僕はストーリーテラーに憧れる。 なんでもいい。 小説家、脚本家、映画監督、映像作家、漫画家・・・ なんにしても基本的には何かを語っている人達だ。 また映画監督、映像作家の人達には芸術性の面が突出する場合もある。 その辺の部分は画家の表現するものと共通するだろう。 意味のあるもの、ないものに関わらず、皆芸術家と呼べる職業の人達の事を、僕は羨ましく思う。 まずはストーリーテラーに憧れ、やがてあらゆる表現者、芸術家を羨ましく思う。 なぜそんなに羨ましがるのか? それは以前にも日記で言った通り、自分に自信がないからだろう。 そして、何らかの芸術の世界に憧れているからだろう。
先日NHK教育ではイブ・クラインという人の事を特集していた。 彼は画家で・・・ん?画家であったかどうかも忘れた。 なにせ、絵画以外の創作もしていたような気がするからだ。 彼は<青の旅人>と言われた。 彼がモダンとポスト=モダンの間の芸術を生み出していたと言われても、僕にはさっぱり分からない。 しかし、彼の振る舞いは幸い僕の目に止まった。 <幸い>というのは、イコール<喜ばしい>ということで、彼という存在を知ることができて何よりだという意味で使った。 先に彼は青の旅人うんぬんと記したが、そう、彼の何よりの特徴は<青>である。 明らかなほどに、一途なまでに、そして彼の目には青という色の概念が強烈に映っていたのだろう、と思わせる青の表現者なのである。 青が好きなんだな、この人は。 エルキュール・ポアロという架空の探偵は<灰色の脳細胞>をもつ男だが、彼はちがった意味で<青色の脳細胞>を持っているのだろう。 彼は青色に興奮したのだろうか? 自宅のトイレットペーパーは特注で青色に染められていたのだろうか? もし僕のお母さんが体中青に染まっていたら、きっと耐えられない。 「なんで青色なの?」 と聞くのも怖い。 話がずれたが、例えば、なんともそこにうねるような生命が宿っているかの如くの青一色に染められた絵が、彼の作品なのである。 キャンバス一面、同色の青である。 それを見て馬鹿にする人もいるだろう。 あんなもの赤子にだって描けるさ! いやしかし、そうも簡単に見くびることはできない。 やはり、じっと目をその作品に這わせてしまうのである、自然と。 僕は彼の策略にまんまとハマッた。 なぜだろうか? 青のモノクロームに塗られたそれがなんだっていうのか? 彼は自らが用いるその青を「インターナショナル・クライン・ブルー」と名付けた。 単純に言えば、彼の用いる青は濃い。 濃いのである。 仮に人間の血液がこの色でもおかしくないのでは?と言える色のように感じる。 青なのに。 ブルーなのに。 青の価値観が、彼を知ったおかげで少しずれてしまった。 深く考えざるを得なくなってしまった。 そして、深く考えたくなってしまったのである。 深淵な漂いをひたひたと見せる彼の作品は、単にマスコミが「彼の作品は芸術だ!」と言っているからではない、芸術としての存在感に満ちている。 ある瞬間、TV画面に彼が両足を開脚させて宙に舞っているような映像が映った。 彼はおぉ、まさに飛んでいた。 大の大人がそれをするのは想像が付きにくいようなパフォーマンスをしていた。 彼は楽しそうに飛んでいる。 そしてどこか儚げだ。 それを見て羨ましいとは思わなかったが、僕も一緒に飛んでみたくなったり、反対に彼の足を引っ張って尻餅をつかせたくなったりした。 僕はそれを見て、彼が内なるエネルギーを外に見せ付ける事の意味を(意味なんてあるのかどうかは知らないが)知ったような・・・、いや、感じたのである。 とにかく、彼がピョンピョン跳ねている様を見て、心がワクワクしたのだ。 ただそれだけだ。 彼が好きだ。 僕は宗教には関心が無い。 世に宗教と呼ばれるものはどんな団体にしろ、結局「ああしろ」だの「こうしろ」だのと言って個人というものを認めていないのでは?と思う。 もしそうでないところがあるのなら僕の認識不足としか言えないが、それはそれでいい。 僕の言いたいのはこういうことだ。 彼はああしろでのこうしろだのと言わないのは勿論のこと、他人に対して道標さえも立てていない。 そこがいいのだ。 「私を生きていく様はどうだい、参考になるだろ?」と思っている節が特にないのである。 そう、彼は人生のカリスマではない。 しかし、芸術のカリスマではあるかもしれない。 彼は人間が何かをするという行為、表現をする事の楽しさを、感じる事の快感を他人に伝えているのである。(それが本人の意志であるかどうかは別として) 彼は道を作るんではなくて、僕ら他人にとっては道端で風船を配っているピエロに過ぎないのである。 それはいいのである。 彼がどんな道を歩んでいようが構わない。 しかし、彼の創る風船が目当てなのである。 その風船こそが、僕がこの先を歩んでいくのに関わっていくかもしれないものなのだ。 彼はもうこの世にはいない。 彼はどんな道を歩んだのか? 彼の軌跡を辿る研究家は、彼の人生を追うのが目的なのではない。 彼の人生を盗み、側に置いておきたいだけなのである。 偶には、その研究家は道端に腰をおろして盗んだものを盗み見るのである。 そして僕は、彼や彼の研究家の表現するものを盗み見て、活用するかどうかは今のところ分からないし、無意識に意識していくのかもしれない。
―バナナ一本分の食物繊維を知りたいが、調べるのが面倒くさい―
「GOLDEN LUCKY」という四コマギャグマンガばかり読んでいる。 あー、漫画家になりたい。
―なれるものなら―
「僕は芸術家だー」と嘯きたい!!
