月に舞う桜

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2006年11月30日(木) テレビの中に、懐かしい顔

夜8時45分から15分間放送されているNHKニュースで、日本エイズ学会のシンポジウムの様子が取り上げられていた。何気なく見ていると、パネリストの中に見知った顔を見つけた。大学で私が所属していた専攻のT教授だ。テーブルの前に張られた名前も確認したし、間違いない。

大学時代、私は倫理学というものを専攻していた。倫理学は哲学以上にマイナーな学問で、哲学専攻の中に含まれている大学が多く、倫理学という独立した専攻があるのは私立ではうちの大学くらいらしい(今はどうだか知らないけど、当時は)。
私はサルトルやキルケゴールといった実存主義を学びたかったので、大学は全て哲学科があるところを受けた。
ところが、大学に入ってすぐ、私はサルトルにまったく魅力を感じなくなり、「哲学より断然倫理学だわ!」と思うようになった。それで、2年に進級するときの専攻選択で迷わず倫理学専攻を希望した。
2年次で専攻に分かれた当初、私は生命倫理に興味があった。そして、師事しようと思っていたのが上記の教授だった。結局、途中でエマニュエル・レヴィナスに出会ってしまったために、私はゼミを決める土壇場になって方向転換をし、師匠のゼミに入ったのだけど。
でも、T教授の授業を受けることができて良かったなと、今でも思う。あの授業で教授の話を聴き、生命と向き合い倫理を語ることの重さや真摯さや厳しさを垣間見たからこそ、自分には生命倫理にきちんと取り組む覚悟も強さもないと判断できたのだ。
授業でも、教授はやはりHIVを扱っていた。一番印象的だったのは、最後の授業。教授は、「関心は持って欲しいけれど、ここにいる全員がHIVの問題にコミットする必要はない」と言った。世の中にはたくさんの問題があるけれど、一人で全てにコミットすることはできない。でも、一つでいいから、自分が本当に一生懸命取り組めるものを見つけて、社会のどこかにコミットしなさい、と。
私はいろんなことを知りたかった。でも、いろんなことを知るということと、一つ一つに足を突っ込んでみることは違うのだ。中途半端に足を突っ込むことは、本当に真摯な気持ちと態度でそこに関わっている人たちを冒涜することにもなる、と思った。T教授の言葉が全てではないけれど、自分が本当に学びたいことは何だろうと考えるきっかけの一つだったことは確かだ。考えて、私は生命倫理にコミットする勇気がない、という結論に至った。

テレビの中にT教授を見つけて、何だか嬉しかった。懐かしいというのもあるけれど、今でもHIVの問題にきちんと関わっていることが分かって、約束(それも、私の中だけの勝手な)が守られているような気がしたのだ。あぁ、裏切られていないな、と思った。

もしも倫理学専攻のない大学の哲学科に行っていたら、どうなっていたんだろう。私は第一志望の公立大学に落ちてうちの大学に入ったのだけど、入ってみたら自分に合っていたし、本当に学びたいことにも、師匠にも友人たちにもレヴィナスにも出会えたので、結果的にはものすごく良い進路だった。運命とか巡り会わせって不思議なものだなぁとつくづく思う。


2006年11月28日(火) 気分だけでも

母は2年ほど前からピアノを習っている。今まで家では電子ピアノで練習していたのだけれど、とうとう本物のピアノを買ってしまった。
そのピアノが今日届いた。茶色の艶消しタイプで、なかなか恰好良い。が、私が注目したのはそんなことではなく、メーカーがKAWAIということだ。KAWAIと言えばYOSHIKI、YOSHIKIと言えばKAWAI! うちのはグランドピアノでもクリスタルピアノでもないけれど。
というわけで、さっそく私も触らせてもらい、『Forever Love』のサビを叩いてみる。気分はYOSHIKI……か?


