橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2002年02月28日(木) 怠け者が世界を救う?

 私は日頃からワークシェアリングを主張し、競争よりも共生をと訴えているが、これはどちらかというと、社会的強者ではなく、弱者の発想だろう。あるいは怠け者が口にしそうな意見である。たしかに私のように自分の能力に自信がなくて、しかも努力することの嫌いな不精者には、おあつらえ向きの制度かもしれない。

 能力に自信があり、向上心を持ち合わせている努力家は、共生よりも競争を主張するだろう。ワークシェアリングなどとんでもないことで、才能や実力があるものが相応の努力をして、能のない人間から職を奪い取ればよいのだと考える。競争によって個人は成長するし、社会も活力が生まれて繁栄する。そうすれば、社会的インフラが整い、弱者にもお裾分けがいく。ぬるま湯に使っていては、将来ろくなことがない。

 アメリカの主導するグローバリズムもこうした考え方に貫かれている。それはそれで説得力があり、こういう主張に対して、まっこうから立ち向かうのはなかなかたいへんである。これが世界の現実ではないかと言われれば、甘っちょろい理想論などはタジタジであろう。そのあげく、怠け者の戯言だと軽蔑されるだけだ。

 たしかに努力した者が報われることはあってもいい。たとえワークシェアリングで仕事を分け合うとときも、その仕事ぶりによって、収入や待遇に差を付けたければかまわない。よりよい生活を求めて、各人が切磋琢磨することは、まあ仕方がないことだ。

 しかし、ここで考えて欲しいのは、努力家が信奉する競争至上主義が行きつくのはどんな社会かということだ。私にはそれが怠け者が夢想する社会よりもはるかにおぞましい姿に見える。この世界を環境破壊、戦争、犯罪、飢餓やテロの横行する修羅場にしないために、私たちはもう少し怠け者になったほうがよいのではないかと、あえて考えるわけだ。


2002年02月27日(水) 一流の育たない国

 第19回冬季五輪・ソルトレークシティー大会が終わった。開会式でブッシュ大統領は「誇り高く、決意に満ちた、偉大な国を代表して」と異例の言葉を付け加えた。終わってみて、「アメリカのアメリカによるアメリカのためのオリンピック」だったという印象がしないでもない。そうした演出が目についた。

 オリンピックはいうまでもなく、ギリシャで始まった。古代オリンピックでは、祭典の数カ月前から使者がギリシャ全土にオリンピック休戦(エケケイリア)を触れ回った。祭典に先立ち、選手や審判は1カ月間、合宿して練習した。審判はさらに10カ月間合宿、規則の専門家から講習を受けたという。

 今回のオリンピックではフィギュアスケートなどの判定を巡り紛糾したり、競技の採点や判定をめぐって何かとギクシャクした。アメリカをはじめ、各国の国家意識が鼻について、かならずしも爽やかな印象を残した大会とはいえなかった。しかし、ソルトレークの次はアテネだという。ふたたび古代オリンピアの友愛の精神にかえって、競技本来の魅力を楽しみたいものだ。

 とは言っても、気になるのが国別のメダル獲得数である。上位はドイツ、ノルウエー、アメリカだが、7位に金3銀5のオランダが入っている。日本は銀1銅1で22位。金2銀2で14位の韓国にも差をつけられた。大選手団を送り込んで、鳴り物入りの報道をしたわりに淋しい結果である。

 日本がふるわないのは、多数の役員たちや報道陣・芸能人たちが選手を食い物にしているからではないか。選手の技能向上のために使われるべき資金が、多量のとりまきの接待や観光旅行に費やされていないか。八位までに入ると、入賞したと報道されるが、これは日本だけのことらしい。メダルが取れそうもないので、選手の入賞をおおげさにもちあげて、ごまかしているような気がしないでもない。

 オランダは面積も人口も日本の九州とほとんどかわらない。千数百万人の人口で金3個の活躍は特筆すべきだろう。スポーツに限らず、ノーベル賞学者の数でも、日本はこの小国の半分に満たない。ODAの援助額でも、DNP比率でオランダは日本の3倍もある。

 日本は今や政治・経済・学問・スポーツ、あらゆる分野で二流に甘んじているようだ。どうして日本はこんなにふるわないのか。私はその根本にあるのが日本の時代遅れの教育制度だと思っている。日本では営利的な大学や受験産業が子供を食い物にしている。世界に例を見ない愚かな受験体制が、日本から人材を奪い、日本を緩慢な死へと追いやろうとしている。

 私たちは将来を担う子供たちを、奴隷のように学校に囲い込んで、あたら青春の冒険心や自由を奪い、貴重な人生体験をさせることもなく、ただ体と頭を貧しく堅くするだけの受験勉強にしばりつけている。こんな愚かしい国で、世界に通用する一流の才能が育つはずがない。


2002年02月26日(火) 知識崇拝から脱却を

 記憶力と理解力は学力を支える二本の柱だと考えられている。この二つをどうしたら伸ばせるか、これについては様々な議論がある。現在「ゆとりの教育」が批判されているが、これも学習時間の削減で、こうした学力低下が心配されるからだろう。

 記憶力と理解力は相関があるらしい。常識的に言えば、知識量と理解力は比例すると考えられる。ある国について理解しようとすれば、その国についての情報を知らなければどうにもならない。たしかに、知識なしには理解は成り立たない。

 しかし、知識量の増加がむしろ理解を遠ざけることもある。雑多で些末な知識はものごとの本質をかくす。知識に縛られて、本筋が見えなくなり、誤った理解や判断停止に落ち込むことも考えられる。学識豊かな学者たちが、現実問題について理解を誤り、有効な方策を打ち出せないことがよくある。

 自然科学や数学の分野の研究になると、第一級のものはほとんど二十代におこなわれている。ニュートンにしろアインシュタインにしろ、ボーアーや湯川秀樹でも、DNAの二重螺旋構造を発見したワトソンやクリックでもそうだ。駆け出しの若造が学識のある学者たちを尻目に大きな発見をするのは、彼らが既成の知識や観念にしばられない自由な発想をするからだ。

 したがって学力に関していえば、「知識力」「理解力」のほかに「発想力」をくわえて、三本柱で考えるべきだろう。「発想力」とは「構想力」であり、「創造力」「発見力」である。これからの時代は「知識」と「理解」に偏らず、「発想力」をのばす教育が大切である。また、「学力」とは「学んだ力」ではなく「学ぶ力」だという視点も重要だろう。

 日本では大学教授や作家などの知的職業人を「知識人」とよぶ。知識がある人という意味では正解だが、彼らが現実に対してどれほど深い理解力を持っているか疑問である。正確な知識に立脚することは必要だが、いわれのない「知識崇拝」、あるいは「知識人崇拝」からは脱却する必要がある。


2002年02月25日(月) エピソード記憶の不思議

 三十代の女性が、階段で倒れて軽い脳しんとうを起こした。脳しんとうはすぐに直ったが、記憶喪失になって、自分がだれだかわからなくなった、というたぐいの臨床例があるそうだ。

 自分の名前も年齢も住所も、両親や子供や夫の名前もわからない。名前が分からないだけでなく、顔をみても全く思い出せない。よそよそしい他人としか思えないというのだ。

 それでいて、学校で習った知識はいくらでも思い出せる。社会の出来事も思い出せるし、芸能人の名前やゴシップも思い浮かぶ。彼女に欠落しているのは、彼女自身にかかわる個人的な記憶である。

 こうした特定の日時や場所と関連した個人的な経験に関する記憶を「エピソード」記憶という。これに対して、源頼朝が1192年に鎌倉幕府を開いたとか、原子は原子核と電子できている、水は英語でウオーターというなどといった知識に関する記憶は「意味記憶」と呼ばれる。この女性の場合、意味記憶は健在だが、エピソード記憶が失われた状態になったわけだ。

 このような例はたとえば、アルツハイマー型痴呆でもみられるらしい。学生時代に学んだ知識はよく保たれており、ずいぶん難しい話もするのに、エピソード記憶の能力は失われて、最近のごく日常的なことは少しも憶えていないということが起きてくる。

 もっとも、エピソード記憶は失われた言っても、完全に消去されているとは限らない。記憶は保持されていても、思い出すことが出来ない場合が多いからだ。だから先ほどの記憶喪失の女性も、やがて幼い頃の思い出から、しだいに記憶を回復させて行ったという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私たちの脳はあらゆる情報を最初は「短期記憶」として取り込む。この短期記憶は脳の中の「海馬体」とよばれる組織のシナプス神経回路に一時的に貯蔵される。そしてそこで選別を受けたものが最終的に長期記憶として大脳皮質に固定されることになる。

 長期記憶には「エピソード記憶」や「意味記憶」など「陳述型の記憶」と、その他の「非陳述型の記憶」がある。いずれにせよ、海馬体が記憶処理について大切な役割を担っている。そして、海馬体が損傷したり機能が低下すると、個人が、いつ、どこで、何に出会ったとか、何かをしたというエピソードの記憶ができなくなり、日常生活に様々な支障がおこってくる。

 海馬体で、情報がどのように処理され、エピソード記憶が形成されるのかかならずしも明らかではない。ただ、エピソードの記憶には、必ずそのエピソードが起こった場所や時間などの情報がが含まれている。すなわち、エピソード記憶には、もともと空間や場所の記憶が含まれていると考えられる。

 これらのことから、海馬体は大脳皮質から全ての情報を集め、その情報を用いて状況(あるいは文脈や場所)を認知し、そのときに起きた事象と連合させて記憶するという記憶の中枢的役割を果たしていると考えられる。


