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2004年08月17日(火) ■ |
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「バッテリーⅡ」角川文庫 あさのあつこ |
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「バッテリーⅡ」角川文庫 あさのあつこ 待ちに待った文庫の二巻目が出た。期待通り充実した読書が出来た。
「天才ならば、一人でも頂点めざしてやっていけるのだろうか」安易な答を著者は出さない。
中学・高校の六年間私は柔道部に入っていた。もし一人の天才がわれら弱小の部に入ってきたならどうだったろうと想像してみる。野球とは違い、9人でするスポーツではない。団体戦はあるが、一人ひとりが闘うしかない。残念ながら団体戦で敗退しても、天才には個人戦があるだろう。そこでずっと勝っていけば、一人の天才は世界の頂点まで勝ち昇っていくことが可能ではあるだろう。理論的には。
しかし、本当にそれは可能だったのだろうか。
天才原田巧は中学入学早々その問題にぶち当たる。柔道とは違い野球なので確執は必至だ。大人の私としてはやはり女房役の豪くんの言うように試合に出ることを最優先するべきだと思う。でも理不尽なことに屈したくないという巧くんの気持ちは一方ではものすごく大切なことだとも思う。ではどうしたらいいのだろう。それは読者がめいめい考えることなのだろう。
読んだ後、もう一度あの部活の時間に戻りたい、もっと自分の力を信じて自分を鍛えなおしたいと思った。大人にもお薦めだけど、やはり少年少女にも読んでもらいたい本ではある。
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2004年08月16日(月) ■ |
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「発掘された日本列島2004」朝日新聞社 文化庁編 |
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「発掘された日本列島2004」朝日新聞社 文化庁編 昨年発掘された主な遺跡の速報展の公式ガイドブックであり、2003年度発掘遺跡の豊富なカラー写真が入った概略本にもなっている。小さな(でも重要な事が多い)遺跡の発掘内容は分からないが、新聞で全国的に報道された遺跡の概略はこれで大体が分かる。いわば考古学の簡単な最新情報はまずこの本から、ということになるだろう。
実際、新聞でこまめにチェックしていたつもりだが、見落としていた遺跡、あるいは事物の多いことがわかった。九州奴国の首長クラスの墓とされる安徳台遺跡、報道を見落としていたと気づいた。岡山県のすぐそばの智頭から縄文集落が発掘されていたのは知っていたが、こんなに豊富な出土品があったとは知らなかった。唐古・鍵遺跡から出土した葛鉄鉱容器に納められた最大級のヒスイ製まが玉はいろんなことを想像させられる。今回早川和子氏の当時の状況を復元したイラストが多用されている。いい試みである。大事なのは遺物だけではない。遺物が使われた状況なのだから。この本を読むだけでいろんなことを考えさせられるのだから、実際速報展に行って実物を見ることでいろんな刺激を受けることは必至であろう。速報展は東京を皮きりに、群馬、岩手、石川、奈良、高知、神戸とまわっていく予定。私もなんとしてでも近くの速報展に行くつもり。
今回速報展、10周年を記念して各時代の主要な遺跡を特集している。特に縄文の三内丸山、弥生の青谷上寺地はお勧め。
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2004年08月15日(日) ■ |
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「青春18きっぷでたのしむ鉄道の旅」小学館文庫 |
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「青春18きっぷでたのしむ鉄道の旅」小学館文庫 あてのない一人旅が好きな私なのだが、今まで青春18きっぷの使い方を全然知らなかった。この本はそういう「初心者」に関してはぴったりの本だろうと思う。おそらく鉄道マニアにとっては雑誌などですでに知っている事ばかりなのだろうな、と思いながら読んだ。
効果的な使い方、とくにきっぷ使用期間に出る特別列車「ムーンライト」シリーズの使い方など大変参考になった。夜の12時をまたいで使うときにはきっぷを途中まで買っておくなんて考えも着かなかった。今度はのんびり電車の旅もいいかもしれない。しっかり本も読めるし。
追記 8月7~8日、青春18きっぷを使い、岡山県倉敷駅から新見まで伯備線、三次まで芸備線、そこで遺跡めぐりをして、広島まで行って泊まり、次の日は原爆資料館、頼山陽記念館、広島限定上映映画「父と暮らせば」などを見て、尾道で途中下車し「朱華園」で尾道ラーメンを食べ、倉敷に帰りました。後三日分ある。早く使い切らなければ(^^;)
