月の輪通信 日々の想い
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ひいばあちゃん、入院10日目。出張中だった義兄が帰ってきて、ひいばあちゃん「帰りたい」モード復活。主治医と外泊の相談をする。ベッドが窓際の明るい場所に移動し、ひいばあちゃんは「いい風が入る」とご機嫌。
朝一番に、急に役所関係のお客様を引き受けて欲しいという連絡が入って、急遽工房の玄関やお茶室の掃除に大忙し。アユコが手際よく手伝ってくれて、助かった。 季節柄、工房の前の通りは朝からハイキングの家族連れや遠足等の団体がひっきりなしに通り過ぎていく。 忙しく玄関を掃いていたら、 「すんません、生物部で、これから山へ登るんやけど・・・」とハイキング姿の中年の男性が話しかけてきた。 「自転車乗ってきたらアカンというてあったのに、乗ってきた生徒がおって・・・。ちょっと自転車置かせてもらえへんやろか?」 知らない顔だとは思ったけれど、へんに親しげな砕けた口調だったし、学校名も名乗らずにいきなり「生物部で・・・」というので、子ども達の学校の先生かも知れないと思いこんでしまった。 横から義父が「今日はこれからお客さんがみえるので・・・」と断り口調で答えているのに「2台だけなんで、その辺の隅にでも・・・」と庭の一角を指差して食い下がってこられる。 「では邪魔にならない所に・・・」という事になって、教師が先に行っていた自転車の女の子たちを呼び戻して自転車を止めさせる。 「それじゃあ、すみません。2時間ばかりで帰ってきますから」 と、その教師はピョコリと頭を下げていった。 なんだかなぁと思う。 後で自転車を見ると、泥除けに私の知らない高校の校章のシールが張ってある。どうも全く顔見知りでもなんでもなく、ただの通りすがりの一団だったらしい。
普通初対面の人に物を頼むときには、せめて「生物部で・・・」ではなく「○○高校の生物部の者ですが・・・」と、校名まで名乗るのが礼儀だろう。 ルール違反の生徒がいて対処に困った事情は分かるけれど、見ず知らずの他人に物を頼むのに、いきなり同僚にでも話しかけるような砕けた口調も非常識だ。 こちらが断り口調になっているのに「そのへんに2台くらい置けるだろう。」とばかり、自分から庭の一角を指差すのも感じが悪い。 自転車を置きにきた二人の女生徒たちもこちらに会釈一つをするでもなく、教師もそんな二人の態度を叱りもしない。 ダメダメな教師の下では、ダメダメな生徒が育つのだなぁと朝から気分が悪かった。
教師という人種の中には一般社会の常識をちゃんと身につけていない人が多いと言われる。 私が子ども達を通して出会った先生方のなかには、幸いにしてそんな非常識な教師はそれほど多くはない。たいがいは子ども達への深い愛情と強い責任感をもった立派な先生方ばかりではある。 それでもなお、今日のような感じの悪い教師に出会うと「やっぱりな、教師ってヤツは・・・」と思ってしまう感覚が、私の中には確かにある。 休日にも関わらず、朝早くからクラブ員を率いて野外観察に出かけてくる。おそらくは日々の職務に真面目に取り組んでおられる先生なのだろう。 「自転車置かせてもらえんかなぁ。」という親しげな口調は、生徒達や保護者達に対して使われるなら、気さくで話しやすい先生と評価されているのかもしれない。 学校の中でなら、多分そこそこ有能で生徒達にも人気があるかもしれないその先生が、何故子ども達を率いて学校の外に出るとああいう「なんだかなぁ」という態度が見えてしまうのだろう。 「青少年の育成のためには、周囲の人も一般社会も協力、支援してくれて当然」というような教師特有の驕りの匂いも感じられてイヤになってしまった。
自転車のシールで分かった学校名は来春、オニイも受験可能な学区内のかなり評判のいい公立高校。 たった数時間、数台の自転車の置き場を提供したというだけのささやかな出会い。格別口角泡を飛ばして怒るほどの腹立たしい事柄でもない。 けれどもなんだか気分が悪い。 こういうささやかな苛立ちというのは、結構尾をひくものである。
ひいばあちゃん入院9日目。 ベッドの上で相変わらず、「退屈やなぁ」と寝たり起きたり。見た目は普段どおりに元気なだけに、病室のカーテンの中で過ごす単調な一日は本当に長く感じる。「家に帰ったらなんなと仕事が溜まっているはずやのに。」と家を恋しがっておられる。 「ひいばあちゃんがやり残してきたお皿の裏の釉薬掛け、かわりにあたしもやってみたけどなかなかひいばあちゃんのように手際よくは行かんわ。」と仕事の話をし始めたら、興に乗って仕事場の話を長い事喋ってくださった。
「ここへ来る前にな、にいちゃん(義兄)かおとうちゃん(義父)かのために水指やら何やらこしらえて、かこて(囲って)きてあるんや。あれがどないなってるんか、気になってなぁ。」という。 ひいばあちゃんは、釉薬掛けの仕事のほかに、義父や義兄の作品のために水指やお茶碗の原型ともいえる大まかな形を手びねりで拵えておく仕事をもう何年も続けてこられた。 ひいばあちゃんがひねっておいた荒型を義兄や義父が削りをかけたり、装飾をつけたりして作品として仕上げていく。こういう分業は窯元では古くからよく行われている。作品には窯元としての義父や義兄の印が押され、原型を作ったひいばあちゃんの名前は表にはどこにも出ない。 そんな裏方の職人仕事をひいばあちゃんは何年も何十年も黙々と続けてこられたのだ。 「自分の作ったモンがなぁ、にいちゃんやおとうちゃんが仕上げしてくれて、思いもかけん作品になって仕上がってくるのンがホンマに面白いんや。 仕事というのは面白いモンやなぁ。」 としみじみおっしゃる。 少女の頃から、窯元の仕事場に入り、延々と職人仕事をこつこつと努めてこられたひいばあちゃん。窯元の作品として世に出ている作品の中には、ひいばあちゃんが釉薬掛けの合間にこつこつと手びねりで拵えた原型から仕上られた作品が数え切れないほど多い。 この皺だらけの小さな手から、一体何百個の作品が生まれたのだろうと考えるとなんだか気が遠くなりそうになる。
「97歳になっても仕事は楽しいですか。」と訊ねると 「ああ、楽しいなぁ。夜、寝るときに『今度はどんなモンを作ったろうか』『明日は何の仕事をしようか』と考えるのが何より楽しい。」と、夢見るような笑顔で答えてくださる。 ひいばあちゃんのご機嫌に乗じて、もうひとつ、日頃訊ねた事のない質問をしてみた。 「ひいばあちゃんはたくさん作品を作るけど、一個もひいばあちゃんの印を押した作品はないでしょ?それでも楽しい?」 「ああ、楽しい。作ったモンには『吉向』の印が押してあったら吉向の作品やからそれでええんや」 と即答してくださった。 何年も何年も縁の下の仕事をしていていたら、いつかは作品に自分の印を押してみたいとか、自分の名前で作品を世に問うてみたいとか、そういう欲目というか作家志向のようなものは現代の人たちの思うことなのだなぁ。一生こつこつと職人仕事に徹して、その作業そのものを心から「楽しい」と思い続けることの出来る明治の人の静かな職業観の確かさ、豊かさに感嘆してしまう。
「家に帰ったら、さぞかし釉塗りの仕事が溜まっているやろうな。」 父さんはいつも、数物のお皿の釉薬掛けの仕事がたまると、「おばあちゃん、やっといてや。」とひいばあちゃんに声をかける。ひいばあちゃんも歳を取ってその仕事のできばえに時々不都合が出ることもあるけれど、それでもひいばあちゃんの熟練の手が空いた時間にこつこつ仕上る下仕事はまだまだ仕事場の大事な戦力でもある。 また、高齢を慮ってひいばあちゃんからいつもの仕事を取り上げたりしたら見る見るうちに気力も衰えてしまわれるかも知れないという心配から、わざわざひいばあちゃん向けの仕事を残しておいたりする事もある。 「ひいばあちゃんの釉塗りのお仕事、代わりに私も手伝ってみたよ。」と 仕事の停滞の心配を解いて差し上げようとしながらも、「やっぱりひいばあちゃんのようにはうまくは行かんね。さすが97歳の年季やね。」とうんと持ち上げておく。
「いろいろあるわなぁ。」 ひいばあちゃんは口癖のように何度も繰り返して呟いておられる。 「仕事は楽しい。土を触っていると時間がたつのも忘れてしまう。ここ(病院)は何にもすることがないから、時間がなかなか過ぎひんなぁ。」 間仕切りのカーテンで仕切られたひいばあちゃんのベッドには外の日差しや風が直接入ることはなくて、なんとなく時間の概念が狂ってしまいがちだ。時々夕方の4時を明け方の4時と勘違いしておられる事もあって、 「なかなか夜が明けへんなぁ。」と何度も何度も目覚まし時計を撫で回しておられる。 「夜が明けるまで仕事をせんならんときもあるんよ。そんなときもあるんやけど、まぁ、楽しみやな。うん、うん。」 たくさんお喋りして、笑って、ひいばあちゃんはまたうとうとと眠ってしまう。耳の悪いひいばあちゃんはご自分も大きな声で話すので、たくさん喋ると心地よく疲れるのだろう。 ほんの5分か10分、うとうととまどろんでいたかと思ったら、ふわっと目が覚めて、先ほどの話の続きをポツポツ語り始めたりなさる。 そのきまぐれなインターバルをはさんだひいばあちゃんとの会話が、私にはひいばあちゃんの言葉をうんと咀嚼する時間を与えられているようで、心に染みる。
