徳家である必要はなく、君主が人情、誠実、信仰心といった美徳を身につける必要はないと主張した。むしろ政治家には狐の狡知さと獅子の獰猛さが必要で、場合に応じては、目的のためには道徳に背馳するような残酷で悪辣な手段を選んでよいという、いわゆるマキャベリズムを提唱した。

 こうなると、政治的解決というのは、「法と正義による解決」というよりかは、「詐欺と詭弁と恫喝による解決」と変わらなくなる。彼の著作はローマ教皇により禁書とされたが、たしかにこうした非道徳な説はあまりに挑発的で受け入れがたい。

 その後啓蒙的立憲君主と言われたフリードリヒ大王は「反マキャベリ論」(1740年)で彼を批判して、あくまで理性に基づく統治を主張した。つまりはプラトンやアリストテレス、もしくはカントやヘーゲルの主張する「法と正義による解決」の擁護である。たしかにこれが正論には違いない。

 しかし、政治の実態は今も昔もマキャベリのいう「権謀術数」の世界に近いのだろう。政治的解決とは、「法と正義を装った、詐欺と詭弁と恫喝による解決」と定義し直したほうが、少なくとも実態にあっているのかもしれない。


2001年06月26日(火) 経済的解決と政治力・文化力

 国際舞台であれ日常的な世界であれ、物事を解決するには、さまざなな方法がある。大ざっぱにいえば、①経済的解決、②政治的解決 ③軍事的解決 といったものがある。さらに④文化的・教育的解決が考えられる。

 卑近な例をあげれば、いじめを受けて落ち込んでいる子供がいたとき、母親がそのいじめっ子を家に呼んで、「お金をあげるから、うちの子をいじめないで」と金を渡せば、これは「経済的解決」ということなる。

 父親が「こんどうちの子をいじめたら承知しないぞ」といじめっ子にげんこつでもお見舞いすれば「軍事的解決」、学校の教師や相手の両親と交渉して、善後策を講じるならば「政治的解決」というところだろうか。「文化的・教育的解決」というのは、相手の子供と対話し、良心に訴えて納得させるということだろう。

 こんなことを書き始めたのは、日本の場合、国際問題を解決するにあたって、経済的解決に偏りすぎているのではないかと思うからだ。たとえば戦争責任の問題にしても、しっかりとした政治的解決をしないで、お金で解決しようとする。

 ODAの額ではアメリカを抜いて世界一だが、何でもお金で解決しようとする日本の姿勢が、世界からそれほど評価されているとは思えない。湾岸戦争の時も巨額の資金を提供しながら、日本はほとんど感謝されなかった。

 日本は以前は「経済一流、政治三流」といわれたが、今では「経済二流、政治三流」である。経済力に翳りが見えてきた今こそ、「政治力」をつける必要がある。そのためには日本にはびこる何でもお金で解決しようとする金権体質を変えていく必要がある。

 つまり、日本人一人一人がもっと政治に目覚め、政治力を付けていく必要がある。そのために大切なのは、世界に通用する普遍的な思考力であり、論理力と倫理力である。世界と対話することができる自在な言語力を、私たちはもっと磨き上げ、高めていかなければならない。

 そうした対話を通して、私たちはお互いの立場や主張を理解し、お互いの文化を理解することになる。これが「文化的・教育的解決」ということであり、紛争を未然に防ぐだけではなく、おたがいの幸福を増進させるという意味で、私たちが目指すべき究極の解決法だといえよう。


2001年06月25日(月) 花のたましい

 童謡詩人の矢崎節夫さんが、「みすゞコスモス」という本のなかで、金子みすゞの「花のたましい」という詩を解説しながら、1995年1月17日の阪神・淡路大震災のときのエピソードを紹介している。

 テレビのニュースキャスターが、避難している人々に、「何が今一番欲しいですか」と尋ねたところ、大人たちが口々に「水がほしい」「食べ物がほしい」「家がほしい」と言う中に、小学生がぽつんと「友達のいのち」と答えたそうである。

 何よりも大切ないのち。しかし、それは一旦失われたら、もうふたたび帰ってはこない。もう二度と、彼の声を聞くこともできなければ、もう二度と彼の笑顔を見ることも、喧嘩をして仲直りをすることもできない。

 死んだ後、人はどこへ行くのだろうか。いや人ばかりではない。牛や犬や猫や魚たち、あんなに美しく咲き誇り、私たちを楽しませてくれた花々たちのいのちはどこに行くのだろう。

    花のたましい

   散ったお花のたましいは、
   み仏さまの花ぞのに、
   ひとつ残らず生まれるの。

   だって、お花はやさしくて、
   おてんとさまが呼ぶときに、
   ぱっとひらいて、ほほえんで、
   蝶々にあまい蜜をやり、
   人にゃ匂いをみなくれて、

   風がおいでとよぶときに、
   やはりすなおについてゆき、

   なきがらさえも、ままごとの
   御飯になってくれるから。

 矢崎さんは同じ本の中で、「私はこすもすの花が大好きですが、数ある花の中でどうしてこすもすが好きなのかというと、きっと私をやっている元素、またはDNAのなかに、昔こすもすだった記憶があるからだと思います」と書いている。

 親鸞も「歎異抄」の中で、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と愛弟子の唯円に語っている。また、道元は他の生き物を、「他己」と呼んでいるが、これも他者ももう一人の自己だという認識に違いない。

 かんがえてみれば、私たちはその昔、だれしも魚だった。そして蛇やカエルやトカゲ、兎やネズミのような時代を経て、現在の人間に進化してきたのである。私たちのDNAのなかには、当然それらの生物だったときの痕跡は残っている。

 さらに、私たちの肉体を作っている物質は常に新陳代謝をしていて、他のものと入れ替わっている。私の排出した二酸化炭素は数分後には隣の人の肺を通って、彼の体の一部になっている。また私の体にも、昨日まで海で泳いでいた魚たちの体にあった元素が入っているだろう。

 私は「輪廻転生」の俗説を信じていないが、それでも、こうした現実世界のありさまそのものが「輪廻転生」ではないかと言われれば、この美しい物語に思わず同意したい気持になる。


2001年06月24日(日) 金子みすヾの詩(11)

 みすヾが26歳の若さでこの世を去ったあと、日本は戦争の暗い時代を迎える。そして、その動乱の中で、世の中はゆとりを失い、童謡どころではなくなり、彼女の作品は散逸し、いつしか幻の童謡詩人と語り継がれるばかりになった。

 ところが戦後になって、「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)に載せられた《大漁》という作品に、一人の童謡詩人・矢崎節夫氏の目が釘付けになる。彼はそれから16年間にわたり、《大漁》の作家・金子みすゞを追い続けた。

 没後50年余を経た1982年、矢崎さんはとうとう彼女の弟の上山正祐(雅輔)氏が東京で生存中であることをつきとめる。上山氏にとっても、それは奇跡的な出会いだった。彼は大切に保管していた姉の3冊の手帖を、《大漁》の詩の熱烈な愛好家だという矢崎氏に委ねた。こうして、矢崎氏の献身的な努力で、みすヾの残した512編の詩が、一気に甦ることになった。
 
   土

   こッつん こッつん
   ぶたれる土は
   よいはたけになって
   よい麦生むよ。

   朝からばんまで
   ふまれる土は
   よいみちになって
   車を通すよ。

   ぶたれぬ土は
   ふまれぬ土は
   いらない土か。

   いえいえそれは
   名のない草の
   おやどをするよ。

 土は踏まれたり、ぶたれたりすることで、よい畑になったり、道になる。しかし、踏まれたりぶたれたりしたことのないただの土にも、いいところがある。それは「名のない草」のお宿になることである。

 すべての土が畑や道になったら、世の中はとても生産的になるだろう。しかし、そのような社会がしあわせかどうか。もし世の中が畑や道路ばかりになったら、名もない花はどこをお宿にすればいいのだろう。

