【File088】〝カチンの〟森の〝エニ〟熊さん・・・【ネタバレ警報/前編】 |
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2003年05月24日(土)
台湾人のお医者さんによる新型肺炎(SARS)渡来騒ぎも終息したと思ったら、今度は中国から帰って来た偉い政治家の先生方が俺たちゃ特別・・・と言わんばかりに、帰国後2日間だけ様子見ただけでマスクして国会に出勤(?)し顰蹙を買ってましたが〝院内感染〟とは良く言ったものです。そんな中、先週の事ですが公開始まったばかりの作品を初日に観てきました。まあ都内でも数館でしか上映されていないと言う、ほぼ単館上映に近い作品ですが、つくづく東京近郊在住のありがたさを噛み締めております。そんな訳で今回の観戦記のお題は『enigma』であります。第二次大戦中に独軍が使用した暗号・・・それが「エニグマ」なのですが、古来二次戦を舞台とした諜報戦を描いた映画や小説に多々登場し、軍オタの皆さんも良くご存知なはず・・・『U-571』なんか記憶に新しいですな・・・。ところで映画館で観戦し終わった時、ATFの脳裏に古い記憶が甦って来ました。この『enigma』の中で、謎解きの大きな〝キーワード〟となっているのですが、軍オタの方でも意外と知らない、その出来事・・・一般の方々は尚更ご存知ない事でしょう。そんな訳で、今回の観戦記は私ATFの古き記憶を辿った薀蓄から始めたいと思います。それでは【開演ブザー】いつものように携帯電話の電源は・・・いや、まだ切らなくても宜しいですよ・・・【いつもの如く、この書き込みには史料的価値はありません】
【話は今から○十年前に遡ります・・・】 当時はレンタル・ビデオ勃興期で、私ATFも次々にオープンするレンタル・ビデオ店の会員に片っ端から入会していました(この辺の事情は観戦期【File030】を参照下さい)・・・次々にオープンするレンタル・ビデオ店は将に宝の箱・・・好奇心を擽るビデオを毎日の如く借りて帰って○ビングし捲っておりました。そんな時にレンタルした一本のビデオ・・・戦争映画やアクション映画ではありません。どちらかと言えばパッケージに記載された解説紹介文・・・Hな好奇心を掻き立てる・・・に騙されてレンタルした、と言った方が正解かもしれませんな。そのタイトルは「スウィート・ムービー1974」一部のカルト映画ファンの方々にとっては、とってもメジャーな作品であると知ったのは、随分後年になってからの事ですが・・・。さて、この「スウィート・ムービー」ですが、旧ユーゴスラヴィア映画界を代表するドゥシャン・マカベイエフ(「WR・オルガニズムの神秘1971」や「コカコーラ・キッド1985」で著名な映画監督)の初期作品・・・プロデューサーはルイ・マル(「死刑台のエレベーター1957」「地下鉄のザジ1960」「ルシアンの青春1973」「さよなら子供たち1987」で有名な監督)では無く、その弟のヴァンサン・マルで、映画界においては〝全くの道楽〟で作ったと語り継がれる〝迷作〟であります。映画検索サイト【allcinema Online】で検索してヒットした作品の解説によれば「全ての人がこの作品を観て楽しめるかどうかは解らないが、観た人と観てない人では、その後の映画人生に大きな開きが出るかもしれない・・・」だそうです・・・と言う訳で私ATFは見事に〝観てしまった人〟になってしまった訳ですが・・・もし観ていなかったら、現在はこんなHP作って御託を並べていたりしてなかったかもしれません・・・大爆。