無責任賛歌
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2002年10月17日(木) |
フェチじゃないモン!/『東京少年物語』(羅川真里茂)/『冷暗所保管』(ナンシー関)ほか |
仕事が連日ムチャクチャ重なっている。 〆切ギリギリまでかかってた私が悪いと言えば悪いのだが、別に〆切破ってる訳じゃないんだがなあ。神経質な人間が多いよ、ウチの職場……と愚痴っても仕方がないので必死で仕事を片付ける。でもメシ食う時間くらいはくれ。
父に電話をして、例のアラーキーの写真撮影のことをどうするか聞いてみたが、撮影日が平日なのでやめた、と言う。六十過ぎてまだそこまで仕事に拘るかなあ、と思ったが、多分それは表向きで、自分の老いを写真で確認したくはなかったのだろう。老化を受け入れるほどには父のメンタリティは強くはない。無理強いは出来ないなあ、と思ったので、諦める。 しげに「おまえは写してもらいたくない?」と聞いたが「興味ない」とこれもニベもなく断られた。まあ、福岡嫌いのしげに「福岡の顔」の写真集に載ることには忸怩たるものがあると思うが、それがかえって面白いと思ったんだがなあ。どちらにしろ応募するのは諦めた。父かしげのどちらかがその気になってくれれば、私も一緒に、と思っていたのだけれど。
山本弘さんとこのホームページ『SF秘密基地』、ようやく荒らしがひと段落したようである。昨日の日記には「某掲示板」と書いたが、これであまり遠慮して書かなくてもよくなったかな。 ほぼ同一人物と見られる某氏、以前は単に中傷の書きこみを続けていただけだったのが、名前を変えて他人のフリをしたり、また実際に他人のHNを使って書きこんだり、ここんとこやりたい放題をしていた。ただの感情的な書きこみだけではバレると思ったのか、いかにも冷静な法律家、というフリをして「法律に詳しい者です」とか言って「山本弘さんの行為は名誉毀損に当たります」とか批判してたのだが、フツー、自分で自分のことを「法律に詳しい」とか言ったりしないよな。弁護士なら弁護士とちゃんと肩書き言うし。これだけでも当人が権威主義者だってことがバレバレ。こういう「自分は冷静だ」と主張する人間が冷静だったためしは100%ないんだけどね。 サーバーに連絡して、警告してもらったそうだけれど、さて、かなり有名な荒らしさんであるらしいから、これで引き下がったりはすまい。あくまで今回の件は「ひと段落」に過ぎないのであって、多分荒らしはもっと悪質化してくると思われる。イヤなタトエではあるが、こういう事件は相手が小さな罪を犯してる段階ではどうにもできないんであって、エスカレートしていった末にホントに大事件でも起こしてくれないと取り締まれないんである。寸借詐欺が実際には咎められないのと同じで法の抜け穴ってやつですな。その点、確かにこの人、「法に詳しい」のかもしれない。 けど、荒らしを横行させた責任、ここに集ってた常連さんの何人かにもあると思うんだけど、あまりそのこと認識してる様子がなかった。何度も「荒らしは放置で」と警告されてたのに、まずそれが荒らしかどうかの判断すらついてない人が結構いたのである。文章力もない人間に手もなく踊らされてるのだから、そのレベルの低さは荒らしさんとどっこいどっこいなんだけれど、そのことを自覚してなかったので、荒らしさんをやたら図に乗らせていたのである。 さすがに今回の件で反省したのか、何人か荒らしを煽ってた常連さんたちは、掲示板に顔を出さなくなってきた。でも、気付くの遅いよな。人間、やはり失敗しないと自分を顧みられないものらしい。常連さんでまだ若干名、荒らしにレスつけたがるオッチョコチョイさんが残ってるみたいなので、似たようなトラブルが起こる可能性は残ってるが、おそらくはもう大々的なことにはなるまい。っつーか、ならないようにしろよ、常連さん。
掲示板も新しくなって、「原作とアニメ、どっちが上か」とか、まったりとした話題が続いている。なんかもー、学生の頃を思い出すなあ。平和でいいこっちゃ。もっとも、こういうたわいのない会話に参加しにくくなっちゃったのはそれだけこちらがトシを取ったということでもあるのだが(この日記でできるだけ「たわいのないこと」をさも「重大なこと」のように針小棒大に語っているのは、実は私の心のリハビリの意味もあったのである)。
