橋本裕の日記
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2005年05月31日(火) |
娘に読んで欲しい一冊の本 |
大学生の次女が今年の2月に、二十歳になった。その記念に「何か欲しいものはあるか」と訊くと、「お父さんが私にいちばん読んで欲しいと思っている本をプレゼントして」という答えが返ってきた。こんな返事を期待していなかった私は、とてもうれしかった。
さて、本の選定だが、これも楽しいことである。古今東西の古典をはじめ、現代小説まで、読書量においてはだれにもひけをとらないと自負している私だから、「娘に読んで欲しい本」のリストはいくらでも思い浮かぶ。
たとえば「聖書」である。私自身、日本聖書教会の聖書二冊(口語、文語)の他に、中央公論社「世界の名著」のものなど、5種類ほど手元に置いてある。私はキリスト教徒ではないが、若い頃から現在まで、幾度となくこれを手にして、心の栄養にしてきた。娘に読んで欲しい本のまずは筆頭である。
しかし、「聖書」というのはあまりにもメジャーな存在である。私が与えなくても、そのうち娘が欲しいと思って自分で買うだろう。この「聖書」の思想を、もっともよく解説していて、しかも宗教くさくなく、生涯にわたり何度も手にしたくなる本はないだろうか。
そうそう考えて、私は書棚の前にたたづみ、一冊の本を取りだした。神谷美恵子さんの「生きがいについて」(みすず書房)である。これこそ、私が娘に読んで欲しい本の筆頭としてふさわしい本ではないかと思った。
この本は美智子皇后の愛読書でもあるときいている。美智子さんが妃殿下となられて、いろいろ苦労され、精神的にも追いつめられているとき、この本を読み、実際著者の神谷さんにも会われ、前向きに生きる勇気を与えられたという話を、何かで読んだ記憶がある。
神谷さんはキリスト教徒だが、この本の中には「聖書」の引用は一切ない。そのかわり、多くの思想家や文学者の綺羅星のような文章にまじって、戦争で散った青年の手記や、らい病患者の文章がひっそりと効果的に引用されている。
人生に大切なもの、それは「生きがいだ」 と筆者はいう。それでは、生きがいを失った人、絶望の中に生きている人は何を求めているのだろうか。
<こういう思いにうちのめされているひとに必要なのは単なる慰めや同情や説教ではない。もちろん金や物だけでも役に立たない。彼はただ、自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいるのである>
筆者は「人間の精神の力ほどふしぎなものはない」と書く。そして「精神の固有の世界は、現実からはなれたところに身をおくことによって、はじめてうまれる」と書いている。それは新しい「心の目」を見開くことでもある。筆者は明石海人の次の詩を引いている。
人の世をはなれて人の世を知り 骨肉をはなれて愛を信じ 明かりを失っては、内にひらく青山白雲もみた 癩は天啓でもあった
筆者は少女時代をスイスで暮らしたという。その後帰国して、津田塾に学び、19歳の時、癩療養所多摩全生園を訪れている。そこでキリスト教徒の叔父にたのまれてオルガンを弾いたのだという。彼女はこののち結核になり、病棟で絶望の日々を送ったこともある。しかし、その病を克服して、アメリカに留学し、コロンビア大学大学院でギリシャ文学を学んだ。
英語は言うにおよばず、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語に堪能だった彼女が、25歳の時、医学の道に行くことを決意したのは、19歳の時に癩患者と接した体験が根底にあったのだという。
<ひとが仕事を選ぶ場合も、もし生きがい感を大切にするならば、世間体や収入よりもなるべく自分でなくてはできない仕事をえらぶのがよい>
彼女はコロンビア大学の医学部で学び、帰国して東京大学精神医局に入局、その後、長島の愛生園で癩患者を相手に精神科の診療を行った。これには多くの人が反対したようだ。しかし、彼女は少女時代からの夢に向かってまっすぐ歩き続けた。
臨床のきびしい現場に身を置きながら、しかも古今東西の思想を深く咀嚼しながら紡がれたのが、この「生きがいについて」という著作である。この本の中で、著者自身の体験と思索がみごとに結合している。しかもそれを、やさしい言葉で自在に表現している。 この本の最終章は「現世へのもどりかた」と題されている。この世から少し浮き上がることで得られた精神体験の深まりを、日々の実践のなかでどう生かすか、実は「いきがい感」を実感するにあたり、これが一番大切なことである。
<歓喜の体験のなかでつかんだものを原理として、現実の世界でそれに忠実に生きていくために、自己の道をえらびとって行くのである。その消息はブーバーの『われと汝』に、目をみはるほど劇的な表現で描かれている>
日常を離れて「悟り」を得た後、もういちど日常生活へ戻ってその精神体験をを生かすことを、仏教では「色即是空。空即是色」という。神谷さんはこうしたとても深い人生の真理を、多くの人々の手記を引きながら、わかりやすく実感のこもった文章で表現している。
それというのも、彼女自身戦争を挟んで悩み多き時代を自ら生き抜くことで、苦闘の果てに発見し掴みとった真実だからだろう。ちなみに神谷さんはよき医師であり、よき教師であると同時に、よき妻であり、よき母でもあったという。
残念ながら、この本はいまだに私の手元にある。数日後家族でデパートに行ったとき、次女が「やっぱり、靴を買ってもらおうかな」と自分のみすぼらしい靴を眺めて、前言を取り消したからである。それもよかろう。無理に進めてもろくなことはない。いつか適当な機会をみて、二人の娘に私のこの愛読書を送ってやりたいと思っている。
100年前の5月27日、28日の日本海海戦で、日本はロシアを破った。これにちなんで、5/28(土)の「天声人語」は、白川静さんの次のような言葉を紹介していた。孫引きさせてもらおう。
<アジアで日露戦争は、欧米列強の植民地支配に抗する義戦と受け取られていた。そこで兵を収めるべきだったのに、日本は欧米の侵略戦争のまねをして日中戦争、太平洋戦争とバカな戦をやった>
白川さんは漢字研究の第一人者で、95歳だという。私と同郷の福井の生まれだ。最近中国と関係がギクシャクしているが、日本はかって「漢字文化」を中国に学び、国としての礎を築いた。中国も日本も韓国も、同じ漢字文化圏である。白川さんの言葉をもう少し紹介しよう。
<私が「東洋」と言う場合、「東洋」と「西洋」との一番大きな違いは、西洋の考え方は、自然は物質的・対象的なもので、人間だけが精神的なものという考え方です。まず自然を物質と見るというところから出発するわけで、だから自然科学は発達します。
ところが東洋では、われわれは自然の中にいるのだから、自然のいろんな調和的な状態を生活の原理として取り入れるというやり方です。東洋的な考え方だと、争いが起きないのです。物質という対象的なものがない。それを奪い合うとかそういう競争的な原理が出てこないのです。・・・・
150年から200年前までの東アジアには争いが一つもなかった。しかしヨーロッパは、戦争ばかりやっていた。それで、戦争の手段としての科学技術が発達した。東洋では、戦争が絶対ではありませんから、そういう技術は興らない。むしろ人間的な調和、人間の内面的な道徳のようなものを主にして、長い間暮らしてきたわけです。
近代西洋の考え方が入ってこの方、東洋は無茶苦茶になった。日本は西洋の真似をしたらいかんのです。あくまでも東洋的な従来の世界観・価値観の中でやっていかないと、東洋全体が円満にいかない。> (漢字の復権で東洋の回復を) http://www.seikyo.org/article239.html
白川さんの豊かな学識にささえられた文化的平和主義はとても説得力がある。日本人の発明した「かな」も、もとをただせば漢字から創られたものだ。私は白川さんの「常用字解」(平凡社)を手元に置いて、漢字の奥深いたのしさを味わっている。
「戦」・・・単は二本の羽根飾りのついた楕円形の盾、戈は矛(ほこ)、組み合わせて、「たたかう、いくさ、たたかい」の意味になる。
「争」・・・棒状のものを上下より手に取る形。「静」にも「争」が含まれているが、この場合は鋤を手にもつ形。
「静」・・・鋤を手に持って、青色の顔料で祓い清めること。農具を祓い清めることで、やすらかな実りを願った。
「浄」・・・「争」は「静」の文字の要素であり、農具を手に持って清める儀式をいう。「浄」もあるいは農具を清める儀礼であったのかもしれない。
ある詩人が、「静とは空の青と海の青が争うこと」と書いていたが、これもなかなか詩的で美しい表現だと思った。しかし、「争」はほんらい農具を手に持った生産の聖なる儀式を象徴する文字だという白川さんの指摘には深いものを感じた。
<しらかわ・しずか 1910年、福井市生まれ。小学校卒業後、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜学へ。43年、立命館大学法文学部卒業。54年、同大学文学部教授、81年、同大学名誉教授に。漢字研究の第一人者で、73歳から執筆を開始し漢字の字源辞典『字統』のほか『字訓』『字通』を刊行。中国古代文学の研究書も多数執筆している。文学博士。84年に毎日出版文化特別賞、91年に菊池寛賞、96年度の朝日賞受賞。98年、文化功労者として顕彰される>
2005年05月29日(日) |
スポンサーに弱い新聞 |
私はあまりテレビを見ない。テレビ番組にも「クローズアップ現代」などすぐれたものがある。教養番組やドラマなども面白いものがある。しかし、私の実感だと、情報量の点で、読書の10分間はテレビの1時間にまさる。
それにテレビにはスポンサーが付きものだ。民放の場合は企業である。NHKのスポンサーは国だ。さらに、「視聴率」という隠れた暴君がいる。こいつがろくでもないやらせを製作現場に持ち込む。
そこで私は本を読むことにしている。新聞や雑誌も読む。自宅で購入しているのは「朝日新聞」だが、ほとんどの新聞の社説をインターネットで読むことができる。私のHPには各紙の社説やコラムが読めるHPがリンクしてある。
http://www.ne.jp/asahi/sec/eto/NewsPaperLink.html
これを使って、「朝日」だけではなく、「日経」「読売」「産経」などの社説も目を通す。比較すると、違いがわかる。いろいろな立場から多面的に眺められて面白い。
たとえば、少し古くなるが、イラク戦争についての各紙の社説の題を拾ってみよう。いずれも、2003年3月19日、20日のものである。
○朝日新聞……「この戦争を憂える」 ○毎日新聞……「首相支持表明その理由をなぜ語らない」 ○日経新聞……「米国支持の政府方針はやむをえない」 ○読売新聞……「イラク攻撃小泉首相の決断を支持する」 ○産経新聞……「妥当な独裁排除の決断」
「朝日」にしても、明確に「戦争反対」というわけではない。あくまでも「憂える」という中途半端な表現である。こう表現しなければ、世間に受け入れられないと「商業的に」判断したのだろう。バクダッド陥落直後の4/11の社説でも「フセイン後のイラク破壊の跡に何を築くか」と評価に踏み込まない。
「読売」はバクダッド陥落直後の4/11の社説でも、「イラク戦争正しかった米英の歴史的決断」という具合に主張が明解である。1000万部の発行部数を誇る読売新聞の社説だけに、世論に与える影響は大きい。
国民が右傾化すれば、新聞も企業防衛上、右傾化するしかない。それにテレビほどではないにしても、それでも収入の半分以上は広告収入だ。だから、主張は、どうしてもスポンサーである企業に都合のよいものにならざるをえない。
雑誌や週刊誌の場合は、広告収入の割合は新聞ほどではない。そうした意味で、私は「週刊文春」や「週刊新潮」などの右派系の週刊誌も貴重な情報源として活用している。たとえば最近喫茶店で読んだ「週刊文春」(6/2号)には「朝日」を批判したこんな記事が載っていた。メモと記憶による再現なので、正確な引用ではない。
<99年12月22日、みずほファイナンシャルグループの事業戦略発表記者会見が開かれ、翌日の朝日新聞の紙面に、山田厚史編集員の署名入り記事「『コメ銀行』脱却できるか」が掲載された。この中で山田記者は三行の頭取・副頭取から横滑りしてきた新しい経営陣に対して、「有能な人たちだが、護送船団時代に活躍し、経営失敗の一例を担った人たちだ」と厳しく評した。
これに興銀頭取から横滑りしてきた西村正雄の怒りが爆発し、「朝日が主催する東京国際マラソンの協賛をボイコットする」と朝日の箱島社長に抗議した。驚いた箱島社長はさっそく詫び状を出し、山田記者は2年8ケ月もバンコクの支局に左遷された>
東京国際マラソンのためにみずほ銀行が用意していた協賛金は約三億円だという。あわてて詫びを入れたのも、スポンサーに弱い新聞社ならではのことだろう。「社員教育を徹底させたい」という内容のわび状が「週刊文春」にスクープされている。
最近の朝日の紙面からはスクープが消え、かわりに「ニッポン人脈記」のような財界人のちょうちん記事が連載されようになった。「週刊文春」は朝日新聞が半年間で5000部も減らしたのは、こうした朝日の変節に愛想をつかした良質な読者が逃げていったせいではないかと分析している。
私はもとより「朝日」は財界よりの新聞だと判断している。それは小泉政権が進める「構造改革」にたいする協賛記事をみればわかることだ。財界の御用新聞といえば「日経」や「産経」が浮かぶが、「朝日」も反権力を装いながら、その実態は財界の御用新聞である。余計にたちがわるい。
日清戦争で「朝日」と「読売」は熾烈な販売競争をした。そしてその後、戦争のたびに人間の生き血を吸って図体を大きくした。敗戦でドイツの新聞社はすべて倒産したが、日本の新聞社は一社も倒れなかった。
戦争を賛美し、国民を扇動し、ときには政府や軍部まで「てぬるい」と噛みついた新聞社が、戦後になって、どうしてまともに軍部や天皇の責任を問えるだろうか。それどころか、またそろそろ戦場の血の匂いが恋しくなってきたようだ。
2005年05月28日(土) |
ナショナリズムの底流 |
「靖国法案」が廃案になった4年後の1978年、 宗教法人靖国神社は東条英機と13人のA級戦犯を、「昭和殉難者」として秘密裡に合祀した。このことが明らかになったのは、翌年、新聞で報じられたからである。
当時の官房長官の宮澤喜一は公式参拝について「違憲ではないかとの疑いをなお否定できない」との政府統一見解を発表した。これを受けて首相の三木武夫も「私人」として参拝した。その後、鈴木善幸や中曽根康弘が「公式参拝」したが、中国から批判されてとりやめている。
ところが小泉首相だけは「内政干渉だ」とまるで喧嘩腰である。これについて、マスメディアの論調もさまざまで、「中国はけしからぬ」という論調も少なくない。朝日新聞にしても「小泉構造改革」には好意的で、公式参拝には批判的だが、論調はどこか精彩を欠いている。
その背景について、国際ジャーナリストの浅井久仁臣さんが「国際情勢ジャーナル 5月26日号」に「靖国問題の底流にあるもの」と題して書いているので、一部を引用しよう。
<それにしてもこの靖国問題。日本の政治家達は、何故にこれほどまでに頑なに参拝を強行するのだろうか。これはただ単に、靖国問題に留まらず、「君が代日の丸」、「歴史教科書」、「憲法改定」など一連の「神国ニッポン」の復活を願っての動きに連動するものと捉えるべきであろう。毎年のように政治家達がアジア諸国からの反発を承知しながら繰り返す「問題発言」にはそのような背景があると見るべきだ。そしてそれらの復古待望論は着実に国民の間に浸透し始めている。