確かにレンタルした理由は、前述の如く甚だ不謹慎な動機によるものだったと記憶にあるのですが、その余りにサイケでカルトで、ブラックユーモア満載な内容に、観戦・・・いや鑑賞しながら暫し呆然とした記憶が微かに残っております。さて問題なのは、その作品の後半部分に挿入された白黒の実写シーンなのですが・・・最初は何を映されているのか理解出来ませんでした。しかし次第に映し出される場面に目は釘付けになりました・・・それは1943年の4月に独軍占領下の都市スモレンスク近郊の〝カチン=KATYN〟と呼ばれる場所の森の中で独軍宣伝中隊によって撮影された記録フィルムだったのです・・・。
【分割され続けた国土・・・ポーランド略史】 ところで、第二次大戦の発端となったのは、皆さんご存知の通り独軍による〝ポーランド侵攻(1939年9月)〟ですが、このポーランドという国家は、その立地が故に、絶えず列強諸国に蹂躙されつづけた歴史を持っています。ちょっとおさらいしてみましょう・・・最初にポーランドの土地に王国を建国したのはスラブ人で10世紀末の事です。11世紀始めに神聖ローマ皇帝からポーランド王位が承認されます。14世紀後半にヤゲロ朝が成立、宗教騎士団のひとつドイツ騎士団との抗争を繰り広げ、15世紀半ばにプロセインの地を領土に加えました。16世紀後半にヤゲロ朝の血が絶えた為、国内有力諸侯の互選による選挙王制となったが、諸侯間での争いが絶えず戦乱の時代が続く。その間隙を縫って周辺列強諸国により度々国土分割統治が行われる・・・①1772年第一次分割(プロセイン王国/フリードリヒ2世、オーストリア帝国/マリア・テレジア女帝、ロシア帝国/エカテリーナ2世によって分割・・・国土の4分の1を失う)・・・②1793年第二次分割(フランス革命後のフランス革命政府対オーストリア帝国との紛争に乗じたプロセイン王国とロシア帝国の二国間で分割統治が行われ、更に国土が縮小)・・・③1795年第三次分割(プロセイン王国、オーストリア帝国、ロシア帝国によって分割統治、ポーランド人民による激しい抵抗が行われたが、遂に国家としてのポーランドは消滅した)1807年、プロセイン=ロシア連合軍との戦いに勝利したフランス皇帝ナポレオン1世がティルジット和平条約によってプロセインより割譲した領土を基盤にウェストファリア王国と共にワルシャワ大公国を建国、一族に統治させた。その後大公位はザクセン王が兼ねたが、1814年ナポレオン没落後の西欧の再編成を協議したウィーン会議によってロシア帝国支配下でポーランド王位が復興された。1830年反ロシアの抵抗運動が激化し王位は廃止、1863年ロシア帝国に併合された。第一次大戦後の1918年、革命によるロシア帝国が滅亡し、その後ヴェルサイユ条約により共和国として独立を認められる。④1939年第四次分割(ナチスドイツによるポーランド侵攻に乗じ、ソ連軍もポーランドに侵入し、両国により分割統治された)・・・1945年独敗戦に伴いソ連影響下に共産主義体制国家が成立しました・・・。
【独軍ポーランド電撃戦・・・までの長く短い道のり】 第一次大戦後に成立したポーランド共和国は、旧ドイツ帝国領と旧ロシア帝国領(ウクライナ地方)を領国内に取り込む事となり、特にダンチヒ(現グタニスク)を含む地域は、ドイツ本国と東プロセイン(現カリーニングラード)地域を分断し〝ダンチヒ回廊〟と呼ばれる戦略上の要衝となりました。1934年ドイツとポーランドは不可侵条約を締結、1938年10月独外相リッベントロップは、ポーランド外相ユーゼフ・ベックにダンチヒ返還を要求しましたが、ポーランドは英仏の後ろ盾を得て、独の要求を拒否しました。