無責任賛歌
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2005年08月02日(火) |
痺れた指で書いてます/『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(日渡早紀) |
先週の映画全国興行収入、「eiga.com」によると以下の通り。
1,スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 2,ポケットモンスター・アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ 3,亡国のイージス(初) 4,ロボッツ(初) 5,宇宙戦争 6,アイランド 7,鋼の錬金術師 シャンバラを征く者 8,星になった少年 Shining Boy &Little Randy 9,皇帝ペンギン 10,電車男
1位、2位はしばらく不動って感じだけれど、注目は3位の『亡国のイージス』。今年の福井晴敏映画化三部作のうち、一番出来はいいんじゃないかと予測してるんだが、まあまあの好スタートを切ったようだ。新聞記事によっては「50億円も狙えて実写邦画の№.1も狙えるんじゃないか」とか書いてるけれど、この「eiga.com」の分析は冷静で、「30億円程度だろう」というもの。表面的な派手さでは『終戦のローレライ』『戦国自衛隊1549』の方が勝っている感じだし、ともかく前二作の評判が悪かったから、それを考えるとこのスタートは充分OKだろう。 それに引き換え、封切り二作品が間に入ってきたとは言え、『ハガレン』のランク・ダウンはかなり激しい。評判よくない『アイランド』より落ちてるってのはやっぱり一般ファンへの浸透度はかなり少ないのである。先週、「どうせ一週間経ったら動員落ちるよ」と予測していたが、まんま的中するとはやっぱり腐女子しか見に来てなかったんだってことが証明されたわけで、情けないったらありゃしない。先週はこの「eiga.com」の編集部氏、「続編は確実」とか言ってたくせに、今週は急に「続編製作が難しくなるかも?」とトーンダウンしやがった。予測が甘いっつーか、単に「映画業界に詳しい人」ってだけじゃ、オタクとか腐女子に関する認識・理解がそもそもないんだろうね、だからオタクってすっかり細分化しちゃってるから、「一部に大受け」が全体に広がることってなかなかないんだよ。野村総研の「オタク市場は2900億円」なんて試算も殆どアテにならないのである。 実際に『ハガレン』続編が作られるかどうかはまだ微妙ってところだろう。興行収入20億円は苦しくなったが、せめて10億行ければギリギリGOサインが出る可能性はある。いや、もう続編は作らない方がいいよと思っちゃいるのだが、一度コワレた作品がさらに奈落の底を転落していくのを追いかけてしまいたくなるのも『ヤマト』以来のオタクの悲しい性(さが)なもんでね。もういくらでも作ってくれ、『鋼の錬金術師SEED DESTINY』とか。
女優のロ-レン・バコールが(っつっても知らない若い人もいるかもしれないが、自分で調べるように)、1日発売の『タイム』誌で、トム・クルーズをケチョンケチョンに貶したとか。ケイティ・ホームズとの婚約を映画の宣伝に利用してるとか、まあそのあたりの批判は誰しも言ってることだけど、クルーズの演技力について堂々と「(世間でクルーズの演技を「グレート」と評価していることに対して)グレートと言うならそれなりのことがなければならない。トム・クルーズなんかのことではない」と言い切ったというから、小気味よい。でも、天狗の鼻っ柱を折るにはバコールくらいの大女優を呼んでくるしかなかったってのが大根役者に大手を振って歩かせてるハリウッドの脆弱な体質を逆証明しているわけで、決して喜ばしい状況ではない。 実のところ役者の「演技力」を測るのは簡単なことではない。「そもそも役者に演技力は必要なのか」という議論すらあるくらいで、「演技力論争」を本気で始めたら、延々と尽きることのない堂々巡りに陥ることすら覚悟しなければならない。