2013年10月29日(火) |
第一章 西暦 2200年 東京春 (1) |
第一章 西暦 2200年 東京秋 (1)
連載小説 :小鳥物語(1)
純一はパソコンに目をやった。 「トキ」
画面の中央に文字が浮かび上がった。 文字は七色に色を変えて、輝きながら小さくなりつつ左上の方に移動し、同時に右側にカラー映像の古びた窓が現れ一瞬静止した。 中央から白い光を両側へ放ちながらその扉が開き、眩しい日差しが差し込んで来た。 光の中に目を凝らすと、窓外に見える遠い空の高みから、美しい鳥が三羽飛来して、やがて一面の雪景色の丘に降り立った。 すらりとした見事な翼を、スローモーションの様なゆったりとした動きでたたみ、白銀の雪の上に居住まいを正して立ち、こちらを見た。 左側に文章が現れた。
学名「ニッポニアニッポン」 二十一世紀初頭、乱獲、環境の急変などの為に激減し絶滅した。 余りに遅過ぎた保護は成果をあげる事なく、個体数は数十羽にまで減り、最後の手段とされた人工飼育による繁殖にも失敗した。
この映像は自然界に生息しているトキの姿をとらえた唯一のカラー映像だが、ネガフィルムが古く、残念ながら本来の色彩を見る事はできない。 羽ばたく時に見える風切羽の淡い紅色を「とき色」と言う。 「とき色」は古来からの色名として伝えられているが、トキを目にする事のできない現在、本来の色がどのような色彩であったのか全く定かではない。
純一はそこまで目を通すと窓の外へ視線を移し、何時もの日没の風景を眺めた。今日は靄が晴れて遠い西の山々がうっすらと見える気がする。
「雲だろうか山だろうか、何か見えるな」
頭上の空に目をやると、雲に美しい夕焼けが訪れていた。
「とき色ってあんな色なのかなあ」
ふと何の確信もないまま呟いた。こんなに鮮やかに空が染まるのを見るのは久しぶりだった。西向きの部屋の窓からほんのり淡いピンク色の光が差し込んで、部屋の隅々まで染めていた。
大都市東京の中心部。高台に建つ巨大高層マンション。 二十五階の窓からの眺めは、何時もスモッグや靄でかすみ良く見えないが、大小のビルがまるで光を遮断して象牙色に栽培したアスパラガスか何かの様に、にょきにょきと林立しているのが見える。 建物の間を縦横に走る道路は網の目の様に入り組み、ごちゃごちゃしていて見通せない。 夕焼けに染まってピンク色のそれらのビル群はなぜか非現実的に見える。 ほんの十数分の光のアトラクションの後、ごく見なれたいつもの風景がまた夕暮れの中で輝きだした。
大都会の夜景は空をうっすらと明るく照らし、本当の夜の闇の存在を許そうとはしない。 ほんの一つ二つの星の姿すら許そうとはしないのだ。 純一は時々月を探してみる。夜の空に黄ばんだ月がのんびりと浮かんでいるのを見ると何故かほっとする。 そんな時は部屋の照明を消して、厚い窓ガラスにぴったり顔を寄せて月の浮かぶ空をじっと見る。 厚く冷たい窓ガラスがそんな彼の邪魔をする。照明を消した部屋に街の明かりが差し込み、白い壁に紫の細い影が幾重にも重なり合う。 この街には本当の夜が無い。
二十五階の窓は開かない。厚く大きい一枚ガラスを通して見る外の世界に音はない。 大都会の騒音は一切遮断されている。風の音も雨の音もしない。 木の葉のそよぎや小鳥の囀る声など、この世界にある事すら純一は知らない。 月光という言葉を知っていても、その光さえ本当には見たことが無い彼には、その光を正しく認識し理解する事すらできない。 一際月が白く鮮やかに見える夜、月光がクリアーだと思うのだが、むろん月光は白く輝いている月のさまではない。
晧晧と照る満月の夜。見渡す限り冷たく青く澄んだ月の光に満ち溢れ、木々も家並みも道も隈なく明るく照らし出される。
そんな月夜の光景を見たことがない純一には想像もつかない。 本当の闇の無い大都会の夜空に昇る月が、どんなに明るく巷を照らしても、その澄んだ月光の存在に気付く者はないのだ。
二十世紀から二十一世紀にかけて絶滅し、既にこの自然界から姿を消してしまった動物達。
その人工飼育の映像は数多くあるが、野生動物として自然界に生息していた姿をとらえた映像は本当に極々限られていた。
その生態を完璧にとらえているかの様に映し出される貴重な映像は、所詮、動物達のほんのつかの間の残像を継ぎはぎしてあるだけなのだ。
この世に存在していない動物はもはや、その面影を僅かな古びたネガフィルムの中に留めるに過ぎなかった。
「純一」 部屋のインターホンから母の声が流れた。
「お父さんからよ。今そっちに回すわね」
パソコンの画面に黒い不精髭の日に焼けた顔が現れた。
「やあ純一、一週間ぶりだね。ここはエジプトだ。砂嵐が何日も続いてね」
「五年越しでやっと何とか形になっていた大切な植物プラントの殆どが壊滅状態になってしまったよ」
「本当に残念でならないよ。もう何日もろくに寝ていないよ。そちらはどうかね」
「何も変わらないよ。そっちの状況に比べたらこちらは天国の様に穏やかな毎日だよ、お父さん」
「それより早く寝た方が良いんじゃない。もう何とかなったんでしょう」
「ああ、まあ一区切り付いた事は確かだ。寝る前に皆の顔を見て安心して寝たくてね。それでちょっと電話したんだよ」
「僕はもうすっかり元気になったよ。前みたいに落ち込んだりしないで居られる」
純一は何をどう表現したら良いのか解からないので適当にそう言った。
疲れ切って家族との会話を唯一の安らぎにしようとしている父親を心配させたくはなかった。
聞いて欲しい事はいっぱい胸の中に詰まっていたが何も言い出せなかった。
「純一こちらでは日本の事を何と呼んでいるか知っているかい」
「何て言っているの」
「緑の宝石と呼んでいる。面白いだろう」
「砂の海に沈みそうな国から純一の国は宝石の様に見えるらしい」
「緑の宝石って、何で緑なのさ」
「何故かと言うと日本列島を写真に撮ると、緑色の島々が青い海にぽっかり浮いて写るからさ。ここは緑などひとかけらも写らない。灰色一色だ」
「今度その写真見せてよ。僕には全くぴんと来ないんだ。父さん窓の外の景色知っているでしょう。緑など殆ど見えないんだよ」
「そうだな。今度純一にその美しい日本列島の写真を見せよう。驚くぞきっと」
「きっと見せてね。忘れちゃ嫌だよ」
純一はちょっと考えてから更に続けた。
「ねえお父さん、僕はもっと本当の事を知りたいよ。何でもちゃんと本物を見たい。色々な事を体験したい」
「もう一人で色々な所に行ってみて良いでしょう。僕はもう十二歳なんだからね。危ない事なんか何も無いよ」
「お母さんに言うと危ないとか心配だとかばかり言ってさ。お父さんからもお母さんに言って欲しいんだ。お願い。僕、もっと色々な事を知りたいんだ」
純一の話が意外な方へ進展して、急に困った顔を見せながら父が言った。
「純一気持ちは解かるけどお母さんに心配をかけないように。機会を見て純一の行きたい所へ行けるように考えるからね」
「僕は無茶な事なんか絶対しないよ。だからお父さんは安心して寝てください。おやすみなさい」
純一は父を安心させる為にそう言ったが本当は不満だった。
父も母も仕事が忙しく純一の望みはそう簡単に叶えられそうになかった。
「純一、それではおやすみ。くらくらして来たよ。私はもう寝るよ」
父はこめかみに手を当て目を閉じ再び目を開けるとやつれた顔に笑顔を作って軽く手を振った。
画面がスーとブルーになって送信が切れた。
純一は再びパソコンのキーを叩きながら呟いた。
「緑の宝石か。どんな物があるのかな」
そしてパソコンに「緑色の宝石」と打ち込んで画面に目を移した。
純一のパソコンはその問いに答えて画面に幾つかの宝石の名前を出した。
その文字の上を指でタッチしたりクリックしたりするのは時代遅れの方法だ。
純一のパソコンは指示を口で言うだけで反応する。
「それじゃあ一番凄いのから順に見せてよ」
パソコンが純一の言葉を聞いて、画面にエメラルドについてのページを開いた。
( 続く )
2013年10月28日(月) |
第一章 西暦 2200年 東京春 (2) |
第一章 西暦2200年 東京秋 (2)
画面中央に「エメラルド」という文字が出て、金銀に輝きながら小さくなって画面の左上へ移って行くと、古びた宝石箱が右側に現れ、その蓋が開いて中に映像が映し出された。
そして左側のエメラルドの文字の下に文章が現れた。
ベリル綠柱石の緑色の石を「エメラルド」と呼ぶ。
純粋なベリルは無色透明だが美しいエメラルドグリーンの色はクロム、同じベリルの青い石や、アクアマリンの海の水の色は鉄。
ピンク色の石モルガナイトはマンガンによってその色が生まれる。
右側の映像は大きなエメラルドの石が幾つも柄にはめ込まれている黄金の短剣だった。
「うわ、凄いな。これ本物の映像なの」
と、純一は見事な宝石に驚いて言った。するとパソコンがその言葉に反応し文章を付け加えた。
この映像はトルコイスタンブール、トプカプ宮殿の宝庫に納められている十八世紀の本物の短剣である。
「凄いなあ。トプカプ宮殿の宝庫か。それは他の緑の石を見終わってからもっと詳しく見せてね。じゃあ、次の石は」
パソコンはその言葉を聞いて次のページを開いた。
今度は画面中央に「デマントイド」という石の名が現れ、ピカピカと輝きながら画面の左上の方に駆け上がり、右側に中世ヨーロッパの何処かの城の広間が現れた。
金の唐草模様の白い扉が中央から両側に開き、奥の間に美しい王妃が立っている。
手に宝石を散りばめた大きな十字架のペンダントを持っている。王妃が歩み寄って、ペンダントをこちらに差し出して見せた。
すると左側に文章がすっと現れた。
「デマントイド」はガーネットの中で最高の物とされる緑色の石(翠ざくろ石) 透明な若葉の色である。
ロシアのウラル山脈では最高のデマントイドが産出する。
ガーネット(ざくろ石)には青味を帯びない赤系の色、透明に近い黄色など色々な色合いの石がある。
昔からアクセサリーや小物などあらゆる物の装飾に使われた。
「そろそろ次へ進めて欲しいな」
純一はパソコンに命じた。パソコンはデマントイドのページを途中でやめて、次に「マラカイト」のページを開いた。
画面中央の「マラカイト」の文字が鳥の飛翔の様にひらひらと左上の方へ飛んで行くと、右側に古代エジプトの建物が現れて、その入り口に掛けられている薄い織物が両側に開き、中に映像が浮き上がった。
大理石の広間の中央の黄金の玉座に腰を掛けたクレオパトラの手に手鏡が見える。
鏡をかざして髪に手をそえた時、鏡の裏側全面に浮き彫りのレリーフを施してはめ込まれた艶々した緑色の石が見えた。
「マラカイト」は孔雀の羽の色と模様を思わせるため孔雀石とも呼ばれる。
古代エジプトの女王クレオパトラのアイシャドーに使われた顔料はキプロス産のマラカイトだったと言われている。
装飾品に限らずレリーフや彫刻など美術品を製作する素材としても多く使われた。
ザイール、ザンビア、ロシア、オーストラリアで産出する。
「クレオパトラ。どんな人だったんだろう。その顔をもっと良く見せてくれないか」
クレオパトラの名を見て純一が言った。すると、パソコンはそれに対して答えを出した。
良く見えない小さな横顔のレリーフと、目と鼻筋に大きなでこぼこの傷のある頭部の彫刻の映像だが、どちらを見てもその目鼻立ちが見て取れる様な物ではなかった。
「これじゃあ全然解からないよ。どんな顔のどんな人だったのか教えてよ」
純一はパソコンの出した答えに不満だった。パソコンはすぐにそれに応じた。さらに文章が現れた。
「古代エジプトのクレオパトラ」の肖像は、この二点の物以外伝えられていない。
絶世の美女であったと、昔から言い伝えられているが、実際の顔は定かではない。 古代エジプト、プトレマイオス朝、最後の女王。紀元前六十九年から三十年(在位紀元前五十一年から三十年)ローマとの戦いに敗れ自殺した。
詳しくは古代エジプトのファイルでお答えする。
「そうだね。ファイルが違うね。緑の宝石の続きを進めていいよ」
純一はパソコンに次のページに進む様に命じた。
パソコンは即座にその画面に「ジェダイトとネフライト」という文字を出してそれに応じた。
文字は今度はオーロラの様に輝き揺れながら左上の方へ進み、右側には奈良時代の古めかしい宝物殿が現れた。
その扉が重々しく両側に開きその中に映像が浮き上がって見えた。
薄紫の絹の上に並べられたドロップの様な物は奈良東大寺の正倉院に納められている翡翠で作られた勾玉だった。
文章が左側に流れる様に書かれて行く。
ジェッダイトとネフライトは翡翠という名で呼ばれている緑色の石。
日本古代の代表的な装飾品である勾玉の中には翡翠で作られたものがある。
新潟県の糸魚川で産する石を古代から使っていた。彫刻の材料に使われる。
ロシア、中国、カナダ、ニュージーランドで主に産出する。
「よし、翡翠の次はターコイズだね」
と言う呼びかけにパソコンはターコイズのページを開いて見せた。モザイクになりながら「ターコイズ」の文字が走り出し、右手にペルシャの古びた城の中庭が現れた。
大理石の噴水から水が流れ落ちている。その傍らで、そっと水に手を触れる長い髪の少女の手首に、青と緑のモザイク模様のブレスレットが見えた。
すると文章が流れる水の中から浮かび出す様に現れた。 「ターコイズ」トルコ石は青の他、緑色の物もある。古代文明で好まれ良く使われた。
産出される石の殆どの物が小さく、その色合いが微妙に異なるのを生かしてモザイクに使われる事が多い。
イラン、アメリカ、南アフリカ、などに産出する。
パソコンは次に「アレキサンドライト」のページを開いた。
画面中央の文字が緑色から赤、そして再び緑色と移り変わりながら上へ去ると、ロシアの古城の王の間が現れた。
玉座に腰を下ろした王の胸に宝石をはめ込んだ重厚なペンダントが下がっている。
天窓から日の光が差し込み、ほの暗い王の間の玉座を一際明るく照らし出すと、血の様に赤く輝いていた胸の宝石が突如緑色に変わり、冷たく澄み切った水を湛えた深い湖の色に輝いた。
そして、文章が砂文字の様に現れた。
「アレキサンドライト」はロシア皇帝アレキサンドル二世の誕生日にロシアのウラル山脈から発見された。
そして皇帝の名を持つ石となった。太陽光の下では緑色に、人工の光源の下では赤い色に見える不思議な石として珍重された。
ウラル山脈だけで産出する、クリソベリルの深緑色の石。
「まだ次があったかな」
パソコンに問い掛けると、それに答えて画面に「ペリドット」と文字が現れ、そのページを開き始めた。
古代ギリシャの宮殿の広間には、コバルトブルーの海を一望にできる明るい窓がある。窓辺に置かれた大理石のテーブルの上に、黄緑色の宝石に飾られた櫛形の髪飾りが置かれている。
左側に文章がエーゲ海の日差しに照らし出される様に現れた。
「ペリドット」は黄緑色のカンラン石で、火山岩石の中に多く見出す事ができる石。 紅海のセント・ジョン島や、ミャンマー、ノルウェー、アメリカアリゾナで産出する。
純一はそこまで目を通すとパソコンに話し掛けた。
「もう終わりにしよう。とっても面白かったよ。緑色の宝石の中ではエメラルドが一番凄いなあ。緑色の宝石の王様だね。今度は宝石を使った最高の宝物にしよう」
「宝石の宝物」とキーを叩いてちょっと考えた後「トプカプ宮殿の宝」と付け加えた。
純一のパソコンは即座にその問いに答えようと、ファイルを引き出しページを開き始めた。
純一は何にでも興味を持った。知りたい事が次から次から生まれてくるのだ。疲れを知らないランナーの様に時のたつのも忘れ、パソコンを道案内にしてバーチャルの世界を夢中でさ迷い歩くのだった。
何かを探して……。
夕食の時間はとうに過ぎていた。
純一がリビングルームへ行くとテーブルの上にメッセージのメモ用紙が見えた。
「純、今夜も手が離せないから下で何でも好きな物を食べてね。今晩は徹夜になるから朝は起きれないと思うの。ごめんなさいね」