1939年4月ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄。同年5月19日フランスはポーランドとの間に軍事協定を締結。英仏はソ連もポーランドの防衛協定に引き込もうと画策するも失敗。実はソ連は、ヒトラーが政権を獲得する以前の1922年4月に既にドイツと国交を回復し、第一次大戦の賠償権を放棄、互いに軍事面交流を行っていました。ヴェルサイユ条約によって軍備を制限されていた独軍が、ソ連領内で戦車や航空機の訓練を行っていたのは皆さんもご存知の通り・・・反面ソ連は独の進んだ軍事技術を学んでいたのです。ナチスドイツが政権を奪取し、独国内の共産党勢力を弾圧するに至って、両国間での軍事面交流は中止されました。ポーランド侵攻を目前にして、ヒトラーはチェコ併合時と同じくポーランドに侵攻しても英仏の介入は無い・・・と考えていました。しかしソ連の指導者スターリンの腹の内が読めない・・・過去を顧みてもポーランドに手を出した場合、ソ連が黙っているはずは無い。でも今ソ連とも事を構えるだけの余力は独軍には無い・・・。そこでヒトラーは、外相リッペントロップに親書を持たせモスクワに派遣しました。実はこの時、ソ連軍は1930年代後半から行われた軍幹部の大粛清によって指揮系統がボロボロで、独軍と事を構える力など全然無かったのですが、流石は元祖〝鉄のカーテン〟のお国柄・・・その事実は、ヒトラーの耳には届いていませんでした。またスターリンは英仏を全く信用していなかったので、ヒトラーからの親書は、将に〝渡りに舟〟だった訳です。1939年8月24日モスクワにおいて独ソ不可侵条約が調印されました・・・以後10年間両国は戦争しません、というもの。この条約調印は世界各国に大きな衝撃を与えました。と言うのもスターリンとヒトラーは互いに〝犬猿の仲〟と思われていたからなんですが、実はこの不可侵条約には裏の顔(後に暴露される秘密追加議定書)があって、両国の欧州での勢力圏(ポーランドのブレスト・リトフスク以東、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国及びフィンランドをソ連の勢力下に置く)を勝手に取り決めていたのでした。これによって独軍によるポーランド侵攻後の国土分割のシナリオは出来上がっていた訳・・・。1939年9月1日未明、独軍は遂にポーランドに侵攻しました・・・前日の8月31日ドイツ領内ウライウィツクのラジオ放送局が、国境侵犯したポーランド軍兵士に襲撃された事に対する報復措置という名目で・・・しかし今では、この事件は完全にドイツ側の自作自演の謀略と判明しています。その後、独軍はハインツ・グーデリアン将軍によって新たに考案された戦略思想を具体化した戦法・・・機甲兵力と航空兵力の共同作戦〝電撃戦〟によって破竹の進撃を続け、未だ騎兵戦力が主力だったポーランド軍を各地で撃破。9月17日独ソ間の秘密議定書に基づきソ連軍がポーランドとの国境を越え侵攻(終戦直前の満州とソックリだ)・・・事情を知らない独ソの第一線部隊間で一時戦闘が発生する事態も発生しました。結局英仏は独に宣戦布告するも実際に戦闘は起こらず(ポーランドを見殺しにした)9月27日ワルシャワ陥落。29日にはワルシャワ郊外の最後の抵抗拠点が降伏し、ポーランド軍の組織的抵抗は終わりました。戦闘終了後、独ソ間でポーランド分割占領が実行され、ポーランドという国家は消滅します。生き残ったポーランド軍人や政府要人の多くは英国に亡命・・・しかし、ソ連軍占領地域内でソ連軍に捕虜となったはずのポーランド軍将校や政府要人の多くが、その後ぷっつりと消息を絶った・・・のでした。