だから「トム・クルーズは本当に大根かどうか」という問題についても、その批判の視点を明確にしなければたとえバコールの言と言えどもただの中傷と解されて終わってしまう危険も大である。正直、私だってクルーズの演技を上手いなんて思ったことは一度もないんだが(あの口をいつも半開きにする癖は何とかならんのか。知的な役をやっても全然知的に見えないぞ)、クルーズを責めるならほかにも責めなきゃいけない俳優がベン・アフレックとかベン・アフレックとかベン・アフレックとか、いっぱいいるんじゃないかと思うのである。 バコールはトム・クルーズだけでなく、元妻のニコール・キッドマンに対してすら「キャリア不足」と斬って捨てた過去がある。なんかあちらのおすぎか井筒和幸みたいで小気味よくはあるけれども、感情的に自分の嫌いなタイプの役者をこき下ろしているだけのように見えなくもない(共演もしてるし本当は仲がよいのかもしれないが)。 演技力があるとされている役者であっても、映画によってはミス・キャストと評されることもある。アカデミー賞を取った役者がその後鳴かず飛ばずになってしまった例も少なくない。とかく「演技」の評価は一定の確固たる基準を示せるものでもなく、水物だと言っていい。今回はいささか有頂天になりすぎているクルーズをたしなめる意味や、役者への太鼓持ち提灯持ち茶坊主的おべんちゃらを使うしか脳がなくなっているマスコミへの牽制の意味があるとしても、これで単純に役者の演技力をああだこうだと決め付けるような流れができたりしなきゃいいがなと憂慮するのである。
手足の痺れ取れず、再び病院へ。 先日の検査の詳しい結果も出ていたので、教えてもらうが、「痺れが出ても当然でしょう」ってくらいにあの値もこの値も昨年から跳ね上がっている。去年に比べりゃストレスは軽減しちゃいるんだが、去年の蓄積が今になってここに来たって気がしなくもないな。 主治医の先生、「薬飲んで養生しても、痺れが完全に取れるようになるのは一ヶ月ちょっとはかかるでしょう」とのこと。もちろん、それで私の体質自体が治るわけではないが、節制すれば血糖値が下げることは年齢的にまだ間に合うのでがんばりましょうと激励される。確かに、ウォーキングも再開しているし、日常生活に支障を来たさない程度には状態を回復させないと、日記も書けやしないのである(と、更新が遅れてるのを言い訳)。
終戦60年記念番組『二十四の瞳』。 見ました。 既に感想も何も書きたくないくらいだが、若い人たちにやはり言いたい。まかり間違ってもこんな安っぽいドラマで泣いたりなんてするなよ。『二十四の瞳』がどんな話か本当に知りたいのなら、壷井栄の原作小説を読みなさい。あるいは木下恵介監督版の映画を見なさい。 脚本は臭いくらいに反戦を訴えていてかえって白々しいし、イデオロギーだけの上滑りしたセリフをいくら書いたって、感情に訴えかけるドラマには決して成り得ないという基本中の基本をこのくそばか脚本かは分かってない。 役者の演技も脚本に引きずられて大仰で臭いばかりである。いや、脇はまだいいんだけど、主演がもう見ててまるで新興宗教の教祖である。なんか最近は「黒木瞳主演」ってだけでそのドラマ見る元気がなくなるんだけど、熱演のしすぎで押さえが利かないのだ、この人。舞台のときのクセがまだ抜けてねえんじゃないかな。
マンガ、日渡早紀『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(白泉社)。 ヒット作品のパート2は落ち目の証拠ってのは『サルまん』でも書かれていた法則だけれど、本作はそういう「夢よもう一度」の企画ではない。作者が解説で書いている通り、家庭の事情で一時期引退を考えていたのである。ファンへの「最後の贈り物」のつもりで、読み切りを一編だけ書いた、それが第一話の『ボクを包む月の光』だったという次第。 それが作者の事情も好転して今も続く連載に発展するようになったのだから、世の中何がきっかけに瓢箪から駒な出来事が起きるやら分からない。だもんで、今回に限り「二番煎じ」がどーのという類の批評は適当でないと言っておこう。 サブタイトルにもある通り、これは1980年代から90年代にかけて、一大ブームを巻き起こした『ぼくの地球を守って 記憶鮮明東京編』(通称「ぼくたま」)の「次世代編」である。