※明日の日記を読んだ人へ ちなみに今は上巻をパラパラ読んでいる。
―最近―
2002年10月20日(日) |
ティッシュ口にくわえ |
「女ってヒューマン?」 まだ僕が中学二年の1995年当時にとってはニューシングルの「【es】~Theme of es~」というミスターチルドレンの曲にはこんなフレーズが出てくる。 <Oh なんてヒューマン> この部分の事を当時、クラスの友達が図画室にてこう言った。 「女ってヒューマンっていう風に聞こえる。」 そのとおりだと思った。 女ってヒューマン 女ってヒューマン? そんな言葉を頭に反芻させながら、僕は今日までを過ごしてきた。 そんな事を思っていたら、急に「メロディーの視覚化」という事を思い付いた。 全く、自分でも理解に苦しむ。 女ってヒューマン♪を視覚化? おんなってぇひゅーめぇ~ん・・・ を立体的に、かつ分かりやすく表現するには? あのリズムをこう・・・なんというかねぇ。 思わず手が胸の前で外人のアピールのごとくに動き出してしまう。 もっとこう・・・今までにはない概念のね・・・ なにせリズムを視覚化するっていうのは単に自分なりのイメージを抽象画にするというのではなくて、もっと音符の記号が動き回るような、そっちの感じの視覚化をイメージしてるんだけれど、何かが足りない。 何が足りない? もっと核なるものに音符の記号がまとわる様に・・・ 抽象的なイメージではない表現はできないだろうか?
「ロジック歯磨き!」 小学五年の時、先生に歯磨きに関するアンケートに答えさせられた。 それは挙手で行うものだった。 「朝食を食べた後に歯を磨く人は手を挙げて」 確かそんな質問だったように思う。 僕はその質問に対して手を挙げなかった。 クラスの大多数の手は挙がっていた。 僕はいつ歯を磨くのかを聞かれた。 「朝食前です。」 そんなような返事をした。 そう言うと先生は、確か朝食前に磨いた方がいいよ、というような事を言ったと記憶する。
僕は今でも朝食前に歯を磨く。 ここで僕は朝食後にしか磨かない人に聞きたい。 就寝中に繁殖するミュータント菌を想像したことはあるのかい? 僕はたまたま食前に歯を磨くように母に教育されたわけだが、それにおいてはラッキーな教育を受けたもんだと思う。
食後に磨くのが悪い訳ではない。 しかし、どっちかというと食前の方がいいのではないか? 要は食前食後に磨けば済む話ではあるが・・・ ただし僕は必ず朝食後に関わらず、毎食の後にはお茶を飲む癖がある。 これは自分でもいい癖だと思う。 お茶の飲むことによって、口の中が清潔になるかどうかは分からないが、少なくともすっきりはする。 お茶自体も好きだが、精神的に口の中をゆすぐという意味でもお茶を欲しているのかもしれない。 つまり僕は完璧なのである。
食前に歯磨き。 食後にお茶。 これは完璧のように思える。
―須藤理彩が無性にたまらない―
2002年10月19日(土) |
WEARING DEAD,NO WEARING DEAD |
「2/3」 死のイメージを身にまとう人間はなぜか信用できる。 死のイメージを持たない人間にはなぜか憧れる。 どぢらの人にも共通することは、いつ死ぬんだかわからないということ。 今日死んでも十年後死んでも、不思議でないような人。 どっちにしろ、彼らには普遍のイメージさえもつきまとう。 浮世ばなれしているとでも言うべきか。 そんな人間、今ではTVを通してでしか見かけられない。 昔は近所に一人はいただろう、そういう人。
「Wたけし」 今日NHKでやっていた<たけし>の番組、あれは何というか凄いね。 手品のマジックの種明かしを紹介していたようなもんだからね。 でも救いなのはNHKでやっていたって事。 NHK=たけしの公式がイメージにない分、あの番組を見た人には限りがある。 ふだんたけしのバラエティーを見ている人でも見ていない場合があるし、その逆で見た人もいるだろう。 どっちも知っている・・・というか見ている私が言えるのは、要はその番組は興味のある者にとってはギリギリな代物でも、世間的には珍味的ニュアンスの多いものであるって事。 それにギリギリと言っても、全てを見せているわけではないし・・・どこか安全なギリギリさというかヒリヒリするようなものを漂わせていた・・・のか? しかしこの番組を見て早とちりする人もいるだろう。 が、それははっきり言って早とちりだバカヤロウ!!! 虚のイメージに虚を被せたって虚虚になるだけ・・・ってなもんで。 面倒臭いので一つ一つの、ワンシーンワンシーンの彼の、たけしの姿が実像なんだろうと私は解釈する。 大衆を信用していない頭の切れる男のやりそうな事だとも言えるが、そんな余裕があるんだか無いんだか、この先のことを考えてるんだかそうでないんだかわからないような、はたまたTVで複数の自分の表情を見せることに対して計算をしているのかしていないんだか・・・ほんとによくわからん。 そんな基本的に死のイメージを身にまとい、時にじっと眺めていたくなるようなそうでないような人間に変わる男には興味が尽きない。 やっぱり色んな虚像をちらちらとさせて、楽しんでいるのか? 私は思う。 彼をスターにしたのは大衆で、その事をちゃんと彼は知っているのだろう・・・か?と。 何とも複雑だ。 お前は螺旋構造か?