【そこで何が起こったのか・・・】 1943年4月ソ連領内に侵攻した独軍は、モスクワとミンスクの中間に近い主要都市スモレンスクを占領しました。その郊外にある〝カチン〟という農村近くの森で野営していた独軍の一部隊が〝とんでもないもの〟を発見します・・・それは地中に埋められた大量の腐乱した死体・・・多くは軍服のような服を着用しており、後ろ手に縛られ後頭部を銃で撃たれていました。遺品の中から発見された多くの手帳や身分証明などから、これらがポーランド軍の将校や政治家の遺体であることが判明(因みにマスコミ用語では身元が不明な場合を〝死体〟身元が明らかな場合を〝遺体〟という・・・一般に男性は〝死体〟女性は〝遺体〟というのは大きな誤り・・・何じゃそりゃ)独宣伝相ゲッペルスは、これらの遺体が1939年9月以降ポーランドのソ連軍占領地域で行方不明となったポーランド軍将校や政治家であり、これらの虐殺を行ったのはスターリンの指示によるソ連秘密警察であると世界中に発表・・・国際社会においてソ連を盛大に非難しました。ロンドンにあった亡命ポーランド政府もこの事件を知り、直ちに国際赤十字に対し調査を依頼・・・独軍の協力の下にカチンの森で遺体発掘が行われました・・・発掘された遺体総数4,143名(この数にも複数の説があり3,000名説、4,000名説、4,500名説から5,000名説と分かれている。またソ連占領下のポーランドで行方不明になったポーランド軍将校・政治家の総数も15,000名説、25,700名説など複数ある)・・・国際赤十字の調査で、発掘された遺体がポーランド軍の将校や政治家である事は証明されたが、その殺害実行犯が誰であるか、という明確な証拠は発見出来ませんでした(遺品の調査により、殺害が行われたのが1940年初頭である事は明確となった。遺体が殺害直後にカチンの森の中に埋められたと仮定すれば、その時点ではスモレンスク付近は未だソ連の勢力圏内であった事はハッキリしている)二次戦中はナチスドイツとソ連共産党双方が、互いに相手を犯人として主張し続けたが、戦後行われたニュルンベルク軍事裁判では〝ユダヤ人虐殺=ホロコースト〟に次ぐ大量虐殺として審理され、結局は戦勝国側であるソ連政府の報告のまま、ナチスドイツの犯行とされた。しかしこの判決には、当初から疑問の声が多く、1949年に米国下院内に「カチン虐殺調査委員会」が設置され、1951~52年に行われた調査の結果、虐殺の実行犯はソ連政府であると断定されましたが、朝鮮戦争に続く冷戦状況下においては、それ以上の真相は闇の奥に埋もれたままでした。ところが・・・事態は急転します。事件から50年後の1990年4月13日ソ連共産党書記長ゴルバチョフが、全世界に対し「1940年初頭に発生したポーランド人将校の大量殺害事件=カチンの森の虐殺は、ポーランドの共産化を進める為、当時のソ連共産党書記長スターリンが反動的ポーランド軍将校の処刑を命じ、内務人民委員(秘密警察長官)ベリヤの1940年3月5日付の極秘命令によって実行された」と発表、正式にポーランド政府・国民に対して謝罪しました。その後発表された「ベリヤ~スターリンに仕えた死刑執行人・・・ある出世主義者の末路」(ウラジーミル・F・ネクラーソフ編)と言う本の中でも、明確にベリアと秘密警察の虐殺への関与が明記されています。遥か以前、全くの偶然(なんかコレばっか・・・だな)・・・甚だ不謹慎な好奇心からレンタルしたビデオ『スウィート・ムービー』に収録されていた白黒の記録フィルムは、この『カチンの森の遺体発掘映像』だった訳です。こうしてまた〝20世紀の歴史の謎〟のひとつが、白日の下に明らかになったはず・・・した?
