無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年11月25日(土) いじめを楽しむ人々/映画『アジアンタムブルー』

> いじめた生徒は出席停止に…教育再生会議が緊急提言へ
> http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061125-00000006-yom-pol

> 学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固めた。
> 都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。(後略)

> (読売新聞) - 11月25日14時41分更新


 記事の見出しだけ見てるとねー、いかにもちゃんといじめ対策を取ってますよ、と言いたげなんだけれども、ウラを返せば、これまで、いじめた子どもを出席停止にもせずに放置してたってことなんだよねー。

 一応、説教くらいはしたと思うよ?
 あるいは担任教師がクラス全体に向かって「いじめられた子どもの気持ちを考えよう」とか演説ぶったりとか、学年集会や全校集会を開いて「命の大切さ」を訴えたりとか。
 でも、そんなことをこれまでいくらやっても効果がなかったんじゃないの?
 どうしてこれまで、いろんな対策を取ってきて、お偉いさんや識者のみなさんも様々な提言を繰り返してきたのに、いじめがなくならないどころか陰湿化・深刻化してしまったのかって、根幹的な部分を考えないと、どんな対策だって所詮は管理する人間側の「気休め」にしかならないんだけどねー。

 私も、小学生のころ、クラスの不良にかなりいじめられてさ、そのことをセンセイに訴えて、「いじめはやめよう」ってクラスで言ってもらいはしたんだけれど、その直後から「てめえ、チクんなよ」っていじめられたよ。
 いじめる人間ってのはそれが悪いことだって認識自体が欠落してるんだから、説教で何とかなるんだったら、最初からそんなのやってないっつーの。

 通り一遍の答申や機能するかどうかも分からない委員会を発足させたって、所詮それはただの世間サマに対するタテマエで、文科省とか政府が、いじめ問題に本気で取り組むつもりなんてないことは、先からハッキリしている。
 それは、いじめ自殺を助長したのが、当の文科大臣だってことに全く言及していない、責任を追及してないってことからもよく分かるのだ。

 ほら、あの例の「いじめられてるので何月何日に自殺します」って投書を公開して、呼びかけたやつね。
 文科省は「信憑性が高い」とか何とか言ってたけど、結局当日は何にも起こらず、その予告日の翌日から自殺が流行し始めたんだよねえ。
 んな、イタズラだって一発で分かるものに引っかかっちゃったんだよねえ、一国の大臣ともあろうものが……。
 誰か、「うかうかとこんな愉快犯に乗せられちゃいけません」って止めるやつぁ、文科省にはいなかったのか。

 「でも、万が一、本当に自殺を考えている子供がいたら」
 そう心配する心理は確かに理解できるんだよね。
 もしもこの件を放置しておいて、実際に生徒が自殺するようなことがあったら、取替えしがつかない。だから何か対策を取らなければ、と考える。
 確かに、ここまではいいのだ。
 けれど、だからって、焦ってあんな「全国の子どもたちへのメッセージ」なんてことやらかして、問題を拡大させちゃダメなんだよ。

 文科大臣は、あの時、取ってはいけない最悪の手段を取った。
 あれは決してテレビで公開するなんてことはせずに、秘密裏に調査を続けるべきだったのだ。
 本当にいじめで苦しんでいる子供がいたとしても、文科大臣に投書するくらいだ。状況は最悪だと想定すべきである。もう、親も教師も友達も当てにならない、そこまで追いつめられていると。
 それを短絡的に「死ぬな」とか「周りの大人に相談して」とか言ったって、いじめられた子どもにしてみれば、「それができりゃとっくにそうしてる!」と叫ぶしかないんじゃないか。
 センセイの管理能力なんて、たかが知れている。
 目の届かないところで陰湿ないじめが繰り返されることは間違いない。


 あの会見は、いくつもの間違いを犯したが、主だったものは次の三つだ。

 1.いじめる子どもに対して、「大人はこの程度の対策しか取れない」と判断させてしまったこと。
 「隠れていくらでもいじめはできるよ」と教えてしまったことになる。

 2.イタズラ好きな連中に、世間を騒がせる手段を教えてしまったこと。
 実際に、イタズラを行ったやつが逮捕されている。多分、小規模で報道されていないイタズラはかなりな数に上るだろう。愉快犯を増大させる危険を、あの大臣は考えていなかったのか?

 3.実際にいじめられている子供たちに、絶望感を与えてしまったこと。
 1.の裏返しだね。「大人には自分を助けてくれる能力がないのだ。文科大臣ですらも」ということを全国的に表明してしまった。これで自殺者が出ないはずがない。

 文科大臣は、自分が「いいこと」をしたつもりか分からないが、いじめ事件はそれこそケース・バイ・ケースなので、対処するには細心の注意が必要だ。
 それなのに、あんな大雑把なことをやられてしまっては、状況が悪化するのは目に見えているし、実際に悪化してしまった。
 この責任は誰が取る?
 けれども、大臣や文科省に対して、「あんたらが余計なお世話を焼いたせいだ」と追及する人間は誰もいない。
 あの「責任追及大好き」なマスコミですら、だんまりを決め込んでいるのである。

 表面的には「イイコト」をしているように見える連中に対しては、その矛盾を突くということを日本のマスコミは歴史上を殆どやってこなかった。
 マスコミもまた、日本の教育を本気で憂えているのなら、あんな鈍感でデリカシーのない馬鹿大臣を叩いたってよかったはずだ。
 それを一切しようとしなかったのは、なぜなのか。

 理由は語るまでもないよねえ。
 マスコミの誰も、本気で「いじめがなくなる」なんて考えてもいないからだ。
 それどころか「いじめがなくなっちゃ記事が書けなくなるから困る」と本音じゃ思っているフシすらある。

 いじめ対策なんて本当は取りようがない、そのことはもう一般人もみんな熟知している。
 いじめた子どもを出席停止にする、あるいはそんなのは生ぬるいから退学処分にする、それで本当に歯止めができるのか疑問だ。
 いじめの構造がそのクラスにまだ残っていた場合、今度はまた別の誰かがいじめる側に回る、それが「社会」の構造だということを、我々は本当は知っているのだ。
 そのことからどうして目を背けて、みんな、キレイゴトだけを並べるのか?

