世田谷日記 ~ 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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2015年01月03日(土) 2014に読んだ本のまとめ(2)

 
去年、読んだ(買った)本の覚書のつづき。



「こんな日本でよかったね」内田樹(文春文庫)

「寝ながら学べる構造主義」内田樹(文春新書)

「見知らぬ場所」ジュンパ・ラヒリ(新潮クレストブックス)※

「暗いブティック通り」パトリック・モディアノ(白水社)

「失われた時のカフェで」パトリック・モディアノ(作品社)

「最後に見たパリ」エリオット・ポール(河出書房新社)※

「文藝春秋 2014/2」




構造主義はもうとっくの昔に盛りあがって、あたりまえの教養となり、何をいまさらという感じかもしれない。けれども私からしたら、その教養、絵に描いた餅じゃんと思うのです。機能してないよね。


構造主義と対になる考え方として歴史主義というのがあるそうだけれど、いま日本を覆っているのは、この歴史主義みたいなものなんじゃないかと思いました。あと、内田先生は寝ながら学べると書いていらっしゃいますが、さすがに寝ながらは無理だと思うわよ!


ラヒリのはいまだに読んでいなくて、「最後に見たパリ」もなかなか手がつかない。モディアノ(ノーベル文学賞)は非常に沁みましたが、正直、こういうささやかな物語がよく受賞したなと、地味で長いショック(感慨)がいまも続いています。モディアノについては日を改めて書こうと思います。


☆実は今日は9月1日(!)で、書名のあとの部分をはじめてiPhoneから更新してみました。ツィッターみたいにここを使えないかな。つぶやき放題、炎上なしってことで。






2015年01月02日(金) 2014に読んだ本のまとめ(1)

去年、読んだ(買った)本の覚書。
すでにアップした三島本とカレル・チャペック「北欧の旅」を除いた本について二回に分けて書きます。
最後に※印が付いているのは未読本。



「小川洋子の偏愛短篇箱」 小川洋子/編(河出文庫)

「吉田健一対談集成」 吉田健一(講談社文芸文庫)

「旅の時間」 吉田健一(講談社文芸文庫)

「乞食王子」 吉田健一(講談社文芸文庫)

「私の詩と真実」 河上徹太郎(講談社文芸文庫)※

「天才について」 福原麟太郎(講談社文芸文庫)※

「号泣する準備はできていた」 江國香織(新潮文庫)

「がらくた」 江國香織(新潮文庫)

「小澤征爾さんと、音楽について話をする」 小澤征爾・村上春樹(新潮文庫)

「人生という作品」 三浦雅士(NTT出版)※


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「小川洋子の偏愛短篇箱」を買ったとき、これは面白そうだぞぅ!と喜び勇んで、この日記にもそのように記したのであったが、実際に読んでみると、収められている17篇のうち6篇が既読であった。
まあ、そういうこともあるだろうけれど、問題は立ち読みの時点で内田百閒、森茉莉、武田百合子らの作品が家の本棚にあると気付かずに、面白そうだ!と感激していたということなのだ。

正真正銘の未読短篇のうち面白かったのは「風媒結婚」牧野信一と「お供え」吉田知子。特に「お供え」はこわかった。ゾーッとしました。これは、内田百閒の「ツィゴイネルワイゼン」と同工異曲ですね。私も五十を大分過ぎたし、老親のお葬式を出すという経験もしているので、なおさら怖かった。



最寄駅そばの商業施設に入っている大型書店、この一、二年で、講談社文芸文庫の棚が半分くらいに縮小されました(悲)。ところがですね、商店街の老舗古書店(植草甚一が贔屓にしていた店)の文芸文庫の棚は面積を広げている。こういうのを、捨てる神あれば拾う神ありというのだろうか? よくわからないけれども、ここにあげた文芸文庫はすべてその古書店で、定価のほぼ半額で買い求めたものばかりです。有難し!