 金子みすヾの詩は、私たち名もない草草が、ほっと安らぎを覚えることのできる貴重な「心のお宿」なのかもしれない。矢崎節夫さんは、「みすヾコスモス」(JULA)という本のなかで、次のように書いている。

「みすヾの童謡は、日本人が初めて手に入れることができた、小さな人から大人まで三世代が共有できる文学宇宙です。読み手の人生観、宇宙観、宗教観の深まりによって、どんなにでも深く旅することができる、広大なコスモスです」

 1984年JULA出版局から全集や選集が出版されると、みすゞの詩は多くの人々の心に深い感動をもたらし、彼女の詩を愛する人々の輪がまたたくうちに広がっていった。1996年4月からは、小学校国語教科書や道徳の副読本などで、全国の子どもたちがみすゞの詩に親しんでいるという。

(参考) 金子みすヾの世界


2001年06月23日(土) 金子みすヾの詩(10)

 みすヾが詩人として活躍したのは大正12年から昭和3年にかけて、わずか5年間ほどである。こうした短期間に、500編をこえる詩がうまれた。その背景には、大正時代が童謡の興隆期であり、黄金時代であったということがある。

 たとえば、鈴木三重吉による「赤い鳥」の創刊は、みすヾ15歳の大正7年(1918年)であった。そして翌年には「金の船」、さらに「童話」が発刊され、北原白秋、野口雨情。西条八十がそれぞれの雑誌に自作を発表し、また投稿欄の選者として若き投稿詩人たちを育てた。

 ちなみに、金子みすヾが師事した西条八十の代表作「かなりや」が「赤い鳥」に発表されたのは大正7年であった。西条はこの一作でたちまち人気の童謡詩人になった。私たちが今日なお愛唱してやまない童謡のほとんどは、この時代に生まれている。

 北原白秋の代表作では、「あわて床屋」(大正8)「ゆりかごのうた」「ちんちん千鳥」(大正10)「砂山」(大正11)「からたちの花」(大正13)「ペチカ」「待ちぼうけ」(大正14)「この道」(大正15)など。

 野口雨情の代表作では、「十五夜お月さん」(大正9)「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」(大正10)「しゃぼんだま」(大正11)「雨降りお月さん」「あの町この町」(大正14)など。

 西条八十の代表作では、「かなりや」(大正7)「お山の大将」(大笑)「お月さん」(大正11)「肩たたき」(大正12)など。他の作者の童謡に「靴が鳴る」「背くらべ」「浜千鳥」(大正8)「叱られて」(大正9)「赤蜻蛉」「雀の学校」「てるてるぼうず」「どんぐりころころ」(大正10)「月の砂漠」「どこかで春が」「春よ来い」「夕焼け小焼け」「花嫁人形」(大正12)など。

 最後の夜、みすヾは愛児を風呂に入れながら、たくさんの童謡を歌ってやったという。上にあげた童謡のほとんどを、みすヾは歌ったのではないだろうか。そのなかの一つ、西条八十の「かなりや」を引いておこう。

    かなりや

   唄を忘れた金糸雀は 後ろの山に棄てましょか
   いえ いえ それはなりませぬ

   唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋(い)けましょか
   いえ いえ それはなりませぬ

   唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
   いえ いえ それはかわいそう

   唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に 銀の櫂
   月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす

 大正デモクラシーのうねり中で、文芸は一部のエリートの独占物とは見なされなくなってきた。だれもが自由に生き生きと自己の思想や感情を表現するすばらしさを実感することが可能になってきた。そうした新しい時代のなかで金子みすヾの詩才が花開いた。

 しかも、彼女の詩は、はるかに時代を越えている。さらに深く自己と宇宙に沈潜して、その彼方にある広大な世界を予感させる。今日、彼女の詩が美しい星のように輝いてみえるのは、この神秘的なたましいの光のせいかもしれない。

    蓮と鶏

   泥のなかから
   蓮が咲く。

   それをするのは
   蓮じゃない。

   卵のなかから
   鶏(とり)が出る。

   それをするのは
   鶏じゃない。

   それに私は
   気がついた。

   それも私の
   せいじゃない。


2001年06月22日(金) 金子みすヾの詩(9)

 みすヾはその短い一生を生まれ故郷の仙崎や下関界隈で過ごした。しかし、それでいて彼女の詩にはとてつもない宇宙的な広がりが感じられる。彼女が花を歌うとき、それはただの花ではなく、虫も又ただの虫ではなく、神々の息吹を宿した敬虔な存在となる。微少なものに宿る永遠の命を、その不思議なやさしさやさびしさを、彼女はいつも身近に、神秘的に感じていたのだろう。

   不思議

   私は不思議でたまらない、
   黒い雲からふる雨が、
   銀にひかつてゐることが。

   私は不思議でたまらない、
   青い桑の葉食べてゐる、
   蠶が白くなることが。

   私は不思議でたまらない、
   たれもいぢらぬ夕顔が、
   ひとりでぱらりと開くのが。

   私は不思議でたまらない、
   誰にきいても笑つてて、
   あたりまへだ、といふことが。

 脚本家の早坂暁さんが、金子みすヾについて、「彼女の視点は人間中心のものじゃない。ある時は雪になったり、ある時は鳥になって、ものを考える・・・だれにでもわかる易しい言葉で物の本質を言ってのけるのは難しいが、みすヾさんはそれが出来た人。本質がわからない人たちは、すぐ難しい言葉でごまかすから」と語っている。


2001年06月21日(木) 金子みすヾの詩(8)

 金子みすヾが愛児を残して、自ら命を絶ったのは、西条八十との出会いをはたした3年後の、昭和5年3月10日のことだった。地元の防長新聞は次のように報じている。

「下関西南部町上山書籍店同居人大津郡仙崎町生まれ金子てる(28)は十日午後1時頃カルチモンを飲み自殺を遂げた。てるは同店員宮本某と内縁を結んでいたが捨てられたのを悲観したためである」

 この新聞記事は間違いを犯している。彼女は28歳ではなく、26歳であった。そして、夫の宮本啓喜とは正式に結婚し、離婚話も正式に進んでいた。離婚に際して、彼女は娘を手元に引き取り、自分で育てたかったが、夫は彼女に対するいやがらせとしか思えないほど、娘を渡すよう再三要求した。

 彼女は夫が娘を連れに来る前夜、睡眠薬を飲んで自殺した。自殺の原因は夫に捨てられたことが原因ではなく、夫に愛する娘を奪われることへの抵抗だった。

 彼女の最後の詩は「きりぎりすの山登り」だという。みすヾを再発見し、「金子みすヾの生涯」を書いた矢崎節夫氏によれば、これは「童謡で書いた遺書」だという。

    きりぎりすの山登り

   きりぎつちょん、山登り
   朝からとうから、山登り。
   ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

   山は朝日だ、野は朝露だ、
   とても跳ねるぞ、元気だぞ。
   ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

   あの山、てっぺん、秋の空、
   つめたく触るぞ、この髭に。
   ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

   一跳ね、跳ねれば、昨夜見た、
   お星のもとへも、行かれるぞ。
   ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

   お日さま、遠いぞ、さァむいぞ、
   あの山、あの山。まだとほい。
   ヤ、ピントコ、ドッコイ、ピントコ、ナ。

   見たよなこの花、白桔梗、
   昨夜のお宿だ、おうや、おや。
   ヤ、ドッコイ、つかれた、つかれた、ナ。

   山は月夜だ、野は夜露、
   露でものんで、寝ようかな。
   アーア、アーア、あくびだ、ねむたい、ナ。

 その夜、みすヾはいつもより時間をかけて、娘のふさえを風呂に入れた。そして、ふさえの体を抱きかかえるようにして洗いながら、たくさんの童謡を歌った。「テルさんは今夜はずいぶんと気持がいいのね。あんなにたくさん歌っている」と、居間にいた母のミチは松蔵に声をかけたという。