 「社会」というものは基本的に「タテ」の関係を作ることによってのみ維持される。
 「平等社会」と言っても、それはスタートラインの立場が平等であるべきだと謳っているだけで、現実としては上下関係のない社会はありえない。
 その「上下関係」は、必然的に「いじめ」を生むようになっているのだ。
 仕事の命令を上司が部下に命じるのはいじめじゃないじゃないか、と仰る向きもあろう。しかしそれは社会がそれをいじめと認定していないだけで、構造的にはいじめ関係と何ら変わりはないのである。
 もしも上司が「無理難題」を部下に押し付け、それを部下が「苦痛」に感じれば、これは立派ないじめになる。
 要するにいじめは、加害者と被害者の心理的な問題だということだ。

 ある集団が組織的に行動しようとする時、そこには自然発生的に上下関係が生まれる。
 誰がリーダーとなり、誰が下っ端になるか、そこには様々な要因が存在するが、上に立つものと下に位置するものとの間で心理的な葛藤が存在しなければ、この関係はうまく行く。
 しかし、ここに少しでもズレが生じれば、この関係は全て「いじめ関係」に転換されるのだ。

 ちょっと考えればすぐに分かる。
 ズレが生じない人間関係なんてありえない。
 だから、程度の差はあれ、いじめがなくなることだって決してない。

 ほんの些細な軽口が人を傷つけ、死に追いやることだってある。
 「がんばれ」という激励の言葉だって苦痛に感じる人間がいる。
 「言葉遣いに気をつけよう」なんてスローガンを平気で口にできる人間はかえって言葉の恐ろしさを少しも知ってはいない。
 私のこの文章を読んで自殺をする人間がいるかもしれない。それくらい、言葉というものは凶器なのだ。
 人を殺す可能性があることを知ってもなお、発言しなければならないという覚悟がなければ、本来言葉などというものは一言も発せられるものではないのだ。

 あの文科大臣に果たしてそこまでの覚悟があったと言えるだろうか。
 私が伊吹文明を史上最低の文科大臣と判断するのは、その一点があるからである。

 「死ぬやつぁ勝手に死なせとけ」という言葉を乱暴だと感じる人間もいるだろう。
 けれども、言葉が凶器であるという前提に立つなら、相手が凶器を持っているのに全く無防備でいるというのは、防御を講じようとしない側にも責任があるということにはならないだろうか?(だから「いじめられる側にも問題がある」という主張を、単純に「いじめる側に立った立場の発言だ」と一蹴してはならないのである)

 実際には前述したようにいじめ事件はケース・バイ・ケースで、全てを一律に語ることはできない。
 だから、全てを一律に済まそうとする「会見」とか「委員会の発足」とかが、ことなかれ主義の表面的な対処に過ぎず、実効力を全く伴っていないことは明白なのである。

 いじめ事件の問題点は、例えてみれば、「電車の中でヤクザに絡まれている人を見たらどうするか」という問題と深く関わっている。
 そもそもヤクザがいなけりゃいい、という考え方は無駄である。
 実際にヤクザはそこにいるし、被害者もそこにいるのだから。

 そんなとき、周囲の人間はどうするか?
 一人で対処するのが困難だとしても、何人かがその場にいたら、みんなで相談して何とかする、という手も使えるだろう。
 けれども、その場に出くわしたのがあなた一人だったら?

 居眠りを決め込むか、それとも、勇気を奮い起こしてヤクザに向かって「やめろ」と言うか。
 私は別にあなたを責めはしない。あなたと同じく、私もだんまりを決め込むだろうから。

 いじめが放置されやすい点はここにある。
 みんな、「いざと言う時が来ても、誰も自分を助けてくれない」ことを知っている。大半の人間は卑劣なのだ。
 「誰かに助けを求めなさい」とアドバイスしても、助けが来なければ絶望は弥増すだけのことで、現実として、助けは本当に来ない場合の方が多い。
 ならば、「誰かに助けを求めて」という優しげだけれども実効力の少ない形だけのスローガンよりも、「自分の身は自分で守れ」という非情な言葉の方が、まだ突発的な事態に対処する準備を予め与えることにならないか。

 いや、かつてはそういう厳しい言葉の方が多かったからこそ、いじめる人間だって、相手には対抗する力があることを知っていたのだ。罵倒語は、いじめや暴力の抑止力としての効果もあったのだ。
 それを単純に「人を傷つける言葉を規制すれば差別やいじめはなくなる」と判断したことがいかに愚かであったか。それは机上の空論であって、ストレートな暴力を呼び込みやすくするという、全く逆の効果を生んでしまっている。

 「死ぬやつぁ死なせろ」も、いざというときに自分を助けてくれる人間はいないという覚悟をしていなければならないという戒めとしての効果があったのではないか。

 優しげな言葉の氾濫は、かえっていじめの陰湿化を助長し、いじめられる人間の免疫力を低下させた。
 そのことを指摘する識者も数多いのに、誰も言葉の規制に歯止めをかけようとはしない。
 だからこう結論付けるしかなくなるのである。

 社会の自然発生的な要求として、現在のいじめ自殺は容認されていると。

 「バカ」だの「ブス」だの、「そんな人を傷つける言葉は使っちゃいけません」という教育はすっかり浸透してしまっている。
 そのために、かつてはたいした罵倒語でもなかったそれらの言葉は、かえって凶器としての鋭さを増してしまった。そしてそれらの言葉が、人を死に追いやっている。

 その責任の所在はどこにあるか。
 それは「人を傷つけてはならない」と考えている「優しい人々」全てであるという、逆説的な真実なのである。
 もちろん、私も日常生活の中では、その一人だ。だって、普段からこんな「無責任賛歌」みたいなことを口にしてたら、「いじめられる側」に回されちゃうじゃないですか(笑)。

 私はこの日記のほかにもいくつかのSNSに入っているが、そこではかなり気をつけて言葉を選んでいる。リアルで会う人も多いから。
 でも油断はできない。先日、「それはあなたの被害妄想だ」と書いたら、「そんなひどいことを言うなんて!」と、そこに集ってた人みんなから総スカンを食らってしまった。

 わあ、「被害妄想」なんて日常語ももうダメか。
 で、次は「思い込み」と言い変えたら、やっぱり逆ギレされた。
 言葉はもう、今はこれくらい先鋭化されてしまっているし、人間はここまで脆弱になってしまっているのである。
 その脆弱さを逆に武器にして「弱い者いじめをするな」と徒党を組んで主張するのは、本来は異常なの事態なのではないか。
 いじめに負けない強い心を持つ方が先決であると思わないのだろうか?