母は仕事の為パソコンの前に座り続けることを強いられている。
彼女のパソコンはネットワークで世界中とつながっているが、彼女は部屋の外に出て行ける訳ではない。
唯一人毎日毎日黙々とパソコンの画面を見つめ、情報という名の河の流れを木の葉の船で遡ろうとするかの様に、翻弄され疲れ果てながらも流れに飲み込まれまいと必死に戦っていた。
一言の会話も無い孤独な戦いを続ける彼女の苦悩を知る者は誰もいなかった。
純一は幼い頃からぽつんと一人残され一日中放って置かれた。
朝から母は仕事部屋に入って内側からドアに鍵をかけてしまう。
そして仕事が済むまで絶対に出て来てはくれなかった。
純一は幼い頃、孤独に耐えかねて母を呼び、呼んでも呼んでも一言の返事も返されない厳しい拒絶に打ちのめされて良く泣いた。
自分以外の人の気配すらない空ろなドアの前で泣き疲れ、行き倒れの様に床に転がって眠っていた。
それでも母は長い間不在の父よりずっと身近な存在だった。
母の仕事は止まらない地球と同じペースで回り続ける事を彼女に要求した。
夜になったら仕事を止めて眠り、朝になったら起きてその日の仕事を始めるという人の本来の生活を守る事さえ許さない日があった。
世界の何処かで昼が続いているとめど無い時の流れはどこにも完全な夜の休息を与えようとはしなかった。
何時もの事だ。純一にはもうメッセージを見る前から解かっていた。
マンションの二階から四階にかけて多くのレストランや喫茶店やスナック、バーなどが店を連ねていた。
母のメッセージの「下で食べる」とはその様なレストランで食事する事を意味しているのだ。純一はちょっと時計を見た。
「ちょっと遅すぎるかな」
しばし考えてから友達の家に電話をかけた。
呼び出し音が消えて「もしもし。」と少年の声がした。純一の友達の佐竹ヨウジュスだ。
「ぼく純一」
画面にヨウジュスの顔が現れた。
「やあ、ヨウジュス。夕飯食べたかい」
「まあね、でも、まだデザート食ってなかったから行くよ。今日は何処で食べるの」
「ヨウジュスがデサートを食べるのならオリバーだな」
そう純一が答えると、ヨウジュスは軽く頷いてみせた。オリバーは何でもあるファミリーレストランだ。
「それじやあ三階のいつものエレベーターの前で待っているね」
そう純一が言うとヨウジュスの嬉しそうな顔が頷き画面からすっと消えて電話が切れた。
佐竹ヨウジュスは地下通路の動く歩道を500メートル程北へ行った隣のマンション群の中にある円形マンションの地下三階に住んでいる。
待ち合わせは純一のマンションの三階だから彼が来るまでには少し時間があった。
純一はメモと一緒に置かれていた夕食用のお金をジャケットのポケットに入れた。
二人で食事をしても十分な程の金額だった。
純一がたった一人で食べるはずの食事に友達を誘って楽しく過ごす事を母は知っていた。
それは彼が思いついた生活の知恵だった。
最初はヨウジュスと偶然レストランで会って一緒に食事をしたのだがそれは楽しくて二人を感激させた。
彼らはすっかり味を占めた。
そんな事を始めた頃は一人分のお金で二人で食べていたが、度重なる内にヨウジュスの母親からお礼のメールが届き母にも知れた。
純一の母はそれを知った時ふっと気が楽になった気がした。
いつも寂しい想いを純一にさせていて、すまないと思う後ろめたさが、彼女の心を重くしていたのだが、少なくとも楽しく食事を取る事を自分で工夫した事は、彼女にとっての一つの重荷を下ろさせた。
そして、そんな時に二人が行くのは、大概オリバーというファミリーレストランだった。
純一はインターホンで母の部屋に呼びかけた。
「ちょっと遅いけど、これからオリバーで食事してくるね」
「あら、まだ行ってなかったの。そんな遅過ぎるわよ。もうすぐ9時じゃないの」
「パソコンで調べ物してると時間のたつのを忘れちゃうの。今気が付いたところなんだよ。今から急いで行ってくるね」
「純一、急いでいる所悪いけど、行く前に母さんにコーヒーを一杯入れてくれるかな」
「いいよ。だけど砂糖は脳の栄養だからダイエットも良いけど徹夜の時ぐらい砂糖を入れたら」
「あらそうなの、それじゃあ、ひとさじだけね。」
大理石に似せた人工石の廊下には分厚い絨毯が引き詰められ、通る人の足音が完全に消える様になっている。
昼の様に明るいその廊下がエレベーターホールに続いている。
エレベーターを待つ間、純一はホールの窓から外を眺めた。
そこには家の窓からは見えない方角の夜景が広がっていた。
ビルの林の向こうに色とりどりのイルミネーションが華やかに付いた遊園地の乗り物が幾つも動いているのが見えた。
ジェットコースターがピカピカと点滅しながら沢山の人を乗せてグルグルと疾走しているのが良く見えた。
その先には白いクリームで被われたケーキのような丸いドーム型の大きな建物が夜景の中にぽっかり浮いていた。
「美味そう。お腹空いちゃった。」
純一は思わず独り言を言ってしまい、慌てて回りに誰か居なかったかと後ろを見まわしたが誰もいなかった。
三階のエレベーターの前で暫く待っていると、やがてヨウジュスがエレベーターから勢い良く飛び出して来た。
「今日は皆、出掛けちゃってさ。ぼく冷凍ピラフ食べていて、今日みたいな日は純一と一緒にレストランで食べればちょうど良いのになあ、なんて思っていたところたったんだ。」
と早口に言って嬉しそうににやっと笑った。
昔の事だが、日本では良質な植物タンパクである綠豆もやしを完全な栽培プラントで大量生産していた。
大規模なオートメーション設備を駆使して、一年を通し季節に関係無く計画的にもやしを栽培する工場だった。
その技術が発展を遂げてやがてさまざまな種類の作物を生産する事を可能にした。
その新しい農業技術が、二十一世紀の深刻な食料危機に対する唯一のカンフル剤として注目され期待されているのだが、事態は日に日にその深刻さを増していた。
南アメリカと中央アジア、アフリカで申し合わせたかの様に同時に始まった人口爆発に、加速度を速めるばかりの砂漠化。
その恐ろしい拡大の前に人々は絶望的な未来を見つめ、その恐怖に暗く心を閉ざして耐えていた。
さらにまた、地球温暖化による海面上昇で貴重な平地が海に沈んでしまった。
二十世紀末にはそれらの危機が指摘され、地球の危機に対して回避するさまざまな提案が多くの人々によって思案された。
しかし、結局何もかも後手に回り、何もしなかった訳ではなかったが、結果として何もしなかったに等しかったのだ。
海に沈んでしまった平地は二度と元には戻らないのだ。
せめて、砂漠化した広大な砂漠を少しづつでも農地や緑豊かな森林に蘇らせて行かなければ、食糧危機が音も無く忍び寄り、さらに多くの人々の命を奪いつづける事だろう。
地球はやがて何も生み出せない不毛の星になり、死に絶えるのは人類だけに留まらず、地球という星の死が全てを静かに支配するだけになるだろう。
純一の父が言うように、日本は二十一世紀のそんな地球にあっても尚、緑豊かな国のままだ。
エジプトなど砂漠化の嵐にみまわれている国の人々から「緑の宝石」とまで呼ばれている。
海面上昇で、日本の海岸近くの平地は沈み、海が迫り美しい砂浜が全て消えてしまったが、森林に被われたこの島国の豊かな木々の緑は殆ど損なわれなかった。
さらに、この百年程、米は毎年豊作を続けていた。
米に限らず農作物は豊富に生産されていた。
農業は、一時的に後継者不足からその光を失いかけたが、近代的な農業の技術が進み、個人農家から農業団体へその中心組織が移行した。
今では昔の様に農家の老人や婦人達に過酷な重労働を強いるばかりの、零細な農作業とは決別し、大規模農業プラントとして生まれ変った。
不毛の土地を最良の耕地に改良して行く技術や、効率よく楽に収穫する為の品種改良などで、長い年月をかけて、こつこつと積み上げてきた研究や、さまざまな試行錯誤の成果が、優れた研究者や技術者の熱意と多くの作業者の努力と情熱に支えられ、農業を発展させて来た。
父の仕事はその最高の日本の農業技術を駆使して、回り続け止まらない砂漠化の歯車に、歯止めの楔を打ち込む事だった。
父は仕事で世界中を絶えず移動している。
「根っこの無い孤独な流離い人だよ。」と自分の事を好んでそう人に話すが、そう言う割にはエネルギッシュに情熱的に仕事をしているのだった。それはただ勤勉な仕事人間だからではない。
自分の仕事が好きで好きでたまらず、仕事をするのが楽しくてならないのだ。世界中のさまざまな土地へ行き、色々な事を経験するのは大きな楽しみに違いない。
しかし、この大都会の狭間で生きる純一には、どこか自分の知らない遠い国々で、どんなに沢山の人々が飢え、まさに惨い死に瀕していても、何の実感も持てず、それを想像する事すらできなかった。
美しい緑の宝石の様だといわれた自分の国の豊かさを感じさせるものが身の回りの何処にも見出せなかったから、純一には全てが遠く無縁の存在として感じられるばかりだった。
父は何時も遠かった。もう何年もの間、めったにこの家には帰って来なかった。
( 続く )
2013年10月27日(日) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (1) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (1)
都市は地下深く何層もの広がりを絶えず続けていた。
純一が住んでいる高層マンションの地下にも円形広場があり、小川の流れが小さな滝となって落ちている先に、レースの様な水の輪が絶え間なく吹き上げている噴水があった。
そこは遠い昔のロココ風のヨーロッパの庭園などを連想させた。
その広場から続く、葉の茂った植木が並木道の様に並ぶ、長くほの暗い幾筋もの通路に、動く歩道がくねくねと銀色の鈍い輝きを放ちながら、地の底を這い回る大蛇の如く身をくねらせていた。
その道筋のあちらこちらにビルの入り口に通じるエスカレーターやエレベーターが点在していた。
純一は何処へ行く時でもまずこの地下広場まで来る。
そして目的地に応じて進む通路を選び、固い鱗が冷たく光るその大蛇の背中に飛び乗ると、ずるんずるんと重く地を這う音の響く、すべすべした表面の感触を足の裏に感じながら、足摺をして器用に小走りする。
少年の行く所はそう幾つもあるわけではないので、選ぶ通路は限られている。
友達のヨウジュスの家に行く時は、隣のマンション群へ向かう通路を進み、総ガラス張りの八角形の東屋の様な降り口から、乗り慣れたコバルトブルーの手すりのエスカレーターで更に地下に降りる。
その降り口のある広場は氷の国を思わせた。
全ての物が透明の様に見えるのだ。
本当はごつい鉄骨の骨組みが床や柱や壁の中を通っている。
さまざまな電気配線やケーブルなどが天井の内部を埋め尽くしているはずなのだから、透明に見えているだけで、本当に透けているわけではない。
さらに青い照明が強くなったり弱くなったり不規則に揺れ、氷の艶やかな虹色を帯びた幻想的な表情を際立たせていた。
この広場で純一は友達と待ち合わせたり別れたりする。
ずっと小さい頃から見慣れた所だが、前人未踏の秘境に漂う神秘の霊力が満ちている様でとても気に入っていた。
その広場の隅には、タロット占いをする老女がいた。
いつも決まった時間になると、彼女は薄い天幕を張った衝立の中の折り畳み椅子に座った。
そして客が近づくと、「さあ、こちらへお掛けなさい」と中から声を掛けて客を衝立の中へ迎え入れ手元のランプを点ける。
すると、天幕の中に黄色い光が溶け、それは夜の河をたゆとう小船の様に見えた。
幾度となくその光景を見るうちに、純一はいつしかタロット占いに興味を持つようになった。
その小船の中に入って見たい好奇心か、占いで知らない自分の未来を知りたいのか、自分でも良く解からないのだが、純一を引きつけるのだ。
その広場で純一はヨウジュスと待ち合わせていた。
二人は今日こそタロット占いをしてもらうつもりだった。
ヨウジュスは約束の時間より少し遅れて現れた。
「やあ、ごめん。待たせちゃって」
「僕も、さっき来たばかりだよ。どうせ、今お客が入ったばかりだからしばらく待つ事になるよ」
「純一、あんまり色々聞くなよ。答えが多いとそれだけ料金が高くなるからお金が足りなくなるぞ」
「ああ知ってるよ。最初にお金がこれだけしかないんだって見せて、その分だけ占ってもらう事にするのさ。そうすりゃあ、後で困ったりしないですむと思うな」
「頭良いねえ。さすが」
衝立の中にいた若い女性が出て行ったので、純一達はその小船の様に見える占いの店の前に進み、幕に手を掛けて占い師が入るようにと自分達に声を掛けてくるのを待った。
しかし、ちょっと沈黙が続いた後、さらさらと衣擦れの音がして、ぱらぱらっとタロットカードが硬い床に落ちた。
それに続いて占い師の体が崩れ、ランプを押し倒した。
純一とヨウジュスは反射的に飛び込んでその体を支えた。
そうしなければ、彼女はそのまま椅子から転げ落ち、頭から床に叩きつけられていたに違いなかった。
「わあ、どうしたのですか」
「しっかりして」
衝立を押しやり、二人は占い師の老女の上体を支えながら呼び掛けた。
遠のきつつある意識の中で彼女は腰のベルトに付いている鍵を震える指で探り、純一に示した。
「手を、手をかして」
「解かった。この鍵だね。どうするの」
「椅子の下の、トランクの中に」
「ヨウジュス、誰か呼んできてくれ」
純一は彼女の言葉を聞きながらもヨウジュスに頼んだ。
すると、占い師は眉を寄せて首を振り言葉を搾り出した。
「どうせ、間に合わない。さあ、この鍵で開けて。あなたに託したい物があるの」
彼女は純一の手をとって鍵をその手の中に押しこんだ。
ヨウジュスは純一に彼女をまかせて、人を呼びに行った。
通りすがりの人々は迷惑そうに足早に立ち去り駆け寄る者など一人もない。
「さあ。この鍵で開けて中にカプセルがあるのよ。それを出して」
純一は頷くと占い師の足元からジュラルミン製のトランクを取り出し、鍵を開けてラグビーボールの様なカプセルを取り出して彼女の手元に差し出した。
「はいこれだね。これをどうすれば良いの。大事な物なんでしよう」
「このカプセルには、大事なオオルリの卵が入っている。孵化のオートプログラム解かるわね。この中の卵があと一週間で雛に雛に・・・・・。ああ、お願い、お願い」
「しっかりして、おばあさん。このカプセルは僕達がちゃんと預かって、雛が孵ったら世話をすれば良いんでしょ」
「ああ、お願い。オオルリ、オオルリの卵は生きているの。その卵は生きた宝石。誰にも言ってはいけない。秘密を守ってあげてね。可愛い私の小鳥を」
「解かった。僕、矢島純一。おばあさん、名前は何て言うの。何処に住んでいるの。家族の人を呼ぶから。しっかり、名前は」
「腰にもう一つ鍵があるの。この上のコスモビルの屋上に……」
そこまでしか声が出なかった。
後はかすかに唇が震え、口の中で舌が縺れた。
純一の腕に預けた体の重さが更に増したようだった。
そこへ救急隊と警察官がやっと駆けつけて来た。
彼女は意識不明に陥っていたが、救急隊員によって救命の処置が素早く行われた。
彼らは手際良くストレッチャーに彼女を乗せると、緊急用のエレベーターに引き入れた。
占い師は救急隊と共に去り残された椅子や天幕は隅に無造作に押し遣られ、ジュラルミンのトランクは警察官が持ち去った。
そして純一の手には、彼女から託されたカプセルと一昔前の時代の物のような古めかしい鍵が一つ残された。
ヨウジュスは床に散らばったタロットカードを全部拾い集めて、隅に押しやられた天幕とランプを引きずり出した。
「純一、この荷物、僕が預かるよ。運ぶのを手伝ってくれ」
「勿論さ。そしてあの人の身元を調べなくてはならない。知り合いの誰かに知らせなきゃ」
「その鍵をおばあさんから託されたのだからね。ちゃんと約束は守らなくちゃな」
