無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年11月21日(日) さようならドラえもん/『ハウルの動く城』

 アニメ『ドラえもん』の声優が来春を機に聡入れ替えとか。
 主役五人、ということだから、大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太、たてかべ和也の諸氏が全て入れ替わる、ということなのだろう。ずいぶん思いきったことをやろうとしているが、役者さんたちの意向で行われたことではないのではないか。
 役者は、一つの役柄が定着することを嫌ってシリーズものから離れる人と、当たり役を得られたことをありがたいと思って大事にしていくタイプの人との両極に分かれる場合が多いが、『ドラえもん』の役者さんたちは、これまでの「死ぬまでやりたい」的な発言から考える限り、後者だと思われるからである。もっとも、大山さんと小原さんはプライベートでは実はすごく仲が悪いというから、対立が決定的になって、やってられなくなったという可能性もなきにしもあらずだが、これは根拠になっている話というのがアテレコのときに大山さんと小原さんの席が端と端に離されているという、なんともあやふやなものなので、所詮はウワサの域を出ないことである。
 やはり一番可能性があるのは、テレビ局か製作会社の意向だと思う。彼らの念頭には、『ルパン三世』での山田康雄→栗田貫一、『サザエさん』での高橋和枝→富永みーなといった、“役者の病気、死去による交代”を避けたいということがあったのではなかろうか。声だけの演技である声優の仕事は、顔出しの役者に比べればその「老い」があまり感じられないですむが、それにだって限界はある。10年、20年が過ぎれば、なだらかな変化ではあるが、声の張りはやはり落ちていく。気がついたときには、こりゃいくらなんでも子供の声には聞こえない、という事態に陥ってしまう。ハッキリ言ってしまえば、もう七、八年くらい前から、特に大山さんの声に「張り」が失われていた。別に『ハリスの旋風』の石田国松や『サザエさん』の初代カツオあたりまで遡ってその声を想起しなくても、『ドラえもん』の初期と今とでは、まるで別人のように「衰え」が見え(聞こえ)ているのである。
 テレビ朝日やシンエイが、『ドラえもん』を単に「昭和を代表するマンガ・アニメ」として位置付けるのでなく、永久に続けていこう(それこそドラえもんがやってきた23世紀を越えてまで)という覚悟でいるのならば、声優の交代は必須だろう。誰か一人を変えるよりは、全員、というのは賢明な判断であるとすら思える。今思い返せば、ここ数年の主題歌歌手の度重なる変更も、今回の措置の「布石」だったのではないか。
 しかし、個人的な感情でものを言うならば、藤子・F・不二雄作品は、その殆どが懐かしい昭和の風景と不可分のものである。『ドラえもん』が愛され続けることは一見、嬉しいことのように見えるかもしれないが、同時に「時代を越えて」愛され続けることがそんなにいいことなんだろうか、という疑念も生じてしまうのである。実際、『ドラえもん』以降の藤子マンガが、それ以前のものと比べると、「昭和の匂い」がかなり希薄になっていることに嘆きを覚える人も多い。これを「ノスタルジア」の一言で片付けてしまう人もいるが、それは少し違うのではないか。
 藤子さんのもう一つの代表作、『オバケのQ太郎』が二度まではともかく、三度目のリメイクに堪えられなかった理由は、正太やゴジラ、子供たちの主たる遊び場であった「空地」(「公園」すら身近ではなかった時代なのだ)が、既に現代の子供たちにとっては生活の主体ではなくなってしまっていたという事実も大きいと思われる。それに比べると、『ドラえもん』の場合、たとえ作中に登場してはいても、「空地に土管のある風景」は既に単なる背景以上の意味はなくなってしまっていたので、そういった「昭和の風景」にさほど拘らずにすむ分、まだ「延命」が可能だったと言えよう(『オバQ』にはあった子供グループどうしでの「空地の取り合い」ネタが、『ドラえもん』にはない)。