2002年02月24日(日) イメージ記憶と言語記憶

 言語がなかったころ、またあっても今日ほど強力でなかったころは、記憶と言えば「イメージ記憶」であった。原始人は身振りや手振りなどの身体の運動で相手に意志を伝えただろう。だから、原始的な言語もこうした身体言語から発達したと考えられる。こうした言語の記憶は当然イメージとして記憶される。

 私たちは名前が分からなくても、人の顔をイメージとして記憶する。そして、再びあったとき、どこかで見た顔だなと分かる。風景でもそうで、昔住んでいた町のたたずまいはイメージとして覚えている。だから写真を見せられて、すぐにああこれは昔歩いた道だと分かる。

 こうしたイメージ記憶は人間以外に犬やネコも持っている。だから飼い主のところによってくるし、一度歩いた道は覚えていて迷子になったりしない。蟻やミツバチのような昆虫にさえ、記憶というものを持っている。もっともそれをイメージ記憶とよんでいいものかどうかむつかしいところだが。

 人間は言語を発明して、記憶にもうひとつの新しい道を開いた。これが「言語記憶」と呼ばれるものである。そうして文字の発明により、「文章による記録」も可能になった。こうして記憶は蓄積され、共有化され、体系化された。

 今日の私たちの文化的な生活は、「言語記憶」を抜きには考えられない。しかし一方でマルチメディアの時代を迎えて、「非言語的なイメージ記憶」のウエイトも高まっている。これから先、私たちの記憶のあり方がどう変わっていくのか、それによっては学習や教育の在り方も大きく変化していくことだろう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ものの本を読むと、決まって次のような右脳と左脳の機能分担を示す図が出てくる。昨日引用した角田忠信さんの「日本人の脳」にも出てくる。しかし、左脳を「言語脳」と呼ぶのはいいが、右脳を「イメージ脳」と呼ぶのには疑問がある。


 私は左脳のロゴス的な働きと、右脳のパトス的な働きの統一によって高度なイメージや直観が得られるのではないかと思っている。言語とイメージを対立したものと考えるのではなく、ロゴス(理性)とパトス(感性)の総合として捉えるたい。

 言語は多かれ少なかれイメージをともなっている。だからイメージをともなわない記憶があるのか疑問になってくる。そうすると、記憶を言語記憶と、イメージ記憶に分類することもどうだろうか。

 むしろ、言語的イメージ記憶と非言語的イメージ記憶と呼ぶべきではないだろうか。しかし、こんな用語は一般的ではないので、表記については混乱を避けて、言語をともなったイメージ記憶を「言語記憶」、非言語的なイメージ記憶を「イメージ記憶」と書いておいた。


2002年02月23日(土) 日本人の脳

 私たちの体はほぼ左右対称になっている。臓器も肺や腎臓などは、左右2個備わっていて、片側だけでも何とか生きていける。同様なことは目や耳についてもいえる。これは私たちの生存率を上げるために役立っている。

 大脳も左右で二つに別れていて、左脳、右脳と呼ばれている。大脳の場合、片方が毀損したら、もう片方が機能を代替できるのだろうか。残念ながら、それはできそうもない。私たちの脳はかなり早い時期に、左と右で機能分担が固定化してしまって、その後の転換がむつかしいからだ。

 それでは左脳と右脳は具体的にどのような機能を分担しているのか。これを明らかにしたのは、1981年にノーベル賞を受賞したアメリカの大脳生理学者、ロジャー・W・スペリーである。そこで、彼らの研究からわかった内容をいくつか紹介しよう。

 左脳は一般に「言語脳」もしくは「ロゴス脳」と呼ばれる。言語処理がここで行われるからだ。計算もここで処理する。論理的で分析的なデジタル思考をするとき、私たちは左脳を使う。だから左脳を損傷すると、言葉が話せなくなり、計算もできなくなる。これは生きていく上でかなり大きな障害である。

 一方右脳は「直観脳」もしくは「パトス脳」とよばれる。非言語的な図形の認識や、音楽やイメージなどの感性的な認識やアナログ的で総合的な思考を行う。ここが損傷しても言語障害にはならない。つまり、「読み」「書き」「暗記」は普通にできる。しかし、「総合理解」「応用」「視・知覚及び空間の認知」「感情理解」が困難になる。

 たとえば、迷路やパズルができなくなる。アナログ表示の時計を見ても、時刻が読みとれない。本がすらすら読めるようで、感動や情緒が伴わず、内容の把握もできない。つまり、細かい点について指摘はできても、あらすじを説明したり、全体の把握はできない。情操をともなった芸術的表現や創造性がなくなり、未経験のことに対して判断ができなくなる。

 言語が発達していなかった頃、左右の脳の差異はなかったのだろう。言語能力の発達にともなって左脳のデジタル化がすすみ、左右の機能の分化が生じたと見られる。その結果、本来左脳が右脳とともに持っていたアナログ的直観力や感性的な能力はおもむろに消滅した。そして右脳がこれを専門的に受け持つようになったと見られる。

 もっとも、ここに少々例外があって、たとえば日本人の脳は、いまだに左脳に右脳的な非言語的機能が残っているらしい。たとえば私たち日本人は、虫の音を左脳で聞く。泣き声や笑い声、風の音、せせらぎの音、こうしたものを左脳で聞いているのは珍しくて、欧米人のみならず、中国人や韓国の人とも違っているという。角田忠信さんの「右脳と左脳」から一部引いておこう。

「こういうパターンからいいますと、西欧人の場合には、ひじょうに論理的な知的なものだけが言語脳に偏っている。これはロゴスであらわされる。非言語脳のほうはパトス的なものを分担する。しかも自然界に存在するほとんどの音がこちらに入っている。すなわち感情だとか自然の音がみなこちらに入っている」

「そういう意味で音の分担としては、知的なロゴスと、パトスを含めた自然全体とに分かれてしまう。ところが日本人の場合には、こちらの知的なもののなかに感情的なパトスが入りますし、それから自然の音も入ってしまう」
 
「われわれは、それも道を歩いていて、コオロギが鳴いている音とか、自然の音はすべて取り入れてしまう。ですから、われわれは動物に近いような、動物に親和性のあるような脳を持っているのだと思うのです」

 西欧人の場合、左脳と右脳に機能を分化させたあと、これを脳梁で繋いで左右の脳の働きを統一している。これに対して、左脳偏重型の日本人は、左脳の内部で大方の統一ができている。日本人はロゴスとパトスを分離しないで、左脳に両者を同居させたまま生活しているわけだ。

 美的感受性に優れた日本語は、こうした日本人の脳から生まれた特質を持っているのだろう。自然親和性の高い、感性的な彩りと潤いにみちた日本文化も、こうした日本人の脳と無縁ではなさそうである。

(参考文献) 「日本人の脳」(角田忠信著、大修館書店)
        「右脳と左脳」(角田忠信著、小学館ライブラリー)


2002年02月22日(金) イルカの言語能力

 イルカは知能が高いことで知られている。実際、全身に対する脳の大きさの比率を考えると、イルカは人間についで2番目に大きい。ゴリラのような大型類人猿でも、脳の大きさの比率は、イルカの半分にすぎないという。

 そこで、イルカはどのくらいの知能をもっているのか、特に言語能力があるのかどうか、興味が湧いてくる。言語能力に関して言えば、これまでに様々な研究が行われて、イルカはかなりのレベルに達していることが分かっている。

 たとえば、イルカは持っている音声の種類が非常に豊富で、仲間の発する声を聞き、そこからしかるべき情報を抽出して、ふさわしい反応をとっているようだ。しかもイルカのこのコミュニケーション能力は生得的なものばかりでなく、あたらしい声を学習することができる。

 野生のイルカは単に「言葉」を知っているだけのようだが、訓練すれば彼らはそれらの「言葉」を組み合わせてできる一つの文章を理解するようになる。たとえば調教師がイルカに「輪をくわえてパイプのところまで運ぶ」という行動をさせようとすれば「輪」「運ぶ」「パイプ」の単語を覚えさせて、このような順序で「言葉」を並べて文を作り、覚えさせる。

 イルカは語順を理解することができる。だから、「パイプ/運ぶ/輪」という信号を送れば、彼らは「パイプを輪のところへ運ぶ」という風に理解する。また、こうした文系を一度覚えてしまうと、彼らは初めて学習した新しい言葉についてもこの型を使うことができる。

 つまり、綱と籠という言葉を学習した後、「綱/運ぶ/籠」という文を示すことで、彼らは綱を籠まで運んでくれる。こうして、彼らに長さが2語ないし5語からなる数百の文を記憶させ、それぞれ違った複雑な動作を示すように訓練することも可能なのだという。

 こうしたイルカのめざましい知能を知ると、彼らがかなりの言語能力を持っていることを認めたい気持になる。しかし、イルカの言語能力には決定的な限界があることも事実だ。それは彼らが文を理解できても、文を作ることはできないということである。

 彼らが野生の状態で、文を作り、これを仲間同士で理解し合うことはない。イルカが海中で人間のように楽しく会話しているというのは、いまのところ単なる空想にしか過ぎないようだ。


2002年02月21日(木) 教育的観点なき入試

 予備校が実施する模擬試験に出された問題が、そのまま翌年の入試問題に出されて、評判になることがあるらしい。たとえば藤田省三の「或る経験の喪失」という本の中から抜き出した問題が、始めも終わりも全く同じ上に、設問までそっくりで翌年の共通テストに出題されるということがあった。

 出題したM先生は、問題文が酷似しているということで、「過去一年間に大学入試センターに行ったことはなかったか」と新聞社の取材を受けたらしいが、「去年の夏に入試センターの横の道を歩いておりますとな、空から一枚の紙がヒラヒラと舞い降りてきましてな・・・」と煙にまいたという。

