橋本裕の日記
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2008年03月13日(木) |
今までありがとうございました |
橋本裕の娘です。
父は3月12日23時17分に急性心不全のため急逝しました。 突然のことで私たち家族も悲しみを抑えられません。
父の日記をこんな形で終了させることになってしまいとても悲しいです。
今まで日記やHPを通して父と仲良くさせて頂いて、本当にありがとうございました。
2008年03月12日(水) |
知の巨人、アルキメデス |
アルキメデスの死後、150年ほどして、ローマの文人政治家キケロがシラクサを訪れたとき、イバラや雑木の茂みに覆われたアルキメデスの墓を見つけた。そのアルキメデスの墓には、円柱とそれに内接する球と円錐が描かれていたという。
球は円柱の2/3、円錐は円柱の1/3の体積をもっている。これを最初に発見したのはアルキメデスである。発見しただけではなく、これを数学的に証明したらしい。
大学入試でこれを証明せよといわれたら、おそらく、多くの受験生は立ち往生するだろう。一握りの優秀な学生は、積分法を用いてこれを証明するに違いない。しかし、積分法の公式を使わずに、これをわかりやすく説明するのは、数学教師といえども容易ではない。
ベルは「数学をつくった人びと」のなかで、「最も偉大な数学者を3人だけあげよといわれるならば、そのリストにはかならずアルキメデスの名がはいることだろう」と書いている。そればかりではない。史上最高の数学者はアルキメデスに違いないという。
<普通アルキメデスとならべられる他の二人は、ニュートンとガウスである。これら巨人の生きたそれぞれの時代における数学や物理学の比較的な豊かさ、あるいは貧しさをはかり、その時代の背景に照らして、彼らの業績を評価する人は、アルキメデスを第一位におくだろう。
ギリシアの数学者や科学者が、ユークリッドやプラトンやアリストテレスではなくて、アルキメデスのあとを追っていたならば、2000年もまえに、17世紀にデカルトやニュートンとともにはじまった近代数学の時代、同じ世紀にガリレオの手で始められた近代物理の時代を座して待つことができたであろう>
アルキメデスに先立ち、ギリシャ数学はピタゴラスという偉大な先達をもっている。ピタゴラスの大きさは、ある意味で、アルキメデスをもしのいでいる。その理由を、ベルはこう書いている。
<ピタゴラス以前には、証明が仮説から生ずるということがはっきりと理解されていなかった。根強い伝説によると、彼はヨーロッパ人として初めて、幾何学を展開するにあたって最初に設定されるべきは公理、すなわち仮説であり、その後の全展開は綿密な演繹法を公理に適用することによって進められるべきである、と説いた>
ベルによれば、ピタゴラスの最大の功績は、「数学に証明を導入した」ことだという。たしかにピタゴラスは数学の命題が「仮説から証明されるべきである」ことを、だれよりもよく理解していた。そしてこの論理的合理主義の伝統はアルキメデスにも受け継がれている。
しかし、アルキメデスの偉大なところは、彼がこのギリシャ的な論理主義の伝統に安住しなかったことだ。プラトン的なイデアの世界に安住し、定規とコンパスで作図可能な円と直線の世界の調和を、アルキメデスは見事に打ち破っている。彼はある意味で非ギリシャ的な精神をあわせもつ未来の数学者だった。
<プラトンの死後、1985年もたって、デカルトがその解析幾何学を発表するまで、幾何学はそのプラトンふうな一種の囚人服を脱ぐことができなかった。もちろん、プラトンはアルキメデスが生まれる60幾年も前に死んでいるのだから、しなやかな力と自由さにあふれるアルキメデスの方法を理解しなかったと非難するわけにはいかない。
反対にアルキメデスが、幾何学の女神の本質について、きついコルセットをはめたようなプラトン的な概念のオールド・ミス性を尊重しなかったのは、彼の名誉に値するだけである>
アルキメデスは、近代的な経験科学の方法に接近している。真理を論理のなかにのみではなく、もっとゆたかな現実のなかに求めようとしている。プラトン的均整美だけではなく、現実の動的な部分にも目を向け、これを記述するための数学を開発した。
じつのところ、アルキメデスはニュートンやライプニッツより2000年以上も先んじて「積分法」を発明し、円や三角錐の体積を計算した。さらにアルキメデスは曲線上の接線を求める方法を探求している。これはまさしく私たちが高校の数学で習う「微分法」の考え方である。
ニュートンはフックに宛てた手紙の中で、「もし私が、より遠くを眺めることができたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからです」(If I have been able to see further, it was only because I stood on the shoulders of giants)と書いた。
ここでニュートンが巨人と呼んだのはデカルト、ケプラー、ガリレオの三人だといわれている。しかし、彼らをその肩の上にのせ、ひときわ高くそびえ立っている巨人がいる。それがアルキメデスだった。
(円柱に内接する球と円錐の体積の比が3:2:1であることを理解したい人には、次のサイトが参考になります)
