時々日記な雑記帳

2005年02月04日(金) 誰かのために流れた涙が

誰かのために流す涙は、何だか綺麗に見えるもんなんだなぁ・・・
とか、今日思ったり。

受験シーズンで立て込む塾の風景は、何も初めてみるものじゃない。
高校の時だって大学の時だって、張り詰めた空気の中に立った事はあるのだから。
でも、それはあくまでも『生徒』としての話。
『教師』側からこの空気の中に立つのは初めてな訳で。
合否を知らせに来る生徒、口数も少なくなり、それをただ待ち続け、迎える教師。

教室会議の時、ある先生が
『受験にはドラマがある』・・・みたいなことを言ってたのを思い出した。
この言葉を聞いて、「クサイ台詞」なんて思う人も居るかもしれない。
けど、多分あたしは、その場を『見た』んだと思う。
決して『実感』した訳ではない。
けれど、彼の言葉の意味をそこで、何となくかも知れないけど、理解した様な気がした。
合否連絡の電話を、心穏やかではない静けさの中で待つ教師達は、電話の音に、扉の開く音に、度々敏感な反応を返す。電話口で聞こえる生徒の声音、入って来た生徒の表情、とりまく雰囲気。彼らはそれを察するために、神経と云う神経を総動員して感じ取ろうとする。
そして、(願わくばそれが演技ではない事を祈る)祝福や励ましの言葉。

教師って、バイトだろうと公務員だろうと、自己満足だけじゃ成り立たないんだ、と確信した。
『ドラマがある』と言った彼や、いつも割と無口な彼女も、生徒のために本気で涙を流して、生徒の言葉一つ一つに、その表情を次々と素直に変えて行く。
そこには、あたしがどこかで見た事のある変な傲慢さも、商売への貪欲さも見つからない。

誰かのために泣ける姿を、あたしは久しぶりに見た気がする。
あたしには、それがひどくピュアで、綺麗なものに見えた。

「これからの子ども達の教育に求めるものは何か?」
ついこの前終わったテスト期間の最後に受けた、教育原論の問題の一つ(だった気がする)。
あたしは、言葉で表す事の難しさと煩わしさを感じた。
文として表現するのは大切な事だし、必要な事。
でも、ただ単純に、自分のために泣いてくれる先生と出会えたら
どんなに幸せだろう、と思うのだ。
生徒たちは、教師達をよく見てる。
心ココに在らずなら、生徒達は、まるで鏡みたいに素直に「それなり」の反応を返す。生徒の様子も見ずに、ただ「自分」だけの授業をすれば、「それなり」の結果が出る。
楽なもんじゃ決してないし、自己満足じゃ成り立たない。
割に合わない、なんて愚痴りたくなる時があるかもしれない。

でも彼らが涙を流したあの瞬間は、そんな考えの一片もないし、生徒達を「お客様」なんて見てなんかいない。
もしかしたら、涙なんて流してなくたって、少なくとも『ドラマがある』と言った彼にとって、其処ではあくまで生徒が「主役」なんだと思う。
「お客様」なんて響きが、何だかセコくて、下世話に聞こえるくらいに、そう思った。
(誰かが生徒をお客様〜なんて呼ぶのを聞く度に、あたしは違和感を感じてたけど)

でも、人間・・・なのかな、持っていて欲しいと思うものが見れた気がした。
ある意味、教師になれる素質は何か尋ねられたら、一つはこれなんじゃないかなぁ。

このまま続ければ、オイラ受験生を何人か持つ事になりそうだけども・・・それに関して、ずっと変な恐怖感があったんだょね。自分の中でいろんな矛盾がグルグルしてます。汗

てか、ホント気持ちで文書いてるなぁ、自分。爆
読み辛いかもだけど、ゴメンアソバセねv笑



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