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■ かくれんぼホリデイ①
※閲覧注意。暗めの話。
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《prologue》
僕が彼女に会ったのは、無機質でやたらと床がぴかぴかした白い病室だった。
父が経営する山奥の施設は、表向きは至極良心的な診療施設ではあったけれど、概ねの建設理由としては、僕を閉じ込めておく為の物だったように思う。
それでも空きベットを遊ばせて置くよりは、とその筋の紹介状が無ければ入院自体は許可しない随分と保守的な病院となっていた。
僕はここで少年期のほとんどを過ごした。
彼女は僕の存在をほとんど知らなかったけれど、僕は自分にあてがわれた部屋から時々散歩する彼女を眺める事はよくあった。
病室に似た無機質な表情をした綺麗なその少女を僕は、くぅと呼んだ。
勿論本人にそう呼ぶようになったのは、随分後の事であったけれどそれは彼女の名前の頭文字を読んだだけ、な今思えば稚拙な呼び名だったと苦笑する。
今なお、くぅと呼んで側に置く理由はよく分からない。
僕は彼女に恋をしているのかもしれないし、よく似た者同士で戯れ合っているのかもしれないし、そのどちらでもないのかもしれない。
それでも暗闇を抱えるような彼女の存在は、僕を安堵させる。
ただ一つ言える事があるなら。僕が彼女と出会ったのは必然であった、と言う事だけだ。
*****
私は少しばかり、精神を病んでいた。
ほんの少しばかり。
それが元で行き始めたばかりの学校を休学し、入院する事になった。
父の旧知の友人が経営しているという総合病院の分院が、私の静養場所になった。
その病院は農村近くの郊外にあり、良く言えば空気の澄んだ緑溢れる場所であったが、悪く言えば電波すら届かない田舎。
緑しか目に付かない風景の中で、真新しく人工的な真っ白い五階建ての病院は端から見ても場違いに異彩を放っていた。
病棟は旧館と新館が二棟に分かれて建っており、その名称そのままに一見しただけで放つ色合いは異なるものだった。
旧館は明治の頃からと言うから、その古さは私の年代からすれば遙か昔だ。
北側に建つその旧館は閉鎖されているものの、人の出入りはあるようだった。
そのせいか隔離病棟だと専らの噂だったが、私自身確認した事はない。
初夏の風が吹き始める、季節。
汚れ一つない白い壁、白いベット。
広い部屋にそれだけ、という簡素さ。
酷く無機質な病室に、私は飽き飽きしていた。
来院する外来患者はこんな田舎であるのに意外に多く、昼間の待合室は割りと賑やかだった。
それでも入院患者病棟はひっそりとしていて、あまり人気がなく気味が悪かった。
広い敷地内を歩く人間はほとんどいなかったが、散歩がてらに私はよくそこら中を散策し暇を潰した。
新館の待合室から硝子窓越しに見える四季の花々に彩られた庭園は、気まぐれに歩くには恰好の場所だ。
心地良い風が吹く午後、私は何となくいつもの場所ではなく、旧館の方へと足を向けた。
隔離病棟の噂が醸し出す古い建物独特の鬱蒼とした雰囲気はあったけれど、眩しい日の光はそんな重苦しさを払拭する。
新館と違い多々雑草が伸びた様相ではあるが、まるきり放置されている訳でもないらしく、歩くのが困難という程に荒れてはいない。
建物の裏側まで足を踏み入れれば。
高い塀と建物の間に、あまり手の入れられていない小さな池を見付けた。
まばらに生えた背の低い剣のような薄緑の雑草、この場所を隠すかのように植えられた数本の幹の太い木々はクスノキらしい。
雑草の中に埋もれるように、静かな水面に濃い緑の藻を浮かべるこじんまりした池に昔作った秘密基地のような、子供染みた高揚感を感じた。
元からあった物なのか作られた物なのかは分からないが、おそらくは前者なのだろう。
わざわざ作らせたにしては稚拙な出来であったし、こんな目立たない場所にあるのも変だ。
それでも水があるなら、生き物くらいはいるかもしれない。
随分、水が汚れて水中は薄らとしか見えなかったけれど、私は池のほとりまで近づいて中を覗き込んだ。
緑一面の水の色、そこに私が映り込む。
体調が良好なようには、とても見えない様相。何て暗い表情。
緑がかった水面をしばらく覗き込んでいると、ふと濁った水の中に白いものが、ゆらゆらと揺らめいているのに気付いた。
何だろう。
前屈みに覗き込みその正体を見ようとしたけれど、透明度の低い藻だらけの水と底の方で揺らぐせいで、それが何か見極める事は出来ない。
こんな小さな池なのに深さは割とあるのか、それはかなり下に見えた。
ぱしゃん、と水が音を立てる。