http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/kyuu1.shtml
2008年03月11日(火) |
近代の心を持った古代人 |
E・T・ベルは「数学をつくった人々」(ハヤカワ文庫)で「古代最大の知性であるアルキメデスは、骨の髄まで近代的である」と書いている。彼は「近代人の心をもって生きた古代人」だといえるかもしれない。何が近代的かといえば、たとえば彼は徹底した合理的実証精神の持ち主だった。ベルの言葉を引用しよう。
<アルキメデスがしばらく生き返って数学と物理学の大学院課程をとることができたとしたら、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグを、彼らがたがいに理解しあっている以上に、もっとよく理解したことであろう。
すべての古代人のうちでアルキメデスだけが、何物にもとらわれない自由な思考をした唯一の人である。この自由こそは、今日偉大な数学者たちが25世紀の苦闘の結果獲得したと自負しているものなのである>
彼は「てこの原理」(仕事の原理)を発見した。アルキメデスはシラクサの王に、「立つべき場所を与えよ。そうすれば、地球をも動かしてみせよう」と言ったらしい。
たしかに「てこ」をつかえば小さな力で大きな物体を動かすことができる。彼は実際にこれで巨石を落下させ、押し寄せてきたローマ軍を撃退した。彼のためにローマ軍はなかなかこの小都市を落すことができなかった。
アルキメデス(BC287~BC212)は最後、ローマ軍の兵士に殺された。なんでも円の研究に没頭していて、彼が地面に描いた円を兵士が踏んだのをとがめたため、その兵士に殺されたのだという。このときアルキメデスは75歳だった。
アルキメデスのこうした逸話について、私たちがあれこれと知ることができるのは、ローマの伝記作家プルタルコスのおかげである。しかし、アルキメデスを殺したローマ軍の将軍マルケスについて、プルタルコスは多く書いているが、アルキメデスはそのなかのひとつの挿話でしかない。
<プルタルコスは数学の王者よりも、ローマの武人マルケスのほうが歴史的に大切だと考えたらしく、後者の伝記のなかにアルキメデスのことを、まるで厚いサンドイッチのなかの薄いハムのようにはさんでいる。だが今日ではマルケスが記憶され、そして呪われるのも、主としてアルキメデスのおかげといえよう>
ベルは「アルキメデスの死において、きわめて実際的な文明が、自分より偉大なものに初めてぶつかって、それを滅ぼしたのを、われわれはつぶさに見ることができる」と書き、「ギリシャにこそ栄光が、ローマには尊大があった」というE・A・ポオの言葉を引用している。
これにはいささか異論があるかも知れない。しかし、がいして数学者がローマを見る目は厳しい。その根底にはローマ軍のアルキメデス殺害という事件が影を落としているのだろう。
なお、アルキメデスは古代における偉大な物理学者だったが、それ以上に偉大な数学者だった。こんにち歴史に残る三大数学者といえば、アルキメデス、ニュートン、ガウスと相場が決まっている。そして、なかでもアルキメデスの評価はますます高くなっている。その理由をあしたの日記に書いてみよう。
昨日は春うららといってよい好天に恵まれた。さわやかな日差しを浴びながら、北さんと一緒に「名鉄のハイキング」に参加し、岐阜市内の名所を歩いた。
午前10時に名鉄岐阜駅を出発して、金神社、美江寺観音、金華橋、川原町、長良橋、岐阜公園、伊奈波神社、梅林公園を通り、午後4時頃名鉄岐阜駅で解散した。
とちゅう、昼食を食べたり、梅林公園では梅の花を観賞したり、そして喫茶店でコーヒーを飲んだりした。距離にして10キロメートル余りを、こうしてのんびりと歩いたわけだ。
北さんと会うのは11月の万葉の旅以来である。街を散策しながら、ドストエフスキーの大審問官の話や、宗教、哲学、日本経済の行方、それから最近の世界情勢にまで、いろいろと会話がはずみ、6時間ほどがあっという間に過ぎていた。
北さんと、「またこういう機会があれば参加しようね」と約束して別れた。歩くのは健康にいいし、気分転換にもなる。とくに親しい友人と歩くのはとても楽しいものだ。
(今日、3月10日は、「東京大空襲」があった日だ。今から63年前の昭和20年(1945年)3月10日、東京は焼け野原になった。この日、344機ものB29爆撃機が、32万7000発もの焼夷弾を投下し、わずか2時間で東京を火の海にした。この一日で、7万人とも10万人とも言われている人が殺されたのだという。
この人類史上稀に見る蛮行を指揮したのは、ドイツ空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将だった。1964年、当時の総理大臣だった佐藤栄作は、カーチス・ルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与している。これも信じられないことだ)
第三章 いわし雲(1)
信夫はその日、少し早く目が覚めた。何かの夢を見ていたようだ。どこかの砂浜の海岸を、女と二人で歩いていた。波打ち際の砂の上に、二人の影が伸びていた。
