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2003年12月31日(水) ■ |
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「活字中毒R。」・2003年総集編<前編> |
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とりあえず大晦日ですので、今年の「活字中毒。」を振り返ってみようと思います。 ベスト版、というよりは、なんとなく記憶に残っているもの10本。
今年1年分と思ったのですが、選びきれなかったものですから、とりあえず、今日は2003年上半期分、年明け最初に下半期分をやりたいと思います。
それでは、まず上半期の10本をどうぞ。
(1)1月11日 ブラックジャックの生存証明。
ほんと、「純粋に他人のために生きる」というのは、難しいことですね。誰にとってもやっぱり、「人生の主役は自分」なわけで。
(2)2月2日 美しいおなごは、鼻持ちならぬ!
モテるのも、意外と大変みたいなんですよね。何事もほどほどが一番なのかも。
(3)2月5日 作家・中島らも氏の「麻薬取締法違反」に思う。
今はもう、すっかり「復帰」されているのですが。「麻薬使用者を擁護するなんて」と言われもしましたが、好きなものは好き、なんだよなあ。 別に麻薬が好きなわけじゃないんだけど。
(4)3月17日 「人間の盾」と「守られるべきもの」
2003年は、「命の価値」というのを考えさせられる年でした。「価値ある死」なんて、本人には決められないことだし。
(5)4月7日 「構ってほしくて」自作自演する人の悲劇。
人間って言うのは、「与えられること」に貪欲で、「与えること」に吝嗇なんだよなあ…
(6)4月18日 「土日がつまらない!」と嘆く子供たち。
大人になって、「ヒマだなあ」と感じることはなくなったのですが、今から考えると、子供には「ヒマな時間」が必要なのだと思います。
(7)5月7日 永遠の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
人生のある時期読んでおくべき小説というのはあると思うのです。「キャッチャー…」は、まさに「10代に読んでおくべき小説」かと。
(8)5月30日 「フリーターは自由だ」という幻想に騙されるな!
本当は、好きでフリーターやってる人って少ないみたいです。
(9)6月13日 「もしかして、おまえ、血液型B型だろ?」
実際、ネット上のコミュニティの多くは、こういう「マイノリティ意識」に支えられているような気がします。
(10)6月21日 「引用は、選んだ人間のオリジナルである」
「誰にも全く影響されていない完全オリジナル」なんて、この世に存在しえないわけで、どこまでがオリジナルかっていうのは、難しいなあ。
<あとがき>
こうして「ほぼ一年間書いてきて思うのは、やっぱりデキにも波があるし、今読むと、どうかなあ?なんて感じるものもあるのですが。 実際、書き直したい、というようなものもありますし。 初期は「読んだ本の中から、気になった文章を抜き出す」というコンセプトではじめたこの「活字中毒。」なのですが、今ではすっかり、ニュースに対する言及が多くなってしまいました。それもなんだか、僕としては不本意なところではあるのです。 あと、どんどん長くなってきているのは、書く側としても課題ですね。 なるべく、「サラッと読めるくらいの長さ」におさめたいところです。
なにはともあれ、今年1年、「活字中毒。」→「活字中毒R。」を読んでいただいて、ありがとうございました。 来年は、少し更新頻度が下がっても、なるべく自分で満足できるものを書いていければなあ、と思っております。
そうそう「いやしのつえ」のほうも、どうぞよろしくお願いします。
それでは皆様、よいお年をお迎えくださいませ。
※次回は1月2日くらいに<2003年総集編・後編>を更新して、通常更新は、1月4日からの予定です。
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2003年12月30日(火) ■ |
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「曙vsサップ」に期待すること |
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日刊スポーツの記事より。
【ボブ・サップ(29=米国)は軽快なビースト節を連発し、曙太郎(34)は口を真一文字に結んだ。明日31日に行われるK-1 Dynamite! ! (ナゴヤドーム)のメーンで激突する2人は29日、決戦地の名古屋に到着し個別の記者会見に出席した。「フグボノをおいしく料理して食べ尽くす」とリラックスするサップに対して、K-1ルール初挑戦の曙は「頑張れば人間に不可能ということはない」と緊迫感をみなぎらせた。元横綱対元NFL選手という史上初の「世紀の一戦」に向けて、両雄の表情は好対照だった。】
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対決!曙対サップ! なぜか今年は大晦日に格闘技イベントが3つも重なることになってしまって、非常にドタバタしているのですが、話題性といえばこの試合に尽きるのではないかと思います。僕も明日は紅白を家で録画して(まあ、大晦日の夜以外に観る紅白というのは、演歌の人がやたらと多くてカメラワークがぎこちない歌番組でしかないのですが)、これらの格闘技イベントを(急患で呼ばれない限り)当直室で観る予定なのです。 それにしても、1日ずつずらせば、3つのイベントとももう少し人も集まるでしょうし、視聴率も取れると思うんですけどね。 結局、「大晦日に格闘技を観る人たちの数」というのには限界があって、その人たちの最大公約数が、去年「猪木祭」を観たと思われますので、小ッ年はおそらく、その一定の人数の中での視聴者の奪い合いになるのでしょう。 どうしてそこまでして大晦日の紅白の裏の視聴率争いをするのか、僕にはよくわからないのですが。 まあ、その時間帯というのは、一種の「象徴化」しているのかもしれませんね。
ところで、この「曙対サップ」なのですが、先日の特番やCMなどでの曙の動きを見ていると、どう考えても「華麗なテクニックの応酬」にはなりがたい試合です。曙は突っ張りのトレーニングはやっていてもパンチの練習なんてしたことないでしょうし、キックなんて受けたこともないでしょう。 もともと膝が悪くて引退して、その上かなりのブランクがあるのだから、不利なことこの上ありません。 相手があまりキックを使わない猪突猛進型のサップですから、なんとか試合になるのかもしれませんが… 曙の勝機があるとすれば、ファーストコンタクトの「一発」でサップを吹っ飛ばすしかなさそうな感じです。
普通、新しいことに挑戦する場合には、まず簡単なところからはじめて、徐々にレベルアップしていくのが一般的です。しかし今回は、話題性のために、いきなり相手がボブ・サップ。いくら才能がある高卒ルーキーでも、プロ野球の投手の球に慣れるのには時間がかかるように、厳しい条件です。
しかし、いくら本人が望んだことであり、多額のギャラが貰えるとはいえ、こんな日本中で注目される試合で、しかも不利な条件で闘うというプレッシャーは、非常に大きなものでしょうね。 ある意味「横綱」を背負っているわけですし。 情けない試合をしてしまったら、日本中からパッシングを受けること必定。
そんな他人の闘いに一喜一憂してしまう人々(僕も含めて)というのは、まるで「パンと見世物」を求めたローマ市民みたいなものかもしれません。 紅白歌合戦の出場歌手や曲順、格闘技イベントの組み合わせへのクレーム、結局そんなことは、僕たちの人生には何の関係もないことなのにねえ。
まあ、キック一発で決まってしまうとかの凡戦に終わったら、それはそれで悪口を言う愉しみもありますしね。紅白でいちばん記憶に残ったシーンは、加山雄三の「仮面ライダー!」と伝説の「ミソラ~!」だもんなあ。
大晦日、日本中がトラブルを待っている!
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2003年12月29日(月) ■ |
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「記録に残すこと」と「記憶に残ること」 |
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「僕の生きる道」(橋部敦子著・角川文庫)のあとがき「中村先生に教わったこと」で、ドラマの主役・中村秀雄先生を演じた草なぎ剛さんが書かれていたコメントの一節です。
【余命を宣告されてから、中村先生は何かこの世の中に生きていた痕跡を残したくて、ビデオ日記をつけていきます。でも、途中で止めてしまうんですね。それどころか、みどり先生との結婚式の写真さえも撮ろうとしません。 僕もあまり写真とか撮らない人で、結婚式の写真を撮らなかったところで中村先生が、「今、この瞬間の出来事が、いつか過去になってしまうと思いたくなかった」という気持ち、すごくよくわかるんですね。僕の中での核心をついてる。何かを残したいという欲望は、人が本来持っているものだったりします。僕はまだ余命五十年だと思っているから、写真に残すことがピンとこなくて、記憶に残るほうが素敵なような気がするのかもしれません。】
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今のところ、人間として生まれたものには、「死」というのは避けがたい宿命です。そして、多くの人は「死んでしまえば、すべてがおしまいになる」と思いつつも、「自分が死んだ後に、何かを残すこと」を望んでいるのです。 借金なんか残されたらあとの人間は迷惑するだけですし、財産を遺せば感謝されることはあるかもしれませんが、少なくともその人が生きている間の記録(写真とかビデオとか、手紙など)というものは、よほど歴史的に価値がある人物のものでもない限り、いつかは忘れ去られていくものです。 古代エジプトでミイラになった人などは、まさか自分たちが未来に貴重な研究材料として、ある意味「見世物」にされてしまうなんて(粉末にされて、薬の材料にされてしまうこともあったようです)、夢にも思っていなかったのでしょうし、「遺そうとすること」が、必ずしも本意に沿った形になるかどうかもわからないところがあるのですが。
確かに、「やたらと記録を残したがる人」っていますよね。例えば結婚式で、ずっと写真ばかり撮っていて落ち着かず、「この人はカメラマン?」と疑っているような人とか、子供の運動会で、ずっとビデオを回している父親とか。 僕はそんな光景を見るたびに、「体験すること」を放棄して、「記録すること」ばっかりに夢中になっても仕方がないんじゃない?とか思ってしまうのです。記録をとることで満足してしまって、結局はその記録は生かされることがなくなってしまうのではないかと。 「いつでも観られる」と思って録ったビデオや「いつでも読める」と思って買った本、近くに住んでいて「いつでも会える」と思いながら、いつの間にか疎遠になってしまった友人など、「記録している安心感」というのは、ときに人間を油断させてしまう面もあるのです。 もちろん、夫婦が結婚式のことを思い出したり、人類の歴史を振り返るためには「記録すること」というのは非常に大事なのですが、「記録」されているからといって、どのくらい僕たちが真実を理解できているかというのは、なんとも言えない気もします。理解の助けになる面もあるでしょうが、先入観に流される原因にもなるでしょうし。
僕も写真を撮ったり、こうやって文章を書くことは大好きです。 でも、その一方で、「こうやって記録することにばかり時間を費やしていったからといって、何か遺すことができるのか?」という疑問を抱くことも多いのです。 「現在」を記録として遺そうとするあまり、「現在を生きる」というのに対して、あまりに客観的になりすぎてしまっているのではないか?なんて。
「本当に憶えておくべきことは忘れないし、忘れてしまうということは、それだけの価値しかなかったんだ」という考え方があります。確かに、人生なんてそんなものかもしれません。 「記録」として残したつもりでも、結局、その記録の存在を認識しているものは、ごくごく一部なわけですし、どんなに写真を撮る人でも、大事にして傍に置いている写真というのはそんなに多くはないはずですから。
「記憶」も「記録」も、いつかは失われてしまうものです。 でも、「記録するためだけの人生」なんて、つまんないですよね。 僕が、僕の大事な人、大事だった人のことをどれだけ理解しているか、なんて考えると、「何かを遺そうとすること」なんて、虚しいことなのかもな、なんて絶望することもあるのです。
でもね、30を過ぎて、僕はときどき、自分の両親の言葉をふと思い出すのです。あれはああいう意味だったのかな、なんて。その当時はまったく理解不能で、反発しか感じなかったことなのに。
「伝わらないようで、伝わっていること」って、形には遺っていなくても、けっこうたくさんあるのかもしれませんね。 逆に、「伝わっているようで、伝わっていないこと」というのも、たくさんあるんだろうけど…
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2003年12月28日(日) ■ |
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失われていく「お正月」への感傷 |
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読売新聞の記事より。
【大手スーパー、イオンは27日、24時間営業店舗の4分の1に当たる約40店で、元日の午前零時から、福袋の初売りを始めることを明らかにした。スーパー業界では24時間営業店が増えているが、大手スーパーが全国規模で深夜に初売りする例はないという。】
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元日の0時ということは、要するに、年が明けたら即時初売り開始、ということなんですね。それはすごいなあ。 もう20年くらい前の話になってしまうのですが、僕が子供の頃の「お正月」といえば、お年玉をアテにしてオモチャ屋などを除いて、店はみんなお休みで、家でおせち料理とかを「食べ飽きたなあ」なんて思いながら食べていた記憶があります。 初詣くらいしかやることがなくて、家でゴロゴロしてテレビをずっと観ていたり。 現代はコンビニなどは当然休むことなく開いていますし、年中無休なんて店が多くなって、逆に「正月に休んでいる店もあるんだなあ」というレベルになってきているのではないでしょうか? 元日はともかく、2日、3日になると、大きな店はたいがい開いていますし、そういう意味では、「日本の長閑なお正月」というのは、どんどん失われているんでしょうね。 もちろん、小売業では「早い者勝ち」ということもあるんでしょうけど、あんまりみんながそういうふうにしてしまうと、結局、お正月って何なのだろう?という気にもなってきます。 結局、そのほうが便利には違いないので、お正月も「通常営業」の店はどんどん増えて行くのでしょうが。
しかし、こういうふうに元日から店が開いているというのは、裏を返せば、それだけの人たちが元日から働いている、ということなんですよね。 ずっとおせち料理食べてたらカレー食べたくなるのは事実だけど、でも、いつでもカレーが食べられる正月というのも、なんとなく寂しいような気もします。 そういうのは、贅沢な感傷なのかもしれないけれど。
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2003年12月27日(土) ■ |
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「物好きな女性」が多すぎる! |
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共同通信の記事より。
