山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2012年05月26日(土) ナンバープレースを解く

土曜日の日経には「NIKKEIプラス1」という別冊が付いてきます。
「なんでもランキング」とか、「生活発見」とか、「健康生活」、「温泉食紀行」など、そして「かんたん美味」という料理指南のページなど、およそ経済とは無関係ですが一般家庭にはうれしい記事が載っています。

その中でも毎週楽しみにしているのが「ナンバープレース」です。
毎週朝食前に挑戦しますが、難しい時もやさしい時もあります。
ご飯までに解けないときはたいてい最後までできません。
最近では慣れてきて、ほとんど毎週正解することができるようになりました。
ところが今日の問題はどうも解けないようです。
残念ながらギブアップです。

 万里の長城は馬を来させないためのものだった。北方の異民族は必ず馬に乗って攻めてくるので、馬を食い止めるのが目的であった。秦代には長城は2~3メートルでも用が足りた。後の明代になると攻める方も守る方も進歩したので7~8メートルぐらいになった。明代の特徴は屯田兵を配置したことだ。「屯八守二」が駐屯軍の方針とされた。

 遊牧民の騎兵は一騎一騎が極めて強い。中国の農耕民を相手にすると数こそ少ないが移動が速く、手薄なところを選んで襲撃しては巧みな弓術で攻めかかる。数で反撃されそうになるとさっさと退却する。「鳥の群れ」のようなのだそうだ。遊牧民族は騎馬だから強い。馬を下りた異民族なら怖くない。だから農耕民族は馬さえ防げばいい。異民族は数も少ない。ここに万里の長城をつくる発想が生まれた。

 実践ではどうするか。中国側としては異民族の捕虜、離反者を優遇して国境近くに住まわせ、その騎兵としての能力を利用して攻めてくる異民族を防ごうとする方法を考えついた。それが「夷を以って夷を制す」政策だ。宋の王安石の言葉だが、騎馬に苦しんだ中国側の苦肉の策だ。

 ところでモンゴル馬は比較的小さい。大型化をしなかった。ヨーロッパでは大型化を目指したのに、モンゴルでは遊牧でも軍事でも小さなモンゴル馬が優れていると見ていた。モンゴルが世界を制覇したとき、モンゴル馬はどこへいっても大草原での食事にありつくことができた。扱いやすく、戦でも小回りが利き、使い勝手が良かったのではないだろうか。

 結局長城は清軍に越えられた。これは堅牢な長城も役に立たなかったから越えられたのではない。どんな長城だって兵と一体になっていなければ機能しない。明の長城が本当にその機能を発揮したのは中国が清の領土になってからである。

 地図と写真が適切に配置されており読みやすかったが、この手の本にしては年表がないのが少し残念であった。


2012年05月23日(水) 病院へ行ってきました

昨日は4週間に1回の診察日のため、八戸赤十字病院へ行ってきました。私が通うのは「血液内科」ですが、いつもの看護婦さんが別の部屋に出入りしているので、きっと異動になったんだろうなと思っていました。

そうしたらしばらくしてその看護婦さんがやってきて、血液内科の診察場所が移動になったというのです。そのとき初めて各科の表示を確認したら確かに別の場所になっていました。

もう何年も通いなれていたために思い込みでいつものところに座って待っていたのを、例の看護婦さんが迎えに来てくれたのでした。どおりでいつも遭遇する同級生(彼も血液内科の患者)が別の場所にいたので、なんだか別の科にもかかっているのかなといらぬ詮索をしてしまいました。