 もう、「傷つくやつぁ、勝手に傷つけ」としか言いようがない。

 罵詈雑言を屈託なく言い合える間柄の方が、本当は言葉で傷つけられることもなく、幸せなのだが、そんな人間関係を、「優しい人々」はみんなでよってたかって崩壊させてしまったのである。
 ここまで全国規模で、「悪口文化」が破壊されてしまったあとでは、これを元に戻すことはもう不可能だろう。

 だからいじめはもうなくならない。

 まだ放置しておいた方が、いじめる方もそのうち飽きるかもしれないし、卒業するまでのガマンだから諦める、という状況にまで悪化してしまっている。
 ヤクザに絡まれても誰も助けてくれないことを、覚悟しておくしかないのである。
 



 昼から、阿部寛の舞台挨拶があると言うので、キャナルシティまで映画『アジアンタムブルーを見に行く。

 『アジアンタムブルー』  
 > (2006角川ヘラルド映画)110分
 > 監督 藤田明二/脚本 神山由美子/原作 大崎善生
 > 出演 阿部寛 松下奈緒 小島聖 佐々木蔵之介 村田雄浩 小日向文世 高島礼子

 > 成人男性向け雑誌の編集者・山崎隆二は、水たまりばかり撮影しているカメラマン志望の葉子と出会う。
 > 風俗の世界に身を置き、友人の妻と浮気を繰り返す自分に絶望しきっていた隆二は、不遇にあっても汚れを知らない葉子に惹かれていく。
 > 間もなく2人は同棲を始めるが、幸せな日々は長く続かなかった。
 > 葉子の身体を、病魔が蝕んでいた。
 > 余命1ヶ月…。
 > 隆二はすべてを捨て、葉子が憧れる地、仏・ニースへと2人で旅立つ決意をする。

 > 大崎善生の同名小説を映画化。“アジアンタム”とは、シダ科の観葉植物。
 > ハート型の葉が特徴。一度その葉が茶色くなり始めると手の施しようがなく、ただ枯れていくのを見守るしかない。
 > その心境を“アジアンタムブルー”と言い、ごくまれに再び青い葉を茂らせることがあるという。
 > 自分が汚れた人間だと悟っている主人公、薄幸な人生を送ってきたため満ち足りることを知っているヒロイン、美しいニースの海と街並みの静謐と、すべてがオトナ向けの味付け。
 > 乾いた土が水を吸い込むように、透明だけど耽美なだけじゃない、ビターな世界観が心にしみわたる。
 > 昨今ブームの甘口な“純愛難病モノ”とは一線を画す作品である。

 別にたいして一線は画してないと思うが。
 甘口じゃないってことは辛口ドラマだとでも言いたいのだろうか。どのへんが辛口?
 主人公の隆二(阿部寛)がSMエロ雑誌の編集者だってこと? 親友の奥さんと不倫してるから?
 でも、それは全てヒロイン葉子(松下奈緒)の純情さ、無垢さを反作用的に強調する装置として働いているから、結果的に隆二は傷ついた心を葉子に癒されることになる(ぷぷぷ)という甘ったるい展開になっちゅうんだよねー。

 なんたって、隆二は、ガンに侵された葉子と最後の思い出を作るために、彼女がポスターで見たことがあっただけのニースに行っちゃうんだから! 退職金はたいて! で、そこでお姫様抱っこなんかしちゃうんだから!
 彼女は彼女で、「私が死んでも、次のひとに私にしてくれたみたいに優しくしてあげてね」なんて言っちゃうんだから!
 ちょっと想像してほしいんだけれど、これが阿部寛と松下奈緒じゃなくて、角野卓三と泉ピン子のカップルで、「死ぬ前に別府温泉に行きたいわ」とピン子が言ってたとしたら、ドラマになるか?(別の意味で面白いドラマにはなろうが)
 私も仮に女房から「死ぬ前にエーゲ海が見たいわ」とか言われたら実際に連れて行くかもしれないが、世界で一番エーゲ海が似合わないカップルがそこに現れることは論を俟たないであろうと思う。

 キャスティングの時点で、従来の甘口“純愛難病モノ”と何の差別化も図れないと分かりそうなものだろうけれど、宣伝マンもつらいとこなんだろうねえ、売りのない映画をアピールするのは。

 そもそも、「アジアンタム」という「味付け」自体が甘いと言うか、死を何かに例える作業自体が浪漫主義以外のナニモノてもないというのがフツーの感覚だと思うんだけれども、これまでに『セカチュー』だの『1リットルの涙』だの『タイヨウのうた』だの、余りにも砂糖とシロップ漬けの映画ばかり見せられてきているから、この程度でも辛口に見えてしまう人もいるのかもしれない。

 ドラマ自体はまあちょっと、涙を流すには困ったもんだって部分が多々あるんだけれども、カメラマンという設定の葉子が撮った写真、これがみな素晴らしかった。
 水溜りをモチーフにした写真の数々、実際に撮影したのは矢部志保さんという方のようだが、いったん、水面に反射して揺らぎを持った映像の数々は、さながら万華鏡にも似て、現実の多様さ、美しさと醜さ、静謐さと躍動、条理と不条理の両面を映し出しているように見える。
 これを劇中で、「どうして水溜りの写真ばかり撮るのか」と隆二に問われて、葉子が「水を通して見た方がきれいでしょ」と短絡的に「説明」してしまうのは、まるで興醒めである。
 ここは「分からない」と言わせた方がまだマシだ。あるいは「どう見えますか?」と再度、聞き返させるとか。
監督も脚本家もテレビ畑の人だけれども、こう言っちゃ偏見かもしれないが、やっぱり映画のセリフが分かってなくて、賭けない人たちなんだよね。


 舞台挨拶では、阿部さんは、久しぶりの普通の恋愛もので、今を逃したらチャンスはないかもと乗り気だったことを明かしていた。
 何だ、役者さんの方はちゃんと普通の恋愛ものって認識でいたんじゃん。
 撮影現場での阿部さんは、日頃は無口なのだそうだけれど、ニースは本当に静かで美しい街で、オフの時も楽しく会話をしていたそうだ。
 夜の10時くらいになると、本当に真っ暗になるので、一人で街中を散歩したそうである。夜の散歩はいいよねえ。
 ともかく、阿部さんの心の底から楽しそうなムードが観客席にも伝わってくる。
阿部さん、身長189センチに対して、松下さんは174センチ。これだけ背の高い女優さんと組んだことも初めてだそうで、そのことも嬉しかったようだ。

 他愛無いことばかりで楽しくなるようで、阿部さん、声は低くて渋いけれども、案外、「かわいい」人なんだなあと微笑ましく感じた。

 次は『トリック3』(作られるのか?)の時にまた、来福してもらいたいものである。

2004年11月25日(木) ヤクザと一緒の二日間/DVD『CASSHERN』
2002年11月25日(月) 再爆走①/真実は真ん中/『ネコの王』3巻(小野敏洋)/『獣星記ギルステイン』4巻(完結/酒井直行・田巻久雄)ほか
2001年11月25日(日) オタアミ承前/『すごいけど変な人×13』(唐沢俊一・ソルボンヌK子)/DVD『金田一耕助の冒険』ほか
2000年11月25日(土) 希ウィッチィズ/安藤希トーク&サイン会