純一とヨウジュスは両手いっばいに持てるだけの荷物を持って、とりあえず直ぐ近くにあるヨウジュスの家へ運ぶ事にした。
その広場の中央にある降り口からエスカレーターに乗り、更に地下へ降りて行くのだ。
地下三階のヨウジユスの家はドーム型の広い円形で、総ステンドグラスの玄関ロビーを中心に、部屋のドアがぐるりと並んでいた。
ヨウジュスは玄関ロビーに荷物を下ろし、まだ残っている荷物を取りに広場へ戻った。ところが、置いてあった折りたたみ椅子は既に誰かに持ち去られてしまっていた。
「しまった、交代で運べば良かったよ。本当にすぐ側だから急いで戻れば大丈夫だと思ったのが甘かったなあ。ちくしょう」
「まあ良いさ。それより早く君の部屋へ行こう。君が助けを呼びに行っている間に凄い事があったんだよ」
悔しがっているヨウジュスにそう言うと、先に立ってヨウジュスの部屋に入って行った。そして、ラグビーボールとしか見えないジュラルミンのカプセルをそっとテーブルの上に置いた。
「オオルリの卵だって」
「へえ、これがカプセルかい」
ヨウジュスは半信半疑でカプセルを手に取り眺め回した。そのカプセルはパールの虹色がかったブルー・グレーのメタリックで手にすると殆ど重さを感じない位軽かった。
表面の固さから卵の殻を持っているような感じがした。だが例えば少年などが抱えれば、洒落たラグビーボールに見えた。
純一は老女が息絶え絶えに頼んだ言葉をなるべく正確に思い出しながらヨウジュスにその時の事を説明した。
ヨウジュスはカプセルを優しく撫ぜながら呟いた。
「生きた宝石か。オオルリ。オオルリかあ。何処かで聞いたような名前だな」
「本当かい。君のコンピューターで調べてみようよ」
ヨウジュスの部屋の天井は、ちょうど薄日が差す空の様に透明で水色に淡く輝いていた。グラスファイバーを通して太陽光を地下三階まで引き入れ、高い天井全体から部屋中へ放出しているのだ。
地下とは全く感じさせない開放感のある部屋だった。視覚的には屋外だが、本当は地下三階なのだと知っている事で、絶えず精神的な圧迫感を無意識に感じ続ける。
それが精神的ストレスになり、長年の間には感覚障害を引き起こす事もあると言われていた。
だが、ヨウジュスはずっと先に起こるかもしれない感覚障害など少しも気にならなかった。どんな大掛かりなバーチャルゲームでも可能な広さに満足していた。
「そっちはだめ。いま新しいゲームをスタンバイ中なのさ。こっちに来てよ」
コンピューターのデスクに近寄ろうとした純一を制して、ヨウジュスは先に立って広い部屋に張られた生成り木綿の大きなテントの中に入っていった。
テントの奥には低いベッドに羽根布団やタオルケットがぐしゃぐしゃに丸められ、色々な物が乱雑に足の踏み場もない程一面に広がっていた。
「ちょっと待ってくれよ。こっちのを使わないといけないんだよ」
「あっと、なんか踏んじゃったよ。大丈夫だったかなあ。ああ良かった。バリッて音がしたから焦ったよ。空箱だったぜ」
純一はプラスチックのケースを拾い上げて微笑んだ。
「えーと、あったあった。このパソコンを探していたのさ」
ヨウジュスはそんな事にはお構いなしで、ノートパソコンをベッド脇の枕の下から取り出して、さっさとテントから出て行ってしまった。
純一は潰れたケースを後ろへ投げ、体の向きを変えようと足を置く所を探したが片足が安定良く置けずにバランスを崩し尻餅をついた。
「痛たた。やれやれだぜもう、やんなっちゃう」
「純一、オオルリのページがあったぞ。早く来いよ」
ヨウジュスの呼ぶ声が遠くに聞こえた。純一は自分の足の回りのガラクタを脇へ寄せてやっとの事で立ち上がった。下には固いブーツの片方があった。
ヨウジュスはソファーに深く腰掛け、ひざの上にノートパソコンをのせて見ていた。
「オオルリはとても珍しい野鳥だよ。現在絶滅したかどうか不明らしい。もしかしたら日本の深い山の何処かに生息している可能性は残っていると書いてあるね。凄いぞ。とっても綺麗な小鳥だよ。純一、これは凄い値打ち物だよ」
「どれどれ、見せてよ」
純一はヨウジュスの隣に腰掛け、その画面を覗き込んだ。オオルリはその名のとおり、雄は頭から背中、そして翼と尾羽が何れも艶々とした瑠璃色で、顔から胸は黒、腹部は白の、非常に美しい色の小鳥だった。
日本全国の山地に生息していたヒタキ科の野鳥だ。各地の深い山でハイカー達の目を楽しませていたのは二十世紀末までで、今ではもう何十年も姿を見せなくなっていた。
最近では既に絶滅したと主張する研究者さえいる。そんな貴重なオオルリの卵の入ったカプセルが目の前のテーブルの上に置かれているのだ。二人は暫くの間カプセルを見詰めた。
「これは僕達だけの秘密だ。絶対誰にも言っちゃだめだよ。あの人から預かったんだからね」
純一はヨウジュスの肩に手を掛けて真剣な眼差しで彼の顔を覗き込んで言った。ヨウジュスは嬉しそうに目を輝かせた。
二人はカプセルをヨウジュスの部屋のクローゼットの中に隠して、老女が言ったコスモビルという建物に彼女の家を探しに行くことにした。
コスモビルはヨウジュスの住んでいるマンション群の中にある最も古い高層マンションだった。入り口は地下一階にあり、その地下ロビーが形ばかりのセキュリティーゲートになっている旧式のマンションだった。
ドアの前に立つと目の前のドアが両側に開き、純一達を迎え入れた。
最上階の三十階まではエレベーターで上がる事ができたが、その先は最上階の住人達専用の広いテラスの隅から螺旋階段が屋上まで続いていた。
純一とヨウジュスはその螺旋階段を二段抜かしで勢いをつけて駆け上がった。
彼女の家はそのビルの屋上だと思っていたが、その屋上には住宅としての部屋など無かった。純一は鍵を渡された時、彼女が言った言葉をもう一度思い返してみた。
「コスモビルの屋上に……」と、まで何とか言葉を発したが、その後は声にはならず、実際にはその後に続く言葉を聞いた訳ではなかった。
だが、あのような状況ではその辺の事をしっかり押さえる事はできなかった。純一は話の流れからコスモビルの屋上に彼女の住まいがあって、その部屋の鍵を渡されたのだと頭から決めてかかっていたのだった。
「昔、誰かが花かなんか作っていたみたいだけど、今はからからに乾いているね」
「わあ、何だか枯れた植木や草で廃墟みたいじゃない」
「ちょっと行ける所まで行って見ようか」
「気味が悪くなってきたよ。こんな所にいったい何があるのかな」
純一は背丈ほどもある枯れ木や生い茂ったままカラカラになった潅木の間で先へ進むのを躊躇していたが、ヨウジュスはそんな純一に構わず先へ進んでいった。
「純一、来てごらんよ。何かな、何かあるみたいだよ」
やがて、かなり離れた所からヨウジュスの声が聞こえてきた。純一は声のする方に進んで行ったがすぐに、うっそうとした植え込みに阻まれて袋小路にはまってしまった。
何という事だ。背伸びをしても茶色に干からびた植木が目の前に立ちはだかり、自分が何処にいるのかさえ解からないのだ。
袋小路を抜けるには戻って道を探す以外に無い。
「ヨウジュス、そっちに行きたいんだけど道が迷路になっていて迷ってるんだよ」
「純一何処にいるの」
「ヨウジュスの近くへ向かっているはずなんだけど、また行き止まりだ。嫌になるよ」
「今度来る時はいまいましいこの枯れ木を切り倒す道具を持ってくるぞ」
「ヨウジュス、やっと近くに行けそうだよ」
「近くに来てないよ。声が前より遠くなっていくぞ、純一」
純一はヨウジュスの待っている地点を目指したが、植えこみの迷路は恐ろしく複雑さだった。
段々時間の経過と共に心細くなってきた。純一は闇雲に迷路の中を駆け回った。
やっとの事でヨウジュスの姿を見出だした時には、不安と緊張のため純一の顔はすっかり強張ってしまっていた。
「純一、遅かったね。僕本当にどうなる事かと思ったよ」
ヨウジュスも純一を見るなり駆け寄り真顔で言った。
二人の前にはツタですっぽり被われたコンクリートの壁があり、背の低い小さな金属の扉が見えていた。
取っ手の下に鍵穴が開いていた。純一は急いで老女から預かった鍵をポケットから取り出して、その鍵穴に差してみた。
鍵はスルリと回りドアが開いた。二人は顔を見合わせた。
( 続く )
2013年10月26日(土) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (2) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (2)
純一は身を屈め入り口から暗い内部に頭を突っ込んだ。
すると照明が自動的に点いて、二人を導き入れる様に、内部を明るく照らし出した。純一は中に足を踏み入れた。純一に続いてヨウジュスも中へ入った。
直ぐに階段が十段ほど下へ続いていた。階段を降りると細い廊下が右手に続いていた。長い廊下の突き当たりに鉄の扉があった。
純一が恐る恐るドアの取手に手を掛けると、ドアはきしみながらゆっくり開いた。円形の部屋の中央の大きな丸い天窓から日差が部屋いっぱいに差し込んでいた。
ずっと以前にはこのマンションの管理システムの設備がここにあったのだろ。今は使われていない機械の一部が壁に残されたままになっていた。
部屋の中には誰もいなかったが、ついさっきまで誰かいたような感じがした。この部屋でコーヒーを飲んでくつろいでいたのはあの占い師だろうか。テーブルの上のマグカップの底から、飲み残したコーヒーがほのかに甘く香ばしい香りを放っていた。
部屋の奥にまた一つドアがあった。純一は奥のドアを開けた。重たい鉄のドアがきしみ鈍い音を立てて開き、広い空間が目の前に広がった。
等間隔に並んだ丸い天窓から穏やかな春の日差しが降り注ぎ、床に円形の日溜りを幾つも作っていた。
その広い床には色々な形の沢山の篭が天窓からの光を浴びて並んでいた。急に小鳥がさえずり出した。見た事のない色々な種類の小鳥達が篭の中から訝しそうに二人を見詰めていた。
「純一あの人が飼っている小鳥達だよ」
「小鳥が心配だったんだね。僕に頼みたかったのはこの小鳥だったんだ」
「管理人には内緒だね。ここはあの人がこっそり小鳥を飼うために無断で使っている所なんだと思うね。秘密の隠れ家だよ」
ヨウジュスは鳥を眺めながら目を輝かせた。純一はつぶらな瞳でもの言いたげに自分を見詰める無邪気な小鳥達を見ている内に切なくなってきた。
あの老女はもうこの小鳥達の世話をしに、ここに来る事はできないに違いない。
あの時純一がこの部屋の鍵を預からなかったら、この小鳥達は飢えと乾きに苦しみながら、来る事のない老女をひたすら待ち続けて、悲惨な死を迎える事になっただろう。
「この鳥の部屋の事、他に知っている人はいないのかな」
「どうかな、純一と僕だけって事かもね」
ヨウジュスは嬉しそうに言い、篭を覗き込みながら小鳥のさえずりの口真似をして口笛を吹いた。
その時、どこからか一羽の小鳥がひらりと舞い降りて純一の肩先に止まった。それは濃いブルーと薄紫色と白の美しい色合いの小鳥だった。
「あっ、びっくりした。小鳥だ」
「えっ、やあ、本当だ。この小鳥は何で篭に入っていないんだろね」
ヨウジュスは純一の肩に止まった小鳥を見て楽しそうに上機嫌で顔を綻ばせた。近寄って観察していると、今度はヨウジュスの頭に飛び移ってくるくるっと回った。
「なんか慣れてるな。この鳥は手乗りだよ」
「ヨウジュスの頭の上のほうが良く見えるよ。ちょっとじっとして良く見せてね、かわいいなあ。連れて帰って良いかな」
純一がそっと手を出すと、小鳥は何の躊躇も無くその手に乗ってきた。
「毎日餌と水をやりにここへ来てあげようね。でも、この手乗りのチビちゃんは連れて帰りたいな」
「この小鳥を運ぶ入れ物を探そうかな」
純一達は小鳥など飼った事は無かったが突然小鳥達の世話をする羽目になってしまった。だが無邪気で愛らしい小鳥達の魅力に極自然に魅せられて行った。
小鳥の部屋で手乗りの雛のための篭を見つけた。それは篭と言うよりも雛用の藁で円筒形に編んだ巣のような物だった。純一はその篭に手乗りの小鳥を移して連れて帰った。
そして早速、小鳥についてコンピューターで調べた。その小鳥はセキセイインコのオパーリンバイオレット種という宝石のオパールに因んだ名称の小鳥だった。
まだ巣立ったばかりなので、雛の面影を留めていたが、すでに充分美しかった。成長すれば更に色鮮やかに羽根が生え揃いその名にふさわしい魅惑的な小鳥になるに違いなかった。
「綺麗な小鳥だなあ。鼻の色が薄紫だから雄だな。きっと凄い美男子になるぞ」
純一はまだ幼い小さな小鳥を掌にちょこんと乗せて語り掛けた。小鳥はそんな純一を見詰めてピューと鳴いた。
「名前をつけてあげようね。おばあさんがもうつけたかもしれないけど、その名前は今は解からないから、もう一度新しい名前を僕がつけてあげるしかないんだよ。いいよね」
純一は小鳥の細部まで観察する様に上から下から眺め回した。薄紫色にはまだグレーがかったぼやけた色が混ざっていたが、翼は既に一人前にでき上がっていた。
時々片方ずつ扇を開く様に伸びをして、黒に近い濃いグレーと白に、深みのある濃い青と薄紫の、繊細なモザイク模様のような翼を広げて見せてくれた。
「この子の翼の色はオパールというよりもラピスラズリとい紫がかった濃い青の宝石の色を思い出させるみたいなきがするよ」
純一は宝石のファイルをコンピューターの画面に出して、ラピスラズリのページを開いてみた。
「そうだ、ラピスラズリからとってラピスにしよう。ラピス、ラピス。いいかい、君はラピスだよ。この名前気に入ってくれるかい」
小鳥は純一の問い掛けに首を傾げて、ピユゥと鳴いてみせた。それが純一とラピスの出会いだった。
コスモビルの屋上の隠し部屋のテーブルの上に、老女が急病で救急センターに運ばれた事を書いて置いておいた。
純一達以外にその部屋を訪れる人があるとすれば、それは、彼女の親しい知り合いか家族にちがいない。そのような人がいるのなら彼女の事を早く知らせたいと思った。
彼女はまだ意識不明のままだと、警察に問い合わせて知る事ができた。早くしなければ間に合わない。とにかく、連絡をとりたいと思ったからだった。
地下広場の占の店が出ていた場所の壁には尋ね人のメッセージが張られていた。ここで占をしていた老女の身元を知っている方は警察に知らせて欲しい、という内容の物だった。
純一達もその張り紙の隣にノート一枚ほどの大きさの簡単なメッセージを張ってみた。小鳥の事には触れず占い師の身内の人は知らせて欲しいとだけ書いた。
小鳥の隠し部屋の事は彼女の秘密だったから絶対に秘密にしようとヨウジュスと決めていた。屋上の植え込みの迷路もその迷路に隠された扉も絶対に秘密だった。
オオルリの卵のカプセルは秘密の中の秘密だと二人はお互いに約束した。どんな事があっても絶対に誰にも言わないし見せない事にした。
だが純一が連れて帰った小鳥の存在は全く秘密という訳にはいかなかった。純一の母にはとりあえず友達に頼まれて預かった事にした。
二人はコンピューターで手乗りのセキセイインコの育て方を詳しく調べた。コンピューターはどんな疑問にも完璧に答えてくれたので、純一達は直ぐに小鳥の事なら何でも知っている優秀な飼い主になる事ができた。
小鳥は病気もせずにいつも元気で楽しげだった。その小さい体全体が好奇心の塊の様だった。色々な物に興味を示して突っついたり噛み付いたりよじ登ったりした。
小さな物を咥えて転がしたりして遊んだ。また、純一の手元の物に飛びついたりして邪魔をした。どんな悪戯も無邪気でその仕草は愛らしかった。
純一が朝寝坊をしていると、ばたばたと篭の中で暴れて、 「ピョロン、ピョロン」と大きな声で呼んだりした。
純一はその悪戯な小人のためにちょっと大きめの鳥篭を買い、その中に色々な面白い玩具を手作りして入れてやった。
そんな純一の気持ちを知ってか知らずか、新しい玩具を最初はちょっと遠くから眺めて過ごした。