 「倭人」という呼称がどこで出てくるかというと、かの有名な邪馬台国の史料として知られる「魏志倭人伝」である。「倭人」は日本人の母体となった種族であるが、「倭人」という呼び名自体はあくまで中国の人が形質・風俗・習俗・言語等の共通性に注目してくくったものに過ぎない。「倭人」の分布の中心は九州にあったらしいが、それと類縁関係にある「倭」、「倭種」は、日本列島を超えて、朝鮮半島南部、山東半島、江南地方を含むシナ海域にまでひろがっていたという。だから「倭寇」「倭人」「倭語」「倭服」などという場合の「倭」は決して「日本」と等置できる語ではないそうだ。この地域に居住する人たちは、なかば日本、半ば朝鮮、なかば中国といったあいまいな人間類型を「マージナル・マン」と呼ぶ。

 本書はいわゆる「倭寇」が東アジア(朝鮮・中国)にもたらした功罪について論じられている。なかでも「朝鮮王朝実録」に登場する「倭人」について述べている。特に「倭寇」といわれる主に「倭人」のしわざと考えられた海賊行為の記述の中に、当時朝鮮が「倭人」をどうとらえていたか見出している。

 倭寇といえば昔日本の海賊が明や朝鮮の沿岸地帯を荒らしまわったぐらいの認識しかなかったが、実際にはその海賊の中には明人や朝鮮人も交じっていたり、また主導していた人物もいた。しかも一方的に倭寇が荒らしたわけではなく、明や朝鮮の商人が介在し、密貿易に加担している者も少なからずいたということだ。だから明朝も朝鮮王朝もなかなか倭寇をうまく取り締まることができなかったのだろう。

 本書は「実録」の引用が極めて多数出てきて、読み下し文であるものの、大変読みづらかった。ただ現在の地図のほかに当時の絵図面を用いての説明は、昔の様子を彷彿とさせ引き込まれるようだった。


 アヘン戦争から約10年後に起きた「太平天国の乱」は、19世紀の初めの14年間、洪秀全がもとはキリスト教を独自に解釈して「拝上帝教」を創始したことに始まる。始めは新興宗教といったところだったが、その宗教運動が革命運動へと変節していく。

 「太平天国」とは聞いたことはあるものの、一体どんなものか良く知らなかった。最初はカトリックだったのに途中変節していく。それは自分の理想を追い求め、ユートピアを建設しようとせんがための必然であったのだろう。こういうプロセスは現代でもあちこちに見られる新興宗教が成長していく過程と同じではないかと思う。貧困層を巻き込んで大規模な組織を作り、軍事部門まで持つに至り、すっかり清朝に対抗する革命勢力になった。

 しかし洪秀全が天父として祭り上げられ後宮に引きこもってしまい、表舞台に出てこなくなる。これでは民衆の信頼は崩れてしまうのも当然と言える。地上に天国を作るとした当初の発想は良かったが、実際には最後に自分だけちょっといい思いをした。だからたった14年で太平天国の世界は消滅した。

 索引が人名と事項に分けられており引きやすかった。写真は所々に使用されており、興味深い場所が写っていて参考になった。ただ、地図をもっとふんだんに利用して説明してくれれば、さらに理解が深まるものと思う。


2012年05月21日(月) 金環日食

金環日食を見たくて昨夜から眠れなかった。
朝になって日が差してきたので日食用メガネでのぞいたら、既に始まっていた。
テレビではニュースで盛んに日食の模様を中継していた。
自分のデジカメでも撮影してみた。
日が陰るので、暗くなったり、涼しくなったり。


2012年05月20日(日) 田植えが始まった

田植えの時期になった。自宅の前の田んぼ(よその)では数日前に田起しをして昨日代掻きしたと思ったら、今日はもう植えている。こんなに早いものだったか。そろそろカエルの大合唱が聞ける。夜が楽しみ(?)だ。

あすの朝は金環日食の日だ。日食用メガネも準備した。全国的に晴れることを祈る。

 アヘン戦争とはどんな戦争だったのか。アヘンを清国に持ち込もうとした英国と、それを拒否しようとした清国が争った戦争ぐらいにしか認識がなかった。それが実はそんな単純なものではなかった。

