2006年03月05日(日) |
アカイヌクモリ ―――Ⅵ-5―― |
十一月初頭の空は晴天が続いたものの、頻繁に雲の隙間から僕ら人間の感情を弄び楽しんでいるかのように太陽が見え隠れをしていた。窓から見える隣の家のモミジも紅葉を迎えようとしていて、秋という季節を感じずにはいられなかった。早いもので、僕が戻ってきてからもう二ヶ月が経過していた。そして、季節が変わっていくように僕の心にもそれまでにない変化が起こり始めていた。とても大きな変化が──。 あの日、ヒロトが言った言葉によって僕の気持ちは一変した。〝死にたい〟という感情しかなかった状態から、〝辛くても、周りでどんなことがあろうとも生きていかなければいけない〟、という執着心のようなものを持つようになっていた。家族、仲間、ヒトミも?──が僕のことを想って流した涙。それは〝生きろ〟ということを深く植えつけてくれた。それによって拒み続けたことを悔やみ、何もできないけど僕にとって〝生きよう〟という気持ちを持つことは、周りの人間へ恩返しをするという意味合いでもあった。そして、奇跡が起こることを信じて──。とはいうものの、全身麻痺が地獄と同じものだという現実は全く変わることはなく何度も、〝早く死なねえかな〟、と思っていた。それでも、家族の会話や以前の噛み合いをとり戻しつつある四人と共に笑うことができるようになっていた。面会がスタートした十月八日から単独で訪れることがほとんどだった四人も不思議なことに、僕の心が変化していくのと沿うように次第にまとまって来るようになり、ぎこちなさも日を追うに連れて消えていった。──シンジを除いては。 激痩せしていた体と血色の悪かった顔も元に戻りだし、笑顔を見せたり、自分から話題をきり出したりしていたけど、どこか不自然であの事件からシンジは完全に立ち直っていない気がした。それは僕だけでなくほかの三人も感じているようだった。その証拠として、シンジの口からはリョウコの話が一切出なかった。彼自身、それは何よりも大事なことだと一番わかっていたと思うけど……。三人も気遣ってリョウコのことに関しては意識的に避けているように見えた。また四人を見ることで、気だるく、まともに行く気もしなかった学校へ偽りなく心から行きたいという気持ちになったり、堅苦しかった学蘭にも無理矢理でもどうにか袖を通したかった。そんな繰り返しの毎日で息苦しく感じていた生活が、どんなことよりも大切でかけがえのないものだと、こんな身体になってから知ることになるとは──皮肉以外の何ものでもなかった。
植物人間として懸命に生きよう、そう思う気持ちの中で唯一膨脹していく膿のように抜けきれないでいたのは──五月二九日以降、一度も僕の前に姿を見せない〝恋人〟ヒトミのことだった。 ずっと気になってはいたものの、それ以上に絶望感からヒトミのことよりも死ぬことを優先的に考えていた。それが、気持ちが一変したことによって彼女を思う時間は起きている間だけにはとどまらず、ほぼ毎日夢の中にまで現われた。夢だとわかっていてもそれは現実以上に現実味を帯びていて、二人で過ごした日々や話したこと全てがひとつの塊のように凝縮されていた。そんな夢の中で僕はいつも嗄れるほど大きな声を出して、手を伸ばせば触れることができるくらい近くにいるヒトミへ叫ぼうとする。その叫び声は、悔やんでいることを懸命に全身で伝えようとしていた──。
一月の骨の髄まで凍りつきそうな真夜中だった。僕は突然の電話でヒトミに呼び出され、彼女の家の前にある外灯の下でユリナとの関係を絶つように激しく強要された。僕は……ユリナとセックスをしたいがためにそれを拒んだ。ヒトミの僕を愛する気持ちに──限りなく純粋に愛してくれている心に気づいていながら──。何故あの時、僕は〝心〟ではなく〝肉体〟を選んでしまったのだろう。心がひとつになることなどないと初めからわかっていたのに。どうでもいいとすら思っていたのに──。数時間後、僕とヒトミはすさまじい睡魔に襲われて明け方まで吹雪くような寒さの中で眠ってしまい凍死寸前だった。その時もヒトミの腕は僕の体に回されていたけど──僕は、抱きしめてあげることもできなかった。それどころか、体に回す腕を何度もはね退けるように外した。そんなことをされたヒトミはどんなに傷ついただろう。……本当は力いっぱい抱きしめてあげたかった。優しい言葉もかけてあげたかった。けど、くだらないプライドのせいでそれを拒んでしまった。──この気持ちを自らの言葉で伝えることもできない、これはどんなに悔やんでも一生悔やみきれないだろう。また、その後つき合うことになっても、この時のことを一度も口に出せずにこんな身体になってしまったことも──。 そんな後悔という名の舞台でしかない夢の中で僕がいくら声を張り上げようとしても、口いっぱいに何かを詰め込まれたように言葉を封じられ、体は現実と同様、型にはめられたように一歩も動くことができない。声を発することも身動きをとることもできずに、強張った顔をして目の前のヒトミを見ていると、彼女は同情というか、哀れんだような目をしたままどんどん遠退いて行き、姿も見えなくなってしまう。その途端、僕は全てが終わってしまったという失望感に押し潰されそうになる。ヒトミはもう二度と僕の前には現われないだろう。あの夜のことを謝れなかった──。せめて〝愛している〟という言葉だけでも伝えたい。いや、伝えるべきだった。僕は後悔からくるいたたまれなさで全身が震えだし涙する。それでも動くことができない……。 こんな夢が毎日のように続き、その度に思った──。