2001年08月31日(金) |
Be Here Now仕込み |
今日は仕込み日。 仕込みといっても料理をしてる話ではなく、舞台の準備のことを仕込みといいます。
オイラは音響担当だったので、ちまちまと音の仕込みをやっていました。 そして(仮設の)舞台上ではイントレ立ててトラスを立ててパネルを立ててと、次々とできあがっていく舞台に胸をわくわくさせていました。
きっとお客さんは喜んでくれるであろうことを。
今日ついに最後の通し稽古。
この稽古でここまでやったという実感がほしかった。 もちろんちゃんとできているシーンもある。
だけど、だけどである。
・・・いかん、なんだか愚痴っぽくなってしまう。
そんな時に最近入った劇団員からメールが来る。 初めて芝居づくりに触れるせいもあるが、とても新鮮な気持ちにさせられる。 そして勇気をもらう。
さあ、明日から仕込みだ。
と言う訳で今日は二日目。
昨日の夜に土砂降りだったみたいだけど、今日は駒ヶ岳に挑戦!! とはいってもロープウェイだけど。 取りあえず車でふもとのバス乗り場までいった。 バスは臨時便が出ているらしく空いていると言うことだったが、なんときたバスは満タンコ!! 仕方なく秀次を抱かえながら乗った。 道は勾配10%が当たり前の狭いクネクネ山道。 カーブの度に右へ左へ、あれれ、あれれ・・・。 弥生はちょうどおちゃんこできる場所を見つけてなんとか悠々自適。 しかし秀次はだんだん不機嫌になってしまいに泣き出す始末。 そしたら、幸いすぐ近くの家族連れの人が席をあけてくれて、オイラと秀次で座っていくことができました。 席を譲ってくれた人、ありがとう!
そしてロープウェイにのり、千畳敷へ。
・・・・・おおおおお!!!
丸でここは別世界! 空気はきれい、景色は素敵。 まず空の青の色が違う!! 緑色が違う!! 黄色が違う!! そして、音が違う!!
ほんとに天上界に隔離された素敵な場所と言う感じ!
その昔上高地に言った時と同じような、そんな感動が蘇って来た。
子どものことそっちのけで景色に見とれていたら、子ども達も気に入ったらしく、秀次もつたない言葉で「きれー」を連発。 弥生も気に入った様子。 嫁さんとこいつらが山歩きができるようになったら、あの頂上まで登ろうと誓いあったのさ。
そして家に帰って現実に戻ったら、芝居の本番まであと4日だった。 うーむ、現実は厳しいなあ・・・・
今日から楽しい楽しい家族旅行。
行き先は伊那・駒ヶ根。 天気予報はあまり芳しくなかったけど、取りあえず行ったら曇り時々晴れ。
伊那にあるみはらしファームへ。
そこで子ども達初体験のリンゴ狩り。 初めてみる木に生えたリンゴに少々戸惑ってはいたものの、暫くして、気がついた時には二人ともリンゴを頬張っていた。 しかも秀次は今まであまり果物を好きじゃなかったのだけど、皮ごと丸ごとバクバク食っていた。 本物の感動は違うんだなあと、改めて感じた。
そして、オイラはお昼御飯で真っ赤になり、暫く遊園地で子どもたちと遊んで宿に向かったのさ。
宿はいろんないきさつでここ最近利用させてもらっている宿。 たかずや鉱泉。 ここの女将さんは気がついたら大学の先輩だった、というところ。 宿は山の中腹にあり、普段オイラが住んでいるところとはまるで別世界。 周りに特に何があると言う場所ではなく、余計に非日常の世界に誘ってくれるようなそんな宿です。
ここは御飯も美味しかった。 お風呂も広くて気持ちいいし(家族四人で入れなかったのがちょっと残念だったけど)、部屋も落ち着いてるし。 そして、更に真っ赤になり9時には寝てしまったのさ。
本当に今日は腹がたった。
いったいみんな何の為に芝居をしているんだろう。 少なくとも仕事じゃないから義務感はないはずなのに。 何だか生き生きできていない。 やらされている芝居になっている。 楽しさがみじんも感じられない。
本番まで後1週間。 大丈夫かあ?