 M先生の場合は問題の予想は次のようにしておこなうのだという。過去10年間の共通テストの出題者を調べると、ほとんど東大系の岩波文化人で進歩的な知識人であることがわかる。そこで、それらの知識人に的を絞って著作を読む。

 そうすると、一冊の著作の中で、問題文に使えそうな部分はせいぜい、一、二カ所くらいしかない。だからレベルの高い二人の出題者が同じ本で問題を作ると、同じ結果になることも珍しくはない。

 こうしたことが起こる背景には、出題が偏っているということが考えられるが、これは他の教科もおなじである。たとえば大学入試の英語の問題の出題者は文科系か言語学系と相場が決まっている。言語学系の先生は日頃の読書量が乏しいので、どうしても専門の言語学の素材に偏るらしい。

 大学入試センターの現代文の場合、一番が評論文で、二番が文芸文というパターンになっている。しかし、現代文をこの二種類の分野の文章に限定することの教育的意味は何か。河合塾の丹羽さんはこのことに疑問を呈している。

「センター入試の受験者は2000年度の場合55万人弱で、このうちの二分の一は理系である。その子たちがなぜかなり難解な、西洋近代の思潮を基調にした評論文や、文芸文に頭を悩まさねばならないのか。つまり日本の入試現代文は、評論、文芸の専門家たちに占拠されているのだ。これは国語本来の教科的使命を考えた場合、変である」

 そこで韓国の統一テストを調べてみたら、驚いたことに、第一問から第五問までが聞き取り問題だった。そのあとに登場するペーパーテストも、評論、文芸文の他に、さまざまな分野の題材が登場して、「読解力」、「論理的思考力」、「要約する力」などが問われている。ききとり問題がどんなものか紹介しておこう。

<第一問>学級委員に当選した男女二人の挨拶を聞かせて、論理性や感性の違い、個性の違いを問い、いずれが学級委員に有能であるかを考えさせ、解答させる。
<第二問>詩の朗読を聞かせ、作者が何を言おうとしているのかを問う。
<第三問>男女二人の会話を聞かせて、設問に解答。
<第四問>教養講演を聞かせて、設問に解答。
<第五問>二人の学者の学術対談を聞かせて、設問に解答。

 このように韓国の場合、文字としての国語のみでなく、音声としての国語も重視している。さらに、「国語」とは言わずに、「言語能力」としている。こうした実用本位の観点は他の教科の場合も同様で、英語の場合はとくに「使える英語」に的を絞って試験を実施している。

 英語ではリスニングの他に、ペーパーテストでは150語程度の短文が50問も並んでいて、些末な文法にこだわらずに、限られた時間で内容把握を求める速読即解形式である。

 日本の共通テストの問題を翻訳して韓国や中国の先生に見て貰ったら、試験の完成度が高いことは認めつつも、「何をねらいとしているのか、教育的意図がさっぱりわからない」という感想が返ってきたそうだ。

 日本の入試の場合、教育的意図よりも選抜上の便宜が優先されてきた。そのために教育的観点を逸脱して、「悪問だらけ」という現状になったのだろう。丹羽さんは、「大学入試問題というものは生徒の学習にあたえる影響という意味では、教育課程よりも強い」と警鐘を鳴らしている。

 大学では補習授業が盛んで、講師役として予備校に声がかかることが多くなったらしい。なかでも多いのが「日本語表現」の科目だという。「国語を教えてくれ」という声は聞かれないで、「論文が書けるようにしてくれ」「就職面接で成功するように言語能力をつけてくれ」と、要求されるのだという。「国語を教えろでない背景には、じつは日本の国語教育のたいへん大きな問題がひそんでいる」と丹羽さんは書いている。

 私は受験数学の弊害について書いたが、こうしてみると、受験体制の病根はさらに深く、その他の主要な教科においても深刻な学力崩壊をもたらしていることがわかる。日本の教育の再生のためには、初心にかえって「教育的観点」という立場で、現在の受験体制を根本から見直してみる必要がありそうだ。

「初中等教育では国民が生きていくのに、最低限必要な装備を身に付けさせれば充分だと思う。そして学校に拘束する時間を最低限にし、それぞれの子供に必要なそれ以外の技能、学力、情操の教育は思い切って民間に任せればいいと思う」この丹羽提言に、私も基本的に賛成である。


2002年02月20日(水) 予備校の下請け

 4年ほど前まで勤めていた高校はいわゆる進学校のはしくれだった。名古屋大学をはじめとする国公立や私立の大学にそれなりの合格者を出していた。そうした学校では、1年生から早朝補習がある。夏休みも、午後までみっちり補習である。すでに四十代の後半に入っていた私には、きつい日々だった。

 学校へ河合塾などの有名予備校の講師を呼んで、話を聞く機会もあった。生徒向けと、職員向けに毎年企画され、受験競争に勝ち抜くためのノウハウを色々と聞かされることになる。生徒向けには、「受験勉強で一番効果的なのは、教科書の例題を解くことです。机の上にたくさんの受験参考書を並べている人いるでしょう。かわいそうだけど、その人たちはまず合格できないでしょうね」などと、かなりまっとうな話が多かったのを覚えている。

 予備校の全国統一模擬テストも年に何回か実施する。高校の受験指導はもはや予備校の存在を抜きには成立しない。予備校の先生から指導をうけ、データーなどもいただきながら、いわば予備校の下請けのようなことを高校の教師はしているわけだ。共通一次やセンター入試が始まって、入試が複雑になるにつれ、こうした風潮が一般化したわけだ。

 職員向けの学習会では、次年度の大学入試問題の予測なども聞くわけだが、これがかなり高い確率で当たるのである。「さすが受験のプロだ」と感心したものだが、「悪問だらけの大学入試」を読んでいて、舞台裏が少し分かった。明日の日記でそのことを書いてみようと思う。


2002年02月19日(火) 先生の高齢化

 このところ、新規採用の先生の数が減っていて、先生の高齢化が進んでいる。少子化にともなって、教師の数があまってきた。そこで、県教委が教員の採用を控えてきたせいだ。昔は教育学部を卒業すれば教員になれたが、今は大半がなれない。そのあおりを受けて、教育学科系の偏差値がずいぶん下がってきているらしい。

 丹羽健夫さんの「悪問だらけの大学入試」から具体的な数字を拾ってみよう。もとの資料は文部省が3年ごとに出している「学校教員統計調査報告書」である。全教員の中に占める40歳未満の教員のパーセンテージを示しておく。なお、平成13年度の数字は、丹羽さんの予測である。


平成4年度 / 平成7年度 / 平成10年度 / 平成13年度
小学校/ 56.8 / 50.2 / 41.5 / 約25
中学校/ 59.6 / 56.8 / 51.7 / 約25
高校/ 47.4 / 44.6 / 41.5 / 約25

 
 平成13年度の25パーセントという予測は、どのくらい当たっているか、やがて統計が出るのであきらかになるだろう。しかし、40歳未満の教師が1/4しかいないというのは実に驚くべき数字である。統計によれば20代の教員はいずれも10パーセント未満になっている。

「このことは学校が急速にエネルギーを失い、児童、生徒にとって魅力の乏しい場所になり、学校離れを急速に助長する結果を招きはしないだろうか」と丹羽さんは書いている。現にそのような状況が生じていることを、私は学校現場に身を置きながら痛感しないわけにはいかない。40歳を境にして、私自身急速に体力や精神力の老化を実感している。要するに、無理が利かなくなった。

 同様なことは予備校の講師にも言えるらしく、丹羽さんも「予備校にいて辛いのは何が一番かと言われると、講師の授業での人気が年齢とともに落ちていくのを見ることである。・・・40歳の声を聞く頃から、授業満足度のアンケートの数字が微妙に翳りをみせはじめるのだ」と書いている。

 理由として丹羽さんは、「生徒との年齢差から生じる感性や文化のギャップの拡大と体力の減衰ではないだろうか。子供たちと付き合うには大変なエネルギーが要求されるのだ」と書いているが、その通りではないかと思う。私たち教師というのは、ある意味でかなり過酷な職業である。

 私の大学院の先輩に、かって河合塾で数学の講師をしていた人がいた。私が教員になった頃、河合塾のパンフレットを見ると、彼が顔写真入りで大きく紹介されていた。彼はその頃看板講師の一人だった訳だ。それが10年も立たないうちに、文字だけの紹介になった。年齢とともに活力が衰えて、急速に人気を失って行ったのだろう。彼自身やがて限界を感じて塾を辞め、田舎に帰った。

 私自身の高校時代の経験を書こう。1年生から3年の途中まで担任をしていただいた国語科のS先生は60歳に近い年齢だった。S先生が突然脳溢血で倒れられ、その後任として大学を卒業したばかりだという若いA先生が教壇に立たれることになった。そのとき私は国語の時間がまるで違ったものに感じられたものだ。

 それまでのS先生の、脳味噌が腐りそうな退屈な授業と違って、若くて快活なユーモアの溢れた授業は、ほんとうに何から何まで新しくて楽しかった。私の若い頭脳をいきいきと知的に活性化させてくれたものである。私が55歳くらいで教師を辞めたいと考えるのも、ひとつには自分の若いときの体験がある。できることなら、なるべく早く、若くて生きのよい後進の先生に道を譲りたいものだと思う。 

(ここに書いたことはあくまで一般論である。50歳代でもあふれるばかりの活力と人気を誇っている先生はいる。ベテランにはベテランの味もある。だだあまりにバランスを欠いた年齢構成はよろしくないということだ。また、教師の高齢化を防止するために必要なのは、まず第一に教員の定員を増やして、少人数クラスを実現することだ。このことは声を大にして主張したいと思う)


