2002年04月15日(月) |
永井龍男「黒い御飯」を読んだ。 |
永井龍男「黒い御飯」を読んだ。 氏の処女作。19歳の作品というから凄い。 印象的な冒頭の文章。 思いがけない中間の展開。 くらくらするくらい見事な結末。 そして人物の心中を的確に描き出す文体。 後の永井龍男のほぼすべてがすでにここにある。最初から完成されていた。 それにしても永井龍男の小説を読むたびに連想するのはアメリカの作家ダン・シモンズである。 永井龍男が連作短編からなる長編をもしも構想して完成させたなら純文学の枠を越えた傑作になったにちがいない。 ダン・シモンズを思い出したのは「ハイペリオン」が一話一話が感動的な短篇からなる大長編だったからである。 ちょっと寝言のようなことを書いた。
2002年04月14日(日) |
町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所2001/12/08)を47ページまで。 |
町井登志夫「今池電波聖ゴミマリア」(角川春樹事務所2001/12/08)を47ページまで。 第2回小松左京賞受賞作品で帯にはノンストップ・スクールバイオレンスSFとある。確かにその通りの内容である。 近未来の落ちるところまで落ちた日本の孤高の武闘派高校生を狂言廻しに使っているようなので今のところ未来版「ビーバップ・ハイスクール」という印象で目新しい事はない。しかし、小松左京絶賛である。 このままの調子で終わるわけがない。 「夢の後始末」は214ページまで進む。 永井龍男が登場したのでびっくりした。いわば最先端の作家にみならず伝統的な作家にもこの著者は強かったのだ。唐十郎から舟橋聖一や尾崎一雄まで実に幅が広い。
2002年04月13日(土) |
村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を114ページまで。 |
村松友視「夢の後始末」(ちくま文庫1998/09/24)を114ページまで。 かつての中央公論社が作っていた文芸雑誌「海」のこともこの著者が編集部に籍を置いていたことも知っていたので、その「海」を通して知った作家たちとの交流を書いたこの作品のことはずっと気にかかっていた。 「私、プロレスの味方です」などの一種のエッセイ集は愛読したものの、その小説はなぜか読みたいとは思っていなかった。「時代屋の女房」も映画はビデオで観た。原作の方はもしかしたら読んだかもしれない程度の自信のなさで情けない体たらく。 角川書店の「野性時代」は毎月講読していたので、連載されたか、一挙掲載されたかは定かではないにしろ、発表当初からこの「夢の後始末」のことは記憶に残っている。 その後、角川書店が単行本で発行し、次に角川文庫で出ても、題名を見るとピクッとすることはあっても購入するまでには至らず、だった。 それが今回読み始めたら一気に100ページを超えてしまう面白さである。今までなぜ敬遠していたのか、不思議なほどはまってしまった。 まず名だたる作家たちのなまのエピソード集として読める。 次に著者の青春時代のユニークな独白集としても読める。 そしてなんといっても文章が明快で正確であるので安心して読める。 昨日まで永井龍男の小説を読んでいたので作家のことが書いてある本を読む気にさせたのだろう。 解説は、常磐新平氏。
2002年04月12日(金) |
永井龍男「青梅雨」(新潮文庫1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読み終わる。 |
永井龍男「青梅雨」(新潮文庫1969/05/15発行2002/06/20改版所収)を読み終わる。 「一個」「しりとりあそび」「冬の日」の三編を読み、文庫本「青梅雨」を読了。 「一個」は、停年間際の男の死にいたる狂気。「しりとりあそび」は、中年夫人のしたたかさ。「冬の日」は、理性によって女の情愛を抑え込んで愛する者と別れる道を選んだ中年の寡婦の哀しさを描いている。 「狐」「そばやまで」「枯芝」「名刺」「電報」「私の眼」「快晴」「灯」「蜜柑」「一個」「しりとりあそび」「冬の日」「青梅雨」の全十三編収録。 解説は、河盛好蔵。 なんと千九百六十九年五月発行の本である。全く古びていない。 これだけの名品を生み出した著者の作品集が新潮文庫にこの一冊しかない。信じられないぐらいレベルの高い一冊である。 「狐」「枯芝」「私の眼」「一個」から強烈な印象を受けた。 一編だけなら「狐」を選ぶのは、物語性が強いからかもしれない。
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