日頃、家ではひいばあちゃんとは「お茶いれようか。」とか「TV変えてもいい?」とか日常の短い会話をかわすことが多かった。耳が遠くて複雑な会話には時間がかかるし、間に義父や義母の通訳や子ども達の茶々が入ったりする。 今回、入院の付き添いという事でひいばあちゃんと一対一で長い時間を一緒に過ごすという機会を与えられた。ひいばあちゃんの頭の中にある人生の知恵とか仕事への哲学とか、豊かに刻み込まれた金の言葉の数々を真新しい奉書紙に包んで押し頂いて持ち帰る。 97歳の皺だらけのひいばあちゃんのたくさんの豊かな記憶や想いが、高齢による衰えや難聴による会話の不便のためにその小さな体の中に封印されて、おそらくはその多くが語られることなく閉じていくのだという事実が誠に惜しい、もったいないことだなぁと深く感じる。
もっとも、ひいばあちゃん自身にとっては、そんな貴重な記憶も想いも「語るに足らない自明のこと」に過ぎないのだということが、本当はひいばあちゃんの偉大さの由縁なのでもあるけれど・・・。
ひいばあちゃん、入院8日目。 午後から付き添い。食事もたくさん取っておられるようなので、看護婦さんに許可を貰って、ひいばあちゃんの好きな大福餅をおやつに差し上げた。 家ではいつも三時のお茶の時間には何かしら甘い物を口になさるひいばあちゃんが、入院してからは食事以外のものは食べておられなかったので、「まあ美味しそう」とニコニコしながら召し上がった。 こうして病院のベッドにおられても、食べる事に意欲的で、なんでも美味しそうに召し上がる様子は、生きる事への強い意志が感じられるようで何となく気持ちがよい。
朝、ゲンと一緒に慌てて登校していったアプコが、しばらくして顔見知りのウォーキングのおばさんに連れられて戻ってきた。途中の道で転んでワァワァ泣いていたのだという。鼻の頭にほんのちょびっと擦り傷があるところを見ると顔から転んだのか。どちらにしてもたいして怪我をしている訳ではない。あたしだったら、服の汚れをパンパン払って「さあ元気出して、行って来い」と再び送り出してしまうところだけれど、あんまり泣いているのでかわいそうに思って連れて帰ってきてくださったのだろう。 一緒にいたゲンには、先にいっていいよとわざわざ言葉をかけてくださったのだそうだ。 誠に親切な方が通りかかってくださって、ありがたいことだとは思うけれど、本当は登校途中で小さい妹が転んで大泣きしているとき、どう対処すればいいかあれこれ苦悶するのも新米班長のゲンにはいい勉強の機会だったのになとちょっぴり残念だったりもする。
下校後、担任のM先生からの電話。 「他の子ども達から聴いたんですが、アプコちゃんが今朝、登校の途中で転んで、蜂蜜屋さんの看板で頭を打ったそうなんです。お母さんご存知でしたか?」という。 確かにそのことは知っているけれど、アプコが転んだのは蜂蜜屋さんよりずっと手前だし、看板もないところですよと答える。 小学一年生の子ども達の情報伝達能力って、まだまだそういうレベルなんだな。なんだかお間抜けな伝言ゲームのように話に尾ひれがついているのが可笑しくてM先生とひとしきり笑った。
2005年04月27日(水) |
「ピザピザピザ」その後 |
午後からひいばあちゃんの病院へ。 顔を合わすなり、午前中付き添っていた義父母がうとうと眠り込んでいる間に黙って帰ってしまったのが寂しかったと幼児のようなかわいらしい訴え。「じゃあ、私はひいばあちゃんが起きてるときに、ちゃんと『帰るよ』といってから帰るからね。」と約束する。 足のむくみがすっかり取れて、もう今すぐにでも退院できそうな気になっていらっしゃるらしい。全快祝いには、家でみんなでお好み焼きを食べたいとリクエスト。 う~ん、ひいばあちゃんが考えているよりはもうちょっと退院は遅くなりそうなんだけどなぁ。あんまり期待が大きすぎると、入院が延びた時のがっかりが心配。
夕方、ゲンの担任のT先生から電話を頂いたとのこと。 昨日のTくんとのトラブルのことだろう。 ゲンに訊くと、「うん、T先生が話をしてくれて決着着いたと思う」と明るい顔で報告してくれた。朝の会の前にT先生に昨日の悔しかった事を話したら、次の中休みには相手の子達を呼んで、ちゃんと叱って謝らせてくれたのだと言う。 「さすがT先生。仕事が早いね。」 といったら、「うんうん」と嬉しそうにゲンが頷いた。
去年の担任のK先生にも、ゲンは何度かTくんたちのことを訴えたのだけれど、どうもその場限りの対応であまり真剣に対処してもらえないように感じて、「先生に言っても無駄」というような不信感や無力感が何となくゲンの中には残っていたように思う。 昨日Tくんたちの嫌がらせにあったときにも、果たして新しく担任になったT先生に訴え出るかどうかゲンは微妙に悩んでいるようだった。 私自身もよそのクラスの子のことでもあるし、嫌がらせ自体が遊びともいじめともつかない微妙なレベルだった事もあって、あえて積極的に「T先生に相談しなさい」とは言わずにおいたつもりだった。 それでもゲンが朝一番にT先生に話をしに行ったということは、彼がT先生を信頼に足る味方であると判断したということなのだろう。 私にとってはT君問題の解決よりも、ゲンが再び信頼できる先生の存在を認めたという事のほうが嬉しかったりする。
夜、再びT先生からの電話。 ことの顛末を説明していただき、これからも何か問題があれば遠慮なく教えて欲しいといっていただいた。 私が「ゲンがT先生に話をしに行けたのは、先生を信頼できる人だと判断したからだと思う」とお伝えしたら、「それでは、今日のことは私にとってもとてもうれしいことだったんですね」とこたえていただいた。私自身の想いもまた、T先生には汲み取っていただけているのだなと感じて嬉しかった。 放課後、ゲンはT先生に「T君たちに話をしてくれて、ありがとうな。」と感謝の気持ちを伝えたのだという。こういうストレートな表現を無意識に出来る事が、人懐っこいゲンの最大の長所であると私は思う。 Tくんたちの嫌がらせが、これを気に全くなくなるとは思えない。けれども今年のゲンにはT先生という強い味方もいる。「ピザピザピザ」の呪文も覚えた。今年のゲンはますます面白くなりそうだ。
ひいばあちゃん入院6日目。午前中付き添いにいく。 医師の回診があり、「おばあちゃんはここへ来て、3キロ体重が減りましたよ」と告げられる。それは、衰えてやせたのではなく、利尿剤の効果で余分の水分が出たためでよい兆候なのだそうだ。実際、入院当初はパンパンにむくんでいた足がほっそりとして、楽そうになった。ひいばあちゃん自身目に見える形で回復が分かるので嬉しそう。午後からは点滴もラインだけ残してはずしてもらった。
夕方、友達の家に遊びに行っていたゲンがプリプリ怒って帰ってきた。 友達との約束の時間が迫っていて、大急ぎで自転車を走らせている時にT君たち数人につかまってしまったという。 Tくんは、去年のクラスで何かとゲンに嫌がらせをしたり、からかったりしてきたゲンの宿敵。いわゆる「いじめっ子」というやつだ。今年はクラスも別になりホッとしていたのだが、今日はたまたまTくんと仲間達がつるんでいる所にゲンが行き当たってしまったのだろう。 ゲンが乗っている自転車を「貸せや」と取り上げたり、ゲンが持っていたカードを勝手に持っていったりして、なかなか返さない。挙句には、なんとか取り返して友達の家へ向かおうとするゲンに「先生には言うなよ。」と捨てゼリフを投げたのだという。 「むっちゃくちゃ腹が立つねん!」 鼻息荒く語るゲン。 以前のいじめの時には、その怒りのやり場に困って自分の傘をばらばらへし折ってしまったゲンだが、5年になって少しその辺の気持ちの収め方を学んだらしく、とりあえず母にありのままの怒りを訴える事にしたようだ。
昨年は同じクラスだったので、直接担任の先生に訴えてなんとかTくんの嫌がらせを止めさせてもらうように試みたが、残念ながらあまり効果は見られなかった。かえってゲンの中には担任のK先生に対する「訴えても仕方がない」という不信感を残しただけに終わったように思う。 今年、Tくんとは別のクラスになり、おおらかで頼りになるT先生に担任をして下さる事になった。 「T先生に言ってみようかな。Tくんは他のクラスの子だからT先生に訴えても仕方がないのかな。」と呟くゲンの口調には、去年のK先生に感じた不信感の名残と、新しい担任のT先生への期待が微妙に入り混じって感じられる。 「う~ん、そうだねぇ。」 母も微妙に考え込む。
嫌がらせの程度は、見ようによっては遊びやふざけの行き過ぎといえないこともない。こういうレベルのちょっかいというのが、一番厄介だ。 親も子も「ちょっとふざけすぎただけなのに」という逃げゼリフで言いぬけるのが常套だ。 けれどもそういう軽微なからかいやふざけも、特定の個人をターゲットにくりかえすと、やられるほうにとっては結構なストレスとなる。 やっている本人も「先生には言うなよ。」と口止めをするからには、「いじめ」の自覚があるからだろう。 けれども一方、子どものけんかに親が出て行くことの野暮やゲンが自分で解決する力を考えると、親としてどう対処してやればいいのか、ふと考え込んでしまう。
ま、とりあえず、美味しいパンが買ってあるからそれでもお食べよ。 夕食前の一番空腹な時間。 ゲンは袋の中から、一番ボリュームのあるピロシキを選んで食べ始めた。 「あはは、怒り狂っている時でも、ゲンは美味しそうに食べるねぇ。」 ふっくらした頬に揚げパンの脂をテカテカさせて、むしゃむしゃ頬張るゲンの笑顔。 「あ、そうだ!いいこと考えたよ。 これからね、ゲンがまたTくんに嫌な事をされたら、いつでもお母さんがそのピロシキ買ってきてあげるっていうのはどう?」 突然思いついた奇抜な提案に、ゲンが「はぁ?!」と聞き返す。 「美味しいもの食べて、イライラが収まるんなら、それもいいじゃん。Tくんに何か嫌な事をされたらね、『あ、ピロシキ、食べられるぞ、ラッキー!』って思えばちょっと腹が立たないんじゃない?」 なにいってんだろうね、この人は・・・と呆れ顔のゲンも、母の提案の馬鹿馬鹿しさに笑ってしまう。 そして「ピロシキじゃなくて、ピザじゃ駄目?」とふざけて母のおバカの提案に乗ってくる。 「そうだね、それいいね。Tくんの顔見たら『あ、ピザが来た!』って思えばいいんだよね。」 「でもね、Tくんに向かって『ピザピザピザ』なんて言っちゃ駄目だよ。ばれちゃうからね。」 と母も笑う。