「おばあちゃんの話。」 これはわけのわからない話。 おばあちゃんは私を信用してない。 私は信用されなくても仕方の無い人間。 彼女は私に玄関の鍵をしめてくれと言い、二階へ上がっていった。 「分かった。」 そう愛想無く返事をした私。 ガウンを着ていた私はパジャマに着替えようとして二階へ上がった。 また下へ降りるつもりで。 おばあちゃんは私に聞いた。 「玄関しめてきた?」 「まだ。また下行くから。」 そう言うと、おばあちゃんはまだ鍵をしめていないことを気に留めた。 そして執拗に「どうせまた一家を滅ぼそうとしているんだろう」というような、強ちこんな世の中では的を得ているようなことを言う。 確かに100%私が鍵をしめる保証はない。 「だからしめるって後で」 「どうせまた忘れるんだろ」 「知らないよ!」 「早く殺したいんだろ私らを」 「アホか・・・」 「しめてこようかな」 「だからうるさいな!」 「427右ーw96「うやw-4右W-唖8やeBA00^3--¥-・・・」 「んーじゃあ知らんて。」 「しめてくるぞ!」 「しめてきて!!」 まったく情けないんだかなんだか・・・ そんなら私に最初から頼むな!!
―死を怖れる者より―
>最近、二十代にして物忘れが激しい。 僕は、どこまでのものを忘れていくのだろう・・・?
>僕は整ったものが崩れていく様(さま)が好きだ。 ちょっと変であろうか?
>例えば「古畑任三郎」というドラマに出てくる紳士的な犯人なんかは、好きだ。 しかし、犯人を追いつめる側である古畑でさえも、紳士的ではあるがどこかおかしな人柄である。 古畑も、どこか犯人とは違う意味で崩れているのである。 彼の、犯人をもてあそぶかのかのような人の悪さが、このドラマを面白くしていると言えるだろう。
>そういえば今日やっていた「天才柳沢教授の生活」、面白かったなぁ。 小ネタのそれぞれが、全体の世界観にマッチしていたのがまずいい。 ちゃんと繋がりがあるというか、意味のある面白さになっていた。 それに演出が極端なシチュエーションが、うまく天才の生活を物語っていた。 しかしもっとテンポをあげ、さらに世界観を凝縮してもいいと思う。 一番印象に残ってるのは、教授の三女のBFが醤油の匂いを一人で嗅いでいるところ・・・。 たまたま醤油が三女の服にこぼれて醤油臭くなり、それをBFが嗅きつけて「お前醤油くさいな」の一言。 そして家に帰った彼は彼女を思い、「せつこ~」と思いながら醤油を嗅いでいる。 そういう小ネタが、ちゃんと全体に繋がっているのである。 なにせ教授の三女が醤油を零したのは、教授の次女の旦那のせいなのだから・・・。(たぶんそうだったような気がする。)
>まぁ、面白いっちゃ~面白い。 もっと、ブラッシュアップしていただければいいと思うけど。 しかし、テレビドラマではあれが限界か? 何か余分なものを排除して面白くすようとすると、味気なくなる可能性もあるし、ドラマは長~いしね。 大変だね、演出家も(笑)
>ところで、やっぱり機械って信用できないところがある。 特に何かのはずみでメモリーが飛んでしまうのがキツい。 僕は、気になったことを、携帯電話の送信メールを未送の状態にして保存している。 それが、電池切れになり、充電して再び電源をつけたら・・・ サラッっと飛んでしまった部分があった。 そんなんされたら心にモヤモヤとしてものが広がってしまうじゃないか! 機械のバカヤロー。
>話は今朝のことに変わって・・・。
2002年10月15日(火) |
相対性理論(ダーZ式)改め日本晴れ!! |
「他人と恐怖」 ついつい、自分という存在を他人と比べる。 比べてもいいのだろうが、そればっかりでも所謂アイデンティティが失われるだろう。 世の中は競争社会だとよく言われる。 また一方では俺はナンバーワンじゃなくてオンリーワンになるんだ!、という人もいる。
自分のことを気にしなくなったらヤバいとは思う。 そしてこの世に住んでる限り、他人のことも気になるのだ。 繰り返してしまうが、他人とはなんぞや?というところに行き着く。 その自分から見て圧倒的な色んな意味での可能性を含み得る集団を、一体どう見ればいいのだろうか?