2006年11月24日(金) 新東京タワーに期待(何のだ)/映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』

> 新東京タワーのデザイン決定

> 2011年の開業を目指して東京・墨田区に建設される新東京タワーのデザインが決まった。3本足で支えられ、日本刀のような曲線を意識したという高さ約610メートルのタワーになる。

> デザインは建築家の安藤忠雄氏と彫刻家の澄川喜一氏が監修。基底部は3本足で、平面形状は三角形だが、上にのぼるにつれて円形になっていく。日本刀や伝統的な日本建築などにみられる「そり」や「むくみ」を意識し、連続的に変化する曲線を使って日本の伝統美と近未来的デザインを融合した、という。

> 足元には3本足が開かれた形で3つのゲートが開かれ、地上350メートルと450メートルの2カ所に展望台を設けた。

> 新東京タワーは、2011年に予定しているテレビ地上波の完全デジタル化に合わせて建設され、首都圏の地上デジタル放送波を送出する役割を担う。東武鉄道が全額出資する「新東京タワー」が事業主体となり、2008年に着工予定。総事業費は約500億円。

> http://www.itmedia.co.jp/news/
> (ITmediaニュース) - 11月24日22時22分更新

 さあ、誰が最初に飛び降りるかなー、とまた不謹慎なことを考えちゃうけど(笑)。
 正直、「電波塔が一本立つだけじゃん」という軽い感想しかないんだよねー。そのころにはまたゴジラ映画が復活していて、『ゴジラ対ガメラ』の舞台になっているかもしれないけれど(次の復活のアイデアはもうこれしかないと思うぞ)。

 逆に、どうして全然関心が湧かないのかなあ、と思う。だって、規模的には「旧」東京タワーを軽く凌駕してるんだから。
 「東京タワー」が東京の象徴であり、観光名所として認知されるようになったってのも、時代との関係が深かったってのがあると思うんだよね。
 私の子供のころのマンガ雑誌や学習図鑑には、しょっちゅう東京タワーが「高さ」をアピールする形で載っていた。高度経済成長の夢と未来が、その「高さ」に集約されていたんだね。

 ともかく、昭和40年代ごろは、地方から上京した人間は、まず、東京タワーを見上げて初めて東京に来たという実感を持てたものだったと思う。
 私も、高校のころ、初めて上京した時には東京タワーに登ったものだった。典型的な「おのぼりさん」だね(笑)。
 余談だれけれども、私はこの時、デビューしたばかりの17歳の石野真子とすれ違っている。

 小林信彦のエッセイ『本音を申せば』の中に、「建設中の東京タワーにはそんなにみんな注目していたわけではなかった」という意味の記述があった。つまり、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』での東京タワーの描写は、やはり現代の視点からのノスタルジーが強調された結果だと言える。
 となると、東京タワーが「東京の」タワーだという憧れを含んだ認識で見られていた時期というのは、案外、短かったのではないかという気がしてくる。

 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!』オトナ帝国の逆襲』で、ラスト、しんちゃんは東京タワーを模した20世紀博タワーの非常階段を疾走する。それはほかのどんなタワーであっても成り立つものではなく(万博の「太陽の塔」があるじゃないかというご意見もあるだろうが、それはパロディ化された形で既に『ヘンダーランドの冒険』で使用済みだった)まさに「時代を疾走していく子ども」の姿を描いていた。

 今度の新東京タワー。
 誰かが疾走する映画が作られるだろうか。



 映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』。
 (2006年製作/カラー/132min./35mm/日本語 配給:アスミック・エース)  
 > スタッフ
 > 監督:金子文紀/プロデューサー:磯山 晶/脚本:宮藤官九郎/音楽:仲西 匡/撮影:山中敏康/美術プロデューサー:中嶋美津夫/編集:新井孝夫
 > 出演
 > 岡田准一/櫻井 翔/岡田義徳/佐藤隆太/塚本高史/酒井若菜/阿部サダヲ/山口智充/ユンソナ/栗山千明/古田新太/森下愛子/小日向文世/薬師丸ひろ子

 > 涙が止まらねぇぇぇぇぇ!ついに完結、さよならキャッツ!!
 > お待たせしました! いよいよキャッツが帰ってきます! たくさんのファンに愛されてきた「木更津キャッツアイ」は本作でついに完結。
 > 余命半年と宣告されたぶっさんを中心とした、仲間5人。地元木更津で巻き起こしたドタバタ騒ぎの日々、そしてついに迎えるぶっさんの死。その3年後……。
 > バラバラになったキャッツたちはぶっさんに、そして大人になりきれない自分自身に、最初で最後の“ばいばい”を言えるのか!? 怒涛の笑いとテンション。予測不可能な驚愕の展開はシリーズ最大級! お馴染みのキャスト大集結&驚きの新キャストも登場。
 > ちょっぴり成長したキャッツの、可笑しく切ない青春映画。ラストにはシリーズ完結にふさわしい涙の結末が待ち受ける。


 大ヒットスタートしたにもかかわらず、翌週には『デスノート』に客を取られ、3週で興行収入が6位にダウンしてしまったのは間が悪かったとしか言いようがない。30億円を狙えたはずの映画が20億円程度に落ち着きそう……と言ってもそれだけでも立派な成績ではあるのだが。
 やっと見に行ったシネ・リーブル博多駅、金曜の1000円興行にもかかわらず、既に客は私らを含めて六人。ヒット映画の観客数じゃないね。

 テレビシリーズはろくろく見てはいなかったし、前作の映画は見たはずなのに全く記憶がない。
 大塚英志がオタクドラマとして最大級の賛辞を送ってはいたが、ちりばめられたネタは確かにオタクの琴線に触れるものではあっても、さほど濃いものとは思えず(真性のオタクなら、自分たちの怪盗団に「キャッツアイ」と名づけることの「薄さ」に気恥ずかしさを覚えるだろう)、このドラマの面白さの本質はそういうところにはないと思っていたからである。