女は静子かもしれない。静子だとすると、歩いていたのは若狭の海岸だろうか。彼女の実家が高浜の駅から歩いて20分ほどのところにあった。信夫は婚約のあいさつにその家を訪れたことがある。
家から海岸までが近かった。夏場は海水浴客が押しかけてくるそうだが、そのときはまだ春先で、海岸はひっそりとしていた。松の緑がうつくしかった。
静子の家に一泊して、翌日には近くの海岸沿いにある山に登った。標高が600メートルほどある休火山で、海岸から眺める山の姿は美しかった。地元では「若狭富士」と呼ばれているらしい。山頂の岩の上に登ると、若狭湾が一望できた。山頂に人気がなかったので、そこで信夫は静子の唇をはじめて吸った。
信夫にとって、口づけするのは初めての体験だった。ぎこちない接吻だったが、そのとき信夫は静子をじぶんの大切な一部のように感じた。山を降りてふもとの海岸を歩きながら、静子も少し打ち解けて、自分の生い立ちなどを話してくれた。
静子は高浜の駅から電車で毎日小浜の高校に通った。そして高校を卒業すると、名古屋の芸術短大に進学した。ピアノが好きで、将来はピアノの教師になるのが夢だった。そこで英子と知りあった。英子が神岡と結婚し、その関係で信夫との縁ができた。
しかし、実のところ、二人の縁はそれ以前からあった。信夫は小学生の5年間を小浜で暮らしている。5歳年下の静子はもちろんまだ信夫と接点はなかったが、それでもそのことが二人にある親しみをもたらしてくれた。たとえば小浜公園にいたツキノワグマのことを静子も覚えていた。
「港にはたくさんの漁船が停泊していてね、小学生の頃、よく写生に行ったものだよ。桟橋のかたわらに警察署があった。僕の父はその小浜署で刑事をしていた。僕たちの一家が住んでいたのは、そこから少し離れた電報電話局の近くの長屋の官舎でね……」
寡黙な信夫もいつになく口数が多くなっていた。静子は小浜港の漁船の賑わいや、小豆色をした三階建ての警察署のこと、電報電話局のことも思えていた。二人にそんな共通の話題があることがうれしかった。
そんな会話を弾ませたあと、海岸の松林の陰で、信夫は二度目の接吻をした。そのとき、信夫ははじめて片手を静子のセーターの胸の上においた。静子の乳房の弾力が伝わってきた。
これまで女性に縁がなかった信夫だったが、この体験が眠っていた欲望を目覚めさせた。結婚するまでの数ヶ月、信夫は人が変ったように、静子のことを考え続けた。会うたびに静子の唇を求め、胸や太ももに手を触れた。
信夫の欲望はふくらむばかりだった。静子は戸惑いながらも、少しずつ要求を受け入れた。そして、秋のある日、静子は信夫にすべてを許してくれた。信夫は庭木の葉越しに薄日の差し込む淋しい部屋で、静子を自由にした。
ことが終わった頃、いつか日差しが傾いて、部屋全体に木漏れ日がひろがっていた。その中に、静子の象牙のような白い裸体が溶け込んでいた。静子は目を閉じてしばらくじっとしていた。しかし、突然に眼を開けると、冷たい眼で信夫を見つめた。
信夫はどぎまぎし、あわてて彼女に寄り添った。そうして、信夫はふたたび静子と交わった。そんなことを繰り返しているうちに日が暮れていた。
結婚してしばらくすると、信夫は静子の肌を見ても、さほどの欲情を覚えることはなくなった。そして春江が生まれた後は、静子と交わることはめっきり少なくなり、信夫はもとの禁欲的な生活に戻っていった。
蒲団のなかに寝転びながら、信夫は静子との歳月を思い出した。そして壁にかけてあるカレンダーに目が行った。静子が死んだのが10月12日だった。今日がその命日のような気がした。それで夢の中に静子が出てきたのかもしれない。
しかし実のところ、今日が何日か自信がなかった。何曜日かもわからない。そして最近は道に迷うことも多くなった。もともと信夫はぼんやりしたところがあったが、退職して仕事から解放されたことで、さらに脳の老化が進んだのかと、少し淋しくなった。
2008年03月08日(土) |
数学をつくった人々(1) |
ハヤカワ文庫の「数学をつくった人々、Ⅰ巻、Ⅱ巻、Ⅲ巻」(E・T・ベル著)を読み始めた。これから折を見て、この本の紹介をしようと思う。今日はその第一回である。
著者のE・T・ベルは全米数学者協会会長や全米科学振興会の副会長などを務めた。この本は1937年に初版が刊行され、以来数学史の古典として読み継がれている。数学の高校教師をしている以上、一度は読んでおきたい本である。ベルは「序論」にこう書いている。
<ここに紹介した数学者の生涯は、一般読者や、現代数学をつくりだした人間とはどんな人間なのか知りたいと思う人びとを対象に書かれたものである。私の目的は、今日の数学の広大な領域を支配しているいくつかの主流をなす考え方へ、読者を導くこと、しかもそれらの考え方をつくりだした人びとの生涯を語ることを通じて導くことにある>
<何千人という研究者の手で、広大な入り組んだ複雑な形に仕上げられた現代数学も、その根本観念は単純で、しかも果てしない展望をもっており、普通の知能を有する人間ならだれにでも理解できるものである。
数学者は、街頭にでていって最初に会った人にわかりやすく説明できるほどにハッキリさせるまでは、自分自身の仕事を完全に理解しているとはいえない、とラグランジュは信じていたくらいである>
