2002年03月30日(土) |
「本の雑誌」4月号(本の雑誌社)を読む。 |
「本の雑誌」4月号(本の雑誌社)を読む。 何度も読む雑誌はこの雑誌だけである。軽く全体を拾い読みした後、興味、関心の高いものから読み直していく。日を置いて読み残しがないか確認する。その時の気分によって新たに面白いと感じるものが出てくることもあるので、また全体を一回流してみる。 こうやって何度も何度も読み直す。 今月号は三月二十九日に届いた。書店に頼んでいるのだが、毎月二週間遅れである。書籍扱いなので遅くなるという。最近は諦めの境地である。 今月号は「カニ玉そでまくり号」で、特に充実している。 本について書くことが好きでたまらない人たちが今回は特に力を入れて書いていると感じた。
2002年03月29日(金) |
城山三郎「ちょっと散歩してくるよ」(講談社「本」4月号所収)を読む。 |
城山三郎「ちょっと散歩してくるよ」(講談社「本」4月号所収)を読む。 連載エッセイ「この命、何をあくせく」の33回目。 最近、耳慣れぬ言葉や耳障りのよくない言葉によく出会うという話から始まったので、今回はそういう言葉の話題なのかと思ったら、自身がアイルランドにはまっているという話題にきれいに変わったのはさすがだった。 ジョイスの「ダブリン市民」(新潮文庫)を読み返したのがきっかけで、その次にブレンダ・マドクスの「ノーラ ジェイムズ・ジョイスの妻となった女」(集英社文庫)へ深入りし、さらにコルム・トビーンの「ヒース燃ゆ」(松籟社)へと進んでしまってすっかりアイルランドにはまる状態になったのだそうだ。 現在はかつてよりも人々の生活は少し落ち着いてきているが、大自然の酷薄さだけは変わっていない。そこでこのエッセイの題名の意味が伝えられる。 「天気のいいうちに」ちょっと散歩してくるよというわけなのである。 自然の有りようが日本と全く異なる世界の話をしているのだ。 いままでこの著者の本を読みたいと思ったことはなかった。 毎月、こんな見事なエッセイを読むことになると、どんな作家だったか知りたくなってくる。今まではジャンルが違うと目を向けなかった。 目が向いている方向や興味関心の対象が意外にも一致する事があるので、他の本も読んでみたくなった。
2002年03月28日(木) |
レナード・トンプスン(訳=田中潤司)「スクイーズ・プレイ」を読んだ。 |
レナード・トンプスン(訳=田中潤司)「スクイーズ・プレイ」(「北村薫の本格ミステリ・ライブラリ」角川文庫2001.8.25所収)を読んだ。 アル中になってかつての名声は地に落ちている酔どれ弁護士グレイのもとに殺人容疑の夫を助けてほしいという女性が現れる。依頼を受けたグレイはかつてのように獅子奮迅の働きをする。密室物だが結末は思いがけない。 昭和31年の雑誌「宝石」に訳載された作品の発掘である。 古き良き時代の佳品である。読んでいてなぜかうきうきするような遊び心を感じる愉快な作品とでも言うべきか。 「スクイーズ・プレイ」とは何かで随分悩んだ。野球の「スクイズ」と同じような意味かもしれない。
2002年03月27日(水) |
上原隆「友がみな我よりえらく見える日は」(幻冬舎アウトロー文庫2000.12.25)の「友よ」を読む。 |
上原隆「友がみな我よりえらく見える日は」(幻冬舎アウトロー文庫2000.12.25)の「友よ」を読む。 もともと1969年に学陽書房から出版された本がいわゆる親本でその文庫化である。題名に引かれるものがあり、なおかつ解説が村上龍だったので買うことにした。 著者についてはまったく予備知識がない。冒頭の「友よ」を読み、著者紹介欄の1949年生まれを見て、納得した。 「友人が本物の不幸におちいった時、私は友人になにもしてあげられないことに驚き、とまどった。」 これは冒頭の文章。 そして、アパートの5階から落ちて、生命は助かったが両目を失った友人との話が語られる。 以下、スピルバーグの『E.T.』、河島英五の「時代おくれ」、ビートルズの「ミッシエル」、石川セリの「八月の濡れた砂」、ビートルズの「ヘルプ」、ランボーの詩などで彩りながら、生きる希望を取り戻していく友人のことと傍観するしかない自分の気持ちを語る。 困難に陥った人を救うことができない者ができることは見守ることだけか。 全十四編の軽エッセイ風ノンフィクション。 ちょっと気になる人を発見した感じ。
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