とりあえず今回はそんなことでことを収めておいてやろうと思う。 食いしん坊で、時には突如食欲魔人と化すゲン。 激しい怒りや納めきれないイライラを、美味しいものを食べる事でいくらかでも解消できるゲンのおおらかさは、アユコやオニイにはない特別な才能だ。 「ピザピザピザ」で笑うことで、当座の悩みを笑い飛ばしてしまう知恵も彼には必要な力となるだろう。 「食べる事に意欲的な子は、生きる意欲もエネルギーも旺盛だ」 母親暦十数年のうちに勝ち取った子育ての実感。 我が家の大食漢には、確かにそんな豊かなエネルギーが秘められている。 ゲンならきっと大丈夫。 そう思う。
PTAの役員総会。今年度の新しい役員さんが決まり、ようやく昨年度の広報委員長の引継ぎを終えた。 新しい広報委員長はフルタイムで働くお母さん。副委員長に比較的時間に余裕があるという方が立候補してくださったので、ホッとする。
午後、ひいばあちゃんの病院へ行く。 朝の回診で、あと一週間は少なくとも退院は無理と聞いたひいばあちゃんは、かえって諦めがついたのだろうか、あまり「帰りたい」とはいわれなかった。看護婦さんたちもひいばあちゃんの扱いにちょっと手馴れてきたのだろう。 先日ひいばあちゃんがショックを受けたという清拭は、今日は看護婦さんにお湯を入れてもらって、私が代わりにタオルで手足を拭いて差し上げるだけで済ます。暖かいタオルでお顔をぬぐって「ああ、スーッとした」と嬉しそうな顔。体もざーっと拭いて最後にむくみのひどかった足を拭く。腫れはかなり納まっていて、もう痛々しい感じはない。
TVでは尼崎の脱線事故のニュース。 つい一昨日まで、「TVはよう聞こえんから見ない」といっていたひいばあちゃんが、イヤホンのボリュームをいっぱいに上げて熱心にニュースの映像を眺めている。不謹慎な話だけれども、ひいばあちゃんにとっては単調な入院生活の中に飛び込んでくる刺激的な現場映像に心がゆすぶられたのだろう。体を起こし、しっかりTVの方をむいて、「いやぁ、また死んだはる人の数、増えたわ。」と感嘆の声を上げる。若い人や学生さんの被害も多いとの報をきいて、「かわいそうになぁ」と呟く。 ようやく、いつものひいばあちゃんのペースが戻ってきた感じ。
「100歳まで生きて欲しいと皆が言うけど、なかなか100年というと、いろんなことがあるわなぁ。あと三年やなぁ」 ひいばあちゃんがしみじみと呟いた。 「97歳でも、初めて入院すると、知らないこといっぱい経験したもんねぇ。」 と私が茶化す。 「はぁ、ほんまに、まだまだ知らんことや分からん事がいっぱいあるんやなぁ。」 そうですか。 97歳にして、まだまだ「知らないこと」や「分からないこと」がたくさんありますか。 その半分もまだ生きていない41歳の私には、分からない事や知らないことがたくさんあって当然ですね。 「ああ、ホンマにいろんなことがあるわいな」 入院中何度もひいばぁちゃんの口から漏れる金の言葉。 それは不本意な入院生活の事ですか。 それとも平和で穏やかな朝に突然起きた脱線事故の悲劇のことですか。 それとも迷いの最中にある41才の若造への戒めをこめた未来の予言でしょうか。
長年の仕事で小さく干からびたひいばあちゃんの手。 白髪をくるりとまとめて髷を結ったひいばあちゃんの小さな頭。 この中にはまだまだ教え伝えておいていただきたい金の言葉がたくさん詰まっているのだろうなぁ。 いとおしい思いで、点滴針の刺さる細い腕を長い事さすらせて貰った。
金曜日に入院したひいばあちゃん、予想通りもう「帰りたい帰りたい」モード全開。 97歳とはいえ、普段は食事もお風呂もトイレも自立していて、誰かの手を借りる事はない。頭もまだまだかなりはっきりしていて、入院の数日前まで釉薬掛けの仕事場に入っておられた。「今日は頼まれていた仕事を片付けてしまうつもりだったのに・・・」と甚だ不満そうな顔で入院なさっただけに、ただただ安静の病院生活には初日から愚痴をこぼしておられた。 耳がとても遠いので、看護婦さんや医師とコミュニケーションが取れるかどうか心配はしていたけれど、看護婦さんたちも年寄りの扱いには慣れている様子。見た目は比較的元気そうでトイレも食事も介助を必要としないひいばあちゃんなら大丈夫だろうと、昨日は義兄夫婦や義父母が代わりばんこに様子を見にでかけた。
夕方、様子を見に行った義姉が看護婦さんから「ひいばあちゃんが暴れた」と聞いてくる。又聞きなのでどういういきさつかはよくわからないが、24時間繋ぎっぱなしの点滴の管を嫌がられたのではないかという。 また義父はひいばあちゃん自身から、「看護婦さんたちがいきなり私を丸裸にして体をふいた。恥ずかしくて耐えられなかった」との愚痴を聞く。 ひいばあちゃんは若い頃からお産も入院も経験したことがなく、点滴も看護婦さんによる介護も初体験。看護婦さんも家族も一応丁寧に説明するのだが、耳が遠いのでそのうちのどのくらいが理解されているかは分からない。 それだけに、ぽつんと見知らぬ病院においていかれて、知らない看護婦さんたちにあれこれ体を触られること自体が、受け入れがたいのだろう。 トイレもお風呂も全部介助無しに行ってこられたひいばあちゃんの自負心が介護者に体を預けて安静にすることをどうしても良しとさせない。
今朝、私が病室に入ると看護婦さんたちから、ひいばあちゃんがゴミ箱の中に排泄をしたといわれた。 蓄尿(一日分の尿をためて量を量る事)のために使っているポータブルトイレの脇のペーパー用のゴミ箱になみなみとおしっこが入っているという。「まぁ、器用なことをするね。」と笑っておられたが、後でひいばあちゃんによく聞いてみると、一旦ポータブルトイレでしたおしっこを後からゴミ箱に捨てたのだという。普段家ではひいばあちゃんは夜の間ポータブルトイレでした自分の排泄物を朝、自分でトイレに捨てて処理なさっている。今朝もそのつもりで、捨て場に困ってゴミ箱に捨てられたのだろう。 決して寝ぼけてゴミ箱でおしっこをしたのではなく、いつものように自分の排泄物を自分で処理なさっただけなのだという事を、しっかり看護婦さんにも伝えておいたが、だからといって処理の手間がさほど変わるわけではないのだろう。「はいはい」と笑って、聞き流しておられた。
同室の患者さんたちは皆食事や排泄に介助の必要なおばあさん達なので看護婦さんたちも年寄りの扱いには慣れておられて手際もよく、愛想よく声かけもしてくださる。 けれどもよく聞いていると年齢を重ねた老人達に対して子どもに話すような必要以上に噛みくだいた物言いで話しかける。 認識のはっきりしない(ように見える)患者さんの頭上で、家族の人と患者さんの存在を無視した形で容態の説明をしたりする。 着替えや排泄の最中に必要以上の人員が目隠しカーテンの中に出入りしたり、日常生活でははばかるような排泄物の話などをおおっぴらに口にして、笑う。 それは介護や看護に熟練した人たちにとっては、患者さんや家族の単調な入院生活を明るくする親しみの表現には違いないのだろうが、そういう場に慣れないひいばあちゃんのような自負心の強い老人にとっては、「子ども扱いされている」ように感じられ、精神的なダメージも大きいのではないかと思われる。「病気の時は、仕方がない」という気持ちの切り替えも老人には難しい。 齢97歳。耳が聞こえないために一見「認知症?」と見まごうひいばあちゃんではあるが、意識は甚だしっかりしていて聞こえさえすればかなりのことをはっきりと認識なさる事が出来る。 この年齢までこつこつと自分の仕事をこなし、強固な意志と自立心をもってここまで生活してこられた偉大なる老女も、看護者、介護者の目から見れば、聞き分けのない幼い子どもや恍惚と化した老人達となんら変わりなく映るのだろう 日々の看護としては当たり前の「清拭(体をきれいに拭く事)」が死ぬほど恥ずかしいと思うデリケートな恥じらいの気持ちがこの皺だらけの老いた婦人の中にいまだに残っている事を理解してもらう事は難しいのかもしれない。
「こんな所はかなわん。早く帰りたい」と何度も訴えられるひいばあちゃんに出来るだけついていてあげたいと思う。 少なくともひいばあちゃんが「死ぬほど恥ずかしい」とおっしゃる清拭だけは、時間を聞いて家族のものが付き添って、ひいばあちゃんが自分でなされるようにして差し上げようと思う。
>先日来体調がよくなかったひいばあちゃんが今日近所の病院に入院の運びとなった。心臓の機能が低下して肺に水が溜まり、足のむくみがひどいのだという。少し動くと胸が苦し苦なったりふらふらしたりなさる。
