女の世紀を旅する
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2002年01月23日(水) 時事検証  アルゼンチンの悲劇

≪時事検証  アルゼンチンの悲劇の背景≫
                          2002年1月23日 





●アルゼンチンの歴史

国名Argentinaはラテン語で「銀の産地」の意味で,16世紀にスペイン人が征服した当時,この地を銀産地と思いこみ,スペイン語で「銀」を意味するラ・プラタと名付けた。1816年にスペインから独立したのを機にラ・プラタからアルゼンチンに改称した。

アルゼンチンの面積は大きく,世界第8位,南米大陸第2位であり,西はチリ,北はボリビア,北東はパラグアイ,東はブラジル,ウルグアイに接し,南東は大西洋に面する。国土の西側をアンデス山脈が南北に走り,その東側にチャコとパンパの広大な草原が広がる。1816年にスペインから独立(クリオーリョ出身の軍人サン・マルティンがアルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導)して以来,このパンパ地方を中心に,大規模な農牧場経営が普及し,農牧産品の輸出国として発展してきた。パンパ地方はアルゼンチンの政治・経済・文化・社会の中心地となっている。

アルゼンチンは白人中心の国である。住民の大半は,スペイン人,イタリア人などの白人からなり,97%を占める。原住民のインディオと,白人との混血であるガウチョは3%にすぎない。人口はここ100年間に,イタリア・スペインを中心とするヨーロッパ諸国からの移民の大量受け入れによって14倍に急増した。世界の食料庫としての繁栄の中で,

ヨーロッパ文化が広範囲に摂取され,首都ブエノス・アイレスは南米のパリと称されている。住民の大多数はカトリック教徒で,憲法によって正副大統領はともにカトリック教徒であることが定められている。



●第2次世界大戦後の政治・経済混乱

大戦後,ペロン独裁政権(1946~55)が成立した。ペロンは軍部・教会の支持をえて国家社会主義的な政策を推し進め,経済自由主義路線を転換し,経済の3大重点課題として①外国資産の国有化,②工業の育成,③国家主導型の経済開発が目標とされた。経済的自立をめざし,ナショナリズム色の濃い路線が進められ,外国資産の買収と外債支払いが次々と実施されていったが,1949年頃には外貨不足を招来することとなり,そのためペロン大統領は1951年再選後,外資導入を進める必要上,ナショナリズム路線を修正せざるをえなくなった。この時期,基幹産業の国営もしくは半官半民の経営形態が拡大されたが,赤字経営のものが多く,財政赤字が拡大していった。外貨不足,インフレも高進し,反政府機運が盛り上がり,1955年の軍事クーデターでペロンは失脚した。



●イサベル大統領の失政と,軍政の復活

ペロン失脚後,民政と,軍事クーデターによる軍政との政権交替が相次いだ。1973年の民政移管後の選挙で,亡命先のスペインから帰国したペロンが大統領に復帰し,副大統領にペロン夫人のイサベルが選出された。大衆はペロンの民族主義(ナショナリズム)的主張と,労働者優遇政策を歓迎した。しかし,高齢のペロンは翌74年7月に病死し,代わって夫人のイサベルが世界最初の女性大統領に就任したが,その統治能力の無能さと,経済政策の行き詰まりにより,国民の生活水準は大幅に低下し,極左と極右による政治テロ,誘拐が横行し,社会不安がつのった。こうして1976年にビデラ軍司令官らによる軍事クーデターが発生し,イサベル大統領は逮捕され,戒厳令がしかれた。ビデラ政権は反政府活動を徹底的に弾圧し,左派系の活動家・学生ら約3万人が殺害される悲劇を生んだ。(同じ時期,チリでもアジェンデ社会主義政権を倒したピノチェト軍事政権により数万人の左派系学生が虐殺されている。 )

失業,インフレ,財政難と,経済政策に行き詰まった軍政は,81年12月にガルティエリ政権に継承されたが,軍政批判が強まり,82年には大規模なデモに発展した。この批判の矛先をかわすため軍政は,82年4月フォークランド(マルビナス)諸島の領有権をし主張してイギリス(サッチャー首相)に宣戦し,フォークランド戦争をおこしたが,6月にアルゼンチン軍の降伏で終戦となった。84年に民政移管と動き始めたが,戦後の経済情勢は一段と悪化し,とりわけ累積債務返済のめどが立たない状況におちいった。89年には年率5000%というハイパーインフレに襲われ、商店の値札が毎日値上がりする暴騰状態におちいった。



