無責任賛歌
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2003年02月12日(水) |
ラブラブブラブラ/『逆説の日本史6 中世神風編』(井沢元彦)/『バロム・1』1巻(さいとう・たかを)ほか |
本日、2月12日はブラジャーの日だそうだ。 以下、「今日は何の日」ってサイトからの引用。
「1913年のこの日、アメリカのマリー・フェルブ・ジャコブがブラジャーの特許を取りました。これはハンカチ2枚をリボンでつないだものだったそうですからビキニの水着みたいなものですね。 ブラジャーの普及というのは女性の社会進出と連動しています。お家にいる分には別に必要のないものなのでしょうが、仕事をするとなると何かで押さえておいた方が楽。でもコルセットはきつい、ということで、これに代わる下着として考案されたものです。 しかしマリーのブラジャーは当時はなかなか売れず、1920年代になってからようやく人気が出てきました。(実際に売れたものはコルセットの上だけぶっ切ったもの。) 日本国内でブラジャーが売れ始めたのは戦後のことです。 当初輸入物のブラジャーが大量に流入してきたのですが、欧米人と日本人では胸のサイズが違いすぎるので、やむなくサイズの合わないブラジャーをつけている女性がずいぶんありました。 そこに注目したのが和江商事(現ワコール)の塚本幸一で、欧米のブラジャーを随分研究し、そして日本人の胸のサイズを調べてかなりの試行錯誤の上で日本人向けのブラジャーを発売しました。ワコールはブラジャーのおかげで大きな企業に成長することになります。」
さて、本題はこれから。 しげも一応、女であるから、このブラジャーなるものをつけているのだが、実は殆どがスポーツブラで、マトモなやつは殆ど持っていない。 「なんで?」と聞いたら、「サイズ知らんから」ということであった。 ところが先日、バイト先の同僚の方に調べてもらって、初めて自分のサイズがわかったそうなのである。 「ねえねえ、聞いて、オレのブラのサイズがわかったと」 「……はあ」 「Fカップ」 「……えふぅ? 前、Bくらいとか言ってなかったか?」 「計ってみたら違っとったと。嬉しい?」 「別にオレは巨乳好きとちゃうわ! ……でもなんか最近、サイズの計り方が変わったんか? 昔は『巨乳ハンター』ですらDカップだったのに」 「知らんよ!」 しかし、やだなあ。しげは自分で下着を買うのは恥ずかしいらしく、ともすれば私に買わせようと画策することも多いのである。わしゃ下着屋で「すみません、Fカップ下さい」なんて言うのなんて死んでもイヤだぞ。 自分が付けるかと思われるではないか。
昨、11日の午後4時15分ごろ、埼玉県入間市下藤沢のアパートの空き部屋で、男性と若い女性2人が死んでいるのを、栃木県から訪れた女子高生が発見。 狭山署の調べによれば、三人の死因は現場にあった練炭入りの七輪とバーベキュー用コンロによる一酸化炭素中毒死。発見者の女子高生は、「男性らとはインターネットの自殺志願者のサイトで知り合った。数日前から連絡が取れなくなった。この部屋で集まりがあると知り、心配になって来た」と語る。 昨年12月9日の段階で、インターネットの「心中掲示板」というサイトに「心中相手を探しております。方法は練炭による一酸化炭素中毒死。場所は埼玉県です」という書き込みがあり、そこで知り合った仲間が寄りあって心中したことはまず間違いがないようである。