山本さんの掲示板に書きこむつもりはないけれど、原作が小説で、それが映像化された場合、その表現方法が違っている以上、本来「どちらが上か」というのは比較しても詮無いことである。カレーライスとラーメンのどっちが好きかってのは同じ食料だから比較できるけれど、カレーライスとテレビアニメのどっちが好きかなんて比較、したって意味はないってことなんで。同じ芸術だからって視点で比較できるんじゃないかって思われる向きもあろうが、「音楽と絵画とどちらの芸術性が上か?」ってのも比較できないのと同じである。 にもかかわらず、原作が映像化された時に「ストーリーを改変している」「声のイメージが合わない」「作画がボロボロ」とか原作と比較してモノを言うことができるように錯覚するのは、あくまで原作を「素材」としているからなので、言ってみれば食材の調理法を云々しているに過ぎない。アニメ化された作品が原作より面白く感じたからと言って、それは原作とアニメの目指すベクトルが違っていて、見る者の主観がアニメのベクトルに引かれたってだけのことに過ぎないんで、原作の完成度が低いってことにはならないのである。逆に原作をアニメより面白いと考える場合も同様。 『カリオストロの城』が映画としては面白くても、「『ルパン三世』としてはつまらない」と言われるのもそのためである。だから、私は、あるときは「『カリオストロ』最高! 原作はつまんない」と言うときもあるし、「あれ、『ルパン三世』じゃなくて『コナン三世』じゃん」と言うときもあるのである。視点を変えりゃ批評なんてどうとでもなるということなので、私のこの日記の批評を読んで、「私の好きな作品を貶したな!」とご立腹されることがあっても、あまり気にしないで下さい。誉めろといわれれば、昨日貶した作品でも誉めます。いやあ、『GMK』は今世紀最高のゴジラ映画だ! ……何を怖がってんのかな、おれ(^_^;)。
マンガ、羅川真里茂『東京少年物語』(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。 表題作のシリーズ2編ほか、『がんばってや』を収録。 どれも「都会と地方」をモチーフにした作品になっているが、ありがちな「都会は人情が薄く、地方は厚い」的な発想で描かれているのはやや頂けない。単に他国の文化に馴染めないってだけのことでしょうに。物語としてのまとまりがいだけに浅薄な感情で描かれてる部分が目立つところが惜しまれる。
『東京少年物語・1』が描かれたのが平成3年、『2』が平成6年、『がんばってや』が平成13年と、収録作の制作に10年の開きがあるのだが、ご本人は「絵が変わってない(進歩してない)」と卑下されてるが、どうしてどうして、着実に進歩なさっておられる。確かに丸顔の大きな瞳の、マンガチックなキャラクターであることに違いはないのだが、初期はもうともかく「絵を描いてる」という雰囲気でしかなかったものが、後期にはちゃんと「人間」を描けるようになっている。……わかりやすく言えば、人物の区別がつくようになってるんだな(^o^)。人物の表情が初期はみんな同じで、泣こうが笑おうが記号にしかすぎなかったものが、最新作では「この表情はこの子にしか出来ないよなあ」という絵がたくさん描かれている。こりゃ大進歩ってもんでしょう。『ニューヨーク・ニューヨーク』のようなハードな作品を読んだあとだと、ストーリー的にはどうしてもたわいのない印象を持ってしまうのだが、絵で見せてくれるというのは立派な力量だと思う。 特に『がんばってや』の丸山舞子の関西女キャラクターは秀逸。東京人が関西女をマンガに登場させると、どうしてもうるさい、がさつ、男勝り、といったステロタイプで描かれることが多いのだが、実際に大阪女の全てがそうであったら、大阪は喋くりの騒音で道も歩けまい。もちろん舞子にもそういう特徴はあるのだが、ちょっとした表情や仕草で、繊細で微妙なときめきや切なさを表現している。青森出身で、方言コンプレックスから他人とうまく喋れない岸本寛治を、抱きかかえるようにして(っつーか、押さえつけて)泣きそうな顔で「人を……嫌いにならんといて……」なんて言うのだよ、この子は。いや、現実にこういう女の子がいたら惚れるで(^o^)。 羅川さんは青森出身なのだろうか、一般的に東北出身者は関西より西の人たちと違って言語コンプレックスが強いようである。寛治のように、必死で訛りを直そうとする傾向が強いのではないか。それに比べて関西人は東京でもあくまで関西弁で通そうとしているように見受けられて、傲岸不遜に見える。九州人はたいてい共通語を話そうとするが、それは東北人のようなコンプレックスゆえではなくて、外国で外国語を喋るのは当たり前、という感覚であろう。その点、鹿児島出身という設定の幹悟が「他の人と話すとき相手に通じる言葉言うのは当たり前じゃっど」と語るのはいかにも九州人。羅川さん、よく観察してるなあ。 いろいろな地方の出身者が交流する物語はそれこそ漱石の『三四郎』の昔から数限りなく書かれているわけだが、その地方性をおさえつつも決してステロタイプに陥らないように描くというのはなかなか簡単ではない。『がんばってや』は成功作の部類に入るのではないか。