オリジナルビデオアニメにもなったし、『花とゆめ』の歴史上、最もヒットした作品の一つと言えるだろう。 これも今や歴史の彼方になりつつあることで、説明が必要になってしまったことであるが、パート1のヒットには、一つ、「いびつな側面」も生じていた。 主人公の坂口亜梨子(ありす)には、自分がもともとはるか彼方の宇宙の人間であり、月にいて地球を観測しているという「前世」の記憶があったのだが、実は同じ記憶を共有する仲間が、ほかにも六名いたのである。物語はその「月の仲間」との邂逅、そしてかつて起きた仲間内のトラブルが、時を経て現代のこの東京でも繰り返されようとしているというサスペンスを描いたものであった。 ところがこの「前世の仲間との邂逅」という設定が、一部のファンの間で「自分にも前世の仲間がいるかもしれない」という錯覚を生み出してしまったのだね。「○○という名前に聞き覚えのある人、コンタクトください」なんて投書がオカルト雑誌の『ムー』とかにどっと寄せられることになった(すぐに規制)。 そのあまりの反響の大きさに、作者が「これはフィクションですから」と単行本等で但し書きをすることになり、またそれにファンが「夢を壊すな」と反駁するなど、作品外での騒動が偉く喧しい事態に陥ってしまった。 世間の識者からよく「マンガやアニメばかり見てる子供は現実と虚構の区別がつかなくなる」と非難されることに対して、ファンやオタクは「そんな阿呆がそうそうおるかい」と反論していたものだったが、実際にこうして「虚構と現実の区別がつかない若者」が大挙して現れちゃったおかげで、「やっぱりマンガファンってバカじゃん」って言われるハメになってしまった。もちろんそのあとにあの「オウム事件」が起きてしまって、マンガ・アニメファンに対する世間の風当たりはいっそう強くなることになってしまったのである。 つまり前作『ぼくタマ』は作者の意図に関わらず「オウムの前哨」的な「事件」でもあり、キャラクターへの入れ込み度の過激な女の子たちを排出させた点で現代の腐女子どもを増殖させる温床ともなったマンガであり、まあなんつーか、いいマンガだったのになかなか素直に評価しにくかった作品でもあったのである。
前置きが長くなったが、いろんなトラブルを巻き起こしつつも、前作は実にうまい形で「着地」をしたと思う。あれだけ人と人とが憎しみ合い裏切り合い、狂気すらはらみつつ、ハッピーエンドが訪れるとはちょっと予測していなかった。完結巻を読み終わったときには、何か積年のストレスが一気に晴れちゃったような爽快感を味わったものだった。 だからこの作品だって、「続編」は「蛇足」と言えば蛇足なのである。前作できちんと始末がついていないキャラクターに未来路がいたが、無理に後日談を描かなければいけないものでもない。どんな物語でも一応の終わりは来るのだから、登場人物が死なない限り、「その後」は読者の想像に任せた方が本当はよいのである。 ところが作者自身も予期せぬいきさつで「続編」は再開されることになった。 小林輪・23歳。小林亜梨子・32歳。二人の子供、蓮(れん)・7歳。……えーっと、計算すると輪は16歳でパパかよ。結婚できる年じゃねーじゃん(多分二年間待ったのだろう)、でも三人の幸せそうな姿を見ると、ちゃんと「ハッピーエンド」は続いていたのだなあとホッとする。となると、普通「ドラマ」は生じないはずなので、どうしてもそこで波風を立てるキャラクターが必要になってくるわけだ。 それがやっぱりというか待ってましたというか、永遠のやんちゃ坊主・紫苑なわけだね。叶えられなかった自分と木蓮と、そしてその子の生活を転生した三人に見出してちょっかいをかけてくるわけだ。でも、前作のようにまだ子供だった輪の精神を引き裂くまでには至らない。ちゃんと輪を眠らせてその隙に体を乗っ取るという一番ありがちなやり口(笑)。これも前作の紫苑を知っているファンなら、「何て人間が丸く優しくなったんだろう!」と感動することだろう。……いや、前作知らない若い方、ホントに紫苑って、極悪非道の外道だったんですよ。でも人気は一番。なんで世の女性はワルにばかり憧れるかね。 でも、いったんはハッピーエンドで終わってしまった物語だから、多少のトラブルが生じても、前作ほどの緊迫感はない。