魚、だ。
揺れた水面に魚影を見付け、私は急に熱心に覗き込んでいる事が馬鹿らしくなって痛くなった背中を伸ばし、池の端に生えた藻を突く小魚をしばらく眺めた。
人気が無く静かだ。
一度伸びをしてから、私はもう一度その場にしゃがみ、ぼんやりと魚を視線で追った。
バシャバシャと名前も分からないような小魚が、藻を熱心に突き、水面で何度も口をパクパクと開閉させる。
それらを眺めてほとりに座り込む私の頭上に、ふと影が差した。
「君、患者さん?」
少し高く掠れたその声に振り返り、しゃがんでいた私はそのまま上を見上げる。
すぐ後方に人が来ていた事に、私はその時になって初めて気が付き、僅かに身じろぎした。
頭上まで上っていた太陽と重なり、眩しくて目を細めてしまう。
――少年。
見た事はない顔。
新しい患者だろうか。そのような服装はしていないけれど。
「ここ、立ち入り禁止だよ」
柔らかく微笑み、彼は草むらを指差した。
その声音の独特さは聞き覚えがある。
変声期だ。
久しく会っていない兄が声変わりした時と、同じような。
指された方角に頭を向ける。
雑草に隠れるようにして、木のプレートで作られた「立入禁止」の看板が放り投げられているのが目に入る。
それは、何の役目も果たしていないように思えた。
「そう、なんだ。知らなかった」
それならお互い様じゃないか、という気持ちが私の中に起こり、自然と素っ気ない態度になる。
「イツキ以外、立ち入り禁止なんだよ。ここは」
心の中を読んだように、彼はにこりと綺麗な笑顔を零して依然と私を見下ろして付け加えた。
「誰って?」
当然の質問だった。
突然名前らしきものを出されても、戸惑うに決まっている。
よく見れば端正な容姿をした少年は、涼やかな表情をして私を見つめ返した。
「イツキだよ」
それだけ言って、少年はまた微笑む。
自然で柔らかく満遍のない――そう、誰からも愛されて育ったような微笑。
イツキ、というのはどうやら彼の名前らしい。
樹、と書くのだろうか。
彼の穏やかで温もりのある笑い方には、森林を意味するその字がすぐに思い浮かんだ。
しかし私は眉を顰る。
まともに会っていれば少しは好感を抱いたかもしれないが、唐突に現れた彼の言動、それにその年齢で自分の事を名前で呼ぶような振る舞いは、私に不快を抱かせる。
だから彼の名が実際にはどのような字体であろうと、どうでも良い事に違いなく、一つの結論に達する。
――だからどうだと言うのか。
目線を外し、伸びきった髪を掻き上げる。
幾分、雑に。
立ち入るな、と言われても聞く気はなかった。
時折庭に吹き抜ける風が揺らす草木以外、何も物音は無い。
時間だけが緩やかに過ぎ、肌に感じる心地良さに身を浸す。
――が、ふと気になって振り返って空を仰いだ。
物音もしないという事は、彼が立ち去っていないのだと思ったからだ。
けれども。
そこには誰もいなかった。
昼食は茄子のトマトパスタに胡瓜とキャベツのサラダ。
フォークを手に取ってパスタを一巻きして口へ運んだ時、レール式の横開き扉が滑るように開いた。
「楠田さん」
私は入って着た水色のパジャマに身を包む、少女の名前を呼んだ。
「食事中御免ね、忘れものしてたの」
彼女は隣の病室に入院している患者だった。
私と違って朗らかに笑い快活に喋る彼女は、病院内でも誰からも好かれているようだった。
どこが悪いのかは忘れたが、見る限りでは体調に問題はないように思える。
「何忘れたの?」
彼女とは午前中に、この病室で話したばかりだ。
性格は正反対ではあっても、年が近い事もあり私と彼女は自然と仲が良くなった。
「外したピンを置き忘れていたみたい」
窓枠歩み寄り、なるほどそこに置きっ放しになっていた花を象った可愛らしいピンを手に取りにこりと微笑む。
その表情を見て、お日様みたいね、と看護師が彼女に言っていたのをふと思い出した。
彼女が太陽なら、差詰め私は月を取り巻く闇だろうか。
「お邪魔しました。また後でね」
と足早に出て行く。
あまりベタベタしない所も、好感を持てる一因だ。
仲が良くなったのには、もう一つ理由がある。
彼女も私も大層な読書家だった。
その点だけが、唯一似通っていると言える。
食事もそこそこに私はサイドテーブルに置いたままだった、小説を手に取りまた読み始める。
四人部屋に一人きり。
煩わしくなくて丁度いい。
あまり人付き合いの得意でない私は、独りでいる事を好む。
病気の症状から、他人は私をよく嘘つき扱いした。
ここではそんな扱いを受けた事はないが、学校に行っていた時はそういった中傷は当たり前の事だった。
小説を読むか散歩をするか、入院生活の方が私には向いているかもしれない。