半日ほど眺めた後、少しずつ近づいて、そっと小さな手を延ばし、恐る恐る触ってみては、首を傾げたりした。
やがて大胆に突っついたり、足を掛けて揺り動かしたりして、夢中になって遊び始めるのだ。
「ラピスったら小さな頭で考え込んでみているんだよ。首を傾げちゃってさ、これはいったい何だろうってね。その仕草がね、すっごく可愛いの。」
ヨウジュスにラピスの様子を話すのが純一の日課になった。
オオルリの卵のオートプログラムは占い師の老女が言い残した通り、一週間後に劇的な変化を見せた。
ラグビーボールの様なカプセルの中央に小さな光りが点滅してカウントダウンが始まった。
幸運にもヨウジュスの部屋で、純一もその瞬間を見る事ができた。それは何度思い出しても感動する瞬間だった。
「純一、僕のノートパソコンにこのカプセルからメールが発信されたよ。ああ驚きだよ。ねえ、見てごらん」
ヨウジュスはテーブルの上にノートパソコンを置いて純一の方を振りかえった。
「はてな…何でだろう。何にもつながってないのに自動接続されている。まあいいや、とにかく僕を認識していたって事だね」
「あれ本当だ。カプセルオープンまでカウントダウン開始。残り時間100分だって」
「用意は良いかってきいてるよ」
「OKボタンをクリックしてと……。返事を返したらお次はどうなるのかな」
「カプセルを飼育台の上に縦に立てる……。飼育台って書いてあるけどそんな物無いよ」
「飼育台は何かの台で良いかしら。ここに無いんだから仕方が無いよね」
「テーブルでいいんじゃない。立てるのはいいけど本当に立つのかな。立ててみてよ」
ヨウジュスは純一にせっつかれて、カプセルをそっと手にとると、テーブルの中央に立ててそっと手を放した。
するとカプセルの中央から四本の細い足が四方に出て安定良く自立した。ヨウジュスは純一に微笑み掛けた。
「わお。すごいぞ。ちゃんと立った」
「ああ…足が生えたぞ、最高。早くカプセルが開くのを見たいね」
「またメールが来たぞ。このカプセルはノアと言う名前なんだって……」
ヨウジュスのパソコンに目の前のカプセルの中に存在してその機械を制御しているノアと名乗るものからのメッセージが来た。
「私ノアは親の無い可哀想な小鳥達の母親。 2090年、ドクタージードと愛娘メリーによって創られ、絶滅の危機にある可哀想な野鳥を心から愛したドクタージードの母上マダムマーガレットに贈られました。
今、この体内ではぐくんでいるのはマダムマーガレットが密猟者より保護した貴重な野鳥オオルリの遺伝子から創られた命です。
オオルリは悲しい運命の星の下に生まれる定の生きた宝石。ダイヤモンドやルビーがいつも貪欲な者達に狙われているように、オオルリは密猟者や密売人達に狙われています。
邪悪な者達の手に落ちたオオルリは狭く暗い箱に閉じ込められて、日の光りを見る事もなく、死んでも尚貴重な遺伝子に高い値がつき、その哀れな死骸が腐り、遺伝子が砕け価値を失うまで僅かな金で人から人へ売買されるのです。
あなた達の清らかな心で、この可哀想な小鳥を邪悪な者達から守ってあげてください。あなた達の強い絆で、やがて迫り来る滅びの時にも光に満ちた大空を飛翔する喜びを与えてあげてください。
マダムマーガレットの志を私の愛する幼き者達へ渡していくためにここに記す。
2100年 クリスマス 親愛なるジード家の孫達へ ノアより」
「オオルリは密猟者にいつも狙われているんだね。可哀想な生きた宝石なんだ。絶滅の危機にさらされていると言うのにね」
「あの占い師のおばあさんはこのジード家の孫かその一族に関係のある人なんじゃないのかな……」
「2100年だってさ。何でそんなに昔のオートプログラムが今進行中なんだろう。大丈夫かな、本当に生きているのだろうね」
「それは大丈夫だと思うな。ノアはきっと長い間小鳥の孵化のために繰り返し使われてたのだと思うんだ。ほら、何だっけこう言うの古時計みたいな機械の事」
「古い機械……骨董品、アンティーク」
「違うよ。ほら何と言ったっけ……」
「オンボロ機械のことかい。あ、解かった。スクラップってことでしょ」
「違う、違う。そんなゴミのことじゃないのさ。もっと優れた物だよ。そうだ思い出したよ。ビンテージだ」
「ビンテージもの。あ、年代物って事ね」
「ジード家の孫達ってどんな人達だったのかな」
「2100年にノアが幼き者達と言っているのだから、100年前の時代に幼い子供だったんだから、その人達が今生きているとしたら、102歳とか107歳とか110歳位かな……」
「その孫の子供達は、例えば親子の年齢差が25歳だとしたら77歳位か85歳位だね。 30歳の年齢差では72歳位か80歳位の歳の人と言う事になるよね」
「純一、僕頭がこんがらかって来ちゃったけど、きっとそうなんじゃない。あの占い師のおばあさんは曾孫の世代だよ」
「あのおばあさん、何歳位だろう」
「さあな、おばあさんの歳なんか解からないや」
「ヨウジュス、もしかしたら、曾孫の子供かもね」
「純一の言いたい事わかったよ。このおかしな卵孵化機はさ、あのジード家に代々伝わっている由緒ある秘蔵の宝物の一つでさ。だから凄いビンテージ物だって事だろう」
「何か良く解からないけど、僕わくわくして来たよ。これからどうなるのかしら」
純一とヨウジュスはじっとテーブルの上に置かれたカプセルが変化するのを見守った。
やがて、縦に立ち上がったカプセルの真ん中から周囲に裂け目が走った。
「あっ、ヨウジュス。カプセルが開くぞ」
純一がソファーから飛び上がった。
「純一、座りなよ。驚くだろう」
二人は身を乗り出して次の変化をみつめた。裂け目から上半分のカプセルが四方へ放射状に開いて、中心部に透明な球体が現れた。
その中にまだ雛としての姿も定かでない小さな虫のような生き物が柔らかなクッションの窪の中で動いていた。
球体の中は孵化したばかりの雛に合った環境に設定されていて、親鳥の暖かい羽根の中にはぐくまれているのと全く変わらない様に保温されていた。
「オオルリの雛だ。ちゃんと生きているね。良かった。ほっとしたよ」
ヨウジュスは透明な球体の中を覗き込んで目を丸くして言った。
「ちっちゃいな。どうしよう。ヨウジュス、僕達にこんな小ちゃな雛、育てられるかな」
「ノアが育ててくれるよ」
「ノアが育てるって……どうやってさ」
純一はちょっと不安そうな顔をヨウジュスに向けて言った。
「そうだ。さっき僕のパソコンに届いたメッセージに返事を出して聞いてみようよ」
ヨウジュスはノートパソコンを膝の上に乗せて暫し考えた。
「よし、やってみよう」
ヨウジュスはメッセージを書き始めた。
「ノア、卵がかえったけどどうしたら良いのか解からないので教えてほしいのです。僕達はジード家の孫達ではないので小鳥の雛を育てた事がありません。
雛の育て方を何も知らないのです。どうかどうしたら良いか教えてください。ヨウジュスより」
「ノアが答えてくれるのを祈って、送信」
するとテーブルの上のカプセルの放射状に開いていた外側が花が閉じる様に半分閉じた。ヨウジュスのパソコンにノアからのメッセージが届いた。
「ヨウジュスはじめまして、私はノア。オオルリの雛の育て方を教えますが、その前にどうか私の問いに答えてください。ジード家の孫達はどうしたのですか。
なぜヨウジュスがノアを持っているのですか。私はなぜここに来たのですか。教えてください」
ヨウジュスはパソコンのキーを叩いてノアの質問に答えた。
「僕はジード家の孫達の事は解かりません。このノアは一週間前に、占い師のおばあさんから僕と友達の矢島純一が預かったのです。
占い師のおばあさんがジード家の孫かどうか僕には解かりませんが、彼女が急病になった時、偶然側にいた僕達に小鳥の雛を育てて欲しいとこのカプセルを託したのです。それで、僕の所に持って来たのです」
「純一、この文章で解かるよね、良し。送信」
二人がじっとノートパソコンをみつめているとノアからメッセージが届いた。
「ヨウジュス、ノアの問いに答えてくれてありがとう。ジード家の孫達からオオルリの雛を託されたあなた方へ、この雛の育て方を教えます。
雛の産毛が乾き、自分で頭を上げて口を開けてピーピーと鳴くようになったら小さい雛のための餌を与えます。
雛を覆っているシェルターを外して、スポイトで液状の餌を可愛い口に流し込むのです。次に餌の作り方を詳しく教えます……」
「純一、大変だ。僕達が雛を育てるんだよ」
「ヨウジュス、はじめから育て方を聞くからだよ。育ててくれってたのんじゃえば良かったのにさ。僕達にちゃんとできるかな。うまく育てられるかとっても心配だよ」
「よし、それじゃあその事を相談してみよう」
ヨウジュスは再びメッセージを書いた。
「ノア、僕達はこんな小さい雛をちゃんと育てられるかとても心配しています。育てる自信がありません。もっと良い方法はないのですか」
ヨウジュスの問い掛けにノアから返事のメッセージが届いた。
「解かりました。心配はいりません。ノアがあなた達を助けてくれる人を探します。連絡がついたらノアの所に来てくれるでしょう」
ヨウジュスと純一はノアの不思議なメッセージを見て顔を見合わせた。
「何だこれ……」
「ノアが僕達を助けてくれる人を探して、ここに呼ぶのか……」
「来てくれるでしょう。と言う事は、そうなんじゃないの」
「いったい誰が来るのさ」
「さあね。とにかく誰か来るらしいぞ」
翌日、ヨウジュスの家に一人の見知らぬ少女が訪ねて来た。
( 続く )
2013年10月25日(金) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (3) |
第二章 秘密 2201年 東京春 (3)
純一は雛の飼育に消極的で頼りない自分達の為にノアが誰を呼ぶのか気になったが、唯何もしないでその到着を待っている訳にもいかないと思った。
暫くの間雛をヨウジュスに任せて、純一はコスモビルの屋上の小鳥達の部屋に来てみた。
小鳥の雛を育てる為に占師の老女が使っていた道具か、孵化間近になった小さな命の為に用意した餌か、役に立つ物が何かないか探してみようと思ったのだ。
孵化したばかりの雛の口に餌を上手に入れてやる為にはそれ専用の道具を使った筈だ。
純一は毎日のようにこの隠れ部屋に来て、小鳥達に餌を与えていたが、あの雛の姿を見るまでは小鳥の餌と言えば細かく固い雑穀類のことだけだと思っていた。それ意外は想像していなかった。
だが、今はそんな固い雑穀類など、孵ったばかりの雛には決して与えてはならないという事を教えられるまでもなく直感していた。
純一はふと棚の上に目が止まった。隅の空き箱に口の細い薬のチューブのような物が何本も入っていた。
純一はその箱をテーブルの上に下ろして、チューブを手に取りキャップを開けてみた。
ノズルのような口からペースト状の黄緑色の物が飛び出し、ぽたりと靴の上に落ちた。青臭い臭いが鼻をついた。
「これだな。さすがだね。僕って冴えてる。あっと言う間に見つけたぜ。けど、あっと言う間に汚れちゃったよ。やれやれ酷い臭い」
純一は箱の底に一片の古ぼけた紙切れを見つけた。それはその使い方が書かれたメモ書きだった。
「お湯で暖めるのか。よし、わかったぞ。もう大丈夫だよ。ノアの孫達の代わりに僕達がオオルリを育てなくちゃいけないんだ」
純一は一つ一つ鳥篭の中を覗き込んで小鳥達の様子を一羽ずつ見て回った。小鳥達はつぶらな瞳を輝かせて、近づく人の気配に待ちわびた人の出現を待っていた。
しかし、見慣れない少年の姿に、じっと身を硬くして身構えたり、伸び上がって鋭く鳴いたりした。
「ここにいる小鳥も絶対僕達が守るんだ」
翌日の朝、純一はヨウジュスからの電話で起こされた。
「純一、驚いたよ。ノアが呼んだこがもう来てるんだよ」
「ノアが呼んだのは子供なのか」
「そんなに小さなこじゃないよ。凄く可愛いの、心臓がもうドキドキ」
「はあ、可愛い子。ヨウジュスったら。待ってろよ。待ってるんだぞ。今行くから」
純一は部屋を飛び出しヨウジュスの住んでいるマンションまで走った。
にこにこしているヨウジュスの側に見知らぬ少女が二人ちょっと恥ずかしそうにはにかみながら立っていた。
「私はレナ・ラスコール。お友達のミュー・リンガちゃん。彼女、一緒に来たんだけどかまわないわよね」
純一達は思いもよらない展開にちょっとびっくりした顔をして少女達の顔を見つめた。
レナ・ラスコールはサラサラとしたボブカットの黒髪から黒いメタリックのヘッドホンを外して華奢なうなじに引っ掛けた。
その手首に銀のバックルが三個付いたごつい黒革のリストバンドを付け、首に銀のチョーカーをしている。
ぴったりと体にはりついた様に見える黒い半袖シャツに黒いミニスカート、ソックスもヒールの高い革靴もやはり黒で揃えている。
全身黒ずくめできめた装いに、すけるような肌の白さが際立ち、黒い瞳がきらきらと光っていた。
「ミュー・リンガです。レナちゃんに誘われてついて来ちゃった。よろしくね」
レナ・ラスコールの腕にもたれる様に手をからめたままで、ミュー・リンガはいたずらっぽくヨウジュスに流し目をおくった。
彼女は極薄いジョーゼットのふわりとしたワンピースを着ている。
ハイネックの襟は首の後ろで大きな蝶結びになっていて、しなやかな薄紙を何枚も身にまとったペーパードールの様に淡い色が透けて見えている軽いドレスが彼女のちょっとした細かな身動きにさえ、ふわりふわりと揺れて、まるで妖精のように見えるのだ。
肩に掛かった緩いウエーブの艶々した長い髪を指ですくって後ろへ跳ね上げて軽く頭を揺すった。
「僕は純一。始めまして、よろしく。こっちは友達の佐竹ヨウジュス。あ、もう紹介は済んでるかな。勿論そりゃあ、僕達はさ、本当に全然かまわないよ。手伝ってもらえれば本当に助かるよ。」
「それで、ベイビーは何処なの。ベビールームかしら」
レナ・ラスコールがヨウジュスの広い部屋を見渡して尋ねた。
純一はヨウジュスに目配せして、どう返答すべきか解からない戸惑いを伝えようとした。
ヨウジュスは先に立って少女達を部屋の奥へ導いた。純一は後からついて行った。
そこには占師の老女が使っていた薄い天幕が張ってあった。その中にはテーブルが置かれ、その上に雛の入ったカプセルがセットされていた。
照明が中に灯ると天幕全体がちょうちんのように淡く光り、メタリックなカプセルが照らし出された。
「ベイビーさ。カナリアの雛なのさ。可愛いだろう」
「あら、どうしましょう。こんなに小さいベイビーは初めてよ」
「レナちゃん。ミューは小鳥飼ったことあるよ」
「え、ミューちゃんほんとう。知らなかったわよ」
「そりゃいいや」
「でもでも、こんなに孵ったばかりの見たの初めてよ。小さいねえ」
「でも小鳥には違いないから大丈夫だよ。僕の手伝いしてくれるかい」
ヨウジュスがミュー・リンガの顔を覗き込んで優しく微笑んで言った。
「そうね。解からなかったらノアに聞けば良いよね。ヨウジュスどうすればいいの」
ヨウジュスは嬉しそうにミュー・リンガに餌のやり方を説明し始めた。オオルリの雛は無事育ちそうだった。
これから滅多に見れない野鳥の成長が観察できるようだが、同時に、ヨウジュスとミュー・リンガの寄り添った後姿に、半ば強制的に別の観察もさせられるのだと、純一は思わず深い溜め息をついた。
「純一君、私ね喉乾いてるの。ちょっとさ。ベビーはミューちゃんとヨウジュスに任せて私達は何か飲み物とスナックを買いに行こうよ。そうねケーキも買おうか」
レナ・ラスコールが純一の手を取って自分の方へ引き寄せると、そのまま彼を出口の方へ引っ張った。
純一は背中を向けているヨウジュスに声を掛けたが彼は振り向かなかった。
( 続く )
2013年10月24日(木) |
第三章 山間の町 2202年 春 (1) |
第三章 山間の町 2202年 春 (1)