ナンシー関『テレビ消灯時間④ 冷暗所保管』(文春文庫・440円)。 もう四ヶ月である。 その間もテレビではどうでもいい番組を垂れ流し続けているわけだが、ふと気付いたら、ナンシーさんだったらなんて言うかなあ、と考えてたりするのだ。その人の不在をこれだけ意識してしまうというのも、やはりナンシーさんが「今」を生きていたことの証明なのだろう。 今巻でナンシーさんの俎上に上げられた芸能人たちも50人を越える。彼ら彼女らについての文章を読むたびに思うことは、「そいつ誰?」である。いや、これは別に私が芸能人のことに疎くて、聞いたこともない人についてクビを捻っている、ということではない。その人の名前は知っている、テレビで姿を見たこともある。けれど、その人が「誰」であるかは分らない、そういう状況が生まれてしまっているのが今のテレビ界ではなかろうか。 一例を挙げよう。磯野貴理子という人がいる。彼女は『ごきげんよう』というトーク番組に出ている。他にもいくつかのバラエティに出てたと思うが、ともかくナンシーさんが語るのは、彼女が同番組でどのような位置に立っているかだ。 ナンシーさんは「貴理子はサイコロトークの『象徴』である」と説く。で、ナンシーさんにそう断言されたら、確かに彼女はそれ以上のものでもそれ以下でもないなあ、と我々は認識する。考えてみたら、彼女が何者であるかを、番組内で全く提示していないことに気付く。そして思うのだ。「磯野貴理子って、誰?」。 ナンシーさんの批評は、「彼ら彼女らが何であるか?」という分析ではなく、ひたすら「彼ら彼女らがどう見えるか?」を指摘するものだ。だから「こいつら何者?」という疑問が常に前面に押し出されることになる。結果として、我々はその対象となるバラエティやトレンディドラマに興味を抱くことになる。貶しがかえって番組の「格」を「底上げ」することになっていたのだ。 しかし、そういう効果も、悪口を表面的にしか捉えられない人には理解の範疇の外だろう。ナンシーさんがいなくなったことで、テレビ番組が本当にただのつまらないものに成り下がってしまった。生きておられたら『逮捕しちゃうぞ!』や『アルジャーノン』や『天才柳沢教授』をどう貶してくれるか楽しみだったのだが。 え? おまえはその三本、どう見たかって? 見てませんとも。見てどうしろっていうのですか? 「批評は見て言え」というのは私のモットーではありますが、事前に批評したくなる情報がなきゃ、私は見ません。全ての番組を見ることなんて不可能ですから。
しげがバイト先の同僚の人からドラマ『ビューティフルライフ』のビデオを全話分、借りてくる。こりゃまたいったいどういう風の吹きまわしかと聞いてみたら、「渡部が出てるし」。 そう言えばしげ、渡部篤郎のファンだったな。聞いてみればなるほどであるが、ちょうど今し方、ナンシーさんの本の中で、「『ビューティフルライフ』のキムタクはどうしてハナをすするのか」って記事を読んだばかりだったから、そのシンクロニシティには驚いた。 トレンディドラマの類は全くと言っていいくらい見ないので、『ビューティフルライフ』も今回初めて見たのだが、昔ながらの難病悲恋モノだったのね。常盤貴子が車椅子の難病さんで最終回で死んじゃうのである。つまり『愛と死を見つめて』の現代版ってわけだね。イマドキこんな古臭いテーマの話をやるのかとは思ったが、どの世代の人間も、この手の話を自分の世代の物語として持っていたいものなのかもしれないな。私の世代の場合はやっぱり山口百恵、三浦友和の『風立ちぬ』あたりかね。大映制作のドラマにも似たようなのあった気はするが、あの手の番組に私はあまりハマらなかったんで。 木村拓也と常盤貴子の絡み、案外悪くはない。もっともそれはたわいのない会話のシーンに限ってであって、シリアスなシーンになるとてんでダメである。セリフに全くと言っていいほど説得力がない。しかし、これは必ずしも役者の演技力ばかりを責められる問題ではないかもしれない。と言うのも、北川吏枝子の脚本、普通の会話のときは「超マジ?」