読書日記

2002年04月07日(日) 永井龍男「狐」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「狐」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
これも家族の話で「青梅雨」よりも直截に怖い。
富裕の家に生まれた長男が都会に出てきて胸を患い静養生活に入り、そのまま屋敷を建ててもらい、結婚もし、金に苦労しない一つの家族が出来上がる。
金に不自由し始めても男の生来の坊ちゃん性分は変わらず、妻との喧嘩が絶えなくなっていき・・・。
始め妻の気丈さは不気味さに結びついたが、結末ではいつまでも救われない夫に対して愛想をつかすかつかさないかのぎりぎりの線をうまく保っている賢さのようなものを感じた。
男はいつまでもばかだが、女や子どもは「狐」のようにしたたかでなおかつやさしいのかもしれない。
この終わり方では、男が眼を醒ました時、おいてけぼりにされているだのだろう。
「青梅雨」よりも少しだけ長いだけなのに、読みごたえが長編に近い。中身がぎっしり詰まったいわば巻頭を飾るボーナス作品である。強烈だった。



2002年04月06日(土) 永井龍男「青梅雨」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。

永井龍男「青梅雨」(新潮文庫「青梅雨」1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読む。
名作中の名作と言われている短篇小説である。文庫本で20ページ程度の本当に短い作品だった。
事件を告げる新聞記事で始まり、電車で帰宅途中の老人が描写され、さらに帰宅した老人を迎える家族の描写が続く。最後は始めの新聞記事に対応する内容の文章で締めくくられる。
曖昧さを極力排除した点でハードボイルド小説(?)に近い。結末部分に関してだけでももう一度は熟読したくなる点ではミステリー小説にも似ている。
ページ数では短くても気になる場面や文章表現がいくつもあるという不思議な小説である。
多分今はもう訂正されていると思うが240ページの最初の1行目、
「無職太田千三さん(七七)方で、太田と」
のところでひっかかって調べた。つまり、「太田と」は「太田さんと」の間違いではないか。「さん」が抜け落ちていると考えた。
次の本等を読んだ。
中条省平「小説家になる!」(メタローグ1995/05/10)の195ページ。
「新潮日本文学18 永井龍男集」(新潮社1972/6/12)の284ページとその月報48の永井龍男「わが文学の揺籃期 新聞記事」(つまり著者自身が「青梅雨」に言及している文章)の2ページ。
いずれも「太田さんと」だった。
最初読んだ時にそこでしばらく立ち往生したので確かめてみた。しかし、この文庫の定本である講談社の「永井龍男全集」は持っていないので、もしかしたらそちらはそうなっているのかもしれない。



2002年04月05日(金) 黒田研二「今日を忘れた明日の僕へ」(原書房2002/01/15)を読了。

 黒田研二「今日を忘れた明日の僕へ」(原書房2002/01/15)を読了。
読み終えるつもりは全くなかったのに、読み終わってしまった。読んでしまった。
「謎」がどんな風に明らかになるのかが気になって仕方がなくなり、結局最後まで行ったのである。
誰でも考えつきそうで考えつかない、ちょっとシャクにさわるワン・アイデアが命の一種「女か虎か」風の長編小説で、これはまさに「ミステリー」小説と言っていい。
ケン・グリムウッドの「リプレイ」と以前に見たアメリカ映画「恋はデジャブー」を同時に連想した。
1時間ほど空いた時間があったら読んでみたらいいかもしれない。あと5分、もう5分とさらに30分近くは延長せずにはいられないだろう。
ぼうっとして何もする気力が湧かない時に読むのも脳への刺激になっていいだろう。



2002年04月04日(木) 宮部修「文章をダメにする三つの条件」(丸善ライブラリー新書2000/09/20)を拾い読み。

宮部修「文章をダメにする三つの条件」(丸善ライブラリー新書2000/09/20)を拾い読み。
こんな題名の本があるのかと手にとった。
その89ページから90ページにかけて堀口大学の「かすみ網」という詩が引用されていた。
小さな才の
かすみ網
張って待つ
息を殺して
じっと待つ

夜明け方
枕の上に
張って待つ

かすみ網
今朝の獲物は
ツグミかシギか
鵬程万里のコンドルか

息を殺して
じっと待つ

詩人の晩年の作品であるということだ。

日常的に「張って待つ」人達は詩を楽しむ時間を持っているようだ。


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