加藤のメモ的日記
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2014年01月31日(金) 東京裁判の意味

田原総一朗のギロン堂

安倍首相の靖国参拝で改めて考える東京裁判の意味

新しい年とはなったが、2013年12月26日に安倍晋三首相が靖国神社に参拝したこと、そしてこの行為に対する内外の反応について、改めて考えたい。中国・韓国は当然ながら強い批判をぶち上げ、アメリカ大使館、そして国務省も失望という強い表現で批判した。国内の少なからぬメディアも批判を示した。

首相の靖国参拝が国の内外で批判を浴びるのは、1978年に靖国神社に東条英機をはじめ14人のA級戦犯が合祀されたためである。戦争を知らない世代には、A級戦犯についての説明が必要かもしれない。1945年8月15日に、日本が米、英、ソ連など連合国に敗れるというかたちで太平洋戦争が終わった。そして「平和を侵した」つまり「侵略戦争」を行なった責任者として100人以上がA級戦犯容疑者として逮捕され、連合国による東京裁判が行なわれて、25人が有罪となり、東条英機など7人が死刑に処せられた。

そして、1980年以前は日本による昭和の戦争である満州事変、日中戦争、太平洋戦争は侵略戦争で、25人がA級戦犯の判決を受けたのは当然だとするとらえ方がほとんどの全国紙、テレビ、ラジオなどマスメディアで、ほぼ定説のようになっていた。つまり、東京裁判の判決がそのままほとんどのマスメディアの歴史観となっていたわけだが、1980年代の中盤になると、「東京裁判史観」、つまり日本が侵略戦争を行なったのは間違いだ、という意見が登場するようになり、1990年代、そして2000年代に入ると、「東京裁判史観の呪縛を排せ」というとらえ方がどんどん増えてきた。連合国の呪縛にとらわれていた戦後の日本は、大いなる誤りを犯しているというのである。

私は、実は1970年代の中頃から、とくに太平洋戦争について、日本による侵略戦争ととらえる定説には少なからぬ違和感を覚えていた。だが、東京裁判史観を排せという人々の中核となっている、日本の戦争を肯定する意見にも強い違和感を覚えざるをえない。私は、太平洋戦争は世界の大侵略国であった英、米、蘭、仏、ソ連などと、やはり朝鮮半島、台湾、満州などを手中にした侵略国・日本との、いわば侵略国同士の世界制覇を目した戦争であったととらえているのである。

そして日本は敗れた。そもそも勝てる見込みなどなかった戦争であった。そんな戦争を引き起こして、300万人以上の国民を死に追いやった責任は、当然ながら当時の指導者たちにある。いわばA級戦犯たちだが、当時新聞、ラジオ、雑誌などマスメディアは、ほとんど戦争突入を大賛美していたのである。そして、そのマスメディアが戦後は一転して、東京裁判史観に乗せたかたちで昭和の戦争を、そしてA級戦犯などを容赦なく叩くようになった。

私は、1970年代にこうしたマスメディアのあり方に疑問を抱き、東京裁判史観に違和感を覚えるようになったのである。だから、1980年代に東京裁判史観を排せという意見が登場してきたのは当然であり、勇気ある意見だとさえ感じていた。しかし、だからといって、昭和の戦争を肯定するのは大きな誤りである。その風潮が高まりつつあるのは危険だと、声を大にしていわねばならない。


『週刊朝日』1.24 田原総一朗


2014年01月30日(木) 秘密保護法は世界で評判悪いぞ

池田教授の机上の放談


安倍政権が何を目論んでいるのか。私には今ひとつ理解できない。TPPに加わってグローバリゼーションを推進することと、特定秘密保護法や憲法改悪で国粋主義的な政策を進めることは本質的に矛盾しているからだ。グローバリゼーションを進めて、日本国民を多国籍企業の奴隷にしたいのか、それとも美しい日本国を守る奴隷にしたいのか。いずれにしても、国民を奴隷にしたいことだけは確かなようだ。もしかしたら、美しい日本国を守る奴隷とアメリカと日本の多国籍企業の奴隷は同義なのかもしれないけどね。

欧州のメディアは、特定秘密保護法が成立する前から、この反民主主義的な法律に批判的であった。たとえば、イギリスのリベラルよりの大手新聞・ガーディアン紙は、特定秘密の定義が曖昧であり、原子炉の安全性などの重要な情報が隠蔽される恐れを指摘している。国連人権高等弁務官のナブィ・ビレイは、世論における議論がほとんどないまま法案採決を強行した日本政府を非難し国境なき記者団による、日本の報道の自由指数は179カ国の内、2012年の22位から2013年は53位に落ちた

アメリカのメディアでも、この法律の評判は甚だ(はなはだ)悪い。2013年12月16日付のニューヨーク・タイムズは社説で「ジャパンズ デンジャラス アナクロニズム(日本の危険な時代錯誤)」と題して最大級の非難を安倍に浴びせた。世界は日本が民主主義を標榜する国家群から離脱して独裁国家に陥るのではないかと懸念しているのである。

外務省が、2013年7月から8月にアメリカで行なった調査では、アメリカの世論は「日米安保を維持すべき」が前年と比べ22ポイント急減して67%になり、これはこの質問が設けられた1996年以後の最低だったという。さらに衝撃的なのは、アジアにおける「重要パートナー」の第一位は中国で日本は二位に転落したことだ。特定秘密保護法は、アメリカに倣って国家安全保障会議を使って、アメリカと共有する国家機密を保護するために、ワシントンからの圧力により作られたともいわれるが、アメリカの世論は徐々に日本を見捨て始めたようで、日本はアメリカの安全保障のために働かされても、アメリカはいざとなったとき日本を見捨てるかもしれない。

そうなったとき、特定秘密保護法は、時の権力の独裁を強化する、独裁権力保護法に転化するに違いない。独裁国家の民が幸せになった例はないから、日本国民の未来は悲惨なことになるだろう。


『週刊朝日』1.24 池田清彦


2014年01月29日(水) 中国の侵略はいつ始まるか

日本の外交は、戦後最大のチャンスである

北朝鮮の混乱、韓国の反日暴挙、中国の軍事的脅迫、そして米国の衰退―
この危機を好機とする国家の大計とは

中国がじわりじわりと軍事的脅威を日本に突きつけ、韓国が歴史問題で世界に害毒を振りまく。2013年の日本外交は中国の暴虐に翻弄された一年だった。2014年も、この危機は高まりこそすれ、去ることは考えにくい。だからこそ、ジャーナリストの櫻井よしこ氏は、「この危機を好機ととらえよ」と発想の転換を訴える。その真意とは。

中国は国際ルールを無視して一方的に防空識別圏を設定したことで、世界中に敵を作りました。米国やアジア諸国のみならず、EUも反対しました。しかし、中国がこうした反発を予想していなかったはずがありません。反発を覚悟の上で敢えて行なったことの意味を考える必要があります。習近平国家主席が軍を押さえきれなくなっているとの見方がある一方、習主席自身が反発を恐れずに突き進むことを決めたと見る専門家もいます。いずれにしても、私たちは中国の膨張主義がこれから何十年も続くことを覚悟しなければなりません。共産党独裁が続く限り、独裁体制を守るために膨張を続けようとするからです。

膨張主義の根底にあるのは、中国は世界の頂点に君臨し、どんな理不尽なことでも中国の価値観に従わせずにはおかないという、恐るべき21世紀の中華思想です。中国が世界中の反発を承知の上で防空識別圏を拡大してきた以上、必ずや尖閣諸島に手を伸ばしてくるはずです。数百隻の漁船で押し寄せるなどさまざまなシナリオが語られますが、どんな形の侵攻にしても、それは紛れもなく中国人民解放軍と習近平国家主席の意志を体現するものです。中国が尖閣諸島に手を出すときは中国の国家ぐるみの侵略が始まるときということです。

中国が実際に行動に出るのはいつか。それは尖閣諸島に侵攻しても米軍が動かないと分かった時、すなわち日米同盟が機能しないことが明確になった時です。

ASEANは日本に期待している

先覚とともに中国が狙う南シナ海でも、米国のプレゼンス(存在感)が急速に弱まっています。オバマ大統領は10月1日からインドネシアのバリ島で開かれた環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉などに、国内財政問題を優先して欠席しました。その空白を埋めるように攻勢に出たのが中国でした。習主席と李克強首相が手分けして東南アジア諸国連合(ASEAN)の各国を個別訪問し、中国が得意とする「分断工作」で二国間会議を次々に実現。南シナ海のスカボリー礁で対立するフィリピンをさらに孤立させることに成功しました。

こうした米国の空白を埋めているのが、安倍晋三首相の東南アジア外交です。安倍首相は就任一年でASEAN10カ国全てを訪問し、12月14日の「日・ASEAN特別首脳会議」では、中国の防空識別圏設定を念頭に共同声明に「飛行の自由」の文言を明記しました。東南味アジア諸国は、平和的に安定し、経済成長を果たすために、日本が中国の膨張を押さえてくれることを望んでいます。戦後において日本が外交上、これほど諸外国から期待されたのは初めてのことです。

戦後日本は、強大な米国の下で「何もしない国」であり続け、「一国平和主義」と非難されました。1971年7月、キッシンジャーは周恩来との会談で、在日米軍は日本が再び軍国主義に回帰して暴走しないよう、頭を押さえつけるためにあるという旨の発言をしました。いわば日米同盟は日本を国家として自立させないためのものでした。しかし、今、日米両国は同盟関係の中で日本がより大きな役割を果たし、日米同盟をより進化させる段階を迎えています。それが明確に文書化されたのが、2013年10月の「2+2」(つーぷらすつー)(外務・防衛閣僚協議)でした。今回の「2+2」の最大の意義は日米防衛協力のための指針、ガイドラインを再改定するとしたことです。1997年の前回の改定では、日本の役割は一言でいえば後方支援でしたが、今回の改定では日本は中国の海洋進出の脅威に備えるためにも前線に立つことが求められています。