しかし、そんなことが気になるってのは、たぶん比較的自分を信用していないのだろう。 しかし過信してもいけないのだろう。 だろう、だろうとさ迷いながら、この先を行くしかないのだろう。
他人というものを、もっと違う様に見るっていうことをしたいなと思う。 単なる自分とは離れたベクトルに点在するものとしてではなく・・・ 世の中には恐怖の要素が絶え間無くちらばっていて、その中に<他人>という要素も混じっていて、もうそれはその場その場の出会いによってしか図り得ない対象なのだ。 恐怖を重んじて福と成す、となればいいかな、結論としては。
「シェイプ気になり」 朝起きたら、拍子が折れ曲がった漫画がベッドの下に落ちていた。 昨夜、寝る時には壁に沿う側のベッドの頭の方に置いたはずのそれは、僕の体をまたいだ反対側に落ちていた。 それも折れ曲がって。 どうやら相当に寝相が悪いらしい。 掛け布団は途中でクシャクシャになり、家族の誰かがそれを伸ばそうとしたら漫画が落ちたらしい。 しかし、その一連の流れ~眠りについてから朝の目覚めまで~のことを僕は何も知れない。 一切、途中で起きていないからだ。
朝起きてその漫画の転がっているのを見た瞬間、自分に対して心許ない感情を持った。 沸沸と、なんでこうなってしまったのかを嘆いた。 その拍子の折れた漫画を見、もう一冊同じのを買ってしまおうかとも一瞬考えた。 僕はそれの上にタウンページを載せ、なるべく曲がっているのを矯正しようと試みた。 しかし、しばらくたっても元の通りにはならないだろう。 そして、タウンページをどけて曲がっている具合を再び見るのさえ嫌な気分だ。 一体、僕は何をすればいいんだろうか? ふたたび、その読みかけの漫画を見ることはあるのだろうか? 折れ曲がったのが気になって、もう手に取ることはないかもしれない。
ついさっきタウンページを載せられたそれは、今もなお載せられ続けている。
―パワーアップの犬は「ドーン!」―
2002年10月14日(月) |
アトミック・ロンリネス |
今回は、色特集です。 最近、色の事を「色」と呼ぶのが嫌になりました。 なので、今日だけは色の事を仮に「想い」と呼ぶ事にします。
2002年10月11日(金) |
なんでもいいや!(ワァ~の後) |
たまに、ひとつの事に「あぁしようか?」「こうした方がよりいいのか?」と悩む。 そうやって順繰り順繰りに頭の中でもうワァ~となる時がある。 弁解するわけではないが、ワァ~となるのは狂ってるからではない。 なんというか、もうそのことに関してはどうでもよくなってしまうのである。 半分、諦めの状態であるのかもしれない。
誰にだってあるだろう、自分にとってはどうしたらいいのか分からないような決断に迫られる時ってのは。 そしてそんな時、遂にワァ~となる僕は、「あ、なんでもいいや!」となるのである。 またまた弁解する訳ではないが、それは究極の諦めではないということだ。 「なんでもいいや」とあきらめる事によって、諦めなくて済むということなのだ。 分かります? 自分でも分からない。 でも、感覚としてはあるんです。
例えば今日中にやっておこうかな、と思った事を時間が経ってきて「やっぱりやめよう」となった時に僕は感じるのだ。 とても胸が苦しくなる。 誰かに促されている訳でなく、ましてや今日中にやらなくてはいけないことでもない。 という場合、アバウトに言ってしまえばあらゆる意味で行きにくい状況である場合、どうしても「やっぱりやめよう」の方へ行ってしまうのである。 しかし、その「やっぱりやめよう」の後に、僕の苦悩は始まる。
「あぁ、今日済ませとけば良かったかな?」 「行動力ないな~僕」 そんなことを色々頭に浮かばせた末、半分カオス(「カオス」という映画を観て以来、この言葉は頭に染み付いている)状態になった挙げ句、その挙げ句に・・・ ようやくあいつはやって来るのである。 「あー、なんでもいいや!」
