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2005年07月31日(日) お人形遊び ユノア・クルス10

荒木氏の面白い発想は、人形の顔を取り替えて表情をつけたことだ。

それは彼がもともとフィギィアの世界にいたこともあるだろうし、彼のとことんリアリティを追及する姿勢には、あくまでファンタジーとして扱う人形の世界を超えた、人形と人との交流のようなものを感じる。
アクションフィギィアと呼ばれる、パーツを取り替えて別のシルエットを作り出す仕組みは、合体ロボットを思い出させるし、そういうパズル的感覚、仕込まれた遊び感覚は男子ならではの発想だろう。彼はそれをお人形に転化させてみたのだ。

黙って立っていても、人形には表情があるといえばある。それは、例えば「心なしか寂しそうだ」とか「少し喜んでいるようだ」といった、此方の感情の移し鏡のような表情だ。
実際ボクも、自分の人形が時々感情を纏ったような顔をして、どうしたらいいのか困ってしまうことだってある。何せ人形は口を利けないので、どうして欲しいのかはこちらから汲み取るしかない。

いっそのこと、顔ごと取り替えてしまえという発想は、そこからは随分離れてしまい、別の遊びに発展していきそうだが、これはこれで面白い。
フィギィアの世界は、もともとあるシーンを立体的に再現するところから始まったみたいだから、もとの絵が笑顔ならば笑顔に、驚いている顔なら驚いている顔に、そうして色々な表情を作っている人にとって、いつもあまり表情がなく佇んでいる“お人形”に手を加えたくなる気持ちが湧いてきても、別に不思議はないじゃないかな。

そんな荒木氏の斬新な顔パーツを紹介。
まずはウィンク顔。ウィンクしている顔ってあんまり観察したことないなぁと思いながら塗装した。




問題作?のセクシー顔&いじめ顔。
ボクが塗ったら困り顔になっちゃった。セクシー顔は口の中のパーツまで付いてて、ちゃんと舌も歯もあった。



2005年07月30日(土) お人形遊び ユノア・クルス9

ユノア・クルスは、オプションで睫が付いていないから、ボクのユノア達はまだ睫が付いていない。そのうちつけようと思っているけれど、つけなくても違和感がないなと思ったり。ドリィバードの、荒木氏の製作解説を読んでメイクしたので、その分アイラインが濃くなったような気がする。

アイラインひとつで、目もとの印象は凄く変わる、ということは、実は猫で知った。家にいる猫は、チンチラシルバーという毛足の長い猫なのだが、この猫にはくっきりとブラックのアイラインが入っていて、目元が大変パッチリしている。




ある日、ペルシャ猫・ホワイトの写真を見てみたら、その猫にはアイラインが入っていなくて、それだけで随分印象が違ったのだ。その体験によって、ボクは始めてアイラインを意識するようになったのだけれど、どうやら人間の化粧品にだってアイラインを引くものがあるようだから、これはわりと一般的な常識だったのかもしれない。




これはドールアイが大きすぎてちょっと怖いね。14mmはやっぱり苦しいかな。13㎜のアイが欲しいなぁ…


2005年07月29日(金) お人形遊び ユノア・クルス8

またもや人形話。




ユノアを組み上げては見たものの、ユノアサイズの服や靴が無い。MSDの服なら着れるときいて2着程は購入してみたものの、胸周りがブカブカになってしまう。ユノアの服を作っている個人サイトさんをめぐってみても、軒並みSOLDOUTで手に入らない。

手近にある型紙も、MSDのものが多くて、ユノアサイズのものはなかなか無いか、裁縫経験の浅いボクには解読が少々難解なものが多くて、自作するのも気合が要りそう。そのうち時間を見つけて製作しようと思う。作るのは好きだし、デザインするのも好きだし、あとは時間を捻出するだけだ。

服が合わないのは、ユノアが既存の球体関節人形のボディラインを逸脱しているからなのだが、確かにそのスタイルは類まれに美しい。スラリと細い腕や脚に、大き目の手足、折れそうに細いウエスト…ボディラインがこれほど美しく異様な、滑らかなる人形を、ボクは今までに見たことがない。


2005年07月28日(木) 山小屋

山登りをする人が話してくれた話。

山に登るとき、それは綿密に計画を立てたことを実行することである。適当にぶらぶらと歩いていいほど山は易しくない。一歩間違えば返ってこれなくなるような危険を背中にしょって、クライマー達は歩いているのだ。

山を、目的の地点までひたすら歩いていき、そして目的地に着くと、そこで初めて緊張の荷を降ろす。趣味で登る山登りならば、ここでは目的地は山小屋だ。山小屋には、別のパーティもいる。どのルートを通ってきたか、もうすでに山を降りてきた人ならば、この先の様子はどうか?同じ山を登ってきたものたちは、他人ではない。

山小屋に辿り着いて、次の出発までに時間があれば、その辺りを散策できる。それは、順調に辿り着いたときの楽しみであり、鳥や小動物を探して歩いたり、植物を見たりする。

天候に邪魔されて先に進めなくても致し方ない。ここは山であり、今自分達は大きな自然の中にいて、その大きな力を前に、いかに人間は無力であり、抗うような相手ではないと、身をもって知っている連中ばかりだ。

今までにも山の話をちょくちょく聞いていたけれど、ボクのイメージは、美しい山の景色に誘われるように歩く、もっと無防備な世界だった。しかし、それでは魂が還ってこれない。山に登る時には、意識をしっかりと保っていかねばならないのだと知った。

この話をするとき、いつも苦しそうなその人に僅かな間笑顔が戻ってくる。その人は、「山小屋に行きたい」と言う。もちろん、人生という山の「山小屋」だ。山小屋とは何か、よく解らないボクは、その人の瞳の先にある山小屋を想像するしかないけれど、

きちんと辿り着けるようにルートを歩き、そしてそこで疲れを取り戻し、また歩いていけるならば、人生も安心できるものになるだろうな、と思い、実際の人生は時には安全ではなく、山小屋にあたる場所も見つけられないかもしれない、人生もまた山登り的なのかもしれない、と思った。


2005年07月27日(水) レンガの家は壊れない?

