土曜の日記を書いたつもりだったのに アップしたのは日曜の早朝となっていたことに昼頃気付いた。 なので日曜の日記を編集し直し。 何とも言えないすごい暴風雨 爆弾が落ちたような雷鳴 大荒れに荒れた土曜の夜の空だった。 人でさえ眠れないこんな夜に いったい鳥たちはどうしているのだろう? そう言えば 昼頃に小鳥が戸惑ったような鳴き声でベランダの無効の電柱から電柱へと渡って飛んでいた。 あれは金曜の朝、公園の木々の間を楽しげに歌いながら飛び回っていたあの鳥だ。 あまり聴いたことのない囀りで わたしは愛鳥家である友人のMに何という鳥なのか鳴き声を録音して尋ねてみたいものだと思っていた。 土曜の昼におろおろと飛んでいたあの鳥は、 あの朝のスタカートの効いたリズミカルな囀りとはかけ離れた 途方に暮れた鳴き声だった。 うちのベランダにおいで 室外機の影においでなさい そっと丸まって夜をやり過ごして わたしはそう小鳥に心の中から話しかけていた。 さて小鳥はどうしたものか。 それはわからないけれど、春の嵐は日曜も続いた。 今日の読書は須賀敦子。 「コルシア書店の仲間たち」 文藝春秋 夜食にラカタンバナナ アップルバナナの別名があるという酸味の効いたバナナです。 詩を三編書きました。 さて日曜のうちに日記をアップしましょう…
2010年03月20日(土) |
カラーひよことコーヒー豆 |
「カラーひよことコーヒー豆」 著者 小川 洋子 小学館 敬虔な気持ちになってしまう。いつも 小川洋子さんの文章を読むと透明なものに包まれたような敬虔な気持ちにさせてもらえる。 1962年生まれの著者はわたしと同年。狂ったバブルの時代を同じに通過してきたのに彼女の慎ましい心のありようは、きっと進行されている宗教も少なからず影響していることと思う。 ほんの一言の言葉や、ちょっとした仕草や、ふと漏らされる吐息など人の微かな心の揺らぎを小川さんは見つめている。これは、そんな静謐でありながらきらきら輝くエッセイが編まれたもの。 <<これでもかと立ちはだかる障害を乗り越え、皮肉、嫌み、小言、のたぐいを上手にやり過ごしくたびれた肉体に鞭打ってどうにかひとつ重大な仕事をやり遂げる。しかし、褒めてくれる人はだれもいない。…>> 著者はそんな時には好きなあんてぃーくの品をひとつ手に入れる。ご褒美として。 けれども思いがけないところから本当のご褒美はやって来る。 「博士の愛した数式」が映画化されて小川さんは映画館へおもむく。 その途中の電車で偶然隣に座った同年代の女性が大きなバッグの上に開いていた本は「博士の愛した数式」だった。 熱心に読んでいた女性は、降りるべき駅をうっかり乗り過ごしてしまうくらいに小説に集中していた。慌てて降りていく女性の背中に小川さんは静かに頭を下げた。 <<本物のご褒美は生涯にひとつあれば充分だ。何度思い起こしても新たな喜びに浸れるのだから…>> 好きな小説を書いて暮らせるだけでも幸福であるのに、その書いた小説が誰かの心に確実に届いている… そういうことこそが本当のご褒美なのだと。そして、そんなご褒美はひとつあれば足りるのだと… もっともっと…と期待するわたしは反省し、真摯な心になるのでした。
前にもこの日記に書いたけれど、わたしはカラスが好きだ。 わたしが彼らを好きなのがカラスにも伝わるのか、わたしはカラスのわたしに対する好意を感じて暮らしている。どんな風に好意を感じるのかと言うと、 まず鳴き方 カラスは電柱から下方のわたしに身を乗り出して、「くわあ…」と優しく鳴くのだ。ほんとだもん。 それから誘導… 視覚障害者であるわたしが通勤で通る道には、もちろんたくさんの障害物があるのだけれど、調子が狂うときは、いつもは難なくクリアする障害物にぶちあたり方向感覚をなくしてしまう時がある。 焦って杖で探っていると、そういえば先程来聞こえているバサバサという羽音にふと気付く… カラスがわたしの左先方へと緩やかに旋回を繰り返している。ああ…そうか…そっちなのね… わたしは進むべき道を探り当てる。カラスのおかげ。 先日も曲がるべき脇道を通り過ぎてしまい後戻りをしていると、いつも曲がる角の上で子ガラスが「カア…」と鳴いていた。それまでは気配がなかったのに… 偶然と言われればそれまでなのだけれど、わたしはカラスの好意を確信しているのだ。 カラスがわたしによくしてくれるのは、わたしがカラスを好きだからだ。 たとえ餌をやらなくともカラスはわたしがカラスを好きだからわたしに好意を持ってくれる。 わたしはカラスが好きなのだ。そしてわたしの好意を彼らは感じられるのだ。 生き物たちは敵意に関して何より敏感だ。 彼らの生存に関わる問題だから。
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