97歳という高齢にも関わらず、自分で階下のトイレまでさっさと歩いていき、自分のペースで仕事をこなし、若い者と同じものを美味しく召し上がるひいばあちゃん。このまま当たり前のように100歳になり、バリバリ仕事をしながら120歳まで長生きなさるように思い込んでしまっていたけれど、やはり長年こつこつとよく働いた体も年をとると少しづつその機能の幅を狭めていくのだろう。 入院だ、点滴だといいながら医者にも付き添う家族にも「何と言ってもこの年でもあるしねぇ。」のニュアンスが残る。97歳という年齢は、もう、これから何があっても「大往生」と穏やかに受け入れられる年齢なのだろう。 けれども、当のご本人には、全くそんな弱気は見られない。 今日も「頼まれてた仕事を今日するつもりだったのに・・・」と甚だ不満そうに病院への車に乗りこんだ。医者の診断ではもうかなり息苦しくてしんどい筈というのに、本人は2,3日したらさっさと帰って残った仕事をするつもりでいる。実際の容態にも関わらず、本人はニコニコといたって上機嫌で、大きな声で話し、ご飯もたくさん召し上がる。
入院に付き添う義兄に義母も一緒に行くという。 女手が義母だけではおぼつかないというので、急遽私も一緒に車に乗っていくことになった。ひいばあちゃんを車椅子に乗せると、「私が押す。」と頑固に言い張るお義母さん。これまで嫁として厳しい姑に仕えてきたプライドがそうさせるのだろうか。義母自身の年齢や体調を考えると、まさに「老老」介護なのだけれど、嫁の意地のようなものが感じられて、ハッとする。
頭はとてもはっきりしているひいばあちゃんも、耳はとても遠くなっていて補聴器の調子もよくないので、医者や看護婦とのコミュニケーションがうまく取れなかったりするので心配だ。 相手の口調や声の調子によって、聞き取りやすい言葉やそうでない言葉があるらしい。お義父さんは「近頃ひいばあちゃんは耳がほとんど聞こえていなくて、トンチンカンな受け答えをする」とぼやいておられたが、私自身はひいばあちゃんのそばで一対一でお話していると、それほど大きな声を出さなくても私の話をよく理解して受け答えをしてくださっているように感じる。 決して聞こえていないわけではない。 だから、「ひいばあちゃんには聞こえていないはず」と油断しての会話や不用意な言葉は禁物と私は思う。
夜、剣道の送迎の間の時間に、入院生活に必要なものの買い物を済ませて再びひいばあちゃんの病室へ。 絶対安静が必要なのに本人はいたって機嫌よくベッドに腰掛けてお喋りをしておられる。いつもの茶の間でのひいばあちゃんとあまり様子は変わらない。鼻につけられた酸素のチューブが邪魔らしく、油断するとすぐにヒョイと鼻の上へ持ち上げてしまわれるのがいたずらっ子のようでなんともかわいらしい。病院は静かで退屈だとおっしゃるので二人でたくさんおしゃべりをした。 この人の孫嫁となってから15年。ずいぶん可愛がって頂いた。 いつも私のつたない手料理の味を褒めてくださり、子ども達の誕生をいつも涙を流さんばかりに喜んでくださった。 いつもは茶の間にちょこんと座ってTVを見ていらっしゃるか、仕事場の定位置で黙々と釉薬掛けの仕事をこなしておられるか。格別お世話したりお話をしたりというわけでもないのに、いつもそこに座っておられるという安心感が意外にも大きなものであったのだと改めて思う。 まだまだこの人を失いたくない。 お元気に退院されて、「この仕事が気になってたんや」といつものように仕事場のいすに戻っていただきたいと心から思う。
ひいばあちゃん入院の報をきいて、一番堪えたのは意外にもオニイだった。 道場への車中で、ひいばあちゃんの話をした。 「僕にとってはひいばあちゃんの存在というのは、何と言うかとても大事なんや。」としみじみと話す。 窯元の仕事を継ぎたいと本気で考え始めているオニイにとって、少女の頃から先々代に仕えてもくもくと職人仕事に励んでこられた偉大なる曾祖母の存在は意外にも大きいのだろう。 ひいばあちゃんは初めての男の内孫であるオニイの誕生を、本当においおい泣かんばかりの感激で祝ってくださった。先代さん(先々代)のお墓参りのたびに「『ボクが窯元を継ぎます』といいなさい」と幼いオニイに何度も教えられた。 自分の将来にストレートな期待を込めて見守ってくださるひいばあちゃんの思いをオニイは深く感じ取っているに違いない。 せめてオニイが正式に陶芸の世界に入る道筋が立つまで、ひいばあちゃんには元気に仕事場で頑張っていただきたい。 まだまだこの人を失いたくないのだ。
小学校、家庭訪問。 今年は、ゲンもアプコもそれぞれオニイとアユコが担任していただいた事のあるおなじみの先生方に受け持っていただいたので、家庭訪問も和やかな世間話の雰囲気で始まって、「よろしくおねがいしますね!」と笑顔で手を振ってお見送り。 どちらの先生からも、「お兄ちゃん(お姉ちゃん)とほんとによく似ていますね。」という言葉がこぼれて、兄弟姉妹の「比較検討」話が盛り上がったのは可笑しかった。 親の目から見れば、子ども達の一人一人がこんなに違うものかと驚く事の方が多いのだけれど、外から見るとそのしぐさや声や立ち居振る舞いのくせなど、時々ビックリするほど兄弟というのは似るものらしい。 「背後からゲンちゃんに『先生!』なんて呼ばれたら、一瞬おにいちゃんの声と錯覚しちゃう事がありますよ。電話だったら判らないんじゃないかしら。」とおっしゃるので、 「ああ、オニイならもうしっかり声変わりしてオッサン声になってますから、その心配はないですよ。」と笑う。 そういえば、もうすっかり聞きなれてしまった声変わり後のオニイの声。 小学生の頃はどんな声で喋っていたのだろう。 毎日毎日聞いていたはずなのに、耳からの記憶って意外と曖昧なものなのだなぁ。
午前中はPTAの引継ぎの役員会の打ち合わせで、久しぶりに小学校のランチルームを訪れる。 新しい役員さんたちも出揃って、来週初めには担当役員を決めて正式に引継ぎの運びとなる。昨年度までの広報委員会の引継ぎ資料をどーんと段ボール箱に詰め込んで、PTA室の戸棚においてきた。 ようやくお役御免の日が近い。一年間一緒に活動してきた委員さんたちと久しぶりに会って、新学期の子ども達のことやクラス配分、移動された先生方のことなどひとしきりお喋りが盛り上がった。
その中で面白かった話。 子ども達が大きくなって、近頃ではパソコンの些細なテクニックやら知識やら子どもから教えてもらうことが多くなった。子ども達のパソコン習熟能力は驚くほど早くて、「おかあさん、こんな事も知らないの?」と言わんばかりに偉そうに教えてくれるのだという。 「子どもがいろんなことをどんどん覚えていくのって嬉しい事なんだけど、なんか癪にさわるのよね。」と皆で相槌を打つ。 「『アンタにパンツの上げ下ろしからおしっこの仕方まで教えてあげたのはこの母よ』って言ってやればいいのよ。」と私が言ったら、 「ホントよ、ホント!」と妙に盛り上がってしまった。 寝返りすら一人では出来ぬ赤ん坊に数時間ごとにおっぱいを与え、基本的な生活習慣を教え、歌うことを教え、言葉を教え、そうやって大きくなった子ども達がまるで何もかも自分の力で習得したかのように新しい知識を得意げに母に語る。 それは当たり前の子どもの成長で、親にとっては嬉しい事には違いないのだけれど、なんだかちょっと寂しいような、癪に障るような複雑な思いが胸をよぎる。 「そうはいってもまだまだ子どもは子どもよ」と言いながら、子どもの成長のスピードにちょっとブレーキをかけて、もう少しちいさな子どものままでいて欲しいというような気持ちになるときもある。
夕方、アユコが大きな通学かばんとともに、新聞紙でくるんだ花束を持ち帰ってきた。 中学生になってアユコが選んだクラブ活動は、茶道部と華道部の掛け持ち入部。今日は始めての華道部の活動があったのだという。 稽古で使った花材をそのまま頂いて帰ってきたのだ。 家族の目にしか触れない我が家におくよりは、たくさんのお客様を迎える工房の玄関に飾らせて頂こうとさっそく出向く。 工房のあちこちにしまいこんである水盤や剣山を探してもらい、花材を広げる。お稽古で先生に教えていただいたとおりにと、おさらいを兼ねて大振りな枝や薫り高いカサブランカを活け始めたアユコ、時折母のほうを振り返って小首をかしげる。 「だめだよ、アユコ。お母さんはお茶は少しは習ったけれど、お花は一度も正式に習った事がないんだもの。訊かれたって何にもわからないよ。」 自分では一度も習う機会がなかった華道の知識を、娘が新しく母の知らないところで習ってくる。そのくすぐったい嬉しさもまた、「ちょっと癪に障る」気持ちの裏返しだ。 「お母さんが知らない事を習ってくるのって、ちょっとワクワクするんでしょ?」 興に乗って、先生から今日お習いしたばかりのことを得意げに話し始めたアユコがうふふと笑ってこくりと頷く。
「おかあさん、今頃になって奥歯が一本生えてくるみたいなんだけど・・・」 この間、オニイがいぶかしげに尋ねた。 「ああ、それは親知らずだわねぇ。もっとずっと大人になってから生えてくることもあるから『親知らず』っていうんだよ。」 親の知らないところで、にょきにょきと力を蓄え、芽吹きを待つ子ども達の成長のパワー。 ちょっと嬉しく、ちょっとねたましい。 この複雑な母の心情。
七宝教室へ出かける。 とても天気がよく暑いくらいの陽気。 近所の木々も急に新芽を吹き出し、目に青々と気持ちがいい。 家の窓からいつも見える、綺麗な円錐形の大木に、今朝、初めて白い花が満開に咲いた。名前も知らない木だけれど、毎年この時期になると裸樹に急に新芽が着きはじめ、ある日突然満開に白い房状の花がつく。 その見事な変身振りが鮮やかで、毎年新鮮な驚きを運んでくる。
