ケイケイの映画日記
目次過去


2025年06月10日(火) 「国宝」




170分の大作ですが、鑑賞後に最初に想ったのは、今からもう一度観たい、でした。映画の感想は人それぞれなので、秀作や佳作と書く事が多い私ですが、この作品は、傑作と言い切りたいです。監督は李相日。

長崎の任侠の家に生まれた喜久雄(少年期・黒川想也、青年期・𠮷沢亮)は、抗争で父親(永瀬正敏)が亡くなり、素質を見込まれ、上方歌舞伎の花形役者・花井半二郎(渡辺謙)に、15歳の時に引き取られます。そこには御曹司の俊介(少年期・越山敬達、青年期・横浜流星)がいました。半二郎の妻幸子(寺島しのぶ)は、喜久雄を引き取る事に反発するが、その底知れぬ素質を理解し、引き取る事を認めます。まるで兄弟のように励まし合いながら稽古に励む、喜久雄と駿介。半二郎が怪我で舞台に立てなくなった時、半二郎は代演者に喜久雄を指名した事から、二人は周囲を巻き込み、数奇な運命に翻弄されます。

私が感嘆したのは、ほんの少ししか出演のない登場人物に心のひだまで、きちんと届く脚本(奥寺佐渡子)です。大河ドラマでも作れそうな時間の流れの中、原作(吉田修一)は膨大だと思います。喜久雄の父が死に様を喜久雄に観ておけと叫ぶのは、極道の道へは行くなという思いです。それなのに息子は、背中一面に刺青を掘り、復讐を誓う。継母(宮澤エマ)が、喜久雄を手放したのは、返り討ちに遭うのが目に見えていたからで、決して生さぬ仲の喜久雄を、面倒に思っていたわけでは、ないでしょう。喜久雄の素人とは思えぬ舞台をしっかり映しながら、完璧の出だしでした。

共に精進して芸を磨く喜久雄と駿介。親友でライバルで、心の底からの友情があるが故、愛憎もぶつけあう二人。この作品は、日本で有数の伝統芸能である歌舞伎を題材にしながら、ドロドロと生臭い。下世話で、世間から思われる高貴さも感じません。それは、舞台に出る事のない女性たちとて、同じです。半二郎の妻幸子、長崎から喜久雄を追って出て来た恋人春江(高畑充希)、喜久雄に恋心を抱く舞子の藤駒(見上愛)、重鎮役者(中村鴈次郎)の娘・彰子(森七菜)。自分の感情を押し殺し、男たちが芸の道を極めるため、過酷な日々を支え続ける女たち。その姿を肯定的に観てしまうのは、ふんだんに描かれる、舞台の場面の挿入です。その圧倒的な美しさが、理解させてしまうのです。

「連獅子」から始まり、「娘道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」など、私のように舞台を観た事がない人も、誰しもが一度はその場面を観たであろ、有名どころの演目が、画面に数々刻まれます。圧巻の「鷺娘」を踊る田中泯は舞踊家で知られますが、𠮷沢亮と横浜流星は、歌舞伎においてはズブの素人。なのに、なんなんだこの麗しさと、それと相反する、底から湧くような力強さは。いつまでも観ていたいほど、素晴らしい!二人とも売れっ子なのに、いつ稽古したんだろう?俳優という仕事の凄みを、脂の乗った40代〜50代の俳優ではなく、30前後の若手に感じるなんてと、そこにも感動しました。

「この世界で、親がおらんというのは、首が無いのも一緒や」と言う半二郎。喜久雄は初めてお初を演じる時、俊介に「俺には頼る血がないねん。お前の血をごくごく飲みたい」と、慟哭します。歌舞伎の世界に脈々受け継がれる血筋。才能は、血筋を超えられるのか?も、この作品の大きなテーマです。

血筋とは、私はお守りのようなものだと思う。血筋を信じれば、きっと自分は大丈夫。それを裏付けたいのが、休みなく続く、毎日の厳しい稽古なのでしょう。血筋は尊重されるべきものであって、守るものではないと思います。何故守りたいのか?他の優れた才能が入り、自分たちを脅かすからでしょうか?その強固な砦を壊したのが、田中泯演じる当代一の女形、小野川萬菊です。

あばら家に住む引退後の萬菊の姿は、落ちぶれたのではありません。舞台を降りて、あらゆる「美」を手放した事で、やっと安寧した日常がやってきたのです。壮絶な孤高の日々を潜り抜けると、そこにはまた、壮絶な孤独に、自ら身を投げねばいけない。血筋のない歌舞伎役者の覚悟です。今の喜久雄なら、その覚悟があるはずだと、自分の後継者として喜久雄を呼び寄せたのでしょう。

様々な人を翻弄して、「人間国宝」として頂点に達した喜久雄。自らもその才能に翻弄されたのに、「順風満帆の役者人生」と、的外れな評価にも微動だにしない。そんな喜久雄が、ある景色を観たいのに、観られないと言う。「上手い事、説明出来ません」と言う。その景色を見せてくれたのは、喜久雄の隠し子として生まれた藤駒の娘、綾乃(瀧内公美)。

「あんたなんか、父親と思た事、あらへん」と、自分を捨てた父に憎しみを隠さない、成人した綾乃。しかし、「お父ちゃん」と呼び掛ける彼女は、「お父ちゃんの舞台を観ると、お正月が来た時の、華やぐ気持ちになる」と言います。それは、憎いはずの父の姿を肯定してしまう、「親子の血」なのでしょう。歌舞伎役者として血筋の無い娘に、人として祝福して貰った喜久雄は、初めて観たかった景色を観る。それは大向うでした。娘に「声」をかけて貰ったのでしょう。これが血筋に対してのアンサーであると思います。

涙ながらに終えた鑑賞後、何故李監督が選ばれたのか?「悪人」「怒り」と、吉田作品との相性の良さだと思っていました。でも違うと思う。日本の伝統である歌舞伎の美しさと、相反する過酷な内幕を描きながらも、やはり歌舞伎は超一流の芸能だと、私は痛感しました。李監督は在日朝鮮人三世。日本人の血がなくとも、こんなに素晴らしく描けるのです。

俳優や監督だけではなく、作り手全ての渾身の作品です。この感動を、どうぞご鑑賞下さいませ。


ケイケイ |MAILHomePage