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2004年08月14日(土) ■ |
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「わが青春の考古学」新潮文庫 森浩一 |
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「わが青春の考古学」新潮文庫 森浩一 森氏の大学卒業までの半生記であると共に、戦中、戦後の考古学の関西地域の実録にもなっている。「僕は考古学に鍛えられた。もっと率直に言えば、考古学を通して自分で自分を鍛えた。」という森氏はまさに青春時代を考古学、あるいは「発掘」一色で過ごしている。その中で借り物ではない、自分のスタンスを持った意見が生まれる。
「一人の生涯のあいだに、一度も遺跡保存のために努力も発言もした事のない人は、本当の意味での学者ではないと確信している。」氏の弟子に当たる佐古和枝氏が妻木晩田遺跡の保存に成功させたのはそういう事なのだと納得。
「考古学の事を英語ではアーケオロジーという。…よく冗談で考古学はアルケオロジーといったものだ」それはなぜか。氏が学生時代に創刊した機関紙に書いているように「考古学は遺物の学としてより、遺跡の学へと進歩しつつある」博物館で見るだけではわからなかった事も実際の現地に行けばわかる事がある。ときには遺物がどのように埋められていたかということが研究に決定的な事実を付きつける事もあるのだ。しかしそれだけではない。遺跡から見える風景が大切なのである。私もその場所に立つだけで、遠く弥生時代の生活者の人生が迫ってくることがある。いろいろと共感するところが多い本ではあった。
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2004年08月13日(金) ■ |
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「弥生時代」の時間 学生社 大塚初重 |
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「弥生時代」の時間 学生社 大塚初重 この間の考古学、とりわけ縄文・弥生時代の学説の変遷は著しい。考古学は「実証学問」であるから、一つの発見が大きく全体の学説を塗り替えていくのである。かって東北地方には弥生時代の稲作はなかったといわれていたのだが、青森県の垂柳遺跡から水田跡が発見されると、東北地域にも非常にスムーズに弥生文化が伝播したということになった。環濠集落は日本の発明かといわれていたのだが、韓国の検丹里遺跡が90年に発見され、朝鮮半島経由の集落形態だということがやっと証明される、という具合である。そういうことなので、分かりやすい弥生時代の概説本は今まで数冊あったのだが、ほとんど時代遅れになりつつあった。その中でのこの本の刊行は時期に叶ったものであったとも言える。特に2003年は加速器質量分析法により弥生時代の実際年代が大きく早まる可能性が出てきた年である。この本は99年の講義を基にして書かれてはあるが、いち早くその研究成果を取りいれている。学説として定まっていないのでまだ曖昧な表現で少し分かりにくいところはあるが、鉄器・青銅器・土器編年表にその学説を反映している。それによると今まで中国・朝鮮の文化の伝播は50~100年のタイムラグがあったと考えられていたのだが、もっとすばやく輸入されたように考えられる。あるいは魏志倭人伝の資料としての年代が非常に信頼できるものとして現れてくる。などである。基礎年代が変わるという事は応用的な考察が遥かに大きく変わるということだ。これからの考古学は面白いぞ。
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2004年08月12日(木) ■ |
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「日本縦断 徒歩の旅」岩波新書 石川文洋 |
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「日本縦断 徒歩の旅」岩波新書 石川文洋 2003年7月15日、北海道宗谷岬をスタートして、12月10日、沖縄那覇市に到着するまで、65歳の石川氏は日本海ルートを通って全て徒歩で歩きとおす。 難しい動機があるわけではない。「歩いて旅をしたかった」男の子なら一度は持つ夢である。正直な予算の公開、リュックサックの詳細な中身、朝・昼・夕飯の内容、宿の感想、そして出会った人たちの名前と年齢、自然、本当に正直に毎日の行動が記録されている。文章は素朴そのものだ。しかし、ジャーナリストとして事実を伝えようとする氏の誠実さは充分伝わるし、旅の中でふと思う感想から氏の戦争カメラマンとしての半生が浮かび上がる。 たまたま出会ったおばあちゃんの83年間の人生を聞く。夫のビルマ戦死、二人の子どもを育てた苦労、「元気の素」は娘二人と孫六人、曾孫13人なんだよ、というようなことを聞いていく。氏はあくまでジャーナリストなのである。文は見事に「足で書く文章」(報道記事の基本)になっていた。