2006年11月24日(金) アヒルに負けじと、たらふく食べる。

中華のオーダーバイキングに行って、初めて北京ダックを食べた。
私は鳥類が苦手なので(鶏肉は大好きだけど)、「たらふく食わせるだけ食わせて殺したアヒルを丸ごと焼くか何かして、油だかタレだかをジャーっとかける」という北京ダックの作り方をテレビで見て以来、さばかれていない丸ごとのアヒルが脳裏に焼きついてしまって、北京ダックを食べたいとあんまり思わなくなった。話のネタに一度くらいは食べてみるのもいいか、とは思っていたけれど。
が、食べてみると、これがおいしいのね! 出てくる北京ダックはもちろん丸ごとじゃなく、薄くスライスされているわけだし、問題ない。
バイキングなので、張り切ってとにかくたくさん食べた。フカヒレスープ、エビチリ、小龍包、豚の角煮、ブロッコリーとカニ肉炒め、鶏肉とカシューナッツ炒め、ナスのピリ辛炒め、杏仁豆腐……もしかすると、他にもまだ思い出せていないメニューがあるかもしれない。思い出せないくらい食べたのだ。繰り返すけど、バイキングなので。中華を普通にあれだけ食べようと思ったら、いくら掛かるか分かったもんじゃない。ビバ、バイキング!
ものすごぉくお腹いっぱいになった。お腹いっぱいになって、眠くなって、帰るのが嫌になってしまったくらい。カロリー摂り過ぎだ。しばらくは質素な食事にしないと。
帰りにちょっと時間をつぶすため、コンビニに寄った。そこでかわいい子猫のカレンダーを見つけ、まだ来年のカレンダーを買っていなかったので即購入。どの月の子猫も、食べてしまいたくなるほど(?)愛くるしい。猫好きで有名な霜月楓さんがご覧になったら、きっと萌え死にすることだろう(笑)。
そう言えば、来年の手帳をまだ買ってないなぁ。そろそろ買わねば。最近は本当にいろんなタイプの手帳がたくさん出ていて、新聞でも「使い勝手のいい手帳とは?」なんていう特集が組まれていたりするけれど、私はシンプルなものでいいのだ。あ、シンプルでもかわいいやつね。仕事柄と言うか人生が暇と言うべきか、書き込まなきゃいけない予定もそんなにないし。とりあえず、26歳にもなってムーミンの手帳を使っているのもどうかと思うので、来年こそキャラクター物を脱したい。……と毎年思って早数年。


2006年11月23日(木) 貴方のように、子供の味方で

作家の灰谷健次郎さんが亡くなったそうです。
中学時代、灰谷さんの小説ばかり読んでいた時期がありました。
私は、中学校という場所があまり好きではありませんでした。ちょうど世の中の不条理や生き辛さというものをだんだん感じ始め、でもそれを自分の中でうまく言葉にすることができない年頃だったというのもあるでしょう。あの頃、表向きは優等生だったけれど、内面はぎすぎすしていたように思います。
そんな中、灰谷さんの『砂場の少年』や『少女の器』や『兎の眼』を読んでずいぶんと救われたものです。「あぁ、大人の中には、こんなふうに子供の味方もちゃんといるんだなぁ」と安心したのをよく覚えています。子供が感じている痛みや怒りをきちんと分かっていて、子供の味方でいようとしていて、その思いをちゃんと言葉にして人に伝えられる大人がいる、それだけで世の中にちょっと希望が見えるような気がしました。そして、言葉で人に救いや希望を与えられるなんて、作家ってすごいなぁとも思ったものです。
高校に入り、『天の瞳』を2巻目くらいまで読んだのを最後に、私は自然と彼の小説を卒業していきました。でも、本棚の奥には今でも文庫本が何冊か並んでいます。ときどき本棚を整理して、「もう要らないな」と思う本を処分するのですが、灰谷さんの小説を捨てたり売ったりしようと思ったことは一度もありません。今の私は彼の言葉がなくても生きていけるし、もしかすると彼の小説は私にはもう必要なくて、二度と読むことはないかもしれない。それでも、たぶんこれからも手放す気にはならないだろうと思います。
灰谷健次郎さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
そして、私が少しでも灰谷さんのように子供の味方でいられますように。そんな大人が一人でも多くいる社会になりますように。