 それまでの英国と清国の貿易は茶葉の大量輸入で英国の大きな輸入超過であった。その是正策として登場したのがインド(英領)産のアヘンである。清朝の退廃傾向につけこんでアヘンは清国内に急速に拡散していった。そして英・清間の貿易は瞬く間に逆転し英国の輸出超過に転じた。英国は清国の一般庶民の無知に付け込んでさらにアヘンを清国に売り込むのである。たまりかねた清国は欽差大臣に林則徐を任命しアヘンを一掃しようとする。当然アヘンを売り込みたい英国と対立し、とうとう戦火の火蓋が切られるのである。

 この戦争を日本の高校の歴史教科書にはどんなことが書いてあるかというと、
「清国の変則的貿易形式を打破するために、イギリス商人のアヘンが焼き捨てられたのを口実にイギリスが宣戦布告をした。」
といった記述がみられるという。しかし真相はその正反対で、アヘン貿易を認めさせるのが戦争の主目的であって、変則的貿易形式打破のほうが口実に過ぎないという。イギリスの「愛国的」歴史家が主目的を捻じ曲げた。日本の教科書編者も知らずにその説を採りあげたのであろうが、これがはっきりさせなければならない重要なポイントだそうだ。

 当時英国はいかに傲慢で非道であったか。①まず貿易赤字解消策として麻薬であるアヘンを売りつけたことだ。東インド会社を通して、自国民にも売れないものを清国へ持ってきた。②屁理屈をつけて戦争を始めた。③(圧倒的武力を背景に)上陸した英国軍の主力は残虐の限りを尽くし、占領期間中、掠奪、淫虐にふけり続けた。英軍が突入した鎮江は淫掠地獄と化したという。

 戦争そのものは最新装備の英軍を前に旧式の清軍は全く歯が立たなかったらしい。あわてた清国側は和議の対面を保つため林則徐を罷免したが、後任の大臣が卑屈なまでに譲歩を重ね、屈辱的な和議に同意せざるを得ず、1842年にあの軟禁条約が調印される。

 英国はよく「紳士の国」といわれるが(大航海の時代を含めアヘン戦争までを俯瞰すると)どこが「紳士の国」かと思ってしまう。いかに傲慢なことか。とくに大航海の時代は掠奪の歴史である。その成果が大英博物館に大量に納められているではないか。

 さて、そのあたりのことを英国の歴史教育ではどのように教えているのであろうか。一度詳しく聞いてみたいものだ。また為政者はどう思っているのだろうか。また、当時の麻薬の持ち込みや英兵による清国婦女子に対する凌辱行為について、英側が中国に対して謝罪したなどということは聞いたことがない。中国側にしても謝罪要求をしたということは聞かない。旧日本軍についてはあれほど熱くなる人たちなのに。いづれにしてもこのアヘン戦争はヨーロッパがアジアを土足で踏みつけた歴史であることを肝に銘じておかなければならない。

 私は著者陳舜臣氏のファンであるが、氏は本書以前に小説「阿片戦争」を著しているということなので、今度はぜひそちらを読んでみたい。


 まず出色なのは地図の豊富さである。新書という限られたページ数・面積にもかかわらず地図をふんだんに掲載している。中央アジアという我々日本人からすると若干なじみの薄い地域が対象であるだけに、その時代・時代に合った地図で説明してもらえると理解も深まるというものだ。また系図も多数掲載しており、複雑な血縁関係をわかりやすくしている。さらに写真版も適度に配置され、視覚による理解の手助けとなっている。

 さて、いったい「中央アジア」とはどこなのだろう。「アジアの中央部」というその言葉通り明確に示すことの不可能な用語なのだそうだ。そこで本書では次のように定義している。
「東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウ、ヒンドゥー・クシュ、崑崙の山々、そして北のアルタイ山脈とカザーフ高原に囲まれた横長の長方形の地域。」
この地域にはいかに多くの民族が勃興を繰り返してきたか初めて知った。いわゆるモンゴル族やウイグル族だけではなかった。草原の民がいて遊牧国家が発生した。オアシスの民はオアシス国家を形成した。国家間で交流が始まると商取引や抗争が起き始める。トルコ化が起きる。そしてイスラム化も始まる。あるときモンゴルが大帝国を支配し、やがて衰える。ロシア革命後、諸民族はそれぞれの共和国を足場に次々とソビエト連邦に組み込まれ社会主義国家の道を歩む。そしてソ連崩壊後、現在はそれぞれ独立し独自の路線を歩んでいる。