そのためにも米国側は、日本の集団的自衛権を行使、防衛予算の増額、防衛大綱の見直しなどを歓迎しました。日米同盟を機能させるために、国家安全保障会議の創設や、国家安全保障戦略の策定も歓迎されました。米国を含む他国との強調がとりわけ大事になってくる中で、互いに機密情報を守る必要性が高まります。その点で特定秘密保護法の制定は必要なのです。この「2+2」では、中国を名指しして、中国の軍拡に懸念を表明し、透明性を高めるよう要請しています。このように日米が対中国で共同歩調を保つことが中国に対する最大の抑止力になります。

防衛大綱で南西諸島の防衛強化も打ち出し、自衛隊の各方面を統合運用する国家安全保障会議の中に現役の制服組を入れるなど、日本がこれまではやってこなかったけれど、国家として当然のことを安倍政権は次々に実行に移しています。言葉だけでなく、行動や制度面でも日米同盟を担保しようとする姿勢を私は評価します。安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を訴え続けてきましたが、自民党が衆議院で圧倒的多数を取り、参議院でも同じ価値観を持つ他党の議員と合わせれば過半数を占める今こそ、それを実行する好機です。日本には、世界の平和、安定のために貢献する資格と力があり、東南アジアをはじめ、世界の各国がそれを歓迎しています。中国・韓国の暴虐が招く2014年の日本の危機は、まさに最大の好機なのです。


『週刊ポスト』1.10 櫻井よしこ


2014年01月28日(火) 北朝鮮 張成沢一族を処刑

無慈悲すぎる選択

韓国の「緋合ニュース」は26日は、複数の消息筋の話として「張成沢国防委員長の家族や親戚の多くが、子供も含めて処刑された」と報じた。張成沢処刑(昨年12月12日)直前に、張氏の姉である、張桂順と夫の全英鎮キューバ大使、甥の張勇哲マレーシア大使らは相次いで本国に召還されていたが、いずれも処刑され、さらには張大使の20代の息子、泰令と泰雄と、亡くなった兄の子や孫を含めて、直系の親族は全員処刑された、とのことだった。

また、張大使の妻である朴春姫ら張成沢氏の親族に嫁いだ女性は強制離婚させられ、実家の家族と一緒に山間部に追放されたという。誹合通信は「金正恩第一書記が指示」と報道しているが、これが事実なら残忍極まりない。亡くなった兄とは、2009年に76歳で死亡した長兄の張成宇次師と、2006年に68歳で死亡した次兄の張成吉中将を指しているが、軍人である二人とも生涯、金総書記に忠誠を尽くしていた。

張成沢氏よりも11歳年上の長兄の張成宇次師は、朝鮮戦争(1950-53)のときは中隊長として従軍しその後、人民武力偵察局長、社会安全部政治部長、第3軍団長、軍護衛総局長などを歴任した生粋の軍人で金正日総書記は自分が乗っていた乗用車をプレゼントするほど厚い信頼を寄せていた。現に張成宇氏の葬儀で金総書記は深い哀悼を表し、霊前に献花していた。次兄の張成吉中将も第13師団長、第2軍団副団長、第4軍団副団長、第820戦車軍団政治局員などを歴任するなど忠実な武人であった。その子や孫らを処刑するとは。

張成沢師の義兄(姉の夫)である全英鎮キューバ大使は、外交部副部長からスエーデン、アイスランド大使を歴任。娘が1997年に韓国に亡命した黄シャンヨブ党書記の長男に嫁いでいたため召喚され、一時期、民間外交を担当する対外文化連絡委員会副委員長に左遷されていたものの、その後、キューバ大使として外交の表舞台に復帰した。北朝鮮を代表するエリートであった。

甥である張勇哲大使は、2010年にネパール大使からマレーシア大使に転任し、昨年10月にはマレーシアのヘルフ大学に掛け合い、金第一書記に「経済名誉博士号」を授与させた功労者でもある。義兄の金正日総書記が、あるいは二人の兄が生きていたなら、張成沢氏らは処刑されていなかっただろう。



『東京新聞』


2014年01月27日(月) 風塵の街から

読むことの意味

文章の力が足りないという点では、私は、やはり読書が足りないのではないか、という危惧を感じました。思念を過不足なく表現するほどの文章を書けるためには、「書く」という行為がもちろん必要です。「書く」ことを通して文章が練られ文章が文体として確立してゆくのは事実です。作文が課され、文章の規範が求められるのも「書く」という実践によって自得される部分が多いからです。志賀直哉の小説の一部を筆写してみたり、好きな外国作家の作品を翻訳してみたりして、文章を磨いた小説家を私も知っております。書き慣れた文章はたしかに素人の文章とは違います。論旨の展開や用語の適切さのほかに、一種の自在さ、ファシリテ(熟練)と呼ぶべきものがあります。

しかし同時に、そうした文章が悪達者になる危険を持つことを、考えておく必要があります。悪達者につきものなのは、外見の巧みさに比べて内容が乏しいということです。日本ではよく文章道などといわれ、「書く」ことだけに心を砕く伝統がありますが、もしそれが内から書く必然に促されていない場合、ただ達者な文章の書き手をつくるだけの結果になりかねません。この種の体験的なやり方には、「書く」ことに対する批評的な意識も生まれませんし、方法的な意図も生ずる余地がありません。

私は「書く」という実践の必要を認めた上で、あえて「読む」ことの必要を強調したいのはそのためです。それも、ただ人並みに読むのではなく、むさぼるように多読することを望みたいのです。一時は映像時代といって人々が文字より映像を信じもし、好んだかに見えた時代がありました。現在もかなりの人々がその残滓の中に生きておりますし、今後はむしろ映像の方が強力になると、いまなお、たとえばテレビなどを例にして主張する人もおります。私はそうした意見や傾向に異を唱える気もありませんし、そう信じているのも勝手だと思っておりますが、ただ、人間が言葉を失っては生きえない存在だというどうしようもない事実は、そんなことによって覆りもせず、覆すこともできないということだけは、言っておきたい気がします。

人間の現実が言葉によってつくられ、また言葉によって破壊されるという事実を、私は戦中戦後の生活を通して、深く思い知らされてきました。サルトルはある著作の中で、こうした事実をスタンダールの『パルムの僧院』中の言葉によって説明しています。それは主人公のファブリスがサンセヴェリーナ夫人を愛しているのですが、ファブリスはそれが恋であるとは気がついていないのです。「もし誰かがそれが恋であると言ったら、二人の間には恋が生まれただろう」とスタンダールは書くのです。ものを名づけるという行為は、創世記にあるように、ものを存在させることです。ものに名がつけられることによってそのものが人間の現実となるのです。それは言葉によって人間の現実がつくられることに他なりません。

「読む」ということは、とくに小説を読むことは、こうして、単に架空の、当てにならぬものに触れることではなく、ある意味では、日常生活以上に濃く重い現実性の中へ入り込むことなのです。私たちの制約された狭い日常の枠の外に、想像力という手段によって脱出し、多様な生の可能性を生きること―それが小説を読むことの本当の意味なのです。私たちはそれによって自分の狭さと同時に自分という一回きりの生の貴重さを見いだしてゆきます。

「読む」ことによって、それは何も小説や詩だけに限られません。豊かになった精神が、内からの促しによって、何かを表現したいと思うとき、それは、たとえ特別な「書く」修行をしていない場合でも、十分に読むにたえる文章を書きうるものです。なぜなら文章とは常に思念(イデー)を表すものだからです。思念が豊かであればあるだけ、文章は透明となり、思念そのものが、全く媒体なしに私たちに伝わってくるような気にさせられるものです。私はそうした真の豊かさに達するまで、何かが溢れ出そうになるまで、読みに読んで頂きたいと思います。読むことは考えることであり、考えることは生活の内容を豊かにすることです。しかしそのことを除いては、現代の精神的な混乱を切りひらく道もないのではないか、―それが現在の私の本当の気持ちです。


『風塵の街から』 辻邦生


2014年01月26日(日) 沖縄 名護市長選 稲嶺圧勝 再選

名護 新基地はノー 市長権限で拒否する

「予想以上の差。辺野古移設ノーの民意は明確だ」名護市長選は自民党沖縄県連幹部でさえ認めるきっぱりとした審判だった。1月19日の沖縄県名護市長選は、「陸にも海にも米軍新基地はつくらせない」と公約する日本共産党などが推薦する現職の稲嶺進候補(68)が19.839票を獲得し、なりふり構わぬ安倍政権の全面支援を受けた末松文信氏に、4155票の大差で勝利した。それでも安倍政権は、新基地建設のごり押しの構えである。「市長権限で拒否する」と語る稲嶺市長と「オール沖縄」の県民の戦いは続く。


「名護市長選では、基地建設反対、約20.000票対、推進約16.000票という4.000票もの大差がついた。新たな基地の建設に対する地元としての強い意思表示だと思う。稲嶺市長が市の権限で建設を阻止するといっているのに対し、官房長官は、”市の権限は限られている”という。しかし、国の権限だって限られているのだ。何もかもやりたい放題ということではない。普天間基地の危険性除去は必要だ。ただ、それがどうして、辺野古移転になるのか。いわれのない差別的な県内における米軍基地たらい回しは、そろそろ改めるときだと政府にわかっていただきたい。振興策でお願いしたいのは、沖縄戦など沖縄県民の数十年にわたる苦労に対する、、政府の温かい思いやりのある対応だ。基地が嫌ならカネも出さないというのでは、あまりにも大人げない。辺野古ではない別の道を探すことが、日米両政府にとって沖縄県に対する義務だし、これまでの償いにもなるのではないか」
                     金秀グループ会長 呉屋守将