2002年02月18日(月) 高校の予備校化

 教員になって3年目の頃、教師を辞めようかと、真剣に悩んだ時期があった。豊田にある新設2年目の高校に転勤になって、その学校の校風にあわなかったからだ。とにかく国公立に何人合格させるかだけの学校だった。

 そのために、必修クラブの時間も問題演習をやっていた。私は正式にはテニスの正顧問だったが、やっていることは教室で入試問題の解説である。進路部長からは「うちは東大の受験生もいるので、国立大学の問題はすべて解説してやってください」と言い渡たされていた。

 当時名古屋市に住んでいた私は豊田まで車でかなりかかった。早朝補習があるので、朝は暗いうちに家を出なければならない。ある日、途中で車がパンクして、15分ほど遅刻した。朝の職員朝礼で、進路部長が立ち上がり、私をにらみつけて、「橋本君、遅刻しては困ります」と名指しで叱責した。

 校長や他の職員の前で自分を目立たせるパホーマンスである。他に遅刻ぎみの教師はいたが、初めての私をやり玉にあげたのは、進路部長と同じ教科で、私のことを身内のように思っていたからだろう。他の教師へのみせしめのためである。

朝礼が終わってから、「悪い、悪い」と肩を叩きながら謝るので、私はむっとして「もう補習はやりません」と宣言した。何のために自分が教師をしているのかわからなかった。ただ、性能のよいテーチングマシンになれと、強制されているような感じが我慢できなかった。しかし、私は教師を辞めずに、翌年、定時制高校に転勤した。定時制高校へ行って、私はほっとした。そして教師を辞めなくてよかったと、しみじみ思ったものだ。

 河合塾の丹羽さんによると、学力崩壊の原因は、ずばり「高校の予備校化」にあるという。そのあおりで、塾の方が教科の本質を教えなければならない。しかしそれでは、手遅れである。もう頭の先まで、表面理解が染みついていて、本質理解をなかなか受け付けない。

 塾の講師が、公式の意味を説明しようとすると、
<生徒> 「意味があったんですねぇ」
<講師> 「あたりまえじゃないか。意味が分かっていて答えが出せるのが当たり前じゃないか」
<生徒> 「でも、意味が分かっていて、正解が出ないのよりもましでしょう」
 こんな会話がくりかえされるらしい。

 別解を教えようとすると、
「僕らは入試に受かればそれでいいんです。どうか一番簡単に融けるやつを、一つだけ教えて下さい」と言われる。
「まるで墓場の石塔の群に向かってささやいているようだ」と、塾の講師たちはぼやいているという。

「墓場の石塔の群」には読んでいて笑ってしまったが、ふと、十数年前の新設高校での体験を思い出して、笑いが引っ込んだ。定時制高校に転勤した年の夏に、東大の理Ⅰに合格した卒業生のT君が名古屋の私の家まで遊びに来た。

 T君は東大の他、早稲田も慶応も、防衛大学校まで、それこそありとあらゆる大学をことごとく受験して合格した功労者である。その彼が母校へ遊びに行くと、進路部長から、もう一度今年東大を受験してみてくれないかと頼まれたという。

 今度は理Ⅲ(医学部)を受けろという。彼の他にも、母校に遊びに行った卒業生はたいてい受験を進められ、名大の工学部に合格したAなどは、医学部受験をすすめられて、その気になっているらしい。これを聞いたときには、本当に怒りに身が震えた。

 ちなみに、この進路部長は現在校長をしている。そして、当時の校長は今はもう退職して鬼籍に入られたが、その後県教委の高等学校教育部長に栄進して、NHKのテレビなどにも愛知の教育界を代表して出演していた。こうしたことがまかり通っている教育界に、私は依然として居心地の悪さを感じている。


2002年02月17日(日) 予備校講師たちの企て

 90年代のはじめの頃、入試の終わった3月末、予備校講師の間で、ときどきこんな会話が交わされていたという。

「N1クラスのTを知っているか。クラスの面倒見もいいし、入試ではがんばってくれるといいと思っていたのだが、全滅したらしい」
「ああいうパワーがあって根がまじめなヤツが落ちるなんてもったいない感じがするな。今クラス全員が世の中に出てヨーイドンで仕事についたら、クラスの誰よりもあいつがいい仕事をすると思うのにな」

 丹羽さんは著書の中でこうした会話を紹介して、「教室で生徒を毎日見ている予備校講師たちは、日本の大学入試というものが、主にペーパーテストで行われる以上、ペーパーテストでは計ることのできない、たとえば行動の領域でいかに優れていても合否には何の足しにもならないことを、毎年嫌というほど見せつけられてきた」と書いている。高校の職員室でもまったく同じ会話が交わされることがある。

 ただ、予備校の先生方の偉いところは、彼らを何とか救済すべく知恵を出し合って、実行に移すところだろう。その行動は一人の講師のこんな提案から始まった。

「アメリカという国はいろいろ問題を抱えた国だが、教育に関しては日本と違って規則が少なく度量の大きい国のように思える。特に子供の個性をいかに引き出すことができるかが、良質な教師の誇りになっているようだ。そして稀にではあるが、途方もなく理想主義的でかつ実行力を備えた教師集団を抱えた学校があると思う。その学校をさがそう。そこへ我々のアウトサイダーたちを送り込もう」

 そこで、約400の大学・短大に手紙を書いたのだという。そしてワシントン州立のコミュニティ・カレッジに白羽の矢が立った。このカレッジは普通に留学する場合、TOEFL550点の位の英語力が要求されるのだが、学長がこれを不問に付してくれた。

「私どもは困難な課題をあたえられると奮い立つのです。事情が事情ですから、英語をはじめ教科の成績は一切問いません。あなた方の送った生徒をすべて受け入れましょう。ただし、やる気のある生徒を送ってください」

 そこで、いよいよ生徒の選考がはじまった。もちろんペーパーテストで「やる気」は計れない。さあ、どうするか。知恵をしぼったあげく、次の3点の関所を設けることにしたのだという。

①アメリカに出発する9月までの3ヶ月の間に、アルバイトをして渡航費用の30万円を自力で稼ぐこと。
②山の奥の農場で1週間合宿し、農作業をする。晩飯に3人に一羽の生きた鶏をあたえて、工夫して食べさせる。
③日本の歌を3番まで歌って、その意味を相手に分からせる。手持ちの英語を総動員し、さらにボディランゲ-ジも使ってよい。ともかく分からせること。

 こうした珍妙な「試験」を無事通過した13名がアメリカに送られた。アメリカの大学の単位認定は厳格で、したがって卒業もむつかしい。ところが、結果は1名を除いて、ほぼ全員が卒業したのだという。

 ところで、落伍した1名はどうなったかというと、これがまた面白い。彼は3人の子供を抱えた年上の米国女性と恋に落ちて、結婚して大学を辞めた。そしてお金を儲けて、日本料理屋を開業したのだという。「人によっては彼がこの自立プログラムの一番の具現者だという」と丹羽さんは書いている。


2002年02月16日(土) 理解と納得

 今日も河合塾の丹羽健夫さんの「悪問だらけの大学入試」に書かれた内容の紹介をしよう。この本は題名からは想像できないほど内容が豊かで、読み応えがある。まだ数日間、この本を肴にして文章が書けそうである。

 さて、今日のテーマは、学習の傾向として生徒には「①理解型」と「②納得型」という二つのタイプがあるという話である。丹羽さんによると、「理解型」の生徒は、たとえば次のようなタイプの生徒である。

「そもそも数学という教科は、誰か知らぬが頭のいい人間が作ったものであって、教科の内部は構造的に整合性があり、必ず問題に対する答えはある。だから今解けなくても教科の領域を逐次学習していくうちに、必ず答えは向こうから姿を現すであろう。それまでちょっと横においておきましょう」

 これに対して「納得型」は、一つ一つの事柄に対して、納得できないと気が済まない。「大げさに言えば、森羅万象に照らして正しくなければ納得できないし、先に進むことができないのである。しかし、いったん納得すると喜びが体に満ち、勇気百倍して先に進む」

 たとえば、分かりやすい例が「分数の割り算」だろう。「分数で割るときには、ひっくりかえして掛ければよい」と教えられて、「なんだ簡単だな」と考えるのが「理解型」で、「分数で割るというのはどういうことだろう。なぜ、ひっくりかえしてかけると正しい答えがでるのか」といちいちこだわらずにいられないのが「納得型」だ。

 この二つのタイプの内、どちらが受験競争の勝者になるか、結果は明らかだろう。つまり、「納得型」はペーパーテストであまり高い得点をとることはできそうにないのだ。それどころか、学校に適応できず、かなり早い段階で競争から脱落し、いわゆるおちこぼれになる可能性がある。

 しかし、本当に独創的な研究が出来るのは、ほとんどこの「納得型」である。ノーベル賞級の学者で、納得型に属さないような学者はいない。「理解型」はただ他人の研究成果を迅速に理解し、これを紹介することはできるが、創造力は持ち合わせていないからだ。

 アメリカのAO(アドミッション・オフイス)入試は、日本の選抜システムとは違って、「納得型」探しである。AO(学生募集事務室)の職員が、長い時間をかけて何度も生徒と面接し、素質を見極める。そしてその際、「入学時点での教科の学力をあまり重視しない」のだという。むしろ教科学力をささえる、その根本にある潜在的な学力(第二の学力)を重視する。

 さて、そこで丹羽さんがこんな提案をしている。「高等学校や予備校の『良質でこころある先生』は納得型の存在に気付いている。・・・それらの先生に推薦をお願いする。・・・これを繰り返すことによって、その大学独自の推薦ネットワークを作り上げていく。ひとたび納得型の獲得に成功し、その能力を引き出す方法を会得すれば、後発大学がいくつかの研究分野で東大を追い越すことも決して夢ではないと思う」

