2001年06月26日(火) |
日々雑感:シングルモルトの夜 |
思えば、アードベッグとの印象的な出会いは、3年前のことだった。私はたちまちにして彼のユニークな個性と少々とっつきにくいが慣れると味わい深い性格に魅了されてしまった。
などと書き出すと、事情を知らない方はどこぞ外国で友人か恋人でも作ってきたかと思われるかもしれないが、彼は、ウィスキーである。
今を遡ること3年前、お世話になった検事に赤坂の会員制のクラブに連れて行ってもらったときのことだ。検事の古い馴染みのマスターが、「滅多に日本では手に入らないのですが」といって勧めてくれたのがこのシングルモルトウィスキーだ。少々枯れた風情の(少々というのも控えめすぎるのだが)その会員制のクラブには、彼の個性は合っていたのかもしれない。私はチェイサー(つまるところ、ただの水である)を何杯もお代わりし、2杯目を飲み終わるころにはすっかり虜になっていた。マスターはそんな私の満足げな表情を見て、初対面であるにもかかわらず、少し残っていた彼を、壜ごと私にプレゼントしてくれた。惜しむように少しずつ飲んでいたが、やがて蒸発でもするかのように私の喉を焦がして彼はこの異境の地の青年の身体に消えていった。決して消えることのない痕跡を残して。
最近では、マイナーだったIslays(アイラ、と発音する)のシングルモルトウィスキーが日本でも手に入るようになってきた。私がよく行く神楽坂のバーにはアードベッグとラガヴリンが置いてある。というか、これが目当てで通っているのだ。
時には独りでも行く。無駄に会話をしなくてすむのがいいところだ。きっかり二杯、アードベッグとラガヴリンをストレートで舐めながら、読書をし、モノ書きをする。至福である。このくらいの男のロマンチシズムは許してほしい。
村上春樹「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(平凡社)には、アイラ島巡礼の旅が記されている。彼がシングルモルト派であったとはついぞ知らなかったのだが、そこには次のような記載がある。
「ここで飲み比べたアイラ・ウィスキーを味に癖のある順に並べてみると、だいたい次のようになる。
①アードベッグ ②ラガヴリン ③ラフロイグ ④カリラ ⑤ボウモア ⑥ブルイックラディー ⑦ブナハーブン
最初の方がいかにも土臭く、それからだんだんとまろやかに、香りがやさしくなってくる。ボウモアがちょうど真ん中あたりで、ほどよくバランスがとれていて、いわば<分水嶺>といったところだ。」
我らがアードベッグは栄えある一位を獲得している。勿論、個性的という順位であるが。そして、私はこのうち①②③⑤を飲んだことがあるが、その限りではこのランキングはまず間違っていないと思われる。
私は①と並んで②が大好きだ。ラガヴリンには馥郁たる香りの中に、かすかではあるが甘みに近い「なにか」がある。その何かを突き詰めようとすれば、また、杯を傾けなくてはならない。さても、酒は人類の敵だ。しかし、聖書は汝の敵を愛せよと教えている。
さて、こんなことをつらつら書いているのも実は理由がある。 先週末に、ついにアードベッグ(10年)を購入したのだ。 後はご想像どおり。
今、私は彼とともに一夜を過ごしている。 BGMはエラ・フィッツジェラルド、つまみはリッツ・クラッカーだ。 なぜ、こんなことをしているかって?決まっているじゃないか。 物語でもなければやっていけない男のささやかな逃避行さ。
さて、飲み干したら、しばし眠るとしよう。
2001年06月18日(月) |
日々雑感:株主総会リハーサルを巡って |
入梅すると、世の中は株主総会の季節になり、弁護士は、上場企業等の定時株主総会のために駆り出される。私も例に漏れず、明日、株主総会のリハーサルの演出を行う。今日はその準備でかなりの時間を費やした。
株主総会で、株主から聞かれたことに的確に対処するために、前もって準備をしておくのは上場会社においては常識である。弁護士は、このリハーサルで、一般の株主の考えるような質問ばかりではなく、総会屋がやるような嫌がらせに近い荒れた総会を演出する。
すなわち、 (1)恫喝したり、 (2)嫌がらせに近い議案の修正動議を提出したり、 (3)手続論や法律論で議事進行を混乱させたり、 (4)法律的に難しい論点をついて議長の采配を妨害したり、 (5)インテリヤクザばりに会計処理の曖昧な点について鋭く分析をして矢継ぎ早に質問したり、 (6)業績を分析し、多角的に経営の弱い部分をついて、取締役の責任を追及したりなど、凡そ総会屋がやるような手口で、問答及び議事のリハーサルを一通り行う。これが弁護士の期待される役割である。
議長を務める社長を初めとした経営陣及びそれを支えるスタッフに、これらの質問と「荒れる」総会を経験させる事で、定時総会の十分な準備をさせるのが目的である。