駅への道をタッタカタッタカ早足で歩いていたら、近所のNさん夫婦に会う。 奥さんが私に「いつも元気そうやね。」とにこにこ声をかけてくださる。 「はぁ。そうですかぁ?」と間の抜けた返事をしたら、 「いつもさっさと元気よく歩いてはるわね。」と奥さん。 傍らからご主人も 「うんうん、なんかこう、元気があふれ出してるって感じがするね。」 とこちらもにこにこと相槌を打っておられる。 「あらら、そうですか。もうちょっとあふれ出してくれると痩せるんですけどね。」と軽口を言ったら、わっはっは!とこれまた夫婦おそろいで豪快に笑っておられた。 ここ数日、なにかと考え込む事が多くて、ちょっと凹んだ気持ちだった私。 お洗濯もからりと半日で乾きそうな気持ちの良い陽気に、「さぁ頑張ろう!」とゼンマイをキリキリと巻きなおしての今朝の外出。 そんな張り詰めた気持ちの在処を、通りすがりのNさんご夫婦にばっちり見抜かれてしまったようでちょっと気恥ずかしい。
私はタッタカ早足で歩くのが好き。 家から駅までの十分あまりの坂道を日に何度かは早足で歩く。 登校する子ども達と一緒に転げるように下る。 愛犬を連れて夜の山道をびくびくしながら散歩する。 主婦友達とお喋りしながらダラダラ坂を上る。 もやもやした気分やイライラした感情を振り払うためにも、時々私は気合を入れて一人でずんずん歩く。 山の緑の移り変わりや途中で会うご近所さんとの短い会話が、主婦の変わらぬ日常を勇気付けてくれる。
Nさん宅は御夫婦とおばあちゃんの3人暮らし。 お休みの日には裏山の大木の枝を払ったり、急斜面にブロックを組んで花壇を拵えたり、ご夫婦揃って大掛かりな庭仕事に精力的に取り組む様子をお見かけする。 その仲のよい穏やかな暮らしぶりは、離れて暮らす実家の父母の生活にどこか似ているようなところがあって、嬉しいような切ないような懐かしい気持ちを呼び起こす。 通りすがりの挨拶やちょっとした立ち話のお付き合いでしかないご近所さん。 毎日お会いしているわけでもないのに、時々今日のように、ビックリするようなタイミングで「楽しそうだね。」「元気そうにしてるね。」と、お褒めの言葉を投げてくだったりする。 それは全く偶然のタイミングで、お互いが意図したものではないのだけれど、その偶然さもまた、実家の父の気まぐれな励ましの間合いによく似ていてハッとする。
実はNさん、どこから見つけてこられたか、この日記の存在を知っておられる。以前に「読んでるよ」と教えてくださった。 身の回りの顔を知られたご近所さんに、つたない日々の雑記を読んで頂くことは甚だこそばゆい居心地の悪い事なのだけれど、時にはどなたかに暖かく見守っていただいているような嬉しい気持ちにさせていただくことがある。 それは離れて住む両親からの突然の近況報告の電話のように、そしてまた何十年来ご無沙汰のかつての恩師からの思いがけない季節の便りのように、判で押したような主婦の日常の繰り返しに、さっと爽やかな風となって吹き寄せてくれる。 ありがたいことだと心から思う。
夫がいつも家で仕事をしていて、夫婦が始終一緒にいると、お互いのその日の気分や体調が微妙に影響しあって、二人同時にけだるい空気に落ち込んだり、突然急にハイテンションになったりする事がある。 ここ数日がまさにその状態だった。 仕事上の小さなトラブルや家族の心配事、片付かない懸案事項や果たせない目標。 それぞれに抱えている小さな痛い小石の存在を何となくお互いに意識しながら、「大丈夫、なんとかなるよ。」ともたれあう。 それは決して問題解決の力になったり、不安解消を消し去る即効薬になったりするわけではないけれど、とりあえずそこにその人がいてくれるということが大きな支えとなってくれる。 ありがたいと思う。 けれどもその安心が家族の前進の歩みを遅くしているのではないかと不安になる事がある。
TVの画面で激しく怒り罵声を繰り返す人を見る。 荒々しい木彫りの面の様な鬼の形相で人を罵倒する。 あれほど激しい憎しみの感情を何年もの間、持続し続けるエネルギーというのは一体何なんだろう。 その怒りはもう、感情の爆発とか相手への憎悪とかそういう激しい動機はなくて、日常化した日々の営みの一部としての定着してしまうものなのだろうか。 「近所迷惑な話だな。」とか、「あんな暴挙を何年も止める事が出来ないなんて、行政も警察も非力だな。」とか、ありていのコメントを述べながら、どこかで自分の激しい感情を恥も外聞もなく、あたり構わず投げつける事の出来る彼女を「うらやましい」と感じる私がいる。 それはもちろん、落として割ってしまったコップの小さな小さな砂粒大のガラス片のように、本当にひそかに床材の目地や部屋の片隅にきらりと残っているだけのほんの一瞬の想いだけれど、時にはそれがピッと小さな痛みになって、手探りをする指を傷つけたりする。
子ども達と生活していて、何よりもありがたいと思うのは、子ども達にはまだ真っ白で何もかかれていない未来がそれぞれに一人分づつ与えられているという事だ。 私自身の人生はもうそろそろ折り返し地点。 これから未知の坂を駆け上ったり、高い所から息を詰めて飛び降りたり、そういう冒険にめぐり合うことはなくなっていくだろう。 けれども子ども達の前にはまだまだ地図にかかれていないたくさんの道がある。私自身が果たさなかった夢や獲得しなかった宝に、今度は彼らが挑戦して手を伸ばすのだ。 今の私に出来ない事も、もしかしたらこの子等が何年か後に手に入れることが出来るかもしれない。 そういうふうに思うことで、今の自分の在り様をどこかで肯定的に受け入れる事が出来る。それが私にとっての「子育て」の意味だ。
「子どもの将来のために」と夫婦の時間やお金や生活の全てを費やし、離れて暮らす外国の夫婦の話をきいた。 「それで、あんた達夫婦の『現在』はどうなるの。」 と、父さんと二人、TVにツッコミを入れる。 「子どもより夫婦が最初」「30年後の大富豪より現在の穏やかな幸せ」と急に熱弁を振るい始めて、気がついたらここ数日の憂鬱が霧消していった。 ずるずると蟻地獄のように落ち込むのにも、力任せに這い上がるのにも、歩調をあわせて傍らに寄り添う相棒がいる。 そのことの心地よいぬるさに、もう少し甘えていてもいいだろうか。
先日、長野行きの荷物の荷造りをしていたときのこと。 従業員のNさんがぶつぶつぶつと独り言を言いながら、作品を大きなダンボール箱に詰めている。 「この子とこの子をあっちへいってもらって、この子をここへ入れたら、う~ん、ちょっと窮屈すぎるかな。」 別に小さな子どもを定員いっぱい軽自動車に乗せようとしているわけではない。梱包材でくるんだ水指や華入等の作品を運搬用のダンボールにきっちり隙間なく詰め合わせているだけだ。 箱の中に無駄な空間が多すぎても200点近い作品を効率よく運ぶことが出来ないし、ぎゅうぎゅう詰めすぎても破損などの事故の原因ともなる。運搬に使うのは義兄の運転する大型のワゴン車で、積み込むスペースにも限りがある。だから、たくさんの作品を具合よく組み合わせて詰めるには、ちょっとしたコツと熟練が必要になる。 いつもこの仕事を担当してくださるNさんは、この詰め合わせの作業が得意である。いろいろ不規則な形態の作品をうまく組み合わせて、手際よく箱詰めしていく。 「このごろ、作品の大きさを目測で組み合わせる見当がうまくなった」と自分の技の熟練を笑っておられる。 「もっとも、こういうテクニック、ここ以外の職場に入っても何の役にも立たないんだろうけれど・・・」 自嘲気味に言われるけれど、本来職人仕事のテクニックというのはそういう特殊性に基づくものなので、他で応用が利かなくてもここで大いに役に立てばそれはそれで自ら誇っていいことなのだといつも思う。
「よその人が聞いたら、何のこと話しているのか、さっぱり分からないんでしょうね。」 Nさんが、自分で言って自分で可笑しがっているのは、作品の一つ一つを「この子」と呼んで、擬人法で話してしまうご自分の癖。 「べたべたの大阪人だねぇ。」 と私も笑う。 大阪の人(特におばちゃん)は、ちょっとしたものによく「さん」とか「ちゃん」をつける。 アメ(飴)チャン、オカイ(粥)サン、オイナリ(稲荷寿司)サン・・・ また、人間以外の動物や無機物に敬語を使ったりもする。 「小さいとき、『こんな所で猫さんが寝てはるわぁ。』なんて言うたら、九州出身の母に、『猫に敬語を使うなんて可笑しい』と笑われましたけど、関西では別に普通の会話ですよね。」 とNさんが笑う。 ホントにね、変な習慣ではあるけれど、確かに関西人にはいたって普通の会話だなぁ。
大阪のおばちゃんは、外出先で必ずといっていいほどアメチャンを配る。 大阪のおばちゃんが三人よれば、必ず誰かが「アメチャン、あげよか。」とバッグの中からもそもそと、のど飴だかドロップだかを出してきて皆に配る。その時出てくるのは確かに「アメチャン」であって、間違っても体裁のいい「キャンディ」とか「スウィーツ」とかいうしゃれた名前のものではない。 子どもが街頭で泣きぐずったり、ご機嫌を損ねてぷっとほっぺたを膨らましたり・・・。そんなときにもどこからか見知らぬおばちゃんがやってきて「アメチャン食べるか?」と助け舟を出す。それで子どもが泣き止むかどうかは別として、むずかる子どもに苛立って周囲を気遣う母親には、おばちゃんの心遣いにホッと心が和む事もある。 そういう困ったときのコミュニケーションツールである飴玉に親しみを込めて「ちゃん」付けする関西気質は、動物や無機物にまで無意識に敬語を使ってしまう可笑しさともどこかで通じている気がする。 それは時には押し付けがましく暑苦しいサービスでもあるけれど、ちょっとくたびれムードになったり、場の雰囲気がしらけたりしたとき、ちょっとした甘いものを皆に配ってコミュニケーションを図る知恵は、なんにでも「さん」や「ちゃん」をつけ、擬人化してしまうおばちゃんのおおらかさともどこか通ずる所があって私は好きだ。
