蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 久住ケイ②

久住ケイ(25)…101号室のサラリーマン
櫻井恵(22)…203号室の自称絵描き

常に触れていたいのは、とても身近な非日常。新興都市から少し離れた、あるアパートの住人たちの話。

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快晴、晴天、清涼な空気、閑静な一角、窓辺で紅茶を嗜みたたずむ僕。これでどこかで殺人事件でもあれば娯楽性言うことなしだ。

そんな静かな午後。唐突に慌ただしいサイレンの音が響き渡り、確実にこちらへと近づいてくる。ここからは見えないが白と赤を基調とするあの車が、アパートの前で停まった事はわかった。
また櫻井くんかなあ。
窓から首を出してみるが、やはり方向的に何もみえやしない。
今度は何をしでかしたのかは知らないが再び腰を落ち着けてみれば、立ち上がった時にでも当ったのかマイセンのカップがひび割れてソーサーにその液体を満たしていた。

「あーあ、勿体ない」

せっかく気に入っていたのに、いつか理央さんと一緒にお茶する時に使うつもりだったのに。
もはやただのゴミと化した陶器をビニール袋に詰め、零れた液体を雑巾で拭いた。几帳面で綺麗好き。これは僕が幼い頃からの評価で、覆ることはない。汚い物は嫌いだ。目にするだけで虫酸が走る。
まずそんな部屋でのうのうと生きていられる神経を疑う。

櫻井くんの部屋も随分と凄まじいが、あれをアートだと思えばどうということもない。理央さんはどうだろう。残念だが、僕は彼女の部屋をちらりとも見たことがないのだ。だがあれだけ美しい人の部屋が荒れているなんて事は有り得な過ぎるから、見事な整理整頓ぶりであるのは間違いない。

こんこん、と扉が叩かれたのは、ゴミ箱にビニール袋を落としたのと同時だった。来客なんて珍しい。首をこきこき鳴らして「はい」と、とりあえず返事をする。


「こんにちはあ」

「あれえ、さっきの、君じゃなかったの」

幾分声を上げて出迎えた僕に、何故だかタオルケットと枕を抱えた櫻井くんはいつも通り何を考えているのか全く読めない目でこちらを見つめ返しただけだった。
彼は理央さんより一つ下だから今二十二歳な筈だが、どう見ても高校生にしか見えない風貌をしている。
少年のように純粋だから、だとかいう理由ではない。単純に、そんな顔をしているのだ。


「やあ、櫻井くん。ご機嫌いかが?」

「んふふ、わかんない」

人懐こい笑みを浮かべ、櫻井くんは腕の中の枕を抱え直した。細い指がしなやかに食い込んでいて、悪くない眺めだ。

「あぁそう。じゃあいいんだね」

そう返してやると、相手は冷めた目付きで少しだけ笑った。可愛い。彼のそうやって笑った顔は、理央さんの蔑んだ顔と同じくらい好ましい。

「あのね、お願いがあるんだけど」

僕より十センチ近く低い位置から見上げてくる櫻井くんには、よく見ればあちこちに赤黒い液体が付着している。油ではなさそうだが、絵の具の類を付けたままなのもいつもの事なので、たいして気にも留めず首を傾けて話を促した。

「しばらく、こっちに泊めてほしいんだよね」

「君を? それまたどうして」

玄関先に置いた灰皿スタンドを引き寄せながら聞くと、彼は露骨に嫌な顔をした。煙嫌いなのは知っていたが、ここは僕の部屋なのだ。

「また何か壊した?」

「壊してない」

「じゃあどうして。僕があれだけ誘ってもちっとも来なかったくせに。心境の変化? まあ、いいけどね」

僅かに顎を引くと、櫻井くんは嬉しそうに部屋の中へと上がり込んだ。
サイレンの音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。

「何かしたの?」

「おれは何にもしてない。でも部屋ン中は水浸しだし、血だまりだし、証拠物件だし、おーやさんは怒ってる。そんなかんじ」

「血だまりって何。またリスカでもやったの」

「やってない」

そこまで聞いて先程のサイレンを思い返した僕は、運ばれていった人間の事を初めて考えるに至った。
心配からではない、明らかな興味からだ。

「もしかしてなんか、また、事件?」

そう考えたら、急にわくわくしだした。僕は基本的に心拍数が変わらないタイプの人間だけど、たまに、極たまに興奮出来る時がやってくる。まさに血湧き肉踊る、というやつだ。
だが、一瞬後に激しい後悔が襲ってきた。こんな事ならさっさと駆け付ければ良かった。成る程、カップが割れたのはこの不運の前触れだったか。
かつてこの部屋に住んでいたオザワさんがあんな事になった時には、まんまと第一発見者になれたっていうのに。
近頃のリサーチ不足を嘆いても仕方ないが、明らかに気落ちした僕をどう思ったのか櫻井くんが僕の手を握った。

「今日の朝起きたらあ、知らないお兄さんが部屋にいたの。でぇ、何だかんだあってそうなったっていうか」

「……いやいやいや。今重要なところが飛んじゃったよね。僕としてはね、その何だかんだが知りたいんだけど」

改めてまじまじと櫻井くんを眺めれば、絵の具かと思っていたどろりとした付着物は血液だと知った。一部肉片な気もするが、たぶん、かなり素敵な出来事が起こってたはずだろうから、どういう状況だったのかは想像するよりぜひこの耳で聞きたい。


「たいしたことないんだってば。知らない奴が勝手に、おれの部屋でぎゃあぎゃあ泣いてわめいて、最後に救急車呼べって泣くから呼んでやっただけだもん」

余程面倒なのか日常茶飯事なのか、櫻井くんはつまらない、と零し欠伸を交えて適当な説明を僕に寄越すと、「ケイちゃん、おれ紅茶飲みたい」と先程まで僕がいた窓辺に座り込んでタオルケットを被った。
どうやら、そこを寝床に決めたらしい。
そして僕がいくら聞いても、こちらを見向きもしなくなった。

結局何があったのかはわからないままだったが、それでも、僕が出遅れたのは確かなことだった。

「あぁ……なんで君ばっかりそんな幸運に恵まれるんだろうねぇ」

新しく入れた紅茶を二つ運びながら、我が身の不運を嘆く。

「くふふ。ケイちゃんてホント最低だよね」

櫻井くんの声を聞きながら、紅茶を口に含み溜め息ごと飲み込んだ。遠くに聞き慣れたサイレンが再び聞こえだす。僕は再度溜め息を付かずにはいられない。

二杯目の紅茶は、酷く不味かった。

【END】


2010年05月30日(日)
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