 丹羽さんはこれからの日本には納得型が必要だという。「理解型、肯定型、予定調和型ではなく、森羅万象に照らして発想する納得型の創造力、知的攻撃力が最先端の新たな状況を切り開くのではなかろうか」

「昨今、不登校児が増えているのは、時代が納得型の重要性を世の中に知らしめるために謀った、納得型の反乱、蜂起のようにならないのだが。その納得型がこれからの大学の存亡の鍵を握るであろう」と丹羽さんは書いている。

 日本の大学、官庁、産業界のトップはいずれも「東大」をピラミッドの頂点とする「理解型」の秀才で占められている。納得型を排除するシステムがこれ以上続くと、ことは「大学の存亡」というより、「日本の存亡」にかかわってくるかもしれない。


2002年02月15日(金) 学力崩壊の原因

 河合塾の丹羽健夫さんによると、学力には二種類のものがあるという。
① 教科的な学力(見える学力)
② 学力を支える態度や知的攻撃力(見えない学力)

 丹羽さんによると、塾は主に第一の学力を鍛えることに重きを置いてきた。これに対して、学校は第二の学力を養成する場所だった。

「高校では教科の本質を教えることに重点を置いていた。どんな人類史的淵源をたどって、この教科はこの世に誕生したのか。俺(教師)はこの教科のこんなところに魅かれて教師になったのだ。どうだ、この教科はこんなに美しいんだと。高校教師たちは些末な問題演習よりも、そのその教科の本質や骨格について熱を込めて語った」

「一方予備校は、贅沢すぎるほどその教科の真実をまとった生徒を、入試問題という現実的で断定的な世界へと誘う。限られた時間でより多くの正解をひねりだすためには、定石などのテクニックも必要なのだ」

 しかし1980年代なかばになると、「高校では本質を、予備校では解法を」という分業が成り立たなくなってきた。それは高校が本来の教科の本質を教えるという立場を放棄して、「解法中心の現実路線」に転換しはじめたからだという。

「日本中のほとんどの公立トップ高校は生徒の主体性重視型から、進路部主導型・先生主導型へ方向を転換し始め、生徒が自ら考える風土を衰退させ、表象として具体化する学力を、根っこのところで支える第二の学力(知的攻撃力や行動の領域、学力を支える態度を養成する力)を、大きく劣化させるのである」

 背景には、「だれもかれもが大学へ」という進路選択の価値観の一元化がある。この狭隘な価値観が、しだいに日本の教育課程を占領し、覆っていった。できれば勉強以外の道へ進みたいという生徒まで叱咤激励し、大学合格の切符を握らせるために、教師も寸暇を惜しんで問題づくりや採点に励んだ。

 この結果なにが起こったか。それが現在問題になっている「分数計算さえできない大学生」の大量発生、つまり「学力の全面的な崩壊現象」である。それから、学校不適応児童の大量発生である。河合塾ではこうした不適応児童をあつめてクラスを作っているらしい。そこではただひたすら、教科の本質を教えるのだという。

「数学では早く解くのがえらいんじゃない、ごはんを早く食べる人と遅い人がいるが、それと同じように自分のペースで解けばいい、ただし皆ご飯を味わって食べているのと同じように、充分考えて納得しながら解いていけ、と言われる」

 高校が第一の学力に的を絞り、ただ大学合格者をだすための成果主義の走り出したために、肝心の第二の学力が崩壊した。しかし、根っこを失った学力はそれ自身で生きることはできず、すぐに立ち涸れてしまう。ペーパーテストの高得点は、あくまでも見せかけの学力に過ぎない。

「80年代の大学入試の競争加熱化に支えられて、第一の学力である教科学力は全体に高水準を維持したものの、それを本来ならば根っこで支えるべき、第二の学力が劣化し始めたということは、根底的学力低下がこの時点から始まったと言えるのではないだろうか。・・・第一の学力は第二の学力の表象という意味を失って、入試問題攻略のためのみの武器として、それもかなり弱々しく、予備校講師たちの目の前に登場したのであった」

 予備校はいつのまにか、高校にお株を奪われることになった。しかし、その結果、第二の学力がとめどなく崩壊することになってきた。そこでやむなく予備校の講師たちは、「本質理解授業からスタート」することになったのだという。つまり「高校と予備校の役割が逆転」してしまった。丹羽健夫さんはこれが今の予備校の現実であり、日本の教育の現実なのだという。

 学力の崩壊のほんとうの原因は、あまりに第一の学力に偏ってしまった学校のあり方にある。本質理解につながる本来の教育が学校では行われず、塾に任されているという呆れた現実を、私たち教育関係者はしっかりと直視し、反省してみる必要がありそうだ。


2002年02月14日(木) 悪問だらけの大学入試

 河合塾教育本部長をしていた丹羽健夫さんの「悪問だらけの大学入試」という本を買って読んだ。丹羽さんが所長をする全国進学情報センターでは、塾や高校の先生方の協力を得て、毎年入試問題の検討会を催しているという。

 悪問は英語、国語、数学、理科、社会と、教科を問わず毎年出題されているが、最近とくに多くなってきた。悪問とは、高校の指導要領の範囲を逸脱し、常識的に言ってあきらかに大学入試にふさわしくないものである。たとえば日本史の問題で次のようなものが出題された。

① 栄西により日本茶が中国からもたらされたのは西暦何年か。
② 栄西のもたらした茶の製法の最初の工程は何か。
③ 問②の工程の次に行われる製茶の工程は何か。
④ 栄西のもたらした茶の種類は何か。
⑤ 古い茶の産地の宇治は京都のどの方向にあるか。
⑥ 栄西が京都に建立した寺は何寺か。

 これはある私立大学の国際・コミュニケーション学部の試験だという。日本史の問題では、日本本土初空襲の爆撃隊機の指揮官(アメリカ人)の名前、そのときの飛行機の機種の名前、また爆撃機が発進したアメリカの基地の名前を問うような問題もある。いずれの問題も、一般の高校生には全問解答不可能といってよい。出題者の常識が疑われる。

「大学入試問題が断片的な知識のみを要求したとするならば、日本中の教育現場は知識詰め込み道場と化すだろう。逆に思考力、創造力を求める問題が多く出るならば、現場の教育はそれに対応するであろう。また、教育課程を無視した問題が出されるならば、教師は混乱し、生徒は学校の授業を信頼しなくなるであろう」

 ちなみに悪問が最も多く出された大学は、早稲田と慶応だという。そこでとくに問題点の多かった慶応大学には次のような公開質問状をだした。

「・・・例をあげましょう。日本史で申しますと、文学部の二番の問題、歴代の陸軍大臣海軍大臣を5名ずつ挙げて年代順を問う問題。・・・受験生はびっくりし、多くは落胆したに違いありません。・・・この手の問題は例えば商学部の地理第二問のように、日本史以外にも多く出されています。また地理歴史のみならず英語でもみられます。・・・慶応大学では入学試験問題作成にあたって、高等学校の教育課程を研究し、それにもとづいて出題がなされているのでしょうか」

 慶応大学からは、さっそく「この度のようなご指摘に対して、本大学は真摯に受け止めております。今後とも貴重なご意見などを頂戴できれば幸いです」という回答がよせられ、翌年からは改善が見られたという。しかし、大学によっては、悪問指摘に対して、明らかに意地になってさらなる悪問を投じてきた大学もあったという。

 それではなぜこのような受験生に苦痛と落胆を与え、教育現場を混乱させるような悪問が頻出するのか。それは91年の大学審議会の答申により、ほとんどの大学から教養部が姿を消して行ったことがある。つまり、問題作成が、高校教育課程にはほとんど素人の、問題作りに乗り気のない特定分野の専門家の手に委ねられることになった。さらに、入試の多様化・複線化で問題作成の負担が増えた。出題担当をみんながいやがり、出題者の決定に難航する大学も少なくないらしい。

 そこで、2000年の春、河合塾はみかねて「大学入試の作成を請け負います」というアナウンスをしたのだという。これに対して文部大臣が緊急記者会見を開き、「機密漏洩」の観点から望ましくないという意味のことを語った。いかにも文部省らしい口先だけの建前論である。

 しかし、大学の反応は好意的で、相当数の依頼があるという。最近では代々木ゼミも請負業務をはじめたようで、これから受験産業が入試問題をつくるのが当たり前の時代がくるのだろう。彼らは受験のプロだから、悪問や奇問も少なくなり、受験生も安心して塾に通うことができる。私たち現場の教師も安堵する。しかし、何だかおかしいとは思いませんか。


2002年02月13日(水) ことばの発生

 今は書き言葉が中心だが、文字がなかった昔は、話し言葉が中心だった。また、文字があった近代でも、文字が読めるのは一部の人たちだったから、やはり話し言葉が中心だった。

 話すということも、書くということも、身体を使って行われる行動だが、どちらかというと声を使って話す方が、より身体に密着している。私たちは書いたものからその人を言い当てることは難しいが、声を聴けばたいがいわかる。

 さて、その昔、私たちの先祖はどのようにして言葉を話していたのだろうか。これは推測だが、私たちの先祖は「歌うようにして話していた」のではないかと思う。つまり、話すというよりも、歌っていたのではないだろうか。

 最初は、身振りや手振りが主体で、それに発声がともなっていた。これはゴリラやチンパンジーなどの動物を見れば、想像がつくことである。我が家のイヌを見ても、嬉しいときはしっぽを振り、喜びを全身で表しながら、そしてうれしそうに吠える。

 人間も同じで、言葉には自然にジェスチャーが伴う。いわゆる身体語などといわれるが、発声語もそもそもは身体語の一種だったのだろう。やがて、次第に身体表現から独立して、いわゆる言葉ができあがったのではないか。