―「パンタロンで家作れ!(とは本当は思ってない)」「無理(と言っておきたい(希望))」―
2002年10月10日(木) |
絶叫デビルのすまし顔 |
どーもこんにちわ。 最近、何にしろやる気のない僕です。
ところで、はたまた最近の事ですが、僕の友達が同じこのウェブ日記にアニメネタを中心に書いているんですが、それが気になって気になってショウガネーんです。 何故でしょう? いや、なにゆえ?って言ってる時点で答えは出ているようなもんですけどね。 そして彼の日記を読んだ挙げ句、「僕は後追い日記を書いているのか?」って言いたくなるくらい、それに影響された内容のものを書いてしまうのです。
「ダウンタウンと山洋」 いきなりですが、彼らにはある共通点がある。 それは、<凄そうに見えないけれど、本当は凄い。>という点である。 なんのこっちゃ?と言われそうだがそこんところを解説しよう、大いに気取りながら解説しよう。
まずはダウンタウン。 彼らの漫才と言うのは、漫才ブームの頃の漫才と比べれば比較的ゆっくりなスピードのものである。 それが故に、視聴者は思うのである。 そして芸人を目指すものは思うのである。 「俺でも出来るんちゃうーん?」 いやはやそいつは馬鹿である。 あの比較的スローボールなキャッチボールには、他人にはマネのできない奥の深さがあるのだ。 よって、ダウンタウンの漫才を観てマネようったって、それは視聴者や観客という名のバッターにかっ飛ばされてしまうのである。 芸人は誰しも観ている側の人達を笑わせ、彼らからスリーアウトを取りたいと思うものだ。 しかし、もっと簡単な例を挙げればピカソの絵なんてマネできないのである、普通は。 それは何故か? 彼の初期作品を見れば、それはおのずと分かるだろう。 <デッサンがしっかりとした、一見「これ、ピカソの絵!?」という絵>=<基本>がなっているからこそ、彼の絵はそれ以降うまく崩されたのである。 ダウンタウンも同じように、先輩のやっていた漫才を崩したことが大きな原動力となり、天下を取る事ができたのである。
いかなる素晴らしい芸術に共通して言えるのは、隙が無い、っていうことだ。 隙が無く、新しいものを作るというのは、色んな要素が混ざってようやく完成されるものである。 ダウンタウンの漫才は、スローボールであるが故に見くびっていると、いつのまにかキャッチャーミットにボールは収まっているのである。 彼らの漫才は、隙の無い騙しボールみたいなものだろう。
そしてお次はそんなダウンタウンとは何の関連性もなさそうな山洋こと「山田洋次」について。 彼の映画は一言でいうと「繋がりを大切にした映画」だろう。 今までの映画には少なくともストーリーはある。 そして山洋の映画のストーリーには、ストーリーを大事にしようという信念を感じさせてくれる。
何故か若い頃にありがちな感情として、スタンダードへの反抗というものがある。 とかく若者はスタンダードに反抗しながら大人になっていく。 僕は反抗自体は必要不可欠なものだと思っている。 少年は世間に心のどこかで反抗しながら、同じ考えを持った人同士で集まったりなんかして大人になる準備をする。 反抗は自己防衛。 しかし世間の全てに反抗するわけにはいかない、自分の為にも。 どこかで、誰かには認められたいのだ。 ということで、少年達は、それぞれに合った(合っていると思う)場所へと向かっていき、そこの世界を自分に受け入れる。 そんな<反抗>と<受け入れる心>を持ち合わせた少年達の心、がキーポイントになるのだ。 つまり、山田洋次監督の映画は<受け入れる心>を持った映画。 <受け入れる心>を持った映画の代表みたいな彼の作品だからこそ、「寅さん」シリーズを筆頭に知名度は高いのではないか?