仲良くなった人間は楠田さんくらいで、患者で言えば誰一人いない。彼女にしても向こうから積極的に話し掛けて来なければ、言葉を交わす事などなかっただろう。
その楠田さんに借りた小説を読む内、朝に会った少年のことも忘れ、その内容に没頭してあっという間に日没を迎えてしまった。
病院の消灯時間は早い。
「じゃあ久美ちゃん、おやすみなさい」
いつものように担当医から簡単な検査を受け、消灯を知らせに来た看護師に電灯を落とされた。
つまらない。
小説の続きを読もう、そう思って頭上のライトに手を伸ばした。
かちり、とスイッチを入れた音がする。
けれどライトは点る事もなく、変わらない漆黒だけが私を包んだ。
故障か。真新しいであろうライトに、軽く舌打ちをする。
この程度でナースコールを押すのも憚られ、大人しく布団の中へと潜り込む事にした。
電灯が消された室内で、身じろぎせずに上布団を肩まで被り、目を閉じた。
静かな夜。どれくらい経ったのだろう。
うとうととし始めた時、扉を開ける僅かな、音がした。
暗い室内に歩く、人影。
性別すら分からない程の暗闇に、私は体を固くする。
見回りだろうか、そう思って影を目で追う。
「今日は満月だね」
不意にベッドを囲むように閉じたカーテンが、揺れる。
変声期独特の掠れた高い声。
「誰?」
影は私の側でぴたりと止まり、忍び笑いが聞こえた。
「今晩は」
瞬時に頭に浮かぶ、昼間会った少年の顔。
私は少しぞっとする。
全くの得体の知れない、不安を引き起こす。
「何で」
闇の中で呟いた私の問いは、あまりにも無意識で自分でも何を問うているのかは分からなかった。
「君は患者なの?」
体を起こす。きしり、とベッドが鳴った。
「ねえ、あれ。どう思った?」
私の質問には答える事無く、少年は声を潜める。
それでも言葉の端々にひどく興奮している事が、手に取るように分かった。
「あれって」
「あれだよ。池の中、見ただろ」
「池の中?」
何の事か分からずに、私は「池の中」と繰り返した。
「覗き込んでたじゃないか。面白くなかったかい」
さっぱり分からない。
この子は少し頭がおかしいのではないか。それともおかしいのは、やはり私の方なのだろうか。
興奮を含んだ声は、静かに続ける。
「ねえ、もう一度見てご覧よ。君なら、見ても構わないからさ」
さらりとした、髪が頬に触れた。
そんな間近に近付いているとは思っていなくて、私は体をびくりと震わせた。
森林のような匂いが、髪から香る。
寄せた吐息は冷えていて、肌の白さに息を飲む。血管が透ける程、病的に――そう病気のような。
「見に行こうよ」
「……」
どうしてベッドから出てしまったのか、自分でも分からなかった。
少年――イツキの声は、命令的でもないのに、何故か抗う事を許さない。
ふらふらと付いていく私は、まるで夢遊病者のようだと思った。
手を引かれ私達はあの池へと向かう、夢を見てるようなおぼつかない足元のせいで私は幾度か躓き、膝に擦り傷を作りその痛みの度に、夢ではないと覚醒する。
都会ではないせいか、夜になれば幾分温度は落ち着いて、肌に当たる夜風は涼しい。
けれどそれは心地良くはなく、ただただ寒々しかった。
私は、何をしているのだろう。
旧館の側に寄れば寄る程に、夏の虫の鳴き声が鼓膜に突き刺さる程に煩く、私は耳を塞ぎたくなった。
昼間の自然の健康的な緑の色合いとは一変し、暗がりの中で見る池端は雑草と樹木で鬱蒼として見えた。
気味が悪い。
かさかさとパジャマの裾に擦れる雑草も、やけに大きな音に感じる。
足首を撫でる柔らかな草さえ、不愉快だ。
こじんまりとした池に違いないのに、月夜に照らされたそこは、大きく確かな威圧感を持って私を迎え入れた。
藻が浮かぶ汚れた水。
満月が映りこむ静かな、とても静かな空間。
不意に虫の鳴き声が、止んだ。
揺らぐ薄緑に染まった水は今は黒くて、きらきらしている。
浮かぶ葉。
映る月。
ただの庭を、夜は幻想的に見せる。
そっと、息を吐いて水を眺める。
揺らめいて見える白いもの。
水面からそう遠くはない、場所にあるもの。
風が止まる。息を止めて私は水面を見つめる。いつも揺らめいている水が、静かになる。
白いもの。
それが何なのか、私には分かっていたのかもしれない。
「あ」
「見えた?」
不意に、吐息と共に耳元で囁かれる声。
喉元までせり上がる叫び声が漏れなかったのは、背後から抱きすくめるほっそりとした腕に怯えたせいだ。
森林の匂いが、する。
「……あれ」
一呼吸後、風がまた凪いだ。
「うん。ねえ、面白いでしょう?」
風さえ、ぴたりと止んで、掌にじわりと汗が滲む。
2010年06月12日(土)
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