 この本が書かれた時期は1977年でありソ連崩壊前なので、そこまでの言及がないのが残念である。その後の各共和国の歩みを著者はどんな眼差しで見ているのであろうか。


2012年05月11日(金) 「漁師の魂宿る模型船」作る人

火曜日の日経の文化面に、「漁師のたましい宿る模型船」と題したエッセイが掲載されていた。Facebookに記事を紹介しようと思ったら、共有できないようなので、やむを得ず日記にここに書いてみたい。

書いた人は菅原武志さんという八戸市在住の元船員というか、元漁師、元造船会社勤務で、ずっと船にかかわってきた人だ。趣味で模型船を作っていたが、けがのために造船所を辞め、漁船の模型作りに転身したのだそうだ。

造船も手掛け漁師でもあったので、船のことなら細部にわたるまでイメージできるそうだ。このたびの大震災の津波をきっかけに、失われた船の模型を注文する人が増え、大忙しなんだそうだ。

数週間前にNHKの地域版の放送で紹介されたこともあって、知れ渡ったのではないだろうか。それに今回の日経の記事は全国版だから、震災にかかわらず注文が増えるに違いない。菅原さんにはぜひとも頑張っていただきたい。

 AMAZONで三蔵法師に関する書籍を検索していたら、こんな古い本が安値で出ていた。いつのものかと見ると、
・昭和27年(1952年)第1刷発行
・昭和33年(1958年)第12刷発行
岩波新書であるがオビがしっかり残っていて、それには定価が「¥100」とゴシック体で印刷されていた。また、漢字は旧字体で、まるで台湾か香港で用いられている繁体字を見ているようである。例えば、
史実→史實、発行→發行、精励→精勵、礼拝→禮拝
といった具合である。

 玄奘は帰国して間もなく、その旅行中の見聞を詳しく書いた「大塔西域記」を著した。それをもとに弟子の慧立が玄奘没後に「大慈恩寺三蔵法師傳」を編んでおり、そのうちの前半部分の現代語訳が講談社学術文庫から出ている。既にこれは読んでいるので、今回の書はこれとの比較になる。

 慧立版は非常に詳細で注釈も多く原本に忠実なのであろうが、国名や人名が頻出し煩雑で大変読みづらい印象をもった。こちら前嶋氏の書は口語的で、サブタイトルに「史實西遊記」としているように、物語風に書きすすめられており、旧漢字を除けば楽しく読むことができた。慧立のよりもずっと読み易かった。現代の漢字遣いにすれば十分に今の若い人たちにも読んでもらえると思う。

 読み終えてみると、玄奘という人の意志の強さに改めて感動した。かつてこんなにも意志が強く、行動的で頭脳明晰な人が存在したということに驚く。

 本書には中国の概念図1ページ分のほか、インドにおける玄奘の行程図が折りたたみで1枚あるだけだ。紀行文の要素が強いだけに、地図がないのが今一つ物足りなかった。


 「中国五千年の歴史」といわれるように、中国は長い歴史を持っているが、その中で最後の王朝といわれる「清朝」にのみスポットを当てた本である。女真族である満洲族の一小国が、あの大きな中華世界をのみこんだだけでなく、イスラムの世界をも取り込み、それまでの中国では最大の版図を築く。このときすでに満洲族、モンゴル族、漢族、チベット族、ウイグル族の五族による中国が形成される。いわゆる「五族協和」の原型ともいえる。

