橋本裕の日記
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2003年11月30日(日) 存ることをたのしむ

 先日、大和路の旅の途中、北さんに「倫理という力」(前田秀樹著、講談社現代新書)という本を見せられて、電車の中で一気に読んでしまった。倫理についてのむつかしい話かと思いきや、トンカツ屋の親爺の話から始まって、法隆寺の宮大工の話、映画「東京物語」の解説、そして本居宣長まで出てくる。そして実にわかりやすく具体的に「倫理的」ということのほんとうの意味に迫っている。そのさわりとなる部分を引用してみよう。

<私たちは、生きて効率よく振る舞い、あらゆるものを自分の生活上の都合に合わせて知覚している。ここでは、自分が主人であり、より強力な主人であるための工夫は何でも取り入れる。そうやって、私たちの科学はここまできた。だが、私たちの眼と耳とは、同時にいつでもそれとは反対の方向に自分を開く可能性をもっているのだろう。真夏の海水浴場でふと聞こえるあの静寂は、実は静寂ではない。静寂を聞くとは、おかしなことではないか。聞こえているのは、宇宙の声である。私たちのすべての行動と無関係であり、しかも私たちのすべてを含んで流れている「在るもの」の声である。>

<そんな声を、私たちはしばしば聞き、聞いたとたんに捨てていく。行動の邪魔になるものを何でも捨てていくのは、生き物の常だ。けれども、一体どうしたわけか、そういうものを懸命に拾い集める人間たちがいる。・・・彼らは、今日では芸術家と呼ばれているが・・・最も根底的な芸術は、常に倫理的なものである。なぜなら、そこには「在るもの」の前に身を屈める最も熟慮された、厳格なやり方があるから。>

 この本の内容について、北さんがHPの雑記帳に「ものの役に立つこと」「在ることを愛すること」と題して二回に分けてすばらしい紹介文を書いている。上の文章も北さんが引用したものを孫引きさせてもらった。あえて私が蛇足を加えることもないのだが、前田さんの文章を北さんの解説から孫引きしながら、私なりの感想をここにいくらか書き残して置こう。

<小津の映画を形式美のお遊びのように言うのは、愚かなことである。むしろ彼の映画は、倫理への欲求に満ちていると言ったほうがよい。ただし、この倫理は、行動よりは観想に向かう。生活するよりは「在るもの」に向かう。・・・行動や生活や政治のなかに探し回る倫理よりも、もっとはるかに根源的な倫理がある。宇宙に置かれる生の態度とでも言えるものがある。それは「在るもの」への黙した信仰と常にひとつになったものだ。>

 この文章を読みながら、私の脳裏に浮かんだ一つの映画がある。サタジット・レイ監督の「大地のうた」である。なんでもない一つ一つのショットが心に迫ってくる。<行動や生活や政治のなかに探し回る倫理よりも、もっとはるかに根源的な倫理がある>ということは、「大地のうた」においても文字通りあてはまると思ったのだ。

 ビットゲンシュタインといえばラッセルが高く評価した哲学者だが、「世界がいかにあるかではない。世界が在るということ自身が奇跡である」と言っている。アリストテレスは哲学とは「驚き」から始まると書いている。私は哲学とは「在ることの驚き」から「在ることの愛へ」そして「在ることを楽しむ」生き方へと人を差し向けるものではないかと思っている。しかしそれはいかにして可能か。

<知性は生物上の個体が有用に行動するためのひとつの能力にほかならない。個体のこの能力が最初に育てる知恵は、道具を使用する「物の学習」から来ている。物の性質に入り込み、その性質と共生して進む知恵こそが、知性から育つ最初の知恵である。「人と人との間」に適用される知恵が、これとはまったく別ものであるはずがない。道具を使用して行動する知恵が、自分の外でぶつかる抵抗物は、単なる物体ではないだろう。釘を打つべき板一枚からして、すでにそれは変化する微妙な性質である。このような性質の無限の連続変化は、知性が立ち向かう世界の全体をいっぱいに満たしている。「他人」もまた、そこに現れるひとつの抵抗物、おそらくは最も複雑な抵抗物なのではないか>

<・・・役立たずとは、物の性質が分からない、性質の差異が一向見分けられない、ということと同じ意味である。反対に、ものの役に立つとは、物の性質がわかり、さまざまな性質の差異を見分け、要するに「物の学習」に長じていることと同じ意味のように思われる。だが、それだけではない。この学習に長じる者は、「人と人との間」を生きる知恵にすぐれる者である。なぜなら、この学習にとって、物と人とは同じように外に在る外部の抵抗物であるから>

<儒学者流の道徳の不要を唱えた本居宣長は・・・善悪是非を賢げに論じて道徳を説く輩に、ものの役に立つ人間は1人もいないと考えた。人間には道徳などいらない、ものの役に立つだけで充分である。その知恵を深くする努力があるだけで充分である。なぜなら、その行為のなかには「事の心」「物の心」を知る能力のすべてが備わっているからだ。宣長はこう言っている。「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其のよろづの事を、心にあじはへて、そのよろづの事を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀れをしる也」このことに付け加えるべき道徳はない。>

<・・・西岡が感嘆するのは、こうした樹木の性質を、あるいはそこに生じる性質の無数の差異を、飛鳥時代の工人たちが知り抜いていたことである。たとえば、一本の柱が千三百年間まっすぐ立つためには、その柱と他のあらゆる木材との性質の差異が見分けられなければならない。木を組むとは、こうした差異のねじれや抑揚を堂塔という目的のために厳密に関係付けることである。・・・飛鳥時代の工人にはそれができていた。しかし、鎌倉期の建築となれば「木に学ぶ」この知恵はもう消えていると、西岡常一は言う。>

<「わたしどもは木のクセのことを木の心やと言うとります。風をよけて、こっちへねじろうとしているのが、神経はないけど、心があるということですな」
西岡常一の言うこの「心」は、宣長の言う「物の心」とほとんど寸分変わりない。これは時代遅れの比喩などではない。科学が跡づける明確な事実である。宮大工の棟梁には多くの大工を指揮して「木のクセを組む」という実際上の仕事があり、クセが見分けられなければ、彼の仕事はあからさまに失敗する。けれども「木のクセを組む」仕事は、多くの大工なしには決して行えない。一人の宮大工は何者でもない。そこで、木のクセと同じだけ多様な大工のクセ(腕自慢の大工ほどクセが強い)が、木のクセを組むことになる。棟梁は言う。「木のクセを見抜いてうまく組まなくてはなりませんが、木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません」。「木の心」と「人の心」とじは、同じ抵抗物だと言うのである>

 ラッセルは井戸掘り人の幸福について、<彼の仕事は井戸を掘ることだった。とてつもなく背の高い男で、信じられないくらいたくましい筋肉をしていた。読むことも書くこともできなくて、1885年に国会議員の選挙権を得たとき,初めて国会というものの存在を知ったのだった。・・・彼の幸福は、体力に恵まれ、仕事が十分にあり、岩石という形のなんとか克服できる障害にうち勝つことに基づいていた>と「幸福論」に書いている。そしてこうも書く。

<幸福な人は人格が内部で分裂もしていないし、世間と対立もしていない。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクトルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。また、自分のあとにくる子孫と自分は別個な存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない>(17章 幸福な人)

「在るものを愛し、在ることを楽しむ」、そのような生き方が本当の幸福に人を導く。そしてそのような生き方こそ最高に「倫理的な生き方」である。そのような生き方ができるかどうか、これは知識の問題というよりは、感性の問題であり、生き方の問題だと思う。そしてこのことはすでにアリストテレスが「善とはそのものの本性・自然(ピュシス)を最高に活かすことだ」(ニコマコス倫理学)と明解に書いている。

「在るものの声に耳をかたむけ、在ることの喜びに身を置く」という生き方、それは同時に、最澄のいう「一隅を照らす」という生き方であり、宇宙市民としての生き方だと言ってもよい。以前、私はこのことについて集中的に思索したことがある。「人間を守るもの」の中から、「今、ここで豊かにいきるということ」という文章を最後に引用しておこう。

<真人であるということは、明るく澄んだ美しい志を持って、自己と世界について深く体験することです。良寛も仙桂和尚もそれぞれの時代に、それぞれの場所で、真人として豊かな生涯を終えました。我々にとって大切なのは「今」「ここで」、自分の平凡な生を精一杯生きるということでしょう。世界の人口の半分が飢えているこの時代に、経済大国に生まれた我々が何をなすべきか、地球市民として如何に生きるべきかと言った問題から、当面する身近な社会問題にいたるまで、今ここで自分に何ができるのかを具体的に考え、そして出来ることは例えどんな小さなことでも、勇気を持ってそのつど実践することです。実存とはこの一つ一つの投企であり、実践です。そしてこのささやかな実践の積み重ねのみが、私たちに新しい自己と世界をもたらします。人間は自然と社会に守られてその生存を恵まれています。しかし、人間は単に肉体的存在ではありません。精神としての人間をその根底で支えるもの何であるかは、結局のところ、こうした実践を通して各人が「了解」するしかないのです>

(参考サイト) 「北さんの雑記帳」
   http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm


2003年11月29日(土) 初秋

5.病院にて(2)

 入り口に近い二つのベッドに寝ているのは初老の男性と、中年の女だった。二人とも意識は回復していたが、顔に生きた表情がなかった。さきほど修一が病室に入っても、二人とも気付く様子はなく、初老の男性はぼんやりと口を開けて天井を見ていた。中年の女性は薄目を開いたまま寝息を立てていた。

 窓際に近く、島田と向かい合って、もう一人、中学生の少女が眠っている。彼女も交通事故で運ばれたらしいが、島田よりも重症で、事故から一年が経っても、まだ意識が戻っていなかった。

 修一の耳に届いた「寒い」というかすかな風の音のような言葉は、その少女の口から漏れたのだろうか。意識はなくても寝言くらい言うかも知れない。使わなければ声帯も退化して、声がかすれるだろう。

 窓からはそよ風が吹き込んでいたが、肌に触れた風はなま暖かいくらいで、寒いわけはない。しかし、修一は念のため病室の窓を閉じて、胸の上まであった彼女の毛布を、肩先まで伸ばしてやった。

 少女がふたたび何か口にするかと思って、修一は少女のあどけない顔を見守った。一年間も眠り続けているだけあって、少女の顔は青白かった。しかし肉体は育っているらしく、手術のために丸坊主にされた髪もすっかり伸び、唇は赤く色づき、胸の膨らみも目立ってきた。看護婦の話によると、すでに月の訪れもあるようだった。

 しばらく見守っていたが、少女は表情をかえなかった。小さな蕾のような唇から言葉が洩れることもなかった。修一は少女の枕元の花瓶が空になっているのに気付き、そこに持参した花を活けることにした。


2003年11月28日(金) 初秋について

 今日は「初秋」の5回目を連載する予定だったが、どうも小説が書けそうにないので、お休みにする。小説が書けない理由は、時間がないためでも、健康状態が悪いためでもなく、「空腹」のためである。

