読書日記

2002年06月30日(日) スティーヴン・キング『一九六〇年 黄色いコートの下衆男たち』(新潮文庫『アトランティスのこころ(上)』所収)をやっと読み終える。

 スティーヴン・キング『一九六〇年 黄色いコートの下衆男たち』(新潮文庫『アトランティスのこころ(上)』2002/05/01所収)をやっと読み終える。
これが二冊本『アトランティスのこころ』の上巻すべてを占める長編で表題作と他の三編が下巻に回っている。
五編からなる連作大長編の一編目自体が五四〇頁に及ぶ分厚い長編なので、読むのが大変だった。この著者の作品には常に覚悟がいる。どんなに読みたいと思ってもその願いに重みがないと挫折する。
この度は題名のひらがなとレクター博士の顔写真のおかげですんなり入れた。
キングの小説を結構読んでいるようで割とそうでもないのはだいたい長めの作品が多いことに尽きる。もちろん読後の充実感はほとんど保証されてはいるが。
『ファイアスターター』や『デッド・ゾーン』を面白がっていた頃が懐かしいくらい今は腰がひけてくる。
十一歳の少年の物語が一人称ではないが現場的にかつ回想的にまたは未来的に語られてゆく。あの『スタンド・バイ・ミー』と異なるのは不思議なあるいは超自然的な要素があることで、節目節目で重要な役割を果たす。
さらにあの『ガン・スリンガー』もの(「暗黒の塔」シリーズ)との関連が示唆する部分があり、現実世界と超現実世界との往来物語のひとつであることが判明する。超自然的な力はいつかどこかでさりげなく登場してもよいのである。
くっきりした輪郭を持つ個性的な登場人物たち。十一歳であろうと一人前の人間である。重厚長大な物語の中で別れと成長の重層的な痛みがきらびやかに演じられる。
しかし、あくまでも彼ら彼女たちは普通の市民。特別な人間ではない。
題名の「下衆男たち」には「ロウ・メン」とルビがふってあるが何か特別な意味があるのだろうか。
久々にその長さを堪能した小説。。




2002年06月29日(土) 矢野誠一『藝人という生き方(渥美清のことなど)』文春文庫(2001・11・10)の最初のほうを読む。

矢野誠一『藝人という生き方(渥美清のことなど)』文春文庫(2001・11・10)の最初のほうを読む。
第1章にあたる部分は題して「渥美清と田所康雄と車寅次郎」で48ページまで。
小林信彦の本と違って筆者が渥美清のファンではないらしいので冷静にその芸人としての生を眺めることができたようだ。
解説は、長部日出雄。



2002年06月28日(金) 川本三郎『君美しく』(文春文庫2000・04・10)の始めだけ。

題名の読みは「きみうるわしく」で副題が「戦後日本映画女優讃」となっている。
読んだのは最初の「女優嫌いの大女優・高峰秀子」
ご本人へのインタヴューの再現という形式のエッセイである。
「二十四の瞳」くらいしか観ていないし、とりたててファンというわけでもないけれども、高峰秀子さんの人柄や魅力が好ましく伝わってくる。
最初のページに現在の写真があり、その裏のページに若いときの魅力あふれる写真を配しているのは、その当の女優にとっては酷なことかもしれない。
やはり往年の姿は何とも言えない気品がある。



2002年06月27日(木) 湯浅健二『サッカー監督という仕事』(新潮社)をまだ読んでいる。

130ページまで来た。
96ページで今年のワールドカップの決勝を想定したプレーを紹介している。
ブラジル対ドイツの決勝戦で1対1で迎えたゲームの終盤のプレーを描写するのである。
「ゆるい横パスが、リバウドへ向けてロベルト・カルロスの足から放たれた。その瞬間。最前線にいたロナウドが勝負のアクションを起こす。」
「リバウドから、ダイレクトのタテパスがロナウドへ。そして、これまたダイレクトで、ロナウドから、スペースへ走り込むアモローザへ、魔法のパスが奔る・・・・・・アモローザがダイレクトで放ったシュートは、ドイツのゴールキーパー、カーンの脇の下を矢のように突き抜けていった。
決勝ゴ〜〜〜ール!」(97ページ)
サッカーをあまり知らなくても著者のサッカーへの情熱・愛情がふんだんにこもった文章が至福の時を演出する。
エッセイとしても一級品だと改めて思います。


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