先日会っていた3歳の子供は、壊れるのをとても嫌がった。

一緒にブロックで遊んでいても、さっき作ったものが壊れると大騒ぎ。また作ろうね、と直しても、また壊れると騒ぐ、の繰り返し。お陰で5回くらいレゴで出来たお家のドアの修理(乗せるだけ)をした。

ブロックなら壊れても組み上げれば元に戻るのだけれど、こうやって元に戻るって解っているから、ボク達大人は安心していて、また直せばいいと暢気にしていられる。
ボクの手を借りて出来たブロックの家は、ボクの力に依存しているから、この3歳の子供からしたら、一人では守りきれない家なのだ。

小さな子供の頃はもっと無力で、壊れてしまった色々なものはもう戻ってこなかったし、一度使ってしまったらもう元に戻らないものも沢山あった。お気に入りの消しゴム、ノート、花火、金色と銀色の折り紙…まだお金を持っていない子供達は、また買いなおせばいいという知恵が付くまでは、それを失う覚悟で、お気に入りに手をつけたり、人に譲ったりしていたのだ。


それがなくてはならないもの、掛け替えの無いもの、そういったものは、生きていくうえで大切だ。けれど、掛け替えの無いものがあるからこそ、失う悲しみ苦しみ寂しさもまたひとしおで、どちらかひとつなんてことはない。それが命になったりすると、もうこの世に唯ひとつの魂なのだから、人を愛するということは、相当の覚悟が要るものだ。


2005年07月26日(火) 羊草

睡蓮というと、すぐにクロード・モネの一連の大作を思い浮かべる。だが、かの巨匠の画風は、輪郭をはっきりと描かぬような、水面にうつったようなタッチで、はっきりと睡蓮の姿をみたような覚えがない。それでも、イメージとして頭にぼんやりと描けるのは、お釈迦様の足元に咲いている蓮の花を思い描いているからだろうか?

仏教でよく出てくる蓮と睡蓮を長年ボクは混同していたが、スイレン科の中に蓮が含まれているようだ。さて、実際に蓮や睡蓮をどこかでみたか?というと、思い出せない。鯉が寄ってくるような日本庭園に生えてきたよな気もするが、どちらかと言うとあの平たくて丸い葉のほうが印象に残っている。







さて、そんな疑問を抱えたまま、先月掛川花鳥園に行ったとき、沢山の睡蓮を見てきた。園内に作られた巨大なプールに広がる睡蓮の花と葉は美しく、なかなか見ごたえがあった。神の手が入ったかのような統合された花は完成度が高く、水面を覆う大きな葉の広がり、葉の影を泳ぐ魚達。
時々魚は半分水に浸かっていた葉の上に乗り上げてしまい、水に帰ろうと頑張っていた。

水面を覗き込んでいると、この下に、秘めやかに何かが繋がっているような感覚がした。この花の際立っている魅力は、こうして水面に映りこみ、底知れない深いところまで繋がっているような錯覚を覚えるからじゃないかしら。
刻々と移り変わる睡蓮の池の、その水面を描こうとしたモネは、次から次に絵を描かざるをえなかった、それ程多様な顔を見せるからなのだ、と。
その気持ちが何となく解るような気がする。この世に、捕らえがたく魅力的な何かがあって、所詮我々はそれを追い求め、多面的にアプローチし、少しでも近づこうとあがいているにすぎないのだから。モネは、睡蓮の池の奥底にそれを見出したのだ。



※睡蓮の和名は羊草(睡蓮は漢名)。羊の刻(午後2時~3時の時間)に花が咲き、夜には閉じることからこの名前が付いたのだが、未(羊)好きな僕にはちょっと嬉しい。


2005年07月25日(月) 夏の天気

ボクの家は、壁を全部グレーに塗ってしまったので、日中でもどちらかと言うと部屋の中は薄暗い。そういう雰囲気が好きで壁をグレーにしたのだが、ひとつだけ困ったことは、室内で取った写真が皆暗くなってしまうことだ。

犬や猫をとっても明るさが足りないし、かといってフラッシュをたくと瞳孔が光ってしまう。人形も、同様にガラスアイだと反射してしまうのだ。

だからこの日曜日、太陽の光が差し込んでくる時を待っていた。室内に差し込んできた光を利用して撮影しようと思ったのだが(ポーチに出て人形の写真を撮ることには少々の勇気が要る・ボクの家は通りに面している)、これがなかなか晴れてくれない。

そういえば、ここのところ週末になると毎回太陽を心待ちにしていて、でもなかなか光はやってこなかった。子供の頃のイメージで、夏は一日中太陽がガンガンに照っていたように記憶していたが、実際は夏の天気は変わりやすく、雲が多いのかもしれない。

今年は行けないけれど、毎年夏に数日軽井沢で友達達と過ごすことを習慣としている。毎日必ず夕方4時前後に雷雨が降って、時には夕食時まで続いて、雷の音を聞きながら、停電のため蝋燭で食事をしていても、夜になると雨は上がり、朝には朝露まみれの緑が迎えてくれる、その空気が大好きだ。


2005年07月24日(日) SPAM!

スパムメールのスパムってどういう意味だろ?

ということで、検索してみたら、ビックリ。スパムって沖縄で言うポークの缶詰から由来するらしい。イギリスのコントで、『ある夫婦がレストランに入ってってメニューを見ていると、近くに座っている一団が「SPAM!SPAM!SPAM!」と大声で歌いだし、次第に店員までもが「SPAM!」と連呼し、最初は嫌がっていた夫婦も最後にはスパムを注文せざるをえなくなる』という話があって、そこから連想されたらしい。




そうとは知らずに、スパムの文字を見るたびにハムの缶詰を思い浮かべていたなんて、何だか感慨深い・・・

毎日沢山のメールがくるけど、殆どはスパムメール。以前よく届いた海外からの薬のメールは最近来ないかわりに、今流行りは逆援助交際のメール。殆ど内容は一緒で、お金を持っている女性が、お金を払いますのでお付き合いしてください、というもの。
どれもこれも、こんな女いないってくらい、男にとって都合のいいことばっかり並べ立ててあって、それが軒並みおんなじ内容なので、引っかかる人いるのかしら、と誰もが思うであろう。
でもこれ、「メール停止」をクリックさせることが本当の目的みたいだから、いかに内容をくだらなく書いくことがポイントなのかな?
こうなってくるともう心理戦で、いかに相手の裏を読んで操作するか(何となくデスノートみたい)。