 私は毎朝4時に起きて、まずはコーヒーを一杯飲む。これは牛乳をたっぷり入れてあり、栄養満点である。そしてやおらコンピューターの前に坐り、メールをチェックした後、1時間ほどかけて「日記」を執筆する。これをこの5年間近く毎朝繰り返してきた。

 ここで大切なのは、執筆の前の一杯のコーヒー牛乳である。これがないと、何だか調子が出ない。ところが、今日はこれが飲めない。コーヒーが切れたわけでも、牛乳がないわけでもない。ある理由から飲めないのである。

 実は今日は病院に行って検査を受けなければならない。「検査が終わるまで飲食をしないで下さい」ときつくいわれた。だから飲めないのである。飲めないとなると、急に喉がかわいてくる。そして空腹まで覚える。これではろくな文章は書けない。書けるのはせいぜいこんな駄文である。

 もう一年も前から高血圧で苦しんでいる。病院に行き、高血圧の薬を飲んでいるが、それでも最近またじりじりと高くなってきた。薬を飲んでいるのに上が150に迫っている。さらに、血尿がとまらない。そこで「一度腎臓の検査をしてください」という仕儀になったわけだ。今日の9時に予約がとってある。このため、学校も年休をとって休むことにした。

 ところで、肝心の「初秋」についてだが、連載にあたり、以前掲示板に書いた文章があったはずなので、それを探し出してきて、ここに再録しよう。

<小説を書くたのしみ 橋本裕 2003/11/11 05:50 >

「こうもりの空」読んでいただいて、ありがとうございました。小学6年生の時、しばらく屋根裏生活をしました。そこでこうもりと友だちになった。こうもりは今でも大好きです。それから、ジフテリアにかかり、隔離病棟での毎日。そこ出会った「夜は千の目をもつ」という詩もまた、私の中に生涯に残る印象を刻みました。いろいろな経験をして、人間は成長していくのだと思います。

「初秋」はまったく架空の話です。主人公は50歳に近いサラリーマン。親友が交通事故で脳障害におちいり、記憶喪失になる。その友人の記憶を取り戻そうと奮闘する話です。結末はちょっと意外ですが。ほろ苦い人生の真実を描けたらと思っています。


2003年11月27日(木) 携帯を持ったサル

 北さんがHPの雑記帳に<絶望的な「家の中主義」の蔓延>と題して、ケータイに普及にともなう若者の感性の荒廃に苦言を呈している。

<メールが打てる、写真撮影が出来る、ゲームができる、こんな便利な「遊具」が携帯できて四六時中それで遊べるわけだから、どうして、自然を観たり、異質な他者と接したり、自分に合わない雰囲気に耐えたり、自分の好きなこと以外の話を聴いたり、退屈さに耐えて本を読んだりする気持ちになるだろうか。>

<最近出た面白い本「ケータイを持ったサル」によれば、ケータイでどこであれ声高にしゃべる者、靴をスリッパばきする者、車内で化粧する女性、ジベタリアンの若者などは、「家の中主義」という家の外に出ることを拒絶している者であるという。彼らには、外界と接して自分の世界を広げ、異質な他者と共存して美しい社会を作ろうという発想自体がない。自分の家の中のような感覚で、あらゆる場所で安楽に過ごすことに何の疑問もないのだ。>

<ケータイというものを持つ若者の教育に絶望している。感性の核が確立しているハイレベルな若者は別だが、大部分のまだ未確立の若者がケータイを持ち出した時点で、私はもう、ケータイを取り上げること以外どんなことをしてもその若者の感性をマトモにすることは出来ないと思っている>

 テレビゲームやケータイが発育途上の若者の脳にどうした影響を及ぼすか、私はかなり悪い影響を及ぼすのではないかと懸念している。ケータイが「家の中主義」を蔓延させているという指摘もうなづける。こうした認識が親や教師に広まり、<ケータイを取り上げること。外部の強力な力でそれを行わない限り、絶望的である>という危機感が共有されれば、そこから「子供に携帯を与えない」というまとな社会通念や規範が定着するのではないかと思う。

 私はケータイを蔓延させている要因として、野放図な商業主義の放置があると考える。次々と新たな商品を開発し、若者達の購買欲を支配し、これに乗り遅れないとする若者達の行動を誘発している。ケータイに限らず、今日さまざまな商品がわたしたちを取り巻き、感性や理性の頽廃を生んでいる。ケータイの普及はこうした社会的風潮の一つだと考えることが出来る。そうすると、この問題はただ<外部的な強力な力で携帯をとりあげる>だけでは解決しないだろう。もっと根本的な対策や解決法を考えなくてはならない。

 とくに大切なのは、幼少年期を通して、まともな感性を育てるということだ。これが育っていればケータイ中毒に陥り、ケータイ依存症になることもないだろう。ケータイを情報収集や発信の便利な道具としてあつかい、生活に役立てることもできる。私のまわりには、そのような若者が少なからずいる。私の娘達も高校時代から携帯を持っているが、「家の中主義」に陥ることもなく、ケータイ依存症でもない。

 人間の感性の核は、幼少期の生活によって作られると言われている。私自身の経験からしても、小学生くらいまでの生活体験が感性のベースを作っている。この期間にいかに自然と親しみ、人々と豊かなコミュニケーションの場を持つかということである。こうした幼児期の教育環境が大切だ。子供たちにこうした豊かな環境を与えることが、私たち大人の責任ではないかと思っている。


2003年11月26日(水) 動物はレイプをするか

 私は現在高校で数学を教えているが、もともとは物理学が専攻で、生物や化学を教えていたこともある。生物を教えていたころに「進化論」に大変興味をもち、ダーウインの「種の起源」(岩波文庫)なども読んでみた。

 進化論もいろいろな説があり、勉強してみると興味が尽きない。最近共感したのは朝日新聞の文化欄に載った、東京大学大学院教授の西垣通さんの「共生システム」についての文章だ。

<共生というのは生物の本質的活動である。たった一つの細胞でさえ、ミトコンドリアという「異種生物」と共生しなくては生きられない。そして、われわれのような多細胞生物は、各細胞が生きるために協同しているのだ>

 先日、NHKの「ふしぎ大自然」を見ていて、動物の求愛ダンスの面白さについ笑ってしまった。エイのオスは水面高く飛び上がることで求愛するが、メスはオスに競わせて、そのなかから気に入ったオスを選ぶ。選ばれたオスはメスに腹を見せてメスの下に潜り込み、メスを上にして二匹がお腹とお腹をあわせる。

 魚の中には求愛行動が入れられないと、メスに噛みつくオスがいる。噛みつかれたメスはじっとしていますが、そうしてオスが油断した瞬間、反対にオスに噛みつき返し、オスの方が降参するシーンもあった。番組の副題の「男はつらいよ」というのが、なんともユーモラスで、面白かった。

 昭和大学医学部の先生が論文をでっちあげて教授になったそうである。生物学の分野でも、強姦だとかレイプだとか物騒なことを自然界に持ち込んで、「動物もレイプをする」などという論文を書く学者やジャーナリスト(たとえば週刊文春(11/20)掲載の竹内久美子さん)がいるが、こうした諸先生方にもぜひ見て貰いたい番組だと思った。

 私は動物の世界には基本的にレイプはないと考えている。そこにあるのは、<生殖>のための自然な行動だ。それを強姦と見るのは、人間の勝手な空想だろう。<生殖>のためではなく、性欲だけで、あるいは性欲よりも歪んだ支配欲のために、相手を傷つけて快感を得る、あるいは抑圧から解放されたくて憂さを晴らすということは人間(狂ったサル)だけが行う利己的な野蛮行為だと思っている。最後に、私の好きなホイットマンの詩をひとつ。

 ぼくは道を転じて、動物たちとともに暮らせるような気がする
 彼らはあんなに穏やかで、自足している
 ぼくは立って、いつまでもいつまでも、彼らを見る
 彼らは、おのれの身分のことでやきもきしたり、めそめそしたりしない
 彼らは、暗闇の中で目覚めたまま罪を悔やんで泣いたりしない
 彼らは、神への義務を論じたてて、ぼくに吐き気を催させたりしない
 一匹だって、不満をいだかず、一匹だって、物欲に狂っているものはいない
 一匹だって、仲間の動物や何千年も前に生きていた先祖にひざまずくものはいない
 一匹だって、お上品ぶったり不幸だったりするやつは、広い地球上のどこにもいない
  (「ぼく自身の歌」より)

(参考)「橋本裕、共生論入門」
 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/kyousei,.htm


2003年11月25日(火) 美にひそむ√

 法隆寺を案内してくださったガイドさんから、法隆寺の内陣が1対√2の長方形をしていることを教えられた。この√2(約1.414)という数字は、五重塔の庇の比にも使われているそうである。つまり最上階と最下層の庇の一辺の長さの比が1:√2になっている。

 インターネットで調べてみると、有名な聖徳太子と二人の皇子の肖像がにも使われていて、太子と皇子の身長比が1:√2になっているという。このように、古来より日本の文化には1:ルート2の関係が多く見受けられという。

 長方形の短辺を1として、長辺をルート2にした長方形を「ルート2長方形」と呼ぶが、これは二等分しても再びルート2長方形になっているという特殊な性質を持っていて、紙の規格に用いられている。たとえば、B4の用紙は二等分するとB5の用紙になる。A3の用紙は二等分するとA4の用紙になる。これは辺の比が1:√2になっているからだ。

 1:√2という関係性がどこからきたものか、いずれ時間ができたら調べてみたいと思っているが、これによく似た比例数に黄金比がある。ある線を二分したとき、小さい部分と大きい部分との比が、大きい部分と全体との比に等しくなるような分割を黄金分割といい、その比を黄金比という。黄金分割は線分を 1: (1+√5)/2(約1.618)に分割し、とくに縦と横がこの比を持つ長方形を黄金長方形という。

 これは人間がもっとも美しく感じる長方形とされており、古代エジプトのピラミッドやギリシャのパルテノン神殿、ミロのビーナス、モナリザなどがこの黄金比で構成されている。この黄金分割が日本で使われたのは、8世紀のものとされる北葛城郡当麻町・加守寺跡の六角堂に黄金比1:1.618が最初のようだ。これより一世紀さかのぼる法隆寺にはまだ黄金分割は使用されていない。

 日本で本格的に使われるようになったのは、明の国より黄金分割比が伝来した室町時代以降で、桂離宮や浮世絵の構図にもふんだんに使われている。自然界にもオウム貝の殻の渦巻きなどにこの数がみられる。身近なものでは名刺やテレカが黄金長方形でできているという。


2003年11月24日(月) 初秋

4.病室にて(1)

 病室に入ると、かすかな芳香が匂っていた。部屋にはいずれも脳に障害のある四人の重症患者が収容されていて、島田のベッドは窓際にあった。島田のベッドが空いているのは、検査でも受けているのだろうか。あるいは、看護婦に連れられて、車椅子で内庭を散歩でもしているのかもしれない。

 島田のベッド脇のナイトテーブルの花瓶に、欄の花が活けてあった。匂いの原因はその花のようだ。それは修一がいましがた病院の売店で買い求めた花とは比較にならないほど豪華だった。顔を近づけると、甘い香りがつよく匂った。

