【Ⅰ. 朝の儀式】
「まもなく一番線から電車が発車します。」 「ピーーーッ」
―今日も一日が始まった。
始点から終点まで38分間。 名古屋の中心街へ出れば、次は地下鉄で一駅。 そこはビジネス街。 行き交う人は、皆一様にスーツを身にまとい、 疲れた表情は、改札に飲み込まれ、外へと押し出されてゆく。
改札の手前にある小売店で、私はいつものシュガーレスコーヒーを買う。 二日酔いの時と寝不足の時は、きまってピンクグレープフルーツ100%のジュースだ。 必ず、手提げのビニール袋に入れてもらい、改札へと向かう。 A3サイズがすっぽり入りそうなほど大きなカーテン地の鞄から、 定期券入れを取り出す。 改札機は、①から⑤まで、①を除いて両方向通行可能だ。 ときには、人の流れに任せて③を通らざるを得ないときもあるが、 私は、②か④を選ぶ。10番出口に近い②を通ることがほとんどだ。 出口を出ると、地下の息苦しさからは開放され、新鮮な空気が全身を包む。 歩きタバコをする中年のサラリーマンを睨みつけながら5分ほど歩けば、 会社のある9階建てビルだ。 私は、迷わずエレベータの「9」のボタンを押し、「閉」を押す。 僅かな時間、エレベータの壁にもたれかかる。 ドアが開き、いつもの掃除のオバチャンに 「おはようございます。」 と元気に挨拶すれば、会社のドアを目の前にして角を左に曲がり、 男子トイレを横切り、給湯室を左に曲がり、女子トイレの中へ 逃げるように身を隠す。 持ち歩き用のさつまつげの櫛を、洗面台の右端の常備しているポーチに忍ばせ、 私は、鏡の中にいる自分の顔に目をやる。鼻のあたりの脂をチェックし、 オフィスへ入る。
―今日も、私が一番ね。
オフィスの中を眺めながら、真ん中より奥の方にある自分の席へと向かう。 まずは、パソコンを立ち上げる。次に、鞄の中から携帯電話を取り出し、 お腹の引き出し左端にすべり込ませる。 裏紙を利用したメモ帳と、伝言メモ、 地元の商店街にある文房具店で見つけたお気に入りのボールペンと おそろいのシャープペンを取り出す。 右の3段に分かれた引き出しの一番上からは、 3種類の大きさのふせんとクリップが入った横長の小さな洋菓子の缶を取り出し、 デスクの右端の、いつもの位置に置く。
―私は、もう出社してるんだから。
鞄を右の袖机の一番下の引き出しに入れ、 私はオフィスの入口近くにあるお茶棚へ向かう。
オフィスでの一日の始まりだ。 木製の丸いお盆に、昨日使ったままの急須と、スプーン入れに、 その中に入ったスプーン、布巾用のタオルを載せ、 冷蔵庫の上に置かれた電気ポットを左手に持ち、右手でお盆を支え、 足早に女子トイレ手前の給湯室にへ向かう。 布巾掛にかけられた手拭用と茶器拭用の2枚のタオルを右下にある赤いバケツに入れ、漂白剤に浸す。 左下に置かれたタオル掛には、 昨日のうちに漂白剤に浸し乾かしておいたタオルが4枚かかっている。 2枚は、布巾掛にかけ、残りの2枚は、台所の右端に二つ折りにされた灰皿拭き用のタオルと台拭き用で、それぞれきれいなものに取り替える。 昨日一日使った台拭き用のタオルは、4つの応接と会議室を拭くために、 もう一度お湯で洗いなおし、きれいな台拭用タオルは、お湯で湿らす。 電気ポットに、熱湯を注ぎいれている間に、急須など洗い物を終え、 再び、新・旧の台拭き用タオルとともにお盆に載せる。 熱湯を線のところまで入れたら、行きと同じスタイルで、両手に抱え、 茶棚に向かう。
―まだ二人か。
オフィスを見渡せば、カスタマー担当の中年の男性社員が二人席についている。
―さすが、オジサンは朝が早いってのは嘘じゃないわね。
茶棚に向かって左にある木製の扉を開くと、そこから右側に応接が二つ並び、受付を過ぎたところに、4つある応接室の中で一番ランクの高い応接とやや大きめの応接がある。 扉から一番遠い大きめの応接から、順にテーブルを拭いてゆく。
―もう誰のよ、この吸殻。
応接のテーブルに置かれたお客様用の灰皿の中を覗き込む。
―支店長のものではないようね、この銘柄、若手のうちの誰かね。
20人ほど収容可能な会議室を最後に、私は吸殻入りの灰皿を持ち、 エレベータを横切り給湯室へ向かう。
「おはようございます!」
この時間になると、フル稼働のエレベータからどんどん人が降りてくる。 私は、きれいに洗った灰皿を応接に戻した後、 トイレへ逃げ込み、洗面台で二度目の脂チェックを行い、 櫛で髪を軽くとかした後、オフィスへ戻るのだ。
**今日の四字熟語**
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