2006年11月19日(日) 乗り換え時

体調は悪くないし、もちろん風邪を引いてもいないし、精神的にもすこぶる健康なのだけど、とにかくよく眠る。放っておくと際限なく眠ってしまうんじゃないか、睡眠時間がちょっとずつ長くなって、そのうち眠ったまま死ぬんじゃないか、と思う。それくらい、よく眠った週末。
ま、いいや。眠るのだって実は体力を使うのだ。だから、たくさん眠れるのは若い証拠。
明日からまた仕事。寒い朝に早起きしなければならないのは辛いけれど、朝寝坊でだらけまくった体をしゃんとさせるには、ちょうど良い。何だかんだ言っても、規則正しい生活をせざるを得ないのは、お勤め人の利点だと思う。仕事のせいで規則正しい生活ができないってなると、それはまた別だけど。私はそういう場所では端から働けないし勤める気もないので。
私、自由業だったらどれだけ堕落しちゃうんだろう、と思う今日この頃。

私はソフトバンクの携帯を使っておりまして、J-PHONE時代からのユーザーなわけですが、番号ポータビリティ制度が始まってからというものauに乗り換えようかとずっと迷っています。
いや、別にauがどうってわけではなく、ソフトバンクのデザインや最近のやり方がどうも……ねぇ。何だか、アレなわけですよ。自信を持つことと強気であることは違うと思うし、あまりにも「うまそうな話」を見せられると「わたしら、騙されてるんでない?」と勘ぐっちゃうんですよ。私、天邪鬼なもんで。ま、謙虚でない姿勢は何にしても好きくないです。
で、auのサイトで料金プランや機種を見て比較検討してます。ソフトバンクは長いこと使ってるおかげで基本料が安くなっていて、この割引を手放すのは非常に惜しい。あと、新しいメールアドレスを友人知人に知らせるのが面倒臭い。ネックはこれだけって言えばこれだけなんだけど。
しばらくは今の携帯を使って、機種変したくなったらauに乗り換えようかと今のところは思っています。ソフトバンクになって以来、岡田くんもCMやってないしねぇ。


2006年11月15日(水) 晩秋の景色

朝の通勤途中、線路沿いの道を太陽に向かって真っ直ぐ歩く。その道は太陽に照らされているおかげでほんのり暖かく、辺りの景色は柔らかな黄金色だ。最近、朝は本当に寒くてどんどん冬に近づいてる感じがするけれど、その線路沿いの道を歩いているときは、まだまだ秋なんだなぁと思える。
秋は、時間の流れ方がたまに分からなくなる。時間がものすごくゆっくり流れているように感じて、「あれ? 私、こんなに急いで仕事に行ったりしないで、もう少しのんびりしていていいんじゃないのかな」と錯覚を起こしてしまいそうになる。もっとひどいときは、このまま時間が止まって何一つ変わらずにいられるんじゃないかと思う。時間を無限に与えられているような感じ。本当は、時間が無限にあったりしたら途方に暮れてしまうけれど。
角を一つ曲がったら、そこはもう日陰でかなり寒い。現実に目覚めた私は、首を縮めながら暖房の効いた職場を想って道を急ぐ。