1月19日夜、名護市長選で再選を決めた稲嶺市長は、「辺野古埋め立てを前提とした協議は一切拒否する」ときっぱり表明した。選挙戦は、宜野湾市にある米海兵隊普天間基地に代わる新基地建設を狙う安倍政権との正面対決だった。安倍政権は立ちはだかる新基地ノーという、オール沖縄の団結を切り崩そうと猛烈な圧力をかけてきた。昨年末、自民党沖縄県連の、県外移設の公約を撤回させ、仲井真知事に辺野古沿岸部への埋め立てを認めさせた。

そして、選挙戦最終盤に名護市入りした自民党の石破幹事長は、500億円の名護振興基金なるものを突然ぶち上げた。まさに札束で頬を叩くやり方である。名護市辺野古で建設業を営んでいた島袋さん(73)は「基地を誘致すれば振興策で地元に金が落ちるのではと思っていた」と語る。しかし、新基地推進の島袋吉和市政(2006~2010)の下で建設会社の倒産が続出し、基地振興はは幻と痛感したという。そこに今回の名護市振興基金。「そこまで沖縄県民を金で釣ろうとするのか。かえって怒りに火がついた。支持拡大で辺野古で五分五分まで持って行ったと自覚している」

選挙戦の中では、県内有数のリゾートホテル「かりゆしグループ」の平良会長も、稲嶺支援の総決起大会に駆けつけ、「観光は平和産業。絶対に基地をつくらせてはいけない」と訴えた。

引かない覚悟

稲森氏は投開票から一夜明けた20日、市内で記者会見を開いた。「名護市地域の財産、市民の安全、安心を守る責任がある」と強調し、新基地建設反対の公約について、これまで通り信念を貫く、と明言した。それでも安倍政権は、民意に逆らい、あくまで新基地建設を推進していく構えである。1月21日は沖縄防衛局が、新基地の設計などに関する入札公告を開始した。しかし、稲嶺氏は「建設予定地近くの辺野古漁港など市の管理下にある区域を調査・工事をする場合は市長の同意が必要である。その場合、市長の権限を行使する」と述べ、調査や工事を認めない考えを示している。

今も自民党籍がありながら、選挙では稲森陣営の選対本部長を務めた比嘉市議会議長は「この勝利は、保守・革新を問わず超党派で勝ち取ったもの。国がどんなに圧力をかけても、私たちの後ろには市民、県民がいる。与党議員15人一致結束して市長を支え、新基地建設阻止のため、一歩も引かない覚悟です」                  
                        比嘉祐一 市議会議員


大差で市民の良識が示された   

市民の良識が示されました。とても嬉しい。これだけの大差です。新基地はいらないということを市民は示した。政府は強引に基地を持ってくるなんて考えない方がいい。僕は岸本建男元市長の後援会で事務局長もしましたし、容認派の島袋元市長を支持したこともあります。でも、僕は当初から新たな基地は反対でした。辺野古に基地がつくられ、海や自然が壊されてしまうと、元には戻らない。子孫のためになりません。国はカネで沖縄の人たちを惑わすのは終わりにしてほしい。今度の選挙でも、自民党の石破幹事長が「名護振興基金」を持ち出してきました。ごまかしもいいところです。

新基地には県民の70%以上が反対です。辺野古区民も、だんだん変わってきました。稲嶺市長は建設阻止のため、自分の権限で、できることは全てやる、といっています。がんばってほしい。
                  
                   医療法人琉心会理事長 島袋重輝


『週刊朝日』


2014年01月25日(土) 辺野古の新基地はこんなに巨大

安倍政権が沖縄県民の総意に逆らい、名護市辺野古沿岸部への建設を狙う米軍新基地。19日投票の名護市長選では、その是非が大争点である。そもそも日本政府はどんな基地を造ろうとしているのか。防衛省が沖縄県に提出した「公有水面埋め立承認願書」などに基づいて実像を描くと、とんでもない基地の姿が。

機能の大幅強化 税金で最新基地に

新基地は、宜野湾市の米海兵隊普天間基地を返還する代わりの基地とされている。しかし、その機能は代替を遙かに超えて大幅に強化される。建設予定地近くには、隣接するキャンプ・シュワブのほか、北部訓練場、キャンプ・ハンセンなど海兵隊基地が集中している。新基地は、これら基地軍の最新鋭拠点になる。その耐用年数について米側は、当初200年に及ぶとまで想定していた。現在普天間基地に配備されている24機のオスプレイが、新基地では100機体制に強化される可能性も指摘されている。(森本前防衛相)しかも、強襲揚陸艦ボノム・リシャールが接岸できる護岸まで造られる。

新基地には、同艦に収容するエアクッション型揚陸艇(LCAC)が上陸できる施設まで造られる。LCACが現在配備されている長崎県では、環境基準以下の80デシベル張の騒音が記録されている。市民はオスプレイだけでなく、LCACの騒音被害にも襲われることになる。建設費用は埋め立てだけで約2300億円。全体ではさらに大きく膨らむことになる。米軍は移設のなで、はるかに使い勝手のいい最新基地を、日本国民の税金で造ってもらえるのである。

ジュゴンの生息地で、珊瑚やカメもいる

建設予定地周辺の海域では、国の天然記念物に指定されているジュゴンが生息している。えさ場となる海草藻場があるからだ。このほかにも、珊瑚をはじめ貴重な生物が多く残されている。ウミガメが上陸して産卵する砂浜もある。それが丸ごと埋め立てられ、基地になる。

県外から持ち込まれる多量の埋め立て土砂には、運搬などが禁止されている特定外来生物アルゼンチンアリが混入する可能性も指摘されている。生態系に影響を与える危険もある。

10トントラックで350万台分の土砂が必要

名護市辺野古沿岸部を埋めたたてて建設される新基地は、極めて巨大である。その面積は約205ヘクタール。同市にある名護市営球場の132倍。東京ドームの約44個分にあたる。このうち海面を埋め立てるのは約153ヘクタール。埋め立てに使う土砂は、約2100万立方メートル。10トントラックで約350万台分にも相当する。県内だけでは足りず、九州や瀬戸内海からも調達する。海面からの高さは、約10メートル。辺野古の美しい青い海に、巨大な基地の壁がそそり立つことになる。

高さ10メートル 埋め立ては153ヘクタール

40年以上前から計画し、代替ではない

新基地は、米軍が長年欲しかったものであり、単なる代替施設ではない。私は、1970年に誕生した名護市の初代市長に就任した頃、基地司令官に画面まで見せられ、飛行場と軍港をつくる構想を示されたことがある。埋め立て地は海面から10メートルもの高さになる。見上げるような巨大なコンクリートの塊が青く澄んだ海にできあがるなんて…。海と空が遮断されて景色が一変してしまう。もう、ここで初日の出を見ることもできない。

そして名護市内にはオスプレイが飛び交うことになる。辺野古の美しい海を子や孫に残せば、全国に誇れる観光資源になるだろう。オスプレイと米軍艦船の拠点にするのか、人々が憩う一大観光地にするのか。名護市長選挙にかかっている。「海にも陸にも新たな基地をつくらせない」という稲嶺ススム市長に、是非がんばってほしい。



『週刊朝日』1.19


2014年01月23日(木) インプラント治療

何らかの原因で歯が抜けたまま放置すると、かみ合う歯が伸びてきたり、前後の歯が傾いて、歯と歯の間に隙間ができやすくなる。徐々に噛み合わせが悪化し、虫歯や歯周病が進行しやすい状態になる。そこで、歯の欠損を補うためには①取り外しできる義歯、②固定制のブリッジ、③インプラントなどの選択がある。それぞれ長所・短所がある。今回はインプラントについて。

人口歯を固定

インプラントはあごの骨に人工歯根を埋め込み、その上に人工の歯を固定する治療である。2年前、インプラント手術による死亡事故があり、テレビや雑誌などでインプラントへの不信感、恐怖心をあおる報道が相次いだ。「歯科医師が過剰になり、経営不振となった歯科医院が、インプラントで営利をあげようとしている。しかし、歯科医師の知識不足、技術不足から医療事故が多発している」という内容もあった。

実際はどうだろう。各地の歯科医院での重篤な事故症例が集まる大学病院を主体に、日本顎顔面インプラント学会が医療事故調査を行なった。結果は、2009年158件、2010年127件、2011年136件たっだ。この数字が多いかどうかは別にして、報道のように急増はしていない。事故では下歯槽神経損傷117件(28%)上顎洞炎61件(15%)だった。これらの事故の多くは、手術前のCT撮影で診断し、治療計画を立てておけば防ぐことができたと考えられる。

一方、九州インプラント研究会の調査では、患者のインプラント治療への評価は98%の人が満足だった。調査、診断、治療計画に基づき適正に埋め込み手術と補綴(ほてつ=冠、ブリッジなど)が行なわれ、管理をしていけば患者にとって福音となることが少なくない。とくに、義歯への違和感、おう吐反社が大きい人には感謝される。

リスクに注意

とはいえ、現在もインプラントには、高額な治療費とともに、手術や長期管理などのさまざまなリスクがあることを忘れてはならない。一生使えるなどと考えない方がいいだろう。なにより、自分の歯を抜かないようにすることが大切である。特にインプラントは、細菌からの防御に弱く、インプラント周囲炎が進行すると対応が困難になることが少なくない。過剰な力にも弱いため、口腔ケア・定期診断が欠かせない。

高齢化が進み治療を受けた人が、入院、施設入所、転居することもあり得る。脳血管障害、認知症などで十分な口腔ケアが困難になる恐れもある。歯科医院の廃業も増えている。歯科大学でインプラント学の講義が本格的に始まったのは2004年を過ぎてからである。まだまだ、十分な知識や技術を持たない歯科医院が少なくないのである。