 逆に駄菓子屋や卓袱台のある風景など、原作以上に「昭和の遺物」をやたらと取り込んで映像化した映画『がんばれ! ジャイアン』の方が、現在の「ドラえもん世界」の中では奇妙に異質に見えてしまうことになった。デパートの家具売り場にもう昔風の卓袱台は売っていない。「平成の子供たち」にとって、あの映画はまるで「時代劇」のように見えていたことだろう。畳の部屋はかろうじて残っているものの、『ドラえもん』シリーズから昭和の匂いのする小道具は少しずつ、確実に排除されていっているのである。
 だが、それでも私は、いくら時代が変わっていくものだとは言え、パソコンやケータイを使うようなのび太たちを見たいとは思わない。初期にはなかったテレビゲームをのび太たちは競ってするようになった。これから先も『ドラえもん』が続いていくとすれば、いずれ作品中にそういうものはどんどん登場していくだろう。けれどそれは私にとっての『ドラえもん』では、いや、既に藤子マンガですらないのである。そこに私たちが感じていた「生活」が存在していないからである。
 パパの会社を覗きに行ったり、親子げんかの果てに家出をしたり、親子の絆を描くエピソードも多かった『オバQ』に比べ、『ドラえもん』でのパパとママはあまりにキャラクターが弱く、のび太との関わりなどないに等しい(食卓で新聞を読んでいるパパ、のび太を勉強のことで叱るママ、といったステロタイプ以外のイメージを思い浮かべられる人がどれだけいるだろうか?)。実は声優の交代は今回が初めてではなく、初代パパであった加藤正之氏が死去し、現在の中庸助氏に変わっているのだが、それがいったいいつからなのか、とっさに答えられる人がどれだけいるだろう(お二人の声質は決して似てはいないので、よく見ている人ならすぐに気がつくのだが、多分、大半の視聴者が「聞き逃していた」に違いない)。親子・家族関係そのものが変質し、希薄になってしまっている現代に、何と見事に合致していることか。
 この一事をもってしても、『ドラえもん』が巷間言われているような「生活密着型」の作品ではなく、そこから遊離しようとして作られてきた作品であることが分かる。『オバQ』は日常生活の中に「異物」が混じりこむことによって起こる騒動を描いたものであったが(つまり基本は「国際結婚もの」と同じ。ベクトルが「内側」に向いているので、開放感を与えることを目的とする映画には向かない)、『ドラえもん』は日常の存在を非日常に連れ出す作品であるのだ(ベクトルが「外側」に向いているから、映画化しやすい)。
 『ドラえもん』の「生活感覚」は、これから時代の流れによって変質していくものとして次々と設定しなおされていくのだろう。それはもはや私たちの世代が好きだった「時代を象徴する作品」としてのそれではない(まあ、それを言い出せば私は最初の富田耕生版『ドラえもん』のほうが好きで、大山のぶ代の声には未だに慣れないのだが)。今回の声優交代は、単純なリニューアル、という意味だけではなく、「昭和の切り捨て」という意味も持つことになるだろう。恐らくは今回も「イメージが変わるのはイヤ」程度のことで批判する浅薄なファンはボウフラか糞蝿のようにワラワラと涌いてくるだろうが、自分が固執しているものの意味に思いを馳せるだけの心の余裕もない彼らを見ていると、時代の断絶を感じさせる分、かえって寂しく思わないではいられないのである。
 あのね、もう君たちは“『ドラえもん』から”見放されているんだよ。オールドタイプにドラえもんとひみつ道具を共有できる資格は、もうないのさ。