うーん、ここ数日寝不足が続いている。
うーむ、気力がないのかこの日記も文字数がどんどん減っていく。
やっと芝居が成長しはじめた!
結局明け方まで役場で待機。 てなわけで、徹夜明けで通常業務。
ちくしょー! もっと早く通りすぎやがれ!
台風のばかぁ!
しかし、うちの町では大した被害がなかったのが何より。 そして洪水や、土砂災害に見舞われた方々、お見舞い申し上げます。
今(8/21 23:54)、本庁で台風のための緊急配備で待機中。
今日は本業はお休みだったのに朝からプールとグラウンドの台風対策。 そして、18時頃招集がかかって、今本庁待機中。 台風は遅々として進まず、なかなか通り過ぎてくれない。 このままだとホントに徹夜になりそう。
ちくしょー、台風の根性なし! とっとと紀伊山地越えてやってこい! で、あっという間に被害出さずに通り過ぎてくれぇ!
最近秀次の言葉が達者になって来た。 「こっち」「あっち」「んーまい(うまい)」「あーまい」「とうちゃん」「かあちゃん」「じっちゃん」「ばっちゃん」「ばちゃん(おばちゃん)」「ぶーぶ」「たいや」「さんぽ」「ばーん(花火)」etc. なかなかボキャブラリーも増えて来た。 どうじにわがままも豪快になって来た。 わが子の成長は嬉しいが、同時より手がかかるようになって来た。
てなこと思っていたらなんと台風が近づいているではないか! 仕事がら出動しなくてはいけなく可能性大。 ちくしょー、せっかくの休みなのに・・・・
いまんとこ直撃の予定だよなあ・・・ 頑張れ高気圧! コースをそらせ!
今日の稽古は本番に向けて重要な通し稽古。 ここでこけるとやばし・・・
結果の話だけでいけば、なんとか芝居になりつつあるかなと思ったことと、今回の芝居について、求めるレベルの設定が出来たことが成果と言えば成果かな。 ま、悪く言うと妥協点が見つかったってことなんだけど。
で、稽古後ビデオにとった通し稽古を劇団員の家に上がり込んで、役者達と反省会。 そしていろんな意見交換ができた。 みんなアルコールが抜けるのと同時に忘れなきゃいいのだけど・・・
さあ、本番まで後10日。
2001年08月18日(土) |
子どもはちゃんと親が見てなきゃ |
埼玉で子どもが連れ去られる事件があったけど、間違いなく車の中にひとりぼっちにしてしまった親の責任が大きいと重う。 マスコミに夫婦そろって登場したときはびっくりした。 親のミスで起こった事件なのに! いかなる理由があろうとも、不特定多数の人が出入りするところで6ヶ月の子どもを張っておく親の気持ちがわからない。 子どもはちゃんと親が見てなきゃ。
2001年08月17日(金) |
おじさんおばさん芝居の受ける訳 |
この間ふと思ったことがある。
おじさんおばさん芝居はどうして掛け値なく受けるんだろう・・・ということ。 うちの町にはもう一つ劇団があって、そこは40代を超えた人たちが主に劇団員なのです。 で、そこの芝居は大したことがないんですがお客さんに受けるんですよこれが。 とにかく大喝采。 実際に心に残る芝居かどうかはおいておいて、とにかく評判がいい。
なぜだろう・・・。
その劇団の本公演を全部見ている自分として出した答えは、生活感の有る無しということだろう。 言ってみれば、オイラ達のやってる芝居と言うのは、基本的に虚構の世界を完全に作り上げていく訳で、そこに日常生活の生活感と言うのは全く介在しない訳で(当たり前の話なんですが)、要は芝居の世界そのものについて評価してもらう訳で、賛否両論と言う話なんですよね。 だけども、おじさんおばさん芝居は舞台上に日常の生活感をそのまま持って来た役者が芝居をする訳で、で、まあ一生懸命やってる姿がそこにある訳で、大喝采の拍手と言うのは生活をひけらかしている役者が一生懸命芝居をしているその姿そのものに対する拍手ではないかなと思うのです。 お客さん達はその芝居で物語は見ていないと言うことです。 役者が努力をしている姿そのものに感動しているんだなあと言うことに気付いた訳です。 いいかえれば子どもの運動会を見て拍手を送るのと変わらない話なんだろうなと思うのです。
要は目の前でどんなことが行なわれていようと、一生懸命やってる役者に対する拍手なので、そこの評価には掛け値が存在しないと言うことなのかなあ、なんてことを考えました。