<いくつかのもっとも大切な観念、たとえば「群」、「多次元空間」、「非ユークリッド幾何学」、「記号論理学」についても、おおまかな概念を理解するには、中・高等学校程度以下でも十分である。何よりも必要なのは、興味と落ち着いた頭脳とである。現代数学のこれらのいきいきした観念を吸収することは、熱い日中に飲む冷水のようにさわやかで、芸術のように人を鼓舞するものである>
<奇妙に思えるかも知れないが、偉大な数学者のだれもが大学教授だったわけではない。そのなかには少なからず職業軍人がおり、神学や法学、医学から数学にはいったものもいる。まったく職業をもたない人も数人いた。
もっと奇妙なことには、数学の教授のだれもが数学者であったわけではない。だがこれは、高給をはむありきたりな詩学の教授と、屋根裏部屋で飢え死にしかけている詩人との距離が、いかにかけ離れているものかを考えてみたら、おどろくほどのことではない>
<私たちが学校にはいって幾何学を学びはじめたときは、「点」という概念は完全にわかっていると思い込むが、この概念にしても、洞穴に芸術的な絵をかきはじめた人間からさらに長い歴史をへてようやくできあがったものである。
イギリスの理論物理学者ホイヘンスは「科学研究の最初から必要な条件であった抽象というものの最高形式としての、数学上の「点」を発明した知られざる数学者のために、記念碑を建てたい」といっている>
以前に日記に引用したが、私が愛するバートランド・ラッセルも「ひとつがいのキジも、二日という日数も、ともに2という数の実例であることを発見するまでには、いくつもの時代を経たにちがいない」と述べている。
私たちが何気なく使っている「数」にしても、あるいは幾何学上の「点」にしても、私たちの先祖たちの悠久なる努力が結実した知的遺産である。現代数学を勉強し始めると、まずこのことに最初に気づかされる。そして、数学のほんとうの面白さが、ここから始まる。
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なお、本文の引用はおむねハヤカワ文庫版の「田中勇&銀林浩」訳に従ったが、直訳式であまりに生硬な表現だと思われるところは、私の独断で表現を改めた。正確な引用でないことを、あらかじめお断りしておく。
たとえば、ハヤカワ文庫本で、「洞穴に芸術的な絵を描く動物としての人間の経歴がだいぶん進んだころから現れたにちがいない」となっているところは、「洞穴に芸術的な絵をかきはじめた人間からさらに長い歴史をへてようやくできあがったものである」と書き改めた。
残念ながらハヤカワ文庫版の訳は、こなれた日本語になっていない。アマゾンのカスタマーレビューでも紹介されていたが、たとえば次のような訳文はたしかに困りものだ。
<数学の神童は往々世間で言われるように、必ずしも実をむすぶにいたらないとはかぎらない。その反対を説く執拗な迷信にもかかわらず、数学の早熟性は輝かしい成熟への最初のひらめきになることが多いのである>
これも、「数学の神童と言われた人も、大人になればただの凡人になりがちだといわれている。しかし、これもまた偏見で、やがて大家になるような数学者は、幼い頃からなにかと人と違ったひらめきをすることが多いのである」とでも訳したほうが親切である。せっかくの名著である。もっとやさしくて、わかりやすい日本語で読みたいものだ。
2008年03月07日(金) |
定年後の人生に向けて |
毎年万葉の旅を一緒にしているペコちゃんは、今月で停年になる。4月からは台湾の日本語学校で講師として教えるのだという。この日のために数年前から通信教育で勉強し、日本語教師の検定試験にも合格した。そのほかに中国語のスクールにも通っていた。定年後の人生を何年も前から準備していた。
私もあと3年で停年である。定年後はペコちゃんのように、どこか外国で「日本語教師」をしたいと思っている。たとえばセブにはたくさんの日本語学校があり、私の知人もそこで教えている。セブに限らず、ベトナムなどでもよい。収入はすくないが、その分物価も安いので、日本よりむしろゆとりある生活がたのしめそうだ。
そうした生活面のこともあるが、それよりも大切なのは、「生きがい」である。外国の若者に日本語を教えることを通して、私自身たくさんのことを学び、おたがいの文化理解を深めることができればと思っている。ボランティアとして、何らかの国際貢献をしたという思いもある。
日本語の勉強についていえば、20年ほど前に京都の仏教大学の国文科に学士入学して、2年間通信教育でがんばった経験がある。夏にはあわせて6週間ほどスクーリングに参加した。
残念ながら、あと少しというところで、夜間から全日制の高校に転勤になり、時間的な拘束が厳しくなるのと同時に、金銭的な余裕もうしなって、ついに学費滞納で除籍処分を受けてしまった。というわけで国語教師(日本語教師)の免許はいただけなかったが、その当時勉強したことはそれなりに私の血肉になっている。
3年ほど前にセブの英語学校に留学したのも、定年後に日本語教師になりたいということが動機のひとつとしてあった。日本語を教えるためには、まず国際語としての英語をマスターしておいたほうがよい。英語の方はこの3年間の精進でいくらか自信がついた。
そろそろ日本語教師の検定試験に向けて、本腰を入れて勉強しなければならないが、今年は連載小説「静かならざる日々」を書き始めたので、なかなかその余裕はない。それに夏には娘の結婚式もハワイであり、何かと出費が重なりそうで、通信教育を受けるだけの資金もない。