 実際、この完結編となると、これまでのオタク的要素は殆ど排除されていると言ってもいい。いや、あるにはあるのだが、前面に出ることを抑制されていると言った方がよいか。
 例えば、今回の映画の下敷きとなっているのは、ケヴィン・コスナー主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』であり、作中で言及もされ、まんまそれじゃん、というシーンも随所に登場するのであるが、登場人物の殆どが、なぜかぶっさん(岡田准一)復活のキーワードとなるはずのこの映画を見ようともしないのである(唯一見ているモー子(酒井若菜)は内容を忘れてしまっている)。
 また、今回のゲストヒロイン・杉本文子(栗山千明)は「杉本彩」似の名前のことでからかわれかけるが、「散々言われたからやめて」とピシャリと抑える。キャラクター的にはサディスティックでゴーゴー夕張を踏襲しているが、殺し屋ではなく「自衛官」という肩書きを与えているのは大いなるアイロニーだ。

 このように、過去の映画などに関わるネタ自体はあちこちに散りばめられているのだが、それらは浅薄に表層をなぞるものではなく、物語の設定やキャラクター造形に深く関わっていながら、そのことを表だって強調し過ぎないように、常にバランスを取る細心の注意が払われているのだ。
 もちろんそういう見方をすることができることが、脚本家が意図した「隠し味」なのか、それともただの偶然なのか、判然とはしない。
 しかし、判然とさせてしまうとこれは絶対につまらなくなる。そのことに気付かないオタクが、どうしてもっとネタを増やさないのかと、トンチンカンな批判をすることになるのである。

 宮藤官九郎自身はオタクであるかもしれないが、オタクの「キモさ」には間違いなく気付いている。他の戯曲や映画脚本を見てみても、「これ見よがし」なネタの投入には否定的だと判断していいだろう。
 あからさまなネタに狂喜して、「あのネタの意味はね」と吹聴したがるオタクは、『天国と地獄』だの『砂の器』だののルール違反のネタバラシをして喜んでいる『踊る大捜査線』でも見ていればよいのだ(改めて注意しておくが、『天国と地獄』と『砂の器』を見ていない人は、絶対に『踊る』映画二作を見てはならない)。
 本作における『フィールド・オブ・ドリームス』の引用は、根幹的なネタバレに関わるものではないから(と言うか、『フィールド』はそもそもミステリーじゃないし)、決して元ネタの価値を損ねるような馬鹿なマネはしていないのである。

 それでは宮藤官九郎脚本のどこが魅力かと言えば、またそれかよ、と言われるかもしれないが、これが純然たる「ミステリー」だからである(だからこそ、過去の作品のネタバラシに関してはルールを守って抑制的であるのだろう)。

 ぶっさん(岡田准一)の死と再生は、冒頭で示される。
 『木更津キャッツアイ』そっくりの韓流ドラマ『釜山港死ぬ死ぬ団』を実家の床屋で見ているぶっさん。ドラマの中でガンであることを告白する「プサン」に、「死ぬってことはそんな簡単なもんじゃないんだよ!」と悪態をつく。それを聞いて、妻のユッケ(ユンソナ)は「ぶっさん、なんで生きてるか、結婚詐欺よ」と突っ込む。 
 観客は予告編などで、ぶっさんが復活することはとうに知っているだろう。だからこの冒頭シーンが、「再生後のぶっさんのワンシーンであろう」と当然のように予測する。テレビシリーズでも何度となく「ぶっさんはいつか死ぬ」と喧伝されていたのだ。だから、この予測が裏切られることはないのだが、予測が正しいがために、ここに既に別の「伏線」が仕込まれていることに気がつかなくなる。
 映画を見終わった時に初めて、ここに「二段構えのトリック」が仕掛られていたことに気がつくのだ。
 このシーンが、本編が始まってどこに挿入されることになるのか、それがまた一つのトリックとして機能している。更にそれまでにどれだけの「謎」が伏線として挿入されているか。全ての謎が一点に収束され、解明されていくラストの野球シーンでの怒涛の展開。この時に感じる観客の快感こそが、ミステリーの醍醐味なのである。

 この野球のシーンでようやく私は、「これって、ミステリーじゃん!」という事実に気が付いたのだが、その時には既に遅かった。「謎」が提示されていた事実にすら気付いていない間抜けな自分自身を、私は客席に発見することになったのだ。
 私の驚愕を想像していただきたい。私は、それなりにミステリー映画には通暁しているつもりでいて、たいていの映画で騙されることは滅多にない。ものによっては、殺人事件も起こっていない冒頭シーンでトリックを見破ることもある。しかし今回は見事に騙された。その理由は簡単である。この映画の最大のトリックが、「これがミステリー映画であることに最後まで気がつかせない」点にあるからだ。
つまり、『シックス・センス』がホラーに見せかけることでミステリーであることを最後まで隠したように、『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』もまた、青春もの、怪盗もの、野球もの、感動もの、コメディなどの様々な衣装を身につけることによって、ミステリーであることを巧妙に隠していたのである。

 この傾向はどうやらテレビシリーズのころから試みられていたらしいが、こんなことなら、テレビ版もしっかり見ておけばよかったと後悔することしきりである。 テレビ時代からのファンであったならば、どこに「謎」が仕込まれているかくらいは気が付いていたと思うからである。

 ミステリーのネタバラシはしないことをモットーにしていながら、今回、あえて「この映画はミステリーですよ」とバラしたというのは、今の若い人はマトモにミステリーを見た経験なんてないから、この映画を見たあとで、私のこの文章を読んでも、やっぱり何がどうミステリーなのか、分からないだろうと思うからである(ミステリーの素養がない事実を指摘してるだけで、馬鹿にしてるわけじゃないからね)。
 しかし、今年の日本映画は『デスノート』と本作と、ミステリーの秀作を二作、得ることができたが、よりレベルが高いのはこの『木更津キャッツアイ』の方だろう。
 しかもこの映画の「最後のトリック」の解明は、説明過多に陥ることもなく、静かに、感動すら我々に与えてくれるのである。これ以上は、本当にネタバレになっちゃうので書けないが、少なくとも『名探偵コナン』や『踊る大捜査線』のようなクズ映画をミステリーだと勘違いしている御仁には、「こういうのを見なさい」と推奨できるレベルの映画だということは保証しておこう。

 もちろん、ミステリファンでなくたって、この映画は充分楽しめるのだが、ミステリファンでなければ分からない面白さもあることを強調したいので、ミステリとして見ろ、と強制したいわけではない。そこんとこ、勘違いしないようにね。

 しかしクドカン、果たしてこれだけ精緻なトリックを自覚的にやったものか、無意識で身に付いた技術なのか。もし後者なら、坂口安吾以上の天才だなあと思う。

 そこまでのことはないか(笑)。

2004年11月24日(水) 一億聡婦女子化
2002年11月24日(日) サベツとの長き闘い……はまだまだ続くよ(-_-;)/DVD『アクション仮面VSハイグレ魔王』/DVD『あずまんが大王【2年生】ほか
2001年11月24日(土) オタクアミーゴス in 九州 2001
2000年11月24日(金) ハートブレイク/舞台『人間風車』


