鵰日記
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2012年09月30日(日)

 私が生まれた時には、祖父たちは既に亡くなっていたので、戦争の話について、祖父たちから直接聞いたことはない。

 私の父はもう少しで戦地に送られるところだったかもしれないが、1945年の八月六日に汽車の中から広島の方の空がぴかっと光ったのを見た、ということだったが、とにかくその後、15日に、忍びがたきを忍び、の放送で終わったから、父が戦地で戦ったことはなく、父はただ、栄養失調で目が悪くなった、ということで、農業経営の研究に一生没頭しただけなのだ。

 中学の頃、私は、男子たちが、近くの朝鮮学校の男子たちと喧嘩か摩擦があった、という話を耳にしたが、詳しいことはわからなかった。しかし何か
確執があるらしいということは感じるようになった。

 父が尊敬していた上司夫妻はインドネシアで農場を経営しておられたが、
そのご夫婦は、朝鮮族の少女を養女にして育てられて、その娘さんは韓国の男性と結婚して、女の子が二人生まれた。その姉妹に私は小さい頃よく遊んでもらったので、韓国と北朝鮮という国の名前は知るようになったが、それでも、父が新潟に転勤の時に上越高田稲田で生まれてまた転勤で熊本に幼児の頃3,4年、それから祖母が倒れたので4つから二十歳過ぎまで東京で育った私は、大陸のこと、外国のことはほとんど知らず、体育会系の部活で頑張ることもなかったので、いってみれば、どちらかといえば、文学少女という
部類だった。

 父方の祖母も、既に口がきけなくなっていたので、昔話などは聞けなかった。

 母方の祖母は、私の祖父母の中では唯一私が話をしたことがある祖母だが。

 考えてみれば、私の母たちや叔父たちにとって優しい父親だった祖父は、中国人にとっては、鬼だったかもしれない。というか、祖父は職業軍人だったのだ。写真の中の祖父は、穏やかで慈愛深い表情なのだが。だから海兵隊も中国の軍人も個人的には礼儀正しくて好青年なように、写真の中の祖父は
私にとって優しくて素敵なおじいちゃんなのだ。

 で、私は、何が言いたいのかというと。

 橋本氏は、証拠を見せろ、ということだったが、確かに、私たちは戦争のことを知らない。しかし、私たちの祖父たちの頃、日本が大陸を侵略したことはあるのだ。どうして大陸に関東軍なんかがあったんだ。秀吉も西郷隆盛も自分とこの貧しさを打開するために国民の関心を外に向けようとしたのか。何か大義名分があったのか。

 私たちは確かに戦争をしたことがない。私が南京で民間人を殺したことは
ないので、私自身が謝れと言われても、私中国の人をいじめたことないもん、韓国の人をいじめたことないもの、と思う。でも、亡くなった祖父が
大陸で何をしていたかは知らないのだ。祖父たちも私の両親も、教育勅語を
暗誦していたが、それで、どうして他国を蹂躙したのか。

 私は、17歳の頃船に乗って外国に行って他所の国の少女に悪さをした日本の田舎のおじいさんの告白を知っている。酒に酔った時、許してくれよ許してくれよ、と亡くなった娘さんの名前を連呼していたのを知っている。

 私が10代の頃日本人の戦争責任について正そうとすると、母は、外国の政治家って意地が悪いのよ、経済封鎖して食べるものがなくなれば誰だって頭にくるわよ、と言った。

 母は私は自分が悪いと思ってないの、と言った。祖母は何もしてやれないのが身を切られるように刃物でお腹を刺されるように(?)辛いと最後に会った時に私に言った。私は何にもできなかったんだよ、と祖母は言った。
8人も子供育てて何もできなかったはないと思う。でも、確かに私が最後に
会った時、私がしたのは叔母さんに言われて、甘いものをお土産にしただけだし。しかしとにかく祖母も母も、日本を一歩も出たことなかったかもしれないな。。

