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力で捩じ伏せると言うこと。 - 2001年09月11日(火) 週半ばの朝、始業早々に 一瞬でものすごくたくさんの命が刈り取られた。 そのことについては、 胸が痛むし、辛い。 いなくなった人のことも 愛する人を失った人のことも どちらもどんなにか辛いだろうと。 でも、今回の事件、 私は当事者ではないので だから言えることかもしれないけれど。 そんなにまで憎まれているアメリカという国。 今回も ものすごく早く 報復宣言が出た。 報復・・・念のため、辞書を引くと 「国際間で、一国の不当な行為に対して、 他国が同様な不当な行為で報いること」 アメリカという国の考え方 私は昔から大嫌いなんだけど、 このことにも、アメリカらしいとため息が出る。 どんな理由があれ 今回のテロ行為は許されることではない。 しかし、だ。 何千人の命と、経済と、建造物が破壊されたから、 そのやり方が酷かったから、 「犯人の国は攻撃しても良い」という思想。間違ってる。 この国は、いつもそうだ。 結局、平和という概念、解釈が違うんだと思う。 他国を押さえつけて 気に入らなければ武力で黙らせる。 殆どの戦争に介入しているのに 本土決戦の経験が無い国。 ベトナムを焦土と化し、土地を汚染し、 湾岸戦争で市街地にミサイルを撃ち込み、 一般市民、女性、子供までを巻き込んでおきながら、 その時、アメリカではチェリーパイを焼きながら 息子の帰りを待つ母親の安全は保障されていた。 犠牲になった人の命は尊い。 だからといって、アメリカの報復を支援するのはどうか。 例えば、血液が足りないから献血の協力、 人手が足りないからレスキュー隊の派遣、 犠牲者の支援は最大限協力すべきだが、 被害国の支援となると慎重になってもらいたいものだ。 こうやって国を上げての惨事が起こると 割と多くの人が 「アメリカが大変な事に」という事実から 漠然と「アメリカ」という国全体に同情してしまったような 大雑把な感傷に支配されることが多いように思う。 悼むべきはアメリカという国でなく 犠牲となったひとりひとりなのに。 どんなに、胸が痛んだとしても どんなに、涙が溢れたとしても 命を奪われた本人や 家族・友人を失った人の悲しみ、苦しみに比べれば その痛みは雲泥の差で。 自分が誰を悼み 誰に責任があると判断するのか きちんと自覚せずにただ悲しむくらいなら、 別にずっとTVなんか見ていなくっていい。 妙に楽しそうな軍事評論家や 耳障りな金切り声で叫ぶ特派員の映像を 繰り返し繰り返し見た挙句に、 「アメリカは可哀想、 ラディンはひどいやつ」なんて結論に達するとしたら まだ、「アメリカでなんかあったの?」って言ってるほうがまし。 この事件の報道を見て 手を叩いて喜ぶ人々の姿には 私もひどくショックを受けたし アメリカはヒドイ国だから これくらいの目に遭っても当然、と言ってる訳でもない。 アメリカ人が嫌いなのかというと それも違う。 でもね。 米軍は着々と、兵と軍事設備を整えているという。 それに対して、 「アメリカの報復に協力したら 協力した国にも報復する」などという声明も発表されて 結局、このやり方では 圧倒的な軍事力で持って より多くの国民を殺し より多くの街を焼き 生活できないようにしたほうが勝ちで、 それまでは、殺し合いの繰り返し。 その上で得た終焉を平和と呼ぶなんて、できない。 ...
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