 それが証拠に、極度のショックを体験すると、私たちは声を失い、身振りや手振りしかできなくなる。これは退行現象なのだろう。言葉はサルの仲間同士の毛づくろいから生まれたと主張する学説があるが、私はとても信じることができない。

 中国の「詩経」や日本の「万葉集」など、各民族が持っている最も古い文献は、たいがい韻文である。万葉集の場合、相聞歌と挽歌だが、相聞歌は歌垣の場で大勢で踊りながら歌われたものだ。挽歌が公の儀式の場で歌われたことは言うまでもない。

 言葉はきわめて公共性が高いものである。個人的なサークルや交流の中から生まれることはない。集団の祭祀の場に置ける舞踏や儀式の中から生まれたと考えるべきだろう。つまり言葉はその始まりにおいて、「人々とともに在った」ばかりではなく、「神とともに在った」のである。


2002年02月12日(火) はじめに言葉ありき

 ヘレン・ケラーの物語は、言葉の問題を考えるとき、いつも私の頭に浮かんでくる。サリバン先生はヘレンの手を水に流しながら、手のひらに何度も、"Water!"と書いた。ヘレンはそのとき、「何かしら忘れていたものを思い出すような、何ともいえない不思議な気持になった」と自伝に書いている。

「突然私は、何かしら忘れていたものを思い出すような、あるいはよみがえってこようとする思想のおののきといった一種の神秘な自覚を感じました。この時初めて私はwaterはいま自分の片手の上を流れている不思議な冷たい物の名であることを知りました。この生きた一言が、私の魂を目覚まし、それに光と希望と喜びとを与え、私の魂を解放することになったのです」

「はじめて言葉というものを知ったのです。私をじっと押さえていた、あの目に見えない力が取り除かれ、暗い私の心の中に、光が射してくるのが分かりました」

 一つの言葉がわかるということは、同時にたくさんの言葉がわかるということだ。昨日も書いたように、たとえばミズという言葉はそれだけで意味があるわけではなく、ヒトとかイヌとか、他の多くの言葉との関係の中で、はじめて意味が生まれ、確定する。言葉にとって大切なのはこの「差異」だが、このことにヘレンは気付いた。

「あらゆる名前は、新しい考えを産み出した。家に帰ってみると、私が触れるあらゆる物体が、命をもってうちふるえているようだった」

 そうして言葉と同時に、事物が立ち現れてきた。ヘレンが感動したのは言葉に対してではなく、言葉を通してはじめて体験するこの世界のありさまに対してであった。ヘレンはこのとき初めて、自分の回りに存在する事物というものを知った。そして自分が何者であるかを知った。だからこそ、ヘレンは言葉を「光」にたとえたのだろう。

 私たちは言葉を知らなくても、健康な肉眼さえあれば色々なものが自然に見えると思っている。たとえば雨上がりの空にかかるニジは、言葉を知らなくてもあのように七色に輝いて見えると考えている。しかし、そうではない。

 私たちの目にニジがそのように美しく見えるのは、私たちが「虹」という言葉を知り、その概念やイメージを知っているからである。モノが事物として存在するためには、そこには言葉という光が存在しなければならない。そしてその言葉によって、私たちはまさにその事物に出会うのである。

<はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき。言葉ははじめに神とともに在り、万の物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに命あり、この命は人の光なりき>(ヨハネ伝福音書)

(参考サイト) 「魂の教育論」http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/kyouikuron.htm
(注)北さんの「魂の教育論」は「魂」と「心」という観点からヘレン・ケラーの言語体験を書いている。比較して読んでいただけるとありがたい。


2002年02月11日(月) 自己という幻想

 仏教に「色即是空」という言葉がある。私の好きな言葉で、よくこれを引用する。この世に存在するものは一切は空(くう)である。確かなものなど何もない。それが証拠に、あらゆることがらは疑えだせばきりがない。科学的な理論でも、時がたてば修正され、あらたな理論が現れる。

 近代合理主義哲学の祖といわれるデカルトは、徹底的に疑ってそのあげく、「疑っている自分」の存在だけは疑うことができないと気付いた。そして「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残した。しかしこれだって、そもそも「我」などというのもが本当にあるのかどうか、疑えば疑える。

 実際に仏教では「我」などというのは幻想にすぎないと考えているし、私が高校時代に出会った西田幾多郎の「善の研究」にも、「自己があって経験があるのではない。経験があって自己があるのである」と、先験的な自己というものを明確に否定している。私はこの一行に出会って、自己という狭い牢獄からの解脱感を味わった。そして哲学が好きになった。

 最近の構造主義の哲学も、自己などは幻想だとしている。人間の意識には自覚されない不可視の構造が存在して、そのなかで、はじめて人間の言語や行為が成立する。だから主体としての自己というものを認めていない。

 たとえば言葉について考えてみよう。いうまでもなく、言葉はそれを発する人間と、それが指し示す「事物」のあいだに存在している。そして、多くの人は、まず「事物」があり、これを指し示すものとして「言葉」が生まれたと考えるだろう。

 しかし、ソシュールは言葉によって名ずけられる前に「ある事物」は存在しないと考えた。それでは事物は言葉から生まれるのだろうか。ソシュールはそれも違うという。事物と言葉は同時に生まれたと考えるのである。

 言語においては「ある事物」と「名前」は分離できない。そしてここで重要なことは、全体的な言語体系(ラング)のなかで個々の言葉というものがはじめて意味をもつということである。

 たとえば犬という言葉がある。この記号一つに何か実体的な意味が宿っている訳ではない。猫とか人とか、他の多くの言葉との関係の中で、はじめて意味が生まれ、確定するのである。言葉にとって大切なのはこの「差異」だということになる。

 このことをソシュールは、言語記号の各要素は実体的に構造化されているのではなく、各要素と全体との関係、各要素間の関係によって構造化されていると考えた。すなわち、意識を持った主体が言語を操っているのではなくラングの体系のなかではじめて人間の意識があらわれるのであり、我々の意識はいわばラングという隠れた構造によって規制されている。

 もちろんラングと言えど普遍的な実体ではない。それは個々の人間と人間の集団のありかたを規定しながら、またその活動の影響を受け、歴史とともに変貌していく。人間の精神は言葉によって生み出された。しかし言葉を生み出したのも人間であり、人間という不思議な存在抜きで言葉は存在しない。


2002年02月10日(日) 人生を構想する力

 三木清(1897~ 1945)といえば、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、終戦直後に獄死した悲劇の哲学者だが、彼が晩年心血を注いだのは、ロゴスとパトスの統合によって、時代を超える創造的な知を構築することだった。そしてそのために大切なのは「構想力」だという。そのあたりのことを、彼の晩年の著作の『哲学ノート』でたしかめてみよう。

<解決を求められているのは到る処同じ問題である。私は数年来この問題をロゴスとパトスの統一の問題として規定してきた。ヒューマニズムはその本来の意図において全人的立場に立つものとすれば、かようなロゴスとパトスの統一の問題はまさにヒューマニズムの根本的な問題である>

<ヒューマニズムは単なる文化主義ではない。それはむしろ文化が身につくこと、身体化されること、或いは人間そのものが文化的に形成されることを要求している。それ故にここにもロゴスとパトスの統一の問題がある>

<かようにして我々は先ず知性と直観とを抽象的に対立させることをやめなければならない。西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である>

<新時代の知性は単に批評的でなく創造的でなければならない。創造的知性が今日の知性である。批評的な知性が分析的であるのに対して、創造的な知性は綜合的である。抽象的になった批評的な知性は、創造的になるためにパトスと結合しなければならない>

<固より知性がパトスに溺れてしまっては創造はないであろう。創造が行われるためには自然の中からイデーが生れてくること、パトスがロゴスになることが要求される。創造は知性のことでなくて感情のことであるといわれている。その通りであるとしても、創造にはロゴスがパトスになることか必要であるように、パトスがロゴスになることが必要である>

<しかし如何にしてパトスは口ゴスになり、口ゴスはパトスになることができるであろうか。パトスとロゴスの統一は如何にして可能であるか。ロゴスに対してパトスの意味を明かにすることに努めてきた私は、この問題について絶えず考えなければならなかった。そして私は遂に構想力というものにつきあたったのである>

<カントは感性と悟性の綜合の問題に面して構想力を持ち出した。構想力は、感性と悟性が抽象的に区別されたものとして先ずあって、これらを後から統一するのではない。構想力はそのような仕方で感性と悟性を媒介するのではない。媒介するものは媒介されるものよりも本原的である。構想力のこの本原性に基いて創造は可能である>

<知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を越えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている>

<すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である>

 三木が死んで半世紀以上がたった。今彼の著作を読み返してみて、少しも古くなっていないのに驚く。今私たちに求められているのは、ロゴス的なパトスであり、パトス的なロゴスであろう。ロゴスなきパトスは盲目であり、パトスなきロゴスは無力な蜃気楼でしかない。この両者を統合する創造的な知だけが、私たちの未来を明るく照らし出す。

 三木清が問題にしたのは、日本と世界の行方であった。戦時中の困難な状況下にあって、彼は未来を開く新しい知のあり方を徹底的に考えたのである。しかしロゴスとパトスの統一は何も哲学者の観念的な課題ではない。それは私たち一人一人の人生の実践的な課題である。大切なのは自分の人生を自分自身で構想し、実現することだろう。

(参考サイト)
 「哲学ノート抄」(日本ペンクラブ 電子文藝館)http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/mikikiyoshi.html


2002年02月09日(土) ポルノは心の活性剤

 人間の二大欲望といえば、食欲と性欲である。この二つの欲望をどう満たすかと言うことで、文明や文化が生まれた。そしてこのことは、過去も現在も将来もかわらぬ真実ではないかと思っている。