 風呂から上がると、四人で桜もちを食べた。死を予感させるものはなにもなかったが、「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」とみすヾは一度だけ口にしたという。ミチの覚えているみすヾの最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った、「可愛い顔をして寝とるね」だったという。


2001年06月20日(水) 金子みすヾの詩(7)

 みすヾが憧れの師、西条八十との対面をはたしたのは、昭和2年の夏、金子みすヾ24歳の時だった。八十から旅の途中下関駅に立ち寄るという電報が届いて、みすヾは駆けつけた。そのときの印象を八十は昭和6年9月号の「蝋人形」に、「下関の一夜―亡き金子みすヾの追憶」と題して書いている。

「夕暮れ下関駅に下りてみると、プラットホームにそれらしい影は一向見当たらなかった。時間を持たぬ私は懸命に構内をさがしまわった。ようやくそこの、ほの暗い一隅に、人目をはばかるように佇んでいる彼女を見出したのであったが、彼女は一見二十二三歳に見える女性でとりつくろわぬ蓬髪に普段着のまま、背には一二歳の我が子を背負っていた」

「作品においては英のクリスティナ・ロゼッティ女史に劣らぬ華やかな幻想を示していたこの若い詩人は、初印象においては、そこいらの裏町の小さな商店の内儀のようであった。しかし彼女の容貌は端麗で、その目は黒曜石のように深く輝いていた」

 二人が会っていたのは、ほんの短時間だったようである。みすヾは「お目にかかりたさに、山を越えて参りました。これからまた、山を越えて家に戻ります」と言うだけで精一杯だった。「寡黙で、その輝く瞳のみがものを言った」と八十は記している。

「おそらく私はあの時彼女と言葉を交わした時間よりも、その背の嬰児の愛らしい頭を撫でていた時間の方が多かったであろう。かくして私たちは何事も語る暇もなく相別れた。連絡船に乗り移るとき、彼女は群衆の中でしばらく白いハンケチを振っていたが、まもなく姿は混雑の中に消え去った」

 大正15年にみすヾは勧められるままに書店の番頭候補の宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲は生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。そうしたなかで、師西条八十との対面は、ひととき心が浮くような出来事だったにちがいない。

 逆境の中にあっても、みすヾは持ち前の優しさと、広い心で夫を愛しようとしていた。そして、この頃、こんなすてきな詩を作っている。

    みんなをすきに

   わたしはすきになりたいな、
   何でもかんでもみいんな。

   ねぎも、トマトも、おさかなも、
   のこらずすきになりたいな。

   うちのおかずは、みいんな、
   かあさまがおつくりなったもの。

   わたしはすきになりたいな、
   だれでもかれでもみいんな。

   お医者さんでも、からすでも、
   のこらずすきになりたいな。

   世界のものはみィんな、
   神さまがおつくりなったもの。

 しかし、みすヾのこの思いは夫に伝わらなかった。夫はやがて彼女に詩作をすることを禁じ、投稿仲間との文通さえも禁じた。詩作をこころの支えにして、病と闘いながら子育てをしていた彼女にとって、このことの精神的打撃は大きかった。そしてさらに大きな打撃が、彼女におそいかかってきた。


2001年06月19日(火) 金子みすヾの詩(6)

 大正15年2月17日、みすヾは宮本と結婚した。ところが、4月4日、正祐は置き手紙を措いて家出をする。正祐の家出をみすヾの夫との不和だと考えた養父の松蔵は宮本を激しく叱る。宮本の結婚後もやまない派手な女遊びが怒りに火を注いだ。

 松蔵はみすヾを離婚させようとしたが、みすヾは自分がすでに妊娠していることを知り、夫と一緒に上山文英堂を出ることを選ぶ。こうして強引な政略結婚は、松蔵にとっても不如意な結果をもたらした。しかしこれは、その後みすヾが嘗めなければならなかった辛酸の、ほんの序の口に過ぎなかった。

 みすヾにとって救いは、彼女を励ます正祐の書簡が次々と届いたことだろう。正祐はみすヾの天才を信じて疑わなかった。西条八十を別にすれば、彼はみすヾの詩の最大の理解者だった。昭和2年1月19日付きの彼の手紙の一部を紹介しよう。

「いかに私が毎月『愛誦』の金子みすヾの謡をかじりつくようにして読み、如何に感嘆し、如何に人生的意義を感じ、如何に・・・今では一々の象徴的意味、ある場合は作者の予期しないような意味を見出して、よろこび、かつ頭をさげる私です。たとえば『裏水の水たまり』にうつる無限の空の法悦味や、小さな蜂の中に見える神々の姿や、さては又、麦になれない黒んぼうに、私や、あなたの姿を見、『せめてけむりは空高く』のいささかの希望に涙ぐみ・・・・」

    はちと神さま

   はちはお花のなかに、
   お花はお庭のなかに、
   お庭は土べいのなかに、
   土べいは町のなかに、
   町は日本のなかに、
   日本は世界のなかに、
   世界は神さまのなかに。

   そうして、そうして、神さまは、
   小ちゃなはちのなかに。

 みすヾの詩がこのように大量に残されたのは、彼女が死に臨んで、弟の正祐に三冊のノートを託したおかげである。そこには、彼女が20歳から25歳までの間に作り続けた500編余りの詩が含まれていた。


2001年06月18日(月) 金子みすヾの詩(5)

 みすヾの一生を思うとき、私の目頭は熱くなる。そして西洋の詩人の「悩める貝殻にのみ、真珠はやどる」という月並みな一節を思い浮かべる。彼女はこの世の汚濁の中に花開いた、白い蓮の花ではないかと思ったりする。

    ぬかるみ

   このうらまちの
   ぬかるみに、
   青いお空が
   ありました。

   とおく、とおく、
   うつくしく、
   すんだお空が
   ありました。

   このうらまちの
   ぬかるみは、
   深いお空で
   ありました。

 みすヾの父、金子庄之助は彼女が3歳の時に死んでいる。そして2歳下の弟の正祐が叔母(母の妹)の婚家先に養子に遣られる。やがてその叔母も死んで、その後釜にみすヾ母、ミチが入ることになる。みすヾが16歳の時であった。

 母が再婚した上村松蔵は下関で手広く書店を経営していた。女学校を卒業したみすヾも下関に出て、上村文英堂書店を手伝うことになる。先に養子に来ていた正祐とは姉弟の血縁関係だったが、松蔵の意向でこのことは正祐に知らされていなかった。

 正祐は22歳のとき徴兵検査の書類を見て、自分が養子であることを知ったが、それでもまだ自分が誰の子か知らされずに、みすヾのことを姉だとは知らなかった。そして、みすヾと一つ屋根の下で暮らすうちに、彼女への思慕を募らせていく。正祐の夢はいずれ東京に出て作曲家になることだった。そして、みすヾの童謡に曲をつけて発表することを夢見ていた。

 みすヾ自身も童謡詩を作り始めた自分の芸術的才能の最大の理解者であった正祐に、精神的同志愛のようなものを感じていた。こうした中で、みすヾの結婚話が持ち上がった。相手は店の番頭格の宮本という男だった。

 松蔵はいずれ店は正祐に譲るものの、その間のつなぎとして、しばらくこの男に店を任せようと思っていた。そのための政略結婚であり、またみすヾと正祐の仲を引き裂くための意図もかくされていた。

 この結婚をみすヾは望んでいなかった。相手の男はおよそ文学には縁のない、そして使用人の間でも評判の悪い陰ひなたのある、人格的にも尊敬の出来る相手ではなかった。しかし、家のため、正祐のためにと、母や養父から頼まれてむげにも断ることは出来ない。すでに23歳になっていた彼女は、当時とすればもう適齢期をはずれかかっていた。