【京都府警は26日、勤務中に不倫相手の女性と会ったり、消費者金融から多額の借金をしていたとして、堀川署警備課の巡査長(43)を懲戒免職処分にしたと発表した。 監督責任を問い、上司の署長(57)を本部長注意、警備課長(47)も所属長注意の処分にした。 監察官室によると、巡査長は2002年5月から今年6月にかけて計8回、勤務中の昼間や当直時間に署を抜け出し、不倫関係にある女性とホテルや女性の自宅で会っていた。同僚らには「仕事に行く」とうそをつき、公用車で出掛けたこともあったという。 また、複数の消費者金融などから多額の借金をして遊興費などに充てており、一部は女性との交際費に使っていたとみられる。 巡査長は事実を認め「申し訳ない」と話しているという】
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世の中には、酷い警察官もいたもんですね。勤務時間中に署を抜け出して不貞行為なんて。 でも、このニュースを聞いて僕が最初に思ったことは、「この不倫相手も物好きだなあ」ということでした。警官かどうかは伏せていたとしても、昼間からブラブラしていたり、多重債務があるような男と不倫するなんて。 どこまで本当のことを相手に話していたかはわかりませんが、普通、「何かおかしい」と思うのではないかと。
「火遊び」であれば、相手がどんな人でもいいのかなあ、という気もする一方、遊びにしても、もうちょっとマシな人がいるんじゃない、なんて。 世の中には、僕みたいに真面目に働いていてもモテナイ男なんてたくさんいるのに、人生とか恋愛(の範疇に入れていいかは異論があるところなのかもしれませんが)というのは不公平なものだなあ、と思えてくるのです。 実際、こういう人のほうが「キケンな男」とかいって、モテてたりするんですよねえ。 「適当なのが、カッコいい」って、本当に思う? そういう「生き方」と「オトコとしての魅力」って、別物なのかなあ…
僕なんかに応援されても嬉しくもなんともないでしょうが、不器用でもちゃんと自分の仕事をしている人が、少しでも幸せになってもらいたいなあ、なんて思うのです。 何が幸せかなんて、誰にも決めようもないことではあるのでしょうけど。 それにしても、警察って、勤務時間内にそんなことが可能なんですね…
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2003年12月26日(金) ■ |
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「好き」という感情の難しさ。 |
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「いつもひとりで」(阿川佐和子著・文春文庫)より。
【こんなふうに(散歩の途中で「一目ぼれ」して)気に入って持ち帰ってみたものの、いざ料理を盛り付けてみると、少しがっかりする場合もある。不思議なもので、店で見ていたときのほうが見栄えがするのだ。眺めているぶんには相変わらず美しいのだが、どういうわけか使いづらい。出来上がった料理を鍋からお皿に移すとき、さてどのお皿にしようかなと棚に目を走らせながら、つい敬遠してしまう。 反対に、たいして思い入れはなかったはずのうつわが、案外、使い勝手がよく、結果的に年中、食卓に登場することもある。そういううつわはおのずと食器棚の前列に並ぶようになる。】
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本当に、人間の「好み」なんて、自分でもよくわからないところがあると思うのです。僕は食器を集める趣味はないのですが、レンタルビデオに行ってビデオを借りるときに、「お目当ての一本」とは別に、「せっかくここまで来たんだから」ということで、ついでに借りたビデオのほうが面白かったことってないですか? もしくは、「時間のあるときに、ゆっくり読もう」と思って買っておいた本は結局ずっと本棚の中で、ついでに買った本は何度も読み返してしまったり。 ゲームとかCDなどでも、似たような経験をして「しまった!」とか「あのときこれを手にとっておいて良かった」というような経験が、僕にはよくあるのです。 それはもちろん、「目当てだったほう」には多大な期待をかけすぎていたり、「目当てだったほう」は、概して「重い」作品だったりして、手がつけにくい、なんて事情もあると思われます。 でも、その一方で、そういう「ものすごくいいものを選ぼう」とか「これは評判が良いから面白いに違いない」というような、過大なプレッシャーから解き放たれた状況で、なんとなく手に取ったもののほうが、むしろ自分の好みや感性に合ったものであることが多いのではないか、という気もするのです。 感動的な大河小説よりすぐ読めるエッセイ、長い間遊べる超大作RPGより、ちょっとした息抜きに遊べるパズルゲーム。 この年になって、僕は本当は、文学作品よりエッセイの方が好きだったり、感動の超大作映画よりちょっと笑える小品の映画のほうが好きなんじゃないかなあ、ということに気がついてきたような気もするのです。
人間に対する好みにも、同じようなところがあると思うのです。 「こんな格好じゃ誘えない」とか「こんな普通の店じゃ悪いよなあ」とか思うような相手よりも、自分でムリをしない範囲で付き合っていける人のほうが、結局長続きもするし、いい付き合いをしていけることってないですか? 憧ればかりで実際に接するときには緊張するような関係よりも、本当の「好き」というのは、実は、日常の中にあるのかな、なんて考えてみたりもするのです。
そういえば、好みのサイト選びなんかもそうですよね。 一見して「これは凄い!」と思ってブックマークしたようなところに、いつの間にか行かなくなったり、「たいしたことないけど、なんとなく気になる」というようなサイトに、気がついてみれば毎日入り浸っている、なんてこと、けっこうありませんか?
本当に、自分の「好み」なんて、自分でもわからないものだよなあ、なんてことを、この年になって僕はあらためて考えてみるのです。
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2003年12月25日(木) ■ |
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「人気マンガの続編」なんて、要らない! |
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毎日新聞の記事より。
【「死刑!」「八丈島のきょん!」などのギャグで70年代、一世を風靡(ふうび)した山上たつひこさんのマンガ「がきデカ」が23年ぶりに復活する。「ビッグコミック」(小学館)新年1、2号(12月25日、来年1月10日発売)に前後編「中春 こまわり君」が掲載される。
小学生だったこまわり君も38歳のサラリーマンになっている。妻と小学2年の一人息子がいて、平穏な家庭生活ではあるが、妻には理解されず、酒の席では昔のギャグの栄光を蒸し返される。悩みを抱え、哀愁ただよう中年ならぬ中春こまわり君だ。
「がきデカ」は「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)に74年から80年まで連載。その後、山上さんは絵を描くのが嫌になってマンガ家を辞め、小説家になった。小説にひと区切りがつき、編集者の熱意に押されてペンを執った。マンガの道具を一からそろえるところからのスタートだった。
「僕の場合、絵を描くのが嫌なのが問題だったので、描き始める時はとても怖かった。最後の方になってようやく指先が昔の感覚を取り戻しました。単行本になるくらいは、こまわり君を描こうと思います」と山上さんは話している。】
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1971年生まれの僕にとっては、「がきデカ」は、正直なところ、あまりリアルタイムで読んだ記憶はありません。親戚の家にあった「チャンピオン」で、読んだことはあったのですが、「なんかわけがわかんなくて、気持ち悪いマンガ」というのが、当時の率直な感想でした。 体は子供なのに、顔はオッサンで警官の服を着た「こまわり君」は、なんだかいびつな印象で。 でも、この「がきデカ」というマンガは、「ギャグマンガの金字塔」として、後世にも非常に大きな影響を与えた作品(らしい)です。 現在も「週刊少年ジャンプ」で連載中の「こちら葛飾区 亀有公園前派出所」の作者、秋本治さんは、山上さんを尊敬するあまり、デビュー当初は「山止たつひこ」というペンネームを名乗っていたそうですし。
しかし、今回のこの「続編」については、僕はなんとなく残念な気持ちがします。 最近はオトナもマンガを読むのが普通になったせいか(でも、やっぱり30男に「ジャンプ」は厳しい)、僕が子供の頃に読んだ、かつての人気漫画の続編やアナザーストーリーが、続々と発表されているのです。 「キン肉マン」は「キン肉マンⅡ世」になり、「シティーハンター」は、「エンジュル・ハート」になりました(作者によると、「エンジェル・ハート」は、続編ではなくて、アナザーストーリーだそうなのですが)。でも、前作を子供時代に読んでいた僕にとっては、キン肉スグル(先代キン肉マン)が情けなくなっていたり(確かに、前作から情けなかったかもしれないけど)、香ちゃんがアッサリ死んでしまったりするのには、かなりの抵抗があるのです。 インパクトを与えるためとはいえ、なんてことを!という感じ。 前作全体が貶められてしまったような気持ちにすらなるのです。
あの「宇宙戦艦ヤマト」みたいに、死んだ人も次回作には何の説明も無く生き返るのが定番だったらいいのかもしれませんが(それはそれで、なんか腑に落ちないけど)。
少なくとも、この記事からうかがえる、「がきデカの続編」は、昔読んでいた人たちを喜ばせるものではないような予感がします。「哀愁ただよう中春こまわり君」なんて、誰が読みたいでしょうか? 「あの人は今」で、好きだったアイドルが場末のスナックのママになっているのを見せられるようなものなのでは。
そういう「続編もの」のほうが、商業的には有利であることはわかります。でも、その続編は、過去の名作のファンをがっかりさせる可能性も高いのです。少なくとも、ちゃんと完結した作品は、そっとしておいてあげてほしい気がするんだよなあ。 まあ、今回は、「マンガを描けなくなっていた」山上さんのリハビリ的な意味あいもあるのでしょうけど。
「それなら、読まなきゃいいのに」 そう、その通りなんですよ。でも、やっぱり気になって、ついつい手にとってから「しまった…」と思うことの繰り返しなんですよね。
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2003年12月24日(水) ■ |
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デフレ時代のサンタクロース |
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スポーツニッポンの記事より。
【名古屋市中区の「名古屋テレビ塔」の展望台から23日、岐阜市の無職男性(26)が1ドル札(約107円)と100円札を約20分にわたって3000枚程度ばらまいた。男性は「100万円分の1ドル札と100枚の100円札を用意した」と説明。愛知県警中署は男性に口頭で厳重注意をしたが、調べに対し男性は「株の売買で大もうけして預金が1億円以上ある。クリスマスだし世間に還元したかった」などと話していたという。】
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この人、躁病だったのかな、などと僕は思ったのですが。 しかし、この記事を読んで最初に感じたのは、「ちょっとセコイなあ」ということでした。まあ、確かに100万円というのは、かなりの大金ですが、それをわざわざ1ドル札に「水増し」してからばら撒かなくてもねえ。 だって、1ドルって、「100円」だよ。 もちろん、100円玉をそんな高いところからばら撒かれたりしたら、万が一当たった人は怪我どころじゃすまないでしょうし、札のほうがありがたみがあるだろう、という判断だったのでしょうけど。 ちなみに、100枚の「100円札」は、「一枚500円でネットオークションで落札した」そうです。本人は「当たり」のつもりだったのかな。
この記事によると【ばらまいた理由について男性は「今月上旬、株でもうけて預金も1億円以上ある。26歳でこれだけ金があったら、これからの人生味気ない。自分にとって(ばらまいた紙幣は)微々たる額。クリスマスだし、世間の皆さんに還元しようと思った」などと話していたという。】 ということなのですが、普通に考えれば、26歳で1億円くらいあっても、「この先何が起こるかわからない」のではないでしょうか?若いころの苦労は、買ってでもしろ、なんていうお決まりの説教がありますけどね。
僕がいちばん興味深いのは、通行人のリアクションなのです。 【「お金が降ってきた」「拾え、拾え」と師走の夕暮れの繁華街は大騒ぎとなった】と記事中にはあるのですが、僕だったら、1ドル札や100円札で面倒なことに巻き込まれたくないから、わざわざ拾わないし、かえってガッカリしそうな気がします。 せっかくのプレゼントもぬか喜びでは。 「水増し」せずに1万円札だったら、少しは有難味も違ったかもしれませんけど。 デフレ時代のサンタクロースは、やっぱりちょっとスケールが小さいなあ…
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2003年12月23日(火) ■ |
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「もっこり」は、苦肉の策だった! |
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「シティーハンター完全版・1巻」(北条司著・徳間書店)の「初代担当編集者が語る、CITY HUNTER誕生秘話」より。
【当初から「シティーハンター」は、渋い話が続き、ハードな展開が続きました。それゆえか、人気がなかなか出ない。どうしようと北条さんと私は、悩んでしまった。ふたりで考えたことは、「とにかく主人公の性格を、明るいものに変えて行こう」というものでした。その時の打ち合わせで出た言葉が「もっこり」だったんです。主人公の性格を明るく変えるためには、もってこいの言葉、性格づけでした。嬉しいことに、この性格の転換があって以降、漫画の人気はぐんぐん上昇しました。】
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この文章は、漫画「シティーハンター」の初代担当編集者である堀江信彦さんが、当時を述懐して書かれたものです。 大人気だった記憶しかない「シティーハンター」ですが、実際はそのスタートはけっこう多難だったみたいです。 確かに、この「完全版」で最初の頃の話を読んでいると、今の僕が読んでもけっこうハードボイルドで、社会派の内容ですから(それはそれでカッコいいんだけど)、当時の子供たちには、ちょっと難しいというか、あまり理解されなかったのではないでしょうか? いきなり、パートナーの槇村さんは殺されちゃうし。
でも、主人公冴羽リョウのあの「もっこり」、僕がリアルタイムで読んでいたときには、「下品だなあ…」と半ばバカにしていたのですが、あれが実は「苦肉の策」だったとは。 まあ、確かに、そういう3枚目の面が、親しみやすさにつながっていたんだろうなあ、と今になってあらためて思うのですが。 それにしても、北条さんと堀江さんが、男二人で角突き合わせて、「そうだ、『もっこり』なんてどうかな!」なんて話している姿は、なんだかせつないものではありますね。シラフでやるのは辛そう。 笑いの現場には、それはそれで切実な舞台裏があるんだな、なんて考えてしまいました。
それにしても、「スケベ」というのも、その人のキャラクターによっては魅力のひとつになる、とか感じたのは、この漫画がはじめてだったような気がします。 いや、「もっこり」だけ真似しても、どうしようもないんだけど。
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2003年12月22日(月) ■ |