騙されないように毎日防壁を張って生きていくのも疲れちゃうけれど、今は人が人を騙すことが沢山ありすぎて、うっかりぼんやりしていられないね。


2005年07月23日(土) 子供の不在

ボクには子供は持てない。
それは同性愛者なので、どうしようもないことだし、自分で選んだ道だから、そのこと自体は受け止めているつもりで、多分子供がいない分、犬や猫を飼っているのだ。

だけれど、一方では、同性愛という言い訳でもって、子供を作る道を自ら閉じてしまっているともいえる。ボクは、自分と両親との間の問題を、「子供を育てる」中で、再現して向き合っていくことを避けているのだ。

誰もが、自分が育てられたことをベースに子供を育てるだろう。子供を見ながら、自分がかつて体験してきたことを思い出し、それに習ったり、また反面教師として、そうならないようにしたりする。けれど、どうしても、意識しないところで同じことをしてしまったりするのだ。

例えば怒り方がそうで、ついつい自分が怒られてきた口調と同じ口調で、子供を責めてしまう。あとで自分の中に、かつて自分が嫌だった親の影を見て落ち込んだりするものだが、そうすることで親の気持ちを推し量り、親の苦労が理解できたりもする。
子供を育てることは自分を育てることだとは言ったもので、子供を生み育てることでもって、人間として必要な心の成長は補完されていくのではないか、と考えたりする。

何時までも子供でいるわけにはいかないし、もう随分前から大人になっているのだけれど、どこかいつも不完全に感じるのは、それが人間だからだと思いながら、子を持たぬ者として、多少の負い目があるのだ。


2005年07月22日(金) 匂いフェチ

普段から髪を短くしているけれど、それでもどうしても襟足が伸びてきて、首にかかってうっとおしくなる。そんなときはゴムで髪を結うのだが、短い髪を無理やり結うので、ちょろんと尻尾みたいでオカシイ。

その、髪を結ぶゴムが、なぜか子犬のお気に入りで、何処に置いておいても必ず見つけて、ドッグベッドの上ではみはみしている。最初のうちは叱っていたのだが、あんまり探すのが上手なので、最近はまたか、と笑えてくる。

大抵髪を結うゴムは、何処かに紛れて無くしてしまうものだが、子犬のお陰で無くなることがない。小さい頃と違って、テーブルの上のものを取ったりしなくなって、いい子になったと思っていたが、しっかりあちこち物色しているのだ。

多分、ボクの匂いがばっちり染み付いているから好きなんだろう。そう思うと何だか複雑…それじゃあボクが匂うみたいじゃないか。
ちなみに、髪ゴムのほかのお気に入りは、履き終わった後の靴下…それもちょっと。

そんなに匂いが好きならと、ボクがいつもつけている香水を吹いてやったら、凄く困った顔をしていた。


2005年07月21日(木) モリゾーモドキ




今この土地では万博が開催されていて、あちこちに公式キャラクターのモリゾー&キッコロを見かける。
そして、モリゾー&キッコロもどきも、あちこちに乱立しているのだ。それは、地元の人たちの熱い応援の気持ちであり、手描きのモリゾーたちも商店街のいたるところに貼ってあり、 中には等身大(?)のモリゾー達がお店の前にどどんと飾ってあったりもする。
どの場合でも、似ていないのはモリゾーのほうで、不気味に仕上がっているのもモリゾーだ。どうも、あの目がいけないらしい。二次元の世界では愛らしいが、3次元にするのが難しいのか。

さて、写真は藤が丘のリニモ乗り場に建っているモリゾー&キッコロ。初めてみたとき、犬も飛び上がってビックリしていた。


2005年07月20日(水) 夢の記録

夢の記録。


その夢において、ボクは、まるで映画を見ているように、光景の外側にいる。

目の前に広がるのは戦火。ここは戦場だ。戦闘機の爆音がして、爆弾が投下されているのが見える。1人の男が草むらを這いずるように走っている。眼光の鋭い痩せた男で、よく日に焼けて黒く薄汚れているが、もとは白人だ。
男は何度も転びながらも、草を掻き分けて走る。背後から戦闘機が追ってくる。

空には、まるでオーロラのようにカーテンが掛かっている。カーテンはひも状のものでできていて、まるで空に巨大な暖簾が掛かっているようだ。飛行機はその暖簾を潜り抜けて、今男のいるエリアにやってくる。空に掛かった巨大なカーテンは何枚もあり、男の後を追うように、潜り抜けて飛行してくる。
やがて、男は林に辿りつく。木々が生い茂り、男の姿はもう戦闘機からは見えない。地べたに這いつくばったまま、顔を上げると、そこに1人の少女がいた。少女は白い服を着ていて(ボクの見る夢の中では、“少女”は白い服を着ていることが多い)、男と同じように戦火を逃れて逃げてきたことがわかる。
何も言わず、少女は手を差し出す。手の中には、レッドやオレンジ、パープルなどのカラフルな石ころサイズの玉のようなものが握られており、よく見るとそれはチョコレートのようだ。ふと男は自分の掌の中を見てみる。すると、自分の手の中にもカラフルな色合いの、ビー玉のような石が幾つか握られている。
戦火を逃れて夢中になって、草を手で引きちぎりながら走ってきて、その間に、知らないうちにこんな綺麗なものを拾い集めていたのかと思い、男は不思議な気持ちになる。

ふと、辺りは静まり、戦争が終わったことが示唆される。

男は自分の家に向かう。自分の家は焼け落ちて、黒焦げの姿になっている。ドアを開けるとまだ熱い空気が充満しており、所々煙が立ち込めている。2階に上がったところで、男はふと思い出して、足元の隠し部屋の扉を持ち上げる。扉の中には、男と同じくらいの年齢の、煙によって黒く煤けた男がいる。そこは狭い空間で、男は何かの動物を抱いたまま、そこから出てこようとはしない。

煤けた男は、猫が怖いために外に出られず、もうずっと以前からこの空間に閉じこもっているのだ。それを知っていながら、置き去りにして1人逃げたことを、男は悔いる。

さらに階段を上っていくと、ひとつの部屋から、女が出てくる。長い金髪は腰元まで揺れ、白いドレスは寝巻きのよう。女は気がふれていて、よたよたと空ろな瞳でうろついている。
また、女が出てきた部屋から、5~9歳くらいの子供が出てくる。子供も同様の金髪で、白いネグリジェを身につけているが、どうやら少年のようだ。少年はこの女の子供だが、母親は子供のことなど眼中にない。