桜の開花が待たれる四月になっても、山間の町はまだ春浅く、遅咲きのしだれ梅や紅梅がやっと咲き始めたところだ。
白梅は木によっては早く、二月頃からちらほらと咲き始めるが、この山間の町が梅の香りにすっぽり包まれるようになるのは三月も末の頃だ。
その白梅にちょっと遅れて咲くのが、ぽってりと重量感のある花をつける八重咲きの梅だ。
この町の殆どの家の庭には梅の木があるが、その中でも八重咲きの枝垂れ梅は花の一つ一つがポンポン咲きの小菊のように大輪で、薄桃色の花傘の様に枝を放射状に広げた様は思わず息を飲む程の素晴らしさだ。
細かい花を枝一杯につけて燃え立つような紅梅も必ず一本か二本は白梅と並んで彩りを添えている。
その庭の外側には自生に近い野生的な白梅が随所にある。 自然の中に溶け込む様にあるがままにまかせ、枝の刈り込みなど一切しない扱い方が伝統になっているのだ。
そして、山と川とが複雑に入り組んで、くねくねと曲がりくねった細道や石垣、崖や丘などが梅の木の風情をより一層引き立てていた。
白梅は細い梢の隅々にまで花を付け、長い年月を風雪に耐えてきた樹木だけが持つ生命力を静かに湛えて、緑に茂る杉と赤茶に紅葉した檜の山々を背景に、白無垢のうちかけの裾をひいて佇む花嫁の様に咲いていた。
川は蛇行しながら西から東へ流れ、数千年の歳月をかけて深い谷を刻み渓谷を形作っていた。
町をぐるりと取り囲んでいる山々の連なりを見ると器の底のように閉鎖された感があるが、西の山々を深く深く分け入れば、やがては大菩薩峠を経て甲府へと出ることができた。
道は遥かに彼方に続いていたが、川の流れは北と南とに分かれ、その源流はその重なり合う山々の奥に消えていた。
町の東に狭い川の流れ口(谷)が唯一あり、道路も線路も川と一緒に束になってその谷沿いを東へ出て行っていた。
その道は昔は名のある古道で、今も街道として遥か東京の中心部まで続いている。 また、この町を始発駅とする旧式の鉄道が東京郊外まで走っている。
嶺岸茜(あかね)は渓谷のすぐ側の梅林の奥に住んでいた。今日は十時過ぎまでゆっくり寝ていたのだが、窓のカーテン越しに差し込む強い日差しが眩しくて、やっと起き出したところだった。
頬に纏わりついた後れ毛を指に絡めて後へ掻き揚げ、背中まで掛かる長い髪を無造作に一つに束ね、絹の造花を花束にした飾りが付いた金のバレッタでとめた。
カーテンを引き開けると、やっとほころび始めた枝垂れ梅の枝の間からさし込む日の光が目にしみた。
澄んだ大気いっぱいに光が飛び散って、辺りの空間が輝いて見えた。庭木の向こうに乳白色の梅林が見通せる。
戸棚からコーヒー豆の袋を取り出すと、テーブルの上にコーヒーミルを置き、豆を一握り入れてハンドルを回し、ごりごりと挽き始めた。
茜はゆったりと時が流れて行く休日の朝のコーヒーはこれが一番だと思っていた。挽きたての豆をフィルターを置いたドリッパーに移し入れ、耐熱ガラスのポットの上にのせた。
傍らの電気ポットの熱いお湯を注ぐと俄にコーヒーの甘い香りが部屋中に漂い始めた。茜は入れたてのコーヒーを大ぶりのカップに注ぎ、お気に入りの窓辺のソファーに腰掛けてゆっくりと飲み始めた。
ほっとリラックスした気分で庭を眺めていた茜の視界に何か見慣れない物がちらりと動いた。
「野鳥かしら」
梅林の奥にほんの一瞬見えて、おやっと思ったが、野鳥の種類は多く、めったに見られない珍しい鳥も姿を見せるのだ。
窓の側まで寄って梅林の木々越しに視線を走らせていると、重なり合った枝の間に、再び何かがひらりと飛んで、直ぐ姿を消すのが見えた。
「やっぱり小鳥、でも……」
茜はその小鳥が余りに鮮やかな色だったので驚いた。最初に見えた小鳥は白っぽかったのだが、今見えた小鳥は鮮やかなトルコ石のような水色だったのだ。
彼女は急いでコートを羽織り庭に面したガラス戸を開けて庭へ走り出て、足早に庭を抜け満開の梅の梢を見上げた。
梅林を風が吹き抜けて、梅の香が辺りを包んだが、茜の不安そうな鋭い眼差しは花どころではないといった様子だ。
また鮮やかな青い翼の美しい小鳥が梅林の枝から枝へ飛び移り花影に消えた。
「あっ。やっぱり高水さんの小鳥」 「大変。」
茜の表情に緊張が走った。
「どうしよう……」
小鳥が姿を消した方にそっと足を忍ばせて近づいて見ると、黄色や黄緑や水色などの鮮やかな色のセキセイインコが数羽枝から枝へ飛び回っていた。
「ああ、何てことなの、こんなに沢山。」
その情景に思わず仰け反った茜は暫らくその場に立ち尽くした。小鳥を見詰めながら首を横に振って声を詰まらせた。目の前の情景を受け入れ難いというように、暫し両手で顔を被った。
だが、茜は重大な事を思い出し、はっと息を飲んで身を翻した。梅林を突っ切り畑の脇の細道を走り抜け、山寄りのつづら折に続く急な上り坂を何度も躓きながら登って行った。
身のこなしの軽い茜でもさすがに息が切れて足が重くなり、登り切って高台に上がった時には足元が大きくふらついた。更に雑木林の中にだらだらと細い坂が続いていた。
林を抜けるとちょっと開けた場所に出た。 けやきの大木が二本立っている際の道を進むと、やがて大きな屋敷が藪の様に生い茂った庭木の奥にちらりと見えた。
一面に苔むした背の高い御影石の門柱が、置き去りにされ忘れられた物の様に藪のなかに立っていた。
細い石畳の小道が緩いエス字を描く様に続いていたが、深い茂みがその両側から迫って進入者を拒み続けていた。
見事な庭園だったのだろうが今は荒れ果てて藪に埋もれていた。ツルバラを這わせたらしい大きな金属製のアーチが黒く錆付いて倒れ、つる草の虜になっていた。
その屋敷は渓谷を望む高台に建つ古い洋館で、ずっと昔には手入れの行き届いた広い庭園が建物の周囲を取り囲み、池に睡蓮や菖蒲が咲いていたそうだが、今はその池も埋もれていた。 この屋敷の主高水奈津子は長い人生を独身で通し、既に九十代半ばを越えていた。彼女の小鳥はセキセイインコばかり十羽程だが、古いガラス張りの大きな温室に飼っていた。
以前は色々な種類のセントポーリアや大輪咲きのベコニアや色とりどりのカトレアなどが溢れる様に咲き誇っていたが、今は見る影も無い。
その代わりに枝打ちした雑木の小枝を適当に数本立て、それに適当な小枝で横木を渡して、小鳥達の止まり木にしていた。
餌台にしている傾きかけたテーブルの傍らに椅子を一つ置き、ゆっくり腰掛けて小鳥の世話を楽しめるようにしていた。壁際には小鳥のねぐら用に木箱を幾つか積んでいた。
温室は南側の庭に面した居間とサンルームを挟んで繋がっていた。サンルームは南側へ半円形に迫り出し、天井には色鮮やかなステンドグラスが一面にはめ込まれていた。
まるで咲き乱れるツルバラのアーチの中に居るような贅沢な部屋だった。自然光の明るい日溜りに籐の椅子と丸いテーブルが置かれていた。
そのサンルームの奥の広間には食事用のテーブルと、大ぶりの総革張りのソファーのセットと、古ぼけたグランドピアノが、丸いコーヒーテーブルを中心に囲む様に置かれていた。
ディナーテーブルを置いていた隣の食堂を模様変えして、ベッドを置き寝室に使っていた。 階段を上り下りするのが大変なので、大分前から二階の方を使わずに一階だけで生活していた。
玄関の側の北側の部屋は昔は泊り掛けの来客用にしていたが、今は毎日通って来るヘルパーの控え室にしていた。
屋敷の西の角に父親の書斎があった。壁一面に書棚が並び本がぎっしり入ったまま何十年もそのままになっていた。
二階の一室には母親が絵を描いていたアトリエがあり、イーゼルの上に描きかけのバラの花の絵が乗ったままになっていた。
絵筆は絵の具がついたままパレットの上に乗っていた。油絵の具のチューブも机の上に出したままになっていた。
バラの枝らしい枯れた小枝がサイドテーブルの上のクリスタルガラスの花瓶にからからに干からびて折れ曲がって入っていた。
その部屋だけは時が止まったまま何十年もの間変わらずにあった。ただ朽ち果てた小枝だけが時の流れを確かに刻んでいた。
母が急死した時、奈津子は仕事でずっとヨーロッパに行っていた。重要な仕事を放り出して帰国し母を弔ったが、彼女に与えられた日数はたった一週間だった。
最愛の母を亡くした悲しみが少しも癒やされないまま日本を離れて行かなければならなかった。 独り残された父は突然の妻の死を受け入れる事ができなかった。アトリエをそのままにして、まるで不在の妻の帰宅を待っているかのようにして数年を過ごした。
やがて心臓発作で倒れ、長い間病院のベットで孤独に暮らし、静かにその人生を終えた。父の葬儀の後、奈津子は屋敷を閉めてそのままヨーロッパに旅立ち一人転々と渡り歩いていた。
奈津子が急に日本が懐かしくなり、仕事を辞めてこの家に戻って来たのは、四十代の半ばを過ぎてからだった。
家の主が不在の間に荒れてしまった庭を直し、再び池に水を引いて睡蓮や菖蒲を植え、花壇に花を植えて、長い年月を費やして広い敷地全体を見事な花園にした。
やがて年月が流れ、奈津子の体に老いが重く圧し掛かり、庭仕事は殆どできなくなった。それから更に二十数年が過ぎた。
奈津子は日頃から自分が死んだら小鳥達を野に放してやって欲しいと人に頼んでいた。 また、己の最後の時を悟ったら小鳥達を自ら野に放すつもりだと、事あるごとに言っていた。
その彼女の小鳥達があの様に沢山梅林に放されているという事は正にその時が来たのを告げていた。
茜は急いでここまで走って来たのだが、門の前でぴたりと足が止まってしまった。事の重大さが今更ながら茜には怖いのだ。
「ああ、どうしよう。誰かと一緒に来れば良かったな。大変な事だっていうのに。」
そう言いながら茜は暫く庭の奥の家を見ていたが、
「やっぱりだめだわ。一人じゃこれ以上進めないわ。」
と弱々しく呟くと、幽霊の様な門柱の前を通り過ぎて、垣根の外まで庭木の枝が溢れ出ている脇道を走り出した。
茜は奈津子の家の垣根沿いに続く道を走りながら、臆病風に吹かれて呼び鈴も押せず、声も掛けずに逃げる様に通り過ぎ、こんな道を当ても無く何処かへ走っている自分が情けなかった。
うねうねと曲がりながら続いた道はやがて突き当たって右に折れていた。茜が勢い良く角を曲がった途端、出会い頭に向こうから来た人とぶつかってしまった。
はっとして前を見ると、それは茜の友人の沢井園子だった。
「茜さん、あなたもあの小鳥見たのね。」
「ええ、そう。だけど、確かめたくても私、勇気が出なくて、どうしましょう。門の所から先に行けないの。足がすくんでしまうの」
茜の取り乱した様子に園子は不安な顔をした。
「茜さんはこれだから困るわね。さあ行きましょう。もしかしたらまだ助かるかもしれないのよ。怯んでいちゃだめよ。」
園子は茜の手を握って勇気付けると先に立って走り出した。茜も後を追って走った。
門の前で一瞬足が止まったが、二人は互いに顔を見合わせ頷き合うと足早に庭の中に踏み込んで行った。
玄関には鍵が掛けられていて、呼び鈴にも応じる気配は無かった。南側の庭の方に回って行くと、温室の先のサンルームの扉が開け放されたままになっていた。
二人は躊躇わず、御免くださいと、呼び掛けながらそのサンルームの中へ入って行った。すると籐のひじ掛椅子に、昼寝でもしているかの様に、安らかに永遠の眠りについた高水奈津子が座っていた。
しばらく茜と園子は声も無く彼女を見詰めて佇んでいた。すると部屋の奥の方から黄緑色のセキセイインコが飛んで来て、奈津子の丸まった背に止まった。
「あっ、小鳥が…。」
茜が不意をつかれて、驚きの声をあげた。
「小鳥があんまり無邪気で…。可哀相。」
そこまで言った園子は堪え切れず両手で顔をおおって声を詰まらせた。
「誰かに知らせなきゃ。救急車を、早く早く園子さん。まだ助かるかも知れない。」 茜が一際大きな声で言った。
奈津子の背に止まっていた小鳥が驚いて、怖そうに首をすくめた。
( 続く )
2013年10月23日(水) |
第四章 事件 2203年 東京冬 (1) |
第四章 事件 2203年 東京冬 (1)
純一の母花枝は何時になく気ぜわしく家事に追われていた。今日は海外で仕事をしている夫の剛が休暇で帰国するのだ。
既にオーストラリアからこちらに向かっているはずだ。花枝は先週から仕事を調整して今日と明日の二日をフリーにしていた。
純一はヨウジュスとレナ・ラスコールとミュー・リンガを誘って、空港まで父を迎えに行く事にした。父の新しい実験農場の話や珍しいお土産なども楽しみだった。
花枝は昔からの習慣のようにお正月は家族皆で過ごしたいと思っていたのだが、昨年に続いて、今年のお正月にも剛が帰って来なかったのでとても残念がっていた。
それが急に一月十五日に帰国するというのでとても喜んだ。それで昨日からお正月と全く変わらない沢山のおせち料理を色々と手作りしていたのだった。
それらの料理を華やかにテーブルいっぱいに並べて、今年こそ家族揃って新年を祝いたいと考えていた。
純一はいつも自分の部屋にラピスを出してやっていた。レナ・ラスコールとミュー・リンガが来たのでラピスはリビングに飛んで来てはしゃぎ回った。
彼女達もラピスが大好きで、何時もならラピスが飽きるまで相手をしてやるのだが、今日は初めて見るトラディショナルなおせち料理に夢中になっていて、ちょっと相手をしてやっただけだった。
それがおおいに不満だったラピスは自分に注意を向けようと色々悪戯をした。
レナ・ラスコールの髪をくちばしで引っ張ったり、ミュー・リンガのイヤリングに噛み付いたり、テーブルに置かれた物をかじったり、挙句には料理の盛り皿の中に踏み込んで食べたりした。
「ラピス駄目よ」
レナ・ラスコールがラピスを手で追うと負けずにその指に噛み付いた。
「純ちゃん。ラピスの悪戯が過ぎて困るよ。そうだ。大好物のレタスで誘って純ちゃんの部屋に連れて行ってくれない」
「ラピス、レタスあげようね。さあおいで」
純一はレタスの上にラピスをとまらせて自分の部屋に連れて行った。だが、察しの良いラピスは直ぐにまんまと純一の部屋に連れてこられてしまった事に気付き苛立って部屋の中をぐるぐる飛び回り、チョロンチョロンと大きな声で鳴きながら暴れた。
「あれ。ラピスが完全に怒っちゃったよ」
純一はラピスの怒りの凄さにすっかりびっくりしてしまった。冗談ではなかった。ラピスは目を剥いて怒りに燃えて、攻撃して来るではないか。
「レナちゃん達と遊びたかったのか。そんなに怒ったってしょうがないでしょ」
純一のそんな言葉が通じる訳も無く、ラピスは狂ったように飛び回り、鳴き続けて、純一に飛びかかった。無駄と思ったが、純一はラピスに籠に入る様に優しく声を掛けてみた。
「ラピス籠にお帰り、ラピス籠に帰りなよ」
だが、そんな純一の言葉は、火に油を注いだようなものだった。純一の言葉をかき消すかのようにチョロンチョロンチョロンと甲高く鳴き続けてドアに体当たりし始めた。
「ラピスラピス、やめろ、だめだめ」
「これじゃドアに頭を打って死んじゃう」
純一はたまりかねてドアを開けた。ドアが開いた瞬間、ラピスはめったに見せない宙返りをうって、狭い隙間をすり抜けると、あっという間にリビングへ飛び出して行った。
「レナちゃん、今のラピスの声聞いたろう。凄く暴れてドアに体当たりするんだよ」
「あれ、ラピスったら。しょうがないねえ」
レナ・ラスコールはラピスを肩に乗せて優しく言った。
「もう大丈夫よ。ちゃんとお皿に被いを掛けたからね。ラピスちゃんのお相手をしてやりましょうね。何か美味しい物をあげようか」
「ああ、びっくりした。ラピスったら怒ると怖いね。こんな事初めてだよ」
純一はすっかり何時もの無邪気な小鳥に戻って、嬉しそうにレナ・ラスコールやミュー・リンガの肩を駆け回っているラピスを眺めて溜息をついた。
出掛けなければならない時間になってやっとヨウジュスがやって来た。だが、すっかりはしゃいでいるラピスは籠に戻ろうとはしなかった。