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マイケル、友達選べよ! |
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日刊スポーツの記事より。
【少年への性的虐待などの罪で18日に起訴された米歌手マイケル・ジャクソン容疑者(45)が20日、カリフォルニア州サンタバーバラ郊外の「ネバーランド」の自宅に約600人を招待してパーティーを開催した。友人のエリザベス・テーラー(71)やマイク・タイソン(37)らも訪れた。マイケルの無実を訴える、事実上の“決起集会”だったようだ。 約1カ月ぶりに自宅に戻ったマイケルが、友人たちを集めた「感謝のパーティー」を大々的に開催した。ネバーランドの入り口には、大勢の報道陣が詰めかけ、敷地内に入っていく車や周囲の様子を全米に生中継した。「マイケルは無実」などと書かれたプラカードを持ったファンも多数集まった。 テーラー、タイソン、MCハマー、テニスのセリーナ・ウィリアムズ、コメディアンのエディ・グリフィンら著名人のほか、ファンも多く招待された。中には子供を連れた母親の姿も見られた。両親、兄弟らマイケル一家も勢ぞろいしたという。 このパーティーはマイケルの家族が企画した。先月20日の逮捕から現在までマイケルを支えてくれた友人やファンに、マイケルがお礼を述べるためとしている。敷地内には特設のステージが設置され、マイケルのミニコンサートも行われたようだ。 マイケルは先月18日に家宅捜索を受けて以来、3人の子供たちとラスベガスなどで過ごしていた。逮捕後初めて、事件の舞台となったネバーランドへの帰宅となった。今月18日にはサンタバーバラ郡地方検察局から、少年への性的行為や飲酒させた疑いなど9件の罪で起訴された。弁護士のマーク・ゲラゴス氏は「全くの事実無根で、事件の目的は金と復しゅうだ」と無実を訴えている。この日のパーティーでもマイケル側が同様の主張をしたとみられる。】
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今のところ、マイケル・ジャクソンの「少年への性的虐待疑惑」については、係争中の段階で、マイケル・ジャクソンは犯罪者、とは言えない状況ではあるわけですが、それにしても、こういうところに国民性の違いというのを感じずにはいられません。 日本だったら、抗議活動にしても、もうちょっと真面目にやるんじゃないかなあ、なんて。 マイケルの性格からすると、これが「大真面目」なのかもしれないけれど。 この報道内容からすると、マイケル側は、むしろ「挑戦的な態度」を検察側に対して見せているみたいですね。ファンにとっては、一足早いクリスマス・プレゼントといった感じなのかもしれませんが、「何もこんな時期に、そんなバカ騒ぎして世間の耳目を集めなくても」と思う人もいるのでは。 「疑惑があるからこそ、派手なパフォーマンスでアピールする」のがアメリカ流なのかなあ。
それにしても、マイケル・ジャクソンのこのパーティ、なんか「いかがわしい感じ」が、この記事を読んだだけでも伝わってくるんですよね。 男性問題の大家、なぜかマイケル絡みの話題には必ず出てくるエリザベス・テーラーさんとか、犯罪歴多数・最強のボクサーだったことは誰もが認めても、問題行動の多さも超ヘビー級のマイク・タイソンさんとか、「参加した友人」たちも、脛に傷を持った人が目立つような… 僕の感覚からいうと、ニセ有栖川宮パーティをはじめ、「有名人多数のパーティ」というのには、なんだかいかがわしさを感じてしまうのです。その人たちのネームヴァリューで、「何か」を誤魔化そうとしているような。 だって、マイケルとマイク・タイソンが仲良しだなんて、想像つかないし。
この記事を読んで、「マイケル、友達選べよ!」と僕は思わず呟いてしまったのですが、まあ、「少年からマイク・タイソンまで」というのは、ある意味、マイケルの人脈の広さと懐の深さなのかもしれないですよね。とても真似できないや。
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2003年12月21日(日) ■ |
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一点だけものすごく変な人、というのが増えている。 |
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「日々の考え」(よしもとばなな著、リトル・モア)より。
【この間、中華料理店のカウンターの隣に、ひとりで食べている男の人がいた。お皿をとってあげたら、どうもとか言ったり、席がせまいからとつめてくれたり、とても普通の人だった。なのに、食べている時、ずっと、しつように手や雑誌で口元を隠している。その隠しようといったら、すごいもので、真剣味があった。また、仕事の依頼などでも、ずっと普通に話しているのに、一点だけものすごく変な人、というのが増えている。例えば、明らかにその人のミスで入稿が遅れたり、連絡が食い違ったりしていても、絶対にそれを認めない。なかったことかのようにふるまい続ける。その認めない様子には、何か人をぞっとさせるものがあったりする。 そういうほうが奇妙だし、近年の、そういう人の多さも奇妙だ。】
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「とても普通の人だった」というのは、なんだか不思議な表現だなあ、とか僕は考えてしまったのです。 近年、一点だけすごく変な人が増えていると思いますか?と言われると、僕もなんとなくそんな気がします。 日頃は真面目なのに、なぜか自分の仕事についてありもしないようなウソを並べ立てる同僚とか、一風変わった性的な趣味を持つ人、こういう人たちは、僕の周りにもけっこういるのです。 「完全に変な人」というのが増えているかどうかは、僕は仕事柄、社会的にそう思われている人たちと接する機会が多いですから、ちょっとよくわからないのですが。 でも、「普通なのに、どこかヘン」という人は、確かに多いですよね。他人のことは言えないかもしれないけれど。 ひとつは、価値観の多様化によって、「他人と違うことは個性である」という意識が高まっていることもあるでしょう。 一昔前だったら、「それはおかしい」ということで親や周囲から矯正されていた行動や思想は(日本で言えば、性同一性障害なんて、そうですよね。身近なところでは、敬語を使わない喋り方、とか)、かなり「個性」として矯正されなくなってきています。 「それでも生きていくのに困らない」というのは、ひとつの考えかたではありますけど。
ただ、ひょっとしたら、「口元を隠し続けている人」なんてのは、前歯が折れてしまって恥ずかしかったとか、何らかの原因で自分の口臭が気になっていたとか、いろいろ事情はあったのかもしれないので、「自分の間違いを認めない人」とはちょっと違うのかな、などという気もします。
僕は最近「とても普通の人」というのはごく少数で、人間だれしも「少しずつヘン」なのだと思っているのです。 だって、よく新聞なんかに載る「平均的な日本人」なんて調査結果に完璧に当てはまる人は、現実にはものすごく少ないでしょうし。 実際は、少しずつみんな、枠から外れているんですよね。
「どこまでがヘンで、どこまでが個性か?」なんていうのは、非常に難しい問題だと思います。 ただ、他人に迷惑をかけるような「個性」については、あまり周囲の人や社会が寛容になりすぎるのもどうかなあ、という気もするんですよね。
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2003年12月20日(土) ■ |
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「子どもの泣き声」に対する「街の寛大さ」の違い |
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「人生を変える旅」(蔵前仁一編・幻冬舎文庫)のカイロ(エジプト)在住の日本人女性のレポートより。
【日本へ帰ってきていちばん困ったことは、この国では子どもの泣き声は騒音だということだ。あんまり家の中でうるさいと、母はご近所に迷惑がかかるといっておろおろする。父と母ふたりだけの静かな生活だったから、豆台風の上陸にあわてたようだ。 カイロではそんなこと心配したことがなかった。なにしろ、昼寝中だろうと真夜中だろうと、アザーンは日に五回音量めいっぱいのスピーカーから響いてくるし、毎週のように結婚式だといっては生バンドが路上で歌えや踊れやの大騒ぎ。葬式といっては死者を弔うコーランが鳴り響く環境だったから、子どもの泣き声や叫び声などかわいいものである。それに子どもの多い国だ。うるさいなんて言っていたら生活できない。我が家から出る音に神経をピリピリさせているより、外の騒音を我慢するほうがわたしには楽だった。 もっとも、子持ちになる前はなんてうるさい街なんだろうと否定的に考えていたが、自分が騒音を出す側になって初めてカイロの寛大さに気がついた。】
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僕は子どもというのが基本的に苦手で、交通機関の中やデパートなどで泣いたりわめいたりしている子どもを見ると、「親はもっとしっかりしつけないとダメだよ…」なんて日本の現状を内心憂いたりしているのです。 「子どもは純粋」なんていうのは、「甲子園に出場している球児はみんな真面目な高校生」というのと同じような大人の勝手な幻想で、現実の子どもたちは、子どもなりの邪念を持って生きているのだと思いますし(もっとも、その邪念は大人にとっては「かわいいもの」のレベルなのかもしれませんが。 でも、このカイロ在住の方の文章を読んでいると、今の日本の社会というのは、子育てをする側にとっても大変なんだろうなあ、という気がします。 「昔の親は、もっと躾が厳しかった」なんて言うけれど、その一方で、子どもがいることによって起こりがちな周囲への「迷惑」に対して、昔の大人たちは、現代人より圧倒的に寛容だったのではないでしょうか? 時代が変わっても、子どもが急に泣かなくなったり、騒がなくなったりすることはありえませんから、むしろ、周りの受け止め方のほうが変わってきているのかな、という気がするのです。 ひとつは、昔(といっても、日本では戦前~戦後から、オイルショックくらいまで)は、日本人も子沢山で、近所づきあいなどもあり、「自分のところも同じだから、お互いさま」ということで、相手に対しても寛大に接さざるをえなかった、ということ。そして、アパートやマンション住まいの人が多くなり、家庭同士の物理的な距離は近づいたにもかかわらず、心理的な距離は遠ざかっていること。 あの「ピアノがうるさいから」と言って、隣人の家に押し入って暴挙におよんだ男の事件くらいから、とにかく、「周りに迷惑をかけないようにして暮らす」というのが、都市部では絶対条件になってしまったのではないのかなあ。 確かに、子どもの泣き声ってうるさいし、疲れているときには勘弁してくれって気分になりますけど、もう少しだけみんなが「子どもが出す音」に対して寛容にならないと、日本の少子化傾向は改善されないだろうな、と思います。 「うちは子どもがいないから」と言っても、子ども時代の無い大人はいないわけですし。 本当は、満員電車に乗ったり、狭いアパートに住んだりしなくてよければ、そんなに気にならないことなのかもしれないけれど。
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2003年12月19日(金) ■ |
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「年末ジャンボ宝くじ」の最低の買い方 |
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japan.internet.comの記事「宝くじは密かな夢-ユーザーはネットでの共同購入に否定的」より。
【宝くじを買っている77%、232人のほとんどが個人で購入しており、共同購入しているのはわずか11人で、この232人のうち、「ネット上の共同購入で宝くじを買いたいと思わない」と答えたユーザーは78%(180人)と、大半が否定的だった。「思わない理由としては、「共同購入には興味ない」(主婦/33歳)、「信用できない」(会社員/33歳)、「ひとりでひっそり楽しみたい」(主婦/32歳)、「自分で選びたい」(公務員/48歳)などという意見が多く寄せられ、、売り場で購入する行為や当選番号発表までの過程を楽しみたい、というユーザーが多いようだ。】
参考リンク:「宝くじは密かな夢-ユーザーはネットでの共同購入に否定的」
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発売は今日までだったんですね、年末ジャンボ宝くじ。僕も今年は奮発して買ってしまいました。 僕の大学時代の同級生が、宝くじの共同購入で、50万円を当てたことがあります。それを確か10人くらいで分けたらしいのですが、僕がその話を聞いて思ったのは、「それじゃ、あんまり面白くないなあ」ということでした。 僕のように欲の皮の突っ張った人間は、「ひとりで当ててれば50万だったのに」とか思ってしまうのです。 もちろん、10人で共同購入すれば、当たる確率も単純に考えれば10倍です。 それなら、分け前は少なくても、「当たりやすい」ほうを選ぶという選択肢はもちろんあるんだろうけど。 でも、僕が思うに、宝くじで「確率」を考えるのは、あんまり面白くないのではないでしょうか? 宝くじの売り上げのうち当選金として購入者に還元されるのは、せいぜい半分くらいの「ギャンブル」ですから、基本的にはこれほど参加者にとって不利なギャンブルはないはずです。 ちなみに、公営ギャンブルでは、控除率(売り上げのうち税金として引かれる率)は25%で、残りの75%を的中者で山分けしているのです。 パチンコ屋なら、売り上げのうち店の儲けは数パーセントくらいが相場でしょうか。 そう考えると、「宝くじは、ギャンブルとしては最低最悪の殿様商売」ということになりますね。 購入した時点で、額面の半分はすでに損しているわけですから。 それでも宝くじが売れるのは、やはり、高額当選の魅力に尽きると思います。他のギャンブルでは、3億円なんて、どんなに頑張っても一度に手に入れるのはほとんど不可能ですし、大きな配当を得ようと思えば、賭ける金額も大きくなりますし。競馬でヒシミラクルを当てて億万長者になった「ミラクルおじさん」だって、ヒシミラクルの単勝馬券に1000万円以上も賭けていたのです。 3億円儲ける以前に、穴馬の馬券にそんなに賭けること自体が普通はムリ。
というわけで、「少ない元手で、大きな当選金を得られる可能性がある」という「宝くじ」には、やっぱり魅力があるのです。競馬の「万馬券」は、100円が1万円になる(つまり、100倍になる)馬券のことですから、300円が3億円になる(100万倍)宝くじの一等は、万馬券の1万倍当たりにくいということになるのです(前述の控除率の違いからすると、実際はそれ以上)。 まあ、当たらないのが当たり前、なんですよね。 噂によると、「宝くじの一等に当選する確率」より「宝くじを買いに行く途中に病気や事故に遭う確率」のほうが高いのだとか。
昔から、ギャンブルで破滅した人はたくさんいますが、宝くじで破滅した人の話はあまり聞きません。それはまさに「夢」だからなのでしょう。 みんな「当たればいいなあ」とは思っても「当たってくれないと困る」とは思っていないはず。 経験上、「宝くじは当たらないし、アテにならない」ということを知っているから。 ギャンブルのように自分で予測を立てることもできないし、当選は運任せです。外れたら、「運が無かった」。 「当たりやすい売り場」なんていうのも、そういう評判のためにたくさん売れているから、結果として当選本数が多いだけなのかもしれませんし。 まあ、でもその「運任せ」なところが、きっと、宝くじのいいところなんですよね。 「ギャンブル嫌い」の人でも、宝くじくらいは買う、という人も多いはず。