 独身のプレーボーイだった島田にはたくさんの昵懇な女性がいたが、その中から修一は三十を過ぎて小太り気味のさと子の顔を思い出した。欄の花はさと子の趣味のようには思えなかったが、今は彼女くらいしか思い浮かばない。修一は新鮮な空気を入れようと、病院で買った花束を手にしたまま、病室の窓を開けた。

 三階の病室から、中庭が見下ろせた。芝生のあちこちに花壇がしつらえられてあり、休憩用のベンチが置いてあった。隣の病棟に急ぐ看護婦の姿や、見舞客らしい人々の影があったが、内庭に島田の姿はなかった。ベンチには妊婦らしい腹のふくらんだ女性が二人で座っていた。

 向かいは産婦人科の病棟らしい。窓越しに小さく見える人の姿は、妊婦や出産をすませた母親達のようだった。パジャマ姿の女性たちは思い思いに動いていた。向かい合う二つの病棟は、そのまま人生の明暗を象徴しているようだ。内庭を歩いている人たちがそれと知らず落とす影が、生の中に垂れた死の影のようにも思えた。そんなことを考えていると、背後でかすかな声がした。

 修一は振り返った。
(寒い)
 たしかにそう聞こえたようだが、空耳だったのだろうか。付添人のいない病室は、植物人間に近い患者が三人寝ているだけで、時が止まったように静まり返っていた。


2003年11月23日(日) 観音と天女

 昨日、今日と、一泊二日の奈良の旅が終わった。法隆寺ではボランティアのガイドさんが大変親切に案内してくれて感動した。秘仏の夢殿観音なども、ガイドさんの懐中電灯のあかりでほのかにその姿を確認することができた。実物を前に解説が聞けるので、ほんとうによかった。おかげでいろいろと勉強ができた。

 夜の食事も宿の近くのレストイランに入ったが、eichanの娘さんがアルバイトをしていたというその店は、どれも料理がおいしく、お酒を飲みながら4人で楽しく歓談できた。その店を出て、さらに喫茶店で10時の閉店まで、つもる話に夢中になった。

 今日の浄瑠璃寺もご開帳中の秘仏の吉祥天女像が間近に拝めて、たいへんよかった。eichanの車から降りて、寺まで歩く鄙びた道もよかった。好天に恵まれ、山の紅葉も思った以上に良かった。

 昼食の後、eichanと別れ、北さんとぺこちゃん、私の三人はJRで天王寺駅まで行き、そこから難波まで、2時間あまり街を散策した。途中飛田地区の由緒ある遊郭の街並みやその風情を堪能し、さらに通天閣を通って心斎橋へ、北さんの案内で大阪の活気を大いに楽しんだ。観音様や天女の美しさに、もうひとつ、思いがけない生身天女の姿を拝ませていただいて、また違った感動がじわじわと・・・。何はともあれ、無事帰還し、とりいそぎ日記を更新することが出来た。今夜は観音様や天女達が夢枕に立ってくれるかも知れない。


2003年11月22日(土) 万葉の旅

 今日から1泊2日で奈良へ出かける。北さんと私、それからインターネットで知り合ったeichanやぺこちゃん、あわせて4人の気儘な旅だ。

 今日は法隆寺や中宮寺をボランティアのガイドさんの案内でゆっくり見学し、斑鳩散策の後は、JR奈良駅まで電車で移動して、奈良駅の近辺を散策し、そこで夕食を食べて宿へ。近鉄奈良駅から西大寺にあるホテルまで10分くらいだそうだから、遅くなっても安心だ。日ごろの憂さを忘れて、大いに羽目をはずしたい。

 明日は早朝にeichanに車を出してもらって、浄瑠璃寺と岩船寺で奈良の秋を満喫し、お昼頃、奈良駅付近で昼食を食べて解散というのが、いまのところの予定である。したがって、明日のHPの更新は夜になる。旅の報告が出来ればと思っている。

 ところで、ネットでこんな素敵な詩をみつけた。井上博さんのHP日誌で発見した「季節の歌」という詩だ。

季節の歌  

ひたすらペダルを踏み
何も考えずに走っていると
ふいに周囲の空気が変わった。
風がやみ
静寂のなか
ペダルを踏み続ける意識だけが取り残される。
自転車を止め
ゆっくりと顔をあげ
ぐるりと見回せば
そこは初冬の林のなかだ。
眼をつむり
静寂を聴いていると
やがて遠い潮騒のように
さわさわと枯葉が鳴りはじめる。
(あれは誰が歌っているのか・・・)
眼をみひらくと
突然の烈しい風が
吹き抜ける
枯葉を雨と降らせ舞い上げ
孤独な影を覆いつくす

気がつけばぼくは
季節の中心に立って・・・

(参考サイト)http://www2u.biglobe.ne.jp/~h-inoue/diary.html


2003年11月21日(金) 初秋

3.病院まで(3)

 修一はたいてい日曜日に病院を訪れていた。たまった洗濯物を洗い、島田の身体も拭いてやる。それから爪を切ったり、食事や用便の世話も引き受けた。何もそこまでしなくてもと思うが、これが修一にとって気分転換になった。

 以前は休日でも仕事を作って会社に出かけていた。しかし、この春の人事異動で、修一はこれまで勤めていた技術開発部門から、製品管理部に配置転換になった。課長待遇といっても直接の部下は二人しかおらず、そのうちの一人はパートタイマーの主婦だった。そして仕事と言えば、倉庫管理や点検くらいしかなかった。

 これまでの忙しさとはうって変わった閑職なので、会社に休日出かけていく理由もなくなったが、家に妻や息子といると何か息苦しかった。数年前に買ったマイホームも、自分の家だという愛着がもてなかった。新しい建材で出来た家の中にいると、病気になりそうな気がして、気が鬱屈した。だから家を出て、病院に向かうと気分がほぐれてくる。

(ボランティアだと思えばよい。相手は別に島田でなくてもいいのだ。気の滅入りそうな家から脱出できるだけでもありがたい)

 最初はそう思っていたが、全身不随だった島田もリハビリで少しずつ腕が動くようになっていた。看護婦の話だと、口も利けるようになったというが、修一はまだ島田が片言の言葉も話すのを聞いたことがない。それでも、修一の顔は覚えたらしく、介抱されながらかすかにうなづいて、微笑みを浮かべることがあった。そうした島田の変化を眺めることも、修一の楽しみになった。

 島田とは長いつきあいなのに、生まれた土地がどこか聞いたことがなかった。父親の仕事の関係で、幼い頃から全国を転々としていたというから、彼には故郷と呼べるものがないのかもしれない。
「おれは天涯孤独なんだ」
 身の上話をしない彼が、酒を飲んでいて、そんな言葉を漏らしたことがある。その言葉の通り、瀕死の重傷を負った彼のもとを訪れる人は少なかった。

 血を分けた身内の存在が一人も見当たらないのは、少し淋しかった。しかし、淋しいのは修一も同じだった。妻や息子の顔を見ているより、記憶喪失の島田の顔を見ている方が落ち着いた。この半年間で、島田の境遇も変わったが、修一の心境も大きく変わった。

 修一はベンチに寝そべったまま、芝生の緑や空の青、雲の白さを見つめた。こうした公園の木陰のベンチで風に吹かれていると、自分が二、三十年も若返ったような新鮮な気がした。ふと、島田にもこの明るい公園の初秋の空を眺めさせてやりたいと思った。


2003年11月20日(木) 人々に緑の土地を

 アフガニスタン、イラクの治安が極度に悪化している。テロが頻発し、国連の職員までが犠牲になっている。これらの国の復興のために尽力していた外国人も、もはやこれまでという感じで引き上げ始めている。

 そうした中で、医師の中村哲さんはNGO「ペシャワールの会」代表として、アフガン戦争の前から、アフガンで井戸掘りをしてきたが、今は灌漑用の用水溝を現地の人々と協力して掘っているという。ところが、その作業中に、米軍機がやってきて、機銃攻撃をしかけたという。こうした情況では、NGOの活動も命がけだろう。

 中村医師がNHKの番組で語っていたことだが、大切なのは治安の維持であり、人々が生活できる農地の回復である。戦争で荒廃した土地はほとんどが砂漠化しており、そこで人々は生活できない。用水路の工事は砂漠を農地に戻し、そこに生活空間を作りだそうというねらいである。長い間現地で活動しているHGOだからこそ、今一番必要な物が何か、よくわかっている。

 用水堀の作業には、もとタリバン兵も、もと北部同盟の兵も参加しているという。「緑の土地を」という共通の願いを持ち、共同作業を行う中で、憎悪や不信が次第に克服され、連帯と理解が生まれつつあるという。

 米軍が攻撃したのは、ダイナマイトの爆発音を自軍への攻撃と勘違いしたためらしいが、こうしたおそまつな椿事が発生するのも、米軍がテロの影に怯えて過敏になっているためだろう。あるいは、アフガンが一つになることを恐れた米軍の、誤爆を装ったいやがらせなのかもしれない。

 アナウンサーは中村医師に、「どうしてそんなに危険なところで活動をなさっているのですか。日本が恋しくはありませんか」と訊いていた。中村医師の答えは、「日本に帰ろうとは思いません。アフガニスタンの人々が好きですから」というものだった。「彼らはほんとうにいい人たちです。日本では失われた人情というものが残っています」ということだった。戦争で荒廃したアフガニスタンよりも、年間3万人以上の自殺者を生む日本の方が、よほど殺伐としており、荒廃しているということらしい。


2003年11月19日(水) 自意識という皮を剥ぐ

 美少女の山野愛子に「好きだ」と言われて、秀美は困ってしまう。「ぼくには好きな人がいるから」と交際を断るのだが、「水商売やっている人なんでしょう。そんなのひどい。不潔だわ」という愛子に、秀美は思わずこんな強烈な嫌みをいう。

「山野さん、自分のこと、可愛いと思っているでしょう。自分を好きじゃない人なんている訳ないと思っているでしょう。でも、それを口に出したら格好悪いから黙っている。本当はきみ、色々なことを知っている。物知りだよ。人が自分をどう見るかってことに関してね。高校生の男がどういう女を好きかってことについては、きみは、熟知しているよ」

「ぼくは、人に好かれようと姑息に努力する人を見ると困っちゃうたちなんだ。ぼくの好きな人には、そういうところがない。ぼくは、女の人のつける香水が好きだ。香水より石鹸の香りが好きな男の方が多いから,そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けている女の人の方が好きなんだ」

 こんなひどいことを可憐な少女に言っていいのだろうか。案の定、秀美は愛子に頬を打たれる。そして、いよいよ愛子の逆襲が始まる。

「何よ、あんただって、私と一緒じゃない。自然体っていう演技してるわよ。本当は、自分だって、他の人とは違う何か特別なものを持っていると思っているくせに。優越感をいっぱい抱えてくせに、ぼんやりしている振りをして。あんたの方が、ずっと演技しているわよ。あんたは、すごく自由に見えるわ。そこが、私は好きだったの。他の子たちみたいに、あれこれ枠を作ったりしないから。でもね、自由をよしとしているのなんて、本当に自由ではないからよ。私も同じ。あんたの言った通りよ。私は人に愛される自分てのが好みなのよ。そういう演技を追求するのが大好きなの。中途半端に自由ぶっているんじゃないわよ」