 中国においてはマイノリティといえる満洲族が政権を担うわけだから、他民族の扱いには大変な苦心をしたようだ。その一つの表れが「合璧文字」といわれる、一つの言葉に対して複数の異なる種類の文字を用いて表す方式だ。つまり避暑山荘正門の額などは、モンゴル、ウイグル、漢、チベット、満の五体合璧となっている。そうは言いながら、満洲族の習慣である辮髪を強制し、強い反発にあうと即座に撤回してみたり、中国の大半を占める漢族には受け入れがたい施策もあったようだ。

 清朝の歴代皇帝の中でも、第4代康熙帝、第5代雍正帝、第6代乾隆帝の時代が最も清朝が輝きを放った時代だと言われる。歴史的にも重要な事柄が集中しているようだ。西太后や溥儀らの事件も清朝の歴史全体を通してみればほんのちょっとしたことなのかもしれない。

 本書は前半のほとんどを女真(満洲)族が満洲の地で建国し、後に北京に進出し「清」として中国全土を支配するに至った清国の成立過程に費やしている。だから中国にいきなり満洲族の国家が誕生したわけではないことが納得できる。西太后のことなどはほとんど触れていないが、私はこれで満足できる。

 ただ、地図や年表がとても貧弱なため、別に資料を用意せざるを得ないので、これはもう少し配慮がほしかったところである。


2012年05月08日(火) スーパームーン

5日(土曜日)と6日(日曜日)のお月さまはスーパームーンだったそうだ。

スーパームーンは楕円軌道である月の軌道が地球にとても近くて大きく見える月を言うそうだ。普段の月より30%も明るいといいます。確かに一家で「とっても明るくておっきい!」と言いながら騒いでいました。

最初はスマホのカメラで撮影しようとしたのですが失敗したので、デジカメで撮りましたがこの程度でした。夜景モードで撮ってみようとしたのですが、あわてて操作ができませんでした。なさけない。




21日(月曜日)は金環日食が見られる日です。私は八戸赤十字病院の売店で日食用のゴーグルを買いました。こんなところで売っているなんてラッキーでした。八戸地方では残念ながら部分食ですが、最大で8割以上欠けるという予報なのでかなり期待できます。

当日は晴れることを祈ります。

 「モンゴル」ってどんなクニ?
・モンゴル相撲が盛んで日本にも大相撲の世界にたくさんのモンゴルの若者が挑戦している。
・草原地帯が多く遊牧生活をしている人が多い。
・ゲルに住んでおり、定住しない。
・馬に乗る人が多く大草原で競馬大会をする。
などいろいろなイメージが出てくるが、いわゆる国家としての形態をきちんと持っていたのだろうかと、まず最初に思った。

 チンギス・カンが実権を握ると、彼を中心に騎馬民族という機動性をいかんなく発揮してユーラシア大陸を西方へどんどん版図を拡大していく。

 本書には歴史書には珍しく年表が付されていない。なぜであろうか。地図も最初の見開きページで「大モンゴル時代のユーラシア大陸」と題した地図が一つだけだ。これではどうしても別に地図や年表の類のものを用意しないと読みづらい。その他の写真や図面はけっこうな数載せているのだから、地図と年表も関連部部をアレンジして載せてほしかった。そういう意味では少々読みづらかった。

 しかし、大モンゴル帝国「元」としてのモンゴルは、もともとほとんど知識がなかったので初めて知ることが多かった。部族内でのしきたりとか、部族間の抗争で民族のトップが入れ替わる様子とか、目から鱗の状態となった。しかし、これを読んで、なぜモンゴルが急激に台頭し、また急速に衰退していったのかが納得できる気がした。


2012年05月05日(土) やっと春らしくなってきた

みなさん「渤海」という国があったということをご存じだろうか。朝鮮半島付近には高句麗、新羅、百済の三国時代があったのは知っていたが、その後ある時期に「渤海」という国があり、しかも日本と盛んに交流をしていたなんて最近まで全く知らなかった。教科書にもほとんど書いていないらしく、知らないのも無理はない。