(この女が出てきたあたりから、燃えたはずの家は、燃える前の姿に戻っていく)

そこに、もう1人子供が歩いてくる。子供は、女の子供と全くそっくりの外見をしていて、違うことといったら、少しだけ肌に僅かにニキビがあることだけだ。髪の色も瞳の色も、着ているネグリジェまでそっくりなこの子供を、白い服の女はゆっくりと見回して、それから自分の子供を振り返って、またゆっくりと見回す。

女は、黙ったまま、本当の自分の子供の手をとって、部屋の中に入り扉を閉める。見ているものは、「やはり母親なのだ」と胸をなでおろしたとき、

中庭に向かって作られた窓から、その子供が放り投げられる。白い布がヒラヒラと放物線を描いて、3階から子供は墜落して死んでしまう。男も、それを見ている観客のボクも、思わずはっとするシーンだ。

もう1人の、生き残ったほうの子供は、その場に背を向けて廊下を歩いていく。廊下の先にある部屋に入ると、そこには二重に欠けられた青いカーテンがあり、その向こうにあるベッドに、1人の少女のミイラが静かに座っている。少女のミイラはカーテンに隠されて顔が見えない。組まれた腕はか細く、腕には3本の筋の痣が刻まれている。

少年が覗き込むと、少女のミイラは動き出す。そのミイラは、以前から“生きている”と信じられていたが、動いたのをみるのはこれが初めてだ。少女は少年の腕を掴む、すると、少年の腕に、少女の腕にあるものと同じミイラが浮かび上がる。

少女は動きを止め、もう二度と動かない、と少年は確信する。腕の痣はそのままに、少年は部屋を後にする。

すれ違いざまに、「その腕どうしたんだ?」と聞かれるが、ふと見ると腕の痣は、それを形どったブレスレットに変化している。「ちょっとね」とだけ答えて、少年は歩いていく。



ボクは、見終わったあと、これが以前に見た映画だと思い込んでいて、相方に確認してみたら、そんな話知らないと言われて、ああこれは夢だったんだとわかった。凄く印象深くて、それから半日ぐらいぼうっとしていた。


2005年07月19日(火) ぞうのエルマー




ゾウのエルマー。虹色みたいにカラフルなゾウ。

いつも行く雑貨屋さんで見かけたのが最初か、それより前にもどこかで目にしていたような気がするけれど、はっきりと認識したのは半年ほど前だ。耳が動くキーホルダーが売っていて、とても可愛かったけれど、ちょっと値段が高かったので躊躇していた。

先日とうとうエルマーを家に連れて帰ってきたのがこの対の置物だ。ボクはエルマーの絵本を読んだことがないから、彼らがどういう役回りをして、どういうストーリーを紡ぎだすのかをまるで知らない。
ちょっと検索してみたら、どうもエルマーは自分の容姿―その皆と違うパッチワーク模様―に悩む、しかし前向きの明るいキャラクターらしい。

エルマーだけでも十分可愛かったけれど、この、まるで影のような白黒模様のゾウと対になっているのを見たとき、連れて帰ろうと決心した。ボクはどうも影のテーマ、対のテーマに弱いのだ。

この、白黒のゾウが何者なのか知っている人、いたら教えて欲しいな。


2005年07月18日(月) 子供の宝物




ボクの母親は、ボクが子供の頃からなにやらしょっちゅう薬を飲んでいた。胃薬にビタミン剤、睡眠薬・・・あとは何を飲んでいたのか知らないけれど、子供心に、「お母さんは病気なんだ」と思っていた。
寝る前に飲む薬を、シートから出して用意してあげるのがボクの日課だった。

さて、その母親がいつも飲んでいたのが薬局でも売っている「ポポンS」。これは総合ビタミン剤なのだが、糖衣錠(甘くコーティングされている)なので、子供心にちょっと美味しかった。飲んでいるところをじっと見ていると、母親は「飲む?」と聞くので、時々気まぐれに飲んだ。

ボクは、このポポンSを開封するときが好きだった。ビンを開けると、中にプラスティックの栓みたいなものが入っている(写真右)。ボクはこれが好きで、宝物として大切にしていた。これをさらにハサミで切って形を作ったりもした。

今思うと、???な宝物だ。何処がよかったのかといえば、他に見たことが無い形だったからなのかな。同様の宝物に、カマボコの板というのもあったけれど、どちらもいまいち冴えない宝物だ。


2005年07月17日(日) ロールピアノ

ボク達には絶対音感はない。ヴァイオリンの弦は全部で4本、低いほうからG線・D線・A線・E線と並んでいて、指で押さえつけずに引く開放された音は、それぞれソ・レ・ラ・ミだ。これを、何の力も借りないで正確に音を合わすことは困難なので、チューナーを使う。

でやっと開放弦の音が合っても、指で押さえて出す音は、当たり前だけれど抑え具合によってずれてくる。そんな時、先生は「ピアノさんに聞いてみましょう」と言う(おそらく先生は普段はもっと子供をメインに教えているのじゃないかな?)

ピアノさんなんてお家にいたっけ?と我が家に遊びに来てくれた人はみんな思うだろう。もちろん居ない、いや、居なかった。つい最近、ピアノを購入したのだ・・・というわけで、やってきたのはこのロールピアノ。相方の愛読書日経トレンディにも紹介されていたこれが、例によってビレッジ・ヴァンガードに並んでいたので、思わず購入してしまった。




いかにもいんちき臭いピアノだが、これがなかなか優秀で、少なくともヴァイオリンの音合わせには不足しない。音色も色々変えられるという優れものなのだ。
ピアノを弾けないボクたちの家で、不完全燃焼なこのピアノさんを、誰か弾きにきてやってください。


2005年07月16日(土) ダチョウ

手塚治虫氏の「火の鳥」の中の、宇宙が舞台の話がとても印象に残っている。その中に出てくる鳥人、というのか、鳥が擬人化したような種族が出てくるのだが、その足が鶏のような鳥の足で妙に生々しかった。

今思うと、その鳥人はダチョウに似ていると思う。見比べていないのでわからないけれど、決め手はその長い足だ。

長い足を持つ鳥は、ダチョウのほかにもいる。ボクの好きなフラミンゴや、ツルなど、皆折れそうな長い足の持ち主だ。けれど、細すぎてあんまり真近で観察することができなくて、遠めにはどちらかというとまるでストローみたいなツルツルの素材でできているような感じがする。

