柊小説

2006年03月30日(木) アカイヌクモリ  ―――サジ―――

 ヒトミから連絡がきたのは、俺がマンション三階の足場を道具片手に歩いている時だった。
「……シドが死んだの」
俺は二階で指示を出していた親方に、例の奴が今死んだって連絡が入ったんですけど、と睨みを利かせた。親方にはシドの全てを話していた。今年で五七になるこのオッサンは、口が悪くてリョーキより厳ついけど、本気でいい人だった。
「ォメーの持ち場は俺がやっとくから、さっさと行け!事故るんじゃねえぞ」
親方に頭を下げて俺はシドの元へ直行した。
 家の前は近づいてはいけないような妙な雰囲気が漂っている。足を踏み出すことを躊躇させるような──。そして、土と埃で汚れた足を払いリビングのドアを開けると、マユミさん、シノブさん、カオリさん、シンジ、リョーキ、ヒロト、そしてヒトミが何かを囲うように座って俺を見た。そう、その中には顔を白い布で覆われ、胸の前で両手を組まれたシドが眠っていた。呼吸をしないシドが──。
「仕事抜けてきたの?」
「はい。シドのことは親方に話してたんで……」
「そう……。まだ一時間も経ってないの。体も温かいから、見て触ってあげて」
マユミさんにそう促されて、俺はシドの顔にかかっている布をゆっくり横に滑らせた。昨日は本当に苦しそうだった。でも、今はほんの少しだけ笑っているように見える。体も生温かい……。
 しばらく見つめていると、隣に座るシンジが跪いて泣き出した。シドの死をまだ現実として見ることができない俺は、シンジのように泣くことができない。多分、リョーキもチビも一緒なんだろう。
 シンジの嗚咽を聞きながら、無言のシドを見ていると、背後からマユミさんに、ちょっとリビングから出て、と肩を叩かれた。俺だけ──?
「あんた最後に来たから、シドの最期を言わなきゃと思って。ちょっと信じられないことが起きたんだ」
 ──そんなこと、信じる方が難しいかもしれない。シドが喋った、なんて──。でもヒトミがこんな時に嘘をつくとは思えない。あいつは待っていたんだ、ずーっと。最期まで信じて待ち続けていたシドの気持ちを考えると、急激に熱いものが込み上げてきた。あいつがヒトミを思う気持ちは俺たちが想像していた域を遥かに超えていた。
 シドが死んだのは十五時五三分。それから二時間もすると葬儀屋と焼香をしに来る近所の人たちで家の中はごった返した。
「泣いてる暇もないよ……」
そう溜息を吐くマユミさんの気持ちは本当によくわかる。葬儀屋の説明を聞きながら焼香に見えた人がお悔やみを言う度に深々とお礼。これじゃ、泣くどころか一息吐くこともできないだろう。
カオリさんとヒトミは二人で訪問者へのお茶出しをしていた。俺たち四人も手伝おうとしたけど、やたら動いても邪魔になるだけだ、というヒロトの言葉に全員が頷き、シドの傍にいることにした。
 夜、ようやく落ちつき静かになったところでヒトミと話すことができた。
「久ぶりだな」
「うん。元気だった?」
「ああ、まあまあだな。……逝っちまったな、とうとう。でもよかったよ、あいつ。最期に会えたんだから。マユミさんから聞いたぜ」
「うん……。愛してるって、すごく小さな声だったけど、そう言ってくれたの」
「はぁ~、シド──。マジでいい奴だったよな。ヒトミ今更かもしれねえけど、何で今まで来てやんなかったんだよ?」
「──ごめん。それは、シドにちゃんと話した。だからそのことは二人だけの秘密ってわけじゃないけど、胸の中で抑えておきたいの。私がシドの所に行くまで……」
「そうか……わかった。──それよりリョウコ、告別式まで間に合うか?明後日だけど」
「ギリギリかな。シンちゃんの話では、明日の深夜に空港につくようなこと言ってたけど」
「どうにか、骨になる前に見てほしいよな」
「うん……」
「お前、リョウコから連絡が入ったのか?シドが危ねえっていう……」
「そうじゃないの。リョウコとは手紙のやりとりだけだったから……」
「それじゃ──偶然なのか?」
「……」
「ああ、悪い。無理に聞こうってわけじゃない。まあ、シド本人が知ってんなら……。──で、明日後こっちを出るわけだったんだろ?どうすんだ」
「四九日までいるつもり。──情じゃないよ。ただ……」
「わかってる。そうしてやれよ」
 三月の夜風は肌をきるように冷たい。けど、シドはこの寒さが大好きだった。今まであいつの好きだという季節が俺には理解できなかったけど、これから何だか好きになれそうな気がする。この凍えるような風が堪らないと感じられた時、シドという男を今よりもっとかけがえのない人間に思うことができるような──。