私の周りで最近、「亡くなった人を慰霊して何が悪いの?」という声を聞くようになった。また、「国旗や国歌は必要でしょ?」「中国や韓国だって自国の視点に基づいた歴史教科書を作っているのでは?」「憲法はアメリカに押し付けられたものじゃない?」という声も年々高まっている。祖父母の世代が行なったアジアへの侵略戦争が間違いなく「遠い過去」になり「不幸な出来事」程度に思われ始めていることの表れなのではないかと私は憂慮する>
森首相が「日本は天皇を中心とした神の国だ」などと発言して、おおかたの失笑をかったのはわずか4年前のことだが、もうはるか遠い昔のようにさえ感じられる。そのくらい、小泉政権の下で時代の流れが大きく変わった。
朝日新聞はこの半年で5000部も販売部数を減少させたという。これからはもっと勇ましい「愛国的」な右傾新聞が売れることだろう。そしていずれは、ほとんどのマスメディアがこうした色に染まっていくに違いない。朝日新聞も例外でないだろう。
そうした暗黒の潮流に流されないように、歴史に学び、物事をより深く考える中で、ナショナリズムという狂気に犯されない「個人力」を育てなければならない。人々の胸に良識の火が甦れば、怨霊は退散し、日本も甦る。私たちは将来振り返ってみて、ふたたび後悔しないためにも、今できることをしよう。
なお、戦時中のマスメディアの変節については、「マスメディアと戦争」にくわしく書いたとおりである。一般国民の戦争責任について論じた「国民の戦争責任」も今の時代を考える上で参考になると思う。 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/masmedia.htm http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/sensou.htm
2005年05月27日(金) |
国を破壊する小泉首相 |
公明党の神崎代表は25日の記者会見で「事態を沈静化させるためには、小泉首相が靖国神社参拝を自粛する、靖国神社に合祀(ごうし)されているA級戦犯を分祀(ぶんし)する、国立の追悼施設をつくる。この解決法しかないと思う」と語り、「首相が参拝を自粛することが、この局面では一番重要だ」と強調した。(昨日のアサヒ・コムより)
これに対し首相は同夜、記者団に「様々な意見がありますから、いいと思います」と語るにとどめたという。与党である公明党からの要求である。首相もすこしは真剣に受け止めるべきだろう。こうした小泉首相の無神経な発言に、さすが公明党の神崎代表もご立腹のようだが、これを機会に、公明党は自民党と縁ぎりをしてはどうか。
小泉政権があるかぎり、近隣諸国との関係改善はむつかしい。安保常任理事国入りも夢物語だ。公明党の離反で小泉政権が瓦解すれば、こうした夢も現実になるかも知れない。よいかどうかわからないが、これで公明党は大いに手柄を立てて株をあげるだろう。池田大作さんも悲願の国民栄誉賞、ノーベル平和賞を手にできるかも知れない。
今後の日本の選択としては、次のものが考えられる。 ①アメリカに頼り続ける。 ②アメリカと協調しながら、他国とも友好関係を築いていく ③中国との関係を重視して、東アジア共栄圏をつくる。 ④アメリカとも中国とも等距離で仲良くする。 ⑤その他
小泉さんは②を口にするが、本音は①だろう。③④の選択は果たしてアメリカが許すかどうか。とくに③は共産主義、反日の中国ではむつかしい。やはり②のアメリカと協調しながら、アジアの近隣諸国とも友好関係を築いていって欲しいというのが、国民の一般的な意見ではないだろうか。
小泉首相もこうした国民の声にもっと声を傾けて欲しい。「自民党をぶっつぶす」といいながら、破壊したのは「国民生活」だし、国際協調といいながら、靖国参拝にこだわって、「近隣友好」を破壊している小泉首相は、今の日本にとって考えられる最悪の嘘つき二枚舌首相である。
歴史をふりかえってみると、「靖国神社法案」は、1969年から国会に5回上程され、1974年5月25日法案が自由民主党の単独審議の形で、衆議院を通過した。しかし、これに反対する国民運動が高まるなかで、参院で否決されて廃案になった。
しかし、その後も自民党はあきらめず、「戦没者追悼の日制定」を党議決定し、のちに「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として実現した。また、「靖国神社公式参拝」を党議決定し、1980年、鈴木首相をはじめ18閣僚、参議院議長が大挙して靖国神社を参拝した。小泉首相の公式参拝もこうした自民党右派の一貫した意志を体現したものといえる。
最後に、日本戦没学生記念会(きけわだつみのこえの会)が1974年5月 20日に発表した声明文を引用しておこう。これは靖国神社法案の内閣委員会での採決強行を批判して出されたもので、靖国神社の歴史を俯瞰し、その欺瞞性を鋭く暴いている。
---悪法「靖国神社法案」の廃絶を願う---- 日本戦没学生記念会
政府自民党は、過ぐる 4月12日、靖国神社法案の内閣委員会での採決を強行した。今回の強行採決が、春闘さわぎに乗じての火事場泥棒的ともいうべき言語道断のものであったことは誰の目にも明らかであるが、そうした手続き上の問題以前に、この法案の内容およびそれを是が非でも成立させようとする人びとの意図は、わたしたちが平和を願い、お互いの個人的人権を尊重し、国政の権威は国民に由来することを確信する、日本国憲法下の人民であるかぎり、絶対に容認できないものである。
昭和20年8月15日、敗戦の日までの靖国神社が、各地にあったその末社ともいうべき護国神社とともに、天皇制ファシズム国家、大日本帝国の精神的拠点として、日本人のこころを金しばりにするためにいかに機能したか、具体的にいうなら、一人の人間を、赤紙一枚で天皇の"醜の御楯"として、戦場に狩り出し、挙句のはて白木の遺骨箱に変えてしまい、しかもその不条理をいささかも国民に気づかせない、という巧妙な非人間的欺瞞の機能を、いかにみごとに果したか、ということを、わたしたちは夢にも忘れることはできない。
しかも、もともとわが国の風土のなかにつちかわれた土俗的な民間宗教としてあった神道の祭祀が、明治・大正・昭和にかけての 80年のわたしたち日本民族の歩みのなかで、あれほどの思想統制的役割と政治的機能とを果たしえたのは、一にも二にも、それを本来の民間宗教的な信仰の次元から、天皇中心の超国家主義に見合う超宗教に仕立て上げるために、明治以来、国家権力の側から不断の働きかけがなされたからにほかならない。
靖国神社法案とは、最大の神道的祭祀にほかならぬ靖国神社を宗教団体ではないとする、いわば烏を鷺と言いくるめる詭弁を弄しながら、ふたたび神道的祭祀への国家権力の介入によって、超宗教への回帰をめざすきわめて悪質な政治的こころみである。このことは基本的人権のなかでも、事が人間の内面性にかかわるだけに特に重大な意味を持つ信教の自由への、政治権力の暴力的介入そのものである。これはすでに、日本国憲法に抵触するか否かの段階の問題ではなく、まさしく日本国憲法を、その根源の精神的原点においてつきくずす意図に出るものと言わねばならない。
わたしたちは「きけわだつみのこえ」にみられる戦歿学徒兵たちの遺思を継承するこころざしをもって結ばれた者たちの集いである。彼ら戦歿学徒兵たちは、日本の破局への歩みを、さめた眼ざしとふかい憂いとをもってみつめながら、しかも自らを生んだ国土のために殉ずることを避ける気持ちをもたなかった。彼らの悲願が、日本の平和国家としての再生、つまり、そこでは基本的人権が尊重され、国権はただ国民に由来し、恒久平和への願いがすべてに優先する民主的国家の実現にあったことを、わたしたちは確信している。
学徒兵たちは現に靖国神社に合祀されているが、もしも靖国神社が国家権力によってその祭祀をささえる敗戦前の超宗教的な形に復帰するならば、彼らの霊にやすらぎのありようはない。わだつみ会員たるわたしたちが、この悪法の廃絶を真にねがう所以である。
1974年 5月 20日
中国の呉儀副首相が小泉純一郎首相との会談を突然、中止し、帰国した。中国外務省はキャンセルの理由を「日本の指導者の最近の言論で会談に必要な雰囲気がなくなったためだ」と発表した。せっかく関係改善に向けて動いていただけに残念である。
小泉首相は会談を直前にして、国会で「靖国参拝を今後も行いたい」と発言している。自民党の武部勤幹事長も王家瑞・中国共産党対外連絡部長との北京での会談で、「首相の靖国参拝に対する中国側の批判は内政干渉だという人もいる」と述べ、反発する王氏と激しい応酬になったという。これらが会談中止の原因らしい。
小泉首相や与党の多くの議員は、首相の靖国参拝は当然で、これを中国政府が批判するのは「内政干渉」だと思っているらしい。少なからぬ国民もそう思っているようだ。しかし、これは彼らが靖国神社の本質を知らないからだ。
戦争中の靖国神社は天皇のために死ねる兵士をつくるための教育機関だった。また、他国を侵略する過程で夥しく生産された理不尽な死を、国民の目をあざむいて「英霊」として祭り上げるために作られた巧妙な擬似宗教機関だった。
靖国神社に限らず、日本人は古来より、時の権力者の手で非業の死をとげた人を、加害者である権力者そのものの手で神にまつりあげ、その怨霊から逃れようとして数々の神社を作ってきた。非業の死を遂げた人の魂を安らかにするためと称して彼らを神に祭り上げてきた。
靖国神社もこうした傾向をもっている。とくにA級戦犯の人々を神としてあがめようという心性は、彼らが東京裁判によって絞首刑になったという事実とわかちがたく結びついているように思われる。それは靖国神社のウェブサイトを覗いてみればわかる。
<日本と戦った連合軍の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、無惨にも生命をたたれた1068人の方々…靖国神社ではこれらの方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています>
戦後の靖国神社は、A級戦犯を神に祭り上げるために多大な貢献をしている。これに被侵略国である中国や韓国が反発しているわけだ。もし、靖国神社にA級戦犯が祭られていなければ、首相の参拝発言がこれほど問題になることもなかっただろう。
小泉首相は国会答弁で、「罪を憎んで人を憎まず」と言ったが、死んだ人を悪く言わないのも、日本人の美風のようでいて、じつは祟りが怖いからというのが原点だった。死者の魂を鎮めるためと称しながら、実は生き残った自分たちの平安を求め、さらに死者を神にまつりあげることで、すべての悪行を隠蔽しようとするわけだ。
靖国神社もそのような悪事隠蔽のための機能をもっている。戦争という悪事をむしろ神聖化しようとするだけに、とてもたちのわるい存在である。国民や政治家がこうしたものを容認していては、いくら口先で「反省」を唱え、ODAで多額のお金をばらまいても、近隣諸国には信用してもらえないだろう。
アリストテレスによれば、哲学はミレトスの商人であったタレス(BC624~BC546)から始まった。タレスは「万物の根源は水である」と述べたという。世界は生成変化し、流転する。こうした生き生きとした世界の本質を、タレスは自在に変化する「水」のなかに見た。
タレスは「同じ川に人は二度と入ることはできない」「太陽は日々に新たである」などと述べている。世界を変化の相の下にとらえ、しかもその根底を貫いて変わらないものが存在することに、人々の目を向けさせた。
タレス以来、「万物の根源は何か」という問が始まった。アナクシマンドロスは「空気」だといい、ヘラクレイトスは「火」だと考えた。しかし大切なのは、その「答え」ではない。こうした「○○とは何か」という「問」が存在することに気付いたことである。
その意味で、タレスこそ最初の哲学者だった。タレスはまた、すべての三角形の内角の和が直線(180度)に等しいことを最初に「証明」した。「真実は人間の理性によってあきらかにされる」ことを最初に自覚した人でもある。こうしたことからも、タレスは数学や哲学の祖とよばれるのにふさわしいだろう。
タレス以後、自然や宇宙についての探求が続いた。アナクサゴラスは天を指さして、「あれがわが祖国だ」と言ったという。こういう感情を私も中学生の頃味わったことがある。毎晩のように公園にでかけて星を眺めていた。そしてSF小説を読みふけったものだった。
人類の歴史に戻ろう。自然哲学とよばれるこうした宇宙中心の知の流れを変えたのはソフィストとよばれる人々である。彼らの視線は自然や宇宙から人間世界へと向けられた。大切なのはこの社会であり、そこで人間が如何に幸福に生きるかが問題になった。
たとえば黄金期のアテネで活躍したプロタゴラス(BC490~BC420)は「人間は万物の尺度である」と人間中心主義の思想を高らかに謳い上げた。もはや人間は神に従属する存在ではない。自己の理性によって、世界を創造していくことができる。彼のこうした自信の背景には、ペルシャという大国をうち破り、民主制を実現したアテネの繁栄がある。
民主的な議会制を発案し、人民主権による近代的民主国家の基礎を築いた理論家はイギリスのジョン・ロックである。プロタゴラスはこのロックに比肩されるギリシャの思想家と言える。古東哲明さんの「現代思想としてのギリシャ哲学」(ちくま学芸文庫)から引用しておこう。
<プロタゴラスは、伝統や習俗にもとづく国家ではなく、明晰な議論と、開かれた言説と、整備されたノモス(法律・規範)や発達したテキネー(技術)による、あたらしい共同体の確立の方向性を与えた。そして、民主制や社会の進歩発展の正当性を根拠づける思想を展開する。
アテネの黄金時代の思想的ベースをつくったのは、かれである、といっても過言ではない。アテネを中心とした国家プロジェクトである植民都市トゥリオイ建国にあたり、その基本法(憲法)制定の任を委嘱されたのも、そのためである。明敏で雄々しく、民主的で革新的な、じつに立派な思想家である>
しかし、プロタゴラスの「人間中心主義」はある種の理論的脆弱性を持っていた。真理の根拠が人間の中に存在するとすると、真理も又人間の数だけ存在することになる。神を否定し、人間たちのコンセンサスで真理を決めるというのは、よほど人間に対する信頼がなければ成り立たないシステムである。げんにアテネの繁栄はやがて人々を慢心させ、堕落させた。そして人々の心にニヒリズムが忍び寄ってきた。
そうしたとき現れたのがソクラテスだった。ソクラテスは人々の関心を人間から、さらにその内面に向けさせた。彼は社会的成功や繁栄に酔いしれている人々を批判し、大切なのは「魂への配慮」であるといい、「よりよく生きるとはどういうことか」という倫理的な問いをその独特な対話術によって鋭く人々に投げ与えた。
こうして哲学はまったく新しい次元を迎えた。自然哲学から人間・社会哲学へ、そしてついに、人間の内面世界の発見・探求へと向かい、この傾向はプラトンにひきつがれる。それではプラトンは真理の根拠をどこに求めたのか。
プラトンは真理はすでに「イデア」として存在していると考えた。それは人間が議論して到達するものではなく、あらかじめ人間から超越して存在するものである。人間はイデアに背を向けるのではなく、努力してこのイデアに至らなければならない。そしてこのイデアに精通した少数の哲学者が政治を行うことで、理想的な社会が到来する。これがプラトンが考えたことである。