 正祐はこの結婚に大反対だった。みすヾを前にして、「父やお店の犠牲になって結婚することはない。好きな人がいるなら、その人と結婚すればよい」と涙ながらに訴えた。

 これに対するみすヾの答えは、「仕方がないの」というものだった。さらなる正祐の追求に、「すきな人はいるのよ。その人は、黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と答えた。そして、「テルちゃんと僕は姉弟ではないのかい」という正祐のせっぱつまった問いに、黙ってうなづいたという。

 正祐はみすヾと別れてから、みすヾのいう「黒い着物を着て、長い鎌を持った人」が西洋の死に神だということに気付いた。そして、日記にこんなことを記した。

「テルちゃんの不可思議な心境には全くまいってしまった。手の届かぬほどの特異な境地で、あまりにいたましく、あまりに病的であるが、しかし、それと知りつつ、やっぱり手を束ねて見ていねばならぬほど特殊な個性の持ち主であることをいよいよ痛感した」(大正15年2月2日の日記)


2001年06月17日(日) 金子みすヾの詩(4)

 小学校時代の恩師の大島ヒデ先生はみすヾを回想して、「友達とけんかをしたということを聞いたことも見たこともありませんでした。みんな金子さんを、何かしら心の仲で尊敬していたように見えました。本当に金子さんは、優しくて、ていねいで、色白でふっくらとしたきれいな少女でした」と述べている。
 
   私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

 小学校で一年後輩だった中村ツルエさんは、「学校や道で顔を合わせたりすると、ほっと笑うんです。その笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなるようでした。みんな金子さんのことを憧れていました」と回想している。

 たしかに、みすヾは小学校や女学校で先生や級友たちの信頼が厚く、成績も優秀だった。ずっと級長も務めている。しかしそんな優等生の彼女にも心底からさびしいときがあったのだろう。

   さびしいとき

   わたしがさびしいときに、
   よその人は知らないの。
 
   わたしがさびしいときに、
   お友だちはわらうの。
 
   わたしがさびしいときに、
   お母さんはやさしいの。
 
   わたしがさびしいときに、
   ほとけさまはさびしいの。

 みすヾは幼い頃から、周囲にやさしく、礼儀正しくて、いつも笑顔を絶やさなかった。しかし、決して人と争わない優しい人だっただけに、いろいろとものに感じて、深く考えることもあったのだろう。そしていつか彼女の心の奥深くで、生きることの根源的なさびしさのようなものが、ひそかに深められていたのかも知れない。


2001年06月16日(土) 金子みすヾの詩(3)

 大正13年の「童話」3月号に、みすヾの「大漁」という作品が載った。私の大好きな作品でもあるので、ここで西条八十の評とともに紹介しておこう。

   大漁

   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽艦の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう

「金子みすヾ氏も今月は例によって光った作品を多数寄せられた。中でも『大漁』以下の推薦作は私の愛唱措かないものである。『大漁』にはアッと言わせるようなイマジネーションの飛躍がある」(大正13年3月号)

 大正15年、みすヾは西条の推薦をうけて、「童謡詩人会」に入会をみとめられた。大正15年版童謡詩人会編「日本童謡集1926年版」には女流ではただ一人、みすヾの「お魚」と「大漁」の詩が選ばれて載った。

 会員には西条八十の他、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など。女流では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。このとき、金子みすヾは正式に童謡詩人として天下に認められたと言っていい。ときに、みすヾ23歳のときであった。もちろん最年少である。


2001年06月15日(金) 金子みすヾの詩(2)

 金子テルが本屋の店番をしながら、「みすヾ」というペンネームで詩を書き始めたのは、大正12年(1923年)20歳の頃だという。そして、「童話」「婦人倶楽部」「婦人画報」「金の星」の4誌に投稿したところ、なんと全部に使用された。その感激を、みすヾは「童話」の通信欄に次のように書いている。

「童謡と申すものをつくり始めましてから一ヶ月、おずおずと出しましたもの。落選と思い決めてそれを明らかにするのがいやさに、あぶなく雑誌を見ないで過ごすところでした。嬉しいのを通り越して泣きたくなりました。ほんとうにありがとうございました。下関市、金子みすヾ」(「童話」大正12年11月号)

「金の星」の選者は野口雨情だが、残りの雑誌の選者は、西条八十だった。みすヾは西条八十にあこがれていた。それだけに、彼に認められた喜びは大きかった。「童話」に載った「お魚」という詩を紹介しよう。

   お魚

   海の魚はかはいそう

   お米は人に作られる、
   牛は牧場で飼はれてる、
   鯉もお池で麩を貰ふ。

   けれども海のお魚は
   なんにも世話にならないし
   いたづら一つしないのに
   かうして私に食べられる。

   ほんとに魚はかはいさう。

 処女作はすべてを語ると言うが、金子みすヾのこの作に、この言葉はぴったり当てはまる。選者の西条の評を引いておこう。

「大人の作では金子さんの『お魚』と『打ち出の小槌』に心を惹かれた。言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティナ・ロゼッティ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力して頂きたいと思う」

 みすヾはこの評に感激して、せっせと詩を書いて西条が選をする「童謡」に送った。彼女の誌はそれから毎号3,4編は載るようになり、西条の評価はますます高くなった。みすヾはたちまち若い投稿詩人たちの憧れの星になった。


2001年06月14日(木) 金子みすヾの詩(1)

 金子みすヾという童謡詩人を知ったのは、数年前のことだと思う。書店でふと彼女の詩集を手にして、思わず次の詩に釘付けになった。

   つもった雪

   上の雪
   さむかろな。
   つめたい月がさしていて。

   下の雪
   重かろな。
   何百人ものせていて。

   中の雪
   さみしかろな。
   空も地面(じべた)もみえないで。


   日の光

   おてんと様のお使いが
   そろって空をたちました。
   みちで出会ったみなみ風、
   (何しに、どこへ。)とききました。

   ひとりは答えていいました。
   (この「明るさ」を地にまくの、
   みんながお仕事できるよう。)

   ひとりはさもさもうれしそう。
   (わたしはお花をさかせるの、
   世界をたのしくするために。)

   ひとりはやさしく、おとなしく、
   (わたしはきよいたましいの、
   のぼるそり橋かけるのよ。)

   のこったひとりはさみしそう。
   (わたしは「かげ」をつくるため、
   やっぱり一しょにまいります。)

 何という、やさしくて、さびしい詩だろう。(わたしは「かげ」をつくるため、やっぱり一しょにまいります。)に、私は心を引かれた。そして、この詩人のことを知りたいと思った。


2001年06月13日(水) 鯨法会と日本人の心

 山口県長門市仙崎と言えば、江戸時代に日本でも有数の捕鯨基地として栄えた港町だった。記録によると、1845年から1850年までの6年間で78頭もの鯨が捕れたという。

 ところでこの町の寺(向岸寺)には1692年から明治年間まで、捕獲した鯨に人間と同じように法名をつけた鯨の過去帳が残されている。さらに、捕獲した鯨が胎児をもっていたときは、これらを埋葬して建てた鯨基が今も残っているという。

 こうした鯨基は全国に50基を数えるという。しかし、七十数頭もの鯨の胎児を埋葬したところは仙崎より他にないそうだ。しかも、仙崎では今も絶えることなく、鯨法会が行われている。もともと信仰のあつい土地柄だったのだろう。

 詩人の金子みすヾは明治36年、この仙崎村に生まれている。彼女は大正末期にいくつかの詩を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った。彼女に「鯨法会」という美しい詩があるので、引用しておこう。