 翌日、十八時からの通夜を前にシドを柩へ移す儀式が始まった。全員が一睡もしていない中、一人目を閉じ眠り続けているシドの体中をアルコールで拭き、柩の中へ金や奴が大切にしていた物を入れている時だった。
「そろそろ始めよう……」
シンジの呼びかけに俺たち四人は用意してきた物を出した。
「学蘭ありますよね、こいつの」
ヒロトがシドに目を落として言った。
「ああ、ここに。一緒に入れようと思ってたんだ」
シノブさんが学蘭をヒロトに手渡した。そして、第一ボタンを残して下の四つを裏ボタンが割れないように注意してとり外した。背後からは誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。俺たちは自分がつけていた第二ボタンをシドの学蘭にとりつけた。もしもの時があったら──そう四人で中学を卒業する時決めたことだった。俺とシンジは卒業式の日、第二ボタンだけはとられないように伸びてくる手から必死に防いでいた。
「こいつのボタン……俺たちがもらってもいいですか?」
リョーキは必死に嗚咽を抑えている。
「大切に持っててくれ──」
シノブさんは柩に肘を立てて目頭を押さえた。仰向けに眠るシドの体に学蘭をかけて、もう二度と目覚めることも柩から出ることもない男を全員で見下ろしていると、そこへ誰かの手が伸びた。
「これも、持っていってもらう……」
ヒトミがセーラー服のタイを握りしめていた。俺もみんなもその行動に目を逸らすことなくずっと見続けている。組まれた両手に触れながら学蘭のポケットの中へ、ヒトミはゆっくりタイを押し入れた。そして──シドの頬に涙を溢しながら唇を寄せた。
「ヒトミちゃん……シドが大切にしていた物、何か持っていく?」
「……」
ヒトミにはマユミさんの声が届いていない。多分、ヒトミは短い時間だったけど、シドと共に過ごしたという現実があるから、それだけでほかにはもう何もいらないんだろう。それは今ここにいる誰もが感じていることだと思う。
 
 通夜の参列者は思いのほか多かった。近所住民を始め、小中学校の担任が数名、タメの奴ら、シノブさんの会社の人、カオリさんの施設の人など……。そして、通夜が終わって四人で一服していた時、
「シドが吸ってた煙草ってラッキーだよね?」
マユミさんは小銭を突き出して忙しなく言った。
「そうですけど」
「柩に入れるの忘れてた。私ちょっと手が空かないから、悪いけど買ってきてくれないかな?」
「いいっすよ」
「二箱でいいや。オッケー?」
「わかりました。すぐ行ってきます」
「ありがとう。頼んだ」
早速靴を履き、玄関を開けた途端、目の前に懐かしい顔が浮かんでいた。
「サジくん……だよね?」
「──あっどうも……お久しぶりです」
「これ……どういうこと?」
「えーっと……ここじゃなんなんで、とりあえず出ましょう」
俺は煙草の自販機がある所まで、シドの事故から昨日の死までを触り程度に説明した。彼女は細身のパンツにスウェットパーカーというラフな服装だったけど、抜群のスタイルからモデルと歩いているような錯覚にさせられた。
 「そんなことがあったんだ……。たまたま散歩してて、何気なく電柱が目に入ったら通夜の案内がかかってて──びっくりした」
「卒業して何してたんですか?高校は行ってないってシドからは聞いてましたけど……」
「フラフラしてた。今は飲み屋で働いてる。それよりシドは、関係が終わってから私のこと何も言ってなかった?」
「──特に」
「そうなんだ……。〝卒業までの関係〟なんて言わなきゃよかった。ちょっと後悔してる。実を言うとずっと頭から離れない存在だったんだ。今でもそう。だからショック。顔には出さないけど──。初めての男だから余計かな?」
どう答えていいかわからなかったし面倒だったから、俺は自販機から煙草が落ちる音でどうにかごまかした。少なくともシドはあの関係を割りきってたと思う。そうじゃなかったら──。
「線香、上げてがないんですか?」
「何だろう?そんな気分になれない。だから代わりにこれを──」
ユリナさんはパンツのポケットからラッキーを出して火をつけた。そして、一口だけ吸ってそれを俺に手渡した。
「──じゃ、私行くから。それにしてもあんた相変らずかっこいいね」
ユリナさんは俺の頬を二度叩くと、そのまま夜道へ消えていった。彼女から受けとった煙草が全て灰になるまで、俺は何故かその場に立ち尽くした。手に握りしめた二箱のラッキーに目を落とし、シドと出会ってから交わした数えきれないほどの他愛のない言葉を思い出しながら。


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