この準備を事前に十分行う事で、一般株主に対して会社側で十分な回答をする以外にも、巧みに取り入って利益の供与を受けようとする総会屋に付け入る隙を与えないようにすることができる。総会屋の跳梁跋扈が目立たなくなったのは最近のことであり、未だその危険は完全には去っていない。古い体質の企業では、完全に拭い去れないのか、時折、利益供与などの総会屋との癒着が報道されている。
勿論当日も弁護士が参加し、全面的なバックアップを行う。その場での適切な対処法を助言するためである。このように弁護士が総会の運営に携われば、彼らに対して付け入る隙を与えずに、合法的かつ的確な株主総会運営を行うことが出来る。
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明日は、声を嗄らして恫喝をするのである。 上場企業の社長を怒鳴りつける体験など、めったにできるものではないが、思うより体力を消耗するものだ。すでに3回目なので、緊張するはずもないが、やはり気疲れはする。
窓の外の空は暗い。深夜のオフィスの灯りもそろそろ届かない時間だ。 そろそろ睡眠をとるべきだろう。
アゴタクリストフを巡る二重化の議論(仮説)は、また今度に。
2001年06月13日(水) |
日々雑感:言葉を人質にとられるということ |
時折訪問させて頂いている日記の中で、このような文章に出会った。
「誰にも言葉を人質にとられていないころの生活をなぞる。 そうやって僕は物語を描いてきたのだ。」
心の中のどこかの部分が軽く揺れ、そしてその揺れは静かにおさまった。 私はしばらく、その揺れの原因が判らないでいた。
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我々弁護士は、作家と同じく、自らの言葉を商売道具にしている。
弁護士の言葉は、慎重で時間のかかる調査、地道な法的検討、他の弁護士との議論を経て、より正確で誤解のない文章を練って、初めて外部に出せるものとなる。外部に出された言葉には言い訳が出来ない。弁護士によって書かれたメモランダムや意見書は一人歩きするようになる。そして、その意見を出した弁護士にその全責任が帰することになるのだ。
この意味で、言葉は弁護士である自分自身を縛る鉄鎖の如きものである。 その事について何ら異議はない。
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私は、感性の言葉と、論理の言葉を使い分けているけれど、そのいずれも同じである。全責任は自分自身にある。
だからこそ、いずれの言葉についても、「人質」には取られたくはない。 責任はきっちり取る。だからこそ、言葉を発することを妨げるのは、許さない。 それがたとえ、どんな逆境を呼び寄せることになったとしても。
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しばらく考えて、その「揺れ」の原因は、ここにあると思った。
最初に引用した日記の作者は、新人作家ということである。 日記の中でさえ、よく選ばれた言葉で語られていて、文章を削る事を知っているプロの文章であると判る。 私は彼の本はまだ読んでいないけれど、彼の文章のひそかなファンなのである。
リンクを直接はるのは、憚られるので、よければそっと足音を忍ばせて訪れてみてほしい。(この日記の置かれているEnpituの文芸ジャンルをご参照のこと)
2001年06月12日(火) |
日々雑感:ケニー・バレルを聞きながら |
故あって、深夜作業。
すでに夜の3時であるが、契約書のドラフティングに没頭している。 考え考え、英文をがりがりと書き、書いては直す。 時にコンセプトをチェックするために立ち止まる。 考える。そして再び手を入れる。この繰り返し。
ちょっと一休みしてこの文章を書いている。 法律の世界と、日記とを行ったり来たりである。
立ち上がって、窓際に向かう。窓際には、ステレオセットがある。 オフィスは個室なので、持ち込むことは自由だ。 これは留学に行かれた先輩弁護士の置き土産である。
やや迷ってから、ケニー・バレルを低めの音量で流す。 ”Midnight Blue"がスピーカーから流れ出す。 この時間が結構好きだ。
さてと、仕事に戻るか。
2001年06月11日(月) |
書評:アゴタ・クリストフ「悪童日記」を読む。 |
私は必要に迫られたときしか、著者のバックグラウンドとその著書を結び付けたりしないようにしている。その必要がある場合でも、頭の中で文章と背景とを結びつける動きを極力牽制する。それを強いられるときには、排除することもある。すなわち、読むのを止めてしまうのだ。