多くの人にとっては、「どうせ当たらないんだったら、せめて高額当選の夢をみたい」というのが本音なはずです。最初から100人で共同購入したら、当たる確率が100倍でも一等が当たっても300万円しかもらえない。それでは、宝くじの魅力は薄れてしまいます。 どうせ夢なら、大きな夢のほうがいい。 手堅く稼ぎたいなら、宝くじというのは最低のギャンブルなのですから、共同購入というのは、宝くじの唯一のメリットを失わせる最低の買い方なのではないでしょうか。
しかし、「完全に運任せ」とか言いながら、「11111111」とかいう番号は、やっぱり避けたくなるのも人情だったりもするんですよね。 どの番号も、原則的には当選確率は同じはずなのに。
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2003年12月18日(木) ■ |
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ご近所さんは見た! |
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読売新聞の記事より。
【大阪市立中学の男性教諭が、地下鉄の通勤手当をもらいながら、禁止されているマイカー通勤をしていたことが、学校近くに住む男性が3か月間撮りためた証拠写真でわかった。
男性は10月、手当約40万円の返還を求め、30枚の写真を添えて住民監査請求し、大阪府監査委員も17日、「府が損害を被った」と認定した。教諭はすでに手当を返還していたため、請求は棄却された。
男性は、校内に多くの車が駐車していることに気付き、3年前から「児童がいるのに危険」と学校に申し入れてきたが改善されないため、今年8月に撮影を始めたという。
監査結果などによると、男性教諭は2000年6月から手当を受け取っており、市教委には「吹奏楽部の活動で必要に迫られて」などと説明したという。
写真には別の教諭の車も写っており、監査委員は市町村教委と府教委が通勤実態を調査すべきだとする「意見」を付けた。】
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僕がこの記事を読んで最初に思ったのは、「なんてひどい先生なんだ!」ということではなくて、「こういうご近所さんというのは、扱いにくい人なんだろうなあ…」ということでした。 禁止されているマイカー通勤をして、しかも地下鉄の通勤手当まで貰っていた、というこの先生は、確かに悪いことをしていたと思うのです。でも、「学校の中に車が入ってきて危険」という、あまり御本人の利害とは関係なさそうな訴えのために、3ヶ月も先生たちの車を追い回して証拠写真を撮ってしまう、この「善意の近所の男性」って、なんだかなあ。 僕などは仕事柄引越しは多いし、一人暮らしで家を空けていることが多いものですから、ご近所づきあいなんていうのはほとんどありませんし、興味も湧きません。鬱陶しいなあ、と思っています。 「昔の日本では、隣近所がお互いに支えあって…」なんて話を聞くと、なんだか「五人組」みたいでイヤだなあ、という感じです。
子供の頃に引っ越してきて住んでいたところの近所の人が、「うちは昔は家老の家系だった」とか言う気位の高い人で、ゴミの捨て方が…とかウチの前の道路の溝が汚い、とか、なにかにつけて文句を言ってくる人で、おまけに「あのうちは成り上がり者で…」とか陰口を叩いていたらしく、母親はいつも苦労していました。 そういう体験もあって、僕は「隣人を知らない東京砂漠」みたいなのって、「別にかまわないんじゃない?」とか思うのです。単に、それを望むひとはそこに住めばいいし、望まない人は田舎へ行けばいいのではないか、と。僕だって、もうちょっと年をとって自分の子供を持つようになったら、考えが変わるのかもしれないけれど。
おそらく、この先生以外にも、マイカー通勤をしていた先生はいるのではないでしょうか。でも、先生たちだって朝早くから夜遅くまでの勤務だし、車を停められるスペースがあるのなら、家が遠かったり、勤務時間が早くなったり遅くなったりする場合には、マイカー通勤を認めてはいけないんでしょうか?確かに、公共交通機関に比べたら遅刻したりトラブルに巻き込まれる可能性は高くなるかもしれませんが、それは、個人の責任の範疇だと思います。 僕の通っていた中学校は田舎だったので、先生たちはみんな車で通勤していました。たまに生徒がイタズラしたりしていましたが。先生たちが車に乗っている姿って、中学生にとっては、「先生はオトナなんだなあ」と実感するひとつの機会だったような気もしますし。
それにしても「善意のご近所さん」って怖いなあ、と、こういう話を聞くと考えてしまうのです。ここまでやるのか!って。 一事が万事で、とくに学校なんて公共性の高い施設の周りには、いろんなクレームをつけてくる「子供の味方」で「親切な近所の人」とか、たくさんいるんだろうなあ。こういう人には、「誰かのため」というより、「自分の存在を誇示したい」という要素が強いような気もしますし。
だいたい、「児童がいるのに危険」なんて言うけど、幼稚園児ならともかく、中学生だったら、ラリッた暴走車でも突っ込んでこない限り、よけられるだろ、普通…
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2003年12月17日(水) ■ |
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プロ作家と「書くのが好きな人」との間の壁 |
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「向田邦子の遺言」(向田和子著・文春文庫)より。
【姉の子供時代の思い出がたくさん描かれているこの本には、戦時中に亡くなった祖母もしばしば登場してくるが、その紹介の仕方が、また凄い。 <祖母は、今の言葉でいえば、未婚の母であった。父親の違う二人の男の子を生み、その長男が私の父である。したがって、私自身のホームドラマには、祖父は、欠落して、姿を見せない。年をとってからは、よく働く人であったが、若い時分は遊芸ごとを好み、母が嫁いできてからも、色恋沙汰のあった祖母であった。 見たい芝居、着たい着物、食べたいもの、そして好きな人には、自分の気持ちを押えることが出来ず、あとさきの考えなくそれを先にしてしまう。あとから、倍の苦労がくることを考えないところがあったらしい。 長男である父はそういう母親を最後まで許さず、扶養の義務だけは果たして死に水を取ったが、終生、やさしい言葉をかけることをしなかった>(「あだ桜」からの引用) ヒェーッとは、このことだ。 いくら死んでしまった人だとはいえ、ここまで書いていいのだろうか。最近ハヤリのプライバシーということを持ち出して叩かれたら、文句いえないのじゃないか。 祖母や父はすでにこの世にいないからいいかもしれないけど、ここまで家系を暴かれた子孫は、面白がる人よりも憤慨する人のほうが多いに決まっている。】
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向田さんが祖母、父親について書かれたこの文章は、まさに名文だと思います。それにしても、身内に対して、なんという突き放しっぷり!
【長男である父はそういう母親を最後まで許さず、扶養の義務だけは果たして死に水を取ったが、終生、やさしい言葉をかけることをしなかった】
この一文だけで、お父さんが「責任感は強く厳格だったけど、他人に対して寛容になれない人だった」ということがひしひしと伝わってくるのです。 おそらく、この文章を読んだ読者は、向田さんのお父さんに対して、少なくとも好感は抱けないのではないでしょうか。
作家、とくに私小説的なものを書く人には、ある種の「覚悟」が必要なのでしょう。自分や身内のプライバシーを晒す覚悟や自分の行動に対して批判を受ける覚悟。あくまでも「作品として独立したもの」と主張したとしても、売れてしまえば読者は「モデル探し」をするものですから… 文章で生計を立てていくというのは、文章力のみならず、そういうものを引き受けていくという厳しさもあるのだと思います。僕だって、自分のことがこんなふうに書かれていたら、いい感じがするわけないですし。 作家自身は印税や名声を手に入れられるのですから、多少は泥をかぶってもいいかもしれないけど、モデルにされた人たちは、人の噂のネタにされるだけで、ほとんど何もメリットはないですからねえ。
作家であれば、匿名で本を出して印税をもらうことはできませんが(もちろん、エラリー・クイーンのように、ペンネームで経歴秘密というのも不可能ではないかもしれないけれど、最近は、作家のキャラクターも含めて作品が売られることがほとんどです)、ネットでは、こういうプライバシーに関するリスクが比較的少ない形で誰でも「みんなに読んでもらうための文章」を書くことができるのです。 でも、プロ作家と「書くのが好きな人」との間の壁というのは、文章力のみならず、こういう「覚悟」みたいなものもあるんでしょうね。
実際、こんな文章を淡々と書いてしまう向田さんに対しても、僕は「冷たいというか、徹底的に客観的な人だなあ…」なんて感じてしまいましたし。
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2003年12月16日(火) ■ |
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あなたにだけは言われたくない「大量破壊兵器疑惑」 |
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時事通信の記事より。
【広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元機が、15日から開館した米スミソニアン航空宇宙博物館新館(バージニア州)で一般公開された。米国の反核団体メンバーは、原爆被害の実態を説明しない展示に反発して復元機の前で抗議行動を行い、館内は一時混乱、警察官も出動する事態になった。広島、長崎などから訪れた被爆者団体の一行も館外の抗議集会に参加、被害の実態を訴えた。 被爆者で広島県原爆被害者団体協議会の坪井直事務局長(78)は記者団に「一言で言えば、こんちくしょうという気持ちだ。本当は大声を上げて(博物館を)しかり飛ばしたい」と心情を吐露。「エノラ・ゲイを展示するなら、被害の状況も展示してもらいたかった」と悔しさを訴えた。 】
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「イラクは大量破壊兵器を保持していたのか?」 サダム・フセイン元大統領が拘束され、イラク戦争の正当性について、あらためて検証されることになるでしょう。 僕は自衛隊のイラク派遣については、「復興支援のためなら、日本の代表として頑張ってきてもらいたい」と応援したい気持ちなのですが、やはり、「なぜイラクが攻撃されたのか?」という点については釈然としないのです。 「クルド人虐殺」というのは、サダム・フセインの罪であって、イラク人全体の罪なのだろうか?とか、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍がイラクに対して行った行為は、「戦争」というより「虐殺」に近いものではなかったか?とか、あらためて考えてしまいます。 どこまでが「戦争」なのか?という線引きは難しいものだと思うけれど。
だいたい、「世界でいちばん大量破壊兵器を保持している国」というのは、他ならぬ「自由の国・アメリカ」なのですが、そのアメリカが他の国に対して「お前の国は大量破壊兵器を持つな!」と言うことに、どこまで正当性があるのでしょうか? その一方で、アメリカという強大な力のおかげで、小国間の軍拡競争を抑止できる、というメリットだってあるのかもしれませんが。
アメリカは現在「世界唯一の大国」であるわけなのですが、だからといって、アメリカのやることがすべて正しい、といわけではありません。 今回のスミソニアン博物館での展示に関しては、被爆者団体の言い分は、僕からみれば至極もっともなことだと思います。 エノラ・ゲイを展示するなら、原爆の被害(アメリカ側からすれば、「威力」」のでしょうが)も同時に展示すべきではないでしょうか。 以前、アメリカで「原爆展」が開催される予定が「内容がショッキングすぎる」ということで中止されたことがありました。確かに、アメリカ側の気持ちもわからなくはないのです。 原爆を落としたのは、アメリカ軍の一兵士に過ぎませんし、彼らは、兵士として上官の命令に従っただけでしょうから。そして、彼らに命令した人間は、アメリカの「英雄」ですし、非人道的な兵器を使ってでもでも戦争を早く終わらせたかったという動機もあったのでしょう。 それでも、あの原爆による被害の写真や映像、遺留物を見た人間は、「原爆を落とした人間」や「原爆を落とさせようとした人間」について、なんらかの負の感情を抱かずにはいられないと思います。 アメリカ側からすれば、戦争の記憶が生々しい時代に「仲間を売る」ということに躊躇するのは、やむをえないところもあるのかな、という気もするんですよね。
でも、第2次世界大戦が終わってから、もう60年近くが経っています。 そろそろ、みんなの記憶が薄れてきていると同時に、客観的に「原爆が人間にもたらしたもの」というのを見られる時期なのではないかとも感じるのです。 誰が悪いというより、「こんなものが人間に必要なのか?」ということをもう一度考えてみてもいいのではないでしょうか? 「核の抑止力」というのは、あまりにも強者の論理だと思いますし。
今の日本は、ブッシュ政権によるアメリカの小型核(広島型の3分の1の威力「しか」ないそうです。それで何人殺せるんでしょうか?)の開発予算計上に対しても「遺憾」しか表明できない国です。 相手がどんなひどいことをやろうとしていても「残念」としか言えないなら、その関係は「友人」というより「奴隷」でしょう。 アメリカがやろうとしないなら、日本政府が後援して、原爆被害の巡回展をやればいいのに。 それができる国は、世界で日本だけなのですから。
たぶん、多くのアメリカ人は「核兵器が悪いと思っていない」というよりは、単に「よく知らない」だけだと思うのです。 原爆資料館に行っても「原爆は人類に必要だ」とか言うようなら、目も当てられませんが…
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2003年12月15日(月) ■ |
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広末さんの結婚相手は「最高の男性」? |
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サンケイスポーツの記事より。
【15日に都内のホテルで結婚会見を開く女優、広末涼子(23)のお相手、モデル兼デザイナーの岡沢高宏(28)の素顔が14日、親しい関係者によって明らかになった。それによると、岡沢は無口でクール、硬派で理知的…と最高の男性。理想的な伴侶を得て、妻、ママとなる広末の今後に注目が集まる。
ファッション雑誌などのグラビア写真で見る岡沢は、目がすっきりとしたりりしい顔立ち。最近の雑誌ではニット帽をかぶり、ジーンズ姿で登場することが多い。1メートル82センチの長身で、がっしりした体格のイケメンだ。
だが、中身はどんな男なのか…。この日、都内で取材に応じた岡沢に親しい関係者は、「自分から女性に声をかけるようなタイプじゃないですよ」と話す。というのも、「すごい無口で硬派な男だから」。2人は平成13年11月に交際が明らかになったが、交際は2人の共通の友人の紹介でスタートしたという。
岡沢はモデルとして活躍する一方、デザイナーとして「Cycle(サイクル)」というブランドの服を手がけている。これについては、「モデルとして日本では3本の指に入る奴だと思ってますけどね。服のデザインを手がけているのは、将来に備えてのことだと思う。しっかりした考えを持ってますよ」といい、一時、奇行が伝えられた広末を支え、精神的に落ち着かせたのは、岡沢の人柄によるところが大きいようだ。
一方、別の関係者によると、2人は早くから結婚を意識し、岡沢も最近になって広末との結婚を所属事務所の社長に相談していたという。だが、社長は“妊娠”については寝耳に水で、かなり驚いた様子だったという。13日に千秋楽を迎えた主演舞台「幕末純情伝」「飛龍伝」をプロデュースした岡村俊一氏も、「普通にふるまっていたので、まさか妊娠しているなんて…」と話しており、身近な関係者にも隠してきたようだ。