そこで日本語教師に向けての勉強は来年からということにした。そしてこの話を先日恒例のマックの会でKさんにすると、「私も日本語教師の勉強をし、海外で日本語教師をしてもよい」と言う。そうすると教材費などを彼とシェアーできる。それだけでなく一緒に勉強する同志をもつことはとても心強い。
私の予定ではこの2年間で日本語教師になるための勉強を完了し、できれば退職を1年はやめて、59歳で日本語教師になることだ。停年まで1年を残して高校教師を止めるわけだから、収入の面で相当な損失である。カミさんがこれに同意してくれるかどうか、ハードルはなかなか高そうだ。
先日、精神科医の和田秀樹さんの本を書店で立ち読みした。そこに、「老化は記憶力ばかりではない。その前に、感情の老化がはじまる」と書かれていた。なるほどと思った。
年をとるともの忘れがひどくなる。これは脳のなかの記憶をつかさどる部分である「海馬」の働きが悪くなるためらしい。しかし、実はもっと深刻なのは「前頭葉」の働きが衰えることである。ここから「感情の老化」がはじまるのだという。
最近、些細なことで切れる中高年が増えてきたが、これは前頭葉が衰えて、感情のコントロールがきかなくなっているからだ。前頭葉が衰えると、新しいことに関心がなくなり、生きる意欲も減退する。愚痴が多くなり、頑固で怒りっぽくなる。
それではどうしたら、私たちは「感情の老化」をふせいだらよいのだろう。「人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失うとき老いるのである」とは、アメリカの詩人であるサミエル・ウルマンの言葉だ。彼の言葉はこう続いている。
<七十歳になろうと十六歳であろうと、人間の心の中には驚異に対する憧憬や、星や星のようにきらめく事象や思想に対する驚きや、不屈の闘志や、未知なるものに対する子供のような好奇心や、人生の喜びおよび勝負を求める気持が存在するはずなのだ。大地や人間や神から、美しさ、喜び、勇気、崇高さなどを感じることが出来るかぎり、その人は若いのだ>
同じく精神科医の神谷美恵子さんは名著「生きがいについて」(みすず書房)で、人生に大切なもの、それは「生きがいだ」と書いている。そして、「人間の精神の力ほどふしぎなものはない」とも、「精神の固有の世界は、現実からはなれたところに身をおくことによって、はじめてうまれる」とも書いている。それでは、生きがいを失った人、絶望の中に生きている人はどうすればいいのか。
<こういう思いにうちのめされているひとに必要なのは単なる慰めや同情や説教ではない。もちろん金や物だけでも役に立たない。彼はただ、自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいるのである>
生きがいを生み出すのも「前頭葉」である。生きがいを失い、少しのことで立腹したり、考えが型にはまって柔軟性を失ってきたら、前頭葉が萎縮してきたのと疑ってみよう。これは老化のプロセスなので仕方がないとあきらめなくてもよい。「生きがい」を発見し、物の考え方や生き方を変えることで、前頭葉は活性化して萎縮を防ぐことができる。
三月になってめっきり春らしい日差しになった。しかし、風はまだ冷たい。木曽川の堤防を散歩していると、今ごろのひんやりした風が、汗ばんだ肌にちょうどよい。
昨日は伊吹山がよく見えた。白い山を眺めながら、風に吹かれて歩いていると、さわやかな気分になる。なんだか大自然の中で自分の存在がとても小さく感じられる。そして心の底から、「生きているのは素晴らしい」と思う。
散歩は私にとって一種の向精神薬である。実際の薬は麻薬の一種で、脳内にドーパミンなどの快感物質や同じく神経伝達物質のセロトニンが分泌されて、一時的に爽快になり、意欲的になる。場合によっては意識がすっ飛んで、すっかりハイになることもある。
しかし、こうした向精神薬に比べて、散歩は副作用もなくてはるかに健康的である。たとえやみつきになっても、これもちょうどよい運動になって、健康な肉体を維持するにはかえってよい。いつでも好きなときに、ぶらりと出かけて、風景を眺め、風に吹かれて帰って来る。だから必要なのは二本の足と、ちょっとしたヒマである。お金はいらない。
さて、昨日の日記で、イギリスの自殺率が先進国の中で少ないと書いたが、もう少し知りたくなって、厚生労働省のHPにアクセスしてみた。そこにはこう書かれている。
<諸外国の自殺死亡率(人口10万対)をみると、男では、高い国は「ロシア」70.6、「ハンガリー」51.5、「日本」36.5となっており、低い国は、「イタリア」11.1、「イギリス」11.8、「アメリカ」17.6となっている。
女では、高い国は「ハンガリー」15.4、「日本」14.1、「ロシア」11.9となっており、低い国は、「イギリス」3.3、「イタリア」3.4、「アメリカ」4.1となっている。
これを年齢階級別にみると、男では、「日本」は「55~64歳」が最も高くなっているのに対し、「日本」より高率な「ロシア」は「45~54歳」が最も高く、「ハンガリー」は「75歳以上」が最も高くなっている。なお、「ロシア」「ハンガリー」は全年齢階級で「日本」を上回っている。