彼の映画を観ない人でも、彼の映画の中にある<もの>を持っている人達が多い。 彼の映画を観る人は、<それ>を確認する事によって自分の気持ちを確認したいのではないか? そして彼の映画を否定する人達でさえも、<それ>というのは持ち合わせているだろう。 ただ、何かの理由でその映画に限っての事でいえば受け入れられないのだろう。 ちなみに<それ>とは誰もが持ちあわせているだろう<受け入れる心>。 ただ、人によって<それ>をどこで感じるか?の問題はあっても誰もがもっていそうなその感覚を持った山田洋次作品は、受け入れる人にとっては素晴らしいものにちがいない。
さて、僕が冒頭に言った彼らの共通点を分かってくれたでしょうか? つまりそれは、両方が何にしろ、後世ににも残り得る<芸術>であるということだ。 なぜか? それは両者ともの作り出すものが、(観る側にとっては)無駄が無く、そして美しい出来栄えのものだからだ。 しかし、現代の中にあるとその両方ともが邪魔なものに霞まされ、正当な普遍的な評価がなされない面もある。 普遍的というもの自体が絶対なものでないにしろ、歴史の流れの中に形をとどめるものとして、両者はすでに存在するのだ。 ピカソであれなんであれ、凄いのか?と疑わしいものでも、後に評価されるものとして、ダウンタウンと山洋は同じ領域にあるように思う。
―ひっくり返してOh、ファンタジーランド―
天幕が覆い被さる時
レシピの王国
「エッチングの発想」 まず、黒く塗りつぶしてあって、そこから黒を削っていく。 その削られた部分っていうのが、宗男や真紀子さんだったりする・・・。 世の中は<メディア>が大きく変えた。
西田尚美とか仲間由紀恵とか田中麗奈とか内山理名とかトリプル美紀(中谷美紀、酒井美紀、水野美紀)とか麻生久美子とか好きです。
レンタルビデオ、冒頭の予告長すぎる!!
勉強するのに快適な場所→図書館、自分の部屋、予備校の自習室、電車内(案外ね)、廃ビル(スリルもおまけに付いてくる)、納屋(懐中電灯とか持ち込んでね)、タモリん家のトイレ(居心地よさそうだから)、かまくら(雪の室)、ドラえもんの道具のカタツムリみたいなやつの中、自分の親が夫婦喧嘩中の場合の自分の部屋(もう、やるっきゃないでしょ)、芸人飯尾君の家(気をつかわなくてもよさそうだから)、観覧車(制限時間あり)、コーヒーカップ(ぐるぐる回るから)
―やっぱり西田尚美でしょう―
2002年10月07日(月) |
ニャニャニャニャニャー太 |
「大群マット」 大群マットが押し寄せる。 あいつは畳み掛けられてはや三年。 大群マットは正義の味方。 ニューヒーロ、ここに現る!
「剥がされそうな花びら」 あの花の花びらを剥がしたい 剥がれそうな花びらだから剥がしたい 風が吹けば飛んでいきそうなあの花びらを 僕の手で剥がしたい誰よりも先に
―終わり―
どっちもどっちだよ!ほんとに・・・と言いたくなった。 テレビのある法律番組で見かけた光景。 ある弱小チームを熱血指導でひっぱる監督は、子供にやる気を出せる為、勢いに任せてこう言った。 「勝ったら皆をハワイへ連れてってやるぞ!」 それを聞いた子供たちはいそいそと練習に励み、本当に次の試合で勝ちを得た。 その結果に対しての監督のコメントは次のようなものになった。 「あれは冗談だよ。」 それを聞いた子供たちは「冗談じゃない!」「訴えてやる!」 そして番組は、この監督は子供たちをハワイに連れていいくべきか否か?というのに対して、<連れて行くべき>という答えを出していた。 しかし、僕はどっちの行為にも合点がいかない。 監督よ、男らしいところを見せなさい! 子供らよ、なめんなよ、かわいげが無いんじゃい!! 何かハワイ旅行の変わりになるような、子供たちの喜ぶイベントを監督は知恵を絞って考えるべきだ。 という序文を書き終えたところでさっそく本題に。
「アメビューとマトックス」 アメビューとはつまり「アメリカン・ビューティー」 そしてマトックスとは「マトリックス」 どちらも映画のタイトル。 この二つの映画を「肌に合わない!」と言い切った男がいる。 それは僕の友達・・・。
僕の中ではこの二つの映画は上の方なので、彼のその発言を聞いた時「ああ、そっか・・・」という寂しい気持ちになってしまった。
僕のこの両映画を始めて観た時の感想を言うならば、アメビューは「あ、死んだ!」で、もう一方の方は「話が分かり難い」。 こんな感想を抱いたんならあんたもあんたの友達と一緒じゃ~ん・・・と街角を歩く、およそこんな日記なんかに目もくれないような女子高生言われてしまうかもしれない。 しかし、僕はこの両映画を素晴らしいと思ってる。 僕は映画に関しては甘い方なのかもしれない。 その作品の評価は、それを見終わった直後には判断できないというのが、僕の中にはあるからだ。