アリストテレスはプラトンについて学んだが、彼の「イデア説」はとらなかった。アリストテレスは真理はあらかじめ超越的に存在するものではなく、人間がその知性によって経験的に獲得していくものだと考えたからだ。そして、「哲学」はそのために必要な道具だとした。
彼にとって真理とは彼岸的ものではなく、あくまで現実の世界に根ざしたものでなければならなかった。そのために彼は「論理学」とともに、「観察」を重視した。とくに生物に興味をもち、標本の収集に精力を使ったりしている。
こうしてアリストテレスによって、ふたたび自然哲学が甦った。人々の関心がふたたび自然へと向けられ始めた。この流れをさらに押し進めたのがストア派の人々である。彼らは自然と人間を独特な方法で和解させた。つまり、人間の中に自然を発見したのである。
ストア哲学において、外部の自然は内部の自然と響きあい、内部の自然は外部の自然と響きあっている。そして彼らは真理の根拠をこの外部であり内部であるところの「自然」に委ねた。こうして生き生きと生成するヘラクレイトスの「火」は人間の内部に明かりを灯し、タレスの「水」は人間の心を潤す清冽な生命の泉となった。
ストア派の哲学者は、プラトンの中心学説である「イデア」の存在を認めなかった。これはアリストテレスもそうだったが、この点でストア派はさらに徹底している。それでは何故、彼らはイデアを実在しない虚妄とみなしたのだろう。
それは彼らがこの世のあらゆる出来事はお互いに関連して生起しているという縁起説を採用したからだ。そしてお互いがお互いに依存している相互依存の世界では、プラトンやアリストテレスが言うような実体というものは存在しない。
<最初の出来事は、その出来事の原因であり、すべての物事はそうした仕方で相互に結合しているから、宇宙の内で生じる物事で、何か他のものが必ずやそれに随伴しそのものを原因としてそれに接合している。すべて生成するものには、何か別のものが、それを原因として必然的にそれに依存するという仕方で随伴するのである>(フォン・アルニム「初期ストア哲学資料集」)
縁起説は仏教の根本学説でもある。釈迦は菩提樹のもとでこのことを悟った。そしてすべての存在は実体を持たないのに、これを実体だと考えることから人間の奴隷状態が生じていると考えた。釈迦はこうした幻想から自由になり、奴隷状態から解脱することで新しい人生が開かれると考えたわけだ。これはプラトンのイデア論を批判したストア哲学の立場とほとんど変わらない。
ソクラテスは「無知の知」を主張し、相手との対話によって、社会に通用し、相手が真理だと信じているものが虚妄に過ぎないことを明らかにした。ストア派はこうしたソクラテスの精神をうけついでいる。ソクラテスがその巧みな弁論を用いて攻撃したものを、ストア派の哲学者は「縁起論」を用いて攻撃している。そしてこれはまさしく釈迦が用いた方法でもある。
ゼノンなきあと、この人なくしてストア哲学なしと言われたクリュシポスは、車が回転するためには二つの原因がなければならないと考えた。一つはその車を押す外力である。しかし、この外力だけでは車は回転しない。もっと本質的なことは車が丸い形をしているために車が持っている「回転能力」である。
クリュシポスはこうした例をつかって、物事が生じるには外的な「補助要因」と、そのもに由来する「主要な要因」が必要であり、こうした二種類の原因が働き合って様々な現象が生起することを説明している。
仏教の「縁起説」の場合も、そのものに内在する「因」に外的な原因である「助縁」もしくは「縁」が働くことで、ものごとが生起すると説いている。この点でも、ストア哲学の縁起説は、仏教のそれとよく似ている。
ストア哲学の自然観は、現代科学とも相性がよい。彼らはヘラクレトスに従って「万物の根源は火である」と考えたが、これは「万物の根源はエネルギーである」とする現代物理学の理論を先取りするものだった。
さらに彼らは水面を伝わる波の運動を研究し、「音」もまた空気を振動させて伝わる3次元の波動であることを正しく洞察している。こうした洞察が生まれる背景には、「自然は物質からなりたち、それらの物質はおたがに相互作用してあらゆる運動をつくり出す」という彼らの合理的な自然観が根底にあったからだろう。
物事にはすべて原因があるということ。そしてこの世で起きることはすべて、この原因と結果の複雑にからまった長い連鎖であるということ。このことを正しく認識すれば、我々は我々の将来をも予測することできる。ストア派の哲学者はさらにこうして世界が無限に創造されると考えた。そしてその根本にある第一原因(神)を「創造する理性」とよんだ。
<われわれストア派は、第一の一般的な原因を求める。われわれは、この原因は何かと尋ねる。答えは「創造する理性」、すなわち神である>(セネカ「書簡」)
<宇宙よ、あなたにとってよき調和をなすものは、すべてわたしにとっても調和あるものです>(マルクス・アウレリウス「自省録」)
ストア派はこの宇宙を変化し創造されるものとして捉えている。そしてプラトンやアリストテレスのように天上界と地上界をわけなかった。宇宙は単一の原理(ロゴス)の産物であり、「創造する理性」の産物である。そして人間をはじめ生きとし生けるものも又、これによってこの世に生み出され、やがて宇宙の塵に還っていく聖なる存在だと見なされた。この宇宙の調和にしたがうことが、「善き生」だとされたのである。
ストア哲学の倫理思想はソクラテスを受け継いだ犬儒派の克己主義を受け継いでいる。今日、ストイックと言えば、こうした禁欲的な生き方を指す。しかし、ストア哲学はたんに克己的なだけの人生哲学ではない。
それは論理学でもあり、また自然哲学でもあった。そしてストア哲学の倫理思想は、その自然哲学や論理学と深く結びついている。たとえばストア哲学に傾倒したキケロは、この哲学の体系的な見事さをカトーの言葉を引いて次のように書きとめている。
<この体系の驚くべき整合性と、主題の信じがたい秩序とが、わたしをして長々と語らせてしまった。不死なる神々に誓って、きみはこれに驚嘆しないのか。一文字でもきみが動かすならすべてのものが崩れ落ちてしまうほどに他のものと緊密に結びついている>(キケロ「善と悪の究極について」)
ストア哲学の見事さは、こうしたギリシャ的な論理性の明晰性や普遍性に支えられている。キリスト教がストア哲学を異端として駆逐する以前は、帝政ローマにおいても、それ以前のローマにおいても、ローマの人々がまず帰依したのは、プラトンでもアリストテレスでもなく、まさにストア哲学だった。
それでは、ストア哲学のこのように壮大な自然観、人間観はどこに由来するのだろうか。その源流を訪ねていくと、私たちは古代ギリシャの一人の哲学者、ヘラクレイトス(BC540~BC480)にたどりつく。
彼はミレトス派の世界観にみられる生成変化の思想を発展させ、「万物は流転する」と説いたことで有名である。彼は又火を万物の原理とし、火が万物へ、万物は火へ転化するという思想を持っていた。これはストア派の哲学に受け継がれている。
さらに、彼は生成変化する世界の中に、変わらないものがあると考えた。生成変化を支配する永遠の理法を、かれはロゴスとよんだ。彼は「世界は神々や人間によってつくられたのではなく、ロゴスによって燃え、ロゴスによって消えながら、永遠に生きる火であったし、あるし、あるであろう」と述べている。
ロゴスは対立し生成変化する世界を統一し、そしてそれは人間の内部にも生きて働いている。ロゴスは万人によって共有され、それゆえに万人に共有される「真理」の存在が可能である。ストア派はこの「ロゴス」の概念をヘラクレイトスから受け継いだ。
<宇宙の自然は、自発的な運動と試みと衝動をもち、魂と感覚によって動かされるわれわれ自身と同じように、それらと合致する行為を示す>(キケロ「神々の本性について」)
こうしたヘラクレイトス的な発想は、ストア派のみに受け継がれているわけではない。それはギリシャ哲学が一般的にもつ特質でもある。しかし、ストア派はこの気宇壮大な思想を、きわめて精緻なものに築きあげた。そして何よりも重要なことは、それを人間一人一人の日常の中に生かそうとしたことである。それは最早神話ではなく、人々がそれによって日々の生活を営むべき実践的指針になった。
ストア派の哲学は、インドのウパニシャッド哲学と強い近親性をもっている。これについては二つの見地から説明できるのではないかと思っている。その一つは「真理の普遍性」ということである。この立場に立てば、ギリシャにヘラクレイトスが生まれたように、インドにまた別のヘラクレイトスが生まれるのが自然である。ヘラクレイトスは日本に生まれても不思議ではない。事実、日本の古神道もまたきわめてヘラクレイトス的なものをもっている。
もう一つは「真理の伝搬性」ということである。当時シルクロードを通して、ギリシャ世界はアジア世界と活発な交流があった。とくに重要なのは、アレキサンダーの東征である。これによってギリシャ思想はインドにまでもたらされた。ヘレニズムの影響によって生まれたウパニシャッド哲学や仏教との類縁性はこうした立場からも説明される。
最後に、ストア哲学の「死生観」についても触れておこう。この世に存在するのものは物質であり、これを支配する唯一のロゴスの存在しか認めないストア哲学は、独立した魂の存在を認めない。若干の例外はあるようだが、これがストア派の人々の基本的な考え方である。
つまり、私たちはロゴスに従って、宇宙の塵から生まれ、ロゴスに従って成長し、そしてロゴスに従って死ぬ。死ねばその肉体は解体し、宇宙の塵に還るわけだ。宇宙は本来一つの生命体であり、われわれもまたその一部として生成消滅するというストア派の死生観は、プラトンが説いている「魂の不滅」とは対照的である。また天国や地獄の存在を前提にするキリスト教の死生観ともまったく相容れない。
キリスト教の支配する時代にあって、プラトンやアリストテレスが生き残り、ストア派の哲学書が異端として嫌われ、その原典がほとんど失われたのは、こうした事情によるところが大きいと考えられる。しかし、ストア派の思想が真実であるならば、それは何度でも甦り、そしてその思想は多くの人々によって受け継がれていくだろう。
ストア派の哲学がもたらした果実はたくさんある。後代への影響を考えると、なかでも大きいのは「自然法思想」であろう。たとえば「生まれながらにして人間は平等である」という考え方が正しいのは、それが自然の理法にかなっているからだというのが、この思想である。
こうした「自然法思想」の淵源をたどれば、へレニズムのストア派にいきつく。彼らはコスモポリタリズム(世界市民主義)という思想を背景にして、奴隷をも含む人間の平等を主張した。これは奴隷制を支持したプラトンや容認したアリストテレスとは大きく違っている。
ストア派はこの世界を生成発展するものと考えている。そしてこの生成発展する世界の本質を「ピュシス」と呼んだ。ピュシスこそが自然の本性であり、そして自然の一部である人間の本性だと考えられた。
この自然の本性に従って生きることが自由であり、そしてまた最高の正義であり善であるという。そして社会の掟である法(ノモス)もこうした「自然の道理」に従わなければならないと考えた。ノモスがこのような自然法に近づいたとき、私たちは理想の社会生活をいとなむことができるわけだ。ストア派を代表するローマの哲学者キケロは「各人に各人のものを分配すること、これが要するに最高の正義なり」といっている。
ストア哲学は人間に内在するロゴスは、宇宙に内在するロゴスと同じものだと考えた。そして宇宙は調和と崇高さにみちている。この豊かさを自己の内部として感じることが、すなわちストア的な「悟り」である。そして、ロゴスは宇宙にゆきわたっており、それはすべての人間にも平等に与えられている。
人間はこの内在するロゴスにしたがって、その社会をつくらなければならない。こう考えてくると、たとえば今日の日本国憲法の説く「平和主義」や「基本的人権」の考え方が、そのままストア派の「自然法思想」の豊かな果実だということがわかるだろう。これに対し、「愛国心」や「国家権力」による規律の強制をとくのは、ロゴスなきノモス、ピュシスなきノモスを重視する立場だということができる。
そうした一派は昔から世界に存在した。ギリシャにもローマにも、その後の世界にも存在した。それはたんに政治的立場の相違ということではなく、もう少し立ち入って考えてみれば、この世界と人間をどう捉えるかという哲学の相違だともいえる。したがってストア派の哲学を学び直すことは、現代を生きる私たちにとっても有意義なことだろう。
2005年05月21日(土) |
死者たちと交わるたのしみ |
古代ギリシャの人々は若いときに身を清めて神殿に出向き、「最善の生を送るのに何をしたらよいか」と神に問う習慣があった。これによってソクラテスは「汝自身を知れ」という有名な神託を得た。ディオゲネスのそれは「世の中に流通しているものを変えよ」ということだった。
フェニキア人の商人だったゼノン(BC333~BC261)が受けた神託は、「死者たちとまじわるように」ということだったという。ゼノンはこれを「古人の書物から学べ」と解釈したのだという。そしてクセノポンの「ソクラテスの思い出」という書物にであった。
こうして哲学に興味を持ったゼノンは、船が難破してたどりついたアテネで、本屋の主人にすすめられるままクラテスの弟子になった。彼はのちに「船が難破したのは、今になってみると、私にはよい航海だったのだ」と語り、運命に感謝したという。
仏教に「逆縁」という言葉がある。私の場合も哲学書など読み始めたのは、県立高校の受験に失敗し、仏教系のミッション・スクールに入学したことがきっかけだった。1年生の仏教の授業で、この「逆縁」という言葉を教えられた。
県下一の進学校だった県立高校に合格していたら、私の人生はまた別のものになっていただろう。高校時代からデイオゲネスに惹かれ、カントやショーペンハウエルなどの哲学を読みあさり、現在もまたこうした文章を書いていることはなかったかもしれない。(自伝「少年時代」参照)
デオゲネスは神託に従って贋金をつくり、故郷を追放された。しかし、これがきっかけでアテネにきて哲学者になった。このように、哲学者の多くは何かの不幸な出来事を経験し、これをきっかけに哲学という異次元の空間に飛び込んでいっている。
ゼノンはアテネのアゴラ(広場)を囲む柱廊(ストア)を歩きながら哲学の講義をしたという。このため彼の一派は「ストア学派」とよばれるようになった。ゼノンに限らず歩きながら思索をするというのは古代の哲学者のスタイルだったようだ。アリストテレスも学園を散歩しながら講義をしたので、彼の場合は「逍遥学派」と呼ばれた。
ゼノンは弟子たちに「哲学」というものを理解させるために、まず左手を広げたまま突き出し、そして握ってみせたという。私たちはまず、生きるためにこうして世界を掴む(認識する)わけだ。ゼノンによればこれが通常の知ということだった。
つぎに、ゼノンは右手を伸ばし、これで左手の拳を包み込むようにして握った。これによってゼノンは世間に生きるために忙しく動いている私たちの思考活動そのものを、もう一段高いレベルから思索し把握するという高度な知の存在を示そうとした。
ただ生きることにあくせくするのではなく、そもそも「生きるということはどういうことか」を考えてみる。こうしたメタ思考がすなわち「哲学」の本質であることを、ゼノンは両手を使ってわかりやすく説明したわけだ。