 しげは朝から練習、前半はダンス中心で演出の出番はないので、私の方は朝寝。
 午前中、2週間ぶりに亀の水槽の水換え。こないだの3週間よりはましだが、やはり中がかなり臭くなっている。底に敷いている石も3ヶ月ほどで変えなきゃならんという話であるが、もう軽く3ヶ月越えてるんと違うかな。洗うだけでは持たないのである。
 そのあとすぐに、練習に行くつもりだったけれど、横になったらそのまま疲れて寝てしまった。3時を過ぎて穂稀嬢から連絡が入り、慌ててタクシーを拾い、素っ飛んで行く。
 パピオに着くと、玄関ロビーに其ノ他君と鴉丸嬢がいる。休憩中かと思っていたら、「今さあ、カトウとしげさんが大ゲンカしてて、居たたまれなくなって逃げてきたの」と言うのである。まあ取っ組み合いの喧嘩をしているとは思わないが、何ごとかと聞いてみると、要するにしげがアドリブかますんで、カトウ君がセリフのきっかけが掴めず、口論になってるらしい。
 「しげさんはさ、『ああ』とか『ええ』とか相槌打つところをね、『セリフを言うのイヤだから、態度で見て判断してくれ』って言うんだけど、カトウは『そんなのわかんないから、セリフを入れてくれ』って言うわけ。そしたらしげさんが『100パー入れればいいんだろ、そうするよっ!』て反発するもんだから、カトウが『そんなことを言いたいんじゃない』って言い合いになって……」
 ああ、またしげのヒスが原因か。
 もともと脚本にひんぱんに相槌のセリフを入れているのは、しげのリアクション能力が著しく低いからだ。これは日常生活でも私の言葉に無反応なことが多く、普通の人間に分かるようなリアクションが取れないでいるのだから、それを演技でやろうと思ったってできるものではないのである。本人はちゃんとリアクションしてるつもりでも、カラダは全く動いていず、そのことを指摘しても自分では動いてるつもりだからどう改善すればいいかわからず、キョトンとしている。つまり、ココロとカラダが乖離しているのに、その自覚ができてないのだ。
 そりゃ、表情の変化やちょっとした仕草だけでリアクションできて、しかも相手の次の演技を引き出せるだけのことができたら立派なのだが、そんなテクニックはしげにはない。セリフに気持ちを込めるだけで精一杯のくせに、「自分にはこんなこともできる」と思いあがっているのである。でなきゃ、何でその程度のことで口論になるのか、理由がわからない。
 「まあ、討論するのは基本的には悪いこっちゃないな」と言って、練習場に向かうが、あくまで「基本的に」なのであって、ヒステリックなものどうしの先が見えない討論など、やるだけ無意味だ。しげのヒステリーは、一度ドツボにハマるとセルフコントロールが全くできなくなる性質のものなので、マトモに相手をしてはただひたすら疲れるだけ、その先には不毛な荒野か砂漠が広がっているだけだ。
 場合によってはしげを一時的に追い出してアタマを冷やさせるか、練習自体、中止せねばならんかと思いながら中に入ってみると、確かにしげ、カトウ君、それにラクーンドッグさんも交えて何か言い合ってはいるが、激昂している雰囲気ではない。どうやら「山」は越えていたようである。取り合えずホッとしはしたが、それでもまだ余燼はあるようなので、打ち合わせの範囲内で会話が進んでるのなら仲裁に入るまでもないかと、こちらはこちらで小道具作りにいそしむ。
 ところがいつまで経ってもしげもカトウ君もボソボソと喋りあってるだけで、立ち稽古に入る様子がない。さすがに痺れを切らせて、「一部通しくらいはやらんのかね?」と水を向ける。そこでようやく動き始めたが、時間はもう5時。結局2シーンほどしか見られなかった(-_-;)。
 こないだ腫れ物の手術をしたばかりのカトウ君がまだ万全ではないので、動きの間が悪いのは仕方がない。それよりも鴉丸嬢が、声量はともかくしげに対して「腰が引けている」のが目立っていて、ここがちょっと困りものである。気持ちの上でしげに負けているので、それがどうしても演技に出てしまっているのだ。しげはテンパると周囲に対して意固地になるばかりか苛立ちをストレートに他人にぶつけてしまうので、気の弱い人にとっては少なからず恐怖の対象ですらあるのだが、実は全て去勢を張っているだけである。何も怖がる必要などないのだが、そんなのにも怯えてしまうところが、鴉丸嬢の気持ちの優しさがかえって裏目に出ているところだろう。
 しげには「芝居を本気でやりたいならヒステリーは絶対起こすな。起こしたらオレはその時点ですぐに抜ける」と約束し、毎回その約束が破られているのだが、つまりはしげの記憶力、学習能力は皆無なのである。今回はしげがどんなにウソをつこうが最後まで見てやろうと決心して臨んでいるので、今更抜ける気はないが、こんなバカを配役してていいものかどうか。その件については、こないだもみんなに聞いたのだが、結局しげを降ろすことに反対はなかった。だからみんなもこのしげの理不尽な言動には付き合ってもらうしかないのである。これからもっとひどくなると思うんで、どうかご覚悟を。