2001年08月16日(木) |
上手くいかないもんだなあ |
今日の稽古は芝居の一つの山場を作っていく作業。 演出のオイラと役者の考えがあわず、お互い妥協点を見い出す作業。 以前ならば強引にねじ伏せていたが、今回は役者の自発的な意志を尊重しようというところでやって来たので、これはと思うところはどんどん取り入れていこうと思っているのです。 しかし、各々違う人間だから考え方も違う。 で、お互い頑固もんどうしだからなかなか妥協点を見出せない。 稽古やってもフに落ちない。 これから暫くはそんな作業の繰り返しかな。
でも後2週間。 そろそろお客さんに見せるための芝居にしていかなきゃ。
と気合いを入れるオイラでした。
今日、オイラの職場での初めてついた上司が息を引き取った。 オイラの直属の上司がなくなるのはこれで二人目である。 偶然の一致かもしれないが、いい人程短命でこの世を去っていくのかな。
人が死ぬこと、ましてや知ってる人が、身内が死ぬことはとても辛いと同時に改めて死とは何か生とは何かを考えざるをえなくなってしまう。 以前、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という芝居を見ていて「死ぬってことは、何にもなくなってしまうんだぞ」というセリフが胸に突き刺さった。 それはきっとそのセリフが全てではなく、きっかけの一つだったんだろうけど、それから何となく人の死について考えるようになった。
職場に話を戻すと、職場では町内でなくなった人の情報が回覧されて来る。 時期によって数の大小はあれどもほぼ毎日なんらかの形でなくなって人の情報が流れて来る。 そしてオイラ達はその書類を元に、この人はもうこの世にはいませんよという事務所処理を行なっていく。 そうやって間接的に人の死に触れている所為もあるんだろうか、何となくその死亡者連絡票を見る度に、いったい死んでしまうとはどういうことなんだろう、自分がなくなるってことはどんな気持ちなんだろう、死んだ後でも気持ちは残るんだろうか、人生が終わってしまうことって・・・・いろんなことを考えてしまうのです。 結果が余りに客観的だからかえって想像力が膨らんで行くのかも。 きっとオイラが医者かなんかで具体的に人の死を見つめている立場だったらもっと観念的な世界で考えるか、反対に自分の死そのものも客観視してしまうんだろうなあ。
そして今日の上司の死。 死んでしまった上司はどんな気持ちで死んでいったかなんてことは全く分からないけれど、きっと幸せには死ねなかったんだろうな。
オイラがオイラの人生を閉じるその瞬間まで、きっとんなことばかり考えていくのだろう。
ん-、なんだか混乱しているオイラ。
小泉総理が靖国神社を参拝したそうな。 何でも彼の従兄弟が祭られいるそうな。 小泉総理が靖国神社を参拝したいという気持ちはとても良く理解できる。 他にも鹿児島の知覧での特攻隊の話や、そんな場面を見ても気持ちは痛い程分かる。 でもね、やっちゃいけないことが世の中にはあって、小泉総理が公式に公用車を使って警察官を動員して、いくら献花料が私費だといっても、総理大臣の名前で参拝しちゃいけないと思うのです。
オイラたちも心情的にはしたいけど、出来ないことはたくさんある。 例えば選挙活動や接待なんかがそれ。 そのうちの一つに政教分離の原則があってこれは憲法でも定められているわけ。 具体例をあげると、役所が建物を作る時に地鎮祭をやりたいと思っても、公費では出せないのです。 とはいっても地鎮祭をやらないと大工さんが嫌がって仕事が始まらないし、そんなこんなで公費ではないお金、あるいは施工業者の負担で地鎮祭をやってもらってから工事が始まるのです。 施主がやらない地鎮祭ってのもまた珍しいですよね。
なので、それに乗っ取っていけば、小泉総理ではなく小泉純一郎さんが仕事がお休みの日に、こそっと靖国神社へお参りに行く分にはかまわないと思うのです。 オイラも靖国神社へは参拝したいと思うし、実際彼等の犠牲の上に今のこの国の形があるのはまぎれもない事実なわけだし。
だけど守らなければいけないルールを犯してまで信念を貫くのはどうかなあと思うのはオイラだけだろうか?