15日、お腹の赤ちゃんとともに会見に臨む広末。夫となる岡沢をどう紹介し、自身の今後をどう語るか注目だ。】
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個人的には、広末さんの結婚についてはどうでもいいんです。まあ、そんなあわてて結婚しなくても、という気もしますけど、23歳という年齢は、結婚してもおかしくない年だし。それに、子供ができた、というのはいい機会なのかもしれませんし。芸能人の結婚生活というのはいろいろ大変みたいですけど、どうぞお幸せに、と月並みな感想を抱いているわけで。
ただ、僕が思ったのは、この記事の中の【岡沢は無口でクール、硬派で理知的…と最高の男性】という部分なのです。まあ、これを書いた記者の主観がかなり混じっているにせよ、こういうのが世間的には「最高の男性」のイメージなのだなあ…とそこそこおしゃべりで、すぐカッとなりやすくて理知的ではない僕としては、非常に暗い気持ちになりました。ああ、僕って最低の男、なんて。
でもねえ、「無口で硬派」が通用するのは、【目がすっきりとしたりりしい顔立ちのイケメン】だからかなあ、という気もするんですよね。明石屋さんまさんなんか、けっしてイケメンじゃないけど「いい男」ですよね。それは、彼の卓抜した話術に起因することで、きっと、さんまさんは凄いトレーニングを積んできているのでは。もちろん、「才能」もあるんでしょうけど。 やっぱり、見た目で勝てないのなら「無口で硬派」を追及するより、面白さや親しみやすさを追求するのも戦略だと思うのです。 それには努力が必要ですが、モデルの人だって体型やカッコよさを維持するために、努力をしているわけですし。 しかし、「理想の男性」「理想の女性」が必ずしも「最高の伴侶」ではないのもまた事実なのではないでしょうか? 僕個人としては、一緒に生活するなら見た目が素晴らしくて無口でクールで常に冷静な人より、多少感情的になることがあっても話していて面白かったり、泣いたり笑ったりしてくれる人のほうがいいなあ、と思うのです。 そういうのは、まさに「個人的な好み」なんでしょうけど。 でも、僕はこの「最高の男」について、ひとつだけ疑問があるのです。 いくら「最高の男」だからって、28歳にもなったんなら、若い女の子とセックスするときは、避妊くらいしろよ、とかちょっと思ったものですから。 だって、広末さんは芸能人で、彼女の仕事にはたくさんの人たちがかかわっているのだし、本人たちは「じゃあ、結婚すればいいや」でいいかもしれませんが、実際に困ってしまう人だってたくさんいるわけで。 そういうのって、社会人としては、あんまり「理知的」ではないような。 単に「失敗」してしまっただけなのかもしれないけど。
まあ、この記事は書いた記者の主観が大きいでしょうし、最近の広末さんがキレイになったということを考えると、いい恋愛をしているんだな、という感じはします。
本当は、僕も一度は「無口でクールでも絵になる男」になってみたいな、と妬んでいるだけなんですけどね。
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2003年12月14日(日) ■ |
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ネットバトルを誘発する原因 |
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「トンデモ創世記」(唐沢俊一・志水一夫共著・扶桑社文庫)より。
【志水:夜中とか明け方に原稿を書き終えることがありますよね。手書きのときは、これをすぐには送らないで一回寝るの。起きてから見直すと見えてくる。ワープロでプリントアウトするとそれと同じ効果があるから、まずは一回寝るってことがなくなった。
唐沢:「寝かす」と驚きますね。こんなものを何故オレは書いたのか、と。人間ってそういう生き物なんですね。書いているときは、読むモードにないから。だからネット・バトルっていうのはね、だいたいそれが原因ですよ。書いたものを校正しないからですよ。
志水:「そうか(爆笑)」
唐沢:「そのまま送っちゃうからね。バトル誘発の原因ですよ。うん。
志水:「あとから読んでみるとバカみたいだもんね。」】
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僕は結構、批判的な内容にレスするときは、きちんと文章を校正したりしていますが。だって、そこでヘンなことを書くと、さらにバカにされかねませんし。 でも、自分では冷静に推敲したはずの文章でも、確かに翌朝起きて考えてみると、「なんであのくらいのことに熱くなってたんだろう?」とか、自分で恥ずかしくなることが多いのです。 ネットの「即時性」というのは、ものすごく便利な点であるのと同時に、他人と言い争っていて、口からつい出てしまう失言のような性格があるのかもしれません。 ただ、面と向かっての口論の場合は、たいがいお互いが相手と面識がありますし、やっぱり、悪口を言うのにも「手心が加わる」部分がありますよね。まあ、「今後のこと」というのも少しは考えますし。
もし、自分のところに悪口を書いた手紙が送られてきたらどうでしょうか? 読んで腹が立ったとして、それに対する返信を送りつける場合には、手紙というのは結構めんどうなものですから、そんなやりとりをしているうちに、お互いに冷静になってきて、「もういいや」ということになるんじゃないかなあ(場合によっては、「法的措置を」ということもあるでしょうが)
ネットというのは、ある程度「即時性」があって、しかもバトルの相手は、大部分が「面識がない人」です。さらにネットバトルを複雑にする要因は、「その争いをリアルタイムで観ている人」が存在することです。 人通りのない場所での一対一のケンカなら、争っているうちにお互いに「疲れたしそろそろ止めようか」ということになるのですが、ネット上だと、やっぱり「傍観者の目」というのが気になってしまうんですよね。 「ここで引いたら、恥ずかしい」とか「すぐにレスしないと、困っていると思われるんじゃないか」とか。いずれも、自意識過剰がなせる業なのでしょうけど… 場合によっては、傍観者のはずの人が、火に油を注いでまわったりするんですよねえ… だいたいのネットバトルは、理屈とか正しさよりも時間が解決してしまうものなので、本当に「寝てしまう」というのはひとつの解決法なのかもしれませんね。 ほんと、そういうときのエキサイトした文章って、後から読むと、バカみたいで自己嫌悪に陥ることばかりなんだけど。
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2003年12月13日(土) ■ |
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行列のできないPSX |
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共同通信の記事より。
【ソニーは13日、クリスマス商戦の切り札として期待する新商品「PSX」を発売した。ハードディスク付きDVDレコーダーに、人気の家庭用ゲーム機「プレイステーション2」(PS2)の機能を搭載した新世代の融合型デジタル家電。安いモデルは8万円を切るという低価格戦略で、発売前から話題を呼んだ。 ハードディスク付きDVDレコーダーでは松下電器産業と東芝、パイオニアが強みを発揮。出遅れたソニーは安さと「PS2」で反撃を狙う。 家電量販店のビックカメラ有楽町店(東京都)は開店を1時間繰り上げて午前9時から販売を開始。ただ、事前に予約を受け付けていたこともあって開店直前に並んだ客は7人と少なめ。やや寂しいスタートとなった。 購入した横浜市の会社員、清原茂樹さん(28)は「1年前から欲しかったのですごくうれしい」と笑顔で語った。】
参考リンク:PSXのスペック(ソニーのサイトより)
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ああ、そういえば今日発売だったんですね、PSX。時間が経つのって早いなあ、とか、この記事を読んで思ってしまいました。 しかし、発売直前の仕様変更(しかもスペックダウン)とか、買う側にとってはやや不安な印象もあったPSXですが、安いモデルでは8万円で最長約200時間録画できる160GBのハードディスク内蔵、高いモデルでは、10万円で最長300時間以上録画できる250GBのハードディスク内蔵と、今までの同程度の機能・HDD容量の他社のDVDプレイヤーと比較すると、圧倒的に安い価格設定がされています(従来は250GBだと最低十数万円くらい)。しかも、PS2までついてくるのですから、はじめてDVDレコーダーを買う人にとっては、かなり有力な選択肢になることは間違いありません。 僕は、テレビ番組を録画するだけしてなかなか観ることができず、連続ドラマをその辺にあるテープにバラバラに録画しているうちにどこに何を録画したかわからなくなり、結局観なかったりすることがよくあるのです。 DVDレコーダーだったら、とりあえずハードディスクに入れておけば、すぐ頭出しをしたり、整理してからDVDに焼くことだってできますし。 周りのHDD付きDVDレコーダーを使っている人たちは、口を揃えて「一度使い始めたら、もう手放せない」なんて言ってます。
ただ、この記事では、「行列もできず、人気はいまひとつ」というような印象を受けますが、それはおそらく発売直前のスペック変更による不安や安いとはいえモデルでも8万円という価格のためだと思います。 まあ、ボーナスが出たとはいえ、衝動買いできる値段じゃないですし。
それに、正直なところ、PSXって、あんまり「行列ができる」製品じゃないと思います。 PSXの特長は、なんといってもその「安さ」とPS2のゲームができる、というところだと思うのですが、考えてみると、DVDもPS2も、僕たちにとっては「既知のもの」なんですよね。 たとえば「ドラゴンクエスト」の新作のように、「今度のドラクエは面白いのかなあ…」という期待(もちろん、不安も)を抱かせる製品じゃありません。 それは、買う側からすると、「安心できるけど、ドキドキしない」ものですし、他人より早く手に入れるメリットもそんなにないんですよね。 結局、いつのまにかみんなに行き渡っている、って感じになるんじゃないかなあ。
でも、ついつい、「プレステ2はもう持っているから、プレステ2の分だけ(今は2万円くらい)安くならない?」とか思ってしまうですよね。 2台目のプレステ2があっても、僕は1人しかいないし…
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2003年12月12日(金) ■ |
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ソニーの「超小型デジカメ」にみる、「こだわりの逸品」の明暗 |
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毎日新聞の記事より。
【ソニーは11日、家電製品「クオリア」シリーズの超小型デジタルカメラ「QUALIA(クオリア) 016」(38万円)に不具合があり、9月末までに販売した133台を無償で修理していることを明らかにした。6月に発表したクオリアは「“感動価値”の創造」を掲げた超高級家電シリーズ。エンジニアのこだわりや技術の粋を注いだだけに、ソニーは「お恥ずかしいとしか言いようがない」と話している。
ソニーによると、あるタイミングでシャッターを押すとフラシュが光らなかったり、液晶パネルが表示しないなどの苦情が寄せられ、原因を調べたうえで10月末から修理を始め、大半を終えたという。
このカメラは最新技術を使って、大人の親指大ほどのサイズに抑え、手触りやデザインにもこだわり、受注生産で販売していた。】
参考リンク「ソニー、38万円の超高級デジタルカメラ」(ZDnet)
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この「超高級デジカメ」が実際にどんな製品なのかは、参考リンクを御参照下さい。 僕は、このデジカメの存在自体を知らなかったのですが、こうして見てみると、確かに魅力的な製品ではありますね。メカ好きにとっては、「世界最小!」とか「世界最速!」なんて売り文句は、かなり心に響きますから。 しかし、この38万円の超高級デジカメ「クオリア016」なのですが、今年の6月24日に受注生産を開始してから、約3ヶ月で売れたのは133台(おそらく、受注生産ですから、数字はかなり正確なものだと思います)。 これを「けっこう売れた」ととるか、「あんまり売れなかったんだなあ」ととるかは人それぞれなのでしょうけど、開発費などを考えると、この売り上げでは、どう考えても、「将来的な技術への先行投資」というメリットを考えなければ大赤字でしょうね。 まあ、「200万画素のデジカメ」と考えれば、今では3万円もあれば、かなり立派なものが買えますから、よほどのコアユーザーでもないと買わない商品だと思います。50グラムという重さは凄いけど、じゃあ、今現在持ち歩いているデジカメがそんなに「重い」かと言われると、「ちょっと邪魔」くらいの意識はあっても、そんなに切実に困っているわけでもないから、10倍の値段のものを買おうとは思わないですよね。 むしろ、「どんな人がこれを買うんだ?」と思ってしまうくらいです。 この商品のメリットは、「小ささ」と「軽さ」そして手触りにまでこだわったという「高級感」なわけですが、実際に使ってみれば「あんまり小さすぎる機械は、かえって使いにくい」ということも多々ありますし。
まあ、それはさておき、僕自身はこういう画期的な製品は大好きなのです。 でも、こういうものには、リスクがつきものではあるんですよね。
僕の友人は、某輸入車に乗っているのですが、そろそろガタがきているその車のメンテナンスは大変みたい。オイル交換をしようとスタンドに行けば、「日本の車と構造が違っていてわからないから、ディーラーに行ってくれ」と言われ、ブレーキランプが切れたからとオートバックスに行けば、「うちにはこの型のランプはないので、ディーラーに行ってくれ」と言われ… 一事が万事この調子で、けっこう本人も参っているようです。 ディーラーに行っても、田舎ですから「取り寄せになりますから、しばらくお待ちください」ということになりますし。 こういうのは、カローラとかフィットみたいな「みんなが乗っている車」なら、そこらへんのスタンドで、簡単にやってもらえるはずのことなのに。
「他人と違うものを持つ」というのは、カッコいい感じはするのですが、その一方で、こんなふうにデメリットも少なくありません。 超高級外車を乗り回している人だって、たぶん、いいことばかりじゃないはずです。 「個性を主張する」というのには、それなりの覚悟が要るのかもしれませんね。
僕も、この「超小型高性能カメラ」って、「いちばん『使える』のは、『盗撮』なんじゃないの?」などと勘繰ってしまいもするわけで。 新しいものが社会に受け入れられるのは、なかなか難しいなあ。
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2003年12月11日(木) ■ |
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「彼をイラクに行かせないで」 |
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asahi.comの社会記事より。
【交際相手が自衛隊のイラク派遣要員に選ばれた札幌と千葉の女性が、それぞれ1人で派遣反対の署名集めを始めた。政府が派遣を決めた今、どうしたら派遣を止められるのか。そんな気持ちから、師走の街頭に立つ。】
参考リンク: 「彼をイラクに行かせないで」たった一人の街頭署名活動
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ちょっと長い記事なので、まず、参考リンクを御覧ください。