 食欲は健康のバロメーターだといわれる。同じことが性欲にもいえる。病気になったり、疲労やストレスが高じたりすると、食欲とともに性欲もなくなる。食欲や性欲がなくなるということは、生きていく原動力がなくなるということである。これはとても淋しい状態だ。

 健康な男であれば、だれしも露わな女性の肌に魅力を覚える。たとえ衣服を着ていても、やわらかな肉体の線を想像して興奮もするし、街を歩いていて、美しい女性とすれ違ったりすれば、「ああ、生きていてよかったな」と幸せな気分になる。

 こうした文章を毎日書いているが、そもそも私がインターネットを始めたのは、友人から「いまに規制がきびしくなって、エッチな画像が見られなくなるよ」とせかされたからだ。そんな怪しげな動機ではじめたわけだから、最初の頃は毎日エッチな画像を見ていた。仕事でいささか疲れて帰ってきても、ポルノを見ると元気が出てきた。ポルノが心の活性剤だったわけだ。

 それがこの数ヶ月、いちども見ていない。いつの間にか、こうした真面目な文章ばかり書くことに熱中するようになってしまった。こんなことでは男として淋しすぎる。北さんの奥さんに変人扱いされるわけだ。今日はひとつ初心にかえって、心の活性化と回春のために、インターネットでお宝探しでもしてみようか。


2002年02月08日(金) ポルノ論争

 最近北さんと「ポルノとは何か」ということを話し合った。その成果は北さんが書いた掲示板の文章を読んでもらえばわかる。ポルノの定義部分を引用しておこう。

「ポルノとは、性欲をそそる目的で、人間の一側面である性欲の世界をあたかもそれだけがすべてであるかのように描いた作品。たとえ性欲の世界を濃厚に描いていても、それが人間の一側面であることがしっかりとおさえられている作品はポルノではない」

 ポルノの定義としては、これでいいのだろう。ただこの定義の文章から、「ポルノは好ましくない」「ポルノは追放すべきだ」と性急な結論を出してもらってはこまるということだ。ポルノ大好き人間の私は、むしろポルノを積極的に容認した定義はないものかと思案中である。

 最近「ショコラ」という映画を見て、深い感銘を受けた。古い因習の支配する村に母と娘の親子がやってきて、チョコレート屋を始める。まるで村の雰囲気にそぐわない二人は、最初から村八分のような扱いをうける。

 村を支配しているのは厳格な信仰に生きる村長さん。日曜日の教会の説教の文章を彼が若い牧師に代わって書いて、牧師に読ませることで、自分の思うように村人の心をマインドコントロールしている。彼にとって、チョコレートは村人の純朴な心を蝕む悪魔の誘惑のようにしか思えない。そして彼は自分の禁欲的なスタイルを村人に強要する。

 しかし、村にも彼の意のままにならない落ちこぼれや変人がいる。そうした人たちがチョコレートを食べることで、精神の自由に目覚めていく。そして、少しずつ、村の雰囲気を変えていく。最後、ようやく若い牧師が、教会に集まった人々を前にして、自分の言葉で説教をする。

「大切なことは私たちが何を禁止し、排除するかではなく、何を受け入れ、容認することができるかということではないでしょうか。こうした寛容さこそ、神の愛に一番近いのではないかと思います」

 折りしも、児童ポルノ規制法が改正されるという。BeerDrinkerさんが書き込んでくれた文章によると、改正の問題点は主に次の2点だという。
① CG、絵画、イラストなど、実写以外も対象とする
② 単純所持も処罰の対象とする

「若い女の子のHなイラストや漫画なんて、どこの家にも1冊はありそうなもんです。身内が出場した中学の水泳大会を撮影して、水着の女子が写った写真を持っていたら御用、なんてこともあるかもしれません。同法の定義があまりに曖昧ですので、解釈次第で別件逮捕の可能性は無限に大きくなります」

 私は児童ポルノの愛好家ではない。しかし、児童というのは18歳以下だと言うから、中学生や高校生もはいる。我が家のアルバムには水着姿の娘たちの写真が貼ってある。これもポルノということになるのだろうか。私ももちろんこの改正に反対したい。

(参考サイト)
「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の概要」
 http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen/gaiyo.htm


2002年02月07日(木) 文化にひそむ論理

 精神はどこに宿るかと言えば、それは人間の肉体であろう。人間以外にも、たとえば計算機の電子回路にも発生することがあるかもしれないが、そうしたSFの話は考えない。またここで精神というのは「理性的な意識」のことである。

 たんなる意識なら、犬や猫も持っているかも知れない。しかし、理性的な意識となると、人間に特有な現象だといえるだろう。また一方で動物と人間を区別するものとして、言語の使用をあげることができる。そこで、ひとつの仮説として、精神は言語のなかに宿るということが考えられる。

 ギリシャ語のロゴス(logos)には本来「理性」「真理」という意味があったが、ギリシャ人も理性や真理が「言葉」の中に宿ると考えたようだ。そして「言葉」もまた同じロゴスの名前で呼んだ。現代ではロゴスと言えば、一般には言葉や論理を意味するようになった。

 ロゴスを「やまとことば」で表現すれば「ことわり」であろうか。それは事柄そのものに内在する秩序とか法則を意味する。同時に、それは「ことば」の法則や秩序とも不可分にむすびついている。「論理」と呼ぶほどの明確な言語意識はなかったものの、言語におけるロゴスという観念の芽生えは感じられる。

 言葉によって規定された人間の精神が論理的だとすれば、その精神が作り出した文明や文化もまた論理的だということができる。こうした言語学的なアプローチから、現代の文化人類学や「構造主義」の哲学・思想が構築された。つまりあらゆる文化現象の深層に言語的な論理構造を考えるのである。

 そこで当然、日本文化の深層を日本語の構造の中に探ってみようという研究が行われてもおかしくはない。またそうすることで、「天皇制」をはじめとする日本の政治構造を明らかにすることができるかも知れない。すでにそうした研究がなされていれば、日本文化を考えるときの参考にしたいものだ。


2002年02月06日(水) 論理的な文章の魅力

「日本語は論理的ではない」などということがいわれる。ここで使われる「論理的」というのは、「つじつまがあっていて、曖昧さがなく、正確である」というくらいの意味だろう。

 たしかに日本人は曖昧で情緒的な表現を好む。しかし、日本語そのものが論理的でないというのはどうだろうか。日本語で書かれた文章には論理的なものもあるし、そうでないものもあるというべきだろう。論理的であるかどうかは、その使い手の態度や能力によるところが大きいように思う。

 科学者や数学者の書く文章が論理的だとしたら、それは科学や数学が何よりも論理を重んじる学問だからだろう。これにたいして、文学者の書く文章はときには空想的であり、非論理的な表現が目立ったりする。哲学者や宗教家の書く文章にもたまに、「絶対矛盾の自己同一」とか、「火もまた涼し」だとか、わけのわからぬものがある。

 ところで論理的な文章はわかりやすいかというと、一概にイエスということができない。論理的な訓練を受けた人間にとってはわかりやすいが、そうでない人にとっては難解に見えるかも知れないからだ。論理的な文章は専門的になるにつれて、様々な抽象的な概念を用いる。概念の意味が分からなければ、文章の理解はおぼつかない。

 しかし、一般に論理的な文章は明晰である。難解であるといっても、非論理的な文章の持つ難解さとは違って、知識や情報をたくわえ、筋道を立てて考える努力をすればわかるようになる。抽象的な概念も、使っているうちに親しいものになり、イメージが浮かぶようになる。イメージが浮かぶということは、それが抽象的な存在から、具体的で現実的な存在へと変貌し、思考の道具として成熟したことを意味している。

 日本語を学ぶということのなかに、日本語におけるこうした論理的表現力を高めるということを含ませたいものだ。そのために必要なのは、論理的構成のしっかりした文章を読ませることだろう。いきなり高度なものではなく、身近な問題をあつかったものがよい。ごくありふれた現象でも、これを論理的に考えることで、また別の真実が見えてきて、眼からウロコと言った思いがけない発見をすることがある。

(たとえば、「日本語が見えると英語が見える」などの著書を読むと、身近な日本語についての、こうした楽しい発見が味わえる)


2002年02月05日(火) イメージの魔力

 イメージは人間を動かす。だから、人を支配し、世論を動かすために、政治家や独裁者はイメージのこの魔術的な力を利用しようとする。私たちはイメージを使う必要があるが、これに支配されるべきではない。

 しかし、往々にして、私たちは誤ったイメージの虜になり、これに心や行動を支配されている。世の中にはこうしたあやまった偏見や先入観が横行している。その結果、思いも寄らない惨事が生じることがある。

 たとえば、ブッシュ大統領は一般教書でテロとの戦争を訴え、北朝鮮、イラン、イラクを「悪の枢軸」だときめつけた。こうした言葉によって、悪のイメージを作り上げ、世界の世論を動かそうとする。しかし、そうしたイメージがどれだけ現実を反映しているのか、必ずしも明らかではない。

 イメージは「論理」と「感情」の成分を持つが、ここで大切なのはその論理的な側面である。もう少しはっきり言えば、イメージがどれほど正しく現実を反映しているか、それは「論証」と「実証」によって明らかにされなければならないということだ。「論証」と「実証」という二本足で立つことで、イメージは単なる幻想や妄想から区別される。

 もっとも釈迦によれば、すべて人間の考えることは多かれ少なかれ妄想であり、幻想である。イメージも又、迷妄の一種には違いない。イメージの魔力から自由になるためには、時には「色即是空、空即是色」という「空」の立場に立って、いくらか醒めた目で世の中を眺めてみることも必要だろう。