こうしたメタ思考によって、私たちは自分の人生をあたらしい次元からとらえなおすことができる。それはまた、この世のただ中に生きる自分を、もう一段高いレベル、あえて言えば、宇宙の一点から見下ろし、把握し直すということだ。
そのとき、おそらく、人生の様子が大きく変わって見える。何気ない日常の景色が、あたらしい光りの下で、まるで別物のように甦ってくる。アリストテレスはこうした体験を「存在驚愕」(タウマゼイン)と呼んだ。
プラトンは哲学をすることの意味は、「だれもが持っていながら眠らせている心の中の器官や能力を、向け変える(ペリアゴーゲ)ことだ」と、「国家」の中で述べている。いくら知識を身につけて、博識の学者になっても、ペリアゴーゲを体験せず、「この世をみる見方の学び直し」ができていない人には、人生の美しい実相はみえてこない。人生の美しい実相とは何か。それはたとえばこのような世界である。
<ユリアヌスの眼には、青空も、雲も、木漏れ日も、葉のそよぎも、溢れる泉も、そこに、そうしたものがあるということだけで、何とも説明のできない不思議なことのように見えた。空の青さの何という不思議さであろう。木漏れ日の恵みに似た明るさは、また何という不思議さであろう。なぜそよ吹く風があり、自然を輝かしく育てる太陽の光があるのか。>(辻邦生著「背教者ユリアヌス」より)
メルロ・ポンティは「ほんとうの哲学とは、この世をみる見方を学び直すこと」(知覚の現象学)と書いているが、東洋流に言えば、「空」の世界に入り、そこから地上に帰ってくるわけだ。こうして人の魂があらたな世界へと向け変えられる。そのとき、あたりの何でもない風景が見違えるように美しく詩的に感じられるわけだ。
「空」の世界を知らない私たちは、地上のさまざまなものに囚われて、執着の人生を送っている。そうした私たちも「逆縁」によって、永遠の知恵やいのちにふれるあう可能性はのこされている。「汝自身を知れ」「死者たちと交われ」という神託は、こうしたすばらしい叡智の世界へと私たちの魂を誘う促しであろう。
人間は弱い存在である。家族や身近な共同体がなければ生きてはいけない。そうした身近な共同体が崩壊したらどうなるのか。人は拠り所をうしなって不安になるだろう。そうした孤独な人々が最終的に求めるのは、自分たちを庇護してくれる強力な国家である。
しかし、ここにもう一つの解決法がある。それはストア派の哲学者がとった方法だ。たとえ家族を失い、国家が崩壊したとしても、それに依存しないような強固な自己をつくればよい。彼らはこう考えて、思想的にも肉体的にも自己を鍛えた。
こうしたストア派の哲学の淵源は、ソクラテスにまでさかのぼる。ソクラテスという山から流れ出した流れは、アンティスネス、デイオゲネス、クラテスと受け継がれ、ゼノンに至った。彼らは、自らの幸福の根拠を国家や社会は求めず、個人の鍛錬のなかに求めた。
おなじソクラテスをいただきながら、プラトンやアリストテレスはまた別の道をたどった。彼らの本質は「国家主義」である。プラトンはアテネの民主政治を攻撃したし、アリストテレスは「人間はポリス的存在である」という有名な言葉を残している。
たしかに個人は国家や社会があっての個人である。ある意味でこれは正論なのだが、これが進むと、国家や社会のために個人は存在するという全体主義になる。そして個人が脆弱な社会では、どうしてもこうした専制へ向かう傾向がある。
ストア派の人々は、デイオゲネスの「天下の住人」の発言からも分かるように、その発想はポリスという狭苦しい枠を超えている。デイオゲネスは国家などというものが存在するから争いが絶えないのだと考えていた。
とはいえ、ストア派の人々は社会や政治そのものの必要性を否定したわけではない。個人の魂のありかたを問題にしたうえで、社会の問題を考えた。それは彼らの著作目録をみればわかる。たとえば「ギリシャ哲学者列伝」によると、犬儒派の始祖であるアンティスネスにはこうした様々な問題をテーマにした10巻もの著作があったという。
たとえば第3巻には「法について、あるいは国家について」という論文が収められていた。そのほか、自然について、教育について、言語について、歴史について、とその内容は森羅万象に及んでいる。
彼らは個人の魂のありかたを問題したが、社会のありかたについても深く考えていた。一説によれば、デイオゲネスにも「国家」についての著作があったという。「ギリシャ哲学者列伝」によれば、彼はそこで「世界国家」の必要性を主張していたらしい。
アレキサンダー大王がディオゲネスを訪れて教えを請うたのは有名な逸話だし、アレキサンダーはアテネではクラテスの家で寝起きをしていた。さらに彼の父のピリッポス王が逗留したのはクラテスの妻の家だったらしい。
アレキサンダーの死後、マケドニアの王となったアンティゴノスはアテネに出かけるたびにゼノンの講義を聞き、マケドニアに来るように要請した。アンティゴノス王がゼノンにあてた手紙の一部を「ギリシャ哲学者列伝」から引用してみよう。
<貴殿は何としても小生と交わりを結ぶように務めていただきたい。そうしてもらえるなら、貴殿は、たんに小生ひとりの教師となられるだけではなく、マケドニア人全員をひっくるめての教師となられるだろうから、ということを充分に賢察された上で。と言いますのも、マケドニアの支配者を教育して、徳にかなったことへと導いてくれる人は誰であろうと、その臣下たちをもよき人間に仕上げてくれる者であることは明らかなのですから>
ゼノンは高齢を理由にこれをことわったが、かわりに二人の弟子をマケドニアに派遣している。このように他国の王からその徳を慕われたゼノンだったが、アテネ市民の彼にたいする尊敬も絶大だった。アテネの民会はゼノンにたいして「感謝決議文」を採択している。
その決議文には、国費で彼の墓を作ること、黄金の冠を授けること、決議文を刻む二本の柱をたてることなどが記されてある。ゼノンはこうしたアテネ市民の好意を条件付きで受け入れたらしいが、小さなパンと蜂蜜と、よい香りのする葡萄酒を毎日の食事にしていたというこの清貧の哲学者にとって、これはありがた迷惑なことだったのかもしれない。
ゼノンが死んだとき、アンティゴノス王は何というすばらしい観客を失ったことか」と嘆いたという。このようにストア派はアテネの市民からも異国の人々からも受け入れられた。それはそのすぐれてコスモポリタン的な普遍性をもっていたからだろう。
ゼノンは「国家」をはじめ、多くの書物を著した。「宇宙万象について」「詩学講義」「倫理学」「法について」「ギリシャ人の教育について」「自然に即した生活について」など。その厖大な著作はほとんど失われているが、彼の思想はその後継者達によってさらに磨きをかけられ、現代にも生きている。
それではストア派の哲学の精髄はなにか。それは個人のなかに宇宙を見たことだろう。人間も又一つの宇宙であるという発見は、考えてみれば実に恐るべき発見であった。こうした考えがソクラテスから始まり、ゼノンによってはっきりと自覚されたわけだ。
この考えは、その後の西洋思想の基盤になっている。これはキリスト教にも影響したし、ライプニッツやスピノザ、そしてカントに決定的な影響をあたえた。また、ゲーテなど多くの西洋文学の基盤でもある。
ストア派の哲学は、東洋の思想とも相性がよい。日本の戦国大名はこぞって仏教に帰依し、高僧の下で精神修行をした。また、政治上のことでも多くの助言を求めたが、これもマケドニアの王がストア派の哲学者を尊重し、助言を求めた事例を彷彿とさせる。
さいごに、私がストア派の思想を見事にあらわしていると考えている詩を紹介しよう。それは金子みすゞの「はちと神さま」という詩である。金子みすゞは実に、はちの中にさえ宇宙を見ている。短い詩だが、とても内容の深い、美しい詩ではなかろうか。
はちと神さま
はちはお花のなかに、 お花はお庭のなかに、 お庭は土べいのなかに、 土べいは町のなかに、 町は日本のなかに、 日本は世界のなかに、 世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、 小ちゃなはちのなかに。
デイオゲネスの弟子について書いたので、師のアンティスネスについて、少し補足しておこう。彼はアテネに生まれたが、生粋のアテネ人ではなかった。母親が自由民でなかったようだ。
彼はそのことを指摘されると、「私はボクシングの心得のある親から生まれたわけではないが、私はボクシングの心得があるからね」と、暗に生まれで人を差別することを批判したという。またアテネに拘る人には、「神々の母親だってブリュギア人だよ」と応じたという。
彼はソクラテスから学んだことは、「幸福になるには徳だけで足りる」ということだった。彼はそのために困苦に堪え、ソクラテス的な克己心を鍛えた。杖と頭陀袋の他は持たず、上着を二重に折って下着の兼用としたという。
彼自身はあまり弟子をもたなかった。彼の生き方があまりに厳しかったからだ。なぜ弟子に厳しくするのかと聞かれて、「医者だって患者にはそうしているよ」と答えた。彼はデイオゲネスにも下着を許さなかった。
弟子があるときノートをなくして困っていると、アンティスネスは「紙の上にではなく、心の中に書きとめておくべきだったね」と言ったという。他に多くの逸話が「ギリシャ哲学者列伝」に書かれている。彼の言葉をいくつか引用しておこう。
<ロゴスとは、ものごとが何であったか、あるいは何であるかを明らかにするものである>
<鉄は錆によって腐食されるが、嫉妬深い人は、自分自身の性格によって蝕まれる>
<国家が滅びるのは、劣悪な人々をすぐれた人々から区別することができなくなるときだ>
<哲学から得られるものは、自分自身と交際する能力だ>
<悪人から誉められても嬉しくはない。多くの人から誉められたりすると、私も何か悪いことをしたのではないかと心配になる>
<敵から学ぶがよい。なぜなら彼らはこちらの欠点について真っ先に気付かせてくれるからだ>
<いろいろ学ぶのもよいが、学んだことを忘れないことが大切だ>
<徳は奪い取られることがない武器である>
<徳は実践のなかにあるのであって、多くの言葉も学問も必要としない>
ところで、これらの逸話や言葉が後世に伝わったのは、ひとえに「ギリシャ哲学者列伝」という書物のおかげである。この書を書いたディオゲネス・ラエルティオスというのはどういう人かわかっていない。ただこの書を書いたと言うだけで名前が残っている。おそらく3世紀くらいに生きていた人ではないかと言われている。
「ギリシャ哲学者列伝」は350冊もの書物からからの引用で成り立っている。しかし、それらの書物はほとんど今日伝わっていないという。とくにストア派関係の書物は多く失われた。その理由はキリスト教がこれを異教として迫害したからだ。
ストア派はこうして抹殺されたが、ディオゲネス・ラエルティオスのこの書物が残ったことでこうして後世に多くのエピソードが伝えられた。私がデイオゲネスなる人物を知ることができたのも、ひとえにこの書のおかげだ。ストア派びいきの私にはとてもありがたいことである。 ついでに、ディオゲネスの言葉も引用しておこう。
<われわれ乞食にも、あなたのお腹のものを少し分けていただけませんか。そうすれば、あなた自身は身体が軽くなるだろうし、我々に恩恵を与えることになりましょうから>
<哲学から何が得られたかって。それはたとえどんな運命に対しても心構えができているということだろうね>
<汚らしいところに足を踏み入れても平気だよ。太陽だって便所の中に入り込むが、汚されはしないからね。>
<哲学に向いていないだと。立派に生きるつもりがないのなら、なぜ君は生きているのだね。君は理性をそなえるか、それとも首をくくるための縄を用意しておくしかないのだよ>
<世の中で最もすばらしいものは、何でも言えること(言論の自由、パールレーシア)だね>
<高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りだよ>
<人生においては何事も、鍛錬なしにはうまく行かないものだ。人は無用な労苦ではなしに、自然に適った労苦を選んで、幸福に生きるようにすべきだね>
小石に躓いて倒れたディオゲネスは死期を悟って、その場で息をつめて窒息死したらしい。いかにもこの人らしい最期である。彼を追放した故国の人々も、彼を称えて青銅の像をつくり、そこに次のような詩句を刻んだという。
<青銅も年月経てば老いるもの。 されど、汝が誉れは、 永久に朽ちることなからん・・・>
2005年05月18日(水) |
ディオゲネスの弟子たち |
デイオゲネスには崇拝者がたくさんいた。例えばギリシャに留学しにきた異国の青年がたちまちデイオゲネスのとりこになった。これを心配した父親が彼の兄を様子を見に送り出したところ、彼も又たちまちデイオゲネスのとりこになって「犬のような生活」を始めたという。
財産家の中にもデイオゲネスに心酔するものがいた。クラテスはディオゲネスの聖者のような生き方に惹かれ、自分も彼のような簡素な生き方をして魂の修練をつみ、真実の幸福を得たいと考えた。そこで、すべての財産を人々に与えて無一物になった。
彼はだれの家であろうとかまわず上がり込んで、毎日が休日であるかのように冗談を言ってすごした。人々は彼のやさしい人柄を愛し、彼の訪問をおおいに喜んだという。そうした彼のやさしさを伝える逸話がいろいろと残っている。
大事な演説の途中におならをしてしまい、面目を失った男がいた。クラテスはその男を励まそうと、豆をたらふく食べてから彼を訪問し、思い切り放屁しながら、「おならを我慢していたら、きっと身体を壊すことになっていたかもしれないから、出してよかったのだよ」と彼を慰めたのだという。
彼は又、多くの女から愛された。ヒッパルキアという貴婦人は、すでに立派な婚約者がいるのに、クラテスに夢中になり、結婚してくれなければ自殺をするとまでいいだした。クラテスは何とか彼女を思いとどまらせようとした。
彼は彼女の前で素っ裸になり、 自分の貧弱な体を見せながら、「こんな肉体以外何も持たない自分と結婚したら、やはりあなたも裸同然で、他人の施しを受けながら犬のような生活をしなければならないんですよ。それでもいいのですか?」と言った。
ところが、彼女も又衣装をすべて脱いでみせた。「私が愛したのはあなた自身です。あなたが裸だからと言って、愛が減るわけはありません。私もこれから裸同然で生きて行くつもりです。あなたも裸の私を愛して下さると思います」と譲らない彼女を見て、クラテスは彼女の愛を受け入れたのだという。 結婚した後、ヒッパルキアは夫のいくところにはどこでもついていった。二人は犬のような無一物の生活をしながら、とても仲むつまじかった。二人のそうした姿を見て、人々は心をなごませ、二人を祝福したという。そしてヒッパルキアもまた、女性哲学者として歴史に名前を残すことになった。
このクラテスの弟子がゼノン(BC336~BC269)である。ストア派を開いたゼノンもまたデイオゲネスほど過激ではなかったが、簡素な生活を実践した。そして、天然自然の理に従った生活のなかに、真実の魂の平安と喜びがあることを示した。
ストア派の実践哲学は市民にも受け入れられる穏健なものだったので、瞬く間に多くの人々の間に広がった。それはキケロやマルクス・アウレリウスといった著名な思想家を輩出し、ローマ時代から現代に至るまで、もっとも魅力的な哲学として生き残り、時代をこえて支持され実践されることになった。
(参考文献・サイト) 「ギリシャ哲学者列伝」(ディオゲネス・ラエルティオス、岩波文庫) http://www.geocities.jp/timeway/kougi-12.html http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/D04-4.htm