人間らしいココロなどカケラもない私である。だもんで、このニュースを聞いて真っ先に思ったのは、「なにも埼玉で死なんでもなあ」であった。別に阿寒湖とかエーゲ海くんだりまで出かけろなんて言うつもりはないが、よりによってなぜ「埼玉」だったのか。多分、たいした理由はなく、「住んでるところに近かったから」とか、この三人が寄り合うのにちょうどいい場所だったからだと思う。なんだか「おう、ちょっくら自殺してくらあ」みたいなお手軽な感じが、「心中」という言葉と今一つそぐわないように思ったのだ。 私にも自殺願望は常にあるが、「埼玉で」と誘われたら、「もっとステキな場所はありませんか」と言いたくなる。埼玉県には悪いが。 生まれ故郷ではあっても、私は博多じゃ死にたくない。「大濠公園に死体が浮かび」って汚そうだし、「福岡タワーから飛び降り自殺」なんてお笑いである。なんで死んでまでギャグ飛ばして世間にサービスしてやらにゃならんのか。 いや、なんかね、福岡や博多って、人が死んでたらなんか可笑しいような、それくらい「生」のエネルギーがムダに横溢してる町なんよ。だからどこで死んでもなんか滑稽になっちゃうんである。 「華厳の滝」のような「自殺のメッカ」が生まれるのはなぜか、ということを考えれば、この「お気に入りの死に場所」について考えることは、決して不謹慎なだけの行為ではなかろうと思う。
こないだ読んだ柳美里の言い分ではないが、「自殺」という行為が何らかの意味での「自己完結」であることだけは間違いがない。そこで全てを終わらせるのであるから、自殺者はたいていそこに自らのドラマの終焉としてふさわしい「様式」を見出すものだ。 それは例えば「遺書」を残すという形であったり、死んだ「場所」であったり、首吊りとか入水とか列車飛びこみとかいった「手段」であったりする。自然死と違って、「自殺」は自らの死を演出できる点において、極めて演劇的である(だから柳美里が「自殺」に夢想を抱く気持ちも共感できなくはないのだ)。しかも自殺者は、数限りない選択肢があるにも関わらず、必ずしも「美しく」死ぬとか「安らかに」死ぬことばかりを選択するとは限らない。醜く、苦しむ死をあえて選択する自殺者もいるのだ。だとすれば、自殺者には自殺者だけにしかわからぬ、「この死に方がいい、これしかない」という特別の論理があるのだと解釈せざるを得ない。 三人のうち、誰も「私、埼玉なんかじゃ死にたくない」とは言わなかったのだ。しかも場所は相当なボロアパートらしい。廃墟マニアでもあるまいし、なんでそんなところで死んだのか。もし、今回の「死に場所」が必ずしも死を演出する絶対要因ではなかったとするなら、彼らを「死」にいざなったものはなんであったのか。
「ネットで知り合った自殺志願者どうし」というシチュエーション自体が、既に彼らにとっては充分魅惑的なものだったのかもしれない。真相は死んだ本人たちに聞いてみなくちゃわからないことだが、そこでふと気になったのは、山本弘さんは、このニュースをどう聞いただろうかということだった。 山本さんは『宇宙を君の手の上に』という短編で、ネット上の人間関係が、一人の自殺志願者を救う物語を語った。生か死か、その行き付く先は違っても、ネットを通じた人と人との絆が、生身の人間どうしの付き合いと変わるものではない、という視点においては、山本さんのネットについての認識と、この自殺者たちとの意識の間には共通項があると言える。ぶっちゃけた話、生を希求するエネルギーと、死に埋没するエネルギーとは実は同質のものなのではないか? まあ、こんな不躾な質問、山本さん本人に向けられるはずもないが、生はその背景に死という絶対的な事実を踏まえた上でなければ語れるものではないと思う。山本さんはそのことを充分ご存知の上で創作の筆を取っておられるだろうとは思うんだが、そこまで突っ込んで山本さんの作品が論評されることが少ないのが 残念だと思う。
『千と千尋の神隠し』が第75回アカデミー賞の長編アニメ部門にノミネートされたけれども、まあ受賞するのはほぼ確実ってとこだろう。もっともアカデミー賞は会員による投票制だから、余りに本命が強すぎると同情票が他作品に回って大番狂わせが起きるってこともあるから、最後まで目は離せないんだが。 もっとも対抗馬が『リロ&スティッチ』とかだからなあ。予告編しか見てないけどヒドイ出来だし。これで受賞できなきゃ、日本人バッシングがあったと疑われかねないから、多分、番狂わせもなかろう。で、受賞記念で英語版の凱旋興行、ダヴェイ・チェイスちゃんのかわいらしい声を聞かせてもらいたいものである。 