   鯨法会は春のくれ、
   海にとびうおとれるころ。

   はまのお寺が鳴るかねが、
   ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

   村のりょうしがはおり着て、
   はまのお寺へいそぐとき、

   おきでくじらの子がひとり、
   その鳴るかねをききながら、

   死んだ父さま、母さまを、
   こいし、こいしとないてます。

   海のおもてを、かねの音は、
   海のどこまで、ひびくやら。

(参考文献) 「童謡詩人金子みすヾの生涯」(矢崎節夫著 JULA出版)
(金子みすヾの詩は、「人生World」の「金子みすヾ詩集」でご覧になれます)


2001年06月12日(火) 歴史教科書のあり方

 ミシガン州立大学(Michigan State University)大学院で政治学を研究している前田耕さんが、HPの日記帳に話題の『新しい歴史教科書』を評価する立場から、いろいろと書いている。

 たとえば、『新しい歴史教科書』の冒頭の「歴史を学ぶとは」のページには、次のように書いてあるが、これは全くそのとおりだと言う。

「王の巨大墳墓の建設に、多数の人間が強制的にかり出された古代の事実に、現代の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり大きな意味がない。歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。」

 それでは従来の日本の歴史教科書はどういうふうに書かれていたのか。前田さんにしたがって、平成元年検定の教育出版の歴史教科書の冒頭「歴史的分野の学習をはじめるにあたって」のページの記述を引いてみよう。

「世界の歴史は、人が人として生きるための、人権の確立へ向かってのあゆみであったということができます。人と人との間の不当な差別をなくし、人々や国々の間の平等を実現することをめざして、歴史の学習をすすめていきましょう。」

 前田さんはこれを読んで、「人類の歴史が一つの方向へ目的を持つかのように進んできたとするのが噴飯」だという。「歴史の学習の目的が差別撤廃とか平等とかであるはずがない」という。さらに、教育出版の最後のページの締めくくりを読むと、

「わが国は、第2次世界大戦を最後に、これまでどの国とも直接に戦争をすることなくあゆんできた。核戦争のおそれはたえないが、戦争の放棄を宣言した日本国憲法と非核三原則を守って、世界の平和と諸国民の平等な発展のために、ささやかな力をだしあうことを誓って、この歴史の教科書をとじることにしよう。」

 この記述にたいして、前田さんは「ささやかな力をだしあう」という言葉に虫酸が走るという。「何で、歴史の学習の最後にみんなで誓いを立てなきゃいかんのだ!? 誓いを立てることが愚かしい以上に、誓いの内容が恐ろしい」と言う。

 前田さん自身もこうした教科書で歴史を学んだ。そして、中学生のときは疑問にも思わなかった。むしろこういう言葉に感動して奮い立ってたかもしれないと言う。しかし、今読み返してみると、どうもおかしい。「既存の歴史教科書は相当に左翼勢力や進歩史観に傾いていたようだ。それが、『新しい歴史教科書』が出てきた背景ではないだろうか」と分析している。

 私は「新しい歴史教科書」をまともに読んではいない。したがって、どう考えたらよいのか、ここで意見をまとめることはできない。拾い読みした感じでは、たしかに「物語」としては読みやすい内容だが、過去の歴史を美化するレトリックが目立ち、リアリズムから遠いのではないかと思った。

 といって、これまでの歴史教科書がいいというわけではない。これまでの「進歩史観」の教科書もまた歴史や社会というものの現実から遠く離れた、鼻持ちならない絵空事だということも、この歳になるとよくわかるのである。


2001年06月11日(月) 権力の正当な根拠

 最低だった森さんと、最高の支持率を誇る小泉さん。支持率のこの違いはどこからもたらされたのだろう。やはり個人的なイメージが大きいと思われるが、もう一つ大切なのは、権力に正当性があるかないかということだろう。

 小渕さんが倒れた後、自民党のごく少数の実力者の間で実質的に首相に祭り上げられた森さんに比べて、小泉さんは自民党の党員による公開選挙で本命であった対抗馬を破っている。しかも圧倒的多くの党員に支持されての登場であった。

 さらにその過程がマスコミによって大々的に国民に知らされた。自民党の内部の選挙であるにも関わらず、私たち国民も何となく選挙に参加したかのような錯覚を抱くことができた。国民の意向にそって選ばれた首相というイメージがあって、支持率も高くなったのではないかと思う。

 一般に、権力の正当性を保証する条件として、①「継続性」②「(軍事的)実力」③「(平和的)人気」の3つが考えられる。たとえば、戦前の天皇制を支えたのは日本であれば「万世一系」という「継続性」である。弱肉強食の横行する戦国時代であれば、「実力」がものをいう。織田信長や豊臣秀吉を考えれば納得できるだろう。

 現代の民主主義の原理は、「人気」を重視する。そしてこれを公正な選挙によってはかるのである。もちろん、家柄や実力がある候補者は人気もあるから、この三者は関連している。たとえばシーザーなどは、家柄もよく、しかも人気が高かった。しかし、彼が最終的に権力を握ることが出来たのはやはり、彼の所有する軍事力の圧倒的な優越だった。その意味で古代ローマは平和な民主国家とはいえない。

 とはいえ、私は現在の民主主義の原型、とくにアメリカ型の大統領制の原型はローマ帝国にあるのではないかと思っている。ローマ皇帝はその権力の正当性を、ローマ市民の支持に多く負っていた。貴族主義の色濃い元老院に対抗するためにも、皇帝はその支持を一般市民に仰ぐ必要があった。

 ローマ皇帝の平時における役割は、市民に「パンとサーカス」を供給することだった。そして地方に反乱が起きたときには、彼ら市民を軍人として戦場に率いて、みずからその指揮をとることが普通だった。その意味で、ローマ帝国においては、市民=軍人であったわけで、市民の支持を得ることは、すなわち軍事力を握ることでもあった。「実力」と「人気」が融合していたのである。

 さて、話題を日本の政治に戻そう。小泉首相の支持率が高いと言っても、日本の世論は熱しやすく冷めやすい。国民が選んだ首相と言っても、それはマスコミによって演出された虚構であり、正式なものではない。その権力の基盤は案外もろく、前途多難が予想される。

 民主主義の基本はなにかと言えば、「自分たちのリーダーを自分たちの手で選ぶ」ということである。世襲的な王制や、軍事的な独裁制のもとでは、それは不可能である。しかし、民主主義を国是としている我が国で、「首相公選制」が実現できないのは不思議なことだ。


2001年06月10日(日) 日本の教育・世界の教育

 毎朝、通勤で車を走らせていると、通学中の小学生のグループにであう。横断歩道では年長の子供が横断中の旗を伸ばし、幼い子供たちの安全をたしかめながら誘導している。見ていて何となくほほえましい。

 また、交通量の多い交差点には当番で立っている保護者や交通おばさんの姿があり、やはり子供たちの安全を確認しながら、黄色い旗を使って誘導している。もたもたしている子供には、「さあ、早く渡りなさいよ」などと、親切に声をかけている。見ていて、何となく安心する。

 ところで、こうした光景は日本独自なものなのだろうか。私は寡聞にして知らないが、映画やドラマを見る限り、西洋ではあまりお目にかかれない。こうして一糸みだれず集団登校するのは、世界的にもあまり例がないのではないか。

 もっとも、交差点に大人が立って、登校中の子供たちを見守ることはイギリスなどでもよくあるらしい。ただ、その場合でも、旗を出して「早く渡りなさい」と行動を直接指示したりすることはない。声をかけるときには、「よく見て、渡りなさい」と少し突き放した言い方をするようだ。

 集団登校で、保護者やリーダーの子供の指示に従うことを優先させている日本とは、教育の姿勢が随分違う。あくまで個人一人一人に状況を独自に判断させ、自分の責任で行動することを求めている。だから、「はやく渡りなさい」とは言わないで、「よく見て、あわてないで、自分で判断して渡りなさい」ということになるのだろう。

 こうしてみると、日本の集団登校の姿をほほえましいなどと、安易に考えていていいのか分からなくなる。目先の安全を優先させる日本のシステムが本当に有効なのか疑問である。すくなくとも、日本型の集団登校では個の自立はおぼつかない。安全教育と言える代物でないことは明らかである。 