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2004年08月11日(水) ■ |
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「列島考古学の再構築」学生社 板橋旺爾 |
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「列島考古学の再構築」学生社 板橋旺爾 この本の良い所は二つある。一つは著者が新聞記者であり、いわゆる考古学専門家ではないということだ。よって記述は考古学の一時期を扱うことなく、旧石器から弥生時代にかけて満遍なくほぼ最新の研究成果を紹介している。もう一つは前身が教育委員会の文化課なので、学者に近いところにいたということもあり、記述がわりと突っ込んだところまでされている。 しかし、良い所はコインの裏表で欠点にもなる。旧石器、縄文、弥生と本来三冊は必要な枚数の中に専門的な内容をいれているために、専門用語が多すぎる。著者は本当によく本を読んでいると思う。しかし、新聞記者なら新聞を読んでいる読者を想定して書くべきだと思う。考古学ファンの私が分からない用語を多用するのは問題であろう。たぶん著者は考古学の専門家に向けてこの本を書いているのだろう。また発刊の時期が去年の春なので、弥生時代の実年代の見なおし論で出る前だったせいもあり、その事が反映されていないのも残念なところである。
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2004年08月10日(火) ■ |
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「対論!戦争、軍隊、この国の行方」青木書店 |
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「対論!戦争、軍隊、この国の行方」青木書店 今井一 渡辺治 小林節 伊藤真 畑山敏夫 2003年10月15日、改憲派の小林節と畑山敏夫、護憲派の渡辺治と伊藤真がシンポジウムを開きガチンコの論争をした内容と、アフターシンポで各論者の主張を載せた本である。2005年にも『改憲』が政治日程に登っている今、こういうガチンコ勝負はしすぎるという事はない、大いにやってもらいたい。 もちろん『朝まで生テレビ』のように相手の意見を封じ込めような議論は不毛である。しかし『噛み合った議論』というものはいろんなことを明かにさせる。例えば『現実』という事に対して、各人が思っている内容は見事に対象的である。例えば改憲派はイラク派兵についてどう思っているのか、意外とも思える事が分かる。例えば護憲派は国民投票についてどう思っているのか、決して反対しているわけではないということが分かる。 シンポジウムで言い足りなかった事を補足する保証も取りつけていて、この企画はこれからの運動に対して一つの示唆を与えている。
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2004年08月09日(月) ■ |
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「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 |
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「清水幾太郎」神奈川大学評論ブックレット 小熊英二 清水幾太郎は私がその名を覚えた頃にはもうすでに充分「平和論者から転向した核武装を唱える右派論者」という評判を取っていた。当時日本思想史を学んでいた私は、思想というものは周りがどうであろうと本人の中で一貫した原理が無いとそれは「ニセ思想」であるという認識に至っていたが、清水幾太郎はその反面教師として興味を持っていた。そして彼についての評論を読んでみて、私が思ったのは「結局この人はいいかげんな人だった」という印象だけであった。そう思ってしまったのは彼についての評論が戦後の活躍から始められていて、生い立ちから述べられていなかったからなのだ。
今回のこの本格的な評伝を読んで私はやっと彼の中に「一貫した思考のスタイル」というべきものを発見した。戦前に日本橋から深川の「スラム街」に引っ越した清水はスラム脱出のために「インテリ」に憧れる一方、「高い地点」から抽象的な概念を説く「インテリ」に反発する。「こうしたアンビバレントな姿勢は、清水の中で〈西洋的な知識人〉と〈日本の庶民大衆〉という対立図式をつくり、やがて彼のナショナリズムの根底をなしてゆく」。自分は支配者層の立場に居なかった、という認識が戦中の左から右に移った事に対する無反省を生み、「論壇」で有名になることを好み熱中しやすい性格が、その後の右と左を往来する人生の基になる。もちろん彼に「思想」は無かった。しかし「一貫した思考のスタイル」はあったのてある。それはひとり清水だけの問題なのだろうか。
