2006年03月18日(土) |
アカイヌクモリ ―――Ⅸ-1―― |
「もう三年が経つのか……。楽しかったよな、こん時。やっぱ可愛いなーマユミは。──あいつらももう卒業か。早いもんですな、シドさん」 フォトアルバムを捲る音が僕の耳を引っ掻いた。サジは中学卒業式の日に撮った写真を懐かしそうに薄らと笑みを零しながら眺めていた。 ──もう三年。いや、僕にとってはまだ三年かもしれない。余命宣告を受けてから四年が過ぎたけど、まだ生きている。会うべき女は未だ姿を見せない。いっそこのまま会わずに死んでしまいたい、そうも思った。この三年間望んでいることは、もう一度彼女に……ヒトミに会うことだけ。ほとんど諦めていながらも、諦めてはいけない、必ず来る、という気持ちがぽっかり空いた僕の心の穴を埋めていく──ほんの一瞬だけ。首の皮一枚で彼女にすがりつく想いがそうさせているのだ。ずっとそんな生活。自分自身にも嫌気がさすし、できればさっさと頭の上にわっかをつけてほしいと思うけど、人間の身体は僕が想像していた以上にしぶとい。初めて見た時誰もがショックを受けたあの頃から、僕の身体は一段どころか三段も四段も衰弱した。四年前が生ける屍ならば、今は緑を失った枯れ草だ。踏みつければ跡形もなくなるような──。 九八年の末頃からいい加減な捜査の挙句、犯人の手がかりが掴めない警察は、 「これだけ年月が経ってしまうと──捜査は困難を要します」 と諦めに近い言葉を家族に吐いた。それでも立場上の決め台詞だけは欠かさなかった。 「地道な捜査の積み重ねは必ず犯人逮捕へと繋がります。ですから今後もご協力を」 家族も既に捜査員には愛想尽きていて、何の期待もしていなかった。信じているのは僕の生命力、シラギの医学的能力、そして奇跡だけだった。 そんな僕の命の鍵を握っていると言ってもいい主治医のシラギは、四年前と変わらず僕の脳で起きた謎の原因を追究し続けている。四年前とこれといって状況は何も変わらない。いや、変わること自体がここ何年ものキーワードとなっている〝奇跡〟なのかもしれない。シラギは、どうして僕のために──と思うほど自分の持っている全ての医療技術を注いでくれた。それは形だけではなく、優しさや熱意で伝わるものだった。疲れやストレスは当然あるのに、顔色ひとつ変えずにシドという一人の人間の命を救おうとしていた。けど、そんなシラギに僕は伝えたい。 〝あんたが俺を助けようと使っているエネルギーは、もう奇跡を祈ることだけに使ってください。それは決してシラギという名医の可能性を信じていないわけじゃないんです。ただ、俺にかけてる多くの時間をもっと助かる見込みのある人間に使ってほしいんです。あんたの誠意とか責任感みたいなものはもう十分すぎるほど伝わってるし、俺自身あんたには感謝と敬意の気持ちしかありません。仮に俺のせいでほかの人間が犠牲になってるようなことがあったとするならば、それはちょっと耐え難いものがあります〟 三年という月日は年齢を重ねさせるだけではなく、それ以上に人の心を大きく変える。もちろんそれは人それぞれだけど……。ただ痩せ細っていくだけで特に何の変化もない僕をとり残して、新しい道をきり開いた彼らは変わった。 元から持っていた特有の雰囲気というか、威圧感はそのままだったけど個々に表情は引きしまり、シンジはより端整に、リョーキは早くも威厳という言葉が似合うようになり、ヒロトは相変らずチビで無愛想だったけど、ほかの連中に沿うようにそれなりに大人っぽくなった。けど、誰よりも変わったのはサジだ。一人社会人ということもあってか、ほかの三人にはない落ちつきがあった。中学時代は誰よりもはしゃいでいたというのに。 朝だるい、暑い、寒い、くたばる……。毎日のようにそんな愚痴を零していたサジだったけど、卒業して間もなく家族からも離れ、大工として働き始めた。また、通い妻は当然のことながら片指だけでは収まらないという。