確かに、「自分の恋人が戦場に行くことになったら…」と考えると、彼女たちの「たったひとりの闘い」の動機も理解できなくもありません。 と言いたいところなのですが、うーん、これは正直、微妙だなあ。 凍える寒さの中、懸命に署名活動を続ける彼女は【「頑張って」とねぎらってくれる人もいたが、「隊員を辞めたら」とも言われ、ショックだった】そうなのですが、僕も正直、「そんなに行きたくないんだったら、徴兵されてムリヤリ送られるわけでもないんだし、イヤなら自衛隊辞めるか、その隊員が個人的に派遣を拒否することもできるんじゃないの?」って思いましたから。 まあ、彼女たち本人に、それを面と向かって言えるかどうかは、ともかくとして。
この記事では、彼女たちの恋人は、「イラクに行くことに対して、不安はあるけれども拒否してはいない」のです。 これを拒否したら将来的な昇進に響くとか、同僚の隊員に対して申し訳ない、とか、もしこれで自衛隊を辞めても再就職も厳しい、いうような「しがらみ」があるのは事実でしょうが、それでも「死ぬかもしれない」という危険と天秤にかけて、彼らは「それでも行く」と言っているのです。 それで、彼女たちは「派遣そのものをやめさせる」ことにしたということみたい。 男の立場からすると、「気持ちはありがたいけれど…」という感じなんじゃないかなあ。 彼女たちが「恋人を危険な場所に行かせるのがイヤ」なら、どう考えても署名を集めるより、本人を説得したほうが早いんじゃないかと思うのです。 それが不可能だと、彼女たちは判断したからなのでしょうが、そういう「2人の価値観の違い」を社会問題にしてしまうのもねえ…
まあ、彼女たちの行動そのものに対しては、「愛とか恋っていうのは、そういう傍からみると不可解な行動をさせるものなんだなあ」と、ある意味その「情熱」が羨ましくさえあるのですが、この記事を書いている記者の「恋人を戦場に送られる女性」という描き方が、なんとなく引っかかってしまうんですよね。 それは、あまりに彼女たちの姿を自分の主張のために利用しすぎているんじゃないかなあ、って。 読者には、記者の予定通り伝わっているかは微妙でしょうけど。
かわいそうだとは思いつつ、「自衛隊の隊員として給料はもらいたいけど、任務を果たすのはイヤ」なんて言われても、それはちょっと虫がいいんじゃないかい?という気もしてしまうんですよね、僕は。
しかし、考えてみると、自衛隊のイラク派遣計画って、「自衛隊がイラクに行ってくれる」という前提で立てられているんだよなあ。 隊員がみんな「イヤ!」とか言ったらどうなるんだろう、なんて、おそらくありえないことを考えてしまいました。
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2003年12月10日(水) ■ |
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自衛隊はイラクのサンタクロース? |
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時事通信の記事「サマワ熱烈歓迎『一流の町にしてくれる』」より。
【イラク南部の町サマワの人々の自衛隊への期待は大きい。通りには「ようこそ自衛隊の皆様」「わたしたちも協力します。皆で町の再建を」などと書かれた横断幕が掲げられ、住民の間では自衛隊を歓迎する声が大多数だ。しかし、「自衛隊が建設的なことをやるのを自分の目で見るまでは歓迎できない」との冷ややかな意見もあった。
(中略)
「子供たちも日本が大好きですよ」と語るのは小学校の女性教師ファトマ・ハサンさんだ。 「子供たちは自衛隊がサマワに日本製のゲーム機やコンピューターを持ってきてくれるものと勘違いしているようですが」と苦笑。「親に聞く話から、子供は日本人に良いイメージを持っているようです」と話した。
(中略)
自衛隊に懐疑的な目を向けている人もいる。「先着」のオランダ軍へのフ不信感が原因のようで、飲食店経営のカデム・マジドさんは「オランダ軍は来たばかりのころは活動的で、わたしたちを良く助けてくれた。けれどもすぐに占領軍の顔をし出した」とし、日本の兵士も歓迎はできない」と述べた。】
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まあ、当然リップサービスの面もあるでしょうから、言葉を額面どおりに受け取っていいものか悩ましい面もありますが。 少なくとも、「派遣する側」である日本の苦悩に比べて、「派遣される側」のサマワにとっては、そのことは、はるかに日常的な出来事のような印象を受けます。 多くの日本人にとっては、「危険な一触即発の地域」なのかもしれませんが、現地の人たちには、そこに「普通の生活」があるわけですから。
一般的に、イラクの人たちの対日感情は、今のところは「そんなに悪いことはない」というレベルなのでしょう。 もちろん、「日本はアメリカの仲間」という意識はあるでしょうが、少なくとも日本人とイラク人は直接戦闘を経験したわけではないですし。 子供たちが「自衛隊がサマワに日本製のゲーム機やコンピューターを持ってきてくれるものと勘違いしている」なんて件は、サンタクロースじゃないんだから(まあ、イスラム圏にサンタクロースはいないでしょうけど)、なんて、微笑ましく感じるくらいです。 もっとも、終戦直後の日本では、自分の国を占領したアメリカ軍に対して、子供たちは「ギブ・ミー・チョコレート」とやっていたのだから、「日本がやってくれること」への期待と「日本人への親愛の情」というのは、必ずしも比例するものではないんだろうけど。
基本的に「占領軍」を心の底から歓迎する人たちはいないと思います。 現在、表面上歓迎の姿勢を見せているのは、「とりあえず、荒立てないようにしよう」という様子見と戦争状態が日常となってしまった市民たちの「生き残るための知恵」なのかな、と。
イラクの人たちの本音としては、「自衛隊が来ること」に対する感情は灰色で、問題は「その自衛隊とやらが、ここで何をしようとしているのか?自分たちに何をしてくれるのか?」ということにかかっているんだろうと僕は思うのです。
「自衛隊がやるべきだ」「NGOがやるべきだ」なんていうのは、「支援する側」の都合であって、現地の人たちにとっては「どっちでもいいから、早くなんとかしてくれ」というのが本音なのではないでしょうか?
今のイラクは、日本の一般常識からすると「ものすごく危険な地域」であることには、誰も異論がないでしょう。 正直、そこに危険慣れしていない日本人が踏み込むのは、危険が大きすぎるとは思うのです。それは、日頃厳しい訓練を受けている自衛隊の隊員たちにとっても同じはず。 それでも、自衛隊の隊員たちは、「現地の復興のため」にイラクに派遣されようとしています。 彼らは、今の日本の社会ならば、「イラクに行くのがイヤなら、自衛隊を辞めればいい」にもかかわらず。 実際、「じゃあ、日本は軍資金を出してイラクの破壊に『貢献』しておきながら、戦後の復興にはかかわらなくていいのか?」とも思うのです。 そして、この危険な仕事に対応できる組織が、日本に他にあるのだろうか?と。 実際に、日本国内での大災害などでは、自衛隊員は献身的に働いてくれているわけですから。
イラク戦争において、僕は「アメリカの正義」に対しては懐疑的です。 でも、今回の自衛隊の派遣については、「アメリカへの追従」ではなくて、「現地の困っている人たちを助ける」という主体的な目的であれば、日本のアイデンティティを世界に示す大きな機会なのではないでしょうか?
僕だって行けって言われたらイヤですし、隊員本人、そして家族だって、ものすごく不安なはず。 でも、今の世界情勢の中で「誰かがやらなければならない仕事」を彼らが引き受けてくれるのだとすれば、僕は、彼らに感謝せずにはいられないのです。 そして、彼らの無事とイラクで困っている人々に貢献できることを心より祈ります。自分の仕事に誇りと自制心を持って、「日本人の姿勢」を世界に示してください。
でも、こんなことを書きながら、「他所の国のことなんだから、わざわざ危ない目に遭いにいかなくても…」という気持ちがあるのも事実なんですよね。 実際、太平洋戦争のきっかけだって、その時代の日本人にとっては「日本を守る戦争」だったのでしょうし…
いちばん大事なのは、「派遣したからいい」「派遣しなかったからいい」ではなくて、「派遣した先で、きちんとした活動ができているのかどうか検証すること」や「派遣しないとしたら、その代わりに日本に何ができるのかを考え、実行すること」なのではないでしょうか。
「行った」「行かなかった」で、この話が終わってしまっては、なし崩し的に悪い方向に進んでしまう可能性が高いから。 そう、それじゃ今までと一緒だよ。
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2003年12月09日(火) ■ |
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「不公平」と「ひとつのきっかけ」のあいだに |
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共同通信の記事より。
【兵庫県中町の町立中町中学(吉田明生校長、365人)で、社会科担当の男性教諭(43)が一部の生徒に自分でつくった期末テストの問題をあらかじめ教えていたことが9日、分かった。 教諭は問題を教えたことを認めた上で「勉強が苦手な子供に達成感を味わわせたかった」と吉田校長に説明。校長は口頭で厳重に注意したという。 吉田校長によると、教諭は社会科のテスト実施3日前の11月28日、この日行われた別の科目のテスト終了後に計108人の2年生のうち13人を教室に集め、出題を予定していた91問中30問について「織田信長」「川柳」などの人名や語句を漢字で書くよう指導するなどした。 期末テスト終了後の12月5日、保護者から「公平さにかける」と指摘する電話が学校にあり発覚。教諭が教えた30問を全員正解にしたという。吉田校長は「子供への配慮を欠き、不平等なことをしてしまい申し訳ない」と話している。】
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この社会科の先生、なんてひどい教師なんだ!って、思いますか? 僕は、この先生の気持ち、なんとなくわかるような気がします。 ただ、その思い付きを実行したのが、通知表に直結する期末テストというのは、他の生徒たちにとっては納得いかないでしょうけど。
一般的に、「勉強ができない生徒」というのは、とくに小中学校レベルでは、「勉強をしない生徒」であることが多いのです。それで、「どうして勉強しないのか?」という問いに対しては、「勉強なんてつまらない」「やってもわからない」という理由が多いのではないでしょうか。 もちろん、勉強が好きな子供というのは少数派なのですが、「勉強ができない」から「成績が悪い」そして、成績が悪いことによって、コンプレックスから、さらに勉強嫌いになって成績が落ちる…というネガティブな連鎖が起こっているのだと思います。 逆に、「運動ができる子供」の大部分は「体育好き」な印象がありますし。 子供は、「健康のために運動しよう」とか「趣味として歴史の勉強をしよう」なんて考えないでしょうから、「自分が得意なこと、他人から評価してもらえること」を好きになるというのは自然なことなのです。
僕自身の経験や周りの人のことを考えてみると、「勉強ができる」「勉強ができなくなる」というのは、たった1回のテストがきっかけになることだってあるのです。 一度良い点数が取れることによって、自信ができる+次も悪い成績をとりたくない、という自分へのプレッシャー、という要因で、どんどん成績が上がっていく友人もいましたし、逆に、一度の失敗で自信を失くしたり、自暴自棄になることによって、あっという間に成績が落ちていった同級生もいました。 勉強というのは、レールに乗っているうちはそんなに成績に波があるものではないのですが、一度ついていけなくなってしまうと、取り戻すのは大変なこと。 電車に乗っているうちは体感できなかった電車の速度が、一度降りてしまうとすごいスピードなのと同じです。
たぶん、この先生は、その「一度のきっかけ」を13人の生徒につくってあげたかったんだろうなあ、と思います。全員ではないでしょうけど、その一度の高得点で人生が変わることだって、あるかもしれない。 もちろん、これは不公平な行為でしょうし、クレームがつくのは仕方ないことだけど。 他の生徒は、「なんであいつらだけ」と思うのが当然でしょうし。
でも、こういう形で「好成績の快感を味あわせる」というのは、実はあんまり意味がありません。中学生にもなれば、「こんな形でいい点を取っても、いい気分はしない」ことは自明の理ですから。
この先生も、こういう形で「(先生自身も)ラクして好成績をあげさせる」よりは、補習をするなり、教え方を工夫するなりして、先生も試行錯誤の上で、もっとうまく生徒を「その気にさせる」ことができたらよかったんでしょうけどね…
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2003年12月08日(月) ■ |
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英傑項羽、2200年間の濡れ衣 |
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読売新聞の記事より。
【6日付の中国各紙によると、秦の始皇帝が造営した大宮殿「阿房宮」(中国陝西省西安市郊外)は、定説と異なって、楚の武将、項羽に焼き払われてはいないことが、中国社会科学院考古研究所と西安市文物保護考古研究所が共同で実施した発掘調査で明らかになった。
約1年間にわたって、20万平方メートル以上を調べたが、大量の灰や焼けた土など火災があった痕跡は発見されなかったという。阿房宮は紀元前212年、始皇帝が渭河の南に建造を開始した大宮殿。秦代末期に項羽が侵入し、3か月炎上したといわれ、これまで度々歴史小説の題材になってきたが、項羽によって焼失した事実はなかったことになる。
新華社電によると、今回の調査では、始皇帝在位中に完成したとされる阿房宮の前殿部分の基本構造や範囲など輪郭が初めて判明した。前殿の土台は東西1270メートル、南北426メートルで、総面積は54万1020平方メートル。専門家は「今回の重大発見は中国史上最大規模の建築群の1つ、阿房宮の謎を解く上で重要な資料を提供してくれた」と意義を強調している。】
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まさか、この新華社電も「捏造」なんてことは…と、最近歴史が信じられなくなっている僕などは思うのですが、でも、そんなことを現在捏造することには何のメリットもないでしょうから、これはおそらく事実なのでしょう。 記事の中にも出てきますが、「楚の武将・項羽は、秦の都に到着すると(これには、ライバルであった高祖劉邦に先を越されてしまっていた、という背景があるのですが)、秦の都を焼き払い、略奪の限りを尽くした」という中国史上有名なエピソードがあり、そういった暴挙に対する人々の反感が、後に項羽の没落とライバル劉邦の台頭につながっていった、というのが、歴史の「定説」でした。 少なくとも、僕が今まで読んだ「漢楚の戦い」には、みんなそのように書いてあったと記憶しています。 その項羽の暴虐エピソードの中でも、「秦の兵、数十万人を生き埋め」と「秦の見都で阿房宮に火をつけ、街を略奪三昧」というのは、もっとも有名なものでしょう。 でも、こうして現代の科学で歴史を検証してみると、必ずしも100%事実でないこともあるわけで。 そもそも、現代語られている「漢楚の戦い」についての原典ともいえる、司馬遷の「史記」だって、漢の武帝時代に書かれたものですから、それが実際に行われた時代から100年くらい経ってからの記録なわけです。今みたいに記録が豊富でなかった時代ですし、いわば「敵役」の項羽の事跡ですから、悪い方に脚色せざるをえなかった事情もあるでしょうし。 それに、歴史上の人物というのは、それぞれの時代の「現代人」にとって、解釈が異なってきます。 例えば、楠木正成という人などは、太平洋戦争までの日本では「忠臣」の代表格として尊敬されていました。でも、現在では、楠木正成と言われて、どんな人だか思い出せる人は少ないのではないでしょうか?