●1990年代に一転して高度経済成長へ

 ところが1990年代になると、アルゼンチンは一転して模範的な経済体制だといわれるようになった。行き詰まりを打開できたのは「冷戦終結」という時代の転換に、上手に乗ったためだった。1989年に就任したメネム大統領は、関税を下げて貿易を自由化し、国営企業を民営化し、投資制限を解除して海外からの資金流入を増やし、政府による経済規制を減らして市場原則に任せるという「経済自由化」を行った。

 これは冷戦の勝者となったアメリカが「グローバル・スタンダード」として世界に広げていった経済体制で、アルゼンチンはいち早くその体制に転換し、90年代前半に年率8%近い高度経済成長となった。1940~50年代、冷戦体制が作られたときの世界の変容に乗り遅れて不遇の時代を送ったアルゼンチンだったが、冷戦体制終了後の世界の変容をつかむことには成功したのだった。



●固定相場制で世界から投資を呼び込んだのが裏目に

 このときアルゼンチン経済が回復したもう一つの理由とされたのは、通貨ペソの為替変動を抑えるため、ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルで固定する政策をとったことだった。為替相場を固定することによって、海外の投資家、特にアメリカ合衆国の投資家が、為替変動のリスクを気にせず、米国内の企業などに投資するのと同じように、安心してアルゼンチンに投資できるようになったことがあげられる。

 日本も1973年まで1ドル=360円などの固定相場制だったが、当時は第2次大戦前に激化した通貨切り下げ戦争の反省から、為替相場の安定を加盟国に義務づけた「ブレトンウッズ体制」(1944~73年 固定相場制)がまだ生きていたころで、しかもまだ為替取引には大きな制限が加えられていた。これに対して冷戦後のアルゼンチンの固定相場制は、それよりはるかに自由になった世界の為替市場の中で固定相場を維持するものだった。

 アルゼンチン政府は手持ちの米ドル資産の総額を越えない範囲でペソを発行し、人々がすべてのペソをドルに替えようとしたとしても政府が対応できるようにしておくことで、人々に不安を抱かせず、ペソの価値を維持するというものだった。アルゼンチン政府だけで対応しきれなくなった場合は、国際金融機関であるIMF(国際通貨基金)がアルゼンチン政府に融資して支えることが前提としてあった。

 1ドル=1ペソに固定するなら、ペソの代わりにドルをアルゼンチン国内で流通させ、ペソを廃止してもいいではないか、という考え方もある。中南米では、パナマが事実上この方法を採っている。この方法の問題点は、自国通貨をなくしてしまうと、通貨の発行量を調節することで経済の過熱や景気悪化をある程度防ぐことができるのに、その機能を自ら放棄することになってしまう、ということに存する。

 逆に、厳密に相場を固定しなくても、為替が変動し始めたら、中央銀行が変動を止めるように自国通貨を売り買い(市場介入)することで、為替変動を最小限にとどめることもできる。テントが風で飛ばないように地面に打っておくクギ(杭)を「ペッグ」というが、その仕組みに似ているので、この手法は「ペッグ制」と呼ばれる。
 ペッグ制の方がお手軽なので、多くの国がそちらを選んだが、タイやマレーシアなどは、1997年に中央銀行をしのぐ巨額の資金を持ったアメリカの投機筋からの売り攻撃を受け、中央銀行が手持ちの外貨を使い果たした結果、固定されていた相場が外れて急落し、アジア通貨危機を起こして破綻してしまった。



●固定相場制が輸出の足かせに

 アジア通貨危機は、その後ロシアに飛び火した後、1999年に南米のブラジルを襲った。ブラジルも隣国アルゼンチンと同様、1ドル=1レアル前後の為替を維持していたが、為替を固定する方法がペッグ方式だったので、投機筋の攻撃を受け、レアルは大幅な切り下げに追い込まれた。

 アルゼンチンのペソは無傷で、危機に強いことが証明されたが、問題はその後に起こった。ブラジルもアルゼンチンも、輸出を増やして経済発展することを目指しているが、ブラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、ドルで換算したブラジル製品の価格がかなり下がり、その分アルゼンチン製品の方が割高になった。通貨切り下げの後、ブラジル経済は立ち直り始めたが、アルゼンチンは逆に大不況になった。

