このエッセイに釜が崎の事をそういえば 書いたことがなかった。 今日はちょっと書いてみようっと。
毎月一度、私はうちの教会の数人のメンバーと共に 西成(釜が崎)の市民館に出向く。 そこで、毎週西成のおじちゃん達を対象にした 集会が開かれているのだが、私達の教会は 月に一度だけ、その集会にジョイントしている。
以前から、西成の働きに、何故か、かかわってきた 私だが、いつも拭い去ることの出来ない、疑問というか これでいいのだろうか、という思いがあった。 私は何故、ここに来ているんだろう?
前に宣教の学びをした時に、牧師さんが言ってた事は 宣教師というのは、そこの文化に入り込んで行く事。 同じものを食べ、同じ暮らしをする。 昔の中国の宣教師だった、ハドソン・テーラーもそうだった。 中国服を着て、彼らと同化していた。 何もそれが全てというのではないだろうが、 少なくとも、彼の姿勢を表していたと思うし、 中国の人達に、彼の誠意は伝わったと思う。 それこそ、全てを捨てて、命を捧げる思いで 宣教師というものは、出て行くのだと思う。
西成の働きは、もちろん、宣教師というのではないし、 月に一回というのも、もちろん、それ以上やれと 言われても、無理があるので、それでいいのだとは 思うのだが、それでも、いつでも私は考えてしまう。 (これでいいのかなぁ)と。
市民館に置いてあるキーボードで奏楽し、 時々、特別賛美をし、来てるおじちゃんにご飯を配り、 「さようなら〜」と声をかけ・・・。 う〜〜〜ん(−_−) おじちゃんたちは、私の事をなんと思っているのだろうな。
今こうして書いているけれど、この疑問を誰かに ぶつけた事はそう言えばない。 言っても「それで充分だよ」と言われそうな気がする。
それでも、なんか、とってつけたような、中途半端な 事をしている、お嬢さん・・・。そんな気がしてならない。 でも、そこで捧げる賛美も、どこで捧げる賛美も 変わらない。私は精一杯捧げている。 聴いてくださっている主は同じだ。 主は喜んで下さっているはずだ。
私は西成に住むわけにはいかない。でも 西成のおじちゃんの為に祈ることは出来る。 主よ、西成のおじちゃん達を、祝福して下さい・・・。
今日、私に与えられた賛美の曲を、賛美リードの 人がおじちゃん達に紹介して、いっしょに歌ってくれた。 初めて聴くはずなのに、おじちゃん達は前から知っている ように大声で歌ってくれた。 すごくすごく不思議だったし(なんですぐ歌えるの?) とてもとても励まされ、うれしかった。 結局、何かの奉仕をしているつもりで 私が一番、恵みを受けているのかもしれないよね。
神様、毎月、ここに来れてありがとう。 そして、いっしょに奉仕している、素敵な仲間達を ありがとう☆(^▽^) 準備も、いっしょに出かけるのも、とても楽しい。 これからも、主よ、祝福して下さい♪
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