それに比べて、ダチョウの足は、鳥の足の模様がはっきりと見て取れて妙に生々しい。確か、火の鳥の物語の中の主人公も、その足が気持ち悪いといいながら彼らを虐殺していたように思うのだが、どうして鳥の足が気持ち悪いのだろう、と考えると、少なくともダチョウの足のシルエットは、まるで人間の足を彷彿とさせるからじゃないだろうか。そう思うのは、家に居る犬達―ボルゾイの足を見ているからだ。彼らの足は長くて、足を組んでいるところはまるで人間みたいだ。よくボルゾイを気持ち悪いとか犬じゃないよあれはという人がいるが、ボクもそう思う。気持ち悪くはないけれど、犬って感じはしないもの。

ところで、ダチョウについて調べていたら、なんとダチョウの平均寿命は70~80年らしい。人間と同じくらい生きるなんて、うっかりダチョウを飼ったりしたら、残していくとき大変だ。遺書にダチョウは誰々に譲ります、とか書いても、2メートルを越す巨体を貰っても、ちょっと困るよね。


2005年07月15日(金) レッスン

物事はいつだって、突き詰めていけばキリがない。
ヴァイオリンを弾いているととてもそう思うのだけれど、一体どうしたら先生に少しでも近づけるのかしら?とため息が出てしまう。

弓を持つ手も、腕の角度も、弦を押さえる指の形も手首も、あちこち直して身につけなくてはならないし、もっと問題なのは音を聞き分ける耳で、今自分の引いている音がきちんとレの音そのものだ、と確信を持てるようになるには相当トレーニングが必要な気がする・・・

と泣き言を言っても始まらない。先生は3歳からヴァイオリンとお友達なのだ。「沢山(ヴァイオリンと)喧嘩したほうが仲良くなれるよ」と先生は言うけれど、きっとその通りなのだ。

耳はともかく、姿勢なら修正することは可能だ。何のことはない、姿見の前に立って引いていれば、自分の悪いところが明白になって、否が応でも直していくからだ。今のボクの姿ときたら、注意点が目白押し・・・

例えば
・弓が駒と平行になっていない どころか、かなり角度が付いている
・竿を持つ手首が曲がっている
・弓幅が少ない

この上に、音程の狂いが被さってくる。弾き始めた頃は音程が多少ずれていても楽しかったのに、今でははずした音が耳障りでしかたない。それだけ音を聞き分ける耳が成長したと思えば嬉しいけれど、とにかく今は早く上手になりたい気持ちで一杯なのだ。

ついでにいうと、先生に誉めてもらえるととても嬉しくて、最近じゃ誉めてもらう機会なんてなかったな、なんて思ってみたり。失敗したり正されたりする代わりに、誉められる状況に辿りつくのだから、苦労しないと誉められないもの。好きなことを適当にやってる自画自賛の世界じゃ味わえない。

子供の頃は色んな課題があって困難だったけれど、案外やりがいある時間だったのかもしれない。これって、大人になって忘れることのひとつかもしれないね。


2005年07月14日(木) リトライ

今、結構真剣に英語の勉強をし直している。ボクはどうも語学は、それが日本語だろうと外来語だろうと苦手で、ペーパーで点をとれたとしてもそれはタダの暗記で、きちんと理屈をつけて覚えてはいなかった。

そもそも、語学とは暗記の道なり。

地道に努力して暗記することの苦手なボクには辛い教科だったのだが、最近になって中学生の頃の教科書を手にとって見た。
そこには、ちゃんとあったのだよ法則が。

ボクは何事につけても法則を作って考えていく思考の持ち主なので、ルールがないと世界を把握できない。逆に、ルールさえ飲み込めれば視界が変わる、というのがいつものパターンなのだけれど、果たして英語の世界においても、そのパターンは通用しそうだ。

なんといっても中学生英語、それくらいで何をそんなに興奮しているのっ?って感じだが、ボクにとってはかつて挫折した道だから、今以前には入ってこなかった世界の枠組みみたいなものが見えて、とても嬉しい。

案外小学生や中学生の頃の教科書ってためになることが書いてある。音楽の教科書をみてつくづくそう思った。先生に習う色々なことはすでに、小学生の教科書にも触れられていたりするのだ。

今度実家に帰ったら、美術―図工の教科書も探してみたくなった。


2005年07月13日(水) 志は共に

ボクはある仕事をしていて、組織上ニアミスするけれど違う職種の人に会った。ボクはその人の職場に出向いていって、見学させてもらう立場にあったのだけれど、その人は、今の社会の現状を語った。

その内容は、お役所の内情めいたことが多く絡んでいで、沢山のことが間違っていてっそれがどうしようもないということと、それに関わるボク達の力不足なども指摘された。そのとおりだと思いながら、色々ボクからも質問したのだが、立場は違っても志は驚くほど同じだった。

ボクが普段どんな風に仕事をしているか、その人はさっぱり知らないから、ボクは言われるままに言葉を頂戴してきたけれど、本当は「貴方の気持ちと同じ気持ちです」と伝えたかった。

こうだったらいいのにという真理みたいなものがある。だが、そこにはおいそれと辿り着けないのだ。皆が皆、やりとげる能力を持っているわけじゃないし、国家予算だってやりくりしなくちゃならない。ボク達末端は末端ならではの文句を並べ立てているけれど、お上にはお上の苦労があるだろう。

そのまた上になると、つまり政府のレベルになるともうなってしまうけれど、彼らは彼らで決めることが一杯らしくて、現状など視界にも入らない。あまり批判めいたことを書くのは好きじゃないけれど、このままでは社会がますます病んでいくな、と思いながら、その場を後にした。


2005年07月12日(火) ニンジン嫌い

いつも、ヴァイオリンのレッスンは夜にあるのだけれど、先日珍しく朝からレッスンをしていたら、ピンポーンとチャイムがなった。

今日は宅急便も何も来る予定がないのにな・・・と思いながら相方がインターホンにでてくれたが、すぐに怪訝そうな顔になったので、招かれざる何かが来たと解った。

ボクは、追い返す天才だ(と自分では自負している)。具体的には、相手を言い負かすことを得意としている。
このときも、相方が何も言わないうちにインターホンを変わった。