マトックスの方は、とにかく凄いと思う。 あんなのは始めてだもん。 僕の友達のT君は、「最近の映画でもCGなんかを使われても戸惑っちゃう」と言っている。 確かに僕もCGに頼ってる映画はあまり好きでない。 そこは彼と同じだ。 つまり、CGを武器にしている映画が嫌なのだ。 「必殺技、<CG>!!」 そんな掛け声が聞こえてきそうなのが嫌なのだ。 しかし、もしもコンピューターの技術によって、僕らに新しい感覚を与えてくれるなら、それにはたまらずに「コングラッチュレイション!」と言ってしまいたい。
例えば、アニメってのは動く絵である。 今では、誰も絵が動くことぐらいでは驚かない。 実写の映画にしても、動く写真であるわけで、それが発明された頃と比べるとすっかり人の目には慣れてしまってる。 だから、CGで全編全カットを描くことが当たり前になったら、僕は今ほどCGが嫌ではなくなるかもしれない。 もう既に、ディズニーピクサーを筆頭にフルCGアニメーションが発表されており、その役割は果たされているように思える。 つまり、CGが必殺技として慣れ親しんだのを通り越し、アニメ同様にCGが使われるようになる分には一向に構わない気がする。 ※<思える>だの<気がする>だのと言うのは、どうしてもこの話は推測の域を出ないことにあるからだ。
CGに慣れ、そしてそれによって描かれるのが当たり前になった時、初めて<CG>が肌に合うか合わないかを言えるのかもしれない。 よく言えば人間が環境適応能力が優れている。 そしてCGの技術が発達すればするほど、本物と見分けがつかなくなり、そして本物以上に<リアル>なものとしてスクリーンに映るようになるのはそう遠い未来のことではないと思う。 <人間の慣れ>と<技術の発達>により、CGがよりリアルな存在になることを期待する。
(例えば事前に予防接種を打たないとヤバいようなどぶ川での撮影を行うより、スタジオ内でセットを組んでそこでやった方が、スクリーンにはよりリアルな<とぶ川>として映ると、誰かがテレビで言っていた。 なるほどなぁと思った。 CGも、この話でいうところの<セットのどぶ川>的な存在になって欲しい。)
ところで、じゃあマトックスでのCGの使われ方はリアルなのか!?と言われたら、僕は「ハイ。」と答えるだろう。 確かに見た目には違和感バリバリの映像ではある。 なんでグルグル回っとんねん!とも言える。 しかしあの映画の意とする世界観にはあれは最高の産物であろうと言える。 あのデジタル映像の断片断片が集められたような感覚。 虚構の世界と登場人物達のずれの表現。 素晴らしい! T君はCGに戸惑ってしまう、というような事を言っていたが、僕はあの映像からただ映像美を感じ取っただけでなく、何か言葉では言えないような<納得感>が体に染み込んでいくような、そんな体験を味わった。 やっぱり、そこんところは全くの好みの問題ということになるだろう。 あの映画にとっての例の反り返るシーンを筆頭とする視覚効果は、あくまでも僕にとって<リアル>であるが故に、高く評価評価しているのだ。
だからその映画がいいか悪いか、というのは突き詰めていってしまえば<リアル>であるかそうでないかで判断する。 よって、どんなジャンルの映画も好きなものは好きである。
次にアメビューの評価を。 マトックスの方を長々と書いてしまったので簡単に言うが(と言うか疲れた)、あれはあのリズム感の心地よさと、やはり現代に通ずるものがある世界観がいいと思う。 音楽もいいし。 あれをかけながら寝てみたい、という気もする。 さっきも言ったが、僕は物語の描き方に好き嫌いはなく、その表現したいものがうまく出ていればそれでオッケーなので、それが強烈あればあるほど、そして物語りが破綻していなければ尚の事お気に入りとなるのである。 確かに意味の分からない表現方法は好きではない。 何で?となったらいい気はしない。 では、ここでまた我が友であるT氏のコメントを拝借してみよう(笑) 氏によれば、アメビューには猥褻な表現が多く、観るに耐えないという。 しかし、これもしょーがない意見である。 だって、感覚的に嫌いなものは嫌いなんだから・・・。 でも、またもや繰り返し言わせてもらえば、この映画にはあの表現はピッタリとしているように思われる。 よって、この映画凄い!となるわけである。 そして最後にどうしてくれるのこの気持ち!・・・というモヤモヤが襲うのである。 附に落ちないあの終わり方が、よく言えば今の世を映し、それを感じ取れて尚且つそれが肌に合う人がアメビューを素晴らしいと言うのだろう。
―ウィー・ラブ・ポップ・ポップ♪―
2002年10月05日(土) |
今までのエピソード付きの日記 |
エピソードⅢ→鳥なりたくない。だって疲れそうだから。肩だけ物凄くこりそうだもん・・・ん?鳥に肩ってあるっけ?