2006年11月23日(木) 灰谷健次郎氏死去/舞台『ゴルフ・ザ・ミュージカル ~ゴルフなんて大嫌い!』

勤労感謝の日。
これも誰が誰に感謝するのか、よく分からん日やね。一人暮らしの家とかは自分で自分に感謝するのか。それって「一人上手」って言わんか。



> 児童文学作家の灰谷健次郎氏死去=代表作に「兎の眼」「太陽の子」

> 「兎(うさぎ)の眼(め)」などの作品で知られる児童文学作家の灰谷健次郎(はいたに・けんじろう)氏が23日午前4時30分、食道がんのため静岡県長泉町の病院で死去した。72歳だった。神戸市出身。自宅住所は非公表。葬儀は故人の遺志により行わない。
> 大阪学芸大(現大阪教育大)卒。小学校教諭を経て1974年に発表した「兎の眼」は、下町の小学校を舞台に子供たちの成長を描き、ベストセラーとなった。ほかの作品に、沖縄と戦争をテーマにした「太陽の子」などがある。
> デビュー後は兵庫県の淡路島や沖縄県の渡嘉敷島で生活。創作活動の傍ら農作業や漁を行い、教育に関する講演活動にも積極的だった。
> 97年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件では、逮捕された少年の顔写真を新潮社の写真週刊誌が掲載したことに抗議し、同社から全作品の版権を引き揚げた。 
> (時事通信) - 11月23日19時1分更新

 教師から転身した作家というのも決して珍しくはないが、この人くらい「教師的観点」に基づいて作品を書いていた人もなく、いかにも元教師です、という印象の強い人であった。戦後の児童文学者としては最も売れた作家であり、子ども以外の一般読者を取り込めたのも、その「教育者」としての側面があったことは間違いのないことである。
 ただ、それが毀誉褒貶に繋がっていたこともまた事実であって、『せんせいけらいになれ』などは、増上慢な子どもを育てるだけではないかとかなり強い批判も受けている。要するに灰谷氏の手法は「子供は誉めて伸ばせ」ということなのだが、誉めるにしたって誉め殺しになるほどじゃ逆効果だろう、ということになるのである。
だ が、本来は教育にセオリーなんてものがあるはずもなく、灰谷氏の方法も全てが間違っていたとは言えない。観念論に陥りやすい教育論を、実践で培った経験をベースにして具体論として小説化し得たということはやはり正当に評価しなければならないと思うのである。
ま、小説はつまんなかったんだけど。


 舞台「ゴルフ・ザ・ミュージカル ~ゴルフなんて大嫌い! GOLF:THE MUSICAL~JAPAN ROUND」

 脚本・作詞・作曲 マイケル・ロバーツ 
 日本語版台本・演出 福島三郎 
 出演 川平慈英 高橋由美子 池田成志
堀内敬子 相島一之

 ゴルフなんて全く興味のないすべての人と、
 ホントは気になって仕方がないすべての人へ。
 1ラウンド18ホール、18のナンバーを歌い上げる「ゴルフ」のミュージカルが登場!!
 ゴルフ場のコースは、ありとあらゆる障害があって、そこはまさに人生の縮図。
 人生の様々なドラマを、ゴルフのエピソードに絡め、18曲のご機嫌なナンバーに乗せて描くちょっと新しいミュージカル!!
 オフ・ブロードウェイでスマッシュ・ヒットしたレビュー・ショウを、日本版ミュージカル・コメディにブラッシュ・アップ!!
 新しいミュージカルを待ち望んでいるすべての人へお届けします。

 という芝居を大野城まどかぴあで見てきたのですが。
 客が入ってねー!
 何しろホールの半分も席が埋まってない。東京からの巡業公演でこれくらい客が来ていないというのも珍しいくらいで、題材、内容、役者、どれも集客するだけの魅力にイマイチ欠けていたってことなんだろうなと思う。
 オフ・ブロードウェイの芝居ってのは、この程度のレベルのものも多いので、日本まで持ってくるのには慎重な検討が必要だと思うよ。

 ゴルフを舞台にかけるったって、スポーツものを舞台化すること自体、かなり困難なことだというのに、それをどう見せるのかって工夫がないと言うか、脚本・演出にそういうアタマがないのだなというのが見ていて退屈する第一の理由。
 当然、ボールを実際に打つわけにはいかないから、音とセリフで「説明」しなけりゃならなくなるわけね。「ナイスショット!」とか「バンカーかよ」とか。だからそれは「説明」であって、「セリフ」ではないっ!

 せっかくのミュージカルナンバーも、歌詞がやっぱり説明的で、あまり面白くない。いや、歌詞なんてのはあまりちゃんと聞くものではないから、メロディーがよけりゃ乗れるんだけど、音域が狭くて抑揚のメリハリのない歌ばかりズラズラ18曲も並べられたって、たいくつするだけなんだよお。
 これ、ずっと全国巡業してるんだけれど、ネットとかで「あれ、つまんないよ」とか情報が行き渡ってるんじゃないかね。

 池田成志君、劇中で「大野城に帰ってまいりました!」とか、ボールと間違えて「銘菓鶴の子」を手に取るなどの「ご当地ギャグ」を飛ばすんだけれど、最後は乗り切れなかったのか、踊りも上の空みたいな感じになって、挨拶で「今日は2000人も集まってくれて」とへたな自虐ギャグに逃げてしまった。
 それをやっちゃおしまいよってな。
 映画『THE 有頂天ホテル』や舞台『十二人の優しい日本人』では純情な役が多かった堀内敬子さん、今回はちょっとセクシーな演技を披露。役の幅がある人なんだねえ。これが今回の唯一の拾い物だったかな。


 帰りに、ウエストの焼肉屋でペアペアセットとやらを注文。
 もちろん、肉は殆どしげ。が食すのであるが、食べたあとで「気分が悪い」と言い出す。
 そりゃ、私は10枚も食べてなくて、あちらは30枚以上は食ってるんだから、気分が悪くなるのも当然だろうよ。

 帰宅してDVD『猫目小僧』『鈴宮ハルヒの憂鬱』4・5巻、舞台『十二人の優しい日本人』などを見る。
 感想は書いてる時間がないので省略。ナマ舞台を見るより、テレビ画面で見るアニメや映画の方が面白かったというのは、ちょっとサビシイのであった。