女では、「ロシア」「日本」は年齢階級が高くなるにしたがって高率となる傾向となっているのに対し、「ハンガリー」は「45~54歳」で山を形成している>
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/11.html
日本の自殺率はアメリカの約2倍、イギリスの約3倍もある。これをどうにかしようという機運がわが国では盛り上がらなかった。政府はようやく2006年になって「自殺対策基本法」、2007年に「自殺総合対策大綱」を策定し、おそまきながら対策にのりだそうとしている。
日本の場合、自殺率と失業率との相関が高いといわれる。「自殺対策基本法」にも「自殺は、個人的な問題としてのみとらえるべきものではなく、その背景に様々な社会的要因があることを踏まえ、総合的な対策を早急に確立すべき」と書かれている。
自殺率は鬱病との相関も高い。薬物治療に頼るだけではなく、鬱病を作り出している社会的背景にも目を向けていかなければならない。欝を社会の病理としてとらえ、これをどう社会的政策によって克服していくのか、これからの大きな政治的課題になるだろう。
しかし、これはなかなか気の長い話になりそうだ。そこでとりあえずは自分の身は自分で守るという観点から、個人で自殺対策プログラムを立ち上げる必要がある。私のおすすめは「散歩」である。重症の欝の場合は薬物も必要だろうが、その場合でも薬物だけにたよらず、こころのリハビリとして散歩を取り入れてみてはどうだろう。
私は自殺の大きな原因として、社会的連帯感の喪失があるのではないかと思っている。これから社会はますます格差が広がり、住みにくい世の中になりそうだ。そうした中で、どうしても人は他者との絆を失い、孤独になりがちである。そうしたなかで、自己の殻に閉じこもらずに、人や自然とのふれあいを求めて、気晴らしに外へ出かけてはどうだろう。
気のあう友人と映画を見たり、旅行をしたりする。社会的な問題に関心を持って、何かのボランティア活動に参加するのもよい。何でもよいから、こころが軽くなり、気持が晴れそうなことをする。そして適当な距離をおいて自分や他人を眺めるユーモアやコメディ精神を身につけ、自分を笑い飛ばせるようになればしめたものである。
喫茶店である雑誌を読んでいたら、「イギリスはすごい格差社会だが、自殺率は先進国の中でとても少ない。その理由は、コメディ精神があるからだ」という意味のことが書いてあった。読んでいて、なるほどと思った。
私はコメディはあまり見ないが、そういわれてみると、「ミスター・ビーン」など、イギリスのコメディはちょっと洒落ていて、独特な知的おかしさがある。呵呵大笑することはないが、思わずにやりとする。こうした面白さは日本の落語の楽しみにも通じている。
私は上質なコメディ精神とは、他人を笑い飛ばすことではなく、「自分を笑う」ことではないかと思っている。画面の中のおかしな人物を笑っているようで、じつは自分を笑っている。「なんという馬鹿な奴だ。しかし、どうやら自分も同じような馬鹿かもしれないぞ」と、そう考えてにやりとする。
コメディ精神とは、つまり「汝自身を知れ」という哲学の庶民版であり、自分を客観視するゆとりとユーモアの精神でもある。コメディ精神があれば、失敗しても自分を笑えばよいのだから、深刻に落ち込まなくてすむ。ピンチになってパニックになるよりも、「まあ、なんとかなるさ」とおおらかに構えたほうがいい知恵も浮かぶかもしれない。
日本人はまじめで勤勉だが、この「自分を客観視して笑い飛ばす」というコメディ精神に欠ける嫌いがある。だから思いつめると周囲が見えなくなり、そのあげく自分を追い詰めて最悪の決断をしてしまう。そこまでいかなくても、憂鬱な気分で毎日を過ごしている人は多いのではないか。
人間が真剣に生きている姿は美しいが、よく見つめてみれば、どこか喜劇的な要素がないわけではない。私たちはみんな喜劇役者だと割り切れば、こころが軽くなり、人生が楽しくなる。私ももう少しコメディを見て、愉快に、気楽に生きる人生術を身につけることにしょう。
2008年03月03日(月) |
かしこくてやさしい象 |
鏡を見せて、そこに自分が写っていることが分かる動物は少ない。犬や猫はどうも無理のようだ。自己認識力があると確かめられているのは、チンパンジーのような大型類人猿の他に、イルカくらいしかないらしい。
ところが東大大学院人文社会系研究科の入江尚子さん(24)の研究によると、ゾウにこの能力があるらしいという。その実験を紹介しよう。
入江さんは2歳のオスの象にあらかじめ、触れると「ピンポーン」と鳴るおもちゃを見せ、鼻でタッチすればバナナを与え、おもちゃを見ると鼻でタッチするよう訓練した。そうしておいて、大きな鏡を見せたのだという。
最初は自分の姿を他のゾウだと思い後ずさりした。しかし、鏡の後ろに鼻を回して、そこに仲間のゾウがいないことを確認した。そこで、ゾウからは見えない頭の上におもちゃを掲げ、鏡越しで見せたところ、鼻を鏡に向けることなく、一発で頭の上に伸ばしておもちゃにタッチしたのだという。 この実験から、そのゾウは鏡のしくみや、そこに自分の姿が写されていることを理解していたことがわかる。鏡による似たような実験は、米国による研究チームも発表しているという。