「それから、つけ加えておくけど、私が川久保くんとつき合えないのは、彼の背が低いからじゃないからね。私、髪に、ムース付けるような男、大嫌いなの。口開けて、女に見とれているような男もね」

 山野愛子の言葉は、秀美を自己反省に誘い、<ぼくこそ、自然でいるという演技をしていたのではないか>という疑問が萌してきた。演技を嫌いながら、実は秀美自身、「演技をしていないという自然を装う演技」をしていたのではないか。それでは、どうしたらその自意識の皮を剥ぎ取り、演技の毒をぬぐい去ることができるのだろう。秀美はその答えを見つけることが出来ない。そんな秀美に、桃子さんはこんなアドバイスをする。

「怒んないでよ。秀美くんたら。皮を剥いても剥いても野菜じゃ仕様がないわよ。その内、人の視線を綺麗に受け止めることが出来る時期が、きっと来る。その時に、皮を剥く必要のない自分を知れれば素敵よ」

 さすがに、愛子さんの言葉には味わいがある。だれしも人の視線が気になる。それでは人の視線が気にならなくなったらそれでよいかといえば、それも淋しい。人の視線をだた気にするのではなく、それを「綺麗に受け止める」ことができたら、やはり人生は最高だろう。

 それではどうしたら、そんなことが可能になるのか。それは、一言で言えばあるがままの自分をさらして恥じない「自信」である。自分の生き方に自信がもてるようになったとき、人は初めて自分に対しても他人に対してもあたたかい視線を向けることが出来る。そのとき、人も又、あたたかい視線を向けてよこすだろう。秀美はそのことに少しだけ気付く。そして、<山野愛子を嫌いだと口にしなくなった時、ぼくは、それを手にすることができるのかもしれない>と考える。

 思春期に自意識や演技の問題で悩んだ経験はだれしもあるのではないだろうか。とくに異性の目が気になり、川久保くんのように涙ぐましい努力をしたり、愛子のような作られた美少女の媚態にうっとりしたこともあるはずだ。私には川久保くんや愛子がなんだか愛しい存在に思われる。秀美の生き方は、この二人に比べて、少し高踏的だ。愛子に「うぬぼれるんじゃないよ」と言われて当然だろう。


2003年11月18日(火) アイドルの素顔

 中学生の頃、とてもかわいい同級生がいて、ひそかに憧れていた。私のクラスには、後にミス・日本代表になるきれいな女の子もいたが、他にも何人かの美少女がいた。山田詠美の「ぼくは勉強ができない」を読んでいて、そうした美少女のことを思いだした。

<彼女たちは、たいてい清潔感にあふれていて、愛らしい顔をしている。自分の魅力に気付いていないわ、というような初心な表情を浮かべながら、磨きたてたうなじを何かの拍子に、ちらりと見せたりする。手を抜いていないなあ。ぼくは、彼女たちを見るたびに、そう心の中で呟く>

 主人公の時田秀美のクラスにも山野愛子というとびきりの美少女がいて、友人の川久保など、「いいなあ、山野さん、ああいう子が彼女だったら、おれ、何でも言うこと聞いちゃうよ」と溜息ばかりついている。そしてある日、秀美に、恋のキューピット役を依頼する。ところで、その川久保の様子だが、こんな具合なのだ。

<彼の髪の毛は、ムースで綺麗に立てられ、彼の気合いの入れようを物語っていた。しかし、その髪の立ち方は、あまりにも、やる気をみなぎらせていて、ぼくは滑稽に見えた。手を抜かないというのは、そのやる気を隠す段階まで進むことだ。ぼくは、川久保が山野愛子に、追い付いていないのを感じた>

 成算がない。とても愛子との交際は無理だというのを、川久保がどうしても自分の気持を伝えてくれというので、秀美はしかたなく、愛子をよびだす。川久保の気持を伝えると、愛子はあっさり、川久保との交際は断って、そのあと、「時田くんて、意地悪だと思う」と意外なことを言う。

<山野愛子は、睫毛を伏せて唇を噛んだ。ずい分、長い睫毛だなあ、とぼくは、その下に出来た影を見て思った。確かに彼女は美少女だ。それは認める。しかし、その下で噛まれた唇に演技があるとぼくは感じた。白い小さな歯は、計算されたように唇を押している。媚びているんじゃないか、こいつ。ぼくは途端に不愉快になった>

<山野は、伏せていた睫毛をゆっくりと上げた。それと同時に、足許にあった彼女の視線が、ぼくの体の上を移動してきた。彼女の瞳が、ぼくのそれをとらえた時、ぼくは驚いて目を見張った。彼女の睫毛は、涙で縁取られていたのだ>

 このあと秀美は、愛子に「好きだ」と、愛の告白を受ける。これを拒否すると、美少女が変身する。お互いに本音をぶつけ合うやりとりはなかなか圧巻である。明日の日記で紹介しよう。


2003年11月17日(月) 初秋

2.病院まで(2)

 島田と最後に飲みに行った「さと」という店は、さと子という女将が経営していた。さと子も島田と関係の深い女の一人である。その店で飲んだ数日後、島田は車を運転していて、事故にあったのだった。事故の連絡は、島田の会社の事務員から入った。

 病院に駆けつけたとき、島田は脳の大手術を終えたばかりで、生死の境を彷徨っていた。病院の喫茶室で修一は島田の従業員の一人から、借金取りに追われていた彼の日常を聞かされた。修一は島田の交通事故はそうした疲労の蓄積によって起こったのだろうと思った。あるいは保険金目当ての自殺未遂かも知れなかった。

 島田が入院してしばらくして、彼の会社は不渡りを出して倒産した。何億という負債が残ったらしいが、さすが借金取りも病院まではやってこなかった。彼はいまだに記憶が戻らないまま、毎日を半睡半覚の状態で過ごしていた。しかしそうして現実の世界から逃避して、夢とうつつの世界にまどろんでいられる島田は幸せだとも言える。

 島田の会社が倒産したと知って、彼の友人はほとんど彼から背を向けた。彼の愛人だった女性もやがて姿を消した。そうなると独身の島田には誰も身の回りの世話をしてくれる者がいなくなった。修一はしかたなく妻の芳子にしばらく病院に通ってくれるように頼んだのだった。

 たまたま芳子がパートタイマーの賄い婦として勤めている会社が近くだったので都合が良かった。それに、芳子も大学の夜間部の同級生だったから、島田をよく知っていた。しかし、芳子はいい顔をしなかった。そのことで、修一と妻の間にすきま風が吹いた。

「島田は俺の親友なんだ。それにおまえだって大学時代にはよく一緒に飲みに行ったじゃないか。彼がいなかったら、俺とおまえが一緒になることもなかったかもしれないんだぜ」
「それは昔の話でしょう。最近はたいしたつき合いもしていなかったじゃないの」
「毎日病院に行ってくれとはいわないさ。職場の帰りにたまに顔を出してくれるだけでもいいんだ。夕食が少しくらい遅くなったっていいさ」

「あなたはいいかも知れないけど、泰夫が困るでしょう」
「泰夫は待たしておけばいい。家で一日ぶらぶらしているだけなんだから」
「そんなわけには行きませんよ」
「おまえはやたらと泰夫の肩を持つね。大学を卒業して就職もしないやつにそんな気兼ねをしていてどうするんだ」
「泰夫はあの子なりにいろいろと考えているのですよ。あなたこそ何も知らないくせに、そんな口の利き方をしないでください」

 こんな押し問答のあげく、結局修一が折れたのだった。妻は修一と一緒に二、三度顔を出しただけで、一人では島田の病院に足を運んではいないようだった。
(薄情な女だな)
 修一は心の中でそう思いながら、口に出すことはなかった。


2003年11月16日(日) 生きること、死ぬこと

 山田詠美は「死」について、随分敏感な作家のようだ。「ぼくは勉強ができない」のなかにも、いくつかの死が描かれている。たとえば、秀美が小学生の頃思い出の一つとして、机の上に死んだ雀を置いて眺めていたエピソードが語られている。

 帰りに埋めるので、このまま机の上に死んだ雀を置いたまま授業を受けたいという秀美に、先生は、「皆の迷惑は考えないのか」といい、多数決をとる。秀美は結局「気持ちが悪い」という多数の子どもの声に促されて、雀を捨てに行くことになる。秀美は教室を出ると、池の側の芝生の上に雀を置いたまま、しばらくぼんやりとしていた。

<彼は、死というものに、心魅かれてしまったのだった。生き物が、ただの物体と化して道路に置き去りにされるという事実が不思議でたまらなくなったのだった。家族がいないたったひとりの人って、死んだらどうなるのかなあ、と彼は考えた。やはり、置き去りにされるのだろうか。土に還ると先生は言ったけれど、道端で死ぬ人は、そんなに多くはないだろう。誰が面倒を見るのだろうか。彼は、雀の羽を撫でた。雀も死ぬ時には、目を閉じているのが、少し悲しかった>

 秀美は先生の「民主主義」や「多数決」という言葉に馴染めない。「動物を大切にするのは、とても良いことだ」というありきたりの言葉にも反発し、うんざりしたような顔をする。学校で教えられる勉強はなにやら胡散臭く、もっと大切な本当の勉強がしたいのに、教師はそれを教えてくれようとはしない。そんな苛立ちと疎外感が、幼いころの秀美のなかにすでに染みついていた。

 高校生の秀美は、同級生の友人の自殺という出来事を体験する。片山というその少年は、「時差ぼけ」に悩んでいたという。それはどういうことかというと、人間は本来、25時間を一日の周期として生きる動物だが、これを24時間に合わせて生活している。つまり、毎日1時間ずつ、時差が生じるわけだ。

<普通の人間は、食事や仕事や遊びなど、つじつまを合わせて行くのだそうだ。しかし、中には、それが、どうしても出来ない人間達がいる。そういう人たちが、体をだませずに不眠症になったり、日常に支障をきたしたりするのだそうだ>

<もし、本当に、彼が時差の調節が出来ない一生を送ったのだとしたら、それは、どのようだったのだろう。たった一時間、他人の持たない時間を過ごさなくてはならないのは、どういう気持がするのだろう。自分だけに与えられた空白の時。もしかしたら、それは、とてつもない孤独との戦いなのではないだろうか>

 死んだ片山は、生前秀美に「ぼくはね、人よりも、考える時間が多いようなんだよ」と言ったことがある。秀美が「何を考えるの」と訊くと、「考えるとは、どういうことかってのを考えるんだよ」と答えた。そんな片山のことを考えているうちに、風邪が悪化し、秀美は丸二日間寝込んで、葬式にも出られなくなる。

 風邪が治って、学校へ行くとき、秀美は電車を乗り違える。いつもと違う風景。そしてその景色が次第にのどかさをましていく。秀美はあたたかくて居心地の良いその電車の席に体をまるめて、死んだ片山のことを考える。