2001年06月09日(土) 私の「心の健康術」

 長年教師をやっていると、ときにはとんでもない生徒に出くわすものだ。私も何度かあぶない目にあった。職員室で生徒に殴られ、シャツをひきちぎられたこともあるし、「お前の家に火をつけていやる」「コンクリート詰めにしてやる」などの暴言を吐かれたこともある。

 反対に、クラス会などで、女生徒から「先生、好き」などと言われて、いきなり頬にキスをされたり、夜の街角で駆け寄ってきた女生徒が私の胸に顔を埋めて、しばらくじっとしていたこともある。衆人環視のなかで、決まりが悪かったが、まんざら悪い気はしなかった。

 若い頃は車でテニス部の女生徒を送っていったとき、別れ際に私の方から少女の肩を抱いてキスをしたこともある。とんでもない破廉恥教師だったわけだ。交際していた女性と、別れ話がもつれて、「今からあなたを殺しに行きます」などと電話で物騒なことを言われたり、勤務先の学校に一日何十回と電話をかけられて事務に苦情をいわれ、学校を転勤させられたこともある。もうはるか昔のことだから、時効と言うことで書いた。

 若い頃は怖いもの知らずで、生徒に殴られたときも、それほどショックは受けなかった。「コンクリート詰めにしてやる」と言われても、女から「死んでもらいます」と言われても、「やるならやってみろ」というくらいの心意気があったが、年をとるとそんな勇猛心はなくなった。

 歳相応の分別がついたせいだろうが、おかげで、中年を迎えた私はこれという大きなトラブルに巻き込まれることはなくなった。外見はいたって平穏無事と言えるが、しかし、内実はそうでもない。

 と言うのも、ごく詰まらないことで、悩んだり落ち込んだりすることが多くなったからだ。ときには眼前のごくささいなことが、とてつもなく大きな障害のように感じられて、自分に無力感を感じ、人生に絶望する。生徒の何気ない一言で傷つき、夜中に眼を覚まして、あれこれ考えているうちに、気がつくと夜があけていたりする。

 こうした「うつ」の状態がながく続くと、厭世的な気分がたちこめて、何事にも積極的になれなくなる。いわゆる「ひきこもり」というのは、こうした気分ではないだろうか。私も「ひきこもり予備軍」の一人かもしれない。

 心理学の解説によると、今話題の「幼児虐待」なども、若い母親の「うつ」が原因のひとつだという。ある調査によると、母親の1割に「うつ状態」が見られ、子供を虐待している母親では、この割合が3割になっているらしい。

「うつ」になると自分が無力で小さく思える。一方、目の前の問題はとても大きく見える。「うつ」になる人はまじめな人が多く、「うつ」のために子育てや家事がうまくいかなくなると、ますます自分を責めて、ストレスがたまる。

 たまったストレスが爆発すると、子供や身近な人々への虐待となる。あるいは、自分自身を虐待し、自損行動を繰り返す。そして、さらに自己嫌悪に陥り、悪循環からさらに「うつ」が昂進する。「幼児虐待」「ひきこもり」「いじめ」「自殺」などの社会現象の背後にはこうした常態化した「うつ」の問題がある。

「うつ」は、現代病といえるほど流行っているが、こうした状態から抜け出す最良の薬は「心の休息」だという。しかし、忙しい現代社会では、なかなか休息をとることがままならない。それになまじっか暇が出来ると、よけいくよくよ考えて「うつ」を悪化させないとも限らない。

 そこで、私の解決法を書いてみよう。それは自分の関心を広く社会に向けることである。今、日本や世界で行われている出来事に目を向けてみる。さらには哲学や文学、歴史、宗教、科学といった壮大な精神の世界に心を遊ばせる。

 そうすることで、心が自己中心の狭い牢獄から解放され、「うつ状態」が軽減される。私にとって、こうしてHPにあれこれ駄文を書いて、社会問題や人生を好き勝手に論じることが、もっとも効果的なストレス発散法であり、「うつ撃退術」になっているようだ。


2001年06月08日(金) ビザンチン帝国長寿の秘密

 ローマ帝国の衣鉢をついだビザンチン帝国(東ローマ帝国)は、330年にコンスタンティヌス大帝が今日のインスタンプールに首都を定めて以来、1453年にトルコ帝国に滅ぼされるまで、約1000年も続いた。これほど長い間命脈を保った文明は人類史上めずらしい。

 このビザンチン帝国には「デモス」といわれる数百人もの役人がいたという。普段彼らは宮廷の中でなにもすることがなかった。ただ、あたらしい皇帝が即位すると、大広間に集められ、衆人環視のなかで、「われらローマ人の皇帝、ばんざい」と歓呼の声をあげる。

 古代ローマ帝国では、皇帝は民衆(デモス)に支持されることによって即位することができた。ローマ皇帝の正当性は民衆の支持によって成立する。何か大切な政治的決定をするばあい、皇帝はコロセウムのような大競技場に民衆を集め、民衆に支持をもとめた。民衆の歓呼の声がその支持の証であった。

 ビザンチン帝国でも、宮殿の隣りにコロセウムがあった。そして皇帝は民衆の歓呼の声をききに競技場へ赴いたという。ところが、532年、ユスティニアヌス帝が競技場に現れても、民衆は歓呼の声をあげなかった。

 こうして不信任をつきつけられた皇帝はどうしたか。彼は腹心の将軍ベリサリウスに命じて、コロセウムに集まった3万人の民衆を虐殺させたのだという。帝国を維持するためには民衆の歓心ばかり買って入られない。ときには不人気な政策も実行しなければならない。皇帝はそう考えて、この挙に出たようだ。そして、このときから、「デモス」という何百人もの役人がやとわれて、民衆の代わりを務めるようになったらしい。

 皇帝即位式や特別な政策決定のとき、ただ形式的な歓呼の声をあげさせるためだけに、こんなにも多くの専属の役人を養っていたというのは、何とも不思議な話だが、実はこれもビザンチン帝国が古代ローマ帝国の正当な末裔であることを証するために必要な儀式であった。ビザンチン帝国はこうしたローマ帝国の伝統を形骸化し、巧みに現実に適応することによって、その驚くべき生命力を維持することに成功した。

(参考文献)「なぜ国家は衰亡するのか」(PHP新書 中西輝政著)


2001年06月07日(木) 愛とはともに生きること

「第三の男」の監督キャロル・リードの作品に軽快なコメディタッチの「フォロー・ミー」という映画がある。結婚後ひんぱんに家を空ける妻ベリンダ(ミア・ファロー)に不信感を抱いた夫チャールズ(マイケル・ジェイストン)は私立探偵クリストホルー(トポル)を雇って、妻を尾行させる。

 チャールズは勤勉実直な優秀な会計士で、教養豊かで育ちも良く、非のうちどころのないイギリス紳士。しかし、若いベリンダはそんな夫との息が詰まるような生活に耐えきれない。お互いに、自分には無いものを持っている相手にひかれて恋に落ち結婚したものの、二人にとって現実の結婚生活は厳しい。

 やがて、ベリンダはひとりでロンドンの街をそぞろ歩きながら、いつも自分の傍らにいて、自分を見守っている男の存在に気付く。そして次第に二人で歩くことが楽しくなっていく。植物園や映画館、味わいのあるユニークな街角や賑やかなパブなど、二人は言葉を交わさず目と目だけで語り合い、ロンドン中をそぞろ歩きまわる。そして、この無言劇のデーがやがて二人の中に細やかな愛情を育んでいく。

 二人の関係は夫の知りところとなる。激高する夫、家を出る妻。ここから二人の男の奇妙な友情が生まれる。そして、トポル扮する探偵クリストフォールは、彼女の夫チャールズに、「私がしたことと同じように10日間、仕事を投げ出して、ただひたすら彼女の後を追ってみろ。ただ近くにいるだけで、一言もことばをかわさないで」とすすめる。