純一はラピスをこのまま放して行こうか籠に戻して行こうか迷ったが、花枝が大丈夫だからと言うのでそのままにして行くことにした。
ラピスはお腹が空けば餌を食べに自分でちゃんと籠に戻て行くから心配する事は無い。 ところがその日、何かが何時もと違っていた。
純一達と、父の剛がマンションの部屋へ帰宅した時、勇んで玄関に迎えに出るはずの花枝の姿が無かった。
玄関ロビーの飾り棚の上に豪華な赤いバラの花束が置いてあった。だが、それ以外は家を出た時と何も変わりなかった。
急に買い物でも思いついて出掛けたのかもしれないと思い、あまり気にも留めず話に夢中になっていた。
だが突然純一はテーブルの上のお菓子を口に運んでいる内にとんでもない事に気が付いた。
「ああ!」
と、大きな声をあげて飛び上がった。家にいないのは母の花枝だけじゃない。ラピスもいないではないか。純一は持っていたティーカップからお茶が飛び出してしまう程の勢いで立ち上がった。
「ラピスラピスラピス。ラピスが……」
手に絡みついたカップを慌ててその場に置くと、部屋の隅から隅までラピスの姿を探しながら小鳥を呼び続けた。だがラピスはいない。何という事だ。いったい何があったのだ。
純一は外へ飛び出した。皆はそんな純一の様子を呆気に取られて見送ったが、何となく胸騒ぎがしてあたりを見回した。
花枝のバッグがソファーの脇に置いてあるし、コートも残されている。
「純一がやけに慌てて小鳥を探している様だけど。おかしいな、何で逃げたのかな」
ヨウジュスが手にケーキを持ったまま心配そうにおろおろと純一の部屋とリビングを行きつ戻りつしながら言った。
「純一ったら、大丈夫かな」
「あのラピスが消えちゃったわ。何で何で」
「それにしても、花枝は今日はのん気だね。今頃買い物かな。」
父の剛も立ち上がってキッチンの方を覗いたり、花枝の仕事部屋を覗いたりした。
「おじさま、このおばさまのハンドバッグにお財布が入ったままよ。どうしたのでしょう。コートも着ないで外出するなんてちょっと変ね。ミューちゃんどう思う?寒いよね」
「そうね、今日は本当に寒いよね。レナちゃん何か変じゃない。今頃、おばさまが買い物に行くなんて。おじさまの帰りを待ってないなんて信じられないよ」
ミュー・リンガが花枝のロングコートを羽織ってみながら小声で言った。
「ハンドバッグも持ってないし、コートも着ないで何処に行っちゃったのかしら」
レナ・ラスコールが心配そうな顔をした。
「そうだね。ちょっと辺りを見てこよう」
ヨウジュスとレナ・ラスコールとミュー・リンガの三人は外へ出てみた。一時間ほど純一の行きそうな所を当たって見たが姿はなかった。その上花枝にも行き会わなかった。
まったく何の手がかりも見出せないまま三人は途方に暮れてしまった。
純一は消えたラピスを探し回った。最初はマンションの廊下に並んでいる観葉植物の枝にでもちょこんと止まって、迎えに来てくれるのを待っているのではないかと思った。
ラピスがすぐに見つかるとしても、一刻も早く自分の手に乗せてやりたいと急いだ。ラピスは自分を待ちわびてしょんぼりしているに違いない。
早くその場所を探してやらなくてはと、ラピスの名前を呼びながら探し回った。しかし、ラピスの姿は何処にもなかった。
夜十時過ぎ、父の剛は花枝の捜索願いを出した。今年の冬一番の最低気温を記録する程の真冬の夜に、所持金も持たず連絡の一つも無く帰らないという事は誰が考えても異常な事だった。
その上十ニ歳の息子までが未だに帰らない。やはり、何も持たず出て行ったきり何の連絡も無い。
久しぶりで家族揃って楽しく過ごせると喜んでいたのにとんでもない事になってしまった。
剛は先程からコンピューターの前で長い間待たされていた。やがて、若い警察官が画面に現れた。
「ええと、矢島さん。今のところ何の確信も持てないのですが、ご婦人の身元不明者の事故としては、今日四件報告されていますね」
「よろしいですか、まず、海岸道路のパノラマブリッジで交通事故があり、重症を負った婦人が一人」
「ええと、それから、スリップ事故で、歩道を歩いていた婦人が巻き込まれています。これは旧市街地のバイパス道路です。それから、ええと、旧市街地の工場跡地で、婦人の行き倒れが一人あります」
「それから、文化ホール正面の外階段で落下事故で婦人が意識不明の重態ですが身元不明です。文化ホールはご自宅の近くですが、どうでしょう。一応当たって見ますか」
「はい、そのご婦人はどちらの病院ですか。妻の顔写真を送って問い合わせてみます」
「警察としても、矢島花枝さんの捜索は引き続き行います。パトロールの方にも手配しておきます。では病院にこのまま転送します。暫くお待ちください」
暫くして救急病院から応答があった。剛は早速、花枝の顔写真を送信して、文化ホールで怪我を負って担ぎ込まれた婦人と照合してもらった。やがて救命センターの看護婦が出た。
「お写真から見て、矢島花枝さんに間違い無いです。こちらといたしましても、患者さんの身元が解かってほっといたしました。では矢島花枝さんのご主人ですね。至急当院へお越しください」
「ああ、良かった、見つかった」
「奥様はどうしたというのでしよう。ホールのあんな階段で怪我を負われるとは。誰も普通あんな所に行かないのに」
「とにかく、意識不明の重態ですが、患者さんが待っていらっしゃいますからね。では救急の夜間受付へ大至急来てください。警察にはこちらから報告しますので」
コンピューターの画面が青くなり、電話が切れた。剛がエレベーターホールでじりじりしながらエレベーターを待っていると、エレベーターのドアが開き純一が失望した悲しげな顔で降りて来た。
「父さん、ごめんなさい。ラピスが見つからないんだ」
「かあさんが大怪我して病院に運ばれたんだよ。これから行くから純一も一緒に来なさい」
剛は降りて来た純一と入れ替わりにエレベーターに乗り込んだ。純一も再び飛び乗った。
( 続く )
2013年10月22日(火) |
第四章 事件 2203年 東京冬 (2) |
第四章 事件 2203年 東京冬 (2)
純一は父と病院に向かった。母花枝の事故については何も解からないまま、重態という言葉が二人の胸に重く圧し掛かっていた。
何時も夜の十時過ぎの東京の街は混雑していた。特に週末の為、夜遊びに出た若者達で何処も溢れていた。
渋滞で先に進めず、じりじりとした時間の流れの中で、父の剛がぽつりぽつりと考えながら口を開いた。
「純一、さっきは夢中で小鳥を探し回っていただろう。何処をどう歩いたか自分でも解からなくなっただろうと思うが」
「かあさんも丁度さっきの純一のように、小鳥を探してあちこち行くうちにいつもは絶対行かない階段なんかに行ったのじゃないかな」
「純一達が家を出た後で、何かあったのさ。それで、小鳥が家の外へ出てしまったんだ。かあさんはそれに気がついて必死で小鳥を追いかけたんだよ」
「そして、あの階段を我を忘れて駆け上がったり、駆け下りたりしたのじゃないかな。そうでもなければあんな階段なんかを使って上へ行くなんて事、普通は絶対する筈がないんだからね」
「あれはちょっとした建物の正面の飾り階段で、エスカレーターもエレベーターも中にある訳だからね。あの慎重な人があんな足元の悪い外階段なんか絶対に使わない筈だ。そう思うだろう純一」
純一は父の推理になるほどと思った。
「そうだよね、おとうさん。それに文化ホールに今日何か用があるなんて筈が無いよ。今ホールでやっているのは北極の特集か何かの筈だから、僕達の為にご馳走の支度をして待っているおかあさんがそんなの見に行く筈がないよ」
「おとうさんの言う通りさ。きっと僕みたいに夢中でラピスを探し回ったんだよ。ラピスったらどうして逃げたりしたんだろう」
病室に入って行くと頭に包帯を巻かれた痛々しい姿の花枝がベットに寝ていた。幸い検査では頭の中に異常は無く打撲程度で済んだのはよほど転び方が上手だったのだろうとの事だった。
強運で助かった訳だが、何分未だに意識が全く戻らないので慎重に見守る必要があった。手足の捻挫や骨折もあるだろうと考えられた。純一と父の剛は花枝のベットの側に腰掛けて一晩中見守り続けた。
翌朝、花枝は無事意識を回復した。予想していた通り、左の手首を捻挫していた上に、腰も酷く打っていた。更に肋骨の一本にひびが入っていた。
額には非常に大きなこぶができ、恐ろしく腫れ上がっていた。花枝が負った傷は体の怪我だけではなかった。ラピスというかけがえのない命を見付けたのにもかかわらず、無事に連れ戻してやれなかったショックで打ちのめされていた。
花枝は、朝食後、再び母に付き添う為に病室に来た純一に、何か言おうと、まだ動かせない身体を必死で起こそうとして、傍らに座っていた剛に止められた。
「かあさん、だめだめ、動かないでくれよ」
「純ちゃん。ラピスをあの文化ホール前の広場で見たのよ。私がね。私がとんでもないうかつな事をして、大事なラピスを迷子にさせてしまったのよ。もたもたしている間に、玄関からラピスが迷い出てしまったのよ」
「かあさん、身体に障るじゃないか。純一の小鳥の事など後でいいんだよ。今はまだ安静にしててよ」
剛が花枝の身体を気遣って言った。
「いいえ大丈夫。ラピスを探して欲しいの。純ちゃんにとってはそれは本当に特別な小鳥なのよ。私にとってもラピスはとても大事なの。だから、ちゃんと言わせて欲しい」
花枝がしっかりした口調で話そうとするので剛はほっとした。取り乱して体力が消耗する様なら、長い話は止めさせなければならないと思ったが、何があったのか早く知りたいというのも事実だった。純一も同意見だった。
「じゃあおかあさん、昨日何があったのか、極簡単に話してくれよ。落ち着いてね」
剛が立ち上がって花枝の傍らに近づき、そっと手を取って優しく撫でた。
「ええそうするわ。なるべく落ち着いて話すわね。純ちゃん、近くに来て聞いてね」
純一は枕元まで椅子を寄せて腰掛け、身を乗り出して母の顔を覗き込み微笑んで見せたのだが、腫れてすっかり母の顔が変わってしまっていたので、微笑んだ顔がこわばってしまった。 花枝はゆっくりした口調で話し始めた。
「純一達がお父さんを迎えに出かけた後、私はちょっと立ち眩みがしてね。暫くソファーに寝転んで休んでいたのだけど、ふと居眠りをしてしまったの」
「どういう訳かいつもそうなのだけど、無邪気なラピスを見ていると何だかとても心が安らいで疲れている時などは不思議な事に突然眠くなるのよ」
そのうちに、玄関のチャイムが鳴って目が覚めたの。慌てて玄関へ行ってドアを開けたら花屋が大きな花束を抱えて入ってきたの」
「伝票にサインをくださいと言われてね。急いでペンを取りにリビングに戻ったのだけれど、テーブルの上は料理が並んでいて、いつもあそこに置いてあるペン立てが見当たらなかったの」
「仕方なく奥の仕事部屋のデスクまでペンを取りに行ってもたもたして玄関に戻って来たの。その間玄関のドアは開け放したままだった」
やっとの事でサインをして見事な深紅のバラの花束を受け取ったのだけど、居眠りをしていて、突然起こされたから頭がぼうとしていて、ラピスが部屋に出ている事をすっかり忘れてしまっていたの。
その時ラピスは姿を消していたのだけれど気が付かなかったの。あの大きな花束に添えられていたメッセージカードを見て、とうさんに誰がこんな花束を届けてくれたのかと興味を持ってしまって、メッセージを読んで見たりしていたの。
時計を見るとそろそろ貴方達が到着する頃だった。エアポートはいつもそうだけど、今日もとても混雑しているだろうから帰りの時間は夕刻になるだろうと考えたの。
皆が帰って来た時にちょうどできたてになるように温かい料理をもう一品作ろうかと思ってね、キッチンへ行ったの。
そして調理台に出しっ放しにしてあったレタスを見た途端、私はやっと気が付いたの。ラピスを出していた事をやっと思い出したわけ。
ちょっと玄関が開いていた事が気になって、不安を感じたの。まさかと思ったの。でも最初はきっと部屋にいるはずだと思ったの。でも急に胸騒ぎがしてね」
花枝は静かに目を閉じた。大粒の涙が目尻の深い皺をきらりと光って転がり落ちた。ラピスを出している事をやっと思い出したあの瞬間から花枝の深い苦悩と悲しみが始まったのだった。花枝は震える声で語り続けた。
時折、目を瞑り、涙を流し、溢れる想いを静かにやり過ごしながら語った。
「おやラピちゃんは何処かな。ラピラピ、ラピちゃん出て来てちょうだい」
部屋の中を探して回った。籠にも戻っていない。呼べば勇んで肩に飛んでくる小鳥がいくら呼んでも姿を見せてくれなかった。花枝は外へ探しに出た。どうせ廊下の観葉樹の上にでも乗って木の葉にじゃれているに違いないと思った。
「ラピラピ、おいで、お家に帰って遊ぼうよ。ラピちゃん出て来てちょうだいな」
花枝は優しくラピスを呼びながらエレベーターホール辺りまで行ってみた。そんなに慌てていたつもりはなかったが、自分が意識していなかっただけで、実際にはかなり慌てていたに違いない。
籠も持たず、餌になるような物も何も持ってなかった。ただ夢中で呼びに出たのだった。マンションには一階から三十五階まで中央に吹き抜けの広いスペースがあった。
花枝はラピスを探してエレベーターホールの先のその吹き抜けの所まで来た。そこは人などの落下事故を防ぐ為二重の手すりが高めに付けられていたので、下を覗いて見る事はできなかった。
だが、小鳥が廊下を直進すればその吹き抜けの空間にあっという間に飛び出てしまうに違いないと思われた。彼女はそれに気付き狼狽した。
吹き抜けはオープンスペースだ。一階から三十五階のどの階にも飛び込む事ができるのだ。三十五階の上は更に高い吹き抜けの天井だが、どの様な造りになっているのかと見上げてみた。
天窓の様にも見えるし、照明の様にも見えるが、目が回るほど高い。眩しくて小さな小鳥が飛んでいるかどうか、目を凝らして見ても解からなかった。
花枝は胸が締め付けられるような言い知れない不安を感じたが、その膨らむ不安を慌てて否定して、きっと直ぐ見つかると自分に言い聞かせて前に進むしかなかった。
それで二十五階の別の三本の廊下も探したがラピスの姿はなかった。やはり心配した通り吹き抜けのオープンスペースへ出てしまったのだ。花枝は夢中で一階まで降りて行き、吹き抜けの一番下から見上げてみた。
何も小鳥らしい物は飛んでいなかったが、呼べば自分の所へ来てくれるに違いないと思ってラピスラピスと大きな声で小鳥の名前を呼び続けた。
すると、通り掛った婦人が花枝のただならぬ様子を見かねて、どうしたのですかと、声を掛けて来た。小鳥が部屋から迷い出てしまったのだと説明すると、婦人が
「小鳥はこの様なスペースへ出れば、上の方を目指す筈ね。きっと鳥は空を飛ぶ生き物だから空を目指して上に飛んで行くでしょう」
と花枝に言った。確かに下に飛び降りるより上に飛び上がる方が自然に思われた。 「本当ですか、なるほど、そうですね」
花枝もその婦人の意見を最もだと思い、言われるままにエレベーターで三十五階に上がってみた。平面的に見えていた天井は立体的で複雑な造りになっていた。
大きなジャングルジムさながらにパイプが組まれていた。花枝は三十五階の四本の廊下を隈なく探して見たがラピスの姿はなかった。
仕方なく一階ずつ同じように探しながら降りて行った。そして再び一階まで降りて来た。一階には出入り口が何ヶ所もあり、大きな自動ドアだった。
人が通ると暫く開いたままになっていた。人通りは少なくなかったから絶えず開いたり閉ったりを繰り返していた。小鳥がそれらの自動ドアを通って建物の外へ出て行くのはとても簡単だ。
特に部屋で飛び慣れていたラピスは、狭い扉の隙間をすり抜けて部屋から部屋へ器用に飛び回っていた。飛び回る事は自由自在だった。花枝は建物の外へ出てみた。
その出入り口は広い石畳の広場に面していて向う側は文化ホールだった。広場に立って上を見た時、水色の小さな小鳥が斜めに空中を横切って飛び去った様に見えた。