作り手が製作した作品を梱包する。 窯から生まれた美しい作品をたくさんのお客様の前に披露する大事な架け橋ともなる梱包作業ではあるが、実際には重い作品を持ち上げたり、低い作業台の上で腰をかがめて番号付けをしたりという結構きつい肉体労働だ。 高価な割れ物を取り扱う緊張感の上に、限られた時間内に仕上げなければならない縛りもある。さらには、作品のリストアップが遅れたり、梱包完了後に変更が生じたりと小さな愚痴が溜まりがちな作業でもある。 けれどもそんな中で、 「ま、この子はここにでも収まっててもらいましょか」 とNさんの可笑し味溢れる擬人法は確かに最後まで失われることなくぽろぽろと零れ落ちる。 自分で梱包した作品を「この子」と呼ぶNさんの心持ちには、「よいものを作ろう」という作家の想いや幼子を見守る母の心情にもどこかよく似て、心地よいプロ意識が感じられてありがたい。 そんなことを思った。
明朝、長野の展示会の搬入。 よって、今日は午後から作品の梱包やら積み込みやらで大忙しになるので、朝、所用でとうさんと二人、大急ぎで街に出た。 とうさんはデジカメのパーツを買いに電器店へ。 私は、お仕事の資材を買いに手芸店やら百円ショップやらを超特急でハシゴ。 通りがかりにデパートのワゴンセールで義母に似合いそうな明るい藤色のベストを衝動買い。 最後に駐車場代を浮かせるために、スーパーの地下でいつも立ち寄るお肉屋さんで袋いっぱいのミンチカツやチキンカツを買う。 近くの八百屋でみずみずしい春キャベツと小ぶりのタケノコ、すっかり夏値段に落ち着き始めたきゅうりを買い求めて、車に戻る。 4件の買い物に要した時間は、ほんの40分足らず。 懸案の用事はほぼ全て完了した。 う~ん今日は我ながらいい仕事してますぞ。 さっさと帰れば、11時過ぎのアプコの下校時間に充分間に合う。
荷造り仕事をあらかた終え、暖めなおしたフライで簡単ご飯。 腹ぺこの子ども達が炊飯器の前で、熱々ご飯が炊き上がるのを足踏みして待つ。その間に、一緒に買って来た春キャベツをトントンと刻む。ぎっしりと固く詰まった冬のキャベツと違い、ふわっと緩やかに巻いた春のキャベツは青々とした黄緑もさわやかで、刻んでいる包丁の先からもかすかな甘い香りが漂ってくる。 大急ぎで湯がいたタケノコもさっと若竹煮にして、鉢に盛る。 メインディッシュは出来合いの揚げ物てんこ盛りだけれど、サイドメニューには「春がいっぱい」ということで、今日はお許しいただくことにする。
子ども達の旺盛な食欲は、大皿いっぱいのミンチカツをあっという間に平らげていく。この一週間、白いご飯の消費量もググンと増えて、気持ちのいい速度で炊飯器が空になっていく。 新学年になって、心も体もざわざわ騒いで、春の陽気の中で過ごす時間が増えた子ども達。きっとあっという間におなかもすくのだろう。 いっせいに若葉を吹きだす春の樹木を見るように、子ども達の成長のスピードを半ば喜び、半ば呆れて今日も見守る。 一食3合が定番となっている我が家の炊飯。 そろそろ4合炊きにレベルアップの時期が来たのだろうか。
いつも揚げ物や肉料理ばかりを好むオニイが、珍しく春キャベツとツナを和えただけのサラダの何度も手を伸ばす。 「このキャベツ、うまいな。春って感じがするな。」 小さい時には、野菜といえばブロッコリとコーンしか食べなかったオニイが山盛りのキャベツをもりもりと食べる。千切りキャベツを鼻をつまんで、薬のように飲み下していた幼い頃のオニイがうそのようだ。 春の野菜の美味しさが分かる年齢になったのだな。 そういえば昔なら、「大人のおかず」だった筍の煮物にも、気がつくといつのまにか子ども達の箸が伸びてくるようになって、食べ余すという事がなくなった。子ども達も大きくなって、旬の野菜の嬉しさを一緒に味わえるようになったという事だろう。
大皿にてんこ盛りにフライがあっという間に空になる子ども達の旺盛な食欲の嬉しさ。 春野菜の甘さを一緒に味わうことの出来るようになった成長の頼もしさ。 春の食卓は楽しい。
2005年04月12日(火) |
巾着耳と赤レンジャー |
久しぶりの雨降り。 アプコ、今日初めて傘をさしてのランドセル登校。 国語と図画工作の教科書を持って行くのも初めてだ。 ランドセルに赤い傘がへばりついたような格好で、やっとの事でゲンの早足にくっついていく姿がなんとも頼りなげで可笑しい。 今日もアプコには「初めての・・・」がいっぱいだなぁ。 「行ってきます」が照れくさくて、「じゃね、バイバイ」と手を振るアプコを見送って、母にはひとつも「初めての・・・」がないいつもの家事が始まる。
先日、台布巾をきゅっと絞っていて思い出したこと。 私自身の小学校入学の時、初対面の教室でぴかぴかの一年生を前に担任のT先生は面白いお話をなさった。 「あのね、人間の耳には二つの種類があるのよ。 一つはね、人のお話をしっかり聞いてぎゅっと捕まえておく事の出来る『巾着耳』さん。 そしてもう一つは、人のお話を聞いても、すぐに忘れてしまう『ザル耳』さん。 皆さんは先生やお父さんお母さんのお話をちゃんと聞いて、頭の中にしまっておける『巾着耳』さんになりましょうね。」 当時の私は「巾着」という言葉をまだ知らなくて、紐できゅっと口を縛る布袋と海にいるイソギンチャクのイメージを重ねて、なんだか可笑しくて仕方がなかったのを思い出す。 大人になった今、小学一年生の入学式の思い出といえば「巾着耳」のお話ばかり。他にもきっとたくさんのためになるお話や大事な教訓をたくさん教えていただいたはずなのに、他は皆忘れてしまっている所を見ると、小学一年生の私はT先生のおっしゃる通り立派な「ザル耳」さんだったのだろう。 一年生の女の子の理解力や好奇心というのは、たいがいそんなものなのだ。
で、台布巾の話。 T先生は入学してまだ日の浅い一年生に、お掃除の箒や雑巾の使い方を丁寧に教えてくださった。 「箒は穂先のとがったほうを前に、とがってないほうを手前にして持つんですよ。部屋の隅っこはとがったほうで丁寧に掃きだして、広い所は穂全体を使って広く掃くんですよ。」 「机を拭くのは掃き掃除が終わったあとにしましょうね。先に拭くと掃き掃除の埃でまた汚れてしまいますよ」 家ではお母さんが適当にやっていると思っていた掃き掃除、拭き掃除にもちゃんとしたやり方や理屈に合った手順というものがあるのだなぁと子どもながらに妙に感心してお話を聞いていた記憶がある。 T先生は実際に教壇の上にブリキのバケツを置いて、真新しい雑巾を几帳面にキリキリ絞ってお手本を見せてくださった。 「雑巾はね、最初に4つにたたんでぎゅっと絞りましょう。絞った雑巾はたたんだままで机を拭くんですよ。そうして雑巾が汚れてきたら、今度はたたみ直して汚れていない綺麗な面で拭きましょう。こうすると一枚の雑巾が何度も綺麗に使えるでしょう?」 パタパタと雑巾を畳み替えて順々にクラスの子達の机を拭いて行かれるT先生の手が魔法のように手際よく見えた。 その印象がとても強かったのだろう。 大人になった今、家事全般お恥ずかしいほど手抜きでずぼらな私だけれど、雑巾や布巾を絞るときには必ず濡らす前にパタパタと雑巾を畳む。 二つ折の雑巾を手のひら全体で押さえて拭く。汚れたら裏返して綺麗な面で再び拭く。裏表使ったら、四つ折にして残った綺麗なところで拭く。 T先生が一年生の子どもに教えてくださった几帳面な雑巾掛けの作法が、40過ぎのおばさんの惰性に任せたいい加減な家事の中にも根強く残っていることの不思議。 小学一年生の女の子の記憶や吸収力もあながち馬鹿にしたものでもない。
お昼前、下校時間を見計らってアプコを迎えに出る。 今日は上級生との集団下校ではなく、初めて一年生だけでの下校になる。 帰り道が同じ方向の子ども達を集めて、何人かの先生方が途中までおくって出てきてくださる。 坂道の途中で待っていると、向こうから子供用の小さな3つの傘と長身の大人の傘が前になり後ろになりしながらずんずんこちらへ歩いてくる。 どうやら、アプコたちの班は校長先生じきじきのお見送りらしい。 「あらあら、お世話になってます。ここの班はVIP待遇ですね。」とご挨拶すると校長先生も笑っておられた。
「校長先生、入学式の時は赤レンジャーだったけど、今日は白レンジャーやね。」 恥ずかしくて「さよなら」も声に出していえなかったくせに、母と二人になると俄然元気になって学校であったことを機関銃のように喋りだすアプコ。 入学式のとき、演壇の上で礼服から赤いジャージに着替えて「校長先生は子ども達を守る地球防衛隊だよ。」とお話になった校長先生のことをアプコはひそかに赤レンジャーと呼んでいる。その赤レンジャーが今日は白い雨合羽で送ってきてくださったのが面白かったのだろう。 「今日はね、粘土やってるときに、校長先生が教室のドアが固くて締まりにくいのを見に来てくれたよ。」 と熱心に語る。 知らない先生、知らない友達がいっぱいの小学校で、入学式の時に強烈な印象を残した赤レンジャー=校長先生の存在が結構大きな位置を占めているのだなということに驚く。 いつもどこからかふらりとやってきて、自分達を守ってくれそうな大人がいる。 そんなたわいもない空想で新入学の不安を晴らしていただけるアプコは幸せだ。 私にとっての新入学の思い出は「巾着耳」のお話。 もしかしたらアプコにとってのそれは、校長先生の赤レンジャーになるのかもしれない。