エピソードⅣ→ますます中居くん(SMAP)が好きだ。
エピソードⅤ→色んな形があることには反対しない。
では、通常の日記の始まり始まりぃ~。 昨日書くはずだった日記から・・・。
「僕はパダワン~スターウォーズepisode2を観て~」 僕は去る10月3日、めでたくもやっとこさ、あの映画を観た。 もうお分かりだろう、その映画とは「SWEP2」。 略し過ぎてすみません、不精ものなんで・・・。 まぁね、とにかく面白かったっす。 この時期に観たって事は、それほど興味が無かったっていう事を証明してるんですけど、まさにその通り! 以前のエピソードはあんなにワクワクしてたのに、今回の映画の公開が始まっても一向にワクワク感が沸いてこなかったんです。 しかし、僕はこのままではいけないと思いました。 (この映画はきっと観ないと公開する・・・。) そんな不確かな事を思いつつ、酒の飲めない僕は1人映画館に向かいました。 映画館へは酒が飲めなくても気軽に足が運べるので助かります。 (つづく)
2002年10月04日(金) |
仮仮梅(つっこみ付き) |
あなたが痩せる変わりに、私は発火してしまいます。それでもいいんですね? ↑脅しかよ!
こんなところで○○をするな!!シリーズ考案中 ↑考案してから発表しろよ!
後ポーズ ↑何の!?
内村クイズ:Q「好きな食べ物」A「プリン他」 ↑「他」は余分だよ!
内村クイズ2:Q「キャッチフレーズ」A「チンコ自体はそうでもない(22、3の頃から)」 ↑何はそうなんだよ!
ドアの一生 ↑知りたかねーよ!
さん付けバレ ↑バレんなよ!付けるなよ!
一族の外見 ↑皆同じかよ!
あらかじめ知らせておけば、そんなに戸惑う事もないでしょう♪ ↑戸惑えよ!
―ENDかよ!―
1日も早く!!・・・と言われると腹が立つ。でお馴染みのダーZです。 僕は映像文化に触れながら生きています。
うちのお母さんとおばあちゃんは好対称で・・・。 「おばあちゃん(母の母)は歳とって痩せて私は太るタイプだ。」と母は言った。 それに対し、僕はこう言った。 「どっちもどっちだね」 「僕は二人のそういうのを見て勉強するよ」 僕は質の悪い男だろうか?
ところで<がっかり感>というのをご存知か? 先ほど僕は、タンスからタオルを取り出し、濡れた頭を拭こうとした。 しかし、がしかしである。 何と・・・(ひっぱり過ぎ?)そのタオルは予想以上に小さかったのである。 僕はガッカリした。 その何度も感じたことのある<ガッカリ>を、その時何故か新鮮に感じた。 そんなガッカリは、頭に付着した水分を十分に吸い上げたか?という疑問のせいでどこかに飛んでいってしまった。
消音時 新繊維 ↑何とぞ気にせずに・・・
ところで僕は「机上の空論」の定義をしっかりとは知らない。 どこまでがそうなのかの線引きが難しいように思う。 まぁそんなことはどうでもいいが、さっき僕は母にこんなことを言われた。 「お前がマンション暮らしをしたら殺される。」 何とも物騒なことを言うもんだ。 つまりこういうこと。 僕はたまに大声で歌を歌ったり、並の音量で音楽を聴く。 それが、マンション暮らしではOUTであるというのである。 しかし、僕は今マンション暮らしではない。 マンションに暮らすなら大声で歌わないかもしれないし、歌うかもしれない。 実に不確かなことだ。 でも一つだけ言えることがある。 僕はマンションに住みたくない。 少なくとも半年以上は住みたくない。 そして、母の言う大胆な忠告は、僕にとっては<机上の空論>となった。
声が小さくなる 感覚の具体化 2:3で ティッシュを含む男 裏切らない芸術 要素要素要素要素素素要素素っ素要素y→タイトル(全体) ↑気にしなくてもいいですよ(笑)
あぁ、「スターウォーズepisode2」の話や「世にも奇妙な・・・」の話をしようと思ったんですが、それはまた明日にしようと思います。 それではお元気で。
―ついに<パダワン>の意が次回明らかに!!(え、知りたくないって?それは困りましたな(笑))―
勝手にシャンデリア あぁデリア キーン騒動 急に三度も ↑気になる?
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