ヒトミは今、どんな表情をして何を考えているのだろう。身体は平気なのか。僕のことを想ってくれる気持ちはまだあるのか。まさか、新しい男を見つけて──。クラスメイトのサジは、僕が自宅療養になって面会ができるようになったことを伝えてくれたのか。 〝ヒトミ、会いたい……〟 「シド──!」 突然目の前に現われた母親は、顔を硬直させて無言のまま僕を車椅子に移して部屋へ向かった。ヒトミに想いを寄せることに全神経を注いでいたせいか、インターホンの音はまるっきり耳には届いてこなかった。 「シド、よかったね──。何か、私の方が緊張してきちゃった……。来たよ」 その言葉は僕を〝喜び〟というそれまでには考えられなかった感情にさせた──が、当然それだけではなかった。ヒトミが来るということは、変わってしまった姿を見られる恐怖心。言葉を発せられない、気持ちを伝えられない焦燥感。それと、彼女の僕への愛情が僕自身によって奪われてしまうかも──という絶望感と隣り合わせだったからだ。……ただ、 〝今はそんなこと考えてる場合じゃねえ。やっと会えるんだ……。それに、今日が二人にとって最期の日になるかもしれない〟 ぼくは考えたくもないそんなことを思いながら扉に背を向けてヒトミが入ってくるのを待った。そして、何もできないにもかかわらず、髪はちゃんと立っているのか。顔にゴミはついていないだろうか。鏡を見ておくべきだった、と考え込んでしまい、おかしいほどに自分が動揺していることを改めて実感した。 五分、十分、正確な時間はわからなかったけど、世界を動かしている〝秒〟に鉛がぶら下がっているのではないか、と思ってしまうくらい待ち遠しく時が止まっていた。 〝ヒトミは扉の向こうでノブを回せずに立ちすくんでいるのか。それならどうにか俺が──〟 動かぬ体を気持ちのまま動かそうとした時、ギギッという音と同時に扉がゆっくりと開いた。その床が軋むような音はホラー映画のワンシーンを思わせた。 扉が開いてからしばらく経っても歩み寄って来る気配はなく、僕にはヒトミが扉の前で呆然と立ち尽くしているビジョンが浮かんだ。それから一歩、また一歩とスローモーションのように背後から近づいてくるのが直視しているようにわかった。けど、本当に迫ってきているのはヒトミなのか、僕は疑いの気持ちを捨てきれずにいた。そのくらい実感がなかった。こういう状態になってからヒトミと会うということの──。それは距離が縮まるに連れて増大していた。 「久しぶり──」 その言葉が僕に投げかけられた時、車椅子に座る体がゆっくり一八〇度回転した。そして、普通なら扉を捉えるはずのふたつの目は別のものを捉えていた。──セーラー服とその中心に垂れ下がる白色のタイ。……ヒトミだ。彼女の手は僕の肩にかけられていた。体が回転してからしばらく経ったけど、二人の体勢は全く変わることはなかった。 それから僕とヒトミの目がまるで合わせ鏡のように重なった時、僕のあらゆる感情を揺さぶる空間はアイスピックのように鋭利なものでメッタ刺しにされた。 ヒトミは目に涙を溜めたまま精いっぱい、笑顔を作ろうとしていた──。 肩まで伸びた仄かに明るい艶のある細い髪。引き込まれそうな大きな目。自分ではあまり好きではないと言っていたけど僕は大好きだった整った鼻。いつでも笑顔を絶やさず弧を描いていた唇と、その端にくっきりと出るえくぼ。この時も微かながら薄らと出ていた。僕はヒトミの顔のパーツひとつひとつをとって確かめるように彼女に見入っていた。五月二九日からこの日まで一度も見ることがなかったヒトミの顔は、サジの言う通りげっそりと痩せてしまい表情も暗かった。けど──ヒトミには変わらない。 目が合った瞬間から潤みを増していたヒトミの涙は、目を強く閉じた途端に止めどなく滴り落ちた。そして──僕の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れた。 ヒトミはしばらく顔を上げることができずにいた。僕の耳に届くのは、それまで聞いたことのなかった彼女の悲鳴に似た泣き声だけだった。僕はそんな目の前に跪く〝恋人〟ヒトミの姿を見て声をかけるどころか、何もしてあげられない自分を心から情けなく思った。自らが選択してしまった誤った生き方。それによって流される僕をとり巻く多くの人の涙。その中でも、最愛の人の涙をただ黙って見ているほど辛いことはない。何もしてあげられないのなら尚更だ。僕は動くはずもない体だとわかっていながらもそのいたたまれなさで、初めて自分の置かれている状況を母親から聞いた時のように激しく、目に見えない鎖を外そうとした。 〝外れるわけねえ……!そんなことはわかってる。でも、外さなきゃいけねえんだ!外さなきゃヒトミは──〟 もう一生ここへは姿を見せなくなる、そう思った時、泣き崩れていたヒトミはしゃくり上げながら口を開いた。震えながら小さな声で──とても小さな声で……。 「……起きて。起きて学校に行こ。二人でリョウコとシンちゃん、早くつき合わせてあげようよ。それから……私も峠に連れて行って。──お願い。もう嫉妬したり、わがまま言ったりしないから……ね、だから起きてよ。シド……どうして何も言ってくれないの?何か言って……。嫌だよ、こんなの嫌だよ──!どうして?どうしてこんなことに……。会いたかったよ、シド──。私ね、あの日から未だに一歩も動くことができないの。──覚えてる?最後に喋った時……二人で学校の周り散歩した時のこと……」 〝──忘れるわけ、ねえだろ〟
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