「おかあさん、今日はくたびれたから寝るわ。」 お昼ご飯を食べたアプコが珍しくお布団を引っ張り出してごろごろしていたかと思うと本当にうとうとと寝てしまった。 お昼寝なんて本当に久しぶり。 朝からの「初めて」続きできっと心も体もくたびれるのだろう。 たくさんの「初めて」をいっぱい吸収して一日一日小学生らしくなっていくアプコ。 明日もガンバレ。
始業式の朝。 アプコは初ランドセル登校。ぴかぴかの一年生というヤツだ。 登校班の班長に昇格したゲンが、あれこれ小言を言いながらアプコの手を引く。 いつもと違う朝の道中が気恥ずかしいアプコはゲンの手を振り切って走っていこうとする。 「大丈夫かねぇ、あの二人・・・」と見送っていたら、 「あたしも一緒に行ってくる。」と、今日はまだ徒歩通学のアユコが二人の後を追って走っていった。 なぁんだ。いつもの通学メンバーからアタシが抜けただけじゃないか。 園バスの送りで何年も続いた朝のお散歩がなくなった母は、気抜けしてバイバイと小さく手を振る。 その後ろから、微妙にアユコと登校時間をずらしてぐずぐずしていたオニイが自転車でビューンと出て行く。 久しぶりに子ども達があちこちに散らばっていく春の朝。 タンポポの綿毛みたいだなぁ。 ふわふわと飛んでいく子ども達を見送った母は、ぽつんと芯だけになったタンポポの気持ちになって空を見上げた。
小学生組のアプコとゲン。 4人兄弟のなかで、この二人が組になる事はきわめて少ない。 アプコはいつもアユ姉の後を尻尾のようにくっついて回るし、一番年の近いゲンのことをお兄ちゃんというよりは唯一対等なケンカ相手ぐらいに思っている。 ゲンのほうでも、ほんとは4つも年下のアプコに時には兄貴風をふかせて偉そうにしてみたいのに、いつもオニイやしっかり者のアユコにお株を奪われて、妹にナメラレているのが面白くない。 この二人が、いつものお世話役のアユコのいないところで、これからどんな風に「兄=妹」の関係を拵えていくのかが今後の見所でもある。
中学生組のアユコとオニイ。 こちらはもう少し複雑である。 仲良しさんと同じクラスになって、やたらハイテンションで新しい学校生活に目を輝かせるアユコを、この春から晴れて受験生のオニイがちょっと浮かない顔で遠目で見ている。 これまで自分だけの世界であった中学校へ、何かと口うるさい、しっかり者の妹が入ってくる。もしかしたら、教科の成績も生活態度も妹の方がいいかもしれない。日頃家ではあまり口にしない学校での出来事やトラブルも全部アユコを通して父母に筒抜けになるに違いない。 「やりにくくなるなぁ」というのがオニイの本音なのだろう。 先日、何かの話の折に、「アユコには負けたくないからな。」とオニイの口からポロリと漏れた。親の方としては格別アユコとオニイを比較したり競わせたりしているつもりはさらさらないのだけれど、プライドの高い長男坊のオニイには出来のいい(ように見える)アユコの存在は頼もしくもあり、鬱陶しくもあるのらしい。 実際には生意気な口をききながらも、どこかでオニイを頼りにして甘えたがっているアユコの複雑な心境にオニイはいつの日か気づくのだろうか。
兄弟が多いと、それぞれの子ども同士のつながりの糸の数も増える。 アユコ、オニイの弟でありながら、アプコの兄でもあるゲン。 ゲン、アプコの姉でありながら、オニイの妹でもあるアユコ。 特に中間子であるゲンとアユコの立場はいつも複雑である。 アプコとアユコの入学で、新たに生まれた我が家の「ツーペア」 その行く手を見守る母の楽しみは尽きない。
2005年04月07日(木) |
一年生になったら アユコ編 |
昨日に引き続き、今日はアユコの中学校の入学式。 昨夜からの雨がかろうじて上がったので、学校までの30分の道のりをアユコと二人で歩いていく事にする。 いつもの小学校への通学路にさらに15分あまりのダラダラ下り坂の続く中学への道。途中の人通りの少ない山道を配慮して、オニイと同じように自転車通学の許可が下りるはずだが、どうやらアユコは近所の仲良しのAちゃんと歩いて通いたいらしい。自転車ならすいーっと十分でいける道もいいけれど、友達同士ぺちゃくちゃお喋りしながら通う三十分もこの年頃の女の子達にはきっと楽しいに違いない。 真新しい白い運動靴が汚れないように、ピョンピョンと器用に小さな水溜りを避けて歩くアユコの足取りがいつもよりちょっと弾んで見えて、クールを装う新入生の胸の高鳴りが初々しく感じられる。
「Aちゃんとおんなじクラスになれるかな。」 中学に入るアユコにとって一番の気がかりは、親友のAちゃんと同じクラスになるかどうかということだった。 Aちゃんとは小学校の低学年の時からずっと同じクラスで過ごした大の仲良し。 おっとりのんびりマイペースなAちゃんは、何かというと一人でクラスの世話役やリーダー役を引き受けてきて孤軍奮闘してしまいがちなアユコのよき参謀役。いつも静かにアユコのそばにいてくれて、頑張りすぎたアユコが折れそうになったとき、そっと寄り添ってやんわりと包んでくれる心優しい女の子だ。 この年頃にありがちなネチネチクチャクチャした女の子同士の友達関係を苦手とする二人のつかず離れずの友情は、親の目から見ても気持ちの良い暖かい信頼関係で結ばれている。 中学生になったらあんなこともしたい、こんなことにも挑戦したいと心弾むアユコにとっては、のんびり屋の穏やかなAちゃんがそばにいてくれたら、どんなに心強いことだろう。
「5クラスに別れるんだもの、一緒のクラスになる確率は五分の一よね。」 「名前の50音順も近いから、無理かしらんねぇ。」 ここ数日、何度も何度も聞かされたアユコの不安。 開けてみれば、校舎の窓に張り出されたクラス分けの名簿の一枚目に仲良く二人並んだ二人の名前。 よかったね、なかなか幸先がいいぞ。 新しい学校生活に唯一の心配事が消えて、ニコニコと笑顔で迎えた入学式。 アユコの気持ちを映すように式の途中からは青空も見えて、ワクワクと楽しい門出の日となった。
午後、貰ってきたたくさんの教科書に名前を書いていたアユコが、いつの間にかコロンと横になって爆睡していた。 今日一日、期待と不安に揺れ動いて、アユコは妙にハイテンションで過ごしていた。きっととってもくたびれたのだろう。 昨日今日と娘たちの入学式に出席して、母もずいぶんたくさんのドキドキワクワクを経験させてもらった。 明日はオニイ、ゲンの始業式。アプコはランドセルでの初登校だ。 まだまだドキドキワクワクは続く。
暖かい一日。 アプコ入学式。 今年はちょうど桜の開花にタイミングが合って、誠に入学式日和。 この間、卒業したばかりのアユコも、今日は保護者として一緒に入学式に出たいという。アプコの「小さい母さん」であるアユコとしては、甘えん坊の妹の門出の日が気になって仕方がないのだ。 ついこの間、「さよなら、またね」と巣立った校舎や大好きな先生方が、新しい一年生を迎えて、新たなスタートを切るのを見届けておきたい気持ちもあるのかもしれない。 おなじみの先生に「もう一回小学生やるか?」とからかわれたりしながら、楽しげに写真係を務めてくれた。
先日の卒業式では、大きく成長した6年生がしっかり前を向いて座っていた席に、今日は小さな一年生が先生方に誘導されて、ぴょこぴょこと並んで座る。 どの子もまだまだ小さくて、パイプいすに座ると足が床に着かなくて、大半の子が足をプラプラさせて座っているのがなんともかわいらしい。この小さな子ども達が、また6年間であんなふうに大きくなるのだなと思うと感慨無量。
入学式の校長先生のお話、面白かった。 「校長先生には、もう一つ別のお仕事があります。」 と先生が急に演壇の後ろに隠れてしまわれた。何かごそごそしていらっしゃたかと思うと、式服のかわりにいつも見慣れた赤いジャージの上下に金槌やペンチなどの工具がいっぱいぶら下がった腰ベルトを締めながら再登場。 「先生は地球防衛軍の指令を受けて、君たちが安全に過ごせるように壊れた所を直したり、悪い人が来ないように見張ったりしているのだよ」とお話になった。 意外なパフォーマンスは一年生達には大うけで、かわいらしい笑い声が聞こえた。 学校の危機管理がやかましく言われるようになって、保護者向けにも子ども達の安全をアピールしておかなければならない事情もあってのパフォーマンスだという事が分かってはいるけれど、それでもなんだか好印象だった。 後でアプコと話していたら、「あの、赤い服の人・・・」というばかりでなかなか「校長先生」という言葉が出てこない。よほど赤いジャージの印象が強かったのだろう。 それもいい。
きょう一日、あちこちで「今度は妹さんが一年生ですね。」といわれて、そのたびに「『振り出しに戻る』みたいですね。」と笑って返した。 今日のアプコは、6年前のアユコと同じはにかみ屋の甘えん坊。 「おめでとう」といわれても「お名前は?」と聞かれても、きゅんと凹んで後ろに隠れてしまう。あの日のアユコと同じだ。 アユコのときなら、「ちゃんとお返事してね。」「一年生なんだから、名前くらい大きい声で言おうよ」としつこく促していた所だけれど、今日は笑って好きにさせる。こういう余裕が生まれるのは、少々恥ずかしがりやでも6年間でちゃんと活発な女の子に成長したお手本がそこに居るからだ。 長年の子育てのキャリアも捨てたモンじゃないと思う。 こないだまでのアユコの担任の先生にお会いして、そんな話をしていたら「よしよし、いつでも泣きべそかきにおいで。」とふくよかなおなかをぽんぽんと叩いて笑ってくださった。 はにかみ屋のアプコに、母と似た体型の泣きべそポイントが確保できて、母は嬉しい。