2002年02月04日(月) ほほえみの力

 仏像が作られたのは、紀元1世紀頃のインド北西部(現在のペシャワール)だという。ギリシャ彫刻の影響を受けてガンダーラ芸術が華開いた。そして、紀元2世紀にはタリバンに破壊された55メートルもある世界最大の石仏が作られた。作られた当時は黄金色に輝いていたという。随分壮観だっただろう。ジンギスカンも玄奘法師もこれを仰いだはずだ。

 日本に仏教が伝わったのは6世紀に入ってからのようだ。日本書紀には「欽明天皇の13年冬10月、百済の聖明王は西部姫氏、達率怒利斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻くを献る」とある。

 このとき、仏教の受け入れに賛成したのが蘇我稲目で、物部尾輿と中臣鎌子は、「異国の神をまつれば、国神の怒りをかう」と反対した。欽明天皇は「試みに、稲目に仏像をまつらせてみよう」といって、稲目に仏像をあずけたという。

 稲目は邸宅に仏像を安置し、礼拝していたが、やがて疫病が流行し、死者が出た。それみたことかと、排仏派の物部尾輿らは蘇我氏を襲い、仏像を難波の堀江に捨ててしまったのだという。

 しかし、その後、蘇我氏はすぐに勢力を盛り返して、物部氏を破った。仏教は公式に認めれられ、寺院や仏像もさかんに作られた。仏像の作者として止利仏師が有名だが、その素性はわからない。多くの仏像が作者不明である。

 日本で仏教がこれほど迅速に受け入れられたのには、仏像の力が大きいのではないかと思う。難しい経典や僧侶の言葉はわからなくても、仏像は眺めるだけでその気高さ、美しさがわかる。

 仏像を眺めると、仏典に説かれた仏や菩薩の理想の境地が、そこに人間の表情として生き生きと立ち現れてくる。知恵と慈愛に満ちたそのしずかな表情に、人はだれしも心を揺さぶられ、感動するだろう。

 とくに、私が心を惹かれるのは、「微笑」の美しさである。日本の仏像の多くはほほえんでいる。そして半眼に開かれた目は、はるかな遠くを見ている。アランは「幸福論」のなかで、人を幸福にするのは微笑だと述べたあと、こんな風に書いている。

「憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。遠くをごらんなさい。・・・人間の眼ははるか水平線を眺めるとき、やすらぎを得るようにできている。そのことはわれわれに大いなる真理を教えているのだ」(アラン「幸福論」第51章)

(参考サイト)
    古代文明の交差点ガンダーラ


2002年02月03日(日) イメージの力

 単なる理屈や概念では人は動かない。なぜなら人間は感情の動物だからだ。理屈や概念は頭(マインド)の産物である。これにたいして、感情や感性は心(ハート)の領域だ。文学作品を読んでいて感動するのは、心が動かされるからだ。

 しかし、論理と感情はまったく別物ではない。論理は感情によって支えられ、感情は論理によって支えられている。そしてこの両者はただ支え合うだけではなく、統合されてひとつの共同作品を作りだす。私はそれが「イメージ」だと思っている。

 たとえていえば、イメージは円錐である。円錐は横から見れば三角、上から見れば丸にみえる。論理を△とすると、感情は○、そしてこの両者を立体的に統一したものがイメージだと言える。このように、イメージの中には論理と感情、理性と感性の両方が含まれていて統一されている。

 ものがわかるというのは、このイメージがはっきりするということだ。絵が描けるかどうか、それを立体的に心の中で対象物として捉えることが出来るかどうか、そうして頭と心の両方で納得しなければ、ほんとうにわかったことにはならない。

 学習において大切なことは、単なる知識の断片を覚えることではなく、それを一つの世界として構成することだ。その世界をただ知識や概念として捉えるのではなく、生きたイメージとして心に描けるかどうか、このことが学習の成否にとってもっとも大切なことなのである。

 たとえば、「原子」について考えてみよう。原子は原子核と電子によって構成されていると中学校の教科書に書いてある。原子の種類によって電子の数は決まっており、それが原子の化学的性質を決めている。こうしたこまごまとしたことをすでに小学校や中学校で私たちは学習する訳だ。

 ところが、先日の日記でも引用したが、教育科学省の調査によると、日本人で「電子は原子よりも小さい」という問題に○とこたえた人は30パーセントしかいなかった。「原子核の回りを電子が回っている」という「原子のイメージ」を持っていれば、この質問に答えることは簡単だろう。

 調査結果から言えることは、日本人は科学知識をイメージとして捉えることができていないということだ。ただ断片的な知識を羅列するだけでは、それは本当の生きた知識とは言えない。そうした知識は数年もすればきれいに忘れ去られるだろう。これに対して、自ら考えて関連づけ、イメージにまで統合された知識は、心の中に生き続け、いつでも実践的な知識として活用できる。


2002年02月02日(土) いちばん身近な仏様

 私たちに一番身近な仏様は、何と言って地蔵菩薩だろう。私たちはこの菩薩のことを「お地蔵さん」と呼び、昔話や絵本にも一番よく登場する。他の菩薩がいかにも貴い「菩薩形」をしているのに、地蔵さんだけは普通の質素な僧衣をまとっている。そしてときには童子のすがたで、誰が着せたのか赤いよだれかけをつけて、道端にのほほんと立っていたりする。

 とてもひとかどの偉い菩薩とは思えないが、ところがこのお地蔵さんは実は菩薩であると同時に仏様でもあるらしい。釈迦が入滅した後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現する。そのあいだ、末法の世に迷っている人々がかわいそうだというので、自らすすんでこの世にきてくださった化身仏なのだという。

 つまり、お地蔵さんは、遠い過去や未来の仏ではなく、今現在、私たちの悩みや哀しみを救って下さる「現在仏」だ。だから、飾らない活動的な姿でどんな場所にもあらわれる。六道(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)の一切衆生を救うので、六地蔵と呼ばれたりする。「身代わり地蔵」と呼ばれるように、いつも、衆生の苦しみをわが苦しみとして受け止めてくださるありがたい仏様なのだ。

 お地蔵さんは、サンスクリット語で「クシティガルバ」といい、「大地を守り育むもの」という意味だそうだ。空を象徴する虚空蔵菩薩に対して、地蔵菩薩は地を象徴する。『リグ・ヴェーダ』には「両神は歩むことなく、足なくして、歩み足ある数多の胎児を受容せり、肉身の息子を両親の膝に受くるがごとくに、天地両神よ、我等を怪異より守れ」と歌われているという。


2002年02月01日(金) 十一面観音の魅力

 北さんたちと琵琶湖湖畔にある高月町を訪れ、渡岸寺と立石寺の十一面観音さまを拝んだのは去年の11月3日のことだ。明くる日の日記に、私はこうかいた。

「渡岸寺の観音さま(国宝)は気品がただよい、匂うような美しさだった。立石寺の観音さま(重文)は唇がほのかに赤くて、いかにも庶民的でほのぼのしている。対照的な美しさを持つ二体の観音さまを間近に拝めて、ほんとうに満ち足りた思いで、雨の高月町をあとにした」

 ちなみに、十一面観音はインドで誕生し、サンスクリット語で、「エーカーダシャムカ」(十一の顔を持つもの)という。玄奘の漢訳した「十一面神呪心経」によると 十一面観音像は以下のように定義される。

「左手は紅蓮華を挿した水瓶を持ち、右臂を伸ばして数珠を掛け、施無畏印を結ぶ。頭は前の三面を慈悲相に、左辺の三面を瞋怒相に、右辺の三面を白牙上出相に、後ろの一面を暴悪大笑相に、頂上に仏面を作る。各面の冠に仏身を作る。菩薩の身体には瓔珞など種種の荘厳を具える。」(日本の美術 4「 十一面観音像・千手観音像」)

 旅から帰り、折に触れて、これらの観音菩薩のことを調べたり、いろいろと考えてみた。それにしても、この十一面観音というのは、何という不思議な姿をしているのだろう。観音様でありながら、怒りや笑いや様々の表情をした顔を持っているのは何故だろう。たとえば、一般的に次のような面を持っている。

 本面 ------菩薩本来の慈悲の相
 頂上仏面---究極の理想としての悟りの相
 化仏-------十一面観音が仏の慈悲の心を実践する菩薩であることを示す
 菩薩面-----善い衆生を見て、慈悲の心をもって楽を施す
 瞋怒面-----悪い衆生を見て、怒りをもって仏道に入らせる
 牙上出面---清らかな行いの者を見て、讃嘆して仏道を勧める
 大笑面-----善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導く

 こうしたことから、十一面観音の姿は、「十界互具」で説く「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天・声聞・縁覚・菩薩・仏」の姿ではないかと思われてきた。そして「一念三千論」の解説を書いたりしたのだが、今日は、そのことについて、もう少し補足しておこう。

 観音はいうまでもなく菩薩の境涯にある。しかし、「十界互具」ということがあり、菩薩の境涯のなかにも、十界が備わっている。つまり、菩薩であっても、修羅の相を帯びたり、ときには地獄の相を帯びることがある。そしてまた、仏の相も帯びる。

 それは母親が子供を叱るときの表情にも似ている。子供を思う母親の境涯は菩薩の位だと言ってもいいだろう。その母親が子供を叱るとき、声を張り上げ、ときには修羅の相を帯びる。また、子供の安全を脅かそうとする邪悪な存在については、怒りの相を帯びる。

 このことは仏であっても同じだろう。どんなに高い悟りを開いた人でも、時には怒り、哀しみ、そして笑うときもあれば、泣くときもある。十一面観音の不思議な魅力は、こうした菩薩や仏の変幻自在で自由な精神の姿を写しているのではないかと思うのである。


橋本裕 |MAILHomePage

My追加