口腔インプラント学会は、昨年の3月から、口腔インプラント治療相談窓口を開設している。問い合せは℡ 03-(5765)5510。インターネットの検索でも出てくる。


『週刊新潮』


2014年01月22日(水) 谷啓

認知症を患っていたのに、森繁さんの死を言い当てた

「辛い時こそ明るく」と息子たちに教えた

親父が階段から足を踏み外して滑り落ちたのは、2010年9月のことです。僕はいつものように、昼前、玄関で「オヤジ、仕事に行ってくるよ」と声をかけて出かけました。認知症が進行していたオヤジも、僕が仕事に出て行くことだけはわかったようで、僕の目をジーッと見つめてきた。言葉じゃないけれど、これが最後のコミュニケーションになりました。

仕事を終えて帰宅したら、オフクロが廊下に倒れて意識のないオヤジに寄り添っていた。救急車を呼びましたが、明け方、病院で息を引き取りました。たばこを買いに行っても家に戻れなかったり、近所を徘徊するなど、認知症は進んでいたのですが、僕たち家族のことでは決して忘れず、防音設備のある居間で、大好きなホラー映画をよく見ていました。

そんなオヤジが、僕らを驚かせたことがあります。亡くなる前年の11月のことです。オヤジを一階の寝室に寝かせ、僕は二階の自室にいたのですが、オヤジがパジャマ姿で、ボーッとしながら廊下をウロウロしているんです。徘徊が始まったのかなと思い、「もう寝ようね」とオヤジを促したのですが、「ジイサンが挨拶に来ているんだ」と言って、頑として言うことを聞いてくれない。

相手にせず、とにかく寝かしつけたのですが、その晩の11時頃、テロップで森繁久弥さんの死去の速報が流れたんです。森繁さんは舞台『屋根の上のバイオリン弾き』で、ずっとオヤジと一緒だったから、まずびっくり。それから、オヤジが言っていた「挨拶に来ているジイサン」とは森繁さんのことだったんじゃないかと思って、またびっくりです。

昔から、オヤジはその手のものが見える人で、自分が見た幽霊の話などもしていたんです。晩年は認知症を患っていましたし、ボケていたのか、ホラー映画の記憶とごっちゃになっていたのか、あるいは夢と混同していたのか、今となってはわかりません。

でも僕は、オヤジはあの日、森繁さんと会ったんだと思うんですよ。森繁さんが会い来てくれたら、オヤジも嬉しいに決まっている。親しい人に会えるなら、死後の世界もまんざら悪くない。そう思ったほうが夢があるじゃないですか。


『週刊現代』1.4


2014年01月21日(火) 大鵬幸喜

お父さんが亡くなったのは2013年の1月19日。心室頻拍という診断でした。ただ、今振り返ると、2012年12月に入院する少し前から、心のどこかで死期の近さを予感していたのかもしれません。というのも、かって部屋にいた若い衆のことを思い出すようになったんです。「今あの子は何をしているんだろう」とか、「病気をしていたらしいな。大変だろうな」なんて言葉をふと口にするのを何度か聞きました。ほとんど使うことのなかった携帯電話で、級友に連絡をとったりもしていました。用事はとくにないんですよ。「おう、元気か」と声をかけて、思い出話を少しするだけでした。

ただ、一番の変化は、家族に対する接し方。心根は元から優しい人でしたが、昔は「このヤロー」とか「バカヤロー」と、怒鳴ってばかりだった。そんな人が、急に柔らかくなったんです。思い出すと切なくなるのは、亡くなる何日か前のこと。お父さんが、「芳子、芳子」と私を呼んだ。「なに?」と聞くと、「好きだよー」という言葉に続けて「お母さん、お前がいたから、俺はここまで頑張ってこれた。いろいろ大変な思いをさせたな。ありがとな」と言ってくれた。冗談っぽく「おい、チューぐらいしてくれや」とも。でも恥ずかしいのと、まさかその後すぐに亡くなるとは思いもよらなかったので、私は「何言ってんのよ」と、はぐらかした。あのとき抱きついて、チュッとしてあげればよかったって……。

もともと寂しがり屋でしたが、亡くなる数が月前からは何をすにも私が一緒でした。家政婦さんがいようと私を呼ぶ。ちょっと用事で外に出たとたん、「いいからすぐに帰って来い」と電話がかかってくるんです。多い時には何十回も着信があり、私もくたくたになりました。それだけ必要とされたのは、妻として喜びでもありましたが。

亡くなる日も、病室から真っ先に私に連絡が来ました。朝の8時くらいに、「よーしこー」とすごく調子がよさそうだった。「どうしたの?元気だね」と返事をすると「早く来てくれ」と。それが最後の言葉でした。電話を切った30分後ぐらいに、病院から危篤だと連絡がありました。

病室に駆けつけ、先生が手を尽くしてくれている間、「お父さん、お父さん。いつまでも寝てないで、お話ししよう」と、ずっと声をかけました。意識はもうなかった。でも、お父さんの眼の端から涙が流れたんです。声は届いていたんだと思います。ただね、一つ伝えておきたいのは、お父さんが弱さを見せたのは、私の前だけということ。世間に対しては最後まで大横綱・大鵬でした。

正月前に仮退院した後、再び病院に戻る日のことです。白鳳関が「ほんの少しでいいから、どうしてもお会いしたい」ということで、挨拶にいらっしゃった。具合が悪く、あまり話もできない状態だから、お父さんは不安になっていました。私も「無理しなくていいよ」と言っていた。でもね、いざ白鳳関の前に立つと、顔つきが一瞬で変わった。「おう、俺はこれからな、病院に行くけど、頑張るからな。お前はただ頑張るだけじゃだめだぞ。相撲も日常生活も、何から何まで、ちゃんと横綱らしくしないと、真の横綱ではないからな」と熱く語ったんです。私は胸がいっぱいになった。本人はもう精一杯なんです。

しんどくてしんどくてしょうがないんです。その証拠に、白鵬関と別れると「芳子、早く。もう病院行くぞ」と疲れ切っていた。だれよりも強くあろうとしたお父さん。そんな人だからこそ、私にだけ見せてくれた「弱さ」が忘れられないんです。



『週刊現代』1.4


2014年01月20日(月) 田母神俊男論文 ③ 

さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したため、ついに日米戦争に突入し、300万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった。日本は取り返しのつかない過ちを犯したという人がいる。しかし、これも今では日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミブュンテルンに動かされていた。ブェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている膨大な文書であるが、月刊正論、平成18年5月号に、青山学院大学の福井教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミュンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間、これをモニターしていた。当時ソ連は一回限りの暗号を使用していたため、アメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権ができる直前の1980年にいたって解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ最中であったため、アメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることとなった。

これによれば、1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には300人のコミュウテルンのスパイがいたという。その中で登り詰めたのは、財務省ナンバー2の財務次官ハリーホワイトであった。ハリーホワイトは日本に対する最後通牒、ハル・ノートを書いた張本人であるといわれている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリーホワイトらを通じてコミュウテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と闘う蒋介石を陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり、真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることができただろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることはできたかもしれない。しかし、一時的に戦争を避けることができたとしても、当時の弱肉強食の国際社会を考えればアメリカから第二、第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現実に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし、人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。闘わないものは支配されることに甘んじなければならないのである。

さて、大東亜戦争のあと、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があのとき大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界ができるのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国ために戦った先人、そして国のために尊い命を下げた英霊に感謝しなければならない。そのおかげで今日私たちは平和で豊かな生活を営むことができるのだ。


一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などと言う人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことがわかる。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安全保障条約に基づき、アメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上も不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。

東京裁判はあの戦争の全てを日本に押しつけようとしたのである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお、日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊はできるだけ動きにくいものにしておこうというものである。自衛隊は領域警備もできない、集団的自衛権も行使できない、武器の使用も極めて制約が多い。また、攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍隊と比べてみれば、自衛隊はがんじがらめで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り、我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も金融も商慣行も雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで、我が国の伝統文化が壊されていく。日本では今、文化大革命が進行中ではないか。日本国民は、20年前と今ではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには、良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであるのが望ましい。子供がいつまでも親に頼り切っているようでな関係は改善の必要があると思っている。

自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに、外交交渉の後ろ盾になる。諸外国ではごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマでインドで、シンガポールでインドネシアで大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは、日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合も多いことを知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較していかに厳正であったか、多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどと言うのはまさに濡れ衣である。

日本というのは古い歴史と優れた伝統文化を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として、我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけで、この国が実施してきたことが素晴らしいことであるあることがわかる。嘘やねつ造は全く必要ない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。



『田母神俊男論文』


2014年01月19日(日) 田母神俊男論文 ②

わが国は満州も朝鮮半島も日本と同じように開発しようとした。当時、列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとしたのは日本のみである。我が国は他国との比較でいえばきわめて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝国は成立当初の1932年1月には、3.000万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5000万人にも増加していたのである。満州国の人口はなぜ爆発的に増え続けたのか。それは満州が豊かで治安がよかったからである。侵略といわれるような行為が行なわれるところに、人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年間で日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。

朝鮮半島も日本統治下の35年間で1.300万人の人口が2.500万人と約2倍に増えている。『朝鮮総督府統計年鑑』これは朝鮮が豊かで治安がよかった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが日本軍によって破壊されたかのようにいわれている。しかし、実際には日本政府と日本軍の力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

わが国は、満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り、現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また、1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学をを設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が、1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に、朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また、日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翔(ホンサイク)陸軍中将がいる。

この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩には金錫源(キンソグオン)大佐がいる。に抽選層のとき、中国で大隊長であった。日本兵約1000名を率いて何百年も虐められ続けた元宗帝国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより、天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名躁師解明などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し、新潟の高田の連隊で隊付教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で、何応鉄(カオウキン)もいる。李王朝の最後の殿下である季根(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。イウン殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと、陸軍士官学校をご卒業になった。