だが、この「悪童日記」は、歴史上の背景と照応させずには読むことが出来ない。
著者は、敢えて「大きな街」から「小さな街」に疎開してきた「ぼくら」という仮称を用いてこの物語を組み立てている。名前を奪われた役割だけの人々、容易に特定できるために、敢えて抽象化された二つの「街」。ぼくらを含む「小さな街」の人々に刻み込まれた「戦争」の影。悲惨さの中にあって楽天的でドライな「ぼくら」の行動。それでも、場所はハンガリーだし、「戦争」は第二次世界大戦で、連行される人々と、自分の仕事道具で殺される人々、お金で「従姉妹」の地位を買う登場人物からは、ホロコーストのイメージは拭い去れない。
「悪童日記」というのは邦題で、原題は“Le Grand Cahier”、すなわち大きなノートである。物語中に、このノートについて、2回の言及がある。1度目は、ノート等の文具を文房具店の店主に「要求」(要求という以外に彼らのあの行為を巧く表現できまい)しに行くシーン。2度目は、刑事に屋根裏を探られるシーン。ここでは、「全てが記してある大きなノート」との簡潔な記載しかない。ただ、その語り口は、そのノートの記載という設定から逸脱している。語り手が誰なのか、ということについて、著者の計算がなされているのかは不明である。後半にかけては破綻しているとも読めるからだ。もっともその破綻は気にならない。透徹する視線、乾いたユーモアは、語り手が誰であるかなど忘れさせる魅力を持っている。
もっとも面白いのは、「ぼくら」とは一体何か?という問いである。この問いは不可避である。不可避ではあるが、読者にはこの問いの答えは自明である。既に自明の事実として物語られているのだ。しかし、そこに潜むより深い意図は、一筋縄ではいかない。主体は双子の二人であるはずなのに、別個の主体であるという認識は無く、二人で一人の人間を構成している。この描写が秀逸だ。「一方が…する。もう一方が…する。」などの書き方をするのだが、ここでは、二人のうちどちらがある行為を行ったのか、全く明らかにされない。
問題は、なぜ、著者が二人で一人の人間を主体として選択したか、である。 フランツ・カフカの小説には、二人一組の「道化」の役割をする登場人物が頻繁に顔を出すことはよく知られている。村上春樹の小説では、双子又は精神的双子のイメージが繰り返される。このあたりは、蓮実重彦の「小説から遠く離れて」に詳しい。蓮実重彦は、双子のイメージが頻出すること、いわゆる定型の物語が、様々な現代の小説に繰り返されることを指摘し、そして、その謎をくくり出すが、それを分析する事を敢えてしない。
長くなったので、なぜ、この小説においてアゴタ・クリストフが二重化された主体をこの小説の主人公とすることを選択したのかという謎については、次回で解説することにしたい。
2001年06月04日(月) |
書評:ハヤカワepi文庫シリーズ |
日曜の夜、(というか月曜の朝)眠りにつくことが出来ず、買ってきたばかりの早川EPI文庫に手を出す。
ハヤカワEPI文庫は、創刊したばかりで、第1回配本だそうだが、ラインナップがスゴイ。表題にあるアゴタ・クリストフ「悪童日記」、カズオ・イシグロ「日の名残り」の外、ボリス・ヴィアン「心臓抜き」、グレアム・グリーン「第三の男」、コーマック・マッカーシー「すべての美しい馬」がズラリと並ぶ。私の趣味を見透かしたかのようだ(笑)。
早速、アゴタ・クリストフ「悪童日記」、カズオ・イシグロ「日の名残り」、ボリス・ヴィアン「心臓抜き」の3冊を購入。ボリス・ヴィアンの「心臓抜き」は既に一度読んでいるが、他の2冊は初めてだ。
眠れぬ夜に、上記掲題の2冊を矢継ぎ早に読んでしまう。 読み終わるのがもったいないと思わせる書物はそうそうないが、いずれもあたり。 書評を書くのは、今は時間がないので、次回に。
なお、EPIという聞きなれない言葉は何か?という当然の疑問には次のハヤカワのHPの公式見解を。
*epiとは……21世紀の若い読者に海外小説のおもしろさを伝える発信源(epicentre)になろうという思いをこめてつけられた名称です。
備忘録:6月末、文学界新人賞の〆切。
恐らく今回も横目で見ながら過ぎ去るのだろう。 満足行くものができるまで、どうせ応募することすらできない。
備忘録:TOEFLの試験迫る。
パスポートを持っていくことを忘れないこと。
備忘録: 待機状態の書籍: 島田雅彦「彼岸先生」 スラヴォイ・ジジェク「幻想の感染」 同「脆弱なる絶対」 奥野善彦「会社再建」
身辺雑記:Allure、使い切る。
同じものを購入したはいいが、明らかに香りが違う。 おそらく、空気に触れる時間が長ければ、香りも変化して熟成していくだろうと納得する。 香水もワインと同じか。
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