2002年02月23日(土) |
俺の目は違うらしい(微)。 |
妻の日記より。 問い詰めたら、「いとうちゃんはらぶりーだから」とかわされてしまった。 絶対に言いくるめられてると思うのは俺だけではないはず。くそ。
あー。カラオケ行きてー(謎)。
システムの功罪、について、とあるきっかけから考えていて、 今の時点での結論として、「システムは道具に過ぎない」 という場所に行き着いてるのね。
どんなシステムであろうと、システムそのものに罪はない。 なので、システム批判は基本的に意味がない。 批判されるとすれば、 それはシステムの運営者、そしてシステムへの参加者、 それぞれに対する姿勢/あり方を批判すべきじゃないかなと。
んー。抽象的すぎるな(笑)。ま、いいや。
詩の批評なんかでも、最近思うんだけど、 その詩がそういう形式(システム)を取っているのかという観点からの批評は なんか意味がないように思い始めてる。 たとえば平仮名だけで書かれているとか、 ビジュアル詩だからとか、 空白を多用しているからとか、 …を使ってるからとか、 それはその詩がそういうシステムだから悪いのではなく、 そのシステムを使いこなせていないからなんじゃないだろうか。 どう書かれているのかってのは、 もちろん詩を読むにあたり重要な要素だけれども、 それを額面どおりに受け取るのではなく、 そのシステムを使うことによる効果が現れているかどうかを 論じるべきなんだろう。
ちょっと前に、TBSのガチンコのラーメン道で、 ミソラーメンを作って1位になったような、 あんまり憶えてないんだけど、なんかそういうのがあって、 ミソラーメンってのはシステムなのね。 ああいった勝負(?)においては不利なシステム。 ミソラーメンであることに寄りかかりやすいから。 けれどそれは、 ミソラーメンだからダメって言われるようなものじゃなくて、 ミソラーメンというシステムの中でどのように表現しているのか、 それを判定されてこそ、良い悪いが決まるべきものなんだろう。
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