陸軍では、陸軍中将に栄進されご活躍された。このイワン殿下のお后となられたのが日本の梨本栄方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりなら、このような高貴なお方をイウン殿下の下に嫁がせることはなかったであろう。ちなみに宮内省はお二人のために、1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝、また満州帝国の皇帝であった溥儀(ふぎ)殿下の弟君である。フケツ殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族。嵯峨(さが)治妃殿下である。

これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると、日本の満州や朝鮮、台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違ったていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人を士官学校に入れることもなかった。イギリスの王室からインドに娘を嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然のと考えられていた当時にあって、画期的なことである。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本人が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界をみれば、当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ、1901年に我が国を含む11カ国とのあいだで義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を確保し、当初2600名の兵を置いた。また1915年には、袁世凱(えんせいがい)政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分を入れて、いわゆる対華21ヶ条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人もいるが、この要求が列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものだとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし、4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21ヶ条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは、日本の言い分を支持してくれたのである。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件のときでさえ5600名にしかなっていない。この時の北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが。我が国の基本方針であり、それは昔も今も変わらない。



『田母神俊男論文』


2014年01月18日(土) 記憶力 ②

●法則 6 記憶力の訓練には、対象物の新しい印象を取り込むことよりも、過去に記録された印象を思い起こすことが大事

「法則5」と非常に似ている法則です。細部が思い出しにくいからといって、すぐに対象物を再確認したりせず、できる限り記憶に頼るべきだということです。記憶はどんどん使って鍛えるべきもの。対象物が目の前にないときだけ、仕方なく使うものではありません。そんなことをするのは、わざわざ記憶力を鍛えるよりも簡単でいいからと、掛け算が必要な場合に備えて九九の表を持ち歩くようなものです。古い印象を呼び戻すよりも、対象物の新しい印象を取り込むことに頼ってしまうと、結局は何も身につかず、何度も振り出しに戻って一から覚えることになるでしょう。

●法則7 対象物を初めて観察しているとき、つまり過去に記録された印象がないときは、似ている印象を思い出して、連想のチェーンをつくればよい

新しい対象物の印象を取り込みやすくする法則です。新しいものを過去に覚えたものと結びつけることにより、連想のチェーンをつくり、すでに頭の中に定着している印象に新しい印象をつなげることができます。法則5の、「対象物について新たに観察した細部の印象を、すでに記録されている強い印象と結びつける」のと同種の法則です。

トンプソンという名の男性に会い、覚えにくいと思ったら、すでにいるトンプソンという友人と同性の人だと考えれば、忘れることはありません。二人の男生徒その名を記憶の中でリンクさせ、連想のチェーンをつくってしまえば、新しく知り合った方の名を覚えるのはとても簡単です。そして新しい対象物を覚えるときは、すでに知っているものの中で最も関連性の強いものと結びつける努力をしましょう。類似性のある過去の印象と結びつけることができれば、心は新しい印象を古い印象の一部として認識し、新入りの印象ととして扱わなくなります。心はどうやら保守的なようで、古い友人の知り合いだと思えば新顔とも仲良くできるようです。

●法則8 連想のチェーンをつくれば、一つの印象から次々とつながるようにして、他の印象がよみがえる

あるものの一部が思い出されると、心は同じものの他の部分もスムーズに思い出します。ですから、たくさんのものをつないでチェーンをつくり、どのパーツも全体の一部にすると、どこからスタートしてどちら向きに進んでも、チェーン全体をたどっていくことができます。一つのテーマのさまざまなパーツを、できる限り論理的な順番で並べてチェーンをつくるといいでしょう。新しいパーツをあとから適切な場所に入れれば、古いパーツと一緒に呼び出されます。ものでも考えでも、思い出すときに連想の効果は大きいものです。

子供にとってアルファベットのHを思い出すのは簡単で、なぜならGを知っていて、それがHと結びついているからなのです。連想という点については多くの事柄に関する私たちの記憶力も、子供にとってのアルファベットや掛け算九九表の記憶力と驚くほど似ています。思い出したいことがあるのに思い出せないときは、チェーンの端を見つけて、思い出したいことにたどり着くまで、たぐり寄せていけばいいのです。

自分が住んでいる町の交差道路をランダムに思い出そうとしても普通の人には難しいものですが、最初の通りから始めれば、さほど苦労せずに正しい順番に並べ替えることができます。同様に、子供がアメリカ合衆国の歴代大統領やイングランド国王の名を挙げるとき、ワシントンやウィリアム一世から始めれば簡単にいくことがあります。ところが「順番をめちゃくちゃにして、全部の名前を言ってごらん」というと、とたんにやりにくくなるのです。

人が一番思い出しやすいのは、直前か直後に入ってきた印象と頭の中で結びつけられているものか、何らかの規則でつながっているものです。頭の中でチェーンをつくるときは、アルファベットや歴代大統領名の規則に従い、最初の項目をしっかりと頭に植え付けてから、次の項目を加えていきましょう。

●法則9 対象物の観察や調査には、五感を最大限に活用すること

同じものが対象でも、心に記録される印象は知覚器官によって異なります。したがって、複数の感覚を使えば、使う感覚の数だけ印象を取り込めることになります。名前や日付を覚えようとしているのなら、繰り返し声に出すだけでなく紙に書いて目で確認すれば、音という抽象的な印象に加えて視覚的な印象も取り込むことができます。こうすれば、取り込んだ印象を思い出すときに、全体の印象、音の印象、紙に書かれたものの印象を活用できます。

人前で朗読をする人は、朗読しているページの単語やパラグラフが書かれているとおりの形で心の目に浮かんでくると言います。説教の内容を頭の中で練り上げて、ろくにメモも用意せず演壇に立つ教師も、まるで原稿に書かれているように、パラグラフの構成と、各パラグラフの最初の単語が、ちょうど話がそこに差しかかろうかというタイミングで見えるのだと言います。演説や講演をする人たちも同じ経験をしています。一、二回声に出して言わなければ名前を覚えられないという人は、大勢います。記憶力の訓練が上達してくると、この法則を実感できることがたくさんあるでしょう。

●法則10 弱い感覚は、その感覚に合った方法で鍛えれば大幅に改善できる

特定の感覚を通して取り込んだ印象が思い出しにくい場合は、鮮明な印象の記録が可能になるように、その感覚を鍛えましょう。できるだけ多くの感覚を鍛えるほど、鮮明に受け取れる印象も多くなります。鮮明に取り込んだ印象が増えると望むものが見つけやすくなりますから、探しているものがずっと簡単に手に入れられるようになります。

●法則11 ある印象を思い出せないときは、その印象と同時に受け取られた印象か、関連性のある要素を思い出す努力をすれば解決できる場合がある

人の名前を思い出せないときに応用できる法則です。相手の名前が顕在意識の領域に出てきてくれないときは、アルファベットを一文字ずつ、ゆっくりと検証していきましょう。名前の最初の文字を考えていると、名前自体の印象がよみがえってくることがよくあります。名前の最初の文字は名前全体よりもはっきり記憶されることが多く、最初の文字を思い出せば、連想によって名前のそのものがよみがえってくるのです。

この方法がうまくいかなければ、相手の容貌や話し方、最初に名前を聞いたのはいつ、どこだったかなどを思い出す方法に切り替えましょう。人ではなくてものの名前の場合も同じ方法を使い、どんな状況だったか、どんな性質を持ったものだったか、といったことを思い出してみましょう。

●法則12 ある印象を思い出したいときは、それとつながりのある明確な印象を思い出し、同時に取り込まれていた他の印象をよみがえらせること。見境亡く思い出そうとするよりも、この方が効果的である。

法則11を実行しても、同時に受け取った印象も構成要素も思い出せない場合は、思い出したいことと何らかのつながりを持つものの印象を思い出す努力をして、対象物に、そして可能であれば、その印象が記録されたときの状況に、できる限り近づきましょう。印象を受け取ったときの状況に戻っている自分を想像すれば、頭の中でいろいろな考えが活動し始めて、望むものを顕在意識の領域に連れてきてくれるでしょう。

●法則13 意識的に思い出そうとして失敗した印象が、あとで自然によみがえってきた場合、将来利用できるように、その直前に顕在意識に入ってきた印象を覚えておくこと

ある印象を思い出すことを心が拒絶したのに、あとになって自然によみがえってきたとしたら、それはもちろん潜在意識の働きです。けれど少し注意深く調べてみると、その印象が顕在意識の領域に入ってきたのは別の印象のすぐあとで、二つの印象には一見、明らかなつながりがないことがわかります。思い出せなかった印象の直前に顕在意識の領域に入ってきた印象を覚えておけば、長い時間が経ってから同じことをまた忘れたとしても、思いのままに呼び戻すことができます。二つの印象の見えにくいつながりに気づくと、思考が活発に動き始め、記憶という深遠なテーマをさらに深く知るための鍵が手に入るでしょう。



『記憶力』ウィリアム.W.アトキンソン


2014年01月16日(木) 記憶力 ①

「記憶」は消えない。技術さえ身につければ、どんなときも意識の中から引き出すことができる

覚えておいてほしい法則があります。

ここで取り上げる《13の法則》を読んで、記憶によって印象が取り込まれる際、印象の受け取り、記録、再生がどんな法則に支配されているのかを把握しましょう。どの項目も興味深く、「記憶」と呼ばれる精神活動を支配している法則を、しっかり理解するための手助けになるでしょう。

●法則1 集中力を使って鮮明な印象を取り込めば、あとから思い出しやすくなる

これまでも述べてきたように、最小限の努力で思い出せるような形で頭に記録したいなら、対象物の印象に向けて心を集中することが必要です。一般的に印象の強さは、対象物に向けられた注意力と興味の量に正比例すると言えます。従って、明確な印象を記録できるように、注意力と興味を強化するのが何よりも大事です。私も含めて多くの人が、この方法で着実に記憶力を鍛えてきました。