朝も4時を過ぎるとだんだん明るくなってくる季節になった。薄暮からもう少し明るくなると雉が鳴き出す。まだちょっと下手くそだ。すっかり明るくなって陽が射してくると、今度は鶯の番だ。「ケキョケキョケキョ・・・」と、こちらも当分の間は練習が欠かせないようだ。

先日ひと雨降ったら、さっそくカエルの鳴き声が聞こえ始めた。さすがにまだ大合唱には至らないが、冬眠から目覚めたばかりの声でゲコゲコとやっている。

数日前、孫たちがカエルの卵を探すと言いだしたが、まだ早いということがピンと来ないらしい。ママが子供のころ、我が家の目の前の田んぼでさんざん遊んでおきながら、いったい何を学んだのだろう。情けない。

 「渤海国」を知っている日本人がはたしてどれほどいるのだろう。本書にもそんな疑問がいたるところに何度も出てくる。朝鮮半島の三国時代における、高句麗、新羅、百済や、その後の統一新羅、高麗や李氏朝鮮などはよく知っているのに、「渤海」となるとまるで知名度が低い。

 何を隠そう実は自分も最近までその存在すら知らなかった。中学の社会の教科書に記述があったかどうかわからないが、習った記憶がない。(上の学校・高専では世界史は習わなかった。)一般に高校の世界史の教科書においても記述はせいぜい数行どまりで詳しく書いているものはないそうだ。

 ところが、この渤海と日本とは当時約二百年の間に、実に三十回以上もの使節のやり取りをしており、立派な国際交流をしていたのであった。それなのにどうして忘れられてしまったのか。主に二つの原因があるという。

 その一つは、渤海が大陸国家であったにもかかわらず、およそ戦争とか征服とかいうことに縁のない平和な文化国家であったこと。

 原因の二つ目は、その跡地にその後千年以上も国家というほどのものが続かなかったことにあるようだ。だから人に歴史地図なしでその国のことを説明することが不可能であり、そのように具体的に捉えることのできない地理的条件が渤海国を認識することを妨げている。

 私は今回この本を読んで、目からうろこが落ちるような、ある意味恥ずかしいような思いに駆られた。これほどに友好的に長期にわたり我が国と交流していた「渤海」という国があったということを、我々日本人は認識すべきである。教科書の執筆にも問題がある。ぜひとも正しいことをきちんと書いて子どもたちに教えるべきだ。

 もともとは放送大学の講座「北東アジアの歴史と朝鮮半島」を受講して、初めて「渤海国」の存在を知った。それまでは本当に何も知らなかったのである。


 最初のページは「大雁塔にのぼってみよう」という文から始まる。西安にある大雁塔には私も登ってみた。一番上の窓からは四角に区切られた整然とした街並みや街路が見え、計画的に作られた街だということが即座にわかる。小雁塔が遠くに見えていた。1984年のことであった。

 長安の都市計画の最大の特徴はグリッドプランを取り入れていることである。(後に我が国においても取り入れている。)方格状街割は土地の授受がし易く、統一的に把握することができた。そこに易経や風水の思想を取り入れて各施設を配置したそうだ。

 8・9世紀の世界都市は、コンスタンチノープル、バグダード、長安が三大都市だった。コンスタンチノープルが放射状、バグダードは円形なのに対し長安は方形であった。それは長安が「都市は、大地を表象する方形の形態をとることによって、大地にかぶさる円い天の中心と、宇宙軸を通して結ばれる」という中国の都市計画の伝統に基づいていたからだという。