現代で言えば、田中角栄さんなどは、生前は汚職まみれの政治家という感じだったのに、最近では「平民宰相」というような評価もあるようですし、横山やすしさんなども、リアルタイムでは「漫才の天才」というより「困った人」という印象のほうが強かった記憶があるのに。
ましてや、歴史上の人物の実像なんて、僕たちが抱いているイメージとは全然違うものなのでしょう。 秦の始皇帝についても「暴君の代名詞」だったのが、「混乱の中国を統一した英雄」というような評価が増えてきていますし。
まあ、逆に全くのフィクションだらけというのも考えにくいので、項羽にそういった粗暴な一面はあったのでしょうが…
歴史には、「事実」はあっても、「真実」は存在しないのかもしれません。 そうやって歪められていくのも、歴史の怖いところであり、面白いところではあるんでしょう。
それにしても、焼かれていなかったとしたら、そんな壮大な建物がどうして歴史から消えて埋もれてしまったのか、それもまた謎。
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2003年12月07日(日) ■ |
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松井選手が感じた「距離感」の原因 |
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「日本経済新聞」のスポーツ欄の記事「ヤンキース松井選手に聞く」より。
【インタビュアー:ファンへの接し方でメジャーに学ぶ点は? 松井「日本はネットがあるし、グラウンドとスタンドが近いようで遠い。向こうは練習中でも子供へのサインを嫌がらない。球場へ行ったら選手と触れあうチャンスがある。それだけでもだいぶ違うと思う」】
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今年ヤンキースでのメジャーリーグ1年目を終えた松井選手へのインタビューの一節です。 僕はもう子供ではないので、「選手と触れあうチャンス」というのが、どのくらい子供にとって影響するのか実感としてはわかりませんが、メジャーの選手のファンサービス、とくに、「次の世代を担う子供たち」に接する姿勢は徹底しているみたいです。 「夢を与える仕事」という意識が強いということなのでしょう。
ところで、このインタビューを読んで思ったのですが、「ネットの影響」というのが「距離感」に与える影響は、けっこう大きいもんかもしれません。 日本のスタンドでは、ファールボールが直撃したりするのを防ぐために、ネットが張られている場所がけっこうあるのですが、あのネットというのは、気になりだしたらけっこう気になるものなのです。 目の前で繰り広げられるプレーの全てが、「ネット越し」になってしまうわけですし。 球場でのコンサートなどではとくに、ボールなんて飛んできませんから、「何が悲しくて、こんな網越しにステージを観なければいけないんだろう?」と感じることが多いのです。 いろんな障害物が目の前にあるのなら、テレビの画面で観ても同じなのではないかな、なんて。
先日アメリカに行ったとき、セスナ機の窓から観えるグランドキャニオンの風景は、かなり雄大なものでした。 でも、やっぱりなんか違うんですよね、飛行機の窓越しだと。 だからといって、飛行機の窓を開けてもらうわけにもいかないし。
あとで地上に降りて、展望台で観たら、やっぱり「自分の目で観ている」という感じがしたのです。 そういう一枚の窓とか球場のネットのような「遮るもの」というのが人の心に与える「距離感」は、けっこう大きいものなのかもしれませんね。
僕は眼鏡を愛用しているので、常に「現実はガラス一枚分向こう側」なんですけれど。
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2003年12月06日(土) ■ |
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帰ってきた「インベーダー」と帰れない僕 |
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毎日新聞の記事より。
【インベーダーの逆襲?――。タイトーは5日、1970年代後半に一世を風靡した業務用ゲーム機「スペースインベーダー」を来年1月から25年ぶりに再出荷することを明らかにした。携帯電話向けなどのゲームソフトで、インベーダーゲームが「音やキャラクターが斬新」と若者に受けていることから、人気復活が見込めると判断した。
再出荷するのは、当時とまったく同じゲームを搭載したゲームセンター用の業務機。利用者が立ってゲームをする方式を採用する。すでに米国向けには今月から出荷を始めており、最初の1年間で、国内外で1万台の売り上げを見込んでいる。
インベーダーゲームは78年に登場。社会現象になるほどのブームとなり、生産中止となる79年までに累計で国内に30万台、海外へは6万台が出荷された。生産中止後は家庭用ゲーム機向けの定番ソフトとして販売が続けられてきた。タイトーによると、発売25周年を今年迎えるのを機に、携帯電話でのゲームソフト事業を強化したところ、携帯電話でダウンロードして遊ぶソフトとして国内外で人気が急上昇しているという。
タイトーでは「当時遊んだ方には懐かしさを、若者には新しさを楽しんでもらえると思う」として、復活に期待を寄せている。】
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タイトーさんが、どの程度本気で、「スペースインベーダー」を復活させようとしているかはわかりませんが…
1970年代後半、ちょうど僕が小学生の頃、このインベーダーゲームは大ブームを巻き起こしていました。いい年した(と、当時の僕には見えた)大人たちが、テーブル型のゲーム機の上に100円玉を積み上げ、ちょっと猫背になってドッドッドッ、ピキーン、ピキーンという音のする画面を一心不乱に見つめている光景をよく覚えています。 そして、なんといっても僕たちにとってインパクトが強かったのは「ゲームセンターあらし」でした。天才ゲーム少年・石野あらしとライバルたちとの死闘は、僕のようなインドア系小学生に対して、すごいインパクトがあったのです。 だって、野球マンガとか読んでも、「運動神経も良くないし、根性もない自分」と比べてみると、なんとなく引け目を感じて、別世界の出来事みたいだったですし。 でも、ゲームの世界は違いました。まだ未開拓だったこの世界では、僕でもヒーローになれそうな気がしたんですよね。そんなに運動神経良くなくてもできそうだったし。 現実には、ゼビウスで一千万点も出すような人たちは、別の意味で「人間離れ」していたわけなのですが。 たぶん、「ゲームセンターあらし」を読んていた僕と同じくらいの年齢の人は、一度は「炎のコマ」とかを「インベーダー」で実践して、すぐにやられて悲しい思いをしたことがあると思います。さすがに、「ムーンサルト」とか「水魚のポーズ」とかは、物理的にムリ&恥ずかしくて、やっている人を見たことはありませんが。 考えてみれば、「コンピューターの処理速度を越えるレバーの動きで、バグを起こさせて高得点!」という「炎のコマ」も、今から考えれば、百歩譲ってバグを起こせたとしても 、そんなこっちに都合の良いバグなんて起こるわけないんだよなあ、あはは。
社会にとってまだまだ異物だった「テレビゲーム」は、金食い虫であったこともあり、PTAからも「インベーダーは不良がやるもの」というレッテルを貼られて、ゲームセンターには補導員が巡回するようになりました。 確かに、当時の僕たちにとっては、1回100円というのはかなり高価な遊びで(しかも、ヘタするとすぐ終わっちゃうし)、ゲームセンターでのカツアゲなんかも多かったみたいですし。 あの頃は缶ジュースが1本ちょうど100円でしたから、「ゲーム1回と缶ジュース一本」を天秤にかければ、「ゲーム」を選ぶのは、やっぱり勇気が要りました。 それでも、「補導員に見つかるかもしれない」というスリルも含めて、当時の僕たちには薄暗くて電子音が響くゲームセンターは、夢の空間だったのです。 どんどん進化していくゲームの画面を見ていくだけでも、けっこう楽しかったし。
結局僕は、そのままゲーマー人生を歩んでいるわけですが、今、当時の「スペースインベーダー」で遊んでも、あんまり面白くないような気がします。 それはたぶん、グラフィックが劣るとかそういうことだけじゃなくて、今のカップルだらけの明るいゲームセンターでは、当時のような「アウトロー感覚」が味わえないから、なのでしょう。
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2003年12月05日(金) ■ |
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2万回斬られた男 |
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サンケイスポーツの記事より。
【知る人ぞ知る、斬られ役俳優、福本清三(60)がトム・クルーズ(41)主演の「ラスト サムライ」(6日公開、ワーナー・ブラザース配給)で世界デビューを果たす。時代劇の斬られ役ひと筋40数年、その回数は2万回を超えるが、4日、京都市内で「自分でも夢やったんかと思うほど、すごい経験だった」と世界デビューの喜びを語った。渡辺謙(44)がアカデミー賞助演男優賞の呼び声が高いが、こちらのサムライも見逃せないゾ。
トム演じる米軍人に影のように付き従う男。それが映画「ラスト サムライ」での福本だ。
東映の大部屋出身で斬られ役ひと筋だった福本は「田舎の高校生が甲子園に出るようなもの。夢かと思うほど、名誉なことだった」と忘れられぬ経験になったという。
常にトムの近くにいることもあり、劇中もツーショットの場面が多い。福本が見たスーパースターの素顔とは? 「国民性かもしれないけど、明るい方でした。エキストラにも気を配って、『暑い中ありがとう』と声をかけたりしてました」と意外なほど気さくだったという。
「日本のスターさんなら、ここまでやるのかな」と思うほどで、「映画は1人ではできないということをよく分かっているんでしょうね」と、ひと筋縄では成功しないハリウッドスターの大変さを垣間見たよう。
プレミア試写会のためトムが来日した先月20日に再会。もう一生会うこともないだろうからと「日本で応援しているからがんばって」と通訳を通して、話しかけたところ、トムからの返事は「NO、清三…ハリウッド…」とだけ聞き取れたという。「はっきり分からないけど、ハリウッドに来いって言ってたんでしょうか」とトムからの思わぬ“ラブコール”を受けたことを告白していた。
世界デビュー作の公開を目前にひかえた現在は、再び毎日テレビ系「水戸黄門」などをはじめとするテレビの時代劇を中心に出演。「僕らは与えられた仕事を、一生懸命やるだけ。そのことの積み重ね」。“世界の斬られ役”となった福本は、きょうも斬られ続けている。】
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2万回斬られた男、福本清三。僕は、この人の名前を知りませんでした。 でも、この記事からうかがえる福本さんの役者としての美学には、なぜかすごく心を打たれたのです。
よく、「悪役にはいい人が多い」なんて言いますよね。まあ、それが真実かどうかは、僕は実際につきあいがないからわかりませんが、彼らが、下積みの苦労を知っている人たちである、というのは確かだと思います。 それに、「斬られる役」は、僕たちが思っているほと簡単なものではないんじゃないかなあ、という気がするのです。
例えば、大勢の人が長縄跳びの記録に挑戦するときに、僕たちの目は、跳んでいる人たちに集まりますよね。 でも、実際は、「縄を回す人」の技術に、その長縄跳びの成否がかかっていることが多いのです。他のスポーツの例えで言えば、野球でピッチャーの投球を活かすも殺すもキャッチャーのリード次第という面がありますし、外科の手術でも、術者の技術はもちろんですが、助手の熟練度によって、スムースさはかなり違ってくるのです。僕は内科ですから、術者をやったことはありませんが、外科の先生によると、状況を判断しながら必要な器材を最良のタイミングで手渡したり、術者がみやすいように術野を広げてあげたり、という仕事をする助手の実力の違いで、やりやすさは全然違うということでした。 助手が上手いと、術者が操られているような感じ、らしいです。
様式美重視の時代劇では、悪役は悪役らしくなくてはいけないものです。水戸黄門の悪代官や必殺仕事人で中村主水に斬られる悪党は、視聴者から見て、「なんてヒドイやつだ!」と思われなくては存在意義がありません。 それに、ある程度は強くないと、へっぴり腰で弱そうな悪党を正義の味方が「虐殺」するような感じでは、それはそれで視聴者としてはちょっと引っかかったりしますし。 たぶん、福本さんは、「より憎たらしい悪党になるにはどうすればいいのか?」とか「視聴者がスカッとするためには、どんなふうに斬られたらいいのか?」とかをずっと研究してこられたのだと思います。 それはまさに、主役を活かす、至高の匠の技。 斬られ役一筋、40年。
この記事を読んで、僕はこの人が大好きになってしまいました。 「スターさん」なんて呼び方も、なんだかとても謙虚な感じで、同じ世界にいながら「自分とは違う人種だ」とずっと思ってこられたんだろうなあ、なんて。
しかし、あんまり福本さんに感情移入してしまうと、時代劇がつまらなくなるかも…
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2003年12月04日(木) ■ |
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国語の教科書の隠れた「影響力」 |
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時事通信の記事より。
【世界中で大人気のハリー・ポッターが、フランスの中学の国語教科書に取り上げられた。勉学に対する子供の興味を引こうというわけだが、親の中には反対論も出ているようだ。 ルモンド紙がこのほど報じたところによると、掲載されたのはハリー・ポッター・シリーズの第3作、「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」の仏語訳の一文。英語からの訳のため、文体の勉強ではなく、登場人物の心理描写など内容読解が中心となっている。また、著者のJ・K・ローリングさんの写真もアレクサンドル・デュマらフランスの文豪と並んで載っているという。 しかし、親の1人は「子供を熱中させるものを選ぶという狙いは理解できるが、フランス文学の中に素晴らしい作家はたくさんいる」と指摘。わざわざハリー・ポッターの訳を教科書に使う必要はないと批判的だ。】
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まあ、「批判的」というよりは、ここでコメントしている親が、個人的にハリー・ポッターが好きじゃない、ということなんでしょうね。「フランス文学」にこだわるところは、いかにもフランス人らしい感じです。「ハリー・ポッター」なんて、イギリス女が書いたくだらない娯楽小説だとか、思っている人もいるのでしょう。 よく「中国人とフランス人は、自分の国が世界の中心だと思っている」なんて言われますし。 (最近はアメリカ人もそんな感じがしますけど) そういう意味では、日本人というのは海外の文化に対して、かなりリベラルな民族なのかもしれませんね。 むしろ、自国の文化を低く評価してしまう傾向があるくらい。 1年ほど前、ボストン美術館(この美術館は、日本美術のコレクションで有名なのです)に行ったときに、日本の有名な画家の浮世絵がズラリと並んでいるのを見て(しかも、その展示室には、ほとんど人が来ていない)、ちょっと悲しくなりました。もちろん、この美術館ではこれらの日本文化が日本国内で評価されていなかった時代でも、その価値を認めて護りつづけていてくれたのですから、感謝しないといけないとは思うのですが。 ちなみに、一番人気は「ヨーロッパ近代画家の部屋」だったんですよね。ピカソとかルノワールとか。こういうのは、世界中どこでもあまり変わらないのかな。