<考えることを考える、と片山は言った。彼は、やりきれなかったのかもしれない。けれども、そのことを彼にさせていたのは、彼自身だ。 ・・・・そよ風が、もし、彼の皮膚を心地よく撫で、そして、それを受け入れることが出来ていたなら、彼の考えは、あるいは、違った方向へと進み、彼の足は、地面に向けて飛ぶような別の動きを選んだかも知れない。片山は僕たちを笑わせることだって出来たのだ。彼の唇は、そういう言葉を紡ぐことだって出来ていたのだ。もったいないじゃないか。春の空気は、こんなに気持ちよく、そして、その春は、毎年、裏切らずに巡ってくるというのに>

「おにいさん、大丈夫かね」
(眠っていた筈のおばあちゃんが、いつのまにか心配そうに、ぼくを覗き込んでいた)
「これで、涙、拭いたらいいよ」
「はい、すいません」
「何があったか知らんがね、元気出しなさいよ」

 秀美は昼頃、遅刻して学校にやってくる。そして友人の田嶋から、昨日、片山の葬式が盛大に行われたことを知る。

「女子は盛大に泣いていたなあ。でもさ、あれは、片山の死を悲しんでるからじゃなかったな。泣くことで、自分たちの信頼深めているって感じ。酔っていたぜ。号泣していた奴もいたもん。くだんねよなあ、片山となんて話もしなかったくせに」

 田嶋の言葉に、秀美は「仕方ないよ。時差ぼけ知らずなんだから」と答える。片山が時差ぼけで悩んでいたことを知っているのは、田嶋と秀美しかいない。話してみたところで、世の中にそんな奇妙な悩みがあり、そんなことで人が死んだりするのだということを、ほとんどの人は理解しないだろう。人が死ぬと言うことは、そんなにも微妙で、やるせないものなのかもしれない。


2003年11月15日(土) 健全であることの不健全

 山田詠美の「ぼくは勉強ができない」には味のある会話がちりばめられている。今日は、「健全さとは何か」というテーマで、この小説を読んでみよう。主人公の時田秀美が家庭謹慎中の真理の家を訪れる。そこで、こんな会話のやりとりがある。

「秀美はねえ、要するに健全すぎるのよ。だから、ふられちゃうのよ」
「いいじゃないか、健全なのって」
「・・・・・たいていの人は、健康な肉体に性的なアピールを感じるわ。肉体って、即物的だもん、恋愛においてはね。解り易いっての? でも、精神状態も、健全だっていうのは困るのよ。もっと、不純じゃなきゃ。いやらしくないのって、つまんないよ」
「ぼくの周囲の女の子たちは、皆、一様に、さわやかな人が好みだと言っているぞ」
「私は、そういう綺麗ごとを口に出すのって、好きじゃないの」・・・・
「好きだから一緒にいたいって思うことって、つまんないことかなあ」
「思い余って、彼女を滅茶苦茶にしたいとかは思わないの? 私だったら、そうされたいな。乱暴するとか、そういうことじゃないのよ。気分的に、そういう思いが伝わってくるかってことだけど」
「思わないこともない。でも、がまんしてるの」
「いいじゃん。うんと、我慢したらいいよ。そしたら、健全な精神なんて、今度、彼女にあったら、どこか行っちゃうよ」

 真理とこんな会話を交わした後、秀美はますます「健全」ということがわからなくなる。そこで、サッカー部の練習のあと、桜井先生をラーメン屋に誘って、さっそく、「健全さとは何か」という質問をぶつけてみる。

「時田よ。ぼくは、そのことに答える資格などないのだ」
「どうしてですか。やはり、どこか、不健全なところがあるのですか?」
「うん。体にも自信がない。心もよこしまだ」
「そう言えば、先生はセックスが弱いと言っていましたね。でも、心がよこしまだってのは知らなかったな。すごく良い人に見えるけど、本当は、良からぬことを考えていたりするんですか?」
「どうして時田は、そんなこと考えるようになったんだ」
(ぼくは、真理との会話の内容を先生に話した)
「・・・・時田、いいかい、世の中の仕組みは、心身共に健康な人間にとても都合良く出来ている。健康な人間ばかりだと、社会は滑らかに動いていくだろう。便利なことだ。でも、決して、そうならないんだな。世の中には生活するためだけなら、必要ないものが沢山あるだろう。いわゆる芸術というジャンルもそのひとつだな。無駄なことだよ。でも、その無駄がなかったら、どれほどつまらないことだろう。そしてね、その無駄は、なんと不健全な精神から生まれることが多いのである」
「へー」
「恋愛だって、なきゃないですませられる人も多いんだぞ。うつつを抜かしているおまえは、いろいろ無駄を作っている。ほら、ラーメンものびて来ているぞ」

 秀美はこのあともいろいろ思い悩んだあと、意を決して桃子さんに会いに行く。二人が会うのは久しぶり。桃子さんが他の男と寝ていたことを知って、「失恋」していらい、初めてのことだ。そのときの、二人の会話も紹介しよう。

「男がそんな情けない顔するもんじゃないわよ」
「・・・・・・・・」
「会いたかった?」
「ぼく、情けない顔している?」
「してる。すごくいたいけ。すごく可愛いわ」
「情けないよ、ぼく。本当だよ。ああ、こんな筈じゃなかったのに。すごく情けないぞ」
「あら、いい風情よ」
「・・・・・・・・」
「私の部屋で待ってて。泣くのは、それからでもいいでしょ」
「今日、ぼくと寝る?」

 二人はこんな具合で、再び仲をとりもどす。健全さとは何か、誤解を恐れずに言えば、それは年頃の男と女がセックスをすることである。年頃の男女がセックスもせずに、長い間一緒の部屋に押し込まれて、がまんして教科書を読んでいることは、かなり不自然で、不健全なことなのだ。そう考えれば、世間一般の健全さというものが、かなり不自然で、欺瞞に満ちたものであるか、あきらかではないだろうか。


2003年11月14日(金) 初秋

1.病院まで(1)

 病院へ島田を見舞う途中、修一は静かな木洩れ日がちらつく公園のベンチでしばらく足を休めた。9月の中旬になって、残暑がようやく収まりかけていた。公園の木立を渡る風や花壇の花に、修一は秋の気配を感じた。

 オフイス街にあるその公園は休日だということもあって人気がなかった。散歩道にそって並ぶベンチもほとんど空だった。修一は帽子とくたびれた革靴を脱ぐと、ベンチの一つに寝そべった。

 木洩れ日に目を細めながら、修一は病院のベッドに寝ている島田を思い浮かべた。今年の春に交通事故で重症を負った島田は、その後意識は戻ったものの、一年たった今も全身不随の重症で、記憶喪失で自分の名前も知らなかった。陽気で磊落な島田を知っているだけに、廃人同様の島田を見ることは修一にとってつらかった。

 島田と修一は二十数年前に、名古屋のN大学の夜間部の同級生だった。在学中二人は同じ民間の会社に勤めていたが、島田は大学で学びながら宅建の免許を取得して、卒業と同時に会社を退職し、不動産の商売を始めた。折からの不動産ブームもあって、順調に業績を伸ばした。

 年間の収入が一千万をこえるまでに何年もかからなかった。島田は外車を乗り回し、社員をつれて海外旅行に行くなど、羽振りがよかった。バーのホステスにマンションを買ってやって、愛人にしたりもした。

 しかし、バブルがはじけてから、彼は会社の経営に神経をすり減らしていたようだった。今年の春、事故に遭う数日前に、修一は久しぶりに島田に呼び出されて、彼の馴染みの店で飲んだ。カウンターで酒を飲む彼の横顔に、以前の彼にみなぎっていた精気がすでに薄れていた。四十代後半だとは思えないくらい若々しくて、黒くたっぷりあった頭髪も白く薄くなっていた。

 二時間ほど酒を飲んだが、いつも饒舌な島田の口数が少ないので、二人の会話は弾まなかった。新たな客が姿を見せる度に、島田はそわそわして、そちらを窺った。そんな神経質な島田を見るのは初めてだった。


2003年11月13日(木) 勉強ができるということ

 以前、東京の有名な予備校の教師が書いた文章を読んだことがある。彼の教え子の一人から、「先生も僕と対等な口が利けるのは今のうちだね」と言われたという。教え子がいうには、自分はやがて東大の法学部に入る。そして官僚になる。そうすると、もう先生のような下の身分の人とは対等に口が利けなくなるというのだ。

 教え子はこれを悪気があって言ったのではない。むしろ、この予備校の教師が大好きで、別れるのが残念で言ったのだろう。しかし、これを言われた教師は、あまりいい気がしないのではないだろうか。たしかに数学や英語が出来て、偏差値が高く、東大法学部合格間違いなしの優秀な頭脳の持ち主かも知れないが、私ならこの子は何も人生の勉強ができていないなと思い、哀れを催してしまうだろう。ちなみにこの生徒の父親は東大法学部卒で、キャリアの官僚だそうだ。

 山田詠美の「ぼくは勉強ができない」の中にも、こうした秀才タイプの少年が登場する。常に学年No1の脇山茂だ。脇山はクラス委員長の選挙で当選した。勉強のできない時田秀美は3票差の次点だった。秀美は勉強はできないが、クラスの人気者である。とくに女性に人気がある。そんな秀美に脇山が話しかける。

「おまえ、このままじゃ三流大学しか入れないぜ」
「ぼく大学に行かないかもしれないから」
「へっ? またなんで」
「金かかるから」
「おまえんち貧乏なの?」
「そうだよ」
「でも、大学にいかないとろくな人間になれないぜ」
「ろくな人間て、おまえみたいな奴のこと?」
「そうまでは言っていないけどさ」
「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」
「・・・・そうか」
「でも、おまえ、女にもてないだろう」
「・・・・・・・・・・・」
「ぼくは確かに成績悪いよ。だって、そんなこと、ぼくにとってどうでも良かったからね。ぼくは彼女と恋をするのに忙しいんだ。脇山、恋って知っているか。勉強よか、ずっと楽しいんだぜ。ぼくは、それにうつつを抜かして来て勉強しなかった。でも、考え変わったよ。女にもてて、その上成績も良い方が、便利だってことにね。どうしてかって言うと、おまえのような奴に話しかけられないですむからだ。よおし、僕は勉強家になるぞ!」

 もちろん、「勉強家になる」というのは秀美の本心ではない。ただ口が滑っただけだ。しかし、物語の最後の方で、秀美は大学進学について前向きになる。それは幼なじみの同級生で、やはり学校では落ちこぼれ気味の真理にこんなことを言われたからだ。