●法則2 最初に印象を受け取ったときに、明確に記録すること

最初に受け取った印象が鮮明であるかどうかは、多くのことを左右します。あるものの印象は、最初に記録された印象の上に築かれていきます。最初の印象が鮮明でない場合、欠けている部分をあとから修復するのは非常に難しいため、最初の印象を削除して、新たに最初の印象を記録するという作業が必要になります。そうしなければ、記憶が混乱してしまうのです。ですから印象を最初に受け取るときは、可能な限りの注意力と興味を対象物に注ぎましょう。

●法則3 最初からあまり細かい部分まで覚えようとしないこと

この法則を守れば、不必要な努力もエネルギーの無駄遣いもしなくてすみます。最初は対象物の大まかな姿をとらえることに専念し、マスターできたらそれ以外の重要な情報を徐々に取り込んでいきましょう。次に、重要さのランクが落ちる情報、最後にそれほど重要でない細部の情報を取り込みます。対象物を全体的に把握しようとすると、他の要素に比べてきわだって見える要素がいくつかあります。他のことは無視して、まずこういった要素に集中して鮮明な印象を取り込み、そのあと作業を中断して、対象全体をもう一度見渡します。すると今度は別の要素がいくつか際立って見えますから、これを取り込みます。対象物を完全に把握するまで、この作業を繰り返してください。この方法で、段階別の完全な記録を保管することができ、どの部分も簡単に思い出すことができると同時に、その部分と他の部分との関連にも気づくでしょう。このやり方以外に、合理的にものを観察する方法はありません。

このメソッドにしたがう際、対象物を一本の木だと考えるとやりやすくなります。まず地面から初めて、幹を完全に把握し、大きな枝、小枝、さらに細かい枝というように進めていきましょう。新しいことを学ぶときは、そのテーマに関するごく初歩的なものを読むことから初め、それをマスターしたら、読むもののレベルを上げていきます。多くの人は、いきなり高度なレベルのものから読み始めるという過ちをおかし、結局、何も完全に習得することなく、テーマ全体を曖昧に把握するだけで終わります。何かを学ぶときには、初心者向けの本を読む前に、一般的な百科事典の説明をじっくり読むようにとすすめる教師もいます。「歩く前に這う」のが自然の法則です。学習や記憶も、例外ではありません。

●法則4 煩雑に思い出すほど、印象は鮮明さを増していく

記憶力強化プランの土台になる法則です。もしもこの法則を取り上げられたら、プラン全体が崩れ落ちてしまうでしょう。ここで言っているのは、最初に受け取った印象を意識的に思い出すことで同じ対象物からもう一度印象を受け取ることではありません。このメソッドを実践すると印象が強化されるだけでなく、意志が自分の役割を果たすよう鍛えられるため、短期間のうちに、必要な印象をほとんど自動的に思い出せるようになります。何度も思い起こすことで印象は半永久的に心に焼き付けられ、最小限の努力で蘇ってくるようになるのです。

最初の二つの法則を実践することで、かなりの鮮明さで印象を受け取れるようになります。そして常に訓練と復習をすることで、覚えたいことの印象が深く、くっきりと刻まれていくでしょう。この分野で多くの著書を持つある人物は、初対面の男性と一晩中過ごした男性が、数日後に相手と再会してもわからなかったという事例でこの法則を説明し、「もしも初対面の相手と過ごした時間がたった5分でも、それを毎日、2週間続けていれば、次に会ったときにすぐわかったはずだ。繰り返して会うことで、印象が強く心に記録されるからだ」と指摘しています。

●法則5 印象を思い起こすときは、印象の元になっている対象物をなるべく再確認しないようにすると、永続性のある強い印象になる

この原則については、レッスン4「視覚を通した認識と記憶力」で触れました。ポイントは、頭の中で何度も思い起こす作業が大切だということです。もちろん細部が把握できていないこともあるでしょう。欠けているものを確認するために、対象物を再確認しなければならないこともあるでしょう。しかしまず、記録されたものをはっきり思い出して、印象を鮮明にすることに務めましょう。あとから確認した細部についても同じ作業を行なうと、思い出すたびに細部が補われて、完全な姿に近づいていきます。

なんとなくものを見ることを一ヶ月間、毎日繰り返しても、手に入る情報は限られています。まず対象物を注意深く観察し、次に頭の中や紙の上で印象を再現するという作業を一週間繰り返して、毎日新たな情報を取り込むのが正しい方法です。一日目の観察では強い印象を残さなかった点だけを二日目に観察し、両方を復習したり思い出したりして、新たに観察した点を一日目の印象に加えていきます。「いい加減に聞いた教訓は頭に残らない」ということを覚えておきましょう。


『記憶力』ウィリアム・w・アトキンソン


2014年01月15日(水) 田母神俊男論文 ①

日本は侵略国家であったのか

アメリカ合衆国軍隊は、日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とはいわない。二国間で合意された条約に基づいているからである。わが国は戦前、中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外と知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが、相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本侵略」を執拗に追求されるが、わが国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に、中国大陸に権益を得て、これを守るために条約などに基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから、条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も、多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

この日本軍に対し、蒋介石国民党は煩雑にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人およびその家族などを暴行、惨殺するようなものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く、和平を追求するが、そのつど蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミュンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作により、コミュンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが、国民党内に多数入り込んでいた。コミュンテルンの目的は、日本軍と国民党を戦わせ両方を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。わが国は国民党の度重なる挑発についに我慢しきれなくなって、1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「シナ軍の暴戻(ぼうれい)窈窕し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」という声明を発表した。わが国は蒋介石により、日中戦争に引き込まれた被害者なのである。

1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)」(ロン・チマン講談社)「黄文雄 大東亜戦争肯定論」(ワック出版)および、「日本よ歴史力を磨け」(櫻井よしこ)などによると、最近ではコミュンテルンの仕業という説がきわめて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし、今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で、「廬溝橋事件の仕掛け人は、中国共産党で現地指揮官はこの俺だった」という証言をしていたことがわかっている。「大東亜解放戦争」(岩間書店 岩間弘)もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強と言われる国で、侵略国家でなかった国はどこか、と問いたい。よその国がやったから、日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だと言われる筋合いもない。



『田母神俊男論文』


2014年01月13日(月) 首相参拝の問題点

首相参拝の問題点 A級戦犯14人合祀(ごうし)逝去分離違憲の恐れ

首相による靖国参拝が国内外で反発を招くのは、先の大戦を指導したA級戦犯が合祀されていることと、憲法が定める政教分離に違反する恐れがあるという二つの理由からだ。靖国には、極東軍事裁判で重大戦争犯罪人として起訴されたA級戦犯28人のうち、東条英機元首相ら14人がまつられている。1978年に神社側が他の戦没者とともに合祀したためで、明らかになってからは中国や韓国が「戦争を正当化する」と首相の靖国参拝に反対し続けている。

首相が参拝すると外交問題に発展することから、歴代首相は控える傾向が定着していた。在任中に6年連続で参拝した小泉純一郎氏は際立つが、あとは中曽根康弘、橋本龍太郎両氏、記録に残っていない宮沢喜一氏の1回ずつにとどまっていた。安倍首相は参拝後、国籍や人種を超えた戦争犠牲者をまつる社として同じ境内にある鎮霊社も参ったと説明。「諸外国の方も含め、ご冥福をお祈りした」と中韓両国に理解を求めた。

しかし「国内、および諸外国の人々を慰霊するため」(靖国神社ホームページ)という鎮霊社も、中韓やその戦死者の遺族らの了解を得て建立されたものではない。靖国参拝した事実が消えるわけでもなく、中韓の理解を得られるはずはない。首相の靖国参拝は、憲法上も問題があるとの見方が根強い。靖国神社は戦前、日本軍が管理し、戦後に宗教法人となった。国と神道が結びつくことは禁じられ、憲法20条は「国およびその機関はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた。

最高権力者の首相の参拝には、違憲の可能性がつきまとうため、過去に参拝した首相や閣僚は自らの参拝を「私的」と位置づけ、安倍首相も踏襲した。だが2001年の小泉首相の参拝に対し、福岡地裁が2004年に「違憲」判断を出したことがある。「内閣総理大臣」と記帳したことが主な理由で、安倍首相も同じ記帳をした。そもそも首相に「私的」な参拝はないとの意見もある。



『東京新聞』12月27日


2014年01月11日(土) 靖国参拝 米が失望 安倍首相に異例の声明

安倍晋三首相は26日、東京九段北の靖国神社を参拝した。 靖国神社には極東国際軍事裁判で有罪判決を受けたA級戦犯が合祀されており、中国と韓国は強く反発。両国との溝を一段と深めた。日本と中華両国の関係悪化を懸念し、自制を促してきた米国も「失望している」と異例の声明を発表した。日米関係にも影を落としかねない。

首相は参拝後に「恒久平和への誓い」と題する談話を発表。自民党のインターネット番組で、米国や中韓の懸念を受け「さまざま誤解がある。しっかりと説明し、誤解を解いていく」と強調し、中韓への対応では「誠意を持って対話を進めていきたい」と語った。

菅官房長官は記者会見で、首相の参拝に関し「私人の立場で参拝した」と説明。私人として玉串料を奉納し「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳したことも明かし「政府として立ち入ることはない」と述べた。首相サイドは米国と中韓に対し、事前に参拝する考えを伝え、理解を求めていた。

しかし、米国は12月26日、在日米大使館による声明で「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに失望している」と強い懸念を表明した。米国の反応を受け、岸田外相はケネディ駐日大使と電話で会談し、参拝の意図を説明したが、ケネディ氏は「本国に伝える」と述べるにとどめた。

中韓は事前の連絡に「理解できない」と拒絶反応を示し、中国の程永華(ていえいか)駐日大使は参拝後、外務省に斎木事務次官を訪ね「新たな障害をもたらした」と強く抗議。韓国も黎振龍(ユンジリョン)文化体育観光相が「時代錯誤の行為」との抗議声明を発表し、季丙(イビョンギ)駐日大使が齋木氏に抗議した。日本と中韓は首脳会談が長く途絶えているが、さらに関係は悪化した。