ほんの一瞬だったので本当に見えたのかどうか確信は持てなかったが、文化ホールの方へ行ったような気がして行ってみた。
文化ホールは建物の正面に三段のテラスが大きく張り出し、石造りで迫力のある馬蹄形の飾り階段が続いていた。花枝は夢中でその階段を上を見上げて、空を飛ぶ小鳥の姿を求めながら登った。
そして、もう二三段で登り終えるという所まで来た時、空中を宙返りして広場の反対側へ飛び去るラピスの姿を見たのだった。花枝は慌てて身を翻し階段を駆け降りようとした。
そして、ラピスが飛び去った方を見定めようと目線を上に移した。ところが、足は階段を捕らえず宙を踏んでバランスを失った彼女の体は前のめりに転がり落ちて行った。
一瞬空が回って花枝は何も解からなくなった。確かにあの時ラピスはあの広場を飛び回っていた。それなのに、あっという間に転がり落ちて気を失ってしまった。
ラピスを折角見付ける事ができたのに連れて帰ってやる事ができず、一日過ぎてしまった。本当に取り返しのつかない事になってしまった。花枝は文化ホールの前の広場でラピスが飛んでいたのにどうする事もできなかった、と言って涙を流して泣いて悔やんだ。
純一は丁度その日の夜明け頃、その広場へラピスを探しに行ってみたのだった。母が階段から墜落する事故にあった時、きっとラピスを追っていたに違いないと思ったからだった。
やはりラピスはあの広場の空を飛んだのだ。花枝はまだ広場付近にラピスがいるかもしれないから探して欲しいと言った。幾筋もの涙が花枝の目じりから静かに流れ落ち枕を濡らしていた。
「解かったよ。おかあさん。何度も行って探してみるからね。ラピスはきっと見つかるから心配しないで、そんなに悲しまないで。どうかそんなに泣かないでよ。身体に良くないからね」
純一はそう言って花枝を慰めた。だが、この寒さの中、籠の小鳥が急に外に迷い出て無事でいられるのはほんの数日だけだろう。
純一はラピスを探しに行くからと言って病室を出た。ラピスを追いかけて酷い怪我まで負ってしまった母の為にもラピスを探したかった。
そして無事手元に戻った事を見せて、痛みと悲しみに苦しんでいる母を一日も早く安心させてあげたかった。
それに何より愛するラピスの小さな命を救ってやりたかった。ラピスを失いたくなかった。
父は日本に四日間居ただけだった。 花枝の事が心配だったが、オーストラリアの仕事場は更に重大で深刻な問題を抱えて切迫しており、指導的立場の剛の帰りを待っていた。
彼はプライベートな苦悩を胸に秘めて、家族への熱い思いを振り切って出発した。
ラピスの大きな鳥籠は重く持ち歩くのは大変だったが、ラピスが自分のすみかとして記憶している籠でなければ進んで入ってくれる筈がないと思った。
純一はどんな苦労も厭わなかった。重たい籠の持ち手が手に食い込んで痛かった。支える腕の痛みなども全く気にはならなかった。唯ラピスに帰ってきて欲しかった。
ひたすらにそれだけを願って探し回った。親友のヨウジュスもレナ・ラスコールもミュー・リンガも一緒にラピスを探してくれた。
インターネットに迷子の小鳥のラピスについて情報を求めるページを出してみた。街角に張り紙も貼ってみた。
一週間が過ぎた朝、外は一面の雪景色だった。未明より降り始めたその年初めての雪は深々と降り続いていた。
静かに、明るい重厚な油絵のような美しい朝が訪れて、純一の儚い希望を凍りつかせた。
( 続く )
2013年10月21日(月) |
第五章 面影 2203年 東京冬 (1) |
第五章 面影 2203年 東京冬 (1)
古い大型マンションの薄暗い廊下の突き当たりに、何度も塗り替えたためペンキの斑模様ができている古ぼけた鉄のドアがある。建物が密集し過ぎて最上階にもかかわらず日が当たらず、日中でも夕方のように薄暗い。
エレベーターの動く機械音が鈍く響いている。何処か下の方でシンセサイザーのサウンドに重低音のベースが重くリズムを刻むハードロックが唸りを上げている。
古びたその斑模様のドアが開き、サンダルをつっかけた中年の男が出てきた。廊下の隅にある機械ルームの中に顔を突っ込んで舌打ちしながら呟いた。部屋の電気配線の何処かに異常があるようだ。
「電気の調子がおかしくて困っちゃたな。仕方がないな、外で食べるか」
男はこの長い歴史を感じさせるマンションの最上階にずっと昔から住み続けている住人で青木裕作という。今日は休日なのでマンションの管理会社に連絡もつかず、仕方なく直に切れてしまうブレーカーのスイッチを押し上げた。
いたる所にガタが来ているのだが、裕作にとっては生まれ育った我が家であり、両親が苦労の末に彼に残してくれた唯一の財産なのだ。
裕作は厚手の靴下を履きウールセーターを着込み、ダウンコートを羽織るとショルダーバッグにカメラと三脚を詰め込み部屋を出た。今日は喘息で入院している母に見せる為の花の写真を撮ることにしていた。
裕作はマンションの並びのレストランで簡単な食事を手早く済ませて、厳しい寒さの訪れと共に花の盛りを迎える寒椿や山茶花の花を撮りに近くの公園を訪れた。
訪れる人もない冬の公園は寒風に吹きさらされて静まりかえっていた。 明るい日差しが木々の上に降り注ぎ、揺れる梢が白く光って見えた。北風が吹くたびに容赦なく体温を奪って行くので、じっとしていると深深と冷えて寒かった。
一面を被っている枯れ葉の上を踏む毎にかさかさと乾いた音がした。早咲きのぼけの白と緋色の濃淡の花が、冬枯れた枝に零れる日差しを受ける杯のように日に映えて咲いていた。
梅の枝にはまだ固く閉じた小豆色の萼のすき間から白い花弁をほんの少し覗かせている蕾が沢山ついて咲く日を待っていた。また、冬枯れの雑木林の中では、マンサクの梢の隅々にまで細かい黄色の花が咲き、春の訪れが近い事を告げていた。
寒椿は大きい樫の木の密集した枝に守られて、大輪の赤い花を枝一杯につけて咲き乱れ、黒々とした深緑の葉が木漏れ日を受けて艶々と漆塗りの器のように光って美しかった。
山茶花はジンチョウゲの可愛い薄紅色のブローチのような小花がちらほらと咲き始めている植え込みの後ろに、華奢な枝を風にゆらゆらと揺らして、朱鷺色のぼかしの、まるで薄紙細工のような精巧な美しい花をつけていた。
手振れが心配だったので、裕作は三脚を立てた。そして何度もファインダーを覗き、位置を小刻みに移したり、三本の脚の長さを調節したりして、細かくアングルを調整して時間をかけて何枚も写真を撮った。
冬の夕暮れは思いの他早く、あらかた花を撮り終った頃、気がつくと既に日は西に傾き梢の先にかかっていた。新たな被写体を探して辺りを見渡していると、雑木林の中に一人の少年がいるのが見えた。
その少年の表情は暗く瞳には悲しみの色が満ちていた。大きな鳥篭を手に下げて、林の中に続く細道をとぼとぼと歩いていく姿が夕暮れの残照の中にセピア色のシルエットに見えた。
重たそうな鳥篭の細い金属の取手が少年の華奢な指に食い込み痛々しく見えた。重みを支える為にくの字に曲げられた腕にも痛みが走るらしく、時々地面に篭を置いては腕をさすって辛そうにうな垂れている。
冷たい風が吹きつけてジャケットの裾がはためき、足元の木の葉が舞い上がっている。何かを探しているらしい様子で辺りの木々の梢を透かして見ている。やがて少年は林を抜けて不規則な石段を降りて、潅木に囲まれた池のほとりの石畳の道の先にあるベンチに腰掛けた。
少年の様子が気になって仕方がないので、いっそ思い切って少年に声を掛けてみようと、裕作も別の小道を巡り池の方に続く石段を下りながら梢越しに池を見下ろしていた。
だが疲れて休んでいる寒さにこごえた少年にせっかく声を掛けるのに手ぶらというのも気のきかない事だなと気づき歩みを止め立ち止まった。せめて温かい飲み物を持って行って少年に飲ませてあげたいと思った。
裕作は図書館の方に続く根っこだらけの小道を足早に進み、古めかしい建物の中のロビーで暖かいコーヒーとココアの缶を買った。そして少年がまだ池の辺のベンチにいるかどうか心配だったので、林の中の小道を走り抜けて池の方に降りて行った。
少年はまだベンチに座ってぼんやりと水面を見ていた。裕作は乱れた呼吸を一時落ちつかせながらゆっくりベンチの方に歩み寄ると少年に声をかけてその隣に座った。
「その篭は鳥篭のようだけど、この公園で何か探しているのかい」
すると沈んだ表情で少年はジャケットのポケットから小さく折り畳んだ一枚の紙を取り出し、広げながら裕作の方に差し出した。鮮やかな色の小鳥の写真が裕作の目に飛び込んで来た。
「僕、この小鳥を探しているんです。手乗りのセキセイインコなんです。この公園でそんな小鳥を見ませんでしたか。」
文章の最後の連絡先に書いてある名前が少年の名のようだった。
「この矢島純一君っていうのは君だね。残念だけどこんな綺麗な小鳥は見かけなかったよ」
裕作は少年の真剣な眼差しを見詰めて静かに首を振った。そして、少年のために走って行って買って来た温かいココアの缶を差し出した。
「これ、良かったらどうぞ。さっきコーヒーを買う時うっかり間違えてココアを買ってしまったのでね。きっと体が暖まると思うよ」
裕作は適当にでたらめの事を早口に言って照れ笑いをした。 差し出したココアの缶を見て少年がにっこりと顔を綻ばせたのを見て裕作はほっとした。
「ありがとう」
純一は手にしたココアの缶の温かさにちょっと感激して早速缶を開けて一口飲んだ。ココアの甘い味が口いっぱいに広がって香ばしいかおりが辺りに漂った。裕作もこごえた手を温かい缶の温もりで暖めながらコーヒーを飲んだ。
「もう少し詳しくその小鳥の事を聞かせてくれないか。逃げたのは何時の事なの」
「三週間以上前です」
「部屋で篭に入れて飼っていた小鳥なのでしょう」
「手乗りの小鳥なので毎日篭から出してやって、部屋で遊んであげるのです」
「ああそうか、手乗りは遊んであげるんだね。手に止まったり肩に来たり、きっととっても可愛いがっていたのでしょう」
「ここは大きな木が沢山あって小鳥が住めそうな公園だから、迷子になったラピスが、その僕の小鳥だけど、迷い込んで来ているかもしれないと思って来てみたんです。ちょっと遠いからどうかなと思ったんですけど小さな小鳥でも飛ぶのが上手だから、もしかしたら来ているかもしれないと思って……でもいないみたい」
「この小鳥を見つけたら、ここに書いてある君のメールアドレスに連絡すればいいんだね」
「はい、僕、矢島純一です。おじさんは良くこの公園に来るのですか。僕は始めて来ました。地図を見ながらずっと歩いて来たんです」
「それは大変だったでしょう。地図で見ると近いようでも歩くと結構遠いんだよ。この重たい鳥篭を手に下げて来たんだね。これは重たくてさぞ骨が折れたろうなあ」
裕作は鳥篭をちょっと持ち上げてみてその重さに驚いた。少年の手は真っ赤だった。日がとっぷりと暮れて、園内の照明が輝きを増して白く光っていた。気温も急に下がって来て冷たい風が一層身にしみた。
「私は青木裕作。今日は仕事が休みで公園の花の写真を撮りに来たんだけど、この辺りは暗い裏通りが多くて夜に歩くのは安全じゃないんだよ。だから気を付けなければいけないよ」
「暗くなって来たからもう帰った方が良さそうですね」
「君の住んでいる所は文化ホールの近くだね。ちょうどその近くに行く用事があるから帰り道は同じ方向なんだよ。一緒に行きましょう」
裕作は少年の鳥篭を手に下げて歩き出した。
「それ僕が持ちます。重いから」
純一は裕作の後から着いて来て言った。
「純一君、重いから今度は私が持つよ。手が赤くて痛そうだよ。そうじゃないかい」
裕作は振りかえって微笑んだ。
( 続く )
2013年10月20日(日) |
第五章 面影 2203年 東京冬 (2) |
第五章 面影 2203年 東京冬(2)
二人は外灯がほのかに照らす小道を辿り、館内の明るい照明が細長い大きな窓から漏れて公園の木立の中に浮かび上がった光の塔のように見える図書館の方に進み、その重たいガラス張りのドアを押し開けて中に入って行った。
「おお、中はあったかいね。ほっとするな」
「どうするのですか。ここは、何の建物なのかな」
「図書館だよ」
純一は裕作について入って来たものの、きょろきょろと館内を見渡しながらその場でくるりと廻った。裕作は微笑むと先に立ってロビーの中へ入り、飲み干してしまって空になったコーヒーの缶を奥の空き缶収集機に投げ込み、コイン発行の赤いボタンを馴れた手つきで押した。
金色のコインが一つチリンという音をたてて機械の中から転がり落ちて目の前のトレーの上に乗った。裕作はコインをつまみ上げて純一に見せながらにっこり微笑んだ。
「その空き缶をこの穴に入れて、この発行ボタンを押してごらん」
純一の目がきらきらと輝いた。純一は手に持っていたココアの缶を投入口へ投げ込み、言われたようにボタンを押した。純一の前のトレーにコインが転がり落ちて来てチリンと軽い音を立てた。
「このお金もらっていいのかしら」
「そうだよ、君のお金さ、でもこのロビーの中でしか通用しないお金なのさ。本当のお金じゃなくてコインっていうんだよ。隣のお菓子の販売機を見てごらん」
「そうか、アメが買えるんだね。わかったよ、面白いね」
純一はコインを販売機の投入口に滑り込ませて、目の前のディスプレイを見て何を買おうかと人差し指をぐるぐる回した。
「それじゃあ、ジャム入り果汁のドロップにしよう」
純一がボタンを押すと透明な卵型の小さなカプセルに入った黄色いアメが一粒ジグザグに転がり落ちて来た。
「それ、結構うまいよ。僕はダージリンティーキャンディ」
「面白いね。僕、持って帰って友達に見せるんだ。いつも一緒に食事したり遊んだりしてる友達なんだけど、こんなの知らないと思うの」
「じゃあ僕のコインをあげるよ。ポケットにもまだ幾つもあるんだよ」
裕作はズボンのポケットの底からコインを数枚出して、アメのカプセルをてのひらにのせて嬉しそうに眺めているその純一のてのひらに乗せた。アメの販売機の他にクッキーの販売機やチョコレートの販売機などが並んでいた。
純一はコインを持って販売機の前で何を買おうかとうろうろした後、投入口にコインを入れては、一つ一つ卵型のカプセルが転がり落ちるのを見て楽しんだ。裕作はそんな純一の様子を眺めているうちに久しぶりに楽しい気分になった。
二人は建物の中を通り抜けて、公園の外の道路に面した出口から薄暗い夜の道に出た。路上に置かれた看板やゴミの入ったダンボール箱など邪魔な物を避けながら、重い鳥篭を下げて歩くのは思ったよりも大変な事だった。じきに鳥篭の重みで裕作の手が痛みだした。
「おじさん今度は僕が持つよ。もう大丈夫だから」
だがそう言って差し出した純一の掌はまだ真っ赤で見るからに痛々しかった。 「まだまだ、全然大丈夫だよ。純一君は心配しないで」
裕作は時計を見た。あまり遅くなっては家の人が心配するだろう。裕作は丁度前から走って来たタクシーを止めて前を行く純一を呼び止めた。
「純一君、丁度良いからタクシーに乗って行こうよ。無理をすると手を痛めるよ。さあ早く乗って乗って」
純一はちょっとためらった。裕作が自分の鳥篭を抱えて乗り込んでしまったのを見てちょっとびっくりした顔を見せたが、微笑んで手招きしている裕作に微笑み返し隣に乗り込んだ。
「直ぐ近くだから遠慮しないでよ」
ちょっと不安そうな顔になってしまった純一を見て裕作が言った。そしてタクシーのドライバーに行き先を告げた。
「新開発地区の東エリアへお願いします。文化ホール前の高層マンションまて行ってください。」
「スカイヒルスっていう高層ビルなんだけど」
と更に純一が付け加えた。既に車はドアを閉めるのももどかしいと言わんばかりに、せっかちに走り出していた。