 中南米では1994年にメキシコが通貨危機に襲われて切り下げを断行している。通貨切り下げに追い込まれる国が増えるほど、切り下げができない制度をとっているアルゼンチンの輸出産業は苦しむことになった。

 これはアルゼンチンだけでなく、アメリカにとっても困ったことだった。ウォール街を中心とするアメリカの投資家にとっては、アルゼンチンのように対ドル為替が固定している国の方が、ブラジルやメキシコのように通貨の対ドルの価値が下がってしまう国よりも投資先として好ましいからだった。

 このためアメリカはIMFなどを通じて、アルゼンチン以外の中南米の国々にも、ドルとの固定相場制を広げ、最終的には中南米諸国の通貨をドルそのものに置き換えてしまうという構想を描いた。だが、その後ドル化したのは経済が破綻したエクアドルだけで、他の国は乗ってこなかった。



●アルゼンチンの危機深まる

 そんな中でアルゼンチンの不況は1997年からしだいにひどくなり、2001年には経済成長率はマイナス11%というひどい落ち込みとなった。アルゼンチンのペソがドルと等価というのはペソが高く評価されすぎているという市場の懸念を和らげるため、アルゼンチン政府はペソ建ての国債の金利を上げ、ペソの価値を高めようとしたが、金利の高止まりは企業の資金調達コストを上げてしまい、景気への悪影響が増えることになった。

 失業率も20%に達し、政府は税収の落ち込みから、公務員の給与や年金を支払えなくなり、4000万人近い国民の4割にあたる1400万人が貧困層になり、今日明日の食べ物にも困る人々が国民の1割以上の500万人もいる状態になった。1950年代まで豊かな先進国の一つに数えられていたアルゼンチンの姿は、もはや見る影もなくなった。



●国家破綻の危機に立つアルゼンチン

 それでも、アメリカで金融界とのつながりが深かったクリントンの政権が続いている間は、IMFはアルゼンチン政府が固定相場を維持できるよう融資を増やしていた。クリントン時代のアメリカの世界戦略は、発展途上国にカネを貸す米金融界を政府がサポートし、途上国を経済発展させることで、アメリカの政府と金融機関、それから途上国の政府に成功をもたらす、というシナリオを建て前として持っていて、その中にアルゼンチンの固定相場や、中南米のドル化政策があった。

 ところが97年のアジア通貨危機以来、そのシナリオはあちこちで破綻し始め、クリントンの任期が終わる2000年末には、アメリカ本体の経済も、もはや不況突入が間違いない状態になっていた。そのため次のブッシュ政権は、国際金融を操作して成果をあげることを放棄し、代わりに軍事やエネルギーの分野から世界を動かす戦略に変えた。

 こうした政策転換の中で、行き詰まる2001年のアルゼンチンはアメリカから放置されることになった。IMFは予定されていた27億ドルの融資を実施する条件として、政府予算の収入と支出を均衡させることを求めた。アルゼンチンは不況で税収が減っており、ひどく楽観的に見積もっても、2002年度は支出を前年度より20%減らさないと均衡予算にならない。公務員給与や公的年金の支払いが滞っている中で、そんな歳出削減は無理だった。

 この手の厳しい条件は、クリントン時代にもIMFがインドネシアなど世界各国に対して行ってきたことで、ブッシュ時代になって始まったことではなかった。とはいえ、緊縮財政の一方で、アルゼンチンはブッシュ政権に好意を持ってもらおうと「テロ戦争」が始まると、600人の兵士をアフガニスタンへ平和維持軍として送り出し、パキスタンでは難民支援の病院も経営している。
 だが、そんないじましい努力も、アメリカとその配下のIMFの対応を変えるには至らず、アルゼンチン国民の間から「アフガニスタンより、自国民の支援にカネを回せ」という非難が増えただけだった。

 2001年初め、トルコが通貨危機に陥ったとき、ブッシュ政権はそんなに冷たくなかった。IMFを通じて75億ドルを緊急融資させ、連立政権が壊れそうになっていたトルコ政府を救った。トルコではイスラム原理主義勢力が元気で、経済が破綻して連立政権が崩壊すれば、イスラム原理主義の政権ができるかもしれなかった。
 トルコはイラクを攻撃する米軍に軍事基地を使わせており、アメリカが中東を支配する際には欠かせない国だったから、すぐに緊急支援が行われたのだった。緊急支援をしてもらえないアルゼンチンは、今や国家的破綻の危機に瀕している。








カルメンチャキ |MAIL

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