「私、卒業したら、すぐ水商売に入りたいんだもん。良く、遊びに行く店のママさんに可愛がられてさ。私、素質あるって、自分でも思うんだよ。だから、秀美にも、協力してもらわなきゃね」
「ぼくが何を協力するの?」
「ちょっと、教養身に付けたいんだ。と、言っても、あんたに学校の勉強教えてくれなんて、もちろん言わないよ。ほら、秀美って、桜井先生や桃子さんの影響で、意外と、本とか読んでいるじゃん。そういうこと。私って、そういうのに、全然、縁がないでしょ。今さら、誰かに、その種のこと尋ねるのも恥ずかしい訳よ」
「ぼくの知っていることで良ければ」
「大学に行って、私に、もっと色々なことを教えてちょうだいよ。私は、秀美から、あれこれ勉強すんのが好きなんだから」
「ぼくから? ぼくから、何かを今まで教わったことなんてあった?」
「沢山あるよ。知らないの? 秀美を通した当たり前のことは、みいんな当たり前じゃなくなってるんだよ。私は、大学生なんて、だいっ嫌いだけど、大学生になった秀美のことは、好きになるって確信がある。何故って、あんたは、きっと、人とは違う勉強家になるって思うから」

 このあと秀美は担任の桜井先生を恋人の桃子のいるバーへ誘う。そしてその途中で、「ぼくは、大学に行きます」と宣言する。「何!」と驚いた先生に、「大文豪が射精を繰り返してたら、はたして、文学が生まれていただろうか、というようなことを知りたいんですよ」と応えながら、唖然とする先生を促して店の扉を押す。

 物語はここで終わっている。秀美は大学生になるのだろう。そして、大学を出て、どんな大人になるのだろうか。彼ならば桜井先生や桃子さんのような味のある顔をした大人になることができそうな気がする。学校の教師になるか、あるいは山田詠美のような素敵な小説家になるかもしれない。山田詠美は「あとがき」の中で、「時田秀美は、私の作品の中でも、とりわけ気に入っている主人公である。書いていて、とても楽しかった」と述べている。

 秀美は詠美の分身だったのだろう。作者は秀美を通して、自己の青春時代を振り返り、あれこれ考えて楽しんでいるように見える。そしてその作者の営みに、いつか読者である私たちも、自分たちの青春時代を重ねている。何十年かを隔てて、思わぬ発見をし、人生に一度きりの恥と輝きに満ちた若葉の季節をいとしんでいたりする。


2003年11月12日(水) いい顔をした大人になること

 昨日に続けて、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」について書こう。主人公の担任の桜井先生がなかなか好感が持てるからだ。桜井先生は主人公の時田秀美が所属するサッカー部の顧問でもある。

<顧問の桜井先生の影響で、不思議な生徒達があつまってくる。教え子を鍛えるという使命に、まったく燃えないこの先生は、だから、皆に好かれているのだが、奇特な人間を増長させてしまうのも確かである。だいたい、ぼくたちがフィールドを走っている間じゅう、しめしめとばかり、本をひろげるサッカー部の顧問など聞いたこともない>

 たしかにこの先生、サッカーの練習を見ながらむつかしい哲学の本を読んでいるような風変わりでいい加減な先生である。とても熱血教師からほど遠い存在だ。秀美はこの風変わりな先生と気が合っている。そしてときどきラーメンを食べに行く。

<年上の男、しかも教師に向かって、いい奴とは、とても無礼だと、ぼくも思う。しかし、ぼくは、彼が好きなのだ。第一、いい顔をしている。美形というのではないが、味わい深い顔というのだろうか。おまけに、女にもてる。女生徒の中には憧れている者も多い。ぼくは、いい顔をしていて女にもてる男を無条件に尊敬する。・・・・・

 ぼくは、桜井先生の影響で、色々な哲学の本やら小説やらを読むようになったが、そういう時、必ず著者の顔写真を取り出してきて、それとてらし合わせて文章を読む。いい顔をしていない奴の書くものは、どうも信用がならないのだ。へっ、こ~んな難しいこと言っちゃって、でも、おまえ女にもてないだろ。一体、何度、そう呟いたことか。しかし、いい顔をした人物の書く文章はたいていおもしろい。

「おまえ、それはちょっと極端な発想じゃないか?」
「そうですか。でも、先生だって女の子にもてるでしょ」
「そうでもないぞ。先生は、セックスがあまり強くないからな」
「強いって長時間出来るってことですか?」
「うん、まあ、そうだな」・・・・
「ぼくは桃子さんとは1時間出来ます。彼女、きちんとコントロールしてくれるから。先生も年上の女性とつき合ってみたら? 上手ですよ。母が言うには、若い女とセックスして喜んでいる男なんてろくなもんじゃないんだって」
「悪かったな」

 桜井先生は、眼鏡を曇らせながら、丼を抱えていた。やっぱりいい顔している、とぼくは思う。こんな人に、でも、あんたセックス弱いじゃない、と言う女はいないだろう。少なくとも、思いやりある人間の出来た女なら>

 桜井先生は担任の教師だから、秀美のことを考え、いろいろとアドバイスするのだが、それが少しも説教臭くない。おしつけがましいことは言わずに、ただ年長の友人のような感じでアドバイスする。二人のほのぼのとした会話には、なんともいえない味わいがある。

 私たちの高校時代、こうした味のある先生がたしかに一人、二人はいたものだった。私も一緒にラーメンを食べたり、ときには夜、先生のアパートに押し掛けて行って、文学や哲学の話をしたものである。作者の山田詠美はあまり先生に恵まれなかったらしい。彼女のまわりには「いい顔」をした教師があまりいなかったようだ。「僕は勉強ができない」の「あとがき」にこんなことを書いている。

<高校二年の時、私の担任の先生が私の家に来た。物理の試験で二度も零点をとったためである。彼は、その物理の担当だった。お宅のお嬢さんは授業態度も悪く、人の話を聞かない、授業中に小説を読み、放課後になると男子生徒と寄りそってそそくさと帰る。もうどうしょうもありません。お嬢さんのように自分の世界に入ってしまって聞き分けのない子は、将来は、作家にでもなりゃいいんです>

  この先生のアドバイスが利いたせいでもないだろうが、山田詠美は作家になり、いまでは彼女の小説が高校の教科書に載っている。山田詠美はこの先生に会ってみたいという。「今なら、私は勉強ができないと、と開き直れるのだが」と書いている。この小説は「勉強ができない」ことを逆手にとって、「本当の勉強とは何か」を、読む人の胸に訴えかけてくる。十七歳の高校生をみくびっていはいけない。時田秀美は学校の勉強こそできないが、実は「人生の勉強」の達人なのだ。山田詠美がそうであったように。


2003年11月11日(火) ぼくは勉強ができない

 十年ほど前に人に奨められて、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」を読んだ。最初から引き込まれ、面白さに心臓の鼓動が早くなったり、思わず苦笑したり、最後はしみじみとした感動のもとに読了した。

 主人公の時田秀美は勉強の得意でない高校三年生だ。サッカー部に入っているものの、運動に熱中しているというわけではない。ホステスをしている年上の女性と交際していて、避妊具をあやまって学校の廊下で落としてしまったりする。どうみても、あまりかんばしくない落ちこぼれ気味の高校生である。

「時田、おまえのお母さんは、女手ひとつで、おまえをここまで育て上げたんだ。苦労もさぞかしあっただろう。それに応えるのが、息子の義務じゃないのか。おまえが、真面目な学校生活を送っていないと知ったら、悲しむのに決まっている。どうだ、ここで、心を入れ替えてみないか」
「苦労なんてなかったと思います。あの人が、ぼくの父親と別れたのは、ぼくの知ったことじゃない」

 教師から見たら、なんともかわいげのない生徒である。しかし、小説を読んでいるうちに、時田秀美がだんだん好きになってくる。それは時田秀美が弱い立場の人間や生き物に、いつもやさしい視線を向けているからだ。それは彼自身がある意味で普通とは違った境遇に身を置き、「人生の勉強」をよけいにしてきたからだろう。

<ぼくは、小さい頃から、ぼくの体を蝕もうとして執拗だった不快な言葉の群を不意に思い出した。片親だからねえ。母親がああだものね。家が貧しいものねえ。まるで、うるさい蠅のような言葉たち。ぼくは、蠅を飼うような人生をおくりたくない。だって、ぼくは、決してつまらない人間ではない>

 山田詠美はあとがきで、「私はこの本で、決して進歩しない、そして、進歩しなくても良い領域を書きたかったのだと思う。大人になるとは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ」と書いている。そして、「私は、むしろ、この本を大人の方に読んでいただきたいと思う」とも書いている。教師や保護者にとっても心の糧となる一冊であることまちがいない。


2003年11月10日(月) こうもりの空

28.夜は千の目を持つ

 入院してからは熱も引いてそれほど気分も悪くなかった。それでも、一週間ほど入院していた。退院できると聞いたときは嬉しかった。
 祖母と一緒に病室を出るとき、私は壁に書かれた落書きのいくつかを日記帳に写した。どれもこの部屋に入院していた患者が書き残したもののようだ。その中に、横文字で書かれたものがあった。

   The night has a thousand eyes,
   And the day but one;
   Yet the light of a bright world dies
   When day is done.

   The mind has a thousand eyes,
   And the heart but one;
   Yet the light of a whole life dies
   When love is done.

       - Francis William Bourdillon

「夜は千の目を持つ、しかし、昼は一つだけ」
 横文字には、こんな日本語の訳がついていた。夜空を彩る星星に「理性」を、昼を照らす太陽に「愛」を象徴させ、理性に対して愛の優位を歌っていた。しかし、私は「夜は千の眼をもつ」というフレーズから、夜の世界の不思議にひかれた。私は蝙蝠と遊んだあの屋根裏部屋の淋しいさを思い出した。千の眼を持つ夜の神秘は、どこか隔離病棟で味わった死の冷たさに似ているように思われた。

 退院を前にして、私と祖母は病院の風呂に浸かった。消毒液の匂いのする湯から上がると、入り口とは反対側の出口に歩いた。下着や服は母が買ってきたという新品のものを身につけた。外に出ると、私は少しふらついた。秋の日差しを浴びて、街が輝いていた。街路樹を渡る風の匂いがさわやかだった。

 出迎えた母と叔母が私の手をとった。白い帽子を斜めにかぶった叔母が私を見つめて、
「裕ちゃん、何だか変わったわ。背がのびたのかしら」
「宇宙は無重力だからね、成長が早いのさ。その帽子、すてきだね」
 叔母は笑いながら、白い帽子を私の頭にかぶせた。病院を出て、タクシー乗り場に歩いた。母が私の手を握ったまま、
「ヨーロッパ軒のカツ丼食べようか」
「やったね」
 木洩れ日の中で、私たちの影が木の葉のようにゆれていた。

 (「こうもりの空」を終わり、次回からは書き下し小説「初秋」を連載します)


2003年11月09日(日) 理念なきマニュフェスト

 今日は衆議院選挙の投票日である。自民党と民主党のいずれが勝つか、場合によっては政権交代が起こるかも知れないという。私は自民党も民主党もそれほど変わらないと思っている。しかし、政権交代はあったほうがよい。長期政権は不正や腐敗、官僚と政治家の癒着を生みやすいからだ。