2004年11月23日(火) ヒミツのハカセちゃん/映画『父、帰る』
2002年11月23日(土) 江川卓>○○○/CD『ちょんまげ天国』/DVD『ハレのちグゥ』4巻/『ほしのこえ』/『オトナ帝国の逆襲』
2001年11月23日(金) 純情エロさん/オタクアミーゴス前夜祭
2000年11月23日(木) 勤労感謝の日スペシャル/『超オタク』(岡田斗司夫)ほか


2006年11月22日(水) 蠣・蠣・蠣!/DVD『ウエスト・サイド物語』

 11.22.で「いい夫婦の日」なんだって。
ネコの日とかイヌの日とか、語呂合わせかなんかで勝手に記念日が作られる「流行」がいつから始まったのかはよく分からないけれども、私には何が面白いのかも実はよく分からない。
語呂合わせとか言うとまだ聞こえはいいけれど、要するに駄洒落であって、つまりはオヤジギャグじゃんねー。
「日常にユーモアを」というスローガンなのかもしれないけれども、笑いを強制されたって、別にたのしかねーや、と言うか、家庭崩壊してる夫婦だったりすると、「何がいい夫婦の日だ。けっ」と舌打ちするだろうね。
 ま、夫婦崩壊してる家庭のことを別に慮ってやる必要もないんだけれど。いったいこんなの、誰が決めてるんだ、と思って調べてみたら、財団法人余暇開発センター〈現(財)社会経済生産性本部〉というところだそうな。
 で、どういう組織よ。胡散臭いところにうまいこと乗せられてるんとちゃうかねー。


仕事を引けて、博多駅の「GAMERS」と「紀伊国屋」で、本やDVDを買い込む。
DVDは『涼宮ハルヒの憂鬱』4、5巻と、『ウェスト・サイド物語』、『機動戦士ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛』。
ほかにも『トップをねらえ2』や『蟲師』、『幽霊男』(金田一耕助役は河津清三郎!)や『吸血蛾』(金田一耕助は池部良!)など、取り起きのDVDは多いのだが、いっぺんに全部買う財力はない。
ボーナス出るまで、ガマン、ガマン。


午後8時から、呉服町のSGcafeで、突発蠣パーティー。
経緯は詳しくは知らないのだけれども、VARRYのおシゲさんが、北九州だったか行橋だったかから、蠣を5キロばかり届けてくれたとかで、大パーティーを開くことになったのである。
最初は数人、とかいう話であったはずなのに、当日になったらどこからウワサを聞きつけてきたものか、20人からの人間が、狭い店内にひしめいた。
席が足りずに、立ち食いする人が続出、実質、立食パーティーになったが、それで2時間以上も平気な人もいるのだから、食い気たっぷりな人間というものは恐ろしい。
蠣を見ながら「いい景色だ」とでも呟いてみたい衝動に駆られたが、どうせ誰にも何のことだか分からないから言わない(笑)。
初めは牡蠣フライ。蠣を嫌いな人はあの生臭さがイヤだと仰るが、それは全くない。程よく揚がってサクサクしたコロモの中から、ぷりっとした食感の蠣がとろりと舌の上に乗ってくる。これは美味い。
続いて出される焼き蠣、網の上で蠣がしょっちゅう爆発するして、女の子たちが「キャッ」と悲鳴を上げるのも楽しい。材料提供者のおシゲさんは「欲を言えば炭火で焼ければねえ」と仰るが、ガスコンロでも充分。ついつい、七つ、八つと食べてしまう。それだけ食べても、まだ余るくらい蠣は大量にあるのだ。
蠣鍋と鍋雑炊はもう、欠食児童が群がるようで、あっという間になくなってしまった。これだけたらふく食べたら、いかにカロリーの低い蠣とは言え、食いすぎであるのは間違いない。
まあ、明日から節制すれば何とかならあな。……って。忘年会シーズンにそんなこと言って大丈夫なのかね。

 帰りに「ドン・キホーテ福岡空港南店」で、安売りDVDがあったので、『オペレッタ狸御殿』と『69』を買う。2枚で3000円。元値が10000円近いから、バカ安である。なんかインチキやってないかドン・キホーテ。



DVD『ウェストサイド物語 スペシャル・エディション』。

 特典ディスク二枚組のスベシャル・エディションDVDがわずか2000円というのは安い。
日本映画やアニメもこれくらい太っ腹になってくれると嬉しいんだけど、購買力が違うから仕方ないかもね。
映画については今更くだくだしく説明するまでもない。
けれども、「スタジオミュージカル映画を屋外に開放した」との惹句が必ずしも正しくはないことは、結構セットシーンも多用されていることで分かる。そういう評判が立つのも、やはりポスターにも描かれたあのジョージ・チャキリスの片足上げバンザイポーズのイメージが強烈だからだろう(余談だけれども、マンガ『サイボーグ009』で、002・ジェット・リンクが初登場するコマでも、彼はこのチャキリスポーズを取っている)。
戦争映画やSF、サスペンスやホラーなど、実際にはあらゆるジャンルの映画を製作してきたロバート・ワイズ監督だが、代表作はと言われると、どうしても『サウンド・オブ・ミュージック』とこの『ウェスト・サイド物語』ということになってしまう(SFファンとしては『地球が静止する日』を挙げたいところだが。『スター・トレック』? 何それ?)。
しかし、『ロミオとジュリエット』を下敷きとしたこの物語、ドラマとしては他愛なく、正直、大人の鑑賞に耐えるほどのものではない。
やはり見所はレナード・バーンスタイン作曲のミュージカル・ナンバーにあるので、映画としての躍動感は、テーマソングと言える『トゥナイト』よりも、群舞の魅力に溢れる『アメリカ』や『クール』の方が勝っている。クローズ・アップが映画の魅力の本質であるとすれば、ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーのカップル二人の見詰め合いよりも群舞の方に軍配が上がっているということは、映画の敗北を意味しているとは言えまいか。
つまり、『ウェスト・サイド』は、舞台で見たほうが面白い、ということになるのだ。
もちろん、これは本場のブロードウェイ・ミュージカルで、という意味であって、間違っても短足胴長な日本人拝優によるエセ・ミュージカルなどではない。

しかし、名作の誉れが高いにも関わらず、この映画に出演した俳優たちは、リタ・モレノを除いて、殆どが不遇の人生を送っている。
ジョージ・チャキリス、ラス・タンブリン、リチャード・ベイマーらは泣かず飛ばずだし(タンブリンが『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』に、チャキリスが『日本の面影』にと、日本に関わっているのが面白い)、ナタリー・ウッドは恐らく夫であるロバート・ワグナーに殺害されている。
リアルに作ればかなりシリアスで救いようのない物語になるはずのものをミュージカル仕立てにすることにどういう意図があるのか、制作陣は多分、あまり深くは考えていないだろう。映画が描ききれなかった不運と悲惨の物語を、俳優たちはまるで、実人生で再現して見せてくれているようである。