「歩くと結構遠いけれど車なら直ぐそこさ。こんな重い大きな鳥篭を持っている時には本当に楽だよ。歩くのは健康に良いけれど時と場合によるね。もっと暖かい晴れた日に、散歩道を身軽なかっこうで、ナップサックにちょっとスナック菓子でも入れて歩けば半日だって歩いていられる。君は家族でハイキングなんかに行くかい」
「いいえ、ハイキングは一度も行ったことがないです。家族一緒に何処かに行く事は殆どありません。おとうさんは仕事で外国にずっと行っていて滅多に帰って来れないし、おかあさんはコンピューターの仕事が凄く忙しくて寝る暇もない位ですから」
「そうか、大人は皆仕事が忙しくて大変だ。ご両親も本当はもっと家族で過ごしたいのをぐっと堪えているんだろうね。本当はもっと時間に余裕のある豊かな生活を心底望んでいるのに、どうにもならないのさ。ところで純一君は何歳なの」
「十二歳です。僕はもっと色々な所へ行って見たいんです。知らなくてはならない事をまだ何も知らない気がして仕方がないんです。十二歳になったのだから一人でだって大丈夫なんです。何処へ行ったってそんなに危険な事などないのにかあさんは心配ばかり先に考える悪い癖があって」
裕作は純一のいかにも少年らしい悩みを聴いて微笑ましいと思った。
「ああ、まったくだ。君のおかあさんだけじゃなく親は皆そうなんだな。そうか君は十二歳なのか。私に小鳥を探す手伝いをさせてくれないかな。一人で探しに行くのはつまらないだろう。君の友達もさそって皆で楽しく探しに行こうじゃないか。そのうちに必ず連絡するからね」
大きなマンションの前の広場に沿った道にタクシーが止まった。純一は車から降りると鳥篭を裕作から受け取った。そして歩道に上がって振りかえり、車内に残った裕作に手を振った。
最後に何か言ったようだが車のドアが閉って聞き取れなかった。裕作はいつも公園で写真を撮った後母が入院している病院へ行くことにしていた。
「ええと、次は青葉病院までお願いします」
ドライバーに次の行き先を告げながら、段々遠くなって視界から消えるまで、裕作は手を振りながら立っている純一の姿を見詰め続けた。
十年前に事故で死んだ息子の光弘を思い出す時、その姿はいつも二歳のままだったが、もし生きていれば光弘も十二歳だった。ちょうど純一と同じ位の背の高さで、純一のような声であんな事を言うのだろう。
純一の姿が見えなくなった。裕作はダウンコートのポケットから先程純一から受け取った紙を取り出して広げて見た。小さな小鳥を探しています、という書き出しで始まる文章の一番最後に少年の名前が書いてある。
葉を落とした木々の間を、手に鳥篭を下げて歩く華奢な肢体の少年のシルエットが裕作の脳裏に浮かんだ。少年の寂しい面影が逃れられない悲しみを裕作に訴え掛けて来るようだった。
すると、かけがえのない愛する者を失った日の悲しみが甦り、決して癒されない底無しの絶望感がふいに裕作の胸に迫って、そして一瞬の内に彼の胸を満たし、更に急激に拡大して彼の全身に満ちた。裕作は胸が張り裂けそうに痛み、思わずぎゅっと拳を握り胸に押し当てた。湧き上がった深い深い悲しみに押し潰され、息苦しさに絶えかねて身悶えた。
「ああ、こんな気持ちを抱えて、かあさんの見舞いになんか行けない」
裕作は少年を下ろした場所まで戻るようにドライバーに告げた。車は次のブロックで右折し、脇道を巡って文化ホールの前の広場に戻って来た。裕作はドライバーに少し多めに料金を払ってタクシーを降りた。
さっき純一が立っていた所には若い男女のカップルが互いに腕を絡ませて楽しそうに言葉を囁き合っては微笑んでいた。裕作はその場に足を止めてスカイヒルスを見上げた。
ショッピングモールになっている総ガラス張の大きな窓にレストランや喫茶店の華やかな内部が見えた。その上の居住部分は少し暗く街の明かりの反射で白い夜空に聳え立っている。
何も考えず足がひとりでに進むにまかせ、裕作は大きな自動ドアの中の光に吸い込まれるようにその建物の中に入って行った。
( 続く )
2013年10月19日(土) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (1) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (1)
沢井園子は新しく建てた山小屋風のアトリエへ嶺岸茜を誘った。会って色々語り合いたいと思いながらも互いに忙しくてこのようにゆっくり二人で過ごすのは昨年以来の事だった。
茜は園子の新しいアトリエを遠くから眺めたことはあったが訪れた事はなかった。どのような建物なのか興味があったので園子の誘いに喜んで久しぶりに休暇を取って来た。
川に沿った遊歩道を上流の方へ暫く歩き、杉林の中の細道を登ると光る川を見下ろす崖の上にそれはあった。茜は幼い頃見た絵本の何処かにこんな丸太小屋の絵を見たような気がして、何だか嬉しくなってしまった。
目を輝かせて暫し見惚れていると、園子が入り口のドアを開けて、急き立てて茜をアトリエの中に招き入れた。
茜は自然の木の素朴な質感だけの室内を見回しながら嬉しそうにその場でくるくると回った。
「まあ茜さん。落ち着いて座ってよ」
と園子が笑ってソファーに茜を座らせた。アトリエの中は想像した以上に広かった。
「素敵なアトリエね。わあ、良い感じね」
茜はソファーに座ったまま室内をぐるっと眺めてシンプルで居心地の良い雰囲気に感心していた。
リビングルームの一角をカウンターで仕切った内側が対面式のキッチンスペースになっていて、その側にバスルームのドアがあった。
リビングの奥は絵を描く仕事場になっていて、その更に奥まった所の中二階に梯子の様に急な階段がついていて、上の段にはベッドが置かれ園子の寝室になっていた。
ベッドの横の三角形の壁に窓があり、窓辺で緑の梢が揺れて光が揺らいでいた。天井が無く屋根の傾斜がそのまま頭上に大きな空間を作っていた。
山小屋の周りの杉の梢が風に揺れると屋根の天窓から差し込んでくる日差しが揺らいだ。川に面した大きいガラス戸からも日が差して全体に明るい感じだった。
水の流れの音が耳に心地よく、優しい木の質感と杉材の爽やかな香りが疲れた神経をリラックスさせてくれるのだ。茜はソファーの背に身を委ねて心地良さに優しく包まれて脱力していた。
「ああ、何かほっとするわ」
茜はふわっと身を包む安らかさの中で、今まで気付かなかったが本当は酷く疲れていた事を自覚した。目を閉じてほっと溜息を一つはきだして目を開けた。
すると、何と園子の肩に小鳥がとまっていて、それがちょろちょろと彼女の肩の上を端から端へ小走りに動き回っているではないか。
快活な仕草の小鳥のつぶらな黒い瞳が自分をとらえ、明らかに興味を示していた。無邪気な好奇心に突き動かされて今にもこちらの方へ飛んで来ようとしていた。
園子は茜のびっくりした様子を見て微笑んで言った。
「ラピちゃんって言うのよ、この子。かわいいでしょう。高水のおばあさんの小鳥じゃないのよ」
園子は肩に小鳥を乗せたままコーヒーを運んできた。すると、小鳥が急に茜の方に飛んで来て、不意を突かれて一瞬身を引いてしまった茜の肩先に上手に着地すると、嬉しそうに行ったり来たり駆け回った。
突然、小鳥が肩に乗って来たので、茜はすっかり固まってしまった。
そんな茜を見て園子は自分の肩先を指先で軽く叩いて小鳥に手で合図して見せながら優しくその名を呼んだ。
「ラピちゃん、ここにおいで。ラピ、ラピ、ラピ、ここにおいで」
すると小鳥は小さな足で茜の肩を蹴って園子の肩へ飛び移って行った。茜は園子の肩にようやく落ち着いた小鳥を眺めた。
それは非常に綺麗な青紫のセキセイインコだった。
「小さな小鳥なのに園子さんの言う事が良く解かるのね。凄い利口なんだ」
ほっとしながらも興味深そうに見ている茜に園子が話し出した。
「この小鳥ラピちゃんっていうのだけど、私東京で拾ったのよ。一月の中旬ころだったわ。
あの日は都心の文化ホールにちょうど良い小スペースがあるので絵画展の場所にどうかと思って下見に行ったのよ。
ちょうどその日は写真展の初日で、お祝いの花篭が沢山入り口の外に飾ってあったのだけど、閉める時間だったので受付の人が外にある花篭を全部中に入れて壁際に片付けたのよ。
そしたら、その花篭の花の中に小鳥がとまっていたの。それがこのラピちゃんだったってわけなの。受付の人はこんな小さな小鳥も怖がるほどの怖がり屋の若い娘さんで、怖くて近寄ることもできないの。
可愛いセキセイインコだし、もしかしたら手乗りかもしれないと思ってそっと手を近づけたらこの指に乗って来たのよ。あの時のこの手の感触が何とも言えず印象的で、この子の足の冷たさとぎゅっとつかんだ小さな足の力が私のこの手に伝わって来てね。
それが強烈だったわ。小鳥を手にとめた経験なんて一度も無かったの。その時が初めてだったのよ。この子ったら黒い小さな丸い目で私の顔を見詰めたの。
私のこの手を両足でぎゅっと握っていたのよ。そうしたら冷たかったその足の感触が段々温かくなって来て、小さな命が必死に生きようとしているのを感じたの。
会ったばかりの私を信頼してくれたのがとっても嬉しかったわ。すっかりこの小鳥に魅せられてしまって、それでアトリエに連れて帰って来たの。
今ではすっかり馴れて私の可愛い家族なの。機嫌が良い時は、ラピちゃんラピちゃん、なんて自分の名前を言うのよ」
園子は愛しそうに小鳥の頭の後ろを指で軽く撫ぜた。小鳥は園子の柔らかい指の愛撫に頭を差し出して目を瞑りうっとりとして、さらに首筋を撫ぜて欲しいと言わんばかりに首を傾けて目を細めた。
「あらあら、撫ぜてあげると気持ち良さそうに甘えてるのね、驚いたわ。園子さんに自分の名前をちゃんと教えたのね。なんてラピちゃんはおりこうさんなのでしょうね。可愛いわね、園子さんの宝物ね」
茜は感心して小鳥の仕草に見惚れていた。
「あの日は本当に底冷えのする寒い日で、あのまま外に放置されていたら、きっと凍え死んでしまったと思うわ。ペットを飼っていても手に余ると簡単に捨ててしまうそうよ。
引っ越す時に置き去りにして行ったり、適当に外に放して行ったりするそうよ。この子はどうだったのか解からないけど、私の手をしっかり捕まえてしがみ付いている以上置き去りにすることなんて私にはできなかったわ」
園子はレタスの葉を少しキッチンから持って来た。すると、小鳥はいそいそと園子の腕をつたい、手に持ったレタスに飛びつき美味しそうに夢中になって食べ始めた。
( 続く )
2013年10月18日(金) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (2) |
第六章 愛しきもの 2203年 春 (2)
「それでどうやって連れてきたの」
茜が園子に話しの続きを促した。
「お祝いの花篭の花を適当な花瓶に移して、その花篭を譲ってもらったの。簡単にあり合わせの厚紙で花篭にふたを作ってね、それをテープで止めて出て来ない様にして、手に下げて来たのよ。
この子を花篭に入れる時、何か拍子抜けする位に簡単だったのよ。あの時、ここに入ってね、と言いながら花篭の中にそっと小鳥を下ろしたら大人しく自分から中に入ったの。
その時は偶然に上手く入れられたと思ったのだけれどね。あの時この子は私の言葉が良く解かっていて、その通りに言う事をきいてくれたのね。
今でも時々言葉が本当によく解かる小鳥なんだって感心してしまう事があるのよ」
そう言って園子は部屋の奥から白い鳥籠を持って来てテーブルの上に置いた。
「茜さんちょっと見ててごらんなさい。鳥籠に入るようにラピちゃんに言ってみるわね。ラピちゃんがどうするか見ててね」
茜はまさかそう上手く行く訳はあるまいと思いながらも興味深深で見ていた。
「ラピちゃん籠にお入りなさい。ラピちゃん籠にお入りなさい」
園子は肩に止まっている小鳥に向かって、小さい子供に話しかける様に優しく言葉を投げ掛けた。やがて小鳥は園子の肩から腕をつたい降り、テーブルの上をくるくると歩き回り園子の顔を見て躊躇した。
「ラピちゃん籠にお入りなさい」
園子が小鳥の目を見て優しく言葉を掛けて促すと、小鳥は籠の入り口にぴょんと飛び乗った。そしていそいそと自らの意思で籠に入り、下げてある鈴をチャラチャラ鳴らして遊び始めた。
「私、小鳥の事本当に知らなかったわ。何て可愛い生き物なの。まるでおとぎばなしの中に出て来る妖精みたいね」
「茜さんそれはちょっと違うみたいよ。この子は妖精じゃないんじゃないかな。とっても悪戯っぽくて気が強くて、妖精というより悪戯好きなやんちゃな男の子だわね」
茜は暫くの間未知の小さな生き物を発見した人の様に目を丸くして無邪気に遊んでいる小鳥に見惚れていた。
「可愛いな、小鳥がこんなに可愛いなんて知らなかったわ。私、高水のおばあさんが残した小鳥がもし私になついてくれたら一羽でいいから飼いたいな」
高水奈津子の死から一年ほどが過ぎていたが、茜はあの朝の孤独な奈津子の絶望的な気持ちを思うと胸が痛んだ。
「高水さんのお屋敷は暫くあのままなのかしら。高水家の後を継ぐ人は誰もいないのかしらね」
そう言いながら茜はあの日の事を思い出していた。高水奈津子が残した小鳥達と荒れ果てた庭にひっそりと残された古びた館の光景が様々に脳裏に浮かんだ。
奈津子の孤独な長い長い一生の後、彼女がこの世を去った後に残された小鳥達やあの館がどうなって行くのかが気に掛かった。
彼女の大切な小鳥達を近所に住んでいる隣人の茜や園子達に託し、昔からの親しい人達を呼び寄せて、見守られながら臨終を迎えても誰も迷惑に思ったりはしなかったのに、何故誰にも知らせなかったのだろうか。
何故たった一人で寂しく死出の旅路に旅立ったのだろうか。可愛がって育てたまるで彼女の子供のような小鳥達をまだ肌寒い早春の野に放した時、きっと悲しかっただろうに。
小鳥を放した事で高水奈津子に異変があったと直ぐ解かったのだから、あの小鳥達に重大な役目が託されていて、その役目は見事に果たされた事になるが、そんな方法は悲し過ぎる。
高水奈津子は日頃から小鳥を放す時がどのような時なのか回りの者に何度となく言っていた。
「またそんな弱気なことを言っては駄目でしょう」 と皆笑っていたが、現実に彼女の大切な小鳥達が梅林を飛び廻っているのを目にした時、その年寄りの戯言のような言葉が皆の心に大聖堂の鐘の音の様に鳴り響いたのだった。
温室には老いた小鳥が二羽残り外へ出て行こうとせず居間やサンルームなど部屋の中をふわふわと飛び回っていた。そして温室の高い所の止まり木の隅にいて茜や園子達を見下ろしていた。
奈津子はその二羽の老鳥が外へ出て行かずに館に留まる事を見越していたかのように、彼らの為に温室の中に沢山餌を置き、さらに雨どいの雨水を一部引き込み何時までも水の絶えない水場を作って用意していた。
また、外の小鳥達が温室に入って来れるように高い所の小窓が少しだけ開けてあった。自分が死んだ後も少しでも長く小鳥達が幸せに過ごせる様に色々考えて彼女なりにできる限り工夫していたのだ。
居間の暖かそうなソファーの上に毛布が敷かれ、小鳥の餌が大きな袋ごと口を開けて置いてあった。きっと外へ出た小鳥達が寒さをしのぎに戻った時に暖かく過ごせるように用意したものだろう。
奈津子が自分の死を前に、残して行かなければならない小鳥達の為に色々と心を砕いて準備した様子が館のあちらこちらに見られた。小鳥達のことがどんなにか心配で心残りであったろうとその心情がしのばれた。
そのような心のこもった奈津子の細かい気配りをそのままそっと動かさずに閉じられた洋館の中には今も黄緑色と黄色の二羽の老いた小鳥だけが仲良く暮しているのだった。
温室の中から呼ぶ仲間の声に誘われて小窓から館に戻る小鳥もいるかもしれない。どのように暮すかは自由な小鳥達の意志に任された。
そのうちに人々に忘れられ、うっそうと木々が茂る森のような庭の奥で、小鳥だけが住む古い館がこの先の長い年月をどのような時を刻み続けていくのかはその小鳥達だけが知っているのだろう。
( 続く )
|