どのくらい時間が経ったであろうか。耳元で突然発せられたその怪音で我に返った。
ぐぎゅ!ぐぎゅるるるるぅ〜〜〜〜〜っ!
うぬ?こ、この音は・・・。 その日、私は歯医者に来ていたのだ。仮歯がなかなか合わず歯科技工士のお姉さんはお昼を1時間以上過ぎたと言うのに一生懸命がんばってくれている。だから笑ってはいけないのである。でも、こらえるのも大変なのである。だって、ほとんど水平に倒された診療用の椅子の上で完全に仰向けに寝た状態で治療を受けているので、お姉さんのおなかがちょうど私の耳のそばにほとんど密着状態でのこの怪音なのであった。これほど良く聞こえると”快音”かもしれない。そうだかえって潔い鳴りっぷりと言っても良い。夕べも深酒せずにちゃんと寝て、朝はご飯と味噌汁と目玉焼きとおしんこ、午前中一生懸命働いてさあお昼って時にこの患者さんったら・・・。ああ!お腹すいたぁ〜!と、そんな感じの健康的な鳴りっぷりなのであった。お姉さんの表情を薄目をあけてみるとまさに真剣な眼差し。難しそうな作業を黙々とこなしている。その間も絶え間なくおなかは快音を発し続けるのであった。がんばれお姉さん!私は拍手したい気分だ。(そこまで思うかフツウ)
ところがそのことを忘れかけた頃、思ってもみない時に立場が逆転、しかも200%増しくらいの恥ずかしさをこちらが味わう羽目になろうとはこのときの私はこれっぽっちも気づいていなかったのである。
例の”快音”に笑いをこらえた日のあと何回目かの治療のときのことである。私の座ったイスはいつものようにほとんど水平まで倒されている。”先生”の治療が終わったあとまた新しく仮歯を調整しはじめたのである。しかも担当はあのときのお姉さんなのである。私はまた長い時間大口を開いていなければならないわけである。つけてみては修正し、又つけては修正し、その繰り返し。しかし歯科技工士さんって考えてみれば大変な仕事だと思う。歯という物はちょっとの不具合でも患者には気になる物で気を抜けば一発でばれてしまうのだ。これってほとんど職人的な仕事なのではないか?中には見えないところに龍なんか彫刻するこだわりの江戸っ子歯科技工士とかいるのかもしれない。そんなことを考えていたら、「はい、お口開いてくださ〜い」と職人さん、もとい、歯科技工士さんが優しく声をかける。「あ〜ん」と大きく口を開ける。目を開いていると至近距離でお姉さんのお顔が・・・。目のやり場に困るので目をつぶる。外では小鳥がさえずり、開け放した窓から初秋のさわやかな風がサワサワと心地よいのである。と、そのときである!また妙な怪音で我に返ったのである。
んがごご!
???なんの音?と思った次の瞬間、犬吠埼に容赦なくうち寄せる太平洋の荒波のごとく怒濤のように恥ずかしさが私を襲ったのであった。それは、紛れもなく私自身の”いびき”なのであった。大口開けて歯の治療を受けながらつい寝に入ってしまいこともあろうに”いびき”をかいてしまったのである。何という恥ずかしさ!思わずお姉さんの顔を薄目をあけてみる。お姉さんは気づかなかったかのように眉ひとつ動かさず仕事を続けている。まさにプロである。職人である。その真剣な表情を見たとき、私の恥ずかしい気持ちは少しだけ軽くなった。患者のいびきなんか気にしていられない。今この一瞬たりとも気を抜かず完璧な仕事をするのよ!そう言っているようであった。私はお姉さんの心意気(を想像して)に強く感動を覚えたのであった。感動して目が覚めた気がしたがいつの間にか睡魔が私の意識を少しづつからめ取って行く。
ほげっ!
その数分後またもや同じ、いやさっきの恥ずかしさの数百倍の威力の恥ずかしさが私を直撃したのである。今なんて言った?「ほげ?」・・・・ 恥ずかしすぎて即死するかと思ったのである。このようにおなじ過ちを短時間のうちに繰り返してしまった私なんぞは、魂の仕事人(=お姉さん)に比べれば平凡なタダのオヤジなのである。たぶんお姉さんは変わらぬ真剣な眼差しでいるのであろう。私は確認する勇気もなく、今度はぎゅっとより深く目を閉じたのであった。
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