【そして再び謎は深まる・・・のか?】 20世紀末に共産圏を席捲した自由化の波は、遂には〝鉄のカーテン〟を突き破り、ソビエト連邦の崩壊へと繋がりました。これによって旧体制化に極秘とされた多くの史料が歴史の日の目を見る事となります。そんな中1992年7月始め、モスクワのロシア国立公文書館において、ひとつの発見がありました。それは直筆の日記・・・誰あろうナチスドイツの宣伝相ヨゼフ・ゲッペルスの日記だったのです。そしてその1943年9月29日の日記が、世界中に波紋を巻き起こします。そこに書かれていた文章とは・・・「遺憾ながら我々は、カチンの森の一件から手を引かねばならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、我々が12,000名のポーランド将校を射殺した事実を嗅ぎ付けるだろう。この一件は行く行く我々に大変な問題を引き起こすに違いない」・・・。はたして真相は・・・。この記事については、私ATFは記事の出所を確認していません。なんでも1992年10月に発行された雑誌『中央公論』の中で作家の逢坂剛氏が関連した記事を執筆しているらしいのですが、その記事は未確認です・・・。ここ書いた記事のネタ元は、ネット上で「カチンの森の虐殺」を検索していて偶然見つけたサイトの中に記載されていたものです。別のサイトでも「カチンの森の虐殺については、つい最近のゲッペルスの日記の発見により検証されております。この中でゲッペルスは事の重大性を考え、極秘裏にしかも赤軍がやったような工作をしなければならない、との決意を述べています」という記載を見つけました。果たして真相は・・・。しかし以前ヒトラーの日記なるものがマスコミを騒がせた事がありますが、この日記も真贋が怪しいものでした。ゲッペルスが明らかに事件を実行したのがドイツ側である・・・と言及している史料が、何故共産党が未だ権力を握っている時点で公表されなかったのか・・・?まあ言わずと真実はハッキリしていると思われます。ココまで読んでいただければ、聡明なる観戦武官諸氏には真贋は明確にお分かりでしょう・・・。ところで2002年7月12日付のポーランドの新聞(ジェチポスポリタ紙)にこんな記事が載りました・・・映画「灰とダイヤモンド」などで知られ、同国を代表する巨匠アンジェイ・ワイダ監督(76)が「カチンの森」事件を題材とした新作映画の制作に乗り出すと伝えた。ワイダ監督は2000年に、卓越した業績を残した世界の映画人に贈られるアカデミー名誉賞を受賞。ポーランドの著名文化人らとともに今年、日本文化を総合的に紹介する「日本に魅せられて」を出版するなど、親日家としても知られる。第二次世界大戦中の1943年4月ソ連西部(現ロシア)スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連に抑留されていたポーランド人将校ら約4,000人の虐殺体が見つかった同事件は、長くナチス・ドイツの犯行とされてきたが、90年、当時のソ連のゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。脚本はポーランドの作家ウォジミエシュ・オドイエフスキ氏の書き下ろし。終戦直後の45年、兄弟をカチンで殺されたポーランド共産政権の将校が、ナチスの犯行との先入観を持って事件を調べるうちに、真相を突き止めるとのストーリーになるという。今年秋に撮影を開始するとしているが、公開予定時期は明らかにされていない・・・その後、この記事についての続報を聞いた事がありません(ATFが知らないだけなのか・・・?詳細をご存知の方、是非掲示板に御一報下さい)・・・そして公開されたのが、この『enigma』だった訳です・・・。
【前置きはこの辺で終わりにして・・・】 そうですよ・・・今回の観戦記のお題は『enigma』だったのですよ・・・大汗。まぁ軍オタを自称される方々でも、意外と知らない方が多かったんじゃないでしょうか・・・この〝カチンの森の虐殺〟事件・・・映画中や公式サイトでも説明はされていましたが、それだけでは映画の背景がイマイチ理解できないと思いまして、過去の記憶を発起点として、長々とまた薀蓄を書き込んでしまいました。そんな訳で前置きは以上です。次回はいよいよ本題に突入(オイオイ)・・・独軍暗号〝エニグマ〟に翻弄された人々のお話。そうそう、この『enigma』って映画、世界的ロックシンガーである〝ミック・ジャガー〟のプロデュースで、ご本人もヒッチコック宜しく作品内に登場しているとの事でしたが、私ATFは迂闊にも、その事は全く忘れて観戦してしまいました・・・あぁミック・ジャガーよ何処?【続く】 そうそう、こちらのサイトで《カチンの森の遺体発掘映像》が観ることができるそうです。歴史教育用の映像ですが、内容が内容ですので、心臓の弱い方はご注意下さい
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