実はまあ、そっちのニュースはどうでもよくて(^o^)、「やったぜ!」と思ったのは短編アニメ賞候補に、山村浩二監督の『頭山(あたまやま)』が含まれていたことだ。昨年度の文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門優秀賞や、毎日映画コンクール大藤賞候補にも選ばれていて、この日記でも以前に「見たいぞぉ~!」と叫んでたものだったが、これでDVD化への道が開けたと思うんである。この手の短編アニメってなかなかDVDにならないからねえ。
朝、体調が優れず、仕事に1時間遅れて出勤。 ともかくもう、休むのだけは避けようと思ってるんだが、具合が悪いときは悪くなっちゃうんでどうしようもないのである。 仕事自体も遅々として進まず。定時に退出してさっさと帰宅、あとは寝たきりなんでたいして書くことなし。
井沢元彦『逆説の日本史6 中世神風編』(小学館文庫・690円)。 鎌倉新仏教の展開から、鎌倉幕府の滅亡までを、井沢さんお得意の「言霊信仰」を絡めて説いていく。 これも細かく感想を書いてったらキリがないから、面白かったところをピックアップ。さてどこでしょう。 もちろん、「元冦」ですね。ウチのパソコン、こんな常識的な字も出しやがらないんですが、そんなに中国やモンゴルに媚び売りたいんでしょうか。 あだしごとはさておき。 博多で有名な元冦のヒーローが二人いる。亀山上皇と日蓮で、この二人のどでかい銅像は、今も博多の東公園に立って、中国や朝鮮の侵略から博多を守るべく沖を睨みつけているのである。 日蓮がなぜヒーローとなったか、それはもちろん彼が「元冦を予言し」「祈念によって神風を吹かせ元軍を撃退した」という「事実」にあるのだが、もちろんそんなのはただの偶然であろう、と私は考えていた。 ところが井沢さんは「偶然」どころか「予言は外れていた」とまで説くのである。すなわち、日蓮の予言は、簡単に言えばこういうことである。「邪教を捨て、法華宗を信じないと、外国から侵略を受け、日本は滅びるぞ」である。でも、時の鎌倉幕府は、法華宗を是とはしなかった。つまり、日蓮の予言が当たるのなら、「日本は滅びていなければならない」のである。 ……あ、そうじゃん(゚゚)。今の今まで気づかなかったなあ。「外国が侵略」までは当たってたけど、後半はハズレ。「神風」は日蓮の意志と関係なく吹いちゃってたのである。実際に日蓮は、自分の予言が外れたことを知ってショックを受け、病気になって死んだんだと。ご本人はどうやら本気で自分の予言が当たると信じこんでたらしい。 その点では日蓮さん、エセ宗教の詐欺師とは全く性格を異にしているのだけれど、もしも友達だったらどうにも困った、迷惑な人ではあったろうなあ。念のために付け加えておくと、法華経の思想自体は「宇宙全体が幸福にならない限り個人の幸福はありえない」という、別に悪くはない考え方である。戦前の日本のファシズムに利用されはしたけどね。
マンガ、さいとう・たかを『バロム・1』1巻(リイド文庫・600円)。 21世紀に入って、『バロム1』がアニメで復活しただけじゃくて、原作まで復活するとはビックリだねえ。しかも文庫だよ。2、3年前に、やたら分厚い単行本上下巻(各巻2667円!)で出た時に買わなくてよかったなあ。 知ってる人は知ってるけれど、この『バロム1』がなかなか単行本にならなかったのにはわけがある。敵の悪の魔人、「ドルゲ」って名前がドイツ人の名前に実在してたそうで、留学生のドルゲくんが学校で苛められ、それが理由で番組自体も封印、再放送がされなくなってしまった、というものである。なんだか都市伝説っぽいけれども、さいとう・たかを自身が「ゾルゲってのがいることは知ってたからドルゲに変えたのに、なんでそいつまで実在してやがるんだ」とクサしてたから本当だろう。ここに来てやっと出版されたというのは「名前の偶然の一致くらいいいじゃん」という気持ちにドルゲさんたちも寛容になったのか、その程度のことで苛めるバカが減ったのか。