 探偵クリストホルーはさらに「世の中の男女には、いい相手が見つからないと嘆く人が多いが、彼らは知らないんだ。互いの心の声にじっと耳をすまし、ただ見つめ合えば結婚できるってことを」といも言う。愛とは何か。それは「ともにいて幸せだと感じること」かもしれない。


2001年06月06日(水) 小さなものを慈しむ心

 森本哲朗さんが「日本語 根ほり葉ほり」の中で、小さなものを慈しむ心を日本人特有の美学だとして、「1メートルの美学」「床の間の美学」と呼んでいる。そして、その代表として、芭蕉の俳句をあげている。

  あけぼのやしら魚しろきこと一寸
  よくみればなずな花さく垣根かな
  山路きて何やらゆかしすみれ草

 たしかにこうした美を詠んだ芭蕉と句材の距離は、森本さんがいうように、せいぜい1メートルに足りない。森本さんの文章を少し引用してみる。

「日本人は小さなもの、身近なものに対しては、きわめて繊細な感覚を育ててきたが、それを大局的な視野にまで拡げることができなかった。つまり巨視的な視野が完全に欠落することになったのである」

「日本人の美意識はこのようにじつに狭い領域、せいぜい1メートル四方だけに限られている、といってよい。その先はもう目に入らない。だからまわり全体を秩序だった空間にし、居心地のよい環境にしようなどという考えはほとんど見られないのである」

 森本さんの指摘になるほどと頷かざるをえない。日本の街並みの雑然とした無秩序や、公共空間の貧弱さ、品の悪さを見るとき、「1メートルの美学」の限界をまざまざと実感される。

 しかし、芭蕉の句について言うと、彼は小さなものばかり詠んでいたわけではない。たとえば、「奥の細道」の中の句に、

  熱き日を海に入れたり最上川
  荒海や佐渡によこたふ天の川

 など、雄大な景観を詠んだものがある。さらに芭蕉の場合、たとえ眼前の小さな世界を詠んでいても、その歌いぶりは雄大である。空間的に狭小にみえても、そこを起点に、その広がりは無限大で、時間的にも遙かなものがある。

  古池やかわず飛び込む水の音
  夏草やつわものどもが夢の跡

 私はあえて、小さなもの、身近なものを慈しむ日本人の美学を日本人の美しい伝統として残して行きたいと思う。そして「1メートルの美学」ではなく、「1メートルからの美学」「床の間からの美学」を提唱したい。


2001年06月05日(火) 官僚代弁する記者クラブ報道

 田原総一郎さんが、ハンセン病についての新聞報道が横並びだったことについて、雑誌(週刊ポスト)のコラムで批判していた。私も同じ感想を持っていたので、読んでいて我が意を得たりと思った。

 23日の夕刊で各紙は「裁判控訴決定」を報じた。ところがこのあと、小泉首相の記者会見があり、翌日の長官の見出しは「控訴断念」という見出しが各紙の一面トップに並んだ。

 小泉首相も福田官房長官も「断念」という言葉は使っていない。ここは「控訴しないことを決断」という言葉がふさわしいのではないか。私はそう考えて、24日の日記に「小泉首相の決断により」と記した。

 なぜ新聞は一様に「断念」という言葉を使ったのだろう。それは記事を書いた新聞記者の勝手な判断だろうか。もしそうだとしたら、どこか一社くらい「決断」と報じてもよさそうなものである。

 田原さんは「断念」と「決断」はまるで違うと指摘している。「断念」の場合は、小泉首相はもともと控訴したい意志を持っていたことになる。これにたいして、「決断」という言葉は、障害を乗り越え、意志を貫徹した前向きの姿勢が感じられる。実際のところ、小泉首相の胸中はいずれだったのだろうか。

 新聞各紙は前日の夕刊で「決定」と報じたので、「断念」と報じざるを得なかったのかもしれない。しかし、それにしても、この「決定」とは誰の決定だったのだろうか。問題点はまさにここである。

「控訴決定」という情報を流したのは官僚サイドであろう。そこには首相は自分たちのシナリオ通りに動くものだという奢りがある。ところが、そうはならなかった。そこで「断念せざるをえない」という無念の表現になったと考えられる。

 つまり、新聞報道はまさに官僚の立場を代弁している。新聞記者たちのあいだには長年の習慣でこうした官僚よりの発想がしみついているのだろう。記者クラブ体制で培われたお上依存の旧態依然とした報道の体質と姿勢が、日本の政治改革の行方を阻んでいる。


2001年06月04日(月) 個人主義の幻想

 イソップ物語に、「仔ヤギとオオカミ」の話がある。安全な家の中にいた仔ヤギが、オオカミが通るのを見て口汚く罵った。するとオオカミは仔ヤギを見て、「俺に悪口を吐いているのは、お前ではない。お前が立っている場所が言わせているのだ」と言い返した。
 
 口にする言葉だけではなく、人間の行動の多くは、彼の立っている場所のなせる業だと考えられる。時と場所が、ときには力のある者よりも、力のない者を強くすることは、よくみかけられることだ。

 昨日は「国家主義」の幻想について書いたが、それでは「個人」が絶対かというと、そうではない。彼の行動は彼が置かれている立場によって影響される。私たちは社会から多くのものを恵まれているのであって、彼個人に由来するものは本当のところあまりない。「個人」が普遍的で実体的存在であるというのも、思い上がった幻想かもしれないのである。

 それでは、私たちが依拠すべき足場は何かということになる。そうした確固とした足場があるというのが、そもそも幻想なのだろうか。永遠なものは私たちの中にも、私たちの外にもなくて、この世に存在するものは自らも含めてすべて相対的で、一時的なものなのだろうか。

 おそらく人生にあらかじめ決められた目標や意味などないのだろう。そしてそのゆえに、私たちは自らの人生の意味や目標を自分の手で創り出すことができる。世の中は諸行無常である。しかしこのことは何も悲しむべき事ではない。兼好法師が言うように、さだめがないからこそ、もののあわれがあって、生きていくのがたのしい。


2001年06月03日(日) 個人の幸福と国家の役割

 個人と国家の関係をどうとらえるかということは、古来より哲学の大きな問題だった。プラトンの主著は「国家」とい題をもっているし、アリストテレスは「人間とはポリス的な動物である」という有名な定義を与えている。

 個人と国家に対する考え方として、次の二つがある。
①個人のために国家がある。(個人主義国家観)
②国家のために個人がある。(全体主義国家観)

 たとえば①を代表するものとして、カントの個人普遍主義をあげることができよう。カントは国家を私的なものと考え、個人を公的な存在と考えた。これに対して②の代表者のヘーゲルは、国家こそは普遍的な価値であり、人類史の目的だと考えた。

 国家を個人の幸福を実現するための手段とみる立場に立つ人たちには、国家とは一つの幻想に過ぎないと考える。国家のために生きることが道徳的なのではなく、個の中に普遍性をもとめ、個を最大限発展させることが正しい生き方だということになる。

 こうした個人主義の原理は、近代市民社会の原理でもあった。しかし、彼らも人類が国家という私的な幻想から解放されることで、たちまちこの地上に平和がもたらされると考えたわけではない。国家という規範を失うとき、個と個の野蛮な争いが日常茶飯事となるからである。

 そうした理由から、国家はやはり必要な存在だと言える。ただし、ここで必要とされる国家とは、個を圧殺するような幻想的イデオロギー国家ではなく、個人の生活を安寧たらしめるための、共生的な相互補助組織としての共同体であるべきだ。