相手:こんにちは、ニンジン倶楽部です
ボク:あーーー、ニンジン嫌いなんです(1オクターブ下がる)
相手:え?野菜嫌いなんですか?
ボク:ニンジンは大嫌いです

そこでボクはスイッチを切ったけれど、スイッチが切れたことに気がつかない相手はもうしばらく1人で喋っていた。後でポストを見たら判明したのだけれど、ニンジン倶楽部っていうのは野菜の宅配みたいなものだったのだ。ボクは真剣にニンジンが好きでないから、心のままに答えたのに、この会話、先生にはとてもおかしかったらしく、しばらくヴァイオリンを握ったまま笑い続けていた。せめて、パンプキン倶楽部とか、ポテト倶楽部とかにしてくれたら、もう少し話を聞いてあげたのに(結局断ったけれどね)。

※カレーライスに入っているニンジンなら食べられる


2005年07月11日(月) ミュージカルバトン

続いて答えてみよー 藤丸さんから貰ってきたよ

★コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量
796MG ネットワークウォークマンに入れる前の仮フォルダです。ボクは音楽をダウンロードして買ったりはしないのだ。

★今聞いている曲
クラシックを繰り返し聞いています。バレエ音楽『ジゼル/コリオランの登場』はとても素晴らしい。

★最後に買ったCD
ラルクの新アルバムとビートルズを一枚。何だか変な取り合わせだな。

★よく聞く、または特別な思い入れのある5曲
「THINK OF ME」オペラ座の怪人より 10年聞き続けています
「さよならパステルバッヂ」フリッパーズ・ギター 全てが好きだった
「海の時間」谷山浩子 優しい歌です
「四季」ヴィヴァルディ 春の第1楽章、冬の第2楽章はいつか弾けたらいいな
「展覧会の絵」ムソルグスキー…壮大な出だしはやっぱりカッコいい

★次のバトン
これもアンカーってことで。

今ヴァイオリンを習っているせいで、クラシック勢が勢いあるなぁ。ちゃんと邦楽も好きですが最近はテレビを見ないのでよくわからないの。スーパーカーとかAIRも入れたかった。


2005年07月10日(日) コミックバトン

コミックバトンにお答えを!愛しのともぞーさんから頂きました。

★本棚に入ってる漫画単行本の冊数
沢山…数えたことはありませんが、本棚一つ分は漫画。でも我が家には4つの本棚と壁一面が本棚になっているスペースがあるなり。

★今面白い漫画
ジャンプ連載「D-grayman」「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」

★最後に買った漫画
上記の2作品。最新刊が発売されたので

★よく読む、または特別な思い入れのある5つの漫画
「銀の三角」萩尾望都 多分死ぬまでこれが一番 萩尾作品はどれも深い
「はみだしっ子」これでもかってくらい苦しい 好きかといわれると???
「ブラックジャック」手塚作品も素晴らしい 火の鳥シリーズの宇宙編も
「鋼の錬金術師」漫画って面白い!と久しぶりに興奮しました
「ヴァンデミエールの翼」世界観全てが好き

★バトンを渡す5名
アンカーってことで。


2005年07月09日(土) ロケットパンチの行方

先日テレビにマジンガーZが映った時、相方が、子供の頃にこんなオモチャを持っていたと言い出した。そこで聞いた微笑ましいエピソード。

それがマジンガーZだったかどうかは解らないが、手がロケットパンチになって飛んでいくキャラクターらしい。当時相方は弟と、そういったロボット同志を戦わせて遊んだ。弟はまだチビで上手くロケットパンチを飛ばすことができず、相方のロボットまで飛ばなかった。何度も遊んでいるうちに、ロケットパンチはいつしか何処かに飛んでいったまま二度と見つからず、そうしてみんな腕から先のない悲しいロボットになって、その物悲しい姿を晒し続けていた。

他に、トランスフォーマーという合体ロボアニメがあって、合体させて遊んでいると、パーツとなるロボットが何処かにいってしまって、不完全合体ロボットとなってしまう。

どちらのエピソードも大変微笑ましくてちょっと悲しい。

(余談だが、何かの巨大ロボアニメで、女性型巨大ロボの胸が飛んでいくというすごい奴をみたことがあるような気がする・・・それを意識して作られたスーパーカーの「WHITE SURF style 5.」のPVでは生の乳が飛んでいた。これは結構気持ち悪いョ)


2005年07月08日(金) 調弦

ヴァイオリンを始めてから、音を聞くことを意識するようになった。ヴァイオリンの先生は生活の中の様々な音も、その音階がすぐに分かるが、ボク達には絶対音感は皆無らしく、見事に外してばかりだ。きっとショパンには雨垂れの音もメロディになって聞こえたのだろうが、すべての音が音階として認識される世界というのは、どんな感じなのだろう。

毎回レッスンの始めにA線の音合わせをして調律する時がボクは大好きで、二つの音が重なり合って、周波数が一致した瞬間に、音は全くの一つになって聞こえるのだ。蝋燭の明かりを分けるように、音を分ける、そのイメージは繋がる、または一つになるという、ある種のエロスにもにた感覚を抱いてゾクゾクする。

音楽ビキナーのボク達にとってはレッスン中は新しい発見の連続で、毎回小さなことに気が付いて感動して頷いているボク達を、先生は何も言わず微笑ましく見守っていてくれている。


2005年07月07日(木) 夢の記録

夢を見たので、記憶のために記載。

主人公は少女だった。少女は暗い洞窟の中を歩いている。探しているのは「おじさん」で、この先にいるはずだが見つけられない。洞窟の壁は血が滴り、まるで巨大な巨人の体内にいるかのようなグロテスクさだ。

少女は未来少年コナンのように手足が(特に足の指が)器用で、壁に飛び出た突起を利用して、洞窟を登っていく。

やがて、視界が開けて、白い部屋が現れる。部屋の中には何人かの大人がうろついている。その中に、初老の女性がいて、それがこの部屋のボスだと人目でわかる貫禄がある。たとえるなら、「千と千尋の神隠し」の湯婆婆の頭が正常くらいの大きさの外見だ。それは魔女の部屋で、魔女以外には男性しかいない。

少女は息を潜めて物陰に潜んでいるが、「おじさん」が現れ、魔女とその手下が「おじさん」を捕まえようと動き始める。おじさんは直ぐに姿を消してしまう。槍を持った半漁人や、骸骨の怪人が空中を飛んでうろうろとあたりを偵察して回る。少女は起用に壁を登って隠れようとする。
首のない骸骨の怪人は、目がないから物音さえ立てなければ見つからない。目と鼻の先を首の無い骸骨が過ぎ去っていくのを息を潜めて見守っているが、壁に取り付けられたセンサーによってついに少女は発見されてしまう。