海賊に襲われ、クレタ島に連れていかれたディオゲネスはそこで奴隷として売り出された。そのとき、奴隷商人が、「おまえは何ができるか」と質問すると、彼は胸を張って、「私は神々のように人を支配することができる」と答えた。
奴隷商人は驚いて、その真意を問いただした。ディオゲネスがいうには、人間はだれも何者かの奴隷になっている。とくに自分の欲望の奴隷になっている。欲望こそが人間の主人なのだ。欲望にあやつられて動く人間は、みんな奴隷である。
私もまた欲望を持っているが、欲望に支配されることはない。どうしてかといえば、私は欲望よりももっとすばらしいもの、もっと強力でよろこばしいもの、すなわち真理に従って生きる生活を知っているからである。真理に従っているかぎり、私は私の主人である。そして私は神々のように幸福である。
真理こそはすべての支配者である。しかし、人々はその存在すら知ろうとしない。したがって、真理の存在を知っている私は自分自身の主人である。そして真理を知っていることで、他人をも支配することができる。なぜなら、自分を支配することができる人間だけが、他人から自由であり、他人をも自由にできるからである。
こんな生意気な奴隷を誰も買うはずはないと思われたが、デイオゲネスの演説にじっと耳を傾けていた男がいた。クセニアデスという富豪である。クセニアデスは「私にはあなたのような主人が必要だ」と冗談をいい、彼を買ってくれた。
ディオゲネスもクセニアデスが好きになった。そこでディオゲネスは、家庭教師として彼の息子を立派な男に鍛え上げた。そればかりか、経理の才を生かして、クセニアデスの商売を助けてやった。クセニアデスは大いに喜んで、ディオゲネスを奴隷の身分から解放してくれた。
こうしてディオゲネスは自由の身になってアテネにやってきた。そしてそこで、ソクラテスの弟子のアンティステネスという哲学者に出会った。この出会いがデイオゲネスの人生を変えることになった。
アンティステネスがソクラテスから学んだことは、「物欲にふりまわされていけない。そうしたものを捨て去り、精神を鍛えて、魂のためにだけ生きなければいけない」ということだった。アンティステネスはこのソクラテスの教えを実践することこそが哲学者の正しいあり方だと考えた。
アンティステネスの偉いところは、ただそう考えただけではなく、そうした生活を自ら実践してみせたことである。彼は財産を捨て、粗末な身なりをして街に現れ、人々にそうした簡素な生き方のすばらしさを説いた。ディオゲネスはアンティステネスのなかに真の哲学者のあるべき姿を見た。そして彼も又アンティステネスのような生活をはじめたわけだ。
ディオゲネスはこうして野良犬のような生活をしながら、アテネの市民たちが所有する奴隷の数で他人を評価し、お互いの富を競い合うのを皮肉な目で見ていた。祭壇に生け贄を捧げ、その後に御馳走をたらふく食べて健康を害しているのを愚かなことだと思った。
「健康を祈って生け贄をささげておきながら、健康を害するほどの御馳走を食べている。人間が生きていくための糧は神々から容易に授けられているのに、そのことが見えなくなってしまったのは、人々が蜂蜜入りの菓子だとか、香油だとか、その他そういった類のものをほしがるからだ」
「競争の際には、隣の人を肘で就いたりして互いに競い合うのに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいない」
デイオゲネスはこのように、堕落したアテネの市民を批判し、自らを「天下の住人」と称していたが、そのころアテネで人気のあったプラトンもまた別の視点からアテネ市民を批判していた。彼はソクラテスを抹殺したアテネの民主政治を嫌っていた。彼はその著「法律」のなかで、ソクラテスの口を借りて、為政者や議員、陪審員を「くじ」で選ぶことの愚かさを痛烈に批判している。
<あなたが家を建てるときどんな大工に仕事を頼むか? 大工を集めてくじを引かせて当たった大工に頼むか、それとも最も腕の良い大工に頼むか? 腕の良い大工に頼むであろう。ならばなぜ、われわれアテネ人は政治を行う者をクジで選ぶのか>
プラトンは国民を哲人王が支配すれば、国民は王の言うことをよくきいて素晴らしい国になると考えた。アテネのように何でも議論をしていてははじまらない。エジプト人のように、王、ファラオを神の化身としてあがめていたほうがましだとさえ考えていた。
デイオゲネスはこうしたプラトンの国家主義や貴族主義を嫌っていた。プラトンの家にいったとき、そこに敷いてあった絨毯を踏みつけて、 「俺はプラトンの虚飾を踏み付けているのだ」といった。プラトンもデイオゲネスを嫌っていた。そして彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。
プラトンは目の前に見えているこの世界を真実と考えなかった。現実を超えた別の世界に理念的な存在の実在を考え、これを「イデア」と呼んだ。デイオゲネスはプラトンの「イデア」も認めていなかった。
デイオゲネスにとって、目の前にある世界がすべてであり、この世界をいかに善く生きるかが問題だった。のちにアリストテレスがこの点で師プラトンを痛烈に批判している。アリストテレスはさらにプラトンの説く哲人王を批判し、民主主義こそ大切な政治形態だと考えた。この点で、アリストテレスはディオゲネスに親近感をもっていたのではないだろうか。
ディオゲネスはそのシニカルで辛辣な傍若無人ぶりにもかかわらず、多くの人に愛されたようだ。晩年には彼の名声はギリシャ中に鳴り響いていたが、彼はその名声をなんとも思っていなかった。自分の墓を作ることを許さず、「どんな野獣の餌食にしてもいいし、そのへんに投げ捨てておいてもいい、杭の中に押し込んでわずかの土をその上に盛っておけばそれでいい」と語って死んだという。
ラファエロの筆になる有名な大作「アテネの学堂」には、数十人の、古代ギリシアの哲学者や数学者などが一堂に会するさまが描かれている。中央の2人は左がプラトン、右がアリストテレス。プラトンが天上を指差し、アリストテレスは手のひらを地上に向けている。
ソクラテスは黄褐色の衣を着てプラトンの左にいる。そして、画面中央の石段に座り込んでいるのが我らのディオゲネスである。彼の右側でコンパスを持っているのが数学者・ユークリッド。そのほか、ヘラクレトス、アルキメデスやターレスなど、今さらながら、ギリシャ哲学の豪華絢爛ぶりがしのばれる。
ディオゲネスはBC410年頃に、黒海沿岸のシノペという町(現在はトルコ領)に、裕福な両替商の息子として生まれている。彼はあるとき、「国に広く流通しているものを変えるのがおまえの使命である」という信託を受けた。
「国に広く流通しているもの(ポリティコン・ノミスマ)」とは何か。彼はそれを「貨幣」だと考えた。宗教・思想や習慣など、いろいろ考えられるが、彼があえて「貨幣」に着目したのは、それなりに理由があってのことだった。
それは「貨幣」は人間が作りだしたものでありながら、実は人間を支配している元凶だと考えたからだ。デイオゲネスの時代は、すでに宗教は力を失っていた。プロタゴラスは「万物の尺度は人間である」と宣言していた。神ではなく、人間が主役である時代が到来していた。
しかし、その主役の筈の人間もじつは貨幣に支配されていた。自由人を自称するポリスの市民も例外ではなかった。両替商の息子として生まれたディオゲネスは「貨幣の魔力」についてよく知っていた。彼の目には貨幣こそ現代の悪しき神のように見えた。
しかし、この現代の神である「貨幣」の正体は何だろう。金持ちはいかにして金持ちになるか。それは奴隷をしぼりあげることによってだった。貨幣とは何か。それは搾取された労働ではないのか。
マルクスはのちに「労働の疎外」という言葉を使ったが、こうした世のなかの仕組みを古代の奴隷制社会に生きていたデイオゲネスはよく理解していたようだ。たとえば、彼は金持ちの家に招待されて、「盗人、この門を入るべからず」という看板を見て、「それではこの家の者はどこから中にはいったらよいのか」と辛辣な言葉を吐いている。
さらに、「家の中では痰を吐かないで下さい」と言われて、彼はその金持ちの主人の顔に痰を吐き付けた。「痰を吐いてよさそうないちばん汚いところを探したところ、君の顔がそこにあったものでね」というのがディオゲネスの言いぐさだった。
神殿を管理する役人が、あるとき賽銭を盗もうとした男を捕まえて連行しようとしたところ、ディオゲネスは「大泥棒がこそ泥を捕まえたぞ」とはやしたてた。こうした逸話からもわかるように、ディオゲネスの社会を見る目はとても深かったことがわかる。彼は単なる悟り澄ました乞食の哲学者ではなかった。この時代には珍しい冷徹な経済学者でもあったわけだ。
ディオゲネスは贋金を作ることで、「貨幣」というものの信用をなくし、その人間に対する支配力をそぎ落とそうとした。しかし、そんな大それた社会革命がディオゲネス一人の手でできるわけはない。彼は捕らえられ、財産を没収された上で、ふるさとのシノペから追放されることになった。
彼はこうしてシノベをあとにし、異国に渡る船上の人になったわけだが、今度は思わぬ運命が彼をさらなる窮地に陥れた。彼を乗せた船が海賊に襲われたのだ。デイオゲネスは海賊に捉えられ、奴隷商人の手に委ねられた。彼はこうして自由の身分を剥奪され、奴隷の身分にたたき落されてしまった。
(明日に続く)
BC338年にギリシャ連合軍はマケドニアに負けている。その後も反乱を起こしたが、結局はアレキサンダー大王に力でねじ伏せられてしまった。このときディオゲネスは70歳を過ぎた老人だった。
アレキサンダー大王(BC356~BC323)はアテネを征服したが、これを焼き滅ぼそうとはしなかった。いつの場合でも、恭順の意を示した人々には彼は寛容だった。ギリシャ人はたちまちアレキサンダーを自分たちの偉大な王として迎え入れた。これまでさんざん悪口を言って敵対していた政治家や哲学者も、こぞって彼を賛美しはじめた。
そうした中で、ディオゲネスはあいかわらず樽の中で我関せずの気儘な生活を楽しんでいた。アレキサンダーはこの風変わりで高名な哲学者が自分に会いに来るのを楽しみにしていたが、部下を何度さしむけても「わしは昼寝で忙しい」と言って動こうとしない。仕方がないので、自分から会いに行くことにした。
ディオゲネスは樽の近くでひなたぼっこをしていた。軍勢を引き連れてやってきたアレキサンダーを見ても、寝そべったまま居ずまいをただそうともしない。以下、二人の会話を再現してみよう。
「私はアレキサンダーです。ギリシャはいま完全に私の手の中にあります。アテネの人々は私の姿を見ただけで震え上がります。あなたは私が怖くはないのですか」
「君は善い人かね。それとも悪人かね」
「私は善人です。私は父からたくましく生きることを学びました。そして師アリストテレスから、善く生きることをを学んだのです」
「私は善人を恐れない。君が善人だとしたら、君を恐れる理由はないだろう」
アレキサンダーは老哲学者の言葉に感心した。ディオゲネスは相変わらず寝そべったままだったが、それをもはや無礼とも感じなかった。
「あなたのような智者に会えたことを嬉しく思います。つきましてはお礼をさせてください。何をお望みでしょうか。私に出来ることなら、何でもさせていただきましょう」
「それではひとつ頼み事をしよう。わしの前に立たないでほしい。君はわしから大きな楽しみを奪っている。わしの望みは日差しと昼寝だ。日の光を私に分けてくれないかね」
「これは失礼をしました。それにしても、無欲な方ですね。あなたは私がアテネで出会った尊敬できるただ一人の人です。それでは昼寝の前に、ひとつだけ質問させて下さい。あなたは私のことをどう見ていますか。本当に私は善人なのでしょうか」
「わしは人物をいつも行動で評価している。君は多くの人を殺して、そのあげくギリシャを征服した。このあと、何をするつもりだね。まだ人を殺し続けるつもりかね。君は人殺しをつぐなう以上の善行がこの世にあると考えているのかね」
「私がギリシャを征服したのは、ギリシャに平和をもたらすためです。さらに私は世界を征服するでしょう。地の果てまでも軍隊を進め、世界に平和をもたらします。それが私に与えられた使命だと思っています」
「君は平和のために戦うという。しかし、戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅びた。このままでは、君もいずれ滅びるだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと、それが平和だ。どうだい、君もその鎧を脱いで、私と一緒にひなたぼっこをしてみないかね。一緒にキャベツを川で洗って食べてみないかね」
アレキサンダーはディオゲネスの言葉をしばらく考えた。ディオゲネスとならんで毎日はだかでひなたぼっこをするのも悪くはないなと思った。平和は心の中に実現するものであって、戦争によってはもたらされないという思想は、師アリストテレスからも聞いていた。
「私は王としてこの世に生まれました。これが神々が私に与えた私の運命なのです。しかし、生まれ変われるものなら、私は哲学者に生まれ変わりたいものです。そうすれば、ディオゲネスよ、私もきっとあなたのように長寿を全うし、平和でやすらかな生き方ができるでしょう」
アレキサンダーは淋しく笑ってディオゲネスを見つめた。ディオゲネスはもうなにも言わず、だまって目を閉じた。そうすると急に眠くなった。ディオゲネスが目を覚ましたとき、もうアレキサンダーの姿はなかった。
言い伝えでは、ディオゲネスはアレキサンダーと同じ日に死んだという。そのときディオゲネスは90歳を超えた老人だったが、アレキサンダーはまだ32歳の青年だった。冥界でなかよく並んでひなたぼっこをしている老人と青年をみかけたら、この二人かも知れない。
ディオゲネスが住んでいた樽は、半分壊れてもうだれも使わなくなったような代物だった。そこに彼は犬のように棲みついていたので、彼は「犬の哲学者」と呼ばれ、彼の一派は「犬儒派」と呼ばれた。
彼と同時代の哲学者にはプラトンやアリストテレスがいる。すこし時代が下がればストア派のゼノンや快楽主義のエピキュロスがいる。いずれも大勢の門人をかかえ、立派な邸宅に暮らしていた。そして大量の著作を残し、世の尊敬を受けていた。
そうした権勢のある哲学者とその門人から見れば、ディオゲネスはまさに「犬の哲学者」と呼ぶに相応しかったのだろう。彼は自分がそう呼ばれるのをいやがらず、すすんで自分を「イヌ」と自称さえしていた。
彼は樽の中にランプと水を入れる革袋を持っていた。彼は真昼からランプに灯をともして、アテネの町を歩いたことがある。アテネの人々がいぶかしがって声をかけると、「私はイヌと呼ばれている。そうかもしれない。それでは人間はどこにいるのか。私は人間をさがしているのだよ」と答え、相手の方にランプをかざし、じっと見つめるので、相手はうろたえて逃げ出した。
デオゲネスは「アテネに人がいなくなった」と言っていた。ディオゲネスにすればプラトンでさえ「人間」ではなかった。ましてや「哲学者」ではなかった。彼はソクラテスを尊敬していたが、プラトンの小説の中に出てくるソクラテスは嫌いだった。
ディオゲネスが尊敬するソクラテスは貧しい家に住み、誰彼となく議論を吹っかけて人々から嫌われていたソクラテスだった。ソクラテスはその辛辣な皮肉で人を刺した。そして名声を求めず、独り毅然として生きていた。ディオゲネスはそんなソクラテスが好きだった。しかし、アテネにはもはやソクラテスのような人間はいなかった。
