人権〝一日100質〟
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2001年04月06日(金) パパの出身者宣言1984

いつの時代も 投稿者:  投稿日: 1月16日

 うちのパパの例で申し訳ないのですが・・・。
 高1の時 基盤のない学校で 部落研に入り クラスで出身者宣言し 以後「同和」教育の時間は 僕対クラス全員+担任という形で行われるようになり 次第にクラスから浮いて 高校をやめる決心をして 母と中学校の恩師に引き留められた。で 高校はやめなかったが部落研をやめた。そのとき恩師は パパとその親友(ムラの子)一人を夏山登山に誘って(このへんは「ゆるさんど会」のご専門?)中友の荒れている子たちの勉強をみるよう彼に言いつけた。その子らに最初は無視され続けたが諦めずに通っているうちとうとう心を開いてくれた。彼はそれによって自分らしさを失わずにすんだ。一方 母は「おまえ今頃何言うてるの。そんなことを言うのは最初からわかっていたことやんか」と彼に厳しく こちらも慰めを期待していたのが目が醒めた。
 20年前の話でしたが・・・。 


おかあさんの動物嫌い 投稿者:  投稿日: 1月13日

ワタシのまわりでは「自分の親に対する見方が変わったなあ」とみなが口にしていたので おかあさんについて考えるようになりました。
 ワタシは小動物が飼いたくて 動物嫌いのおかあさんとことごとく衝突してきたのだけれど おかあさんが小学生時代 学校命令でクラスで一人ウサギを飼わされていたことを知りました。選考基準は成績。9人きょうだいの真ん中のおかあさんはウサギを連れて帰るなり「そんなもんに食わす金がどこにある」と父に殴られたそうです。だから雨の日も風の日も下校したらまず餌のはこべを摘みに行く日々が何年も続いたとか。
 その話を聞いて むしろ当時の児童の生活面を把握する発想のない先生や 成績が評価基準のすべてみたいな学校に憤ったので 話はちょっとずれるかもしれませんが 一度聞いたら忘れられない話でした。 
 そういうことです(?)

RE:おやじは黙秘  投稿者:  投稿日: 1月11日

Yさんのおやじ論をきいて父親について考えた・・・。

 僕のおやじは最近元気がない。ちいさいころはおやじは
いそがしくて僕はかまってもらえなかった。(いや、そん
な気がしてただけかもね・・・。)だからじゃないが、お
やじを僕はあんまり好きになれなかったよ。
 そんな僕を折をみて親はよく仕事場に連れて行ってくれ
た。職場で働く両親はカッコよかったなぁ・・・。全然家
ではゴロンのおやじも颯爽としていて、すこしほれました。
そのころかな、おやじがなんとか組合の委員長までのぼり
つめたのは。
 おやじのこれまでの運動に興味を持ったのもこのころ。
おやじが遅く帰ってきても、解放運動や、労働運動の話を
聴かせてもらったなぁ・・・。全然意味わからなかったけ
ど、なんか嬉しかった、ただ嬉しかった・・・。
会社で死ぬほど疲れて帰ってきているくせに、嬉しそうに
俺に話すんだぁ。
俺もずっと聴いていたかった・・・。できればあの時のま
まずっと・・・。
でも、最近おやじは元気がない。

 今度は僕がおやじに話をきいてもらおう、今僕がなにを
思っているのかを、ひとつひとつ。


おやじは黙秘 投稿者:  投稿日: 1月11日

解放運動の一家は案外、父親が息子と「運動を語る」機会はないから期待しないほうがいい。
黙して語らずが父子関係で、おやじが好きな息子は社会心理学の統計でも数字は低い、息子はおかあちゃんの取り込み勝利(じょーだん、これっ)親が深刻に悩むほど息子は「部落問題」を尋ねない。僕の経験だと部落外から嫁いだ運動派のお母ちゃんはこの語る「気負い」がしっかりしていて
子どもへの準備万端なんだけどこどもは「スカ」みたいに大きくなって「ん?」てことが多い。
まあ、僕の体験なんだけど。結婚のときぐらいかな、これも恐らく。すべては万が一。部落差別について家庭で語る「むら」の家族はなんだか嘘くさいな、じっさいは親子ではあんまりね。親が差別に敏感であることだけが大切みたい。(余談ね)