だいぶ脱線してしまいましたが、確かに国語の教科書というのは、子供にとってはもっとも身近な「文学への入り口」なのです。他の教科書と違って、けっこう面白かったし。小学校時代などは、退屈な国語の授業中に、よく他のページに載っている小説を読んでいたものでした。 僕にとって、教科書に載っていた作品でいちばん印象に残っているのは、宮沢賢治の「やまなし」という小説でした。「クラムボンはくぷくぷ笑ったよ」…クラムボンって何?と、当時はけっこう悩んだものです。解説には、「とくに意味のない造語」とか書いてあって、当時の僕はものすごく困惑させられたものでした。今だったら、「ならどうでもいいや」で済む話なんですが。
もうひとつ、記憶に残っているのが、夏目漱石の「こころ」なのです。 けっこう長い小説ですから、教科書に載っているのはほんの一部なのですが、なんというか、この小説で描かれている人間のプライドとか打算とか恋愛感情というものの複雑さ、なんていうものは、当時の僕にとっては、まさに「オトナの世界」そのものでしたから。「高等遊民」なんて言葉も、なぜかものすごくインパクトがあって。 結局、続きが気になった僕は、「こころ」を図書館で借りたのですが、それをきっかけに漱石の作品をけっこう沢山読みました。図書館に行けば、自然と他の本も読んでみようかな、という気持ちになるものですし。 しかし、今から考えると「こころ」をあの年頃の子供に教えるのは、先生たちにとっても難しかったのではないでしょうか、きっと。
僕は、教科書に「ハリー・ポッター」でもいいと思うんですよ。さすがに一冊まるごと「ハリー・ポッター」ではどうかな、という気はしますけど。 「面白いもの」を取り入れていくというのは、子供たちにとって、本を読むきっかけになる可能性を高める意味で、良いことなのではないでしょうか? 教科書の中に「ハリー・ポッター」と一緒に「面白いフランス文学」も混ぜておけば、きっと興味を持つ子供もいるでしょうから。
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2003年12月03日(水) ■ |
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本当は、「クレームをつけない人」のほうが怖い。 |
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「社長をだせ!実録・クレームとの死闘」(川田茂男著・宝島社)より。
(ある有名カメラメーカーでクレーム処理のエキスパートと呼ばれていた著者が、いわゆる「クレーマー」をいくつかのタイプに分類されているのですが、その最後に、この「泣き寝入り型~クレームをつけない」を挙げられています。)
【私のいたサービスセンターでも最近こんな例がありました。 「あの人また来てるよ。いい人なんだよな。これで何度目かな?」 「この前はマリちゃんがやってたから、もう五、六回になるんじゃないの」 と、こんな会話が所内に飛び交っていましたので、 「どうした、いい人だからってほっとくなよ」 と言いながら事情を聞きますと、カメラが何度も故障して修理が続いているということでした。担当者の話では、三回故障した時点で新品と交換したのですが、その後も故障が重なり、今日でまた三回目の故障だとのことです。 「ええ?そんなカメラ大丈夫か?修理で行けるのか?お客さんと話をしているのか?」 と尋ねますと、担当者は、 「あのお客さんはいい人だから大丈夫ですよ」 と、今日も甘えて修理で預かると言っております。
(中略)
お客様が何も言わないからといって、放っておいたら、どんどんそのメーカーから離れていってしまいます。こうしたことは、結果がすぐに目に見えて現れないだけに、最も注意を要する問題であり、言い換えれば最も厳しいクレームと言わざるを得ません。】
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この文章を読んで、僕は以前、ある病院で外来をやっていたときのことを思い出しました。近辺に大きな病院が無いため、その病院の外来はいつも患者さんが多くて、大混雑だったのです。 僕らは、その患者さんを順番に診察していくのですが(もちろん、急患や具合の悪そうな患者さんは優先的に診ることになります)、中には、ものすごく状態は良さそうなのに、待たされていることに対して御立腹される方がいらっしゃるのです。 「どのくらい待たされてると思ってるんだ、早くしろ!」と看護師さんに息巻いて怒鳴ったりしはじめます。 まあ、多くの場合はベテランの看護師さんが「順番ですから」となだめて一件落着となるのですが、それでも「仕事がある」とか「忙しい」というように言われる場合、看護師さんが「急がれていますので」と言って、診察の順番を入れ替えてしまうことがありました。 診察室で休みなしに働いている僕としては、そういう操作には腹が立ちますし、「順番なんだから、仕方ないだろ」と言ってやりたいのはやまやまなのですが、看護師さんの立場もわかりますし、結局、トラブルを恐れ、待っている患者さんたちの善意に甘えて、唯々諾々とそういう操作を受け入れてしまっていたんですよね。 そして、そのワガママな患者さんは自分が「特別扱い」してもらったことに満足し、多くの「いい人」である患者さんは順番をとばされる…
「いい人」というのは、結局損ばかりさせられて、いわゆる「クレーマー」がいい目をみることって、現実にはけっこう多いのではないでしょうか? そして、そのクレーマーという人種は、「自分がクレームをつけたおかげで、こんなに得した」なんてことを吹聴してまわるのです。 この世界の人々がみんなクレーマーになったら、世の中うまく回っていかないはずなのに。
もちろん、文句を言うべきところは言っていいと思います。 でも、あまりに個人の都合に偏ったクレームで「ゴネ得」をしている人やどんな理不尽な扱いを受けてもガマンしてしまう人を見るたびに、現実というもののやるせなさを感じずにはいられません。
ただ、僕はいつも内心思うのです。 本当に怖いのは、「黙っている人たち」だぞ、って。 「怖い」というのは、自分が被害を受けるという意味ではありません。 黙って受診している人たちというのは、こちらをものすごく信頼しているか、文句を言うにも値しないと思っているか、それとも、性格的にクレームをつけるというのを潔しとしない人たちです。 そういう患者さんは、自分の症状に対しても限界までガマンをしてしまいますし、こちらの対応に不快感を覚えれば、黙って他の病院に移ってしまいます。信頼してくれる患者さんには、こちらも一層の誠意で応えたいですし。
これは、サイトでも言えることだと、僕は考えています。 「あなたにとって、メール一通は、アクセス何カウント分に相当しますか?」というサイト管理人への有名な質問があります。 でもね、実際は「メールを送る人たち」というのは、「サイトに感銘を受けたから」だけではなくて、「自分が誰かにメールを送りたいから」だけの人もいるんですよ、たぶん。 それで、「いつも楽しみに読んでいる人」とか「内容に文句を言いたい人」の多くは、「メールを送るほどじゃない」と考えているか、「メールをサイト管理人に送る習慣がない」のだと思うのです。 それは、考え方や習慣の違いだけで、善悪の問題じゃなくて。 アクセス数という「数字」にしか現れない存在でも、それは、確実に「読んでくれている人」の指標なわけですから。 もちろん、意見を声に出してくれる人、というのは貴重なのですが、僕は、同じように「何も言わないけれど、ずっと読んでくれている人」を大事にしたいと思っています。 いや、別に皆様に何かできるというわけじゃないんですが、大きな声や強い言葉だけに惑わされないように、って。
「活字中毒R。」が、そういう「日常の合間に読んでいただいている普通の人々」にも届いているといいなあ、と心から願いつつ。
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2003年12月02日(火) ■ |
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「村上春樹の軽い小説」と「日本の重い小説」 |
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時事通信の記事より。
【現代の日本文学をロシアに紹介する日本文学シンポジウムと詩の朗読会(国際交流基金など共催)が27、28の両日、モスクワで開催中の第5回国際知的図書見本市の会場で行われ、日本から気鋭の作家・詩人・歌人ら5人が出席。最前線の日本文学の魅力をロシアの若い世代にPRした。 村上春樹氏の翻訳小説がベストセラーになるなど現在のロシアは日本文学ブーム。これを機に、両国間の知的文化交流拡大を図る企画で、作家の島田雅彦氏は「村上春樹氏のファンタジーだけでなく、日本の重い小説も読んでほしい」と訴えた。】
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「現在の日本でいちばんノーベル文学賞に近い作家は、村上春樹だと言われている」という話を先日聞いて、びっくりしました。海外でも読まれているという話は耳にしていたのですが、そんなに人口に膾炙しているとは。 村上さん自身も、海外作家の翻訳もされていますし、海外文学への造詣も深いようですし。
とくにロシアでは、村上春樹作品は、吉本ばななさんの本と並んで、日本人の贔屓目ナシの大ベストセラーなのだそうです。書店にも平積みにされており、売り上げランキングの上位に入っているのだとか。 なんでも、日本作家の作品が海外で訳される場合、英語版をさらにその国の言葉に訳する、という形式がとられるのに、村上春樹作品のロシア語版については、日本語からロシア語に直接訳されており、もとの作品に近い状態で読めるのも魅力、だそうです。
しかし、この島田雅彦さんの発言を読んで、僕はなんだか腑に落ちませんでした。 「村上春樹の作品って、軽い?」 島田さんが本当にそう言われたのか、記事を書いた記者が意訳したのかはわかりませんが、少なくとも、内容的に「村上春樹は『軽いファンタジー』というのは、ちょっと偏見なのではないかなあ、と思ったのです。
というわけで、実際にロシアで訳されている作品を調べてみたのですが、「羊をめぐる冒険」(1998)、「ダンス・ダンス・ダンス」(2001)、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」(2002)、そして、「ノルウェイの森」(2003)。計6作品が訳されているそうなので、あと一作品あるはずなのですが、今回その作品名はわかりませんでした。
確かに、このラインナップだと、村上春樹作品の中では初期~前期にあたり、「軽いファンタジー」なんて言われるのも仕方がないかな、という気がします。 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」とか、「ねじまき鳥クロニクル」とかも訳されていて「軽い」とか言っているんだったら、島田さんはすごい偏見の持ち主だと思うのですが。
僕の印象としては「軽い」というよりは、「テンポが良くて読みやすい」なんですけどね、初期の村上春樹作品って。 それにしても、この「軽い」なんて言う表現は、ちょっとバカにしてるんじゃないかなあ、島田さん。 日本語は通じないと思って普段思っていることが口から出てしまったのか、それとも、島田さんは英語(もしくはロシア語)で話していて、訳者がニュアンスを掴みきれていなかったのでしょうか?
ちなみに、村上春樹作品の訳者の一人は「社会主義や集団主義から解放され、自己との対話を始めたロシア人。“心の奥にしまっていた気持ちに気づかせてくれた”とのメールが届く」と語っているそうですよ。
「もっと日本の作品を知ってもらいたい」という島田さんの気持ちはよくわかるのです。 でも、その一方で、ロシアの人たちが村上春樹の作品を読むのは、彼が日本人だからという理由だからじゃないんですよね、きっと。 星の王子様」のサン・テグジュぺリが好きなら、同じフランス人作家のプルースト「失われた時を求めて」も読んで、とか言われても、大部分の読者は困惑するばかりでしょうし。
だいたい、「重い小説」が読みたかったら、ロシアにはその道の大家がたくさんいるわけですし。 トルストイとか、ほんとに「重い」ものなあ…
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2003年12月01日(月) ■ |
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t.A.T.u.最後の晩餐 |
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スポーツニッポンの記事より。
【ロシアのデュオ「t.A.T.u.(タトゥー)」が30日、東京ドームで行う予定だった日本初コンサート(12月1、2日)の公開リハーサルをドタキャンした。ジュリア(18)とレナ(19)の二人が滞在先のホテルから出てこなかったためで、関係者も「詳しいことはわかりません」と困惑顔。約50人の報道陣からは「またか…」とため息が漏れた。
ただ、ドタキャンの発表前にバックバンドのメンバーが会場を去ったり、主催者である日本テレビが、控室でカメラを回し、報道陣の表情を撮影するなどの行動も見られ、一部からは「やらせではないのか!」との怒りの声も上がった。
今回の公演のチケットは10万枚用意されたが、半分の約5万枚しかさばけていない。危機感を感じた主催者側が、話題づくりのために“やらせ”をやったと疑う声が出てもおかしくはない状況だった。】
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このニュースを聞いた人のうち9割くらいは、「ふーん、またキャンセルね。あっ、そう」ということで、次のことに頭を切り替えたと思います。僕もそうでした。 ちょうどこの文章がアップされるくらいに、タトゥーの東京ドーム公演が始まる予定なのですが、はたして無事彼女たちはステージに立つのでしょうか? 今回のコンサートは、「チケットが売れない!」とか「ネットオークションでチケットが一枚250円で叩き売り!」とかいうような暗いニュースばかりが聞こえてきて、まさにタトゥーの斜陽を感じてしまいます。 ほんと、ドタキャンとかやってることは全く前の来日と同じなのに、世間の関心は、薄くなりまくってますからねえ。
しかし、彼女たちのデビューアルバムが発売されたのは、調べてみたら今年の3月5日、なのです。このわずか9ヶ月の間に、人気絶頂からのこの凋落ぶり。もし、あの「ミュージックステーションドタキャン事件」の頃にタトゥーが東京ドーム公演をやっていたら、それこそ即日ソールド・アウトだったのではないでしょうか?それが、わずかな間に250円なんて…
もっとも、このタトゥーの人気凋落の裏には、メディアの強力なバッシングの影響もあると思われます。連日「チケットが売れてない」とか「叩き売りされている」なんていう記事を読んだら、みんな「もうタトゥーの時代は終わったな」という印象を受けるでしょう。流行りモノの場合には、「タトゥーを観に行くなんて、恥ずかしい」という気持ちにすらさせてしまうかもしれません。 僕は、250円だったらちょっと観てみてもいいかな、とか思いますけどね。
それにしても、人間の「消費する力」というのは、相変わらず凄いものですね。 今年だけで、どれだけの流行が燃えつきていったことか… あまりに流行しすぎると、後からその対象が恥ずかしくなってしまうことは、「たまごっち」や「なめ猫」などが証明しています。 ダンディ坂野だって、「ゲッツ!」を何年もやり続けていたのに、逆に一度大ブームになってしまえば、後に残るのは「もう飽きた」という声だけになるわけで。
もっとも、商品や芸能人などは、基本的に「消費されるためのもの」ですから、誰にも見向きもされずに消えていくよりは、短くても人々の心に残るような存在になれるということは、ものすごく幸運なことなんでしょうけどね。
それにしても、タトゥーの消費され方の速さは、「大食いコンテスト」の食べ物のような感じ 売れてれば「自己主張」で、売れなくなったら「ワガママ」だもんなあ。
せめて、今日と明日のドーム公演くらいは、「それでも観に来ている人々」の前で、素晴らしいステージを魅せてもらいたいけれど。
なんとなく、これが最後のような気がしますし。
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