 今回の選挙はマニュフェスト(政権公約)選挙だといわれる。民主党はこれにくわえて、閣僚の名簿も発表した。菅総理大臣、小沢外務大臣、と言った具合である。閣僚ポストを選挙公約にすることはマニュフェストの本場イギリスではあたりまえのことだが、日本でははじめての試みだ。自民党も是非、これを見習って欲しい。もし民主党が政権をとれば、今後このシステムが日本に定着するかも知れない。これだけでも、政権交代の意味はあると思う。

 もっとも私は民主党には投票しないだろう。「強い日本を作る」などというたわけたポスターを張り出している政党に一票を投じようという気にはなれないからだ。民主党の「5つの約束と3つの提案」などを読んでみても、そこに感じられるのは単なる人気取りのスローガンで、これという理念や姿勢が感じられない。

 たとえば、「週休2日制を見直す」という提案などその最たるものだ。なぜ見直さなければならないのか、肝心の「論理」がすっぽり欠け落ちている。ただ最近の世論に阿っているだけのようにしか思えない。マニュフェスト自身が、ただ政権欲しさのための俄こしらえの安普請でしかない。

 週休2日制に関しては、これを見直すというよりも、これをどう「活用」するかという視点が大切だと思っている。今あるものをどう活用するか、その最たるものは1400兆におよぶ国民の金融資産だろう。こうした国民の持てる力をどう発揮するか、政治家はそのビジョンを示さなければならない。その肝心のビジョンが「強い日本を作る」というのではあまりにも情けない。そこに透けて見えるのは、あいもかわらぬ旧時代の「弱肉強食の競争論理」である。

 私なら「豊かで安らかな、美しい世界を日本から創る」をキャッチフレーズにするだろう。いうまでもなく、豊かさや安らかさ、美しさの背後にあるのは「共生の論理」である。日本にはアメリカ型ではなく、ヨーロッパ流の福祉国家を目差してもらいたい。人間が幸せに生きるために、国家はなるべく影の薄い存在であって欲しい。ほんとうに大切なのは、この地球をどうやって豊かで美しいものにするか、そのために日本人としてどう生きるかと言うことだ。こうした理念を持てる政党や個人が、これからの時代をリードすることになるのだろう。


2003年11月08日(土) 人間とはポリス的動物である

 プラトンは民主主義を嫌い、これを衆愚政治と呼んでいる。彼は政治は一握りの哲学者によって行うべきだと考えた。これに対して、弟子のアリストテレスは王制や貴族制、寡頭制を排して、あるべき政治体制は市民すべてが政治に参加できる民主制でなければならないと主張している。

 アリストテレスは市民であることの資格を、血筋や富の所有ではなく、「審議と裁判に参与しうる能力の所有」においている。そしてすべての人間が基本的に理性を持っているかぎり、だれしも政治を行う能力も権利も持っていると考えたわけだ。

 アリストテレスは「人間とはポリス的動物である」という。その意味は、人間はポリス(共同体)のなかで生まれ育ち、ポリスの中ではじめてて「人間」としての生をまっとうできるということだ。犬や猫は生まれながらにして犬や猫だが、人間はそうではない。人間はポリスによって作られる。そしてそのポリスを作るのもまた人間である。

 すべての存在物はそれぞれ特性を持っている。鋏には鋏の「ものを切る」という能力があり、ラクダには「重い荷物を背負って砂漠を移動できるという特性」がある。アリストテレスはそれぞれの特性を発揮することが、そなわちそれぞれの存在にとっての「善」であると考えた。それでは、人間の特性は何か。それは人間が魂(プシューケー)を持つということである。したがって、人間は「魂にその優秀性を発揮させる生き方」をしなければならない。このとき人間は最高に幸福を感じることができる。そしてこの本来の幸福の実現こそ、人間にとって最高の「善」であると考えた。

 アリストテレスはプラトンから多くのものを学んだ。そのなかでも重要なのは、「人間は魂においてよりよい生き方をしなければならない」ということだった。しかし、プラトンがその結果、極端な国家主義に傾いたのに対して、アリストテレスはあくまでも「人間」にこだわり、「人間」という個々の実体から出発している。同時に、人間を「ポリス的動物」であるという共同体重視の姿勢も失っていないところに、彼のすぐれて現実的で実際的な資質があらわれている。彼が尊んだのはこうした両極端にかたよらない「中庸」ということであった。

(参考文献) 「ヨーロッパ思想入門」(岩田康夫著、岩波ジュニア新書441)


2003年11月07日(金) こうもりの空

27.隔離病棟

 病室の二つのベッドで、私と祖母は最初の夜を迎えた。熱も引いて、喉が痛いことを除けば、これという症状もなく、命に関わる重病患者という感じではなかった。むしろ六十歳を越えた祖母の方が病人に見えた。

 実際往診に来た医者が間違って祖母の脈を取ったことがあった。看護婦に注意されて、医者は苦笑いをしていた。
(おばあちゃん、気をつけて下さいよ。この病棟には恐ろしいばい菌がうようよしていますからね)

 隔離病棟だけあって、往診に来る医者も看護婦もマスクを外さない。しょっちゅう消毒液で手を洗っていた。消毒液は病室ごとに置かれていて、私たちもトイレの行き帰りや、食事の前などにはそこで手を洗った。そのために病棟中に消毒液のにおいが立ちこめていた。

 私はしばしば廊下を行く人々の足音で目を覚した。私の眠りが浅かったこともあるだろうが、それ以上に廊下を行く医者や看護婦の気配が私を過敏にしていた。遠くの病室からは男のうめき声や少女の泣き声が聞こえてきた。私より先に入院した日本脳炎の少年もどこかの病室で高熱にうなされて死と戦っているのだろう。目が覚めると色々なことを考え、頭がさえて眠れなくなった。

 真夜中にトイレに行くときは、祖母を起こしてついてきて貰った。寒々とした照明に照らされた病棟の廊下を祖母と並んで歩く。トイレの下駄のひんやりとした感触が、まるで死そのものに触れたような気味の悪さで私を脅かした。そして、トイレで一人用を足しているときの心細いことと言ったらなかった。

 何十年たっても、病棟の廊下とトイレが夢に出てくる。床は水浸しで、私は濡れた下駄を履きながら便器にまで辿り着く。しかしどの便器もひどく不潔でばい菌がうようよしていそうだ。私は用を足すことを諦めてトイレを出ようとするのだが、下駄が鉛のように重くて思うように足が動かない。見ると汚物が今にも便器から溢れそうになっている。進退極まった私は助けを求めようと声を出す。そこでようやく夢から覚めてほっとする。


2003年11月06日(木) 決定権を現場に

 先日、NHKスペシャル「学校は変われるか? 学力No1に学ぶ」を見た。学ぶべき学力No1の学校として、日本では京都市立御所南小学校、外国ではフィンランドの学校が紹介されていた。フィンランドの教育については先月も紹介したが、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)ではダントツの一位である。とくに論理的な思考力や推理力にすぐれているという結果が出ている。

 どうしてこうした好結果が得られたのか。それはフィンランド政府が始めたこの10数年来の教育改革のたまものだという。フィンランドは失業率10パーセントをこえる不況にあえいでいた。この不況から脱出するにはどうしたらいいか。そこで始まったのが、よき人材を育成するための教育改革だという。国家予算を教育に集中投資しようということになった。

 小・中・高校の運営のために使う国家予算のGDPに占める割合を見てみると、フィンランドは3.5パーセントで、教師一人当たりの生徒数は14.2人になっている。同じ数値を日本と比較すると、国家予算はGDP比2.7パーセント、生徒数の比率は17.3人で、統計の上でもはっきりその差があらわれている。

 もちろん、フィンランドの教育改革は、単に高額の国家予算を投資したという量的な面だけではない。これをベースに、大胆な改革を実行した。NKKスペシャルではその中味を現場に取材しながら丁寧に紹介していたが、まとめると次の三本柱だという。

①決定権を現場に
②客観的データーによる検証
③情報公開と結果責任

 つまり、カリキュラム編成や授業内容の決定権を現場に与え、その結果、どのような教育上の成果が生まれているかについては、全国一斉の統一テストなどでしっかり検証する。そしてその結果も保護者に発表し、教師達に最終責任を負わせるというやりかたである。つまり現場の教師に大幅な自由を与え、その結果についてはきっちり責任をとらせるというシステムである。

 とくに重要なのは「決定権を現場に」という政府の方針だろう。フィンランドにも日本の指導要領のようなものがあるが、改革を境にこれが大胆に簡素化された。たとえば1985年の指導要領では算数・数学について10ページの記載があったが、1990年度版ではこれがわずか1ページになった。教授内容をことこまかに指示するのではなく、何をいつどのように教えるかについて、あくまで現場の教師の裁量にまかせるということである。

 この結果、学校側の対応が早くなった。番組でも、保護者会の席上、「スエーデン語と英語の授業が同じ日に重なっているので、子供の負担が大きい。変えて欲しい」という母親の要望について、「11月まで様子を見て、結果が悪ければカリキュラムの変更をします」と、そこに居合わせた教師が即座に答えていた。これが日本なら、校長が教育委員会にお伺いを立て、教育委員会は科学文部省にお伺いを立てるということになり、結局、年度途中の変更は好ましくないとかなんとか、無難な回答が年度が終わったころに返ってくることになるのだろう。

 もっともこのシステムは、現場の教師にとって、かなり負担が大きいことも事実である。これまでは教育委員会がだめだと言っている、文部省がだめだと言っている、ということですませられたものが、すべて自己で判断し、その結果については保護者や生徒に対して、直接に責任をとらねばならなくなるからだ。これまでのようなぬるま湯の方が楽な気もするが、もはやそのような時代ではない。日本の教育の将来を考えれば、フィンランドのような「自由と責任」を尊ぶ教育改革こそが学校を変え、教師を変えるのに必要なことだろう。

 なお、「自由と責任」を尊ぶ姿勢は、生徒や保護者にも求められる。保護者会で一人の母親が、「宿題の答えが間違ったままになっている。先生はちゃんとノートをチェックしているのですか」という批判の声を上げていたが、これに対し教師は、「解答は授業中に全体に示しています。それをしっかりチェックできないのは、お子さんの自己責任です」とはっきり答えていた。

 学校側がこうした明確な姿勢を打ち出せるのも、もちろん日ごろの教育実践に自信があるからだろう。フィンランド政府はすべての教師に研修を義務づけ、要望があれば大学でもう一度学ぶことも認めているという。よき教育づくりは、よき教師を育てることでもある。宿泊研修に参加した教師が、「研修を馬鹿にしていたが、これまでとはまるでちがう。お互いの議論を通して、自己啓発された。ほんとうに実りのあるものだった」と満足そうに語っていた。こうした実りのある研修が日本ではほとんど体験できないし、また教師にその余裕がないのが現状である。


2003年11月05日(水) 日本の大学は後進国なみ

 世界の指導者が参加するダボス会議の主催者、世界経済フォーラム(WEF、本部・ジュネーブ)が先月30日、今年の世界競争力報告を発表した。それによると、対象102カ国中、フィンランドがアメリカを抜いて1位に返り咲き、北欧諸国が上位を占めた。

