想
目次|過去|未来
2004年02月06日(金) |
映画と小説のトレードオフ/パスポート申請 |
映画熱が冷めない。
これという決め手はなく、
予告で気になった作品を片っ端から観たい衝動に駆られている。
小説を、中古でない文庫で買う代わりに図書館で借りて、
全部映画代に回したら、おそらくなんとか賄えるだろう。
・・・賄えるだろうが、それは無理かもしれない。
この数年で、「文庫本を買って読む→読み終わったらすぐ次」という
贅沢なのかケチなのかよくわからない習慣が身についてしまったから。
******
有楽町でパスポートを申請してきた。
10年のを申請するには財布の中の金では足りず焦ったが、
支払いは引き取りの時でいいとのこと。
良心的だ。
役所なのに、昼休みも交替で業務が行われていて、
窓口が縮小されているとは言っても、大変ありがたかった。
***
昼に、友人とWENDY'Sに入った。
チキンが大売出し中。
本場のアメリカ人は、結構そんなこと気にしていない(ように見える)のに。
******
そういえば、ぜひとも書いておかなければと思っていたことを思い出した。
昨日、黄昏時の国道6号。
牛久沼を右手に見ながら東京方面に曲がった辺りのところで、信号待ちをしていた。
すると、すぐ横の歩道を、ランドセルを背負った小学6年くらいの男の子が歩いてくる。
手には傘を持っているようだが、どうもおかしい。動きも何かおかしい。
よく見ると、彼は傘の柄を下にして、先の方を口元に向けている。
時折、身体が30度くらい傾く。
風に乗って、ヘルメット越しに声が聞こえる。叫ぶような声だ。
彼は、たくさんの車が行き交う国道沿いの歩道で、ひとりシャウトしていた。
傘を、スタンドマイク代わりに。
本気の目だった。でも、心底楽しそうに見えた。
家の傍にも、国道があればいいと、ちょっと思った。
2004年02月05日(木) |
ニモを探しに/現代日本人 /人生における前髪の位置づけ |
4日。
銀座シャンゼリゼで「ファインディング・ニモ」を見た。
映像は、噂通りなかなか楽しめた。
ストーリーは、予告以上のものがなかった。
宣伝のしすぎは絶対によくない。
字幕版を観にいったつもりが、上映時間の変更で、吹き替え版に。
プランタンではバレンタイン関連の売り場で、試食し放題。
******
現代の日本に生まれてよかったなぁ、と想う。
面倒なことや嫌なことを挙げればキリがないが、
衣食住には今のところ困っていないし、娯楽も多い。
・・・単純な人間でよかった。
******
5日。
10分1000円で前髪を増やした。(増毛ではない。)
人生において、前髪は結構重要だと思う。
だが、前髪が豊かになったからといって
人生まで豊かになるとは限らない。
***
土浦から愛車AQIに乗って帰宅。国道6号はそこそこの込み具合だった。
著しい着膨れの状態(上半身:4枚+ダウンジャケット、下半身:3枚)
で運転していたので、寒いのは手だけだった。
晴れていたので気持ちよく走れたが、意外に風が強かったのがかなり危険。
都内にいても、バイクに乗る機会を減らしたくないと思う。
2002年2月の日記は、なかなか総合的だ。
僕のことをよく表しているような気がする。
と、自分では思っているけれども、他人からは違うと言われるかもしれない。
月が新しくなると、過去のその月に自分が書いた日記を読む習慣がついている。
何を言いたいんだかさっぱりわからないこともあれば、今のことのように共感できることもあるし、
そのとき考えていたことやぶつかっていた壁が何だったのか思い出せないことも多々あって、おもしろい。
2004年02月03日(火) |
豆まき/謝ったモン勝ち/翼 |
鬼は外、福は内。この類の行事には妙に忠実な我が家。
そんな我が家の玄関の横には、焼いた鰯の頭と柊がしっかりセットされた。
けれど、クリスマスの飾りの中央部に鰯の頭が乗せられているようにしか見えなかった。
鬼も一瞬迷っただろう。あれ、来る日間違えたかな、と。
******
ねがわくは はらのうえにて よるしなむ
西行さんごめんなさい。
こんなことばっかり考えてると、脳が味噌状になってしまうかもしれない。
******
翼が欲しいってことは、
富とか名誉とかとは、あまり関係ないんじゃないかな。
昨日、口ずさんで思った。特に理由はない。
本当の富とか名誉とかいうものにトンと縁がないから、わからないだけかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
そういえば、「鼻ずさむ」ってことばがあったなぁ。
‘マサルさん’辺りか。
2004年02月01日(日) |
1月13日のできごと |
「オウム入居お断り」
その看板のようなものは他の景色と一緒に、常磐線の窓の外を流れていった。はじめ、人の声真似をする鳥のことだと思って、今までにそんなに迷惑な入居者がいたのかと一瞬想像した。(注:思い起こすとネタのようだが、あの時は本気だった。)次の瞬間、その「オウム」が正しくは何を指すのかやっとわかって、複雑な気持ちになった。そのぐちゃぐちゃとした感情の半分は、おそらく、悲しみだった。
かの団体とは特別に何の関係もないが(そうでなければこんなことを堂々とは書けないだろうし。)、なんだか不憫に思えることがある。過去に囚われなければ生きていけないことを思い知らされる気がするからかもしれない。単に、自分だって人から拒絶されることが怖いからかもしれない。
やってはいけないことをした。社会から排除されるようなことをした。その計画や予想できる結果や社会の認識を、知っていた人もいる。知らなかった人もいる。「悪いこと」だと思わなかった人もいる。「悪いこと」だと理解できた人もいるかもしれない。いないかもしれないが。
それ以前の問題だというのが本当のところかもしれない。客観的な評価や価値観などは存在しない世界なのだろうから。だから、そういう集団が存在したことがそもそも脅威で、驚異的で。けれども、外側にいる人間からは決して見えないこともあるのだろう。
僕のことを言えば、危ういから近寄らないというより、恐ろしさゆえに避けずにはいられないだけのことだ。その境目が見えなくなったとしたら。
ぞっとする。
本当に書きたかったのは新興宗教への見解でもなんでもなかった筈なのだが、予期せぬところに話が転んでしまった。「きっかけって怖いわね奥さん」という、「きっかけ話」の続きかもしれない。