「俺には解体新書を説く以上の頭が必要になる。要は玄白を超えなきゃいけねえってことだ。お前を助けるためにはな。今、まともな職に就いたら本を開く時間も削られちまう。だから卒業したらそれなりに稼げて、休みも十分にとれるちょっと危ねえ仕事につくつもりだ。それが何なのかは、お前が元の身体になった時か、仏になった時に教えてやるよ」 ヒロトは諦めていなかった。どんな方法で医学の勉強をしているのか、それは誰もが謎で首を傾げていることだったけど、あの、助けることができないかもしれない、と言った言葉が嘘だったかのようにチビは自信に満ち溢れている。僕は再生不能に近い身体と共に〝奇跡〟 よりはほんの少し現実性のあるヒロトの可能性に六パーセントくらい賭けている。
〝将来この国を背負っていく人間になりたくないか?〟 興味がない、断る。この一言でリョーキは校長の誘いを軽々と蹴った。そして、大気汚染研究のために地方の大学進学を決めた。学力の違いは歴然だったものの、中二の五月まで同じ勉強をしていた奴が自分とは全く縁のない世界へ入り込んでいくことを僕は不思議に思った。どんなことを研究するのか、リョーキは、 「シドに話してもレベルが高すぎて意味が理解できねえと思う。とりあえずお前にはどんな性能のいい空気清浄機よりも身体に優しくて新鮮な空気を吸わせてやるよ」 と言った。嫌味と優しさを込めたリョーキ特有の言葉が、出会った頃と変わらぬことで僕を安心させた。そして、相棒のシンジは教員免許を取得するためにリョーキと同じく地方の大学へ進学することを選んだ。場所はヒトミが生まれ育った所よりももっと遠い海沿いだと言う。 「中学で担任を持ってそいつらの中で一人でもシドとかサジみたいな人間になってくれる奴がいたら嬉しいな」 というのは表向きで、 「リョウコは英語であいつは文学だろ。将来翻訳の仕事を一緒にしようかってナメた話をしていた記憶がある」 とリョーキから聞かされた。ちなみに、二人はつき合って一年と七ヶ月目で初めてひとつになった。このことはリョウコ本人が恥ずかしがりやの彼氏に変わって伝えにきた。しかも、あの女は何の恥じらいもなしに、痛すぎ!太すぎ!早濡(はや)すぎ!と騒ぐだけ騒いで帰っていった。英検二級を一発合格したのは素晴らしいとしか言いようがないけど、ほかをとったら〝痴女〟という言葉しか思い当たらない。ちなみにその痴女は、只今念願の留学中で姉妹校のあるイギリスのブライトンという見知らぬ地へ行っている。滞在期間は一年間で帰国予定は三ヵ月後の五月。それから三年に進級して一般とは一年遅れで卒業ということらしい。リョウコと遠距離になることをシンジは、 「月に一回の手紙、週に二回の電話。単純に、あいつからの便箋が十二冊俺の手元にきた時には会えるってことだろ?一年って考えると長くて苦しいけど、十二冊って考えればどうってことない。声は聞けるんだし。でもあいつが戻ってくる頃は、俺こっちにいねえからなー。そう考えるとしばらくは遠距離だな。シド……俺ちょっと選択間違ったかな?本当はすっげえ寂しくて一緒にいたいけど、将来のことを考えると今はそういう時期なのかなって、いつもお互いそれで片づけちゃうんだけどさ」 と複雑な心境ながらもちょっと奇麗事に近いことを言っていた。
いつか彼女は高校を出たら、次期女将として旅館で働く、と言っていた。──そして、徐々にその時が近づくに連れ、僕はある不安に駆り立てられている。もし親との話し合いの中で、彼女が元からあった地方の旅館を継ぐことに決まっているとして、卒業と同時に戻るということになったとしたら、その時は確実に別れというものが僕に突きつけられる。──時間がない。そんなことは自分が一番よくわかっている。けど、今まで余命宣告を聞いても来ないということは、仮にこっちを発つとしても前日・当日関係なく、彼女は僕の前には現われない、そんな気がする。 ……ヒトミの中では、二人の──僕との別れは既に終わっているのかもしれない。だからあのキスはやっぱり最後のキスだった。──だめだ。最近はそのことに考えを巡らせていると、一時的な結論を出す前に頭が狂ってしまうほどの疲労感に襲われる。ということは寿命が迫っているのかもしれない。だったら早く会わなければ……。 結局のところ、もう考えるまでもなかった。僕の中では彼女が去っていったあの日から既に結論は出ている。 『もう一度ヒトミに会いたい』それだけだ。
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