 本書の面白いと思ったところは、導入部の第一章でユーラシア大陸の三つの都市(コンスタンチノープル、バグダード、長安)の比較をしている点にある。例えば、いわゆる民族の大移動といわれる現象が、ヨーロッパでのゲルマン人だけでなく、アーリア人の移動、トルコ族の移動、モンゴル族の西への膨張などが挙げられる。また同じ緯度には同じような歴史がやどるそうだ。農耕地帯、牧畜地域、農耕と遊牧が結合した複合地帯などあるが、長安の場合は農業と遊牧の境界線付近に接していることが重要だったという。人々が集まる要素がある、ということなのだろう。

 グリッドプランもさることながら、長安の立地場所が、川もあって道もあり民衆が集いやすい交通の結節点だったということが、長安が大都市として成立する大きな要因であったのではないか。


2012年05月02日(水) 急に暖かくなった

急に暖かくなって、体調が変です。

体調管理に困っている人がたくさんいるのではないでしょうか。
これで梅雨時になるとグッと気温が下がったりして、具合も悪くなるというものです。

特にこちらの八戸地方では、「やませ」と呼ばれる偏東風が吹くと、ひどい時は夏でも気温が20度を下回ったり、稲が稔らないことさえあります。
毎年そうならないことを祈ります。

 放送大学の特別講義「万里の長城に見る中国史」で紹介されたので読んでみることにした。

 わが国では「万里の長城」というが、本家の中国では一般にただ「長城」とだけ呼ぶそうだ。「万里」も実際に長さが一万里あるということではなく、「とても長い」という意味の形容詞として使われている。これらを含めて初めて知ることがたくさんあった。

 長城が作られた第一の目的は北方民族の侵入を防ぐことにあった。彼らは騎馬民族であり機動性に優れ、当時の中国の歩兵はまともには太刀打ちできなかったらしい。

 では誰が長城を作ったのか。「万里の長城といえば秦の始皇帝」というのが一般的だが、始皇帝の時代には既に一部存在したそうである。長く繋がってはいなくても、壁が点在したようだ。だから始皇帝が最初に作ったとはいえないようだ。

 次に「孟姜女伝説」というのがあって、昔は壁の中に罪人や俘虜などの人を埋めたという、いわゆる「人柱」伝説があったが、それは真実ではなかった。仮に人を入れたとすると、その部分は強度が極端に落ちるため、人を埋めることは構造上ありえないのだそうだ。

 そして現在見る長城は明代において充実し今の姿になった。かつて、1984年に北京の八達嶺の長城を見たことがある。最近テレビで八達嶺付近の長城を放映していたが、観光客や物売りがとても増え、歴史遺産というよりはただの観光地としか思えない雰囲気になった。

 二千年にもわたり壁の北と南で攻防が繰り広げられてきたのだろうが、明末に女真族の金が山海関から無血入城し長城の役割は歴史を終える。なんともあっけない幕切れであった。


 初版が出たのが昭和38年、昭和60年に第54版が出ている。放送大学の特別講義で「司馬遷・旅と『史記』」という講義を聴講し、司馬遷という人物に興味を抱いた。

 何といっても彼は宦官であるということ。宦官になったいきさつが、戦で負けた将軍を弁護したため帝の逆鱗に触れ、死刑になるところを自ら願い出て宮刑にしてもらったという。それで死刑は免れた。

 この本は「ある死刑囚のあたえる手紙」という二章にわたる手紙の書き出しで始まっている。ある死刑囚とはもちろん司馬遷のことである。当時の制度では、銭を払って死刑を免れることもできたし、宮刑に変更してもらうことも可能だった。貧乏な司馬遷は金を工面できなかったので、やむを得ず宮刑で手を打った。その後の活躍を思うと、このとき死なないで本当に良かったとつくづく思う。

 第一章の「ある死刑囚に与える手紙」の書き出しから全体を通して物語風で、歴史書というよりはやはり歴史物語なのだろうか。当時の人物が会話をしている場面が多く出てくるが、それが生き生きとそれぞれの場面を浮き上がらせる。

 なにしろ「史記」本体は大変大きな資料なのだから、この新書サイズのようにコンパクトにまとめてもらえると、全体像を把握するのには良いのだろう。


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