ゲン、早朝から剣道の遠征試合で松江へ出発。他の道場の人たちと大型バスに乗り合わせての、一泊の遠征旅行だ。
「試合に行くのだから、くれぐれも竹刀の手入れはきっちりしておくように・・・」と先週から確かに引率のI先生に言われていた。 剣道の竹刀というのは、稽古を繰り返すと刀身の部分がささくれたり割れたりしてすぐに傷む。そのままにしていると怪我につながるので竹刀の手入れは日頃から厳しく教えられている。万一の破損を考えて、竹刀は常に2本用意しておくのも大事な事だ。 ささくれた竹は専用のナイフで削るが、もっと痛みが激しくなると分解して部分的に新しい竹に差し替えたりして修理を施す。4本組み合わせた竹が全部駄目になると新しい竹刀を購入しなければならなくなる。 扱いの荒い子ども達にとって、竹刀はまさしく消耗品だ。結構出費もかさむので、先生のところで既製の竹刀ではなく、割安な竹だけを分けていただいてきて自分で組み替えたりて使ったりする。
昨日、ゲンにはちゃんと竹刀のチェックをしておくようにいっておいた。オニイが一緒にチェックして、一本は組み替えて整えてくれたけれど、もう一本は組み替える竹が足りない。 道場のF先生の所まで新しい竹を買いにいかなければならないかなぁと思っていたけれど、「このくらいなら、なんとかいけるんじゃない?」とオニイがいうので、ささくれを丁寧に削ってなんとかごまかしておく事にした。 夜、道場の稽古に出かけたら、帰りに案の定、I先生のチェックが入って、「ゲンの竹刀はダメですよ。ちゃんと替えといてください。」 とダメ出しを喰らってしまった。 この時間から竹を買いに行くなら、F先生がお帰りになる夜の10時ごろに再び滑り込みで買いに行かなければならなくなる。 あちゃー、どうするよ。 「いける、いける」とダメ竹刀にOKを出したオニイが妙に責任を感じて、家にある在庫の竹や古竹刀をひっくり返して、なんとか使える竹刀を組み上げてくれた。 当のゲンはと言うと、終始困った顔をしておろおろするのみ。いつもはオニイに生意気に食って掛かるゲンもさすがに神妙だ。
そして今朝。 「着替えは入れた?靴下は?面タオルは?」 散々繰り返してチェックさせて送り出したはずだった。 重い防具袋に竹刀袋、着替えやおやつを入れたリュックに水筒をもって、よろよろ車に乗り込むゲン。 「だいじょぶかなぁ・・・」 なんとなくいや~な予感はあった。
「ゲンのいない休日ってなんか静かだよな。」 「ゲンにいちゃん、何食べてるかな?」 お昼ごはんのときだった。 かかってきた電話に出た父さんが、 「えっ!ゲンがですか?・・・・はぁ・・・はぁ・・・いやぁー。申し訳ありません・・・・」 と絶句している。 まさか、けが?事故?迷子? 一瞬家中が凍りついた。
「・・・ゲン、剣道着忘れたらしいよ。」 ひぇーっっ! そういえば昨日、稽古が終わってから脱いだ剣道着・・・。防具袋には入れなかったのね・・・。 「先生が、現地の武道具店で新調してもいいかって・・・。お願いしますって言っておいたけど・・・」 げげぇーっ!剣道着上下新調って、一体幾らかかるんだろう。 引率の先生方にもどんなにご迷惑をかけているかと思うと、背筋に冷たいものが流れる。 あほやなぁ、ゲン。あほやなぁとおろおろするばかり。
すぐに折り返し、先生から電話があった。 別の道場のWさんという先生が、ちょっと遅れて、今から遠征チームに合流されるのだと言う。今すぐその先生の所に届けてお預けすれば、なんとか明日の試合に間に合うように持っていってくださるだろう。 「はぁ、ありがとうございます。そうさせていただきます。ほんとにご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。」 父さんただただ平謝り。 一度もお会いしたことがないWさんという先生の連絡先をうかがって、父さんとオニイが車で届けに行ってくれる事になった。
「ほんま、ゲンって奴はいろいろビックリさせてくれるよな。」 「はぁ、ほんまになぁ。」 残ったアユコと、目が合うたびにため息が出る。 引率してくださったI先生にも、他の道場の先生方にもずいぶんご迷惑をかけたのだろうな。 ゲンと言えば、この間の試合のときにも会場に剣道着の入ったかばんをそっくり忘れてきて、I先生には散々ご心配をかけたばかり。 「まったくもう、ここんちの親は・・・。」とあきれ返っていらっしゃるだろうか。 うわぁ、やだな。 かっこわりーなぁ。 もうちょっとちゃんとチェックして送りだしゃよかったなぁ。 ほんとうにもう、あほやなぁ、ゲンったらほんとにもう・・・。
「無事届けたよ。」 父さんとともに、W先生のところへ届けに行ってくれたオニイが帰ってきた。唐突に奇妙な頼みごとに現れた初対面の親子に、「よくあることですよ」と笑ってくださったそうだ。 「でもなぁ、剣士が試合に剣道着忘れていくなんて、決して『よくあること』じゃないよね。」 「うん、きっとあの先生も、内心では『アホなやっちゃな』とおもっているだろうけどね。 」 それでも、慌てふためいて駆けつけてきた親子に「ドンマイ、ドンマイ。」と、気持ちよく笑ってくださったW先生の受け答えは有難い。 弟の度重なる失敗を我が事のように責任を感じていたらしいオニイも、W先生のさわやかな対応振りに心動かされたようだった。 「オニイ、よく覚えておこうね。 こういう時には、『よくあることですよ』って言ってあげるんだよ。」 ゲンの大チョンボの教訓として、W先生の寛大なさわやかさをいただいておくことにする。
「ゲンが帰ってきたら、散々文句言ってやらにゃならんなぁ。」 忘れ物をとりあえず届け終わって、少し気持ちの緩んだオニイが笑う。 「だめだめ。そうじゃないでしょ。『よくあることですよ』でしょ?」 母もようやく軽口を飛ばして笑う。 二つの道があれば必ず三つ目の道を選ぶ。 いつも思いがけないビックリを唐突に持ち込んでくるゲン。 そのたびにオロオロ、ジタバタする母だけれど、せいぜい「よくあることじゃん」と余裕で笑ってやれる度量も必要。
・・・って、ほんとは子どもの初めての旅行荷物をちゃんとチェックしておいてやるだけの細やかさを持とうよね、自分。
朝の生協で10㎏の米が届いた。 我が家の米の消費量は一週間に5㎏強。 1,2週間に一度、生協で注文して届けてもらう。 たいがいは、米を切らすことがないように早めに注文しておくのだけれど、時々目算を誤って配送の2,3日前に米びつの中身が底を突きそうになることがある。 ちょうど今週も、あと1食分か2食分、ちょっと心細いかなという感じの微妙な懐具合となった。ご近所のスーパーで調達してきてもいいし、おばあちゃんちで2,3合拝借してきてもいいのだけれど、金曜日の朝には先週注文した10キロの米が届くのが判っている。お昼ご飯をパンにしたり、晩御飯をちょっとボリュームのあるパスタにしたり、微妙な算段でなんとか乗り切る。 たった一日二日のやりくりだというのに、「米びつに明日炊く米がない」と言うのは何となく心細くて、カツカツと追い詰められた気分になるのは何故なんだろう。
届いたばかりの米袋の封を切り、よっこらしょっと持ち上げてライサーに流し込む。さらさらと米が満ちていく音がふくふくと嬉しい。 いつも食べなれた格別上等でもないお買い得価格の無洗米。それでも我が家の米びつにたっぷりと米が蓄えられると心豊かに満たされた思いがするのが何となく自分でも可笑しい。
実家の母はいつもライサーを使わず、流しの下の四角いブリキの米びつから計量カップで1合、2合と数えながらその日炊く米の量を量って入れた。 友達の家で、ボタン一つで一合分ずつ簡単に量れるライサーの便利さを見覚えて、「どうしてうちではジャーッとお米が計れる米びつを使わないの?」と尋ねたことがある。 母は流しの前に膝をついて、いつものようにさらさらとカップでくみ上げた米を計りながら「こうやって一杯ずつ量るのが楽しいから」と笑って答えてくれたのを思い出す。 私自身は新婚の時に頂き物で導入した「ボタンでジャーッ」のライサーで長年愛用してきたけれど、数年前、無洗米を使うようになってから、一旦多めに落とした米を無洗米専用の計量カップで一杯ずつすくって米を計るようになった。 たっぷり蓄えた白米をさっくり掬ってさらさらと器にあける。冷たい米の触感は確かに心地よく、ちょっと楽しい。 育ち盛りの子どもを抱え、日に日に米の消費量の増える家族の時間を毎日汲み上げる白米の数で実感していたであろうあの日の母の嬉しさが今なら私にも判る気がする。
米びつにたっぷりと蓄えがあるという嬉しさ。 それは例えば、いつ使うとも知れないたくさんの便箋や大束の封筒を買い込んで文箱にしまいこむ時のワクワクする気持ち。 当座これといって使う当てもないハギレの布や綺麗なリボンをたっぷり集めて押入れに溜め込む時の楽しい気持ちにもちょっと似ている。 そんな話をしていたら、父さんにもそういう気持ちになる事があるという。 それは数年に一度、大型トラックで陶芸の土が運び込まれたとき。 材料屋でこれから使う釉薬をたくさん買い込んできたとき。 いつ使い切るとも知れない仕事の糧が、ここしばらくはとりあえずたっぷりと身の回りに確保してあるという嬉しさは、じわじわと静かに心を満たす喜びでもある。
一日一日、カップで量る白米の量で今日の日の家族の時間を計る。 ささやかな嬉しさは主婦の特権。 開けたての米を今日は4合。 福岡土産の明太子を、炊き立ての白飯で頂こうと思う。
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