ディオゲネスのランプは現在では「賢者の象徴」とされ、アテネ大学の徽章にもなっているという。しかし、当時のアテネのお上品な人々には、ディオゲネスが理解できなかった。犬儒派のことをシニシズムというが、辛辣なという意味のシニカルという言葉はここから来ている。ディオゲネスに弟子や門人はいなかったが、彼の辛辣な皮肉は、人を遠ざけるためにかなり有効だったようだ。
彼はランプの他に持っていたものといえば水を入れる革袋だが、彼は後にこれを捨てた。ディオゲネスはある日、子供が素手で水を掬っているのを見て、「おれは何という馬鹿者だったことか。おれは子供に大切なことを教えられた」と天を仰いだ。そして水袋をその場で捨てたのだという。
ディオゲネスはアテネの近郊に住んでいたが、アテネの住民という訳ではなかった。彼は「あなたはどこの国の人ですか」と人に訊かれるたびに、「太陽はいくつありますか」と逆に聞き返した。相手が「一つです」と答えると、ディオゲネスは嬉しそうに破顔一笑して、いつもこう答えていた。
「そうです。太陽は一つしかありません。そして私たちはだれもこの一つの太陽をいただいて暮らしているのです。私に祖国などありません。私はただ、この天の下で暮らしているのです。私は天下の住人です」
当時ギリシャは争乱の時代だった。アテネやスパルタがギリシャ半島の覇権を競って争っていた。ディオゲネスはそうした争乱を冷ややかな目で見ていた。ディオゲネスはどうして戦争が起こるのか知っていた。それは人間のあくなき所有欲である。
愛国心の正体も、彼の目にはこの所有欲のお化けでしかなかった。それはいずれ国を滅ぼすだろう。そのことをディオゲネスは知っていた。
(明日に続く)
高校時代に英語の教科書で「デイオゲネス」というギリシャの哲人のことを知った。以来、この風変わりなギリシャの哲人は私の心の中に住み続けている。これまでもディオゲネスについては何度も書いているのだが、すぐにまた書いてみたくなる。それだけ好きだと言うことだろう。
デイオゲネスはアテネ郊外に住んでいた。樽の中に住んでいて、その樽を転がして好きな場所に移動した。樽の他に彼はこれという持ち物は何もなかった。いわばシンプルライフ、スローライフの先駆者のような存在である。
彼は「美しい人」と呼ばれた。外貌ではなく「魂において美しい人」という意味である。彼はただ樽の中に住んでいただけで、何事かを為したわけではない。天気のよい日は樽から抜け出して、河原でひなたぼっこをしていたという。
まったくの無為徒食である。説教をするでもない。著作をするでもない。書物はひとつも残さなかったが、しかし彼ほど多くの逸話を後世に残したの人はいない。それだけ彼は当時の人々からも一目置かれ、尊敬されていたということだろう。
説教はしなかったが、彼は自分の生き方を通して、人々に大きな感化を与えた。そして2千数百年を経た現在でも、彼の名前はその数々の逸話とともに伝えられ、彼の名前は「哲学者」の代名詞のようにさえなっている。
なにはともあれ、彼の逸話を紹介しよう。彼も人間である。いくらシンプルライフだとはいえ、「食べる」ことはしなければならない。良寛に「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」という句があるが、おそらく彼もそのように人の善意にすがって、最低限の食料を得ていたのだろう。
食べ物については、こんな逸話が残っている。彼が貧しい農夫からもらったキャベツをいとおしむように河原で洗っていると、アテネに住む友人の哲学者が近くを通りかかって、「君も私のように金持ちの友人とつきあいたまえ。そうすればもっとすばらしい邸宅に招待され、もっとおいしいご馳走がもらえるよ」と忠告をした。その友人に対して、ディオゲネスはこう答えたという。
「私にはこのキャベツが最高のごちそうなのさ。なぜなら、このキャベツは私にこれをくれた人の善意で味付けされているからね。君の金持ちの友人の食卓のどんな調味料よりもこれがおいしいんだよ。君もここへきてキャベツを洗ってごらん。川でひなたぼっこをしながらキャベツを食べるのが、どんなに楽しいことかわかれば、金持ちの友人なんか必要でなくなるだろうよ。そしてご機嫌取りの退屈な会話からも解放されるわけだ」
(明日に続く)
こんな話があります。王様が遠い異国に旅立つことになって、3人いる妃のなかで一番寵愛していた妃に「一緒に来てくれ」と頼んだら、「私はあなたについてはいけません」と冷たく突き放されてしまいました。
そこで王様は二番目に可愛がっていた夫人のところに行って、同じことをいうと、「国の境までならいきましょう」と言われました。王様はがっかりして、日頃あまり目を掛けていない第三夫人のところへいくと、彼女は「私はどこまでもあなたにお供します」とやさしく微笑みかけたと言います。
ある人の解説によれば、遠い国へいくというのは、新しい人生(死)への旅を意味していて、第一夫人は「お金」の象徴だそうです。この王様が日頃一番愛していたのは、金銀財宝だったのでしょう。ところが、新しい人生への旅立ちを前にして、財宝は何の役にも立たないわけですね。
第二夫人は「家族」や「友人」と考えられます。家族や友人の愛情は貴重ですが、旅立ちに際してはそれらも無力です。旅人の心は愛着に縛られて、かえって自由を失い、古い人生に後ろ髪を引かれるかも知れません。
それでは第三夫人は何か。それは「自己」の象徴だといいます。人間は結局一人で旅立って行かねばならない。そのとき道連れに出来るのは自分のたましいだけです。だから自分の魂を日頃から大切にしておかねばならないわけです。
そこでそれでは自分の心をどうやってつかまえるかということが問題になってきます。そのために私は、個人の歴史においても、過去を振り返るということはとても大切なことだと考えています。
なぜなら、過去の人生を旅することで、自分がほんとうにやりたいこと、自分の魂の原点を確認できるからです。そしてそこを足場に、未来に向けて、自分の人生のシナリオを構築していけるからだと思います。
大切なのは自分自身との出合いであり、自分の人生の意味の発見ですが、そのばあい大切なことは、自分を他者と比較したり、世間の物差しをあてはめて過去を断罪しないことだと思います。あくまでも自分自身との対話が大切だと思います。自分史を書くことで、この自分自身と対話する時間が持てます。これが大切なのではないでしょうか。
私は人間はだれでもその人固有の人生をもち、その人の「物語」をもって生きていくものだと思っています。それはその人にしか生きられない、独特の固有の「ものがたり」です。
そして、自由のすばらしいのは、そうした物語を自分で発見し、そのシナリオを自ら書き、みずから「主役」であるばかりか、その演出家にもなれるということです。
他人から押しつけられた役に甘んじないで、自分の手で自分を主人公にした人生のシナリオを書くのはすばらしいことです。私たちの人生に内在するすばらしい人生の物語を発見し、そのシナリオを自分の手で創造すれば、人生はこのうえもなく刺激的で、愉快で、楽しいものになるのではないでしょうか。
みんながみんな、自分の人生の主役になり、個性的で輝いているとき、この世界は花園のように美しく光り輝きます。こうして個人の物語は、世界の物語のなかに溶け込んでいきます。
私が幼かった頃、日本はまだ貧しかった。しかし、こころは豊かだった。人々はお互いにささえあい、助け合って生きていた。銭湯に行くと、近所のおじさんが背中を流してくれた。地震があると、隣のおじさんがパンツ一枚で家の中に飛び込んできてくれた。
貧しさ故の喧嘩やねたみやそねみもあったが、こうしたやさしさのなかで育った者は、究極的に人間や社会を信用する。人生はうつくしく、人間は基本的に善なる存在だと理屈抜きで信じるようになる。
しかし、今や時代は変わった。経済的に豊になった分だけ、人々の心のふれあいはなくなった。子供たちはもはや隣の家のおじさんに背中を流して貰うこともないだろう。そればかりか、自分の父親や祖父母の背中を流すことはなくなった。
助け合いよりも競争を重んじるこうした殺伐とした経済市場主義の社会に育てば、人間は利己的になるしかない。人を信じるよりも、人を競争相手としてしか考えない、心の貧しい人間がちまたにあふれてくる。
そうした人間がのしあがり、いたるところで政界、経済界、ジャーナリズムを支配するようになると、ますます社会はとげとげしくなり、そのやさしさを奪われていく。儲け主義が世にはびこり、人々は自分を見失い、長いものに巻かれて卑屈になる。
こうした暗澹とした世の中で、私たちはどこに救いを求めたらよいのだろうか。そんな憂鬱な物思いにふけりながら、いつものようにHPを更新していると、ふと、「喜びも悲しみも幾歳月」という歌が浮かんできた。
おいら岬の、灯台守よ 妻と二人で、沖行く船の ぶじを祈って 灯をかざす、灯をかざす・・
星を数えて、波の音きいて 共にすごした、幾年月の 喜び悲しみ 目にうかぶ、目にうかぶ
ふとくちずさんでみる。むかし、灯台守にあこがれたことがあった。離れ小島の灯台に棲みつき、暗夜を航海する船に、灯火を絶やさず投げ続ける。その孤独感、その使命感がなんともいい。「一隅を照らす」という言葉がある。灯台守はこの言葉にぴったりだ。
灯台守といえば、インターネットの海に浮かぶたくさんのHPの中にも、ときどき美しい光りを投げているものがある。たとえば、最近私はある人のサイトで「つかの間の旅人」という素敵な詩にであった。私がひそかに、訪れて、暖をとっているサイトのひとつだ。
引用はじめ--------
つかの間の旅人
儚い、いまにも消えていきそうなサイトほどなぜか気になる。 いつの間にかリンクも切れ、ネットの世界から消えていってしまったひとたち。 いま何をみつめ、何を思って生きているのだろう? ネットの世界に幻滅し、虚しさをおぼえ、さらにさびしい世界へと旅立って行ったのかもしれない。 無言のままに行過ぎ、無言のままに想いを交わし・・・。 見知らぬはずのあのひとたちの横顔が、いまぼくの胸に深く刻まれている。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~h-inoue/diary.html
-------引用終わり
暗夜にほのかに光る灯台をみるとうれしくなる。その灯台に灯がともっていると、ほっとする。いつまでも、その美しい灯が消えないことを願わずにはいられない。
私は世の中を変える希望の灯はこうしたインターネットの世界から生まれるかも知れないと思っている。そして私も又、ひとつのささやかな灯火として、この世界に存在したいと思っている。
中江藤樹(1608~1648)のふるさとである湖北の安曇川町も、高島市新旭町に似て、清流がいたるところに流れている。藤樹書院まで友人たちと歩いたが、途中の用水には鯉も泳いでいた。
用水の鯉が他の生き物と一緒になって、水をきれいにしてくれる。それは単なる無機質のきれいさではなく、生き物たちが豊かな生活を営むなかで自然につくりだされる透明感であり、温かみのある清浄さである。
ところでこうした用水に鯉を飼うという伝統はいつからあるのだろうか。私は古来からの生活の知恵だと思っていた。むかしは日本全国で、こうした美しい生活が営まれていたのだと考えていた。
しかし、これは少し修正しなければならない。特に湖北地方の町や村に今もこの習慣が残っているのには、もう少し深いわけがあるようだからだ。この美しい伝統が湖北地方に伝わっているのは、そこに中江藤樹の影響が考えられるからだ。
藤樹は武士を捨ててふるさとの小川村に帰り、私塾を開いた。そして藤樹は家の前に流れる溝に魚を飼いたいと思った。これを知った門人の一人で、漁師をしている加兵衛が琵琶湖で捕った鯉を3尾もってきた。溝に放たれた鯉はゆったりと泳ぎだし、それを見た藤樹や門人たちの気持ちをなごませた。
しかし、その鯉は翌朝にはなくなっていた。盗まれたのである。藤樹ががっかりしていると、加兵衛がまた鯉を持ってやってきた。「申し訳ない」とあやまる藤樹に、加兵衛はこう言った。
「いいんですよ。鯉はまだまだ沢山います。だれでもあの鯉を見れば欲しがるのは無理はありません。この鯉もまた盗まれるかもしれませんが、そうなったらそうなったで、また持ってきます」
その鯉もたちまち盗まれた。門人達は「けしからん」と息巻いた。藤樹は門人達に「なぜ盗みがなくならないのか。それは人と人との関係が壊れていて、お互いに相手を敬愛するこころが足らないからだ。ほんらい人は誰でも美しい心をもっているものだ。誠意はいつか伝わるものだ」と諭した。
加兵衛はその夜、物陰に身を潜めて、盗人が来るのを待った。やがて、家の前に二つの影があらわれた。加兵衛は飛び出していって、二人に懇願した。
「鯉は中江先生が、人々を楽しませようと、放したものです。鯉が欲しければ、私の生け簀に来て下さい。ただで差し上げます。中江先生を悲しませないで下さい。お願いです」
二人は泣きながら懇願する加兵衛の誠意に打たれた。そして、「すまなかった。二度と盗まないよ」と言って、去っていったという。この話は村に伝わり、鯉は再び盗まれることはなくなった。そればかりか、門人も増えて、藤樹の思想が人々の間に浸透していった。こうして近隣の村の水路にも鯉の姿が多く見られるようになったのだという。
水路に鯉を放つ習慣は、今も湖北の土地に残っている。用水の中を悠然と泳いでいる鯉たちの姿は、訪れる人の心をなごませる。こうした風景がふつうに見られるのも、「人は誰でも美しい心をもっている」という藤樹の教えが、その土地の人々の心に生きているからだろう。風景の美しさは、そこに住む人々の心のゆたかさでもある。
(参考サイト) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html
新しい職場に変わって、10年ほど前に別の高校で同僚だったA先生と再び一緒になった。その人が「橋本さんのあの話は強烈に印象に残っていますよ」という。どうやら私が春休みを前にした三学期の終業式のときに全校生徒の前で話したことらしい。
教務主任が出張で、私がその代理として、何か講話をせよということになった。そこで「こころの羅針盤」という題で、高校生の頃に出会ったデカルトの話をした。人生を旅にたとえ、その旅で迷わないためには「羅針盤」が必要だという話である。
そうした話をした後、「君たちはその大切な羅針盤を持っていますか? 私は持っていますよ。それはここにあります」そう言って、胸の当たりを手で押さえた。そして、やおら上着の内ポケットから、古ぼけた一冊の岩波文庫を取りだした。それが私が高校生の頃から愛読し、人生の指針としてきたデカルトの「方法序説」だった。
自分でも少し演出過剰かなと思った。A先生もこれを覚えていて、「なんというキザな先生かと思いましたよ」という。しかし、こうした演出は生徒の目を一点に釘付けし、意識を集中させるのにかなり効果的であることもたしかだ。
デカルトはその本の中で、人生には羅針盤が必要であることを述べている。そしてその羅針盤とは何か。それは万人がひとしく備えている「良識」だという。外部の権威に盲目的に従うのではなく、自らの内側に備わっている良識を磨き、これが指し示す真理を羅針盤として人生を生きていくことの大切さをデカルトは力説している。高校時代の私はこのシンプルな思想に大いに共鳴したものだった。