 私も、自分は大陸に武力侵略なんてしてない、と思っている。でも日本が大陸でどんぱちしたのは事実だと思う。太平洋の島々でもご迷惑かけたんじゃないの。

 米軍が駐留しているのも、政治的均衡バランスを取るために、安全保障のためであるように、多分、関東軍も安全保障とか何らかの大義名分のためであったろうと思うが、今となっては何もかも言い訳でしかない。とにかくお友達づきあいというのは、難しい。

 家康が鎖国した気持ちもわかる気がする。

 黒船の威力なんかで開国したのが間違いの元だ、と考えたくもなる。

 だけど、回教徒だった馬さんも、マリア様を信じていた陳さんも、私は
懐かしく思い出すよ。

 私が子供の頃、お向かいの韓国出身の社長さんのお宅は、猫が通るとセキュリティシステムが作動するような豪邸だったけれど、美人でお料理が上手で感じのいい若奥さんも親しくなろうとしてとても美味しい韓国料理を持ってきて下さって、わあすごいなあ、お金持ちって多才なんだなあ、才色兼備って感じだなあ、と思っていたが、ご主人が夜怪我をされた時にセキュリティが鳴ったのは聞こえたのだが、我が家にはそうしたものはなかったので、
それが防犯ベルだとしても何があったのか全くわからなくて、外に出てみようともしなかった。すると、ご近所の人は冷たい、とおっしゃったということで皆慌ててお見舞いに参上したが、なんとなく気まずくなったかもしれなかった。だけれども、あの豪邸と対等に付き合っていけるような余裕はなかったというか、あのおうちは壁が高くて中が見えなくて、住んでいる世界が違うように見えたのだ。我が家は道から家の中が見えるくらいで、セキュリティがなくても鍵がかかっていなくても、泥棒が入るようなうちではなかった。間借りしていた人がある時お腹がすいて、隣の部屋の人の缶詰などが無くなることがあったが、お金などは取らずに食べ物だけだったので、父はご両親を呼んで故郷に帰したことがあった。
 母が夜外を歩いていて痴漢に遭って、股間を蹴りつけたという話は聞いたが、私は柔道も空手の素養もなかったし、そうだ、娘のように、護身のために空手を習う、というようなことも、世間ではあるのかもしれない。

 10代の頃は、知らない人にお茶に誘われてもついていったりすることは
なかった。多分、ぐれたりしない程度に親兄弟との関係は切れてなかったと思うのだが。
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 それにしても、風邪で熱がある時には、貧血の時には、そりゃ欝みたいに
見えるよね。貧血なのに絶好調ってあり得る?
 やっぱり今は不調なのだ。

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 教育勅語には、諸外国との友好を促進、ていうのは書いてあっただろうかなかっただろうか。

 夫婦相和し、朋友相信じ、っていう言葉は書いてあったような気がするんですが。

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 どうしてもう閉経の年なのに、生理出血が多いのか、というと、私は、
できれば10人でも産みたかったのに、夫や子供があまり乗り気でなかったことに対する恨みだと思っている。

 今わの際にでも、私は息子に恨み言を言うと思う。

 お前が、妹か弟欲しいっておとうさんに言ってくれればもうちょっと何とかなったかもしれないのに、なんてね。

 でも天命は、私の思いとは別のところにあるんだ。

 悪人だから罪を犯したというのではない。

 でも親の罪は子供には関係ない。聖パウロの手紙が正しいと思うのは、
子供は親の罪の責任を負わない、子供に罪はないということだ。

 私の子供はもうそろそろ自立していかなければならない。自分で餌が取れる様に技術をみがかなくてはいけない。そして、子供が一人立ちしたのを見届けるまでは、私は死ねない。それともこの望みは叶わないのだろうか。
 


2012年09月29日(土)

 おかあさん、おかあさんもこんなに苦しかったの?

 おかあさんはもっと幸せそうだったよ。幸せだったって言ってたよね?