みたいな若者言葉を多用していてこれはこれで自然な印象を与えるのだが、ラブシーンなんかになると途端にセリフが臭くなってしまうのだ。「この世に生まれてきてアナタと出会えて幸せだった」とかなんとか、もう大時代的でねえ。キムタクのナレーションの「これが彼女がナニナニした最初で最後だった」みたいな言い回しも、劇中のセリフに比べると全然上滑りで真剣味がない。 でもなあ、じゃあ、ラブシーンをイマドキの若者言葉で情感こめて言えるかって言ったら、やっぱりムリだわなあ。「アタシィ、ナンカァ、アンタのことって好きになったみたいナァ?」……こんな喋り方で告白する女がいたら殺して埋めたくなると思うが、それともイマドキの若者はこんな喋り方でも気持ちが伝わり合うものなのだろうか。 どちらにせよ、ドラマのセリフとして、シリアスシーンに若者言葉は使えない。結果的に三文芝居のようなセリフが横行することになる。トレンディドラマというやつがどうしようもないのは、たとえどんなに脚本家が心血を注いでドラマを書いたところで、主人公を演じているのがもともとシリアスな恋愛言葉を持たない若者世代であるという時点で、アウトになっちゃってるのではないか。 それが証拠に、『ビューティフルライフ』で一番ドラマとしておもしろかったのは、コメディリリーフである渡部篤郎と水野美紀の絡みだったのである。渡部はこのドラマでは徹底的に恋愛音痴な純情バカ(でもえっちはする)を演じていて、女心のカケラもわからぬドジを見せまくるのだが、ここまでバカだと女は惚れるしかない、という様子が実にリアルに伝わってくるのである。ハッキリ言わせてもらえば、このドラマの渡部に惚れない女は女としての価値がない。「だってバカじゃん」なんて嘯く女は簀巻きにして海にたたっこめ。キムタクより渡部のほうがよっぽど「男」だぞ。 しげも「渡部いい!」と言いつつ、ひと晩徹夜で全話見切りやがった。……熱入ってんなあ。私は途中で仮眠取ったってのに。
さて、もはや最近の恒例となりつつある私としげのノロケ話のことである。 と言っても、私としげはそんなこと話してる意識は全くなかったりする。たんにしげのアホを私がたしなめているだけなのだが、どうも世間的にはこれがラブラブな関係に映って見えるらしい。人によっては「パソコンのディスプレイを蹴たくりたくなった」とのたまわれた方もおられるが、そんなことをしたらパソコンが壊れちゃいませんか。 で、そういう方にはもしかしたら以下のやりとりも「ノロケ」に聞こえるのかもしれない。私はただのバカ話だと思うのだが。 しげは全く唐突に脈絡もなく私に「ちゅー」を求めてくるクセがある。もちろんこれはネズミの声真似ではない。私はたいていの場合それを拒絶する。何しろしげの「ちゅー」は風情と言うものがカケラもないのだ。唇とんがらせてタコのように突出されたからって、誰がそんなもんに口を付けるか。 しげは「何で? 夫婦やん!」と文句をつけるが、夫婦だからって、やっていいことといけないことの区別はあろう。セクハラ(あるいはドメスティックバイオレンスか)に対抗して何が悪い。 「だってアンタからしてくれんやん!」 とブスブス言うので、 「してるよ、寝顔に」 と答えると、 「オレ、認識してないやん! そんなん死体に『ちゅー』してるのと同じやん! あんた死体フェチか!」 とヒドイことを言う。 「だって動いてるお前より動いてないお前のほうがかわいいんだからしかたないやん。イヤなら動いてる時もかわいくなれば?」 と突き放す。夫婦と言えば家族、家族で「ちゅー」しあうなんて、外人じゃあるまいし、そんな変態行為ができるわけがない。第一、しげはいったん私の口に吸い付いたら、スッポンのごとく離れようとしない。私の肺から酸素を吸い尽くさんばかりに「ふん! ふん! ふん! ふん!」と吸いまくるので、マジで呼吸困難に陥るのである。なぜたかが「ちゅー」で命を賭けねばならないのか。 そんなに酸素がほしいなら酸素ボンベ買え。 ……どうでしたか? 全然ノロケじゃないでしょ?
2001年10月17日(水) 踊る私と寝る私/映画『十兵衛暗殺剣』/『ザッツ・ハリウッド』ほか 2000年10月17日(火) 博多弁とベターハーフと女好きな女と/映画『知らなすぎた男』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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