気がつくと、少女はベッドに寝かされている。
部屋は再び静けさを取り戻し、魔女とその手下が何かを話している。少女は瞳が空ろで、どこか意識は別のところにあるようだ。

少女の傍に1人の青年が座っている。青い髪をしたその青年は、「ハウルと動く城」のハウルによく似た美青年だ。少年は空ろな少女の瞳を覗き込み、手に何かを握らす。
彼は、別の青年に囁く。
「この世界を変えるためのスイッチは、僕達には押せない。それを成し遂げるのは、外からきたものだけ、この少女にはその力があるだろう」
ハウルに似た青年は、少女の耳元に囁く。
「解っているだろう、この世界を変えたいんだ」

振り向いた魔女が、いぶかしんで近寄ってくるが、青年ははぐらかす。魔女の背後で、そっと少女をベッドから連れ出し、魔女の机に近づく。少年の手に誘導され少女が突起に触れると、机は反転し、そこには冒頭にみた生々しい血の匂いを漂わす、何かの体内を思わせる空間が現れる。魔女とその下等な手下である半漁人や骸骨が再び襲ってくるが、青年は少女を抱いたまま逃げていく。

蛇足だが、この少女はボクの所有している人形の姿をしていた(写真)



荒木元太郎氏のユノア・シスト(未塗装版)

この時点の解釈
巨人の体内…父的存在の不在、閉じられた世界
おじさん…父親的存在
魔女…母親的存在
少女…女性になる前の未分化な状態
閉じられた世界…母親の呪縛
体内の空洞…子宮
青年…少女の世界を変えうるもの 少女は未だ自分の世界を受動的にしか返れない存在

こんなところかな?


2005年07月06日(水) hairy caterpillar




毎日夕方に、庭の草木に水を撒く。いつもどのくらい撒いていいのかわからないなぁと思いながら―ボクは加減がへたくそなのだ。

ペンチで摘んで力を入れるときも、水筒のゴムパッキンをまわすときも、どのくらい力を入れていいのか、おそるおそる触れている。ボクは平均的な運動能力をはるかに下回るので、ボクが力いっぱい何かをしても大抵何も起こらないとわかっているけれど、それでもやっぱり怖いのだ。

脱線したけれど、そうして水を撒いているとにょこっと出てくるのが毛虫だ。一体さっきまで何処にいたのか、急に視界でもぞもぞしだしてこちらもビックリするが、見かけた以上は野放しにできない。ふと見れば毛虫発見地点の近くの葉っぱはみんな穴が開いていたりして、これは撤去しなければと、割り箸を片手ににらめっこする。

毛虫は案外早い。
割り箸で摘んだら、ほんの数秒で上ってきてボクの手元までやってきてしまう。初めて摘んだときはその速さにビックリして箸ごと放り投げてしまったが、毛虫はあなどれない奴なのだ。
毛虫を潰すとなんともいえないグロテスクな、黄緑やらなんやらの鮮やかな色が飛び出す。外側は茶色なのに内臓は鮮やかで、なんとも気味の悪いものをみた気持ちになる。

毛虫=hairy caterpillar
芋虫=caterpillar


2005年07月05日(火) sheep or goat?

相変わらず羊を収集しているが、この間見つけた羊が面白かったので紹介。見つけたのはやっぱりヴィレッジ・ヴァンガード
まずは全身像をご覧ください。




なんの変哲もない羊のようですが、よく見ると腹にファスナーが付いています。ということで、羊毛を剥いでみると…




まるでトムとジェリーのトムが皮を脱ぐように(このとき彼は赤と白のトランクスを履いている)、皮がはがれてヤギに変身!ちゃんとあごひげもあります。羊とヤギ、よく似たもの同志のような、でも何だか違うような・・・メーテレのキャラクター、ウルフィーのようなアザトサもなく、いまいち焦点が合わない不思議なヌイグルミで、見ているとなんともいえない中途半端な気持ちがぐるぐると廻ります。

羊の群れにヤギを入れておくと、オオカミに襲われた羊がパニックになっても散り散りにならないと聞いたことがありますな。




ちなみにファスナーは二重構造。ヤギの姿になっても腹にまたファスナーがちゃんとついています。こちらのほうは意味不明。小物入れ?それとも赤頭巾ちゃん?(それはオオカミ)


2005年07月04日(月) 仮面ライダー

昨日まで相方の一族が泊まりに来ていた。一族はみんな沖縄の人なので、みんな沖縄から飛行機でやってきたのだが、その数総勢6人。我が家の人口は8人になり、そこに人並みに大きな犬が3頭、猫が一匹の大所帯と化した。

そのうちの2人は就学前の子供だった。日曜日の朝、テレビが見たそうだったので、「ふたりはプリキュア」という女児には超人気番組をつけようと思ったが、まだ時間は早く、変わりに仮面ライダーがやっていた。

それが仮面ライダーだと推測されたのは、この時間帯には代々仮面ライダーが放送されていることを知っていたからだ。ボクはもともと仮面ライダーを見たことがなかったけれど、あの強烈なヒーローの姿は記憶していた。バッタの顔をした、世にも珍しい昆虫ベースのヒーローは、子供の頃は気持ち悪くて見なかった。

さて、現行の仮面ライダーは響鬼という。ボクは仕事上子供を相手にする機会が多いので、今の仮面ライダーが「太鼓」を武器にしていることは前もって知っていた。また、子供達にとって仮面ライダー響鬼が、「かっこいい」存在であることも知っていた。マジレンジャーは面白くて、響鬼はかっこいいんだよ!と4歳の男の子が力説していたのを思い出した。

この日の放送では、響鬼はなかなか現れなかった(のだと思う)。なかなか現れず、みんな響鬼(さんずけだった)を待ち望んでいた。響鬼は皆から一目置かれる兄貴分といった感じで、体育会系の先輩と、それに憧れる後輩達を思い出した。

仮面ライダーにカウントしてもよさそうな人物は3名出てきた。彼らは「音波」を使って敵を攻撃するようで、みんな武器は楽器だった。間違っても楽器を投げたり変形させて振りかざしたりはしないで、あくまでみんな演奏することで敵を倒す、という攻撃方法だった。