2004年11月22日(月) 『ハウルの動く城』動く!/夏目義徳『クロザクロ』1巻
2002年11月22日(金) 最上の味と最低の映画/映画『恋に唄えば』/『ブラックジャックによろしく』3巻(佐藤秀峰)
2001年11月22日(木) 親の死にメよりアニメ/アニメ『ナジカ電撃作戦』MISSION 007/『MISTERジパング』7巻(椎名高志)ほか
2000年11月22日(水) 今日は眠かった……イツモのことだけど/『ルパン三世カルト2001』ほか


2006年11月21日(火) そしてまた映画の日々/映画『王の男』

仕事を引けてから、都久志会館で、映画『王の男 (왕의 남자.)』。
試写会ハガキが当たったのだが、最近はこの「試写会」にかなり家庭経済が助けられている。
今年は既に劇場まで足を運んだ封切り映画が100本を越えているが、これも試写会に助けられてのことだ。
「遊んでいられて、時間もあればご裕福でもいらっしゃるんですねえ」みたいな当てこすりを言われることも少なくはないのだが、こんな工夫をしなければ、そんなに映画が見られるわけもないのである。
でも先週はワークショップのために、二、三本、試写会を他の人に譲ってしまった。
試写会はスケジュールが決まっているので、そこで都合がつかないと涙を飲んで諦めなければならないのと、パンフレットが売られていないことがネックなんである。

試写会場に行ってみると、ロビーに宣伝チラシが置いてあって、「阿部寛来福!」とある。
新作映画の舞台挨拶なのだが、それが今月の25日。
その日は九州国立博物館の「海の神々」展を見に行くつもりだったのだが、そっちをキャンセルして、ナマアベを拝見しに行くか、ちょっと迷っている。
いや、結構好きなんすよ、あの濃さが(笑)。


映画は、韓国の時代もの。
実在の暴君と、その暴君に振り回される技芸人たちを描いているのだが、この王の暴君ぶりが今ひとつピンと来ない。
重臣たちから「身分の低い芸人を宮廷に入れるとは」となじられ続けるのだが、母を謀略で失っている悲しみを紛らすゆえであることがドラマを見ていれば伝わってくるし、殺される重臣たちも、私利私欲に走った悪人ばかりである。
 愛の得られぬ生活に、だんだんと荒んでいくのは分かるのだが、「暴君」というイメージはドラマが進んでいってもなかなか見えてこない。だから、ラストで唐突にクーデターが起きても、「え、なんで?」と首をひねりたくなってしまうのだ。
これはつまり、「身分制度を壊す」ことが、儒教国家である韓国においては、我々日本人が想像する以上に悪徳であると考えられているせいなのだろう。やはり文化の違いによるそれぞれの国のドラマツルギーの差が、作品から普遍性を奪ってしまっているのである。

けれども、芸人たちの技や、王のはしゃぎぶりなど、笑いどころもなかなかに多く、退屈はしなかった。
韓国の人たちはやはり日本人によく似ているのだが、王ヨンサンが井上孝雄に、王の男(王様の愛した男、という意味なのね)コンギルが及川光博に見えて仕方なかった(笑)。

いや、このコンギルの女と見まごう美青年ぶりを見るだけでも、この映画、価値があるかも……って、私にそのケはないからねっ!


【映画データ】
監督: イ・ジュニク
出演: カム・ウソン(芸人チャンセン役)、 チョン・ジニョン(王ヨンサン役)、カン・ソンヨン(チャンノクス役)、 イ・ジュンギ(コンギル役)
封切り: 2005.12. 29

朝鮮初の宮廷人形劇。 妬みと熱望が呼んだ血の悲劇が始まる! 美しい欲望、華麗な悲劇。 朝鮮最初の宮廷芸人、 王に仕え遊ぶ 

朝鮮時代燕山朝。男寺党の芸人チャンセン(カム・ウソン)は力のある両班にかこわれた生活を拒否し、 たった1人の友であると同時に最高の仲間であるコンギル(イ・ジュンギ)とより大きな場を求め漢陽にやって来る。
生まれつきの才とカリスマで娯楽集団のリーダーとなったチャンセンは、コンギルとともにヨンサン(チョン・ジニョン)と彼の妾ノクス(カン・ソンヨン)を皮肉る芸を見せ漢陽名物となる。
公演は大成功をおさめるが、 彼らは王を侮辱した罪で義禁府にしょっ引かれる。義禁府で審問に苦しめられていたチャンセンは、特有の度胸を発揮して王を笑わせてみせると広言するが、実際王の前で公演を始めると芸人全員が凍りついた。

チャンセンも極度の緊張の中で王を笑わせるため努力するが王はピクリともせず... ちょうどその時、大人しいコンギルが機転を利かせ特有のずるがしこい演技を披露すると王は我慢できないかのように大きく笑ってしまう。彼らの公演に満足した王は宮内に芸人達の居場所、喜楽園を用意してくれる。

宮に入った芸人達は調子に乗り貧官汚吏の非理を皮肉る公演を披露して王を楽しませる。しかし重臣達の雰囲気が冷ややかだと感知した王が重臣の中で1人笑わなかったから、と貧官汚吏の名目で刑罰を下だし宴会場には緊張感が漂う。

続く宴会で芸人達は女人達の暗闘で王が後宮に死薬を渡す京劇を演じ、 ヨンサンは同じ理由で王に死薬を渡された生みの母廃妃ユンシを思い出して激怒、その場で先王の女人達を刀で切りつけ死なせる。

公演する度に宮が血の海に変わるからと興を失ったチャンセンは宮を離れると言うがコンギルは何故か残ると言う。 その間に王に反発した重臣達は芸人を追い出すための陰謀を企み、王の関心を芸人に奪われたという嫉妬心に包まれたノクスも陰湿な計略を練る。

2004年11月21日(日) さようならドラえもん/『ハウルの動く城』
2002年11月21日(木) 爆走⑩/薨去と逝去/『名探偵コナン』39巻(青山剛昌)/『一番湯のカナタ』2巻(椎名高志)
2001年11月21日(水) 乗った人より馬が丸顔/アニメ『ヒカルの碁』第7局/『カスミン』1巻(あもい潤)ほか
2000年11月21日(火) 酒飲みには常識なのかも/『入院対策雑学ノート』(ソルボンヌK子)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)