もっとも、私の話のもう一つのテーマは、「人生の羅針盤」があれば、道に迷わないので、その分ゆとりができて、いろいろと道草を楽しむことができる」ということにあった。ただ闇雲にいそがしく走り回って人生を浪費するのはつまらない。
目的地がはっきりしていれば、大いなる心のゆとりをもって、路傍の美しい花に目を留めたり、旅人同士、たのしい会話を楽しむことができる。こうした心を豊かにするすばらしい「出合い」が持てることが、羅針盤の大きな効用だということだった。
私のこの話は好評で、「橋本さん、いい話をありがとう」と校長にも声を掛けられ、その他何人もの先生から「よかった」「感動しました」と言ってもらえた。あまり人前で話をすることの好きではない私だが、自分の考えていることがこうして多くの人の心を打ったと知って、いまさらながら、デカルトのいう良識の力を実感し、うれしくなったものだった。
高校生の私はこのデカルトの考え方を胸にひめて勉強した。おかげで、さほど受験勉強もせず、家の山仕事をしたり、多くの文学書や哲学書に親しみながら、現役で目標とする大学の目標とする学部(理学部物理学科)に合格することができた。
それは1969年のことで、全共闘の学生による安田講堂占拠があって、東京大学などの入試が取りやめになるという前代未聞のできごとがあった年である。
私の父は元刑事で、私の下宿先もご主人が刑事だった。「学生運動をしたら出ていってもらうよ」と言い渡されたが、翌年の70年安保闘争に参加し、やがて下宿を追い出されることになった。赤旗やビラを配ったり、オルグをしたり、署名活動で一般家庭にもおじゃまし、そこのご主人と熱い安保論争をしたこともある。
そして大学を二年間留年し、父から勘当され、やがて組織のあり方にも疑問をもつようになった。これもデカルトのいう「良識」に照らしてのことだった。他人の命令で動くのではなく、自分の頭で考えた結果のことである。組織を離れた後、中日新聞の朝刊と夕刊をくばりながら、自力で勉強し、大学院に進学した。
今考えると、学生運動に参加したことは人生の大きな道草だった。しかし、これがあって私の社会観や人生観が大いに鍛えられたのだと思っている。これもまたデカルトに学んだ「人生の羅針盤」の効用であろう。
こうした体験を振り返って、10年ほど前に、自伝「青年時代」を書いた。70年安保当時の学生の生き方のひとつのサンプルとして、関心のある方に読んでいただければうれしい。
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/seinen.htm
国家公務員のAさんは、昨年3月に、共産党のビラを配ったとして逮捕された。Aさんがビラを配ったのは休日だった。それでもこの行為が国家公務員法に違反するのだという。こうしたことで逮捕されたのは、37年ぶりだという。
Aさんを逮捕するために、警官が尾行し、Aさんの私生活がビデオに録画された。カラオケ店、観劇、歯科医の出入り、女性と手を繋いで歩いているところまで分刻みで盗聴・盗撮された。
これが法廷で上映されたことで、公安部門の警察の日常活動が浮き彫りにされた。5月1日付けの朝日新聞「統制への足跡」によると、Aさんへの尾行は29日間に及び、延べ171人の警察官が彼を執拗に追っていたようだ。Aさんは、「自分の手帖より細かいな。まるでストーカーだな」と思ったという。
1999年8月に、盗聴法をはじめとする「組織的犯罪対策法」が、自自公の手で強行採決された。その後、政治ビラや反戦ビラの配布で逮捕される事例が相次いでいる。昨年中にビラ配りで住居侵入とされ、逮捕や取り調べを受けたのケースは、東京都内だけで30件をうわまわるという。
立川では自衛隊の派遣反対を訴えるビラを防衛庁の官舎に配った市民団体のメンバー3人が逮捕され、75日間も勾留された。この件は東京地裁が「政治的表現活動としてのビラ配布は、商業ビラに比べて優越的な地位が認められている」として無罪判決を下した。しかし、検察側が控訴し、今後の裁判の行方はわからない。
この判決が下された一週間後、東京都葛飾区のマンションに政党のビラを配っていた男性が住民の通報によって逮捕されている。勾留は正月をまたいで23日間続いた。朝日新聞「統制の足音」からその様子を引用しよう。
<地方の大学にいる長男が帰ってきて、その晩は久しぶりで家庭でカニ鍋を囲む予定だった。夫の帰りが遅いので、妻はおかしいと思った。知り合いの弁護士からの電話で夫の逮捕を知った。
翌日の夜、自宅に十数人の警察官が来た。家宅捜査。「何を探しているんですか」と妻がたずねると、「名簿だよ」「だれがどこ配るのか、決まっているんでしょ」と警察官は言った。押収されたものはゼロだった。長男と長女はおびえていた>
彼は5月20日に初公判を迎える。保釈されたあと、彼はビラ配りをやめた。「自分の気に入らないものは捕まえてしまえ」という世の中にならないか不安だという。しかし、最近の動きをみていると、この不安が現実のものとなりつつあるようだ。
横暴な権力に頼って、自分の気に入らない存在を抹殺しようとする人々が着実に増えている。これが社会をどんなに恐ろしい場所にかえることになるのか、多くの人々はあまりに無頓着であるように見える。
朝日新聞に連載された「統制の足音」を読んで、日本でとんでもないことが進行していると思った。5月3日の記事は、卒業式を妨害したとして起訴され、4月21日に東京地裁の被告席に立たされた元教諭のケースを報じている。おなじ教員として、何だか背筋が寒くなる思いがした。
昨年3月、都立板橋高校の卒業式に、同校を定年退職した藤田勝久さんは来賓として出るはずだった。当日、藤田さんは体育館で待っている保護者達に、「国歌斉唱のときは、できたら着席をおねがいします」と訴えた。
こうした藤田さんに、校長は退場を命じた。藤田さんは「板橋高校の教員だぞ」と抵抗したが、結局校長の要請に応じ、卒業生が入場する前に会場をあとにした。
国歌斉唱のときはほとんどの卒業生が着席し、校長や来賓の都議が「立ちなさい」と起立をうながしたという。しかしこれ以外、とくに異常はなく、式の最後には卒業生全員が立って、自分たちが選んだ「旅立ちの日に」を合唱した。朝日新聞「統制の足音」から引用しよう。
<ピアノ伴奏は全盲のハンディを乗り越え、3年間を通い通した女子生徒がつとめた。「感動的な式だった」と振り返る出席者が少なくない。
ある卒業生は「君が代の時は、押しつけはおかしいと思うから、僕は座った。式の雰囲気をぶちこわしたのは藤田先生ではなく、『たちなさい』と僕らを怒鳴りつけた都議達です」と言った。
この時の板橋高校の不起立が、都議会で問題にされた。都教委は同校の教職員9人に厳重注意などの指導をし、警察は学校の被害届を受けて藤田さん方を家宅捜索した>
これだけのことで警察の家宅捜索をうけ、裁判所で被告席に立たさてはたまらない。しかし実際にこうしたことが行われている。まさに「統制の足音」がいつのまにか私たちの身辺にしのびよっているという感じだ。
この春、都立高校の卒業式には、校門で市民団体がビラを配らないように、私服の警察官の姿が見られた。ビデオを回す警察官もいた。これに対抗して、市民団体から依頼された弁護士が50校以上に派遣され、逮捕を防ぐために見守った。弁護士が派遣されなかった葛飾区の高校で3人が逮捕されたという。
去年国歌斉唱時の不起立などで処分された教職員は全国で194人もいた。その99パーセントが東京都と広島県である。こうした措置によって今年の卒業式では、教職員や生徒の不起立はほとんどなくなった。板橋高校でも、今年の卒業式では生徒達は起立したという。
国歌斉唱や起立については、法律が成立した国会でも首相が「強制はしない」と答弁し、天皇も「(強制は)いかがなものか」と発言している。一部の強硬な国家主義者によって、この国がどんどん右傾化し、ナショナリズムの跋扈する危険地帯に入っていくのを、私たちは座視していてよいのだろうか。
2005年05月06日(金) |
社会を荒廃させないために |
先日のJR事故の原因として、社会が地道な労働を評価せず、労働者が誇りを奪われたことも大きな要因になっている。どうして人が自分の労働や生き方に誇りをもてないという労働疎外、人間疎外がもたらされるのか。その背景にあるのは、「社会の荒廃」という深刻な現実である。
社会が荒廃すると、人間関係の調和が失われ、事故や犯罪や自殺が増加する。人々が安心して暮らせなくなる。人間と人間が裁判で争い、財産を乗っ取ったり、会社を乗っ取ったりと、物騒で殺伐とした事件が頻発するようになる。
それでは何が社会を荒廃させるのか。過度な競争原理による貧富の差の拡大だ。OECDの調査によると、所得が平均の半分に満たない世帯の割合は、日本が15.3パーセントで、これは5パーセントしかない北欧諸国の3倍だという。
ORCD諸国の平均10.2パーセントをも大幅に上回り、日本を上回るのはメキシコ、アメリカ、トルコ、アイルランドの4ヶ国だけだという。これは2000年の調査だから、今ではさらに貧富の格差は広がっているに違いない。
厚生省の2003年の「国民生活基礎調査」によると、世帯当たりの所得の最頻値は400万円を割り込み、世帯全体の6割が平均所得の600万円を下回っている。この結果、家計の金融収支は1兆2千万円もの赤字になっているという。
家計のやせ細りの背景には、「労働経済白書」のいう「働き方の多様化」がある。この10年間で「正社員」は1割減り、かわってパート、アルバイト、派遣・契約社員などの「非正規雇用」が5割増加の1千5百万人に達した。働き方の多様化」が、わが国においてはそのまま「賃金格差」になっている。
貧富の差が拡大すると、政治が裕福な人々に独占され、裕福な人々にますます都合の良い体制ができあがる。世論をリードするジャーナリズムも、資金を提供する人々によって支配され、弱肉強食の風潮がますます社会を覆うことになる。正義が力ではなく、力が正義であることがまかり通るわけだ。
そうした社会では、一部の人々だけが特権を享受する。そして大多数の人々は負け犬同然の扱いを受ける。それでも多くの人々は成功神話にあざむかれ、目の前ににんじんをぶら下げられて、あるいは落ちこぼれにならないために、不安と恐怖にかられてがんばるわけだ。
ゆとりを奪われた人々は、自分たちの生き方を絶対化し、その枠の中で生きようとする。その枠が、強者たちによって、自分たちを永遠の弱者にするべく与えられたシステムだということがわからない。常に他者と競争し、他者との比較の中で自己の優位をもとめる生き方に慣れた人間は、そうした貧しい生き方の中で、その貧しさを社会に蔓延させながら生きていくことになるわけだ。
こうして社会がますます荒廃し、犯罪が増加すればするほど、人々はさらに保守化する。犯罪が生まれるその原因を、自由な体制の中にもとめ、自由や基本人権に制限を加えて、これを制限しようとする。国家権力に従順な人間をつくり出すことで、治安を回復し、みせかけの安全をつくり出すわけだ。こうして警察国家が生まれる。
少し前まで、日本は世界がうらやむ豊かで平和な国だった。所得格差が少なく、一億総中流と呼ばれた時代もあった。それがバブルとその後のバブル崩壊の過程で変質した。小泉首相の「構造改革」がこの傾向に拍車をかけたことも争えない。
同時に日本は政治的に保守化し、憲法を改悪して、いよいよ警察国家への道を歩み始めている。その現状について、朝日新聞が連載した「統制への足音」に生々しく書かれている。あしたの日記でこれを紹介しよう。
私は人間に一番大切なのは「自己の存在が他者のために役に立っている」というプライドではないかと思っている。教育の目的も、一口で言えば、こうした「自尊心」を与えることだといえる。逆にこうした自尊心を奪うことは、反教育的なことであり、個人に対する犯罪である。
兵庫県尼崎市JR脱線事故で107人もの人命が失われた。会社の安全性を軽視した収益中心主義が批判されている。しかし、作家の冷泉彰彦さんは「事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会」であると言う。
<事故に関する報道から浮かび上がって来るのは、収益至上主義や競争至上主義かもしれません。ですが、それも主犯ではないように思います。事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。・・・
思えば、60年代から70年代には社会には多くの専門職の人たちが、それぞれ誇りをもって仕事をしていたように思います。そして、東京都の国分寺市にあった国鉄鉄道学園がそうであったように、そうした専門職を養成する教育機関も機能していました。
そんな専門職の誇りはいつの間にか消えてしまいました。まず、共通一次の導入によって、あらゆる大学に序列ができてしまい、更に学歴がそのまま社会階層、しかも唯一の階層の指標になってしまいました。有名大学の法学部や医学部が頂点であって、様々な専門職はそうしたエリートと比較すれば「下」であるというような意識が社会の隅々にまで行き渡ってしまったのです>
たしかに、私たちが子供の頃、電車や鉄道の運転手や車掌さんは憧れの的だった。また、彼らも自分の仕事に誇りを持っていた。たとえ給料は安く、勤務は過酷であっても、彼らは社会から尊敬されているという誇りに支えられて仕事をしていた。
同様な職人的な誇りを、警察官や教師ももっていた。私の父は警察官だったが、家族で旅行をしているときも、不正を目撃すると私服のまま毅然とした態度で注意していた。その様子を見て、私は父を尊敬したし、警察官を信頼した。父は一介の巡査でしかなく、退職するときも巡査だったが、そうした階級に関係なく、私は父を誇りに思っていたものだ。
専門職に限らず、すべての職業人はその仕事に誇りを持ち、また社会もその誇りを正当なものとして許容していた。日本だけではなく、アメリカでもヨーロッパでも、労働者はこうした気概をもって生きていた。港湾労働者で作家のエリック・フォッファーの本を読むと、そのことがよくわかる。
しかし、現在、社会から「労働に対する尊敬」が急速に失われつつある。それはたんに労働が金儲けの手段になってしまったからだろう。商法でいう「社員」とは「株主」のことで、社員はたんに会社に金でやとわれた「従業員」でしかない。
今回のJR事故について、さいとーさんが、あるBBSに掲載された次のような文章を紹介して下さった。「教育」の名の下に、どんなにおぞましい「反教育」がこの国で行われているかを象徴する風景だと思うので、最後にこれを引用しておこう。
<JR環状線の鶴橋駅。近鉄鶴橋からJR鶴橋への乗換えでごった返すホーム。10人近いJRの新入社員が横一列に並び一斉に「オハヨウございます!オハヨウございます!有難うございます!」の連呼! 私は「何じゃ、こりゃ!」の驚きのあまり、歩きながらも彼らをまじまじと観察してしまいました。「有難うございます!」のところで全員、斜め45度のお辞儀を繰り返しているのです。
交通機関のもっとも大切な仕事は「客を安全に目的地へ届ける」サービス業。この「オハヨウございます」は、何かが間違っていないか!? ほとんど呆れながら彼らをまじまじと見てしまいました。中の一人は眼鏡をかけた小太りの少年(私から見れば)。斜め45度に頭を下げるたび、メガネがずれ落ちるらしく、いちいちメガネを右手で掻き揚げています。それはそれは悲壮でした。
これが彼らの大切な仕事なんだろうか――。また、その理不尽に誰も「NO!」を唱えられない体制なのか?! あるいは「NO!]を唱えないイエス・マンだけをJRは集めようとしているのか?!