この文章は当初小熊の「〈民主〉と〈愛国〉」の1章としてかかれたのだという。しかし分量の関係から割愛された。そういう意味ではこの本はあの大著の外伝という性格を持っている。清水に対する問題意識はそのままこの大著の中で十二分に展開されるのだろう。
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2004年08月08日(日) ■ |
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「古代吉備を語る会」出雲西部への旅04.05.30 |
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5月30日に行われた「古代吉備を語る会」は、去年の出雲東部に引き続き、出雲西部地域の見学バスツアーです。
安来の料金所を通りすぎ、宍道から高速を降りて、国道54号線を山方面に上がっていくと、右手側に加茂岩倉遺跡の看板があります。ここで39個もの銅鐸が偶然発見されたのが96年、たった8年前です。とはいっても私は当時の熱狂をあまり覚えていません。まだ本格的に考古学に入れこんでいなかったのだと思います。当時、駐車場は遠く、延々数キロ歩いてこの不思議な谷に来たそうです。いまでは駐車場もあり、アザミ咲き、蛇イチゴ実る畑道を一キロほど歩くと遺跡に着きます。
2年前に私がふらりと見学に来た時には無かったガイダンス施設が完成していました。そこから谷の反対側を眺めると遺跡が見えます。39個もの銅鐸が本当になんでもない谷の斜面に埋められていたのだということが分かります。現在その「場所」では、ショベルカ-が「ごろごろ出てきたのはバケツではなく銅鐸かしら」と気づいて工事を止めたまさにその瞬間の状況をレプリカで再現しています。埋めたままの状況で残っていたのはわずか2組4個でした。あと1分気が付くのが遅れたらそれさえも破壊されるところでした。荒神谷遺跡がすでにあった島根県だから工事の人もピンと来て残ったのだとも言えるでしょう。銅鐸は小を大の中に入れる「入れ子」状態で埋めていました。銅鐸のすぐれた絵画性、荒神谷遺跡の銅剣にもある「×」の印(出来上がったあとでタガネで付けたらしい)、ほかの地域との関連性、解くべき「謎」はあまりにも多い。それがこの遺跡の特徴です。専門家はともかく素人の我々は好き勝手な事を考えればいいのだから「ドキドキ」します。
最大の謎は、なぜこんなにも多くの銅鐸がここに埋められたのか、という事です。案内してくださった島根教育委員会の西尾克巳氏は「(ここが特別聖なる場所だったことは)まったくない」といいます。聖なる岩「いわくら」は山を隔てた向こう側、神の降りる山「かむなび山」の仏経山はこの場所から見えない。川もない交通から遮断された場所です。銅鐸が入っていたのと同じような袋状の穴が、すぐそばにもう一つあったといいます。それを基に、諏訪神社のように何年かおきに埋め変えをして祭りをしていたのだという説を唱える人が居ますが、私は「聖なる場所」でないところでそんなことをするとは思えません。その穴は木製祭祀とかの有機物が埋められていたのでしょう。私は(かってに)断言しようと思います。『39個の銅鐸は、銅鐸祭祀を行っていた勢力の衰退あるいは滅亡を前に、「隠された」か「捨てられた」のである。』『荒神谷の銅剣銅鐸もほぼ同じ理由で埋められていたのである』あそこも「聖なる場所」から無縁でした。そして『そのあとにこの一帯を支配したのが西谷墳墓群の首長たちであった』西谷墳墓群から一つの銅剣銅矛銅鐸も出ていない事がそれを証明してないでしょうか。加茂岩倉も荒神谷もまったくの偶然で見つかった遺跡です。青銅器を埋めている場所がこの二ヶ所だけだったという想像はかえって不自然でしょう。必ず他にも青銅器は埋められていると思います。確かにこの辺りは弥生中期から後期初頭にかけて、倭国有数の青銅器祭祀を行っていた場所だったたのでしょう。西谷墳墓群の人たちは『鉄』を背景に強い力を持っていたのかもしれない。しかし青銅器祭祀の人たちは自ら変わったか、あるいは争いごと無く、彼らに支配権を譲ったような気がします。当時の争いごとがあった事を示す遺跡が無かった事がそれを示しています。
いや、一つ気になる遺跡があります。ここの地域から完全に離れた出雲東部に、三重の環濠に囲まれた祭祀のためとしか思えないような小高い山、この遺跡と同時期に作られた田和山遺跡があります。ここの青銅器と田和山で使われた青銅器はたぶん違うものだとは思いますが、あの三重の環濠は何かの緊張状態を示しているのかもしれない。
いけない、いけない。妄想が暴走していますね。閑話休題。もとに戻ります。