紫苑だって、親子二代に渡ってそのカラダを乗っ取りまくってるけれど、もはやかつての悪意はない。トラブルメーカーではあるがあくまで蓮の「守護天使」に納まっているのである。 「始末が付いてなかった」未来路はそのESP能力を買われてアメリカにいる。自ら犠牲になることで輪たちが研究対象にならないよう守っているが、そのために一人娘の日路子(カチコ)とは音信普通になっている状態。これが次巻以降、新たな「事件」の火種になるのかもしれないが、一ファンとしては、彼らがこれ以上苦しい「戦い」などに身を投じていってほしくはないという「願い」のようなものすら感じている。 かつての紫苑と月の仲間たちとの戦いは、誰が死んでもおかしくない戦いだった。けれど誰も死なない形で収束した。それが素晴らしかったのだ。小さな諍いはあっても、もう彼らの誰かが「犠牲」になるような物語は展開してほしくはないのである。多分男性ファンはみんなこう思っているだろうが、「亜梨子の涙はもう見たくない」のである。まあ私は前作では女性キャラでは桜のファンだったのだが。 絵柄が前作とはすっかり変わってしまって(前作自体も長期連載の中でキャラの顔はガラリと変わってしまっていたが)、全体的にふやけた雰囲気になってしまっているが、「核」になってるものは変わってないなと思えて、それが嬉しかった。再び描かれた子供のころの輪、確かに絵柄は全然違うのだけれど、そのいたずらっ子っぽい笑顔が、前作第一巻で新体操遊びをしていたころの笑顔に、すんなりリンクしたのだ。 不明なことに、私はここでようやく十数年ぶりに気が付いたのだ。 ああ、これもまた、ウェンディに置いていかれる『ピーター・パン』の物語だったのだ、と。そして、ついにウェンディに追いつくことのできたピーター・パンの物語であり、それでも自分がピーター・パンであることを忘れずにいられた少年の物語であったのだと。 そうだ。バリーのウェンディは決してピーター・パンを待っていてはくれなかった。けれど亜梨子は、木蓮さんは、ちゃんと輪を、紫苑を、転生してまで待っていてくれたのだ。大人になることと、少年のままでいることと、輪はその両方を果たすことができたピーター・パンだったからこそ、亜梨子は彼を待つことができたのだ。これは、「そういう物語」だったのだ。 そして「新たなピーター・パン」の物語は、ちゃんと、この「次世代編」でも踏襲されている。蓮も、日路子もまた、大人になることの恐ろしさを知ることになるだろう。イニシエーションは常に「恐怖」を伴って子供を蹂躙する。しかしそれでも蓮の、日路子の行く末が、少年らしさ、少女らしさを失わぬ「ハッピーエンド」であることをこの作者は描こうとしているのではなかろうか。それはもちろん、紫苑から輪へ、そして蓮へ、恐らくは未来永劫に伝えられる「少年の系譜」である。日渡さんなら「そこまで」描けるのではないか。今は、それを期待しても構うまいと思う。 かつてこの物語に私が覚えた感動は、この物語の本質のほんの一部でしかなかった。だからと言って今私が全部を理解したなんておこがましいことを口にするつもりはないが、目からウロコの二、三枚は落ちた気がする。自らの愚かさを認識できるからこそ、本は何度も読み返さないといけないし、年も取らなきゃならんと思うのである。 もう一度また前作を一巻から読み返してみたいが、残念ながらこれも書庫の山の奥に沈んだままである。……まんがカフェにでも行こうかなあ。
2004年08月02日(月) 9年目のお小遣い。 2003年08月02日(土) 新番組いくつか/映画『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』/『ルパン三世公式マガジン』8月18日増刊号 2002年08月02日(金) 復讐正露丸/『快傑ズバット』第一話/『芥川龍之介 妖怪文学館』/『秘宝耳』(ナンシー関) 2001年08月02日(木) 『題未定』ってタイトルのエッセイ集があったな/『キノの旅Ⅳ』(時雨沢恵一)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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