『東京新聞』2013年12月27日


2014年01月10日(金) 北朝鮮張成沢

北朝鮮・張成沢の処刑をめぐる考察

2013、12月12日、北朝鮮のナンバー2で、若い独裁者・金正恩の摂政役を務めていた張成沢が、特別軍事法廷で死刑を言い渡され、即日処刑された。張は、2011年12月に死去した金正恩の父親、金正日の姉・金敬姫の夫で、金正日政権の末期から、妻とともに外資導入や、軽工業振興など、経済再建政策の最高責任者をしていた。金正日は2008年に病気で倒れたあと、後継者として息子たちの中から金正恩を選び、その際に張成沢を正恩の摂政役として置くことを決めた。張は、国防委員長など3つの要職を兼務し、職位的にもナンバー2だった。

1994年の金正日の死から2011年まで権力の座にいた金正日は、前半期に中国を修正主義と呼んで嫌っていたが2001年頃から親中国に転向し、自ら繰り返して中国を訪問して経済を視察し、中国流の市場化の容認という経済政策を進めることで北の経済立て直そうとした。張成沢はその政策の担当であり、中国を何度も訪問し、北朝鮮で最も中国と繋がっていた高官だった。

金正日の死後、権力の座を引き継いだ金正恩は当初、父の遺言を守り、張正沢に経済政策を任せ張は中国国境沿いや北の国内各所に経済特区を作る政策などを進めていた。しかし、金正日の死から1年間が過ぎた今年の春頃から張は外されるようになった。今年5月の中国訪問は張でなく、軍人出身の雀龍海
が、正恩の特使として派遣された。

雀はもともと張と親しく、過去には張と一緒に失脚させられたこともあるが、正恩は権力者となったあと、雀を張と対抗させる形で要職に就かせた。中国側は朝鮮側がかってに張を雀と入れ替えたことに不満で、雀は訪中したものの成果が少なかった。

今春から11月にかけて、張成沢の権限が削がれ特異な経済政策の担当を外され、スポーツや教育関係の担当をさせられていた。11月には張の側近2人が処刑され、12月17日の金正日の2周忌を前に、張自らも解任され処刑された。12月初めに韓国の諜報部が張の失脚を指摘し、当社は「北が経済的に依存している中国とのパイプ役で、正恩の叔父でもある張が失脚するはずがないという見方もあったが、その後、北のテレビがそれまで何度も流していた正恩と張の視察時の映像から張の姿を削除して流し、数日後には張が政治局会議の席上で逮捕される映像がテレビで放映され、労働新聞が一面で張成沢を非難する記事を載せ、有罪判決と処刑が行なわれ、翌日発表になった。

張は2度失脚し、2度復権した。1回目は1970年代の大学時代に、金正日と親しくしてもらうとともに、金敬姫の恋人になった頃、金敬姫の父親である、初代独裁者・金正日から疎んぜられ、地方の大学に転校させられたが、その後平壌に戻って金敬姫と結婚することを許された。2回目は、金正日のもとで経済政策を担当していた2003年、金正日が冷戦後の経済難を乗り切るための軍事優先策をやめて労働党重視に転じていく際の権力闘争の一環で失脚させられたが、2年後には復権し初め、北のナンバー2まで昇格した。

何度失脚しても復権し、最後は権力を持って経済改革を進める張は「北朝鮮の鄧小平」と期待された。同様に失脚と復権を繰り返したあとで、経済改革をやって中国を経済大国に押し上げた鄧小平に似ているからだった。しかし、北と中国は全く違う国だった。鄧小平を期待されたからこそ、張は復権しないよう、即日処刑されたと考えられる。

張成沢が処刑されたことの意味は、張が北朝鮮で果たしていたいくつもの役割の内、どの面を見るかによって変わってくる。金正恩と張の関係性で見ると、金正恩は張に摂政をしてもらえという父親の命令に反して、叔父の張を殺してしまった。金正恩は父の死後、2年かけて張を外していったが、いきなり最高権力者として出てきた金正恩としては自分が○○任したときにすでにナンバー2だった張を失脚させるために、それだけ時間をかけた根回しが必要だったことを意味していた。

正恩はこの2年間に張だけでなく、労働党と軍の幹部218人の内100人以上を更迭した。代わりに1964年以降に生まれた若い世代が幹部に登用されている。2年前に金正日の葬儀で、霊柩車の脇に付き従っていた金正恩を含む8人、つまり金正日の死去の時点で北朝鮮の権力中枢にいた8人の内、霊柩車の左側にいた季英鍋、金英春、金正党、重東則という軍人4人は全員がその後の2年間で失脚した。

右側にいたのは金正恩、張成沢のほか金基南党書記、雀泰春という労働党の2人だったが張が今回、失脚し金と雀は80歳代の高齢で、いずれ引退する。金正恩は金正日の時代に中枢にいた年上の高官たちを次々と辞めさせ、最後の仕上げが張の処刑だった感がある。

金正恩は馬鹿だから。自分の叔父まで殺してしまった。これから北は権力闘争で不安定になる、といったよくある見方と対照的に、金正恩が2年間で自分を子供扱いしかねない父親の側近たちを全員外し、代わりに自分に忠誠を誓う若手を登用し、その仕上げが張の処刑だったと見ると、今後の北は政治的に意外と安定するかもしれない。張が政治局会議の席上で逮捕される場面をテレビで放映し、即日処刑にしたのは金正恩は自分に忠誠を誓わないものは、ナンバー2だろうが叔父だろうが処刑することを北の全員に思い知らせるショック戦法だったと考えられる。



『田中宇の国際ニュース解説』2013 12.18


2014年01月06日(月) 張成沢銃殺刑

張成沢氏機関銃銃殺刑か 韓国は緊張 あらゆる挑発に備える

解任から4日…即時死刑執行 正恩氏 脆弱な権力基盤を露呈

北朝鮮のもとナンバー2の実力者、張成沢(チャン・ソンテク=67)前国防副委員長の処刑で、韓国は緊張感が一気に高まった。北朝鮮の朝鮮中央通信は12月13日、国家安全保衛部が前日に開いた特別軍事裁判で張氏が死刑執行を受け、刑が即時執行されたと伝えた。「国家転覆の陰謀行為」が理由とされる。

韓国の金寛慎国防省はこの日、朝鮮人民軍に特異な動向はないとしつつ、軍部内で「忠誠競争」が起き、誤った判断を誘発する可能性があると指摘した。核実験や長距離ミサイル発射を含め、あらゆる挑発に備えるとした。

金寛鎮国防省は13日、国会の国防委員会で、金正恩第一書記の叔父・張氏の粛清について、内部の権力闘争ではなく、正恩氏の「唯一指導体制」を確立するため実力者を牽制する権力再編過程の一環との見方を示した。同国防委員長は朝鮮人民軍内部で「忠誠競争」が起き、誤った判断を誘発する可能性があると指摘。核実験や長距離ミサイル発射を含め、あらゆる挑発に備えるとした。

北朝鮮が軍事裁判実施や刑執行を公にするのは極めて異例。北朝鮮情報のウェブサイト「デイリーNK」高英起東京支局長は、12月13日のテレビ朝日のニュースに「こういったことを公にするのは1970年代以降、初めてではないか。建国から5本の指に入る大粛清事件」と驚きを込めてコメントを寄せた。北朝鮮は正恩氏の父・金正日総書記の死去から12月17日で2年となるのを前に、実力者とされた張氏の影響力を速やかに消し去り、体制強化を図ったと見られる。今後、張氏周辺に対する粛清も進められそうだ。

韓国側も関係各所が重大事態として関心を深める。与党セヌリ党の除相国会情報委員長は「最近処刑された張氏の側近2人が機関銃で射殺された」ことから張氏の死刑も「同じ方法で行なわれたと推定される」と述べた。除氏は、張氏の全役職の解任からわずか4日後という早急な死刑執行の背景について「金第一書記の権力基盤が相対的に脆弱なことを示す。さらに内部の混乱拡散を早期に遮断する意図がある」と指摘した。

国防省の副報道官は、冬季訓練をしている北朝鮮軍の偶発的な挑発などに備え、韓国軍の勤務体制を強化したことを明らかにした。内に向けてはこの夏から処刑の嵐を起こしている正恩氏が、韓国に対して軍事的に”暴発”する恐れも警戒している。

国家転覆の陰謀行為

もちろん、突然の処刑の正恩氏の意向を受けてのものだろう。判決内容などを伝えた朝鮮中央通信によると、張氏は自ら政権を担う野心を以前から抱き、2011年12月の金総書記死去を契機に工作を本格化した。側近グループを要職に引き入れ、自ら「神聖不可侵な存在」として君臨。群にも働きかけ、最終的に金第一書記を排除し、国を乗っ取ることを企んだ。同通信は張氏が、特別軍事裁判の審理で「クーデター」画策を認めたとしている。

張氏はその課程で、経済運営や貿易、外資導入の実権を手中に収め国民生活を破綻に追い込むことで国を混乱させようと計画。首都平壌の都市開発を妨害したり、地下資源の不適切な売却を強行したりしたほか、北東部の経済特区、羅先で土地を海外の提携先に長期貸与したことも「売国行為」とされた。さらに、2009年のデノミネーション(通過呼称単位の変更)実施をめぐる混乱も張氏の責任とされたほか、私生活の乱れも問題視された。

韓国統一省資料によると、張氏は1972年に金正日総書記の実妹である金慶嬉氏と結婚し、2011年12月17日の同総書記死去後、慶喜氏らとともに正恩氏の後見人に。2010年に国防委員会副委員長、2012年の党代表者会で政治局員に昇格した。だが、今月8日、自らの派閥を作る「分派」活動など「反党・反革命的行為」を理由に、党が全役職からの解任と党からの除名を決定、12月9日に公表された。金第一書記の絶対的権威に挑戦したと、朝鮮中央通信が指摘した張氏。いわば、内なる敵を葬り去った正恩氏は今後、どこへ向かうのか。