2006年11月09日(木) 結局言いたいのは、ありがとうって、ただそれだけ。

心身が疲労したとき、特に心的エネルギーががくんと減少してしまったとき、私はとにかく独りになりたい。人と関わるのが億劫で、自分の世界に閉じ篭ってじっとしていたくなる。
独りの時間は大切だ。ほかの全てが完璧でも、独りの時間を確保できない生活環境には耐えられないと思う。誰かと接することは、相手がどんなに好きな人であっても多少なりともエネルギーの要ることだ。そのエネルギーを、私は独りでいられる時間に蓄える。
友達と遊ぶのも楽しいけど独りでぶらぶら買い物するのも大好きなのは、私が一人っ子だからじゃないかと言われたことがある。独りでいることに慣れているのだろう、と。
自分で分析してみるに、慣れているのではなくて、むしろ渇望だ。大学入学を機に電動車椅子というものを手に入れるまで、私は誰かがいなければ外出や学校での教室移動ができなかった。物理的に(身体的に)不可能であるということに加え、どうしたって目立ってしまうので、そういう意味でも勝手にふらりとどこかへ行くことは難しかった。例えば周りが見ていない隙にその場からちょっと抜け出して、また気づかれないように戻って来るとか、先生の目を盗んで委員会をサボって帰ってしまうとか。
今の私は自分にとって自由の象徴であり最大の武器であり味方である「紺ちゃん」を手に入れたので、他人事みたいに忘れかけてしまった節があるけれど、誰かがいないと動けなかったりいつも誰かに見られていたりするのは、他人が想像するよりもずっとストレスの強い状態だ(ったろうと思う)。
だから私は、独りの時間を確保できる環境をずっと望んでいた。それで今、例えば横浜駅のような、人が大勢いるけれど私を知っている人はおらず、「あ、車椅子の人が通っているな」くらいは思われるかもしれないけれど特別関心を持たれずに、まるで私なんかいてもいなくてもどうでもいいみたいな雑踏の中で「その他大勢の一人」でいられる時間が心地よくてたまらない。

でも、当たり前だけど、人と関わることは大切だし、大切にしていきたいと思う。他人がいなければ生きていけない。それは、自分が物理的な手助けを必要とする体だからではなくて、もっと精神的な意味で。
私はときどき、「普通の感覚」が分からなくなる。たぶん「普通」なんてものはどこにもないし、人の感じ方や価値観はそれぞれだから、分からなくなっても自分の芯を持っていれば別にいいじゃんと思わないこともない。でも、自分を歪めないためには「普通の感覚」を手繰り寄せることも重要なのだ。
私は嫌だと思うけど他人は気にしないこともあるし、私が平気なことでも誰かは嫌でたまらないと思っているかもしれない。お互いに配慮すれば、感じ方なんて人それぞれで構わない。
だけど、問題なのは、本当は嫌なのに嫌じゃないと思い込むことがあるということ。しかも、私の場合は意識的にではなくて、それはもう見事に本心から「全然OK(←日本語おかしい)」と思ってしまうことがある。耳を澄ませて突き詰めれば、やっぱり嫌かもしれないのに。
それで、「別に平気だよ?」という顔をしているところに「それって、嫌じゃない?」と言われたりして、はたと気がつくのだ。あ、これって嫌だと思ってもいいんだ、と。普通の感覚ってそうなんだ! と目から鱗。
嫌だと思ってもいいことなんだ、という気づきがあること自体、自分を歪めていた証拠だ。自分を歪めていなければ、「私は別に平気だけど、この人は嫌なんだな」と違いを認識するだけだから。不快を無意識的に無視して平気なことを増やすのは、スムーズに生きていくための手段だろう。だけど、それが積み重なるとどこかで自分が破綻する。
こういうとき、私は人と関わることの大切さを実感する。普通の感覚に気づかせ、取り戻させてくれる人がいるということの大切さと有難さ。だから、人と関わることがどんなに面倒でも、やっぱり人と関わらなければ生きていけない。


2006年11月06日(月) おいしくて、つよくなる

やっぱりブーツは超あったかーい!
「3連休だったから、桜井さんはどこかに買い物に行っただろうと思った」と同僚に見透かされている桜井です、どーも。
今日は同僚(上記とは別の人)に貰って久しぶりにビスコを食べました。この大きさのやつです。懐かしいー&おいしいー♪
ビスコは大学の生協に売っていたので、よく食べてました。今日食べたのと同じミニビスコがレジのところに置いてあるので、ついつい手に取っちゃうんですよね。
ブーツという防寒の強力な味方を得た上に、ビスコを食べたので更につよくなりましたとさ。


