鵰日記
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小学校の頃は病院に入院した時ほっとした。看護婦さんはきれいで優しかったし、本も沢山あった。頑張らなくても良かった。三分粥も美味しかった。お医者さんも信頼できて感じが良かった。叱られたり白い目で見られたりすることもなかった。
だけど、胸が楽になるといいなあ。天井がぐるぐる回らないと楽だ。
昨日は久しぶりにシャワーを浴びることができました。
お風呂に入ってもきれいにならないと泣いたこともありますが、昨日は 苦しいながら髪など洗えたし、吐くほどでもなかったので、よかったと思いました。
トマトとオニオンスライスのガーリックドレッシングあえを作って食べました。
掃除機をかけたら、ちょっと息が上がって、心臓がきゅうっとなってやりかけ。
子供にたのみました。
申し訳ないけれど、一人では生きていけません。
伯母は子供の頃台湾にいて橋から石の河原に落ちて怪我をしたそうですが、李登輝氏が日本人に対して悪い感情を抱いていないことを感じる度に、私自身は祖父母と話をすることはできませんでしたが、台湾の人にそれほど悪いことをしていたわけではなかったのではないかと信じられる気がして大変感謝しております。
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うちの子が、僕が文楽の芸人になって文楽を守る、と言い出したら、なかなか見所があると思うのですが。
genkini naritai
聖パウロが、独身のままいられるならばそれが一番好ましい、と言われたのは、私は正しかろうと思う。
でも、私の場合は、18歳の時、マザーテレサのように修道女になる考えは浮かばなかった。
私がその年頃だった頃、マザーテレサは既にカルカッタで活動しておられただろうが、私はそのお名前を存じ上げなかった。しかしカルカッタという 地名には強い印象が残っている。
私が18の頃は、既に兄たちが結婚して、独身だというのに、私の意志に関わらず、私はおばさんになった。姪や甥は私をおばさんとは呼ばなかったけれども。
私は子供で非常に不安だったが、とにかく成長しようと闘ってはいたつもりだ。
その頃私はサーカスというロックの英文雑誌にペンパル希望の広告を出して文通をしていたが、そのうちの一人は、カルカッタの人だった。
その人はその頃インドの社会について問題意識を持っていた。きれいな字を書く青年だった。ジョージハリソンが好きだと言っていた。
あの頃の日本の世界史の教科書だか参考書には、その頃、インド社会のカースト制について簡略な説明があったと思うが、実際、その人が異なったカーストの男女が結婚するのはとても進歩的なのだと語った時には驚いた。
実際、日本にも同じようなものはある。貧富の差というのは、どこにでもあるのだ。人生はいろいろで、親を選んでは生まれてこられない。健康だって保障されていない。 人は親を選んで生まれてきたという説もないわけではない。でも、物心ついた時には自分はわけのわからないこの世の中に放り込まれて投げ出されていたというのが実感ではないだろうか。
成人する頃、私は高田馬場や渋谷の書店を一人でうろついていた。アルバイトもした。時折友達の話も聞いたが、私はまだとても子供だった。今でもそうかな。
あの頃私は何を探していたのだろうか。今の私ではないのだろうか。
18歳の私は18歳のマザーテレサアグネスに比べるとかなりぼんやりだったし、今でも駄目だ。
それでも何とかましになれないかと願っている。しかし今の私がそんなに 駄目なのか?
間違いたくなくても恋には落ちてしまうし、溺れたかったわけでなくてもプールで溺れたりしがちだった私。
私から生まれた子供は、計画出産にのっとって生まれてはいない。できちゃった婚ではないという程度で、私はのほほんとして夫を拒絶的ではなかった時に、結婚しているんだから子供ができてもいいではないかという程度の意識だった。考えてみればやはりこれは無責任の域を出ないかもしれない。
私は自分の妊娠を喜べる幸運を得たが、私の計画によって出産できたわけでもなく、授かっただけなのだ。
だから、自分の腹の中から出てきたからといって、子供は自分のものではない。自分の意志だけでわが道を選択してきたわけではない。
でももっと強くなりたい。健康になって、もっと働けたらいいな。
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