入江さんによると、ゾウの知能はチンパンジーやゴリラをしのぐかもしれないという。たとえば、2個のバケツに、違う数のバナナを入れて与えると、たとえその数の差を小さくしても、ゾウはチンパンジーやゴリラよりも大きな確率で、ほとんど多いほうのバケツを選ぶという。
これはゾウが数の認識においてチンパンジーやゴリラよりもすぐれている可能性を示している。入江さんによれば、ゾウの鼻が第五の手足の役割を果たしていることが、知能を発達させているのではないかという。
私が好きなNHKの「ダーウィンが来た! 生きもの新伝説」でもゾウはよく取り上げられる。去年の4月に放送された「ゾウと人とは永遠の相棒」という番組では、ミャンマーの山林で材木を運ぶ手伝いをしているゾウを紹介していた。
ゾウ使いになるには、子供の頃から若いゾウと一緒に暮らし、ゾウと一緒に成長するのだという。そして同じ頃から一緒に仕事を始める。だからゾウ使いとゾウの絆はとても深い。二人の関係はゾウが引退してからも続き、一緒に年老いていく。
ゾウ使いは言葉でゾウに語りかける。そしてその言葉をゾウは理解する。アンボセリ国立公園で研究をしているジョイス・プール女史によると、ゾウたちは人間の耳には聞こえない低周波でお互いに会話をしていて、そこには50以上の単語が存在しているのだという。こんなかしこい動物なら、自己認識力を持っていても不思議ではない。
野生のゾウは死期が近づくと群れを離れ、ゾウの墓場に姿を消すといわれていた。この「象の墓場」の話はどうやら眉唾らしいが、ゾウは仲間が死ぬと、周りに集まり、鼻をあげて死んだゾウのにおいをかぎ、労わるように鼻で撫でたりするという。ひょっとするとゾウは自分が死ぬことさえも知っているのかもしれない。
第二章 暑さの残り(4)
神岡の家に来ると、夏でも冬でも、英子がいつもすき焼きをごちそうしてくれる。30年以上前にこの家に初めて来たとき、「何が好きですか」と英子に聞かれて、「すき焼きです」と答えてから、いつもすき焼きということになった。
とくに信夫は牛肉の味がしみついた細いこんにゃくが好きだ。英子はそれを知っていて、たくさん入れてくれる。それを生卵につけてつるつると蕎麦でも食べるようにして吸い込む。
牛肉よりもこんにゃくが好きだというのだから、信夫も少し変わっている。これは金沢で過ごした学生時代の貧乏な自炊生活のなごりらしい。その頃はすき焼きといっても牛肉はほとんどなくて、ただ出汁のために使っていた。その出汁のしみついたこんにゃくが一番うまかったわけだ。
すき焼き鍋を皆で囲むのも久しぶりだった。昔は神岡夫婦と信夫、それから静子と春江だったが、今は静子にかわって典子、純也がいる。もっとも乳飲み子の純也はまだすき焼きは食べることができない。春江の膝に抱かれて、きょとんとしていた。
信夫は飲めない口だったが、英子の酌で日本酒の熱燗をお猪口に数杯飲んだ。それだけでもう顔がほてってきた。信夫が英子に杯を返して、「どう、一杯?」とすすめた。「それじゃ、一杯だけね」と英子が受けた。英子は少しふっくらとしていた。笑うとえくぼができる。
このやわらかい優しさと、ほのぼのとした色気が、死んだ静子にはなかった。愛嬌もなかったし、女性としての魅力がなかった。表情の変化が乏しく、ぶっきら棒な印象さえした。
信夫は何人かの女性とお見合いのようなことをしながら、決断できずにぐずぐずしていた。そして結局相手に断られた。ところが、静子の場合は、信夫は早く決断し、その意志を神岡に伝えた。そのとき神岡は、「ほんとうに静子でいいのか」と言った。「どうしてそんなことを訊くのだ」と信夫が真顔で聞き返すと、「お前はもっと面食いかと思った」と笑った。
「そうでもない。やはり性格がいいのが一番だ」 「静子が性格がよいとは限らないぞ」 「それもそうだが、やはり彼女に決めたよ」
信夫は教師になったくらいだから学問は苦手ではなかったし、スポーツもそれなりにできた。高校生の頃から科学や哲学の本を読むことも好きだった。しかし神経質で潔癖症のうえ、他人の気持をおもいやったり、推し量ったりすることが苦手だった。
信夫はそんな偏屈な男のところに来てくれる女性はいるわけはないとあきらめていた。だから静子にも当然断られるだろうと思っていた。ところが、神岡を通して申し込んだ結婚のプロポーズを、静子はこころよく受けてくれた。これは信夫にとってありがたい誤算だった。
どうして静子が受けてくれたのか不思議なくらいだったが、神岡によると、信夫の一番の美点は、「世事にうとく、まっすぐで、融通がきかない」ところだという。これでは褒められているのかどうか分からなかったが、神岡に言われるとそうしたことが自分の美点のように思われるから不思議だった。
たしかに、欠点はそのまま裏返せば美点になることが多い。融通がきかないというのも、まじめで曲がったことが嫌いだということになる。信夫はたしかに人を騙そうと思ったり、いじわるをしたりしたことはない。
そして星の世界のことを考えたり、数学の勉強に精を出す。ただまじめにこつこつと、努力を重ねていく生き方しかできない。そうした生き方は、どこか中世の隠者めいていて、少なくとも現代的とはいえないが、神岡によると、静子もそんな信夫に好感をもったようだという。
世間知らずの信夫が結婚して子どもを設け、30年以上教師をしていたのだから、考えてみればよくやった方である。静子とはかならずしも良好とはいえなかったが、それでもうちとけて冗談を言い合ったことがなかったわけではない。