2006年11月04日(土) 黒づくめ

黒いコートとブーツを買った。両方とも、歩き回ってやっと見つけただけあって、かなりのお気に入りだ。
私の場合、合う靴を見つけるのが難しい。まず、足が小さいのでサイズがなかななかない。女性の靴は23~24㎝が主流のようだけど、私は22㎝か22.5㎝じゃないとだめなのだ。それから、ヒールが高いものは絶対にNGだし、ブーツの場合はあまりロングだと膝の裏につかえて痛いので、これもNGだ。あと、足首が硬いので、ブーツはファスナーが付いていて履きやすいものがよい。これらの条件に加えて、もちろん素材や色やデザインも重要。いくらサイズがぴったりでヒールが低くて履き易くても、ファッションとして気に入らなければ絶対に買わない。女たるもの、妥協してはだめなのだ!
と言うわけで、私のわがままな条件の数々を全てクリアしているような靴に出会うのは至難の業なのだけど、今日は無事に出会うことができた。実は、去年も黒いブーツが欲しくて探したのだが結局いいものが見つからず諦めたという経緯がある。だから、嬉しさ倍増。探し回った甲斐があったというものだ。
コートも念願の黒を買ったし、これで冬支度万全ですわ。

お昼ご飯は釜飯を食べた。
昔々、まだ子供だった頃は釜飯があまり好きではなかった。なぜ好きでなかったのか、今となっては不思議でならない。あんなにおいしいのに。初めて釜飯を食べたお店が運悪くハズレだったのだろうか。とにもかくにも今は釜飯大好きで、秋になると食べたくなる。
好き嫌いと言えば、私はいつからか三つ葉を食べられるようになった。ちょっと前まではものすごく嫌いで(噛んだとき口の中に独特のにおいが広がるものは嫌い)、お店で出てくると必ずよけていたのに。今日は釜飯にも茶碗蒸しにも入っていたのだけれど、どちらも気にせず食べることができた。「あぁ、私も大人になったなぁ」としみじみ思う瞬間である。そんな私は26歳。
季節の小鉢はオクラと何か得体の知れないものの和え物だった。私は最初、その得体の知れない何かをツナだと思い、「おいしそう♪」と喜んだのだった。が、しかし、よく見るとそれは湯葉を細かくしたもので、食べてみてもやっぱり湯葉だった。オーマイゴッド、湯葉は苦手なんである(何気に好き嫌い女王な私)。隣のテーブルのカップルも私と同じ勘違いをしたらしく、「これってシーキチン?」「違う、湯葉だよ」という会話をしていた。

そしてそして、お腹いっぱいになったあとは美容院に寄って帰ってきた。やっと前髪を切ることができた。めでたしめでたし。


2006年11月03日(金) はめることにはまる。

ネット上のジグソーパズルにはまる。
いろんな色に目をチカチカさせながら、おいしそうなスイーツや美しい風景をせっせと作り、時間がどんどん過ぎていく文化の日。なんとインドアな……。
そんなことやっていたら、本物のジグソーパズルが欲しくなってきたなぁ。ただし、ピースがあまり小さくないやつね。
昔、B'zのあるアルバムを買ったらおまけでジグソーパズルがついてきた。そのまま飾っておけばいいものを、わざわざバラして一から作ったっけ。


2006年11月01日(水) 月に急かされる。

昨日の帰り道、すっかり暗くなった空に月がくっきりと輝いていた。

実は今、サイト開設一周年企画として短篇を執筆中だ。一周年なんてとっくに過ぎてしまったけれど、それはまぁ、目をつぶってもらうとして。遅くなっているのは、パソコンが壊れるというハプニングがあったせい、ということにしておこう。
最初は、たまには不言実行を! と目論んでいた。が、しかし、やはり私は人にふれ回らないと本腰を入れられないらしく、不言実行は無理なようだ。有言実行も、ちと怪しいが……。
そんなわけで、こうして日記で公表することによって、自分に発破をかけている次第なのだ。

今日もまた、私を急かすよいに月が夜空に浮かんでいる。
小説は、月にちなんだような、ちなんでいないような、そんなものになる予定。


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© 2005 Sakurai Yuzuki