『九州スポーツ』12.14


2014年01月04日(土) 消費増税控え予算増

過去最大95.9兆円 来年度案決定

安倍政権は24日、来年度の政府予算案を閣議決定した。17年ぶりの消費増税で税収増を見込むが、年金や医療など社会保障のほか、公共事業、農業などの予算も軒並み増やし、一般会計の総額は過去最大の95兆8825億円に達した。家計に負担増を求める一方で、予算を大事に使って国民に理解を求めようとする姿勢は見られなかった。

公共事業費12.9%増額

総額は今年度当初より3.6%増えた。歳出でも最も大きい社会保障は4.8%増の30.5兆円と初めて30兆円を突破した。公共事業費は特別会計の廃止に伴う見かけ上の増額分も含め、12.9%増の6兆円、防衛費も2.8%増の4.9兆円となった。一般会計と別に管理している復興予算は来年度3.6兆円とし、今年度の4.4兆円から減らす。人手不足などで復興事業が思うように進まず、予算を消化しきれいなためだ。

歳入は、消費増税と景気回復で税収が2007年度以来の水準となる50兆円を見込む。新たな借金となる新規国債の発行額は41.3兆円で3.7%減らす。今回の予算編成で問われたのは、消費増税で家計から吸い上げるお金を、社会保障の安心や財政再建に生かせるかどうかだ。政府は増税分を「全て社会保障の維持と充実にあてた」と強調し、その内訳も公表した。だが、借金で賄った分が増税分に置き換わっただけで、サービスはほとんど変わらない。


第一次安倍内閣だった2007年度予算は、景気回復で53.5兆円もの税収を見込みながら、公共事業費などを減らした。将来の増税幅を抑えるためだったが、今回は歳出抑制を掲げながら、自民党から圧力がかかると、あっさり後退した。安倍首相は自ら、企業減税や防衛予算の増額を主導。財務省も、もともと甘い財政再建の目標を達成できると見るや、予算増を受け入れた。来年度末までに、首相に消費税率を10%に引き上げる決断をしてもらいたいからだ。

結果的に、家計からお金を吸い上げる一方で、予算の大盤振る舞いは放置された。お金をどう使ったら増税に苦しむ国民に納得してもらえるのか、という納税者の目線は忘れ去られた。


『朝日新聞』12.25


2014年01月02日(木) ノルウェイの森 

「それは本当に、本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女は時々そんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもどれがどこにあるのかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」彼女はそういうとツィードの上着のポケットに両手を突っ込んだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。

「でもそれじゃ危なくってしようがないだろう?」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれがどこにあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」
「どうしようもないでしょうね。ひゅぅぅぅぅ、ポン、それでおしまいだもの」
「そういうのは実際には起こらないの?」
「ときどき起こるの。2年か3年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ探しても見つからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っこんたんだって」
「あまりよい死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。

「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやらクモがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて、そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」

「考えただけでも身の毛がよだつな」と僕は言った。「誰かがみつけて囲いを作るべきだよ」
「でも誰にその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」
「離れないよ」

直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないのよ。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」
「絶対に?」
「絶対に」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。
そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私はすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」

「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。
「それ本気で言ってるの?」
「もちろん本気だよ」

直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方では真っ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背伸びをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸が詰ってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。

「ありがとう」と直子は言った。
「どういたしまして」と僕は言った。
「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」
「どうして?」

「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは―」と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口にはさまずそのとなりを黙って歩いた。「それは正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。

「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。
「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねぇ、もしよ、私があなたと結婚するとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねぇ、そんなの対等じゃないんじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう?そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」

「これが一生つづくわけではないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。「いつか終わる。終わったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねぇ、もっと肩の力を抜きなよ。肩に力が入っているから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ」

「どうしてそんなことを言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩の力を抜けば体が軽くなることぐらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったってなんの役にも立たないのよ。ねぇ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって―どこかに吹き飛ばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」

僕は黙っていた。

「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねぇ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」

我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終わりに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でぱりぱりという音を立てた。僕と直子はまるで捜しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。

「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度が首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」「たぶん僕は君のことをまだ本当に理解していないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭のいい人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」

僕らはそこで立ち止まって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手を突っ込んで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。

「ねぇワタナベ君、私のこと好き?」
「もちろん」と僕は答えた。
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
「みっつ聞くよ」

直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝しているんだということをわかってほしいの。とても嬉しいし、とても救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」

「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。

彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の鳴き声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛り上がったところを上がり、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。ぼくはその二、三歩あとをついて歩いた。

「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」


『ノルウェイの森』㊤ 村上春樹




2014年01月01日(水) 日本はかっての土建国家に戻る

マネーのプロが振り返る2013 東京五輪までのキーワードは、破壊


―アベノミクスが始動してから約1年。まずは二人の採点を

山本 80点くらいですかね。年末になって経済と全く関係ない秘密保護法でケチがついて支持率が下がったのは今後のことを考えるとマイナス。来年は原発再稼働や集団的自衛権の問題、さらに消費増税が控えているから、これ以上は政権基盤を弱めてほしくない。

深野 私は78点ぐらいですかね。やっぱり秘密保護法の進め方は稚拙でした。今年1年、アベノミクスがうまく進んだのは、景気回復に対する期待と、それに応えられるだけの政権基盤があったから。それにちょっと傷をつけたのは、あとあと響いてくるかもしれない。あとは成長戦略の第3の矢がハッキリ見えなかったことも減点対象だね。

山本 成長戦略の関してだけど、日本はかっての土建国家に戻っていくよね。

深野 おっしゃる通り。2020年に東京五輪開催が決まったことで、インフラ整備を進めるという大義名分ができちゃいましたよね。だから、私も日本は再び土建国家に戻っていくと思いますね。ただ、今回は新規建設ではなく、補修維持がメーンになるので、かっての土建国家とは中身が違ってくると思う。

山本 そうだね。今年アベノミクスが進めてきた政策は土建国家に戻すのがメーンにあって、規制緩和だなんだっていうのはおまけだったと思ううんですよ。例えば、農業に関する規制緩和を大幅に進めたとしても、対GDP比での伸びはちょっとだけだからね。アベノミクスが目指しているのは、大都市に人を集中させて経済の効率を上げようってことだと思う。だから、地方の人口はこれから減っていくんじゃないかな。

―かってと中身が違うとはいえ、土建国家、つまり公共事業を乱発すると聞くと拒絶反応を示す人は多い。

山本 いや、それはちょっと違う。いくら土建国家といっても税金はたくさん投入できないですよ。だから、基本的には民間資金を活用するんです。予算の大部分を民間に負担させて、政府は無利子融資をつけたりして、民間主導でインフラ整備をやりましょうというスタンス。ほとんど政府の資金で行なわれた公共事業とは違う。

― なるほど

山本 アベノミクスは住宅に関する規制緩和を進めて、1981年以前の耐震基準を満たさない中古マンションに関して減税することにし、さらにマンションの取り壊しはこれまで住民の100%の同意がなければできなかったのを、80%で取り壊しができるようにしたんだよね。そうすることで1960~70年代にできたニュータウンは、おそらく立て替えが進む。さらにもうひとつ、「インフラ長寿命化基本計画」というのが閣議決定され、今後10年かけて全国のインフラを調査して、いるものといらないものを仕分けて、いらないものは壊しちゃうっていうんだよ。これから東京五輪までの日本経済のキーワードは「破壊」になるんじゃないかな。

深野 確かに壊すだけでも相当カネが動きますからね。ただ、日本はパンドラの箱を開けた感もある。インフラ整備を進める大義名分を得て2020年までの経済のロードマップは描けるけど、五輪後のことをどううまく進めていけるか。1964年の東京五輪のときもそうだったんだけど、五輪まではイケイケドンドンで進んでいっても、その後のことまで考えておかないと五輪ショックが怖い。アベノミクスはそういうことも視野に入れて長期的ビジョンを持っていないと、東京五輪までは良かったけど、その後がガタガタにになる危険性をはらんでいると思う。特に五輪特需で一時的に増える雇用については、その後の対策を怠ると危ない。

―そういう意味では20年間も日本経済を低迷させたデフレからの脱却をを掲げ、日銀が異次元緩和を行なったのはよかった。

山本 日本の経済の構造は、カネはあるけど回らないという状況だったんだよね。いわゆる貯蓄第一主義というやつ。デフレ経済ではそれでよかったんだけど、日銀の異次元緩和による円安で物価が上昇し、預貯金は目減りする一方なので、みんな運用するなりして出さざるを得ない状況ができた。その点だけでも、異次元緩和の果たす役割は大きいと思う。

深野 確かに異次元緩和は、国民の預貯金を出させる動機付けにはなったけど、私は庶民への動機付けが足りていないと思う。街で話を聞いても、まだまだどこ吹く風。異次元緩和による円安進行が、現金価値を目減りさせるという意識は薄いですよね。特に根雪のように動かないお金の多くは60代以上の人たちが持っているけど、その世代の人たちは年金受給額に恵まれていて、多少の現金価値の目減りは平気なわけ。だから、この世代のお金をいかにして出させるかというのが、今後の課題はないですかね。

山本 その点ではNISAが来年から始まるよね。これを機に団塊ジュニアが運用を始めれば、その親世代である団塊世代も投資にお金を回すようになるかもしれない。現実にこれだけ円安が進んでいるんだから、私は株や不動産などへの投資が増えて、今後、資産バブルが起こると予想しています。


山本氏 マネーリサーチ代表 深野氏 ファイナンシャルリサーチ代表


『九州スポーツ』12.30


加藤  |MAIL