そのあと、荒神谷遺跡に行きました。バスは回り道していきますが、加茂岩倉からは直線距離にして3.4キロしか離れていません。今から20年前(84年)農道の事前調査のときに358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が見つかったとのことです。ここもなぜ埋められていたかは『謎』です。しかもなぜかすぐそばに浅い穴が三つあります。
特別にすぐ近くまで寄って見せてもらっていた我ら見学隊は『異常』を発見しました。銅矛が15本しかない! レプリカとはいえ貴重なものです。1本の銅矛が盗まれている!「大事件ですねえ」と西尾氏は平静な声で言いました。
昼食をはさんで西谷墳墓群に行く。この遺跡が斐伊川の河口付近にあるのは偶然ではないだろうと思います。この川を上流にたどっていくと近世まで製鉄で盛んだった吉田に行きます。この川はおそらく弥生時代から鉄を産する川だったのではないか。当時の製鉄遺跡はまだ見つかってはいませんが。
西谷の駐車場に行くとびっくりしました。2年前ここに来たときと違い、公園として整備されているのです。西谷墳墓もずいぶんときれいになり(まだ整備中ですが)印象が変わりました。荒神谷もなにやら施設が建設中だったし、加茂岩倉はガイダンス施設が作られていたし、島根県はここ数年、「青銅器のクニ」として遺跡の整備に相当力をいれているみたいです。それはそれで凄いし、岡山県もぜひ見習って欲しいのですが、一方で同じ弥生遺跡である田和山遺跡は病院建設のために潰そうとしました。「遺跡の保存」は基本的には住民の運動がない限りはあり得ない事は肝に命じておきたいものです。
西谷墳墓群は弥生後期の四隅突出墓が6基あります。4号3号は相当大きい。後世の古墳といってもいい位の大きさ高さを備えています。真四角で各隅に突出があるのが特徴。そして吉備との関わりが非常に濃い。特殊器台(吉備から発生した後継祭祀用の器台)の大量出土、二重の棺、大量の朱の使用、剣玉の副葬品が共通なのです。王族同士の婚姻関係があったといわれる所以です。また北陸福井県小羽山30号墳との類似性も指摘されています。
ちょっと妄想モードへ。倭国の乱は「恒・霊の間」(147~189)といわれています。配ってくれた島根教育委員会が作っている『墳丘墓の変遷表』を見てみると、3、4号は180年代頃、もっとも大きい9号墳は240年頃の造営となっており、吉備の楯築墳丘墓は3、4号墳と同時期、となっているのです。となると、3、4号墳と楯築はまさに「倭国大乱」の真っ只中で造営されているということであるし、加茂岩倉、荒神谷に青銅器を埋め、青銅器司祭が出雲で無くなったのは大乱の直前だということになります。そうだとすると、140~180年頃、出雲と吉備で明かに倭国大乱に関わる大きな変化があったのです。一つは「鉄」を巡る変化でありましょう。考古学的発見はまだなされてはいませんが。そしてその頃吉備と出雲に新しい世代の「若者」が登場しているはずです。私は突然墓が大きくなったのは葬られた人間が英雄だったとは思いません。葬る側の後継者がそれだけの力を持っていたのです。墳丘墓における特殊器台を使った祭祀はその事を周囲の人たちに認めさせる一大イベントだったはずです。この墓に出土する土器以外にもいろんな人間が葬式に参加したのだ(レーガン元大統領の葬式のように)、とは考えられないか。この葬式で若者たちは「飛躍」する。だとすると彼らがもっとも活躍したのは170年以降でしょう。彼らは大乱を治めるために活躍したのです。楯築と西谷で突然墓を大きくし、葬式という一大イベントを起こし、それがそのまま大乱回避のための仕掛けにもなったのではないか。そしてその頃卑弥呼が擁立されます。果たして彼らは友人同士だったのか、あるいは反発し合っていたのか、この頃いったいどのようなドラマがあったのでしょうか。(卑弥呼を巡る三角関係だとちょっと面白いですね)その後出雲ではさらに大きな墳丘墓(9号墳)が出来ますが、吉備では出来ません。この60年間を一人の若者が生きているとするには長すぎますので、ある世代は盟友同士だったが、ある世代になると反発し合っていたのかもしれません。しかし9号墳の数年後に大和に箸墓古墳が出来るのです。出雲の首長は出雲地域を離れる事は無かったが、吉備のリーダーは各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで3~4世代は必ず必要ですし、その時代のリーダーの思想を知る手がかりがこの出雲にはあるのです。この半月間私は出雲から帰り、いろいろと妄想が膨らんで仕方ありませんでした。
最大規模の四隅突出墓、9号墳の発掘を是非してもらいたい。それで全てが分かるとは思いませんが。
その後一挙に時代が300年ほど飛んで古墳時代の三つの墓を見に行きました。それはそれは見事な石室で、「観察」という観点では、ここから本番なのかもしれませんが、いかんせん私の興味範囲は弥生時代まで。私のレポートはここまでとさせてください。
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