 おかあさんの写真は幸せそうな笑顔だった。

 おとうさんが撮ったのか。そうだね。

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 50歳か。

 私も息子と同様母が33歳の時の子供。

 考えてみれば私の年齢の時、母は既に子宮を全摘出していた。

 私も弟か妹欲しかったな、と思うが、私が4つの時祖母が倒れた後、介護その他で、私で打ち止めになったんだ。そういえば、父は母から摘出された子宮を見せられたと言っていた。

 手術をする前はね、駅の階段とか、2段おきくらいに駆け上がっていたの、なんて言ってなかったかな。それが手術後一段一段上がるのが結構大変だったような。でも、あの後だって、50代で車の免許取ったな。

 でもおかまほられて。後ろから追突してきた男の子が保険はいってなくて
ショックだったとか。

 18の頃の私。合唱をかじったりしていたかな。

 高1の頃の私。体育会系部活にはついていけなかった。

 高2の頃の私。中学の修学旅行はアトピー蕁麻疹で行けず、高校の修学旅行も絶不調だった。

 友達と学校外の英語の学校に通ったような。高校の英語の授業もそんなに
わかっていたわけじゃないが、3月はライオンのようにやってきて、4月は羊だったかな、詩心なんてわかっていなかったけれど。

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 だんなさんと受診の日が合わない。

 で、受診して、どうするんでしたっけ。

 昨日病院まで行きがけ歩いたら、昨日の夜は一昨日より500グラムか1キロくらい体重が減っていた。

 続かないかな。

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 今日はポルトガルのマリアさんが話しかけて下さった。

 ポルトガルって行ってみたいな。元気だったら。

 どうしたら体力って回復するんだろう。

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2012年09月28日(金)

 私が病気を治すということと、私が娘に会うこととは関係ない、と息子は言う。

 私はついぽろっと口にしたのだ。病気が治ったからって娘に会えるってわけじゃないじゃないかと。

 私は絶望している。会えないと思っている。

 会うなって言われてるの?と息子は聞いた。

 私は会うなとは言っていません、というメールをいつか娘の父親からもらったことを思い出した。

 俺とお前が彼女の父親と母親であるということは変わらない、と彼が
言ったことを息子に伝えたら、『うん、そうだそうだ』と息子は私に言った。


2012年09月27日(木)

 まあもちょっとちゃんと働きに出たりできるくらいもそっと普通にいごこちのいい部屋にできるくらい、というか、残りの折り返し人生の明確なビジョンを持って明るく生活できるくらい、健康になりたいものなんですが。

 私に欝の疑いとか精神疾患ってないことはないんだけれど、でも、欝の時の方がある意味安心というか、元気になるのも怖いものがあると言うと、おとうさんもそういってた、と息子。

 父方の祖母と話をしてみたかった。

 私はやっぱり初孫に生まれてみたかった。そうしたら、若い頃のじじばばがまだおしゃべりしてくれる余力があったかもしれない。もっとしっかりした責任を期待されたかもしれない。

 

 
 
 


2012年09月25日(火)

 水掛け論か。

 しかし、巡視船が水の掛け合いって、実は阿吽の呼吸で仲良く遊んでいる
のかな。。お互いにご近所が境界線でもめるなんて茶番だと自覚しながらのスポーツ感覚?元気で何よりかな。

 少し秋らしくなってきたところだけど、台湾の方はまだ暑いかもしれないし、水鉄砲や雪合戦だったら童心に帰って私もやりたい。


2012年09月22日(土)

 風邪ひいた。喉あたりで少し白血球が戦ってくれている気がする。

 つい2.3年前は、中東やどこかで宗教や民族紛争があると、何とかならないかなあと上から目線だったりしたのがちょっと恥ずかしい。

 やっぱり感情的な問題って難しいな。特に個人的な感情に留まらないものは。

 平和を祈る。

 私たちがみな賢明でありますように。


2012年09月15日(土)



 

 


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