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2003年05月30日(金) 特異点

ひどく遠いことのように思えても、
きっかけさえあれば嘘のように近づける場合がある。
でも、きっかけがなければ、遠さは追いつけない。
非連続的に近づくきっかけを得るために連続的な歩みが必要になる。
地道な作業を積み重ねていくしかないということだ。
するとあるとき、突然、それまで見えなかったことが見えるようになる。
……そうなる確証はない。
だが、そうなることをどこかで期待しながら、今を歩いているのだ。

『あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ』
(リチャード・バック)


2003年05月29日(木) Bridge over Difficulties

逃げることなどできない
あなたはどこまでも追って来るって
泣きたいくらいにわかるから
わかるから
(鬼束ちひろ『眩暈』)

自分の負の部分から目を逸らしてもどこにも行けない
困難から逃げ出してもいずれ追いつかれる
それが泣きたいくらいにわかるから
もう泣きたいとは思わない


2003年05月28日(水) Escape from Pain

「そんな寂しそうな顔をしないでくれよ…」


2003年05月27日(火) Theoretical Backing

『貴方は、言葉を駆使して、自分の歩いてきた道を舗装しているだけよ。貴方は、後ろ向きに掃除をしているだけ』(森博嗣『黒猫の三角』)

何かを選択したとき、後からその理由を作り出し、
自分の選択を自分に納得させようとすることがある。
何のためにそんなことをするのか?

「だって、少しは自分を認めたいじゃないか」

(しかしそれよりも、捏造ではない納得を得られるような選択をしたい)


2003年05月26日(月) 科学の方法②

物理を勉強していると、もはや数学と化したかに見えることがあるが、数式の洪水の中から物理的意味を抽出する作業が大事だと思う。でもそれはだんだんと容易なことではなくなってくる。そして、「こんな複雑な数式など現場で何の役に立つ?」と思うようになる。理論物理をやるのならともかく、実験をし、実際に物を創製するという立場に立てば。でも、そのような複雑な数式でさえも、実は自然現象を単純化したもの、人間が理解できるように組み立てられたものなのだ。ときに洗練されすぎており、その発想の飛びについていけないこともあるが、過去の多数の人間の思考の結晶だと思えば、それも無理はない。まあ、単に俺の頭が追いついていないだけの場合もあるのだろうけど、それは訓練して慣らしていくしかない。この道を進みたいのならば、だけど。

『科学の世界では、よく自然現象とか、自然の実際の姿とか、あるいはその間の法則とかいう言葉が使われるが、これらはすべて人間が見つけるのであって、その点が重要なことである。実態を見つけたといっても、それは科学が見つけた自然の実態である。従って、それは、科学の眼を通じて見た自然の実態なのである。自然そのものは、もっと違ったものであるかもしれないし、たぶんずっと違ったものであろう。しかしながら人間が見る以上は、人間の眼を通して見る以外には道がないように、科学が自然を見るには、科学の眼を通じて見るより仕方がない。別の言葉でいえば、現在の科学に使われているいろいろな考え方、すなわち科学の思考形式を通じて自然を認識し、その上に立って、科学がつくり上げられている。その思考形式としては、ものを分析したり、またはそれらを綜合したり、あるいは因果律に従って、順序を立てたりするようなやり方がある。それから統計の結果を見る時には、確からしさ、すなわち確率(プロバビリティ)という見方によって、結果を判断する』(中谷宇吉郎『科学の方法』)


2003年05月25日(日) 科学の方法

新しいことを発見するためには、既存の知識に囚われない自由な発想が大事だとよく言うが、しかしそれは既存の知識を知らないほうがいいという意味ではない。すでにある知識を応用することで、新しい発見ができる。全く何もないところから発想するのはほぼ不可能だ。中にはそれができる人もいるのかもしれないが、俺には少なくとも無理だろうと思う。だからこそ、学ぶべきことがたくさんある。発想の「飛び」を得るにはまず土台がいるのだ。(もちろん、その土台を盲信してはいけないが)

『電気及び磁気の場が、cの速度で伝播していくことを、数式が教えてくれたことは、まことに驚くべきことである。ところがこの数式は内容的には、エールステッドの法則と、ファラデーの法則、すなわち(1)式及び(2)式とほぼ同じものである。ただ仮定が少し加わっただけで、本質的には、そうちがわない。そうすると、電磁波の存在は、エールステッドの法則と、ファラデーの法則との間に隠されていたことになる。しかしどんな大天才でも、この二つの法則の中から、電場、磁場は、空間を波として伝わっていくものだということを、かぎ出すことは不可能であろう。それは、マックスウェルほどの頭脳をもってして、数式によって展開してみて、はじめてわかったことである。数学というものは、人間の頭の中で作られたものではあるが、それは個人の頭脳でつくられたものではない。たくさんの数学者の頭脳で作られたものであって、いわば人類の頭脳がつくったものである。そういう一種の超人であるところの数学の力を借りて、はじめてエールステッドとファラデーの二つの法則から、電波の存在が予言できたのである』(中谷宇吉郎『科学の方法』)