サービスとは、客に慇懃な言葉を発して安心させることではありますまい。サービスとは、客がとうとう最後までその気配りに気がつかないまま、無事に、そのサービスを享受し終えることだと思うのです。
今回の事故。運転手の過去が取りざたされつつあります。しかし私は、それ以前のJRの企業としての体質に問題アリ!と感じているのです>
毎朝、散歩している。NHK朝の連続ドラマ「ファイト」を見た後、8:30に家を出る。7,8分で木曽川の堤につく。伊吹山や金華山が眺めながら、さらに10分ほど歩けば名鉄の鉄橋にたどりつく。
赤い鉄橋を、名鉄の赤い電車が走っている。そこに「木曽川堤」という駅がある。9時少し前に、そのあたりに運動靴を履いた、風采の上がらない中年男が立っていたら、それが私である。
たいていそこから引き返すのだが、場合によっては、踏切を超えて、もうすこし堤を歩き、左側の小道を河原まで降りる。灌木の間を降りていくと、やがて急に視界が開けて、広々とした砂利の河原だ。
河原に腰を下ろして、ゆったりとした川の流れを眺め、緑に包まれた対岸の風景や遠くの青い山を眺める。広い河原に人気は全くない。ときおり鉄橋を赤い電車が通っていくくらいだ。耳を澄ませば風が木の葉をゆする音、川の流れる音、それから、静寂そのものが奏でる無声の音楽が心に響いてくる。
ある人が音楽には三種類のものがあると言っていた。楽器の奏でる音楽、自然の奏でる音楽、そして、この世を超えた世界から響いてくる天上の音楽。白い河原の清浄な世界に身を置いていると、天上の音楽でも聞こえてきそうな気がする。
散歩の途中、近所のS老人といつもきまった場所で顔を会わせる。S老人はすでに散歩の帰り道だ。この人は耳が遠いせいか、こちらが「おはようございます」と挨拶しても、そのまま通り過ぎることが多い。他人は眼中にないという感じだ。
ある日、その人が立ち止まって田んぼを眺めていたので寄っていくと、珍しく向こうから声をかけてきた。 「あれは、鴨だね」 「鴨がいるのですか。もう渡って行ったかと思ったが・・」 「マガモだね。あいつらは渡り鳥じゃない。一年中、このあたりにいくらでもいるよ。マガモは食べてもうまくないんだ」 「そうですか」 「7羽いるね、。2羽が親で、残りの5羽は子供だ」
まずいというくらいだから、食べた経験もあるのだろう。S老人は軍隊で馬に乗っていたという。おそらく将校だったのかもしれない。80歳を過ぎているはずだが、背筋が伸びていて歩くのも速い。
老人と別れてからも、私はしばらくマガモを見ていた。7羽で仲良く田んぼの泥に嘴を入れて、何か餌を食べている。マガモの他に、白鷺が一羽。上空には鳶が悠然と輪を描いていた。ほかに雀やひよどり、ムクドリも多い。
鉄橋から引き返すと、40分ほどの散歩になる。河原までいくと1時間を超えるコースだ。他に自転車でさらに遠出をするコースもある。これは休日に弁当を持って出かけることが多い。深緑の美しい季節、雨でも降らない限り、毎朝の散歩がたのしみである。
2005年05月03日(火) |
世界に通用する対話力を磨こう |
朝日新聞が韓国の東亜日報社や中国社会科学院と共同で実施した世論調査によると、「日本嫌い」が韓国や中国で6割にもなったという。
中韓とも「日本が好き」というのは8パーセントしかなく、嫌いが好きを遙かに上回っている。ちなみに97年の調査では、「日本が嫌い」と答えた中国人は34パーセント、02年でも53パーセントだった。日本の国連安保常任理事国入りには、両国で8割以上の人が反対している。
これにたいして、日本でも「韓国嫌い」が22パーセントと「好き」の15パーセントを上回っている。「中国嫌い」は28パーセントで、「好き」の10パーセントを3倍近く上回っている。
小泉首相の靖国神社参拝などを契機に、日本と近隣諸国の関係がどんどん悪化している。憎悪が憎悪によって増幅され、ナショナリズムがどんどんエスカレートしている。この問題をどう捉えたらよいのだろうか。どうすればこの流れが変わるのだろう。
最近の中国・韓国の反日運動を見ていると、やはり日本は近隣諸国と様々なレベルでの対話が不足していたのではないかと思われる。経済大国の日本は、援助を餌に、経済力で物事を解決してきた。
卑近な例をあげれば、母親がそのいじめっ子を家に呼んで、「お金をあげるから、うちの子をいじめないで」と金を渡すようなものだ。
父親が「うちの子をいじめたら承知しないぞ」とげんこつをお見舞いする軍事的解決よりはましだが、もっとよいのは、相手の子供と対話し、良心に訴えて納得させることだろう。
日本社会には対話が不足している。教師は生徒と、親と子供と対話する必要がある。親同士の対話も大切だ。こうした対話によって言語力が磨かれ、ほんものの思考力が培われる。
民主主義を育てるのは「対話」である。力による政治ではなく、対話による政治を実現するためにも、対話力の養成がはかられねばならない。日本が国際社会で通用する政治力をもち、尊敬を勝ち取るために必要なのは、まず日本社会がこうした対話を重視する社会に生まれ変わることだろう。
水木しげるさんの「私の幸福論」(PHPの5月号)を読んだ。水木さんはそこで、「自分の好きなことをやるために、人は生まれてきたのだ」と語っている。
水木さんはさらに、「やりたいことがみつからないと言う人がいますが、まずは自分が好きなことは何かと考えること。小さい頃に熱中したものを思い出すんです」と書いている。
水木さんは小学生の時は毎日2時間目から登校していたそうだ。理由は毎朝ゆっくり朝食をたべていたからだという。先生にいくら叱られても、「ゆっくり食事をするたのしみ」を捨てることができなかったそうだ。
戦争で南方のニュープリテン島に行くが、爆撃で左腕を失ってしまった。そこで前線から後退し、島の人々と交際するようになって、彼等の生活ぶりに驚いたという。
<彼等は朝起きると、主食であるバナナを採りにいく。暖かいから、放っておいてもバナナの木はどんどん実をつける。それは小さな部族を養うには充分な量です。そして昼間は涼しい家の中でのんびりしている。厚い日中にわざわざ働こうまどと考えない。いや、彼らにとっては労働という観念さえないのでしょう。
毎日をのんびりと暮らし、客人が来れば心からもてなす。祭りの日にはみんなで歌い踊る。ただそれだけの生活です。彼らには義務のような仕事などありません。暑いから洋服など必要ないし、食べ物も周りで採れるもので充分。もしかしたら人生の目標なんていうものもないのかもしれない。それでも彼らは、とても満ち足りた表情をしていました。
彼らのなかには「幸せ」という言葉はありません。それでも彼らの村には「幸せ」の空気が充満しています。それは彼らの日常生活のなかに、幸せが自然に組み込まれているからです。親子の愛情も隣人への思いやりも、全てが生活のなかに組み込まれている。あえてこれが幸せですと取り出して確かめなくても、ほのぼのとした幸福に包まれているんです。・・・・
戦争が終わってラバウルを去るとき、彼らに引き止められました。家も建ててやるからずっと一緒に暮らさないかと。本気で私は永住しようと思いました。いろいろな事情で適いませんでしたが、私は彼らの村に流れる幸せの空気を、日本に帰国してからも思い出しながら、暮らしてきました>
ラバウルの人たちは実にわかりやすい生活を送っている。水木さんは私たちも、天然自然に生きるラバウルの人々のように、人生をいじくりまわしたりせず、もっとシンプルで、わかりやすい人生をおくるべきだという。
わかりやすい人生とは、「自分の好きなことをして生きる」ということだ。私も50歳を過ぎたら「天命」を大切にしたいと思っている。「天命」とは何か。それは「自分のすきなこと」だと思っている。
2005年05月01日(日) |
中江藤樹の「良知」に学ぶ |
先日、友人3人と湖北を旅した。近江今津、新旭町と、私にはもうすっかり馴染みになった湖北の町を訪ねた。私は自然が好きだが、自然と人間が調和して暮らしている様子を眺めるのも好きだ。なんだかとても心が和む。
今回はそのとなりの安曇川町にまで足を伸ばした。近江聖人とあがめられた中江藤樹(1608~1648)が生まれ育ち、藤樹書院という塾を開いていたところである。藤樹のお墓に参り、藤樹記念館を訪れた。藤樹書院は明治時代に立て直されたものが残っていた。
藤樹は近江国高島郡小川村に農民の子として生まれたが、9歳のとき米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行った。翌年には藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住んだ。
15歳のときに祖父を失い、家禄を継いで100石取りの武士となる。17歳の頃、独学で「四書大全」を読み、朱子学に傾倒したが、やがて次第にその格法主義的な思想に批判的になる。そして、27歳の時、脱藩して、ふるさとの小川村へ帰った。
藤樹は居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、近郊や農民や大洲から彼を慕ったやってきた藩士を相手に、孔子や孟子の教えを説いた。37歳のときに「王陽明全書」を手にし、陽明の「致良知説」に大いに共鳴し、この説の優れていることを説いた。これによって、藤樹は陽明学の開祖といわれている。
身分制度のやかましかった江戸時代、藤樹は武士を捨てて故郷に帰った。そして母親に孝養を尽くし、近隣の人々に人の生きる道としての学問を教えた。朱子学が幕藩体制を支えるための武士中心のイデオロギーであったのに対して、藤樹は本当の学問は身分を超えて妥当する真理を教えるものでなければならないと考えた。
代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいる。とくに蕃山が有名になることで、その師である藤樹の死後における名声が高まった。藤樹の直接の門人ではないが、陽明学を信奉した大塩平八郎や、維新の志士を育てた吉田松陰はその末流である。
明治にはいると、キリスト教徒の内村鑑三が「代表的日本人」のなかで日本を代表する5人の偉人の一人として中江藤樹をとりあげ、藤樹の名声はさらに高まった。万民平等を説く藤樹の思想は先進的だが、大切なことは彼がその実践家であったことだ。
藤樹にはたくさんのエピソードがのこっている。たとえば後に医者として名を残した大野了佐は、もともと魯鈍といわれていた。藤樹は彼のために『捷径医筌』を著わし、これをテキストにして医学を教え、ついに彼を立派な医者に育てあげたという。
藤樹は「翁問答」のなかで「元来、文武は一徳であって、別々のことではない。武のともなわない文は真実の文でなく、文のともなわない武は真実の武ではない」と書いている。
<文は仁道の異名であり、武は義道の異名である。・・・根本の徳を第一につとめ学び、枝葉の芸を第二に習い、本末を兼ね備え、文武合一であるのを真実の文武というのである>
中江藤樹の思想の核心は「人間は本来善な存在であり、学問によってこの玉を磨かなければならない」という「性善説」である。彼はこれを「孟子」から受け継いである。「性悪説」の立場に立ち、権威による人民支配こそ学問の使命だと考えた朱子学は、彼の肌にはあわなかった。武士を捨てたのはこのためだろう。
中江藤樹と同時代の人のデカルトがいる。デカルトは「原罪」を教義の中心にした中世の神学を批判し、煩瑣で教条的なスコラ哲学を批判した。そしてその足場を、万人が生まれながらに持っている「良識」に求めた。そして彼はこれをもとに人間中心の思想と科学を建設した。ヨーロッパの合理思想は彼から始まり、この思想がやがてヨーロッパの市民革命を導くことになった。
中江藤樹の説く「良知」はデカルトの説く「良識」と似ている。そして幕府の権威を後ろ盾とした朱子学は、教会の権威を後ろ盾としたスコラ哲学にそっくりである。学者の独善を嫌い、「社会こそ本当の教科書だ」と考え、ラテン語ではなく口語であるフランス語で書物を著したデカルト。農民の分かる言葉で語りかけ、学問の源泉を人間の「良知」に求めた中江藤樹を、私は日本のデカルトだと思っている。
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