 国家は神のようにそれ自体が価値の源泉や実態であってはならず、あくまでも個々人の生活の安寧と幸福に奉仕するものでなければならない。そのことを、国民の一人一人が自覚できるようにすること、これが公民教育の使命ではないかと思う。世界に開かれた市場原理に立脚した風通しのよい、民社的な市民社会を、私たちの世代の目の黒いうちに実現したいものだ。


2001年06月02日(土) ケネディ暗殺と国家の威信

 1963年11月、ケネディ大統領は遊説先のダラスで白昼公然と暗殺された。そして容疑者のオズワルドもまた二日後、刑事や看守に囲まれ、ダグラス警察本部から連れ出されようとしていた時、用心棒あがりのルビーという男に撃ち殺された。

 オズワルドの未亡人は、1988年にオズワルドが専門的訓練を受けた、FBIかCIAの工作員だったと思うと、インタビューに答えている。そして、オズワルドを殺害した酒場経営者のルビーは以前シカゴに住んでいて、マフィアの組織と関係があったことが分かっている。

 これらのことから、ルビーもオズワルドと同じく、ケネディ暗殺に何かの関係があり、オズワルドがケネディの直接の暗殺を命じられ、その後オズワルドの始末を命じられたルビーも、口封じに殺されたのではないかという疑いが持たれている。この他、CIA関係者の中にも、不審な事故死をするものがあとをたたなかった。

 当時ケネディ大統領はさまざまな敵に囲まれていた。ケネディは暗殺の一ヶ月前にベトナムからの米軍完全撤退を命じて、軍産複合体の総反発を受けていた。黒人に平等の権利を与える公民権法を制定しようとして、白人優越主義者らの激しい反感をかっていた。

 さらに、CIAが関与したキューバ侵攻やマフィアを使って行われたカストロ暗殺計画について大統領は激しい口調でCIAを非難し、CIAの廃止さえも口にしていた。弟のロバート司法長官にはマフィアの徹底的摘発を命じていた。

 ケネデイ大統領はこれら多くの敵から命をねらわれていた。亡命キューバ人、マフィア、産軍複合体などの他に、CIAやFBI、そして何と大統領職をあらそったニクソンやケネディのあとをついだジョンソン大統領さえ、状況証拠からすると暗殺者容疑者リストの中に加えるてもおかしくないのである。

 例えばニクソンは暗殺の前日まで、ダラスにいた。しかもニクソンはジャック・ルーベンスタインと名乗る男から情報の提供を受けていたというFBIの文書が残っているが、この謎の人物がルービーであることが分かっている。

 また、タカ派のジョンソンはケネディとそりがあわなかった。ケネディは次期大統領選では、ジョンソンを副大統領から外すと明言していた。このジョンソンを副大統領に推薦したのは諜報活動によってアメリカ政界に隠然とした勢力を保っていたフーバーFBI長官だが、ケネディは彼にも辞職を勧告していた。

  歴代の大統領の元でFBIを率いてきた超保守派のフーバーは、進歩派インテリの代表であるケネディとその弟のロバートを蛇蠍のごとく嫌っていた。ケネディが暗殺された直後、長官室の壁にはジョンソンの肖像が他を圧するように掲げられた。そしてその肖像画には「これ以上のない人物、フーバー君へ。30年来の友人より」というジョンソンの署名がしてあったという。

 ケネディ暗殺で昇格したジョンソン大統領は、さっそくウォーレン合衆国最高裁長官と各界の有識者6人の7人からなる「ウォーレン委員会」を組織し、国家の威信をかけてこれらの疑惑の解明に乗り出したが、これはまた自らの身の潔白をあかしすることでもあった。

 そして翌年、早々と「ウォーレン報告」なるものが出されたが、そこで強調されたのは、「ケネディを暗殺したのはオズワルドの発射した3発の弾丸がすべてであり、彼の単独犯であって、陰謀は一切なかった」ということである。アメリカの政・財・官、それから言論界のエリート層が守ろうとしたもの、それはアメリカという国家の威信だった。

 ウォーレン委員会は撃たれた弾丸を三発というが、警察の録音テープでは、七発銃撃音が聞かれるという。そのほか、無数の疑惑をこの報告は無視している。1993年の世論調査によると、89パーセントの国民がオズワルド単独犯行説を疑問視しており、そして4割近い国民がCIAの関与を疑っているという。

 ところが、この事件を再調査した方がよいという声は聞こえない。なぜかといえば、国民もまたケネディ暗殺事件の背後に隠された真実があまりに恐るべきものであることを知っているからだ。史上最大の民主国国家、法治国家としてのメンツと誇りを守りたいという気持が、真相解明を求める気持を片隅に追いやってしまう。

 ケネディ大統領は死んで英雄になった。歴代の大統領のなかでナンバーワンの人気をほこっている。しかし、彼自身にも数々のスキャンダラスな側面があった。たとえば彼は弟のロバートにマフィア撲滅を命じておきながら、マフィアの頭領と交際し、なんと愛人まで共有していた。愛人ジュディス・キャンベルがホワイト・ハウスにかけた電話は約70回に上り、これらはすべてFBIによって確認されていたという。

「ウオーレス委員会」の7人の委員のなかに、後の共和党大統領になったフォードがいた。当時下院議員だったフォードはフーバーFBI長官の長年の友人であり、フーバーが委員会に送り込んだトロイの木馬であったという。ケネディ大統領の暗黒面を知り尽くしていたフーバー長官が望んだもの、それはそうしたおぞましい真実を隠蔽し、アメリカという国家と大統領の威信を守ることであった。

 フォードは委員会の状況を逐一FBIに通知し、オズワルドを殺害したルビーがワシントンに尋問場所を変えて、身の安全を保障してくれれば「真相」を語ってもよいと繰り返し訴えても、これを一貫して断った。そしてルビーはダグラス郡拘置所に収容されている間に、突然ひどい咳と吐き気におそわれて不審な死をとげている。

 このたびフォードがケネディ大統領図書館財団から「勇気ある人々」という賞を贈られたという記事を読んで、私の頭に去来したのは、以上のような「ケネディ暗殺」をめぐるおぞましい出来事であった。

(参考文献)
「ケネディはなぜ暗殺されたか」(NHKBOOKS 仲晃 著)
「ケネディ暗殺関係年表」


2001年06月01日(金) アメリカ合衆国の闇

 共和党のフォード元大統領が、信念を貫いた米国の公職者に与えられる「勇気ある人々」賞を贈られたという。そして、受賞理由が、74年にウォーターゲート事件で辞任した前任者のニクソン元大統領に恩赦を与えたということだというから驚いた。

フォード氏は元大統領を裁判にかけると政治的混乱にさらに拍車がかかると判断して、恩赦を与えたのだという。「副大統領からの昇格と取り引きした」「事件を隠蔽した」などと非難されたが、信念を貫いてニクソンを守ったことがようやく評価されて、このたびの受賞になったのだという。

 朝日新聞の三浦記者は昨日の朝刊の「地球儀」でこれを紹介し、「時代を経て、政治家の仕事を評価し直すのは、なかなか味のある、それ自体勇気ある試みかも知れない」と書いている。この賞を主宰する故ケネディ大統領図書館財団で、選考委員のエドワード・ケネディ上院議員は「私も恩赦を批判する側だったが、クリントン前大統領の弾劾騒動を経て見方が変わった」と述べている。

 法廷闘争が続けば、政争は泥沼化し、大統領と米国の威信が傷つく。フォード氏がこれを回避するために「勇気を持って」恩赦を決断したことを、今は評価すべきだということである。

 最近のアメリカは何かにつけて「国益優先」の考え方が表面に出てきている。フォード氏の受賞もそうした流れの一つだと言えそうである。しかし、私はフォード氏にこの賞を贈ったのが故ケネディ大統領図書館財団だということに、こだわりを持った。それはアメリカという国の秘められた暗黒面にかかわることなのだが、このことについて、明日の日記に書いてみようと思う。


橋本裕 |MAILHomePage

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