 解散したあと、しげと私はダイヤモンドシティへ。芝居の衣装を探したいと言うので、しげはジャスコへ、私はフタバ図書で本を物色。そのあと待ち合わせをして、ロッテリアで晩飯。二人とも卵バーガーにフライドチキンを頼んだのだが、クジが当たってエビバーガーがついてくる。飲み物が足りず、コーラにアイスティーをそれぞれ注文。腹がたぷたプになったあとで気がついたが、別にクジが当たったからって無理に食べなくなてもよかったのである。でも、一度身に着いた貧乏症はなかなか抜けるものではない。

 今日こそは『ハウルの動く城』を見ようと思ってワーナーマイカルの前で時間を待っていたら、桜雅嬢とばったり出くわす。さっき車で彼女の家まで送ったばかりだったのだが、どうしたのかと言うと「ママとケンカして家出してきちゃった」とか。何やってんだか。
 結局一緒に『ハウル』を見ることにする。私たちは既にチケットを買っていたのだが、指定席なので、桜雅嬢とは離れてしまう。私のチケットを彼女に譲って、私は桜雅嬢のチケットを貰うことにする。全国では行列も出来ているという『ハウル』だが、さすがは場末のダイヤモンドシティ、会場の半分しか席が埋まっていない。指定席にする意味がないな(^_^;)。これがキャナルシティか天神東宝だったらこうはいかなかったろう。場末だが設備はいいから、以前の粕屋東のワーナー同様、ここはいつでもゆったり座れる「穴場」になりそうだ。けどレイトショーで見ることにしたんで結局前売り券が一枚余ってしまっている。でも全国共通券を買っといたのは正解だった。休日に天神に出かけることがあったら、そちらでもう1回見る機会もあるだろう。1年間くらいはロングランしてるだろうから(^o^)。

 さて映画『ハウルの動く城』であるが、普通に面白くて普通につまんない映画であった。
 なんかそれ以外の感想が思い浮かばないが、アニメーションテクニックだけは相変わらず上手すぎるほどに上手いのだ。扉の開け閉めの何げない動きにすら「筋肉の収縮と重み」が表現できているし、浮遊シーン、飛翔シーンの「風」の表現はまさしく世界最高峰だろう。カンヌにおけるオゼッラ賞は当然だと言える。
 しかし、キャラクターの描写が適当なのはここんとこの宮崎映画の共通点で、荒地の魔女の扱いの杜撰さには呆れ返るほどだ。だいたいハウルが結局臆病者なのか凛々しいのか、ソフィーがいたから頑張れたのか庇護者として自立しているのか最後までどっちつかずなままなのはどういうわけか。いったいかっこいいんだか悪いんだか全然わからないのである。ソフィーの様々な変身も特に一本スジの通ったものではなく、このシーンはよいが、「ここで若返るのはヘンだ」というシーンもいくつかあり、「いい加減」と言わざるをえない。これは近代的なファンタジーというよりも前近代的なメルヘンに近い。要するに脚本を書かずに絵コンテから入る宮崎さんらしく、そのシーンごとでのイメージを優先したために起きた破綻なのだろう。ラストの唐突な終わり方も、「結局この話は何の話だったのよ?」と首を傾げてしまうものだ。ともかくストーリーの整合性のなさを指摘し出したらキリがないのである。
 けれどだからこそアニメーションとしての表現力は傑出しているとも言えるわけで、ストーリーがデタラメでも、「絵」や「動き」、演出の間などでとにもかくにも2時間を全く退屈させない。だから誉めようと思えばどこまでも誉めることはできるのだ。いつもながらの鬱陶しい「反戦」メッセージがないわけではないが、これもメルヘンという寓意のオブラートに包まれているためにかなり露骨であるにもかかわらず、鼻白む感じがない。しかしそうなるとこれまでの宮崎さん独特の「力技でねじ伏せる演出」も影を顰めているわけで、小林信彦が「枯れた」と感じたのもなるほど、と思えるのである。全く誉めていいんだか貶していいんだか、始末に困る出来映えだ。
 声優については、声を聞く前から非難の声が高かった木村拓也であるが(聞きもしないで文句をつけることがどれだけバカか気付いていない)、普通の声優に比べて全く遜色がなかった。声に艶はあるし、声優ブームとやらのせいでもう名前も覚えきれないほどの新人声優が輩出しているが、あんなのに比べれば数段上なのは間違いない。仮に「この声は私には受けつけられませんでした」という意見があったとしても、そんなのただのキムタク嫌いの偏見だよ、と一蹴してしまえるほどの好演である。それよりもベテラン倍賞千恵子に10代の少女の声を演じさせていることの方がよっぽど苦しかった。でもそれだって貶すほどのものではない。総体的に声優に関しては成功の部類に入ると思えるし、「どうして声優専門の役者を起用しないのだ」といった類の批判の声は、結局は難癖にしかなっていないことがこれでまた一つ証明できたと言えよう。
 ……でもね、一見、貶してるように見えるかもしれないけどね、それは宮崎駿のレベルがもともと高いからなんであって、例えば大友“ただのでぶ”克洋の『スチームボーイ』に比べればもう百倍も出来がいいんですよ。

2002年11月21日(木) 爆走⑩/薨去と逝去/『名探偵コナン』39巻(青山剛昌)/『一番湯のカナタ』2巻(椎名高志)
2001年11月21日(水) 乗った人より馬が丸顔/アニメ『ヒカルの碁』第7局/『カスミン』1巻(あもい潤)ほか
2000年11月21日(火) 酒飲みには常識なのかも/『入院対策雑学ノート』(ソルボンヌK子)



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