2001年04月06日(金) 出身者宣言

ぼくが部落研に入った直接のきっかけは、あの「部落問題論」のグループ討論で、自ら出身者宣言をしたことでした。全く、これまでの高校でと同じようなあのイヤなふん囲気の中で、ひとり、しんけんに司会をしてくれていた○○ちゃんの姿に打たれたのでした。そのあとは、部落研の人がたくさん来てくれて、「例会に来いや」とさそわれて、何が何かわからないまま、ただぼくの求めていた人たちがそこにいると思って顔をだすようになった。入ったばかりのぼくは、みんなにちやほやされていい気になっていたし、また、みんなすばらしい人たちなんだなと感心していた。特に同級生で部落問題を語れるというのは非常に魅力で、これまでにない生涯の友人たちを確信するのだった。 1年ぐらいたって、今のように自分の考えを整理しようとしたり、また新しい一回生にいちおう先輩として話をするときに最も思ったことは、やはり自分のエリート意識というか、自分は正しい考えをもって誰にも左右されずに生きる、生きられるんだという考えがひとりよがりなのを知った。1年たってふり返ってみたとき、もし部落研に入ってなかったら、何もせずに差別から逃げていたと思う。そして、今はそれが一番ただしいんだと自分で納得していただろう。それが、部落研に入って、自分の考えをみんなの前にだして、相互に批判しあってはじめて、何が正しいのかがわかる、ということがわかった。また、それによって、部落研やっているみんなはすばらしい人たちというのがますます強くなっていった。 例えば、朝ビラの方針がだされたとき、その必要性はわかるつもりだったが、常にぼくは「なにもみんなでやることはない。分担してやればいい」と思ってきた。すばらしい部落研のみんなに必要以上につかれてほしくなかった。つかれて部落研がいやになるのが恐かった。みんないい人ばっかりで、一生けん命部落研やってくれているからまあいいじゃないかという気持ちが非常にあった。そして、その一方で、部落研という組織に対しては、もっともっと活動せなあかんと、具体的なところはわからずに、そう思っていた。つまり、個人には信頼をおいて、徳を感じて、まあまあいいじゃないかという感じで、組織に対しては何をやっているのかよくわからずに、もっといっぱい活動せなあかんと強く主張していた。2年ぐらいたって、 そしたらなぜ、「部落出身者以外の人が部落研活動をつづけられるんだろう」と考えたとき、部落研という組織がみえてきたようだった。常にしんどい子の立場に立ち、自己のとりくみを科学的にふり返るという原則があって、それを忠実に実行する組織だからこそ、みんなこんなにすばらしい人たちになっていけるのだと思いつつある。そのような下ではじめて、個人はいままでになかった自分を見つけ、また、規律や自由は生まれてくるのではと思う。 多くの先輩たちが口にする「部落研には世話になった」の意味が、わかってきたような気がする。(1984/5/5) 

2001年06月19日(火) 「出身者は 近道にいるだけ」

 
大学部落研に入部したての頃は
「部落問題はみんなの問題。出身者はその近道にいるだけ」
という言葉に救われていたのを思い出します。
 そう繰り返し発言していたのは 何とワタシと同じ新入生女子でした。
まだ 信頼関係も何もできていない時期に 彼女に
「なぜ部落研に入ったの」と 尋ねたことがありました。
「高校生の時に 親友のA子が差別発言を受けて・・・」と
彼女は端折って話していました。
 もう少したって 彼女が 支部の高校生たちを前に 自分のことを話しているのを聞く機会がありました。

「なぜ部落研をやっているの?」という問いかけに対し
「出身者だから」というのは答えになりません。
出身者でも部落研をやらない人はたくさんいます。
差別体験のない自分も 親友のことがあるまでは 
「解放運動がんばろう」とは思えませんでした(どこにでもいる高校生でした)。
それが 親友のために
「解放運動がんばろう」に変わりました(それも どこにでもいる高校生でした)。 
この話を聞くまで ワタシなど 彼女が出身者だと全く気づきませんでした。

2001年08月13日(月) 「アウシュビッツのことが あるからでしょう」

8月が来るたびに 平和憲法問題を扱う法学部自治会と 武器・兵器の問題を扱う平和問題サークルと一緒に 共闘を組んで 学内で平和の学習会を持ちました。部落問題に足を突っ込んだワタシも 戦争=最大の差別の観点から その学習会を任されたことがあります。
 その時 学習会の下準備で 暑い夏の前半がつぶれることや 学習会の手ほどきを 前任者から 涼しい喫茶店で冷たい飲み物を飲みながら受けることや その時 手渡された山積みの参考文献などが マイナスのエネルギーとして ワタシの肩には のしかかりました。そして
「部落差別に取り組むワタシが なぜ こんなことまでしなければならないのか」とワタシはいったん 学習会をなげました。その時 前任者のかけた言葉が
「アウシュビッツのことが あるからでしょう」
 でした。差別意識を煽ることにより 侵略戦争が強行されてたことは ナチスによるアウシュビッツのユダヤ人虐殺や 日本兵による南京大虐殺などに象徴される事実でした。
 ワタシは「人間」を中心に据えた 戦争の残虐性の実態を伝えていくという原点に立ち返りました。
 実際の学習会は 緊張して さんさんたる結果に終わりましたが その時 辛辣な意見を述べた学生が 感想カードで 最も印象に残ったものとして ワタシが提供した資料を上げていたのを あとになって知り やってよかったと思いました。

2001年04月01日(日) ミキ・ママの原点2001

 怪獣ダブルっち(胎児)の姿がモニターに映るのを見てからというもの 部落問題について考えない日はなくなりましたが 身近にいる部落出身者の夫、義父母にはよう尋ねず 上記のサイトにいつもお世話になりに行くのが現実です。ダブルっちとは 部落問題を正面から語り合う関係を築くことが今のミキ・ママの理想です(2001)


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