響鬼は太鼓を打ち鳴らし、
もうひとりはトランペットみたいな楽器を吹き鳴らし、
もうひとりはギターもしくはベースをかき鳴らした。
それは、斬新すぎて、カッコいいのかどうかよく解らない攻撃方法だった。

ひとつ気になったのは、あの仮面ライダーの象徴、仮面ライダーを仮面ライダーとして認識させるはずの昆虫顔ではなくなっていた。もっとのっぺりとしていて、めらめらと燃える焔をモチーフにしたような顔だった。
ボクは、仮面ライダーは孤独なヒーローだと何の根拠もなく思い込んでいたが、彼らは楽しそうで、さわやかだった。

とにかく全部が、ボクの勝手に描いた仮面ライダーとは違っていた。


2005年07月03日(日) 東山動物園

昨日は小さなゲストの為に、東山動物園に出かけた。ボクにとっては何年ぶり、最後に行ったのは大学生の時で、相方と一緒に行くのも初めてだ。

ボクは、こっそり事前に知り合いの子供に、東山動物園にボクのお気に入り、羊とフラミンゴがいるかをリサーチしておいた。フラミンゴは何匹かいて、羊はふれあい広場に薄汚れたのが一匹いる、という調査結果をふまえて、ぜひともフラミンゴは見てみたいと思っていた。

駐車場は何箇所かあったが、相方が適当にとめていざ入園、入園料は大人500円、中学生以下は無料だった。子供の頃、えらく安い!と思った覚えがあるが、なんのことはない子供はタダ、流石は市営なのだった。




入って、まるでねらっていたかのように、一番最初にボクらを迎えてくれたのはなんとフラミンゴであった。ボクは凄く運命を一方的に感じて気分は高揚した。
フラミンゴはちょうど産卵期だった。でも、卵を間違って割ってしまうといけないので、フラミンゴたちに与えられているのは作り物の偽物卵だ。本物の卵はちゃんと孵卵機で暖められていて、孵る直前にフラミンゴに返されるそうな。フラミンゴの卵が壊れてしまうのは嫌だけれど、偽物の卵を抱いているフラミンゴも切ない気持ちになった。ここは動物園なのだ。




子供達は2歳と4歳だったが、4歳のほうがゾウが見たいといったので、次にゾウを探しながら歩いた。ゾウは生まれた年号が書かれていて、そこから推定するに、ボクが幼稚園の頃に見たゾウも、小学生の時にみたゾウも、大学生のときにみたゾウもみんなコイツだな、と思った。とすると、随分おじいさんのゾウになるはずで、これもまた感慨深い気持ちになった。

他にも沢山サルがいて、サルは繁殖期だったのか、子供サルも沢山居て可愛かったのだが、すばしっこくってカメラではぶれてゴーストになってしまった。小猿はとっても可愛かった。




ツキノワグマ。




シロクマ。

爬虫類と両生類の館は面白くて、子供達もとても喜んだ。特にカエルの水槽が人気だった。とてもでかい蛇がこれでもか!とうじゃうじゃしていて、今地震がきたら大変なことになるな・・・とぼんやり思った。

小さな子供ずれではあまり移動できず、見損ねた動物も沢山いた。
シマウマ・ペンギン・カンガルー・おんぼろ羊
完璧に舐めていたが、東山動物園はとても広かったのだ。加えて併設の植物園など殆ど見ていないが、綺麗な薔薇が咲き乱れていた。


2005年07月02日(土) 悲しいゾウ




もうずっと昔の話。
戦争が続いて、何処の動物園でも大きな生き物は死んで、あるいは危険性を考慮して毒殺された。かの有名な「かわいそうなゾウ」のように・・・しかし、名古屋は東山動物園には、苦しい戦争を生き抜いた2頭のゾウがいた。終戦を迎え、日本中で生きているゾウはこの2匹だけとなった。

ゾウは大人気となり、日本中から注目された。やがてゾウが見たくてたまらない関東の子供達から「ゾウを1頭分けて」とお願いされ、あまりに沢山の子供がみんなでゾウを望んだので、東京の都知事も出向いてゾウを譲ってくれと言った。相談の上一頭貸し出すことにしたが、結局はゾウは貸すことができなかった。
2頭のゾウはとても深く結びついていて、引き離され残された1頭は、壁に頭をぶつけて血を流し、暴れ狂って泣いたのだ。

ボクは、「かわいそうなゾウ」を本屋で立ち読みして、うっかりボロボロ泣いてしまったことがあるのだけれど、この話も涙がじんわりと浮かんでしまう。

※詳細は「東山動物園」の公式HPに記載されているa>


2005年07月01日(金) 春夏秋冬

梅雨が本格的に来ないまま7月を迎えたせいか、まだ夏の気持ちにはなれず、どちらかというと春の延長のように感じる。何時までが春で、何時からが夏なのか?
5月の薔薇が咲き乱れる頃を初夏というのかしら?と思っていたが、広辞苑で調べてみたら、初夏は太陰暦の4月に相当するらしい。太陰暦は一ヶ月を29ないし30日として、一年を12ヶ月としたものらしいから、太陽暦とそんなに大きな違いはなさそう。ということは、時差はそんなにないと考えて、

4月が初夏なら、ボクの中の春夏秋冬とは大分違う。

ボクの中では
春=3・4・5月
夏=6・7・8月
秋=9・10・11月
冬=12・1・2月
という具合に暦は捕らえられていて、5月に暑い日があっても、6月には寒さが戻ってきて、雨が上がると蝉が鳴くはずなのだ。

そういえば、ボクは一年のうちで一番12月が寒いと思い込んでいて、実は2月が一番冷えると知ったとき驚いたのだけれど、これは12という区切りのいい数字が一番極にあると思い込んでいたためだろう。その法則ならば一番暑い月は6月でなくてはならないし、一番暑い8月の極はやはり2月なのだ。

この法則の面白いところは、季節が大体均等に配分されている日本ならではの考えであって、例えば相方の沖縄では季節は全然違う。
沖縄では桜は1月に咲く。だから、入学式のシーズンのCMの背景に桜が入るのがどうしてか、ずっと解らなかったという。同じように山の上の桜は5月を過ぎるのだ。森山直太郎氏の歌みたいに、新年度と桜とは強く結びついたイメージだけれど、
別のときに咲いていたなら、桜にどんな意味を感じ取るのだろうか。


ロビン