 日本は政府補助金の使い方では90位、財政で81位、政治家への信頼度も51位、銀行の健全性になると、何と最下位の102位である。しかし、企業レベルの技術力で2位、企業の研究開発費で3位など、民間主導で高い評価を得ていて、総合的な競争力では何とか11位につけている。民間に対して公的部門の立ち後れが目立っている。

 とくに問題なのが、大学の国際競争力で、「ゴーマンレポート」によると、米国は、第1位のプリンストン大学を始め59校が、フランスは16校がベスト100に入っているが、日本の大学では東大も含めて1校もない。スイスの「国際経営開発研究所」(IMD)が発表したランキングでは、日本の大学の国際競争力は主要先進国49国中49位と最下位だった。こと大学に関する限り、日本は先進国とはいえない。

 どうしてこうなったのか。それは公的教育に投資する資金が日本は極端に少ないからだ。科学技術予算は数年前まで1000億円にも満たなかった。一方ではだれも使わない港湾が毎年3000億円もかけて造成され、空港の滑走路のための埋め立てが1兆5000億円かけて進んでいる。高速道路には湯水のようにお金を割いても大学にはお金が回らない。こうしたことが何十年も続いた結果が、この惨状である。

 日本の個人金融資産はこの10年間で400兆円も増えて、現在は1400兆円とダントツの世界一である。だが日本興業銀行リポートによると、この増加分の88%が国債など公的な債務引き受けに回っているという。国は国民の資産を使ってダムや道路を造り、訳の分からないODAやドルの買い支えばかりをしている。いつになったら、この粗悪な政治が是正されるのだろうか。政治のこのおそるべき後進性から脱却するためには、国民一人一人がこうした現状についてもっと理解を深め、声を上げていく必要がある。


2003年11月04日(火) 水槽の中の世界

 最近、居間に水槽をおいて、メダカやタニシを飼っている。メダカを飼いたいと言い出したのは妻で、私が妻の提案に乗り、小さな水槽を買った。それから二人でタモをもって涸れかけた田圃の水路を歩き回った。まるで二人とも幼い頃にもどったようなはしゃぎようだった。最初はメダカ救出作戦のつもりだったが、水槽でメダカが泳ぐ姿をみていると、他にも魚を飼ってみたくなった。

 岐阜県の美山町に円原川という長良川の源流の一つがある。そこにタキノボリというハゼ科の魚がいたのを思い出して、取りにいったりもした。もっともこの魚、ネットで調べてみると、「フィッシュ・イーター」と書いてあり、よくみると獰猛な顔をしている。メダカが食べられたりしたら大変なので、またもとの川まで返しに行った。

 妻がカワエビが欲しいというので、長良川へも行った。たまたま舟を上がりかけた漁師のような風体のおじさんがいたので、「この辺にカワエビはいませんか」と声をかけると、「いないことはないが、夜しか姿をあらわさない」とのこと。「家に何匹かいるので、分けて上げよう」という。

 ついていくと、物置のようなところにたくさんの水槽が並んでいて、ライトアップされたなかに、いろいろな魚が泳いでいる。そのなかから、白メダカを7匹ほど掬って、カワエビと一緒にくれた。この白メダカはかなり貴重品らしく、後日水槽を買った店に行くと、一匹400円ほどで売られていた。3000円近くのものをただで貰ったわけだ。ほかにセンバラがいて、これも欲しかったが、そこまでは言い出せなかった。

 カワエビはネットで調べると、「テナガエビ」という種類らしい。これは店でも売っていなかった。細くて長い手を伸ばして水槽を動き回る姿がなんともユーモラスで見ていてあきなかった。

 白メダカは現在5匹ほどが元気に泳いでいる。二匹死んだが、これはどうも夜のうちにカワエビに食べられたらしい。他のメダカも何匹か死んでいて、中には胴体が半分食べられたものもあった。そこでせっかく貰ったカワエビも長良川に返してやることにした。一つの水槽にメダカと一緒に肉食のエビを飼うことは、どうもむつかしいようだ。

 ヨシノボリやテナガエビがいなくなって少し淋しくなったので、妻と娘がこんどはドジョウをさがしに出かけたが、「田圃を掘り返してみたけどいなかった」と言って帰ってきた。行きつけのラーメン屋のオヤジに訊くと、「オタマジャクシがカエルになるころに田圃に行くとたくさんいるよ。今は姿を見かけないね」とのこと。

 ショップへ行くと、ドジョウが一匹200円ほどで売られていたが、これは買わずに、かわりにヒメメダカを5匹と、カワフグを一匹買ってきた。さらにヌマエビとマリモを買った。これらがライトアップされた水槽の水草の間を元気に泳いでいる。循環器が作る滝の水音を聞きながら、これらの小さな生き物の姿を見ていると、さわやかな気分になって癒される。これもまたお金には換算できない小さなしあわせだ。

 サマーセット・モームは「デカルトを読んでいると、透明な水の中を泳いでいる感じがする」と書いているが、水槽の魚たちを見ながら、私はモームのこの言葉を思い出した。水槽の中の生き物たちは、なんと明晰な生き方をしていることかと、少しうらやましくなった。


2003年11月03日(月) こうもりの空

26.ジフテリア

 病気になって、私はほっとした。これで私は誰に気兼ねすることもなく学校が休める。勿論、惨めな屋根裏生活ともおさらばだった。
(天の助けかもしれない)
 私は寝床にもぐりこみながら、両手を合わせたい気分になった。

 とは言っても、三十八度を越える高熱のせいで天井がぐるぐる回り、頻りにいやな悪寒がする。喉が焼けるように痛んだ。近所のS医院に行くと、扁桃腺炎だという見立てだった。

 医者の指示に従ってその夜は頓服を飲んで寝たが、翌朝起きてみると余計に症状が悪化している。体温計で測ると三十九度を越えていた。私は幼い頃から扁桃腺が弱くて、しょっちゅう熱を出していたが、今回のものは桁外れに重症のようだ。

 明くる日には母を伴って医者に行った。診察を終えた後、昨日とは打って変わったように医者の表情が険しくなっている。
「ジフテリアかもしれない。紹介状を書くのですぐに県立病院へ行って下さい」
ジフテリアと聞いて、母は驚いた。私もそれが法定伝染病の一つに数えられる恐ろしい病気であることを知って怖くなった。私と母はタクシーで県立病院に駆けつけた。

 紹介状の威力ですぐに特別の診察室に通された。診察を終えたばかりの中学生くらいの少年が診察台から起き上がって服を着ていた。色の浅黒いスポーツマンタイプの少年だったが、日本脳炎の疑いでやってきたようだ。医者との会話から、診察の結果は思わしくなく、彼がいまから隔離病棟に入院するらしいことを知った。

 日本脳炎になったら死ぬか白痴になるかのどちらかだと信じていた私は、怖いもの見たさに診察室の隅から彼を眺めていた。しかし、続いて診察台に上がった私もジフテリアと正式に診断された。そして彼と同様に即刻入院になった。

 夕方、父が祖母を連れてやって来た。母は家を空けられないので、祖母が私に付き添って一緒に寝起きすることになった。


2003年11月02日(日) 図書館へのしあわせな旅

 週休二日制になって生活にゆとりが出来た。土曜日はバックパックを背負って隣町の公立図書館へというのが、私の過ごし方になっている。図書館まで車だとアッという間なので、40分ほどかけて歩く。昨日の土曜日もバックパックを背負って出かけた。

 黄金色の田圃にむらがる楽しそうな雀のむれ、空を舞うムクドリたち、風になびくすすきやコスモス、色づいた柿の実、桜の葉の紅葉と、民家の庭先の菊や薔薇、歩きながらいろいろなものが発見できてたのしい。

 図書館で本や雑誌を読み、また歩いて帰ってくる。途中、気に入った喫茶店があるので、そこでコーヒーを一杯。こうしたしあわせを実感できるのも日本が平和で、ゆたかな自然が残っているからだ。しかし、田圃の小川を覗いてみたが、10年前にはいたザリガニやメダカが見つからなかった。これは少し淋しい。

 日曜日は学校へ出かけて部活の練習を見る。テニス部の生徒たちが日差しの中で運動をするのを眺めるのも楽しい。体調がよければ、私もラケットを握る。汗をかいて、青い空を眺める。自然と共存できるこの豊かで平和な社会を子供たちにいつまでも残してやりたいと切に思う。

 今日は部活だが、お天気がよければ午後は少し早く帰ってきて、妻や二人の娘を誘って、木曽川の土手でもぶらぶら歩こうかと思っている。できれば日没の夕日を眺めたいが、お天気が心配である。


2003年11月01日(土) 民主主義と法

 民主政治の根底には、法治主義の思想がある。民主政治を作り出したギリシャは、いうまでもなく法治主義の発明者であり、確立者でもあった。たとえばヘロドトスはペルシャ王クセルクセスと、ペルシャに亡命したスパルタ王デマレトスとの対話を次のように描いている。

ペルシャ王
「ギリシャ人は自由を好むという話だ。わが軍のように、一人の統率下にあれば、指揮官を恐れる心から実力以上の力も出し、鞭に脅かされて寡勢をも省みず大軍に向かい突撃もしよう。だが、自由ならそのいずれもしないだろう」

亡命したスパルタの王
「スパルタ兵は一人一人の戦いにおいて何人にもひけをとりはしませんが、団結すれば世界最強の軍隊です。なぜなら、彼らは自由ですが、法という君主を戴いている。彼らが法を恐れることは、ペルシャ人が大王をおそれるの比ではありません。この法の命ずるところはただ一つ。いかなる大軍を迎えてもけっして敵には後ろを見せず、あくまで自分の持ち場に踏みとどまり、敵を倒すか、あるいは自分が滅びよ。ということです」

 亡命したスパルタ王の言葉はやがて正しいことが立証される。アテネを盟主とするギリシャ連合軍は、みごとにクセルクセスの派遣した雲霞のごとき軍隊をうち破る。マラトンの戦いがそうであり、サラミスの海戦がそうだった。専制君主の命令に従う奴隷の軍隊より、法に従う自由な市民の軍隊の方がはるかに強かったわけだ。アテネの黄金期を築いた政治家ペリクレスもまた、その有名な演説の中で次のように述べている。

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。・・・・・

 われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴びせることもない。私生活においてわれらは互いに制肘を加えるようなことはしない。だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない」(ツキジデス「ペロポネソス戦争の戦没者に対する最初の国葬におけるペリクレスの弔辞」)

 ペリクレスはこのように祖国の法に従って勇敢に戦って死んでいった勇士をたたえている。こうした順法精神はアテネ民主政治の中核であった。だから裁判で敗れたソクラテスも、「悪法も法なり」と言い残して、従容として毒杯を仰いだのだった。

 自由を愛するギリシャ人が、なぜ法を尊んだのか。その理由は、専制支配のなかには独裁者の自由しかないからだ。少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨とした法による統治こそが、人間に自由と平等をもたらし、国家に平和と富をもたらすと考えたからである。そしてギリシャ人はこれを「民主政治」と呼んだのだった。そうした消息が、ペリクレスの演説から生き生きと読みとれる。


橋本裕 |MAILHomePage

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