そいえば、昨日新劇団員がはいった。 もうすぐ30歳の女性。 年はともかく、いままでうちの劇団にいなかった感じの人だ。
そして稽古終了後歓迎会。 当たり前といえば当たり前だが、お互いちょっと緊張気味。 とくにもともとの劇団員の方が自分の見られ方を必死こいて作っている。 そんな光景を、あーあ、普段の稽古もそんなふうにやってくれればイイのに、と思いながら眺める。 劇団員の一人は相当気に入ったようで、アプローチを仕掛ける。 しかし、彼女の好みではないということが判明。 がっくりくる彼。 でもなあ、そいつ劇団のなかで一番若いんだよなあ。 いくら何でも彼女からするとガキに見えるよなあ。
なんてことを思いながら幸せな光景を眺める。 いつまでもこの風景が続けばいいなあと思いながら・・・
うーむ、なかなか上手く行かないものだ。 通し稽古を見て結構来るものがあった。
いったい今まで何やってたんだろう。 俺のやって来たことは間違いだったんか。
今まさに目の前で行なわれている通し稽古が、まるで悪夢のように俺を襲う。 胃が痛い・・・
でも落ち込んではいられない、本番はすぐそこに。
2001年08月11日(土) |
やったぜ為末銅メダル! |
知ってる人は知ってるのですが、オイラは中学から大学までずーっと陸上競技をやり続けていました。 だからといって特にスポーツマンではありません。 元々かけっこが苦手でどんなにがんばってもどん尻にしかならなかったので、せめてどん尻にならないようにと思って中学の時にはじめたのがきっかけです。 だから10年近くその世界にいたのです。 特に大学時代はキャプテンまでやらせてもらえてなかなか充実した陸上ライフを送っていました。
そんなオイラがみる世界陸上での為末選手の銅メダルは感慨ひとしおです。
いままで日本短距離界は欧米の選手に比べ体格的にも見劣りしていたぶん、何か、彼らにはかなわないと勝手に思いこんでいる節があったように思えます。 ですが為末選手が銅メダルをとったというのは室伏選手の銀メダルと同じくらい、いやそれ以上の価値があるとオイラは思います。 彼は公称身長170㎝ですが、実のところ169㎝しかないのです。 その彼が世界陸上で勝ったのです。 これから陸上競技を志す人にとってはこれ以上ない勇気となります。 同時に技術が伴えば体格差は問題ないことを証明してくれました。
オイラはほんとに彼の銅メダルはうれしくてたまりませんでした。
今日はやっちゃん(弥生、長女、4才)とデート。
昨日夕御飯のときに花火を見に行く約束をしていて、今日がその約束の日。 仕事が終わって、速攻で家に帰って、御飯を一生懸命食べて、やっちゃんは着替えて、そして、同居のおばちゃん(オイラの妹)に花火会場近くのところまで送ってもらって、それから歩いて、会場に二人で辿り着いた。 会場は既に黒山の人だかり。
お祭りにやッちゃんと二人で来るのは初めての体験。 今日はお母ちゃんが仕事で夕方いなかったのでこうなった。 意外と緊張している俺。
で、適当なところにレジャーシートをしいて陣地を作って、縁日に買い出し。
「やっちゃん、なんか一個好きなものを買ってあげるよ。決めな」 「綿飴がいい」
そんなわけで綿飴一つゲット。 陣地に戻って綿飴をほおばるやっちゃん。 しばらくして・・・
「やっちゃん、なんかのど乾いて来ちゃった。」 「んじゃ(頭の中はちょっとカチンと来るが、いやここは一つ冷静になって、今日は特別なひだから一寸甘めに出ようかな)、かき氷にしようか」 「うん」
そしてかき氷を買いに行く。 かき氷はやっちゃんはいちごと決まっている。 かき氷をもらってフラッペをかけて陣地に戻る。 幸せそうにかき氷を頬張るやっちゃん。 そしてそれを見て幸せなオイラ。