後者だったらいいんだけどな。 でも復活したとは言え、この原作、そんなに凄く面白いってほどのものでもない。もともとさいとう・たかをの絵柄は子供の間ではたいして人気がなく(少年マンガでもさいとう・たかをの人気が出たのは『無用ノ介』あたりからで、それ以前の『ザ・シャドウマン』などはイマイチであった)、マンガ連載当時も「カッコ悪い」という印象しかなかった。まだしも特撮テレビ版のバロム・1のデザインの方がカッコよかったのだ。白鳥健太郎と木戸猛が合体してバロム・1になるって設定は同じなんだけど、原作のバロム・1はムキムキマッチョなおっさんなのである。しかも顔がまた濃くてねえ。『バロム・1』を見たことがない人は、アイシャドウをつけたゴルゴ13に、魔法使いサリーちゃんのパパのトンガリヘアーが乗っかってると思って下さい。ああ、ひたすらキモイ。 お話もねえ、昔から思ってたんだけど、二人で一人のヒーローに変身って、すげえ効率悪くないか。人間でバラバラでいる時に襲われたら一発でアウトじゃん。もちろんそういうツッコミが野暮だってのは分ってるんだけど、ドラマ的に底が浅いのはどうしても否定できないんでねえ。テレビ版でもそうだったけど、この二人がやたらケンカして、友情エネルギーが足りなくなって、変身できなくなるんだよ。でもって、「俺が悪かった!」「ボクこそ!」って謝りあってさ、それでようやく変身できるようになる。でもその次の回ではまたケンカしてやんの(-_-;)。学習能力ないのかお前らは、ってな。もちっとマシな二人選べよ、コプー(←二人を正義のエージェントにした宇宙意志。「フロイ」ですな)。 原作版ではドルゲの分身たるゲルゲどもが全然出てこないのも寂しいところ。クチビルゲとかヒャクメルゲとか好きだったんだけどなあ。フランケルゲってのはあんまりだと思ったけど。
マンガ、横山光輝『横山光輝SF傑作選② 昆虫惑星』(講談社漫画文庫・630円)。 主に1976~80年時のSF短編を収録。でもどれも元ネタが海外SFにありそうな気がするなあ。巻末の年譜を見ると、これ以降、横山光輝はSF作品を一作も描いていない(もっとも記載漏れがある可能性はある)。作品の中心が歴史ものに以降したからだと言えはするが、パクリネタが多いことが指摘されたからかも。でも横山光輝だけでなく、昭和30年代、40年代に活躍したマンガ家さんたちの多くは、小説や映画のアイデアを自作に流用していたのだ。 『ポイント4』、海底の古代遺跡が上空を飛ぶ飛行機を四次元空間に送りこんでしまう事件を、エスパーの少年たちが解決する話。それだけ。 『昆虫惑星』、巨大化した昆虫が支配する惑星。そこを探索に来た調査隊は、そこがかつて人類の住む惑星だったことを知る。これもいくらでも元ネタが探せる作品。有名どころは『猿の惑星』かね。 『宇宙船マゼラン』、宇宙に行ったら死ぬかもしれないから、地上にいるうちに思いきり遊んどこうよ、という話。いや、ホントにそれだけなんですよ! 『アルマゲドン』はこれのパクリか?(^o^) 『91衛星(サテライト)SOS!!』、今んとこ横山光輝最後のSF作品。謎の衛星を調査したら、それは食料加工所で、調査員はソーセージにされてしまいましたとさ。なんだか夢野久作の『人間腸詰』。でもこれも海外SFに類似作があったような……。 まあ、横山ファン以外には読んでもつまらんでしょう。横山光輝もなあ、『バビル二世』の初期の頃までは面白かったのになあ。(2003.3.11)
2002年02月12日(火) 気がついたらマヨラー(笑)/『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(上遠野浩平)/『大秘密』(W・パウンドストーン) 2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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