信夫がこの数十年間を振り返り、そんな感慨にふけっていると、神岡が「春江ちゃんもどうだ」と、春江の方に杯を差し出した。「じゃあ、一杯だけ」と、春江も受け取って一口のみ、「ああ、おいしい」と眼を細めている。
「春江ちゃんは誰に似たのかな。かなりいける口だぞ」と、神岡は次を注ごうとして、「むりに勧めてはいけません」と英子にたしなめられた。こうして久しぶりの賑やかな団欒になった。信夫は久しぶりに春江の楽しそうな笑顔を見て、なんだかうれしかった。
そのあと、みんなで近所の池のある公園に夕涼みに行った。もう九月の中旬で、夕涼みの季節ではなかったが、神岡がお昼に近所のスーパーで売れ残りの花火を買ってきたのだという。それを池のほとりのベンチの前でみんなで楽しんだ。
最後の線香花火が終わると、英子や春江は子どもたちを連れて家に帰った。信夫と神岡はもうしばらくベンチで休んでいくことにした。神岡がタバコを吸いながら、夜空を眺めて話し出した。
「お前がいつか言っていただろう。近くの星でも地球まで光が届くには何年もかかる。遠い星は何千万年、何億年とかかるってね」 「うん」 「そうすると、俺たちが見ている星も、それぞれ違った過去の姿で見えているわけだな」 「まあ、そうだ」 「おれは今、そのことに気づいたんだ」 「そうか」 「そうすると、この夜空には過去の時間がいっぱいつまっているわけだ」
信夫は「過去の時間がいっぱいつまっている」という神岡の表現が面白いと思った。信夫は夜空を眺めていて、そんな風に考えたことがなかった。「さすがに国語の先生だな」と感心した。
信夫にとってあたりまえのことが、神岡にとってとんでもない発見だったりする。たとえば光が電磁波だということも神岡は知らなかった。「光は波長の短い電波だ」というと、「えっ、光は電波なのか」と驚いたりする。
あたりまえと思っていたことも、「面白いなあ」と神岡に言われると、信夫も「そういえば、面白いなあ」と思う。そして自然界の出来事について、もっと深く考えてみたくなる。そういう不思議な触媒のような愉快な一面が神岡にあった。今も、神岡はたばこをふかし、星を見ながら、何か考えごとをしていた。しかし考えていることは、もう星の世界のことではなかった。
「俺の家の隣が空いているだろう。20年前にお前たちが出て行ってから、年寄り夫婦が暮らしていたが、そのうち奥さん先になくなって、そのあとご主人も食が細くなってなくなったんだ」 「いまは空き家になったわけだ」 「去年の暮れからね」
結局4軒並んでいる借家で、人が入っているのは神岡が住んでいる家ともう1軒だけになった。その一軒はどこかの会社が社宅として借りているらしく、3年おきくらいにめまぐるしく住人が変わっている。そんな話をした後、神岡は思いがけないことを言った。
「じつは、春江ちゃんが、こっちへ引っ越してきたいというんだ」 「そうか」 「お前もこっちに引っ越してこないか」
この提案は唐突だったが、言われてみれば悪い話ではない。春江と二人の孫を抱え、これから先の生活を考えて、信夫は戸惑っていた。神岡夫婦が隣に住んでいれば、どれほど心強いことだろう。しかし、そうすると今住んでいる一宮の家をどうするかという問題が起こってくる。結論を出すには、もう少し時間が必要だった。
二人が公園から帰ってくると、春江が純也を湯に入れていた。湯殿の戸が開いて、「お願いします」と春江がバスタオルに包んだ純也を差し出した。英子がそれを受け取って、居間に運んできた。
信夫が見守る中で、英子は純也の体を拭き、下着を着せた。信夫はふと、静子が生きていたら、おなじようにしていたに違いないと思った。そして英子の肩越しに純也が生えかけた前歯を見せながら笑っているのを眺めていた。
犬に鏡を見せても、写っているのが自分だと認識できないようだが、これは比較的知能が高いと思われるサルでも同じだ。鏡映像を自己と認識できる能力は3000万年ほど前に進化の産物として獲得されたので、この能力を持つのはチンパンジーなどの大型類人猿だけらしい。(ミッシェル、1996)
しかし、大型類人猿のなかでもゴリラはこの能力がない。これはいったん獲得した自己認識力を失ったのではないかという説がある。ゴリラは生活の必要上、幼いときから活発な身体運動をしなければならなかったので、身体能力の発達の犠牲になって、自己認識能力が後退した。しかし、完全にこの能力が消失したわけではない。ゴリラに人工言語を教えると、鏡による自己認識力が得られるという。(パターソン1984)
人間の場合は生まれて18ケ月になると、鏡像に自分が写っていることが理解できるようになる。そして、他人が自分と同じような「こころ」を持っていることをやがて理解する。自己認識力が他者認識力を深め、他者もまた「こころ」を持つことを発見する。これが3歳の頃らしい。
4歳になるとこうした自他の心のしくみの理解は完成するが、まだ他者の心を深く理解できるわけではなく、その行動はどこまでも自己中心的である。しかし5歳になると他者のこころの理解はすすみ、共感や同情を示し、協調して行動することができるようになる。もう忘れてしまっただろうが、これは私たち誰しもが経験した成長プロセスだ。
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