花火が始まる。
花火は目の前に浮かんでいる船から打ち上げられる。 要は間近にいるってこと。 普通花火の擬音は「ドーン」という重低音が相場だけど、ここはそうはいかない。 擬音にすると「バカーン!!」という感じの乾いた音がする。
そして耳を塞ぐやっちゃん。 でもやっちゃんは花火が進むにつれて、音の大きさの恐怖心よりも花火の綺麗さに感動して、だんだん真剣に見入る要になって来た。 とても去年音の大きさにびびって退散した人とは思えない成長ぶり。
ここで又一つ幸せな俺。
花火も中盤戦にさしかかってきたころ。
「やっちゃんそろそろ帰りたくなって来ちゃった」 「えっ(これから面白くなるのに)・・・・んじゃ帰るか」 「うん」
そしてやっちゃんをおぶって駅まで行きお家に戻ったのでした。 やっちゃんをおぶりながら、また一つ幸せな気分になった。
家について花火の感想を聞いたら、ものすごく喜んでくれて、つれていった甲斐もあるね。 そして最後に更に幸せになった俺だった。
しゅう(秀次、長男、1才)はその間お家の2階から花火を眺めて大興奮していたそうな。
ここ一週間毎日うちのプールで親子水泳教室をやっている。
その教室の初日、とあるお母さんの怒号が響き渡った。 「あんたはなんでこんなこともできないの!他の子はちゃんとやってるでしょ!」 見ている限り怒られているその子は何も悪いことをしているようにも、他のこと比べて何ができないわけでもなかったようにみえた。 しかし、怒号。 お母さんの目は子どもを見ているけど見ていない。 お母さんにもきっと子どもはみえていないんだよなあ。 お母さんのストレスのはけ口に晒されているようだった。 なんだかその子がかわいそうになってきた。 教室の間も子どもにあまり声はかけていないようす。 同時に、おいらって不機嫌なときに子どもに接してるときって、こんな風にみえるのかなあ、なんてことも思ったりした。
次の日、その親子が教室の受付にやってきた。 素通りする親子・・・ 「おかあさん、おかあさん」 声はかけたが無視して通り過ぎる親子・・・おいおい。 更衣室の入り口でコインロッカーのコインがないことに気がつく。 おかあさんは「昨日はここでもらったのに」 そりゃそうよ、昨日その親子は遅刻をして来たのだから、時間どおりに来たときの様子はわからないはず。 もちろん遅れてきて一言もなし。 そして教室の間中時計ばかり気にしている。 と思ったら今度は早退。 そして一言もなしにすごすごと帰っていくお母さん。 おいおい、誰かに一言ぐらいはかけてから帰ってよ。
そして明日もこのお母さんはやってくる。
2001年08月08日(水) |
おいおい、またか・・・ |
また今度は北海道で痛ましい事件が・・・・
もう勘弁してよ。 幼き命が心無い人によってこの世から消される度に、胸が痛くなる。
オイラの好きな芝居は一言で言えばスキのない芝居。 これはやる側からも見る側からの視点も同じ。 うまけりゃいいってものでもない。 もちろん上手いにこしたことはないけど。
でも、例えば初めて芝居やった人たちが最初から最後まで一生懸命やる姿は、上手い下手を通り越して感動ができる。 反対に、超プロが手慣れた芝居をやるのもまた一興。
要は、手抜きのない、物語的にも精神的にも隙のない芝居が好きだなあ。
2001年08月06日(月) |
変わらない、そして変わり続ける |
「変わらない、そして変わり続ける」
オイラはこんな風に生きていきたいと思う。 この言葉はオイラの尊敬する演出家がよく使う言葉で、とても共感をした。
この世にいて生活している以上は、いろんな形でいろんな人に影響を受けていく。 人と人が出会った以上、その人に影響されることは仕方のないこと。 でもそれはとても素敵なことで、その出会いを楽しまないわけには行かなくなる。 そうやって、いろんな人に影響されながらオイラ自身は変わっていく。