「吉田健一対談集成」 、書き言葉とは別の、話し言葉の吉田健一に触れることが出来て面白かったです。
池田彌三郎、佐多稲子と三人でふるき良き東京について語る回、先の大戦後に東京がすっかり焼け野原になって、高台からは本当に海まで見えるところもあったという話に、自分でも驚くほどの既視感を覚えたのは、三島の「暁の寺」で空襲で焼けた渋谷(南平台あたり)からの眺めの描写を読んでいたからだろう。

それから、池田彌三郎の実家(銀座の有名な天ぷら屋さん)、油にまみれて働いた職人が裏口から帰って、ひと風呂浴びてさっぱりしてから今度は三味線の師匠として表玄関から入ってくる話というのが印象的だった。池田彌三郎のお父さんたちは頭をさげてそれを迎えたというのね。
時間的にも、心的にも余裕がある。勝ち組負け組、格差なんて言葉を一蹴するような粋な日本の東京人の姿がショックでした。



「旅の時間」 は吉田健一の、国内外の旅をめぐる連作短篇集。一応一作ごとに主人公の名前がありフィクションの体裁になっています。わりと最近、1978年発行のユリイカ「特集:植草甚一氏の奇妙な情熱」の中で、植草さんが、無人島に本を持っていくとしたら?という問いに、吉田健一全集三十巻が出つくしていたらそれ、と答えているのを読んで仰天したことがある。
だって、かの松岡正剛だって千夜千冊のなかで、植草甚一といえばアメリカのポップカルチャーだと書いているわけで、それが英文学者の吉田健一の全集と言われたら誰だって驚く。吉田植草の両者をそれぞれに(重なる点などないだろうと思いながら)好んでいる者であればなおさらです。
また、同じユリイカの篠田一士との対談では、吉田健一のヴィレッジの夏を描いた「時間」なかの短篇がいいというような発言があって、、、そんなのあるんだーと思っていたのです。

ところが、そのヴィレッジの暑い夏に、バーで毎日酒を飲んでいる日本人の男の出てくる短篇は、「時間」ではなくて「旅の時間」に入っていたのですね。6番目に収められた「ニュー・ヨークの町」というのがそれでした。読み始めてすぐに、ああこれが!と気付いて、うれしくなった。そのうれしさをどうしたらいいのかわからなくて困りましたが、とにかく、とてもうれしくなったのでした。




「号泣する準備はできていた」は有名な短篇集だけれど、もうほとんど内容、忘れてしまいました。
「がらくた」は好きかどうかは別としてすごくよく出来た小説だった。登場人物もみんなキャラがたって魅力的だし。お洒落で、とんでもなく悲惨な話でした。
主人公の女性は完全な依存症(オットに)ですが、そのオットがまた病んでいて、それが都会的な魅力にまぶされて提示される。もう、その病み(闇)っぷりには、気分が悪いので読むのをやめようかと思ったくらい。私の生き方と重なるところはないなー(よかった)、といのが正直な感想です。




「小澤征爾さんと、音楽について話をする」、対談本なので、小澤征爾の声が頁から聴こえてくるわけです。それも含め、面白すぎて頭から湯気が出そうになり、何度も息を整えながら読まなければなりませんでした(本当に)。
小澤さんがピアニストの内田光子をほめるたびに、わが意を得たり、というよりも自分がほめられているような気分になり、、、そういうときに湯気が出そうで危なかったです。
あと、グスタフ・マーラーの話をしているうちに小澤さんの言葉が熱を帯びてきた部分もよかった。ちょうど家のデコーダーの中にケン・ラッセルの「マーラー」という映画が入っていて、なぜか観ないままに何カ月もとってあったので、これ読んだあとで観ました。マーラーもあれだけれど、ケン・ラッセルも負けず劣らずえらいやっちゃと思いました。以上。




未読の文芸文庫のうち「私の詩と真実」、こういうタイトルの本、貴重だし、いいなと思って。洒落でも冗談でもなく、こういう直球のタイトルを良いと思う自分の古めかしい感性に苦笑いしながら購入。あとでゆっくり味読します。


「人生という作品」、三浦雅士って私が思っていた(あこがれていた)ような作家ではなかったのかもしれない、とこれまで読んだ本から思ったのですが、結論はこの本を読んでから。
特にこの本では、バレエとバレリーナに多くの頁を割いているようなので、楽しみに読みたいと思います。

…(2)につづく!














1月2日、空がとてもとても青かったのです。とてもさむい日。







2015年01月01日(木) 2015年になりました!

 
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

写真は、今朝ベランダで。
お屠蘇の中から昇る初日の出ですv^^v

















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