それは、目の前にいるとても親しい人かもしれない。 遠く離れた全くみえざる他者かもしれない。
でもオイラはそういう中で生きている。
自分自身はちょっとやそっとじゃ変わらない。 だけど、様々なものに影響を受けながら、そして自分自身もいろんなものに影響を与えながら生きていく。
立脚点や形を変えながら、大人になった今でもどんどん変わっていきたい。 そして、素敵な人になりたい。
今日は水泳大会。 38度を超える炎天下の中、屋根もないような場所で大会は開かれる。
とにかく暑い。 プールサイドの照り返しや容赦なく降り注ぐ真夏の太陽はオイラたちを苦しめる。 でも同時に、いわゆる夏の風景ってやつを楽しんだ。
太陽が燦々と降り注ぐ中、プールで泳ぐ無邪気で元気な子どもたちと、それを見守るお父さんお母さんたち。 まるで、そこは真夏のオアシスのようなそんな風景にもみえた。
今日の稽古は泣きそうだった。 本気で怒ってしまった。
みんなほんとに芝居好きでやってんだろうか。 何しに稽古場に来てるんだろうか。 どこかに甘えてないんだろうか。
上手い下手の話は経験や資質もあるから仕方がない。 でも、芝居をやりたいという気持ちは上手いか下手に関係なく強くもてるはず。 それが感じられなかった。
明日からの稽古がちょっと心配。 でも、時間もお客さんも待ってはくれない。
何とかお客さんを楽しませなくては。
人と人との関係は不思議なもんだ。
サッカーの試合みたいに100%の割合を50対50からスタートさせるところは同じとしても、最終的な結果が足して100になるとは限らない。
きっとそれは感情が絡んで来るからだろう。 感情はどんなに隠しても人に伝わる(芝居ではここをうまく使えると素敵な芝居になる)ので、お互い上がっていければその和が100を軽く超えたり、反対にお互い落ち込んでいけば100を切ったりすることもある。 同時に人を傷つけたりした時は、自分も同時に傷付いたりしてしまう。
傷つけたりすることを意図的にしたりすると、偶発的に傷つけた時よりもその痛みは増す。 例えば演出してる時に思わずぽろりと出てしまった言葉に対して傷ついた役者がいても、そのことに気付きさえしなければ、その痛みはないと同じになってしまう。 反対に、意図的に誰かを攻撃しようとして吐いた言葉は同時に自分自身を締め付ける。
演出とはそんな因果な役割だったりする。
また反対に役者の無意識な一言でものすごく傷付いたりする。 オイラは自分のことを感受性の強い人間だとは思わないが、やはり感情は伝わってしまうので、意識的にと同時に無意識的に目の前の人が吐いた言葉に一喜一憂しなくてはならない、・・・いや、一喜一憂させられてしまう。
この堂々巡りの中にいて、結果さえ出せればすべては報われる。 しかし今は結果がなかなか出ない。
このしがらみから早く解放されたい。
そして今日も戦いは続く。
・・・今度は沖縄。
どーしてかなあ。 なんでなくならないんだろう。
池田小学校でおきた時、みんな考えたじゃない。 みんな原因を探ったじゃない。
どうして防げないんだろう。 みんな明日は我が身なのに。
このままだと、対策は自己防衛しかなくなってしまう。
できれば赤信号で止まれるままの国でいたい。 構造改革もいいけど、もっとやるべきことがあるのでは。
そして今日は音も決まって心機一転と言う感じの稽古! 役者達には今までの演出とは違うオイラを見せてやる!!
てなわけで、自分のオリジナルのホームページを立ち上げる第1弾として日記帳を更新してみた。 さてさて、この先どうなることやら。
|