2003年05月20日(火) イン ザ・ミソスープ

何かについて真剣に話そうとすると、「重い」と思われることがある。
もちろん場の雰囲気というものがって、「重い」話題をするべきではないケースもあるだろうが、そもそもの「ずれ」は、その「重い」ことが俺にとっては「重くない」という場合に感じる。
つまり、「この程度も話さないのは逆に「軽すぎる」」と俺が感じるときがある。
「重い」ものは極力避けて、「軽い」ことだけを与えてくれる人に囲まれて、それで満足だろうか。もし満足なら、それはまさに幸せなことだと思う(皮肉ではなしに)。あるいは、「満足」の定義が俺とは違うのかもしれない。
「ずれ」を縮める試みをする一方で、このままでいいと思う部分もある。自分を無理に曲げても仕方がない。無理に曲げるということと、歩み寄るということの境目を見極めることが大事だ。ただ、一つ重要なのは、歩み寄りは一方的では達成できないということだ。

『自分には一流品しか似合わないのだとマキは本気で思っている。ジュンコシマダの白いドレスは当たり前だがまったく似合っていない。似合わないことを言ってくれる友達なんかひとりも持っていないし、そういう人間は周りにいても常に遠ざけてきた。自分には何らかの価値があるのだと思わなければ人間は生きていけないのだと、いつか精神科医みたいな人がテレビで言っていて、それは正しいのではないかとおれは思った。自分には何の価値もない、生きていても誰の役にも立っていない、そう思って生きていくのはつらい。(中略)自分には何か価値があるかという問いを早々と放棄した顔をしている。(中略)彼らには共通した特徴がある。何かがすり減ってしまったような顔をしているのだ』(村上龍『イン ザ・ミソスープ』)


2003年05月18日(日) What's in a name?

名前ってなに?
バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香りはそのまま
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』)

様々な名前がある。
性別、国籍、人種、民族、職種、子供・大人、正常・異常……etc.
名前が本質なのではない。
でも、名前を判断材料に(意識するにしろしないにしろ)加えることがある。
それは処理容量の節約のために人間の脳がそうなっているのかもしれない。
そういう行動情報学の見解もある(これは「行動情報学」という名前による権威付けだが)。
あらゆることに対して偏見なしにきっちりと考えていると、処理しきれない。
だけど、ときにはそれをやめて思考することも大事だ。
あらゆることに対しては無理でも、いくつかのことについては可能なのだから。

ときどき、俺のバックグランドを聞いて俺をある種の典型的で陳腐なカテゴリーに当てはめようとする人がいて、そのことに対する不快感から来る考えでもある。
だけど、おそらく、俺も自分が気づかないところで誰かに対して同じような不快感を与えたことがあるのだろうと思う。
そういうことを認識するところから始めていったいどこまで来れただろうか。
そしてこれからどこまで行けるだろうか。
もしかしたら、年を経て様々な知識を蓄え経験を積むにつれ、こういったことについては退化していくのかもしれない、とも思う。
より単純に物事を割り切ることで、膨大に膨れ上がった日々の情報をなんとか処理している。そんな自分になっていくのではないだろうか。すでになっている部分があるのではないだろうか。なぜなら、普通(「普通」という名前は便宜的なものだが)に生きていく限り、受け取る情報量は増えていくからだ(ただし、量は増えても密度(新鮮さ)は減っていく。だから、より単純に処理するようになる)。
単純化というのは人間が獲得していく能力の一つであり、必要なことでもあると思う。
ただ、必要なことがいつも適切なことだとは限らない、というだけのことで。

『大人になるほど、どんどん単純に向かうんだよ』
(森博嗣『数奇にして模型』)


2003年05月13日(火) せめぎあう時間たち

新しいことを多く始めたとはいっても、今までのことの維持もしなければならない。
正確にいうと、維持したいと思うことについてはそう努める、ということだけど。
(もっとも、したくなくても維持しつづけなければならない事柄というのもあるだろうが)
幸いにして、しばらくは新しいことも今までのことも共にこなせる時間がある、と思う。
問題は秋以降だろうな。
夏以降、特大の新しいこと(卒業研究)がやってくるからだ。
これは俺が待ち望んだことでもあるのだが、
はたしてその期待に見合う結果となるかどうかは、
蓋を開けてみないとわからない。

どうなるかわからないが、退屈はしなさそうだ。


2003年05月12日(月) 未知との遭遇

最近、新しく始めたこと、それに付随する新しい人との出会いが多い。
新しい名前が多すぎてなかなか覚えられない。顔だけは覚えるのだが。
はたして、この中でどれくらいの人と長い友人になれるのか。
そもそも新しく始めたことを俺はいつまで満足に続けることができるのか。

どうなるかわからないが、退屈はしなさそうだ。


2003年05月09日(金) 見るまえに跳べ

「自分がつきたい仕事(研究職)がたとえ狭き門だとしても、その道で一番手になりさえすれば、絶対にそのポストを手に入れられる。一番手とまでいかなくても、せめて五指には入れるようになれば。できないはずはないという気持ちでがんばってください」

という内容の助言(励まし)を研究の指導教官から頂いた。
かなりモチベーションが上がった。
でも実際に研究が始まるのはまだもう少し先のことなのだけど。
その前に院試を片付けなければならない。
もう少し先に始まる研究をさらに次へとつなぐための前提として。

『そもそも命を懸ける、などという表現がおかしい。生まれたときから、誰でも命懸けなのだから』(森博嗣『有限と微小のパン』)

『君は、科学がただの記号だって言ったけど、そのとおりなんだ。記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう? そうしないと、新しい不思議が見つからないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっとすごい不思議に出会えると信じてね……』
(森博嗣『幻惑の死と使途』)


ちなみに、俺は別に好奇心だけから研究をするつもりなわけではない。研究して、そして成果を挙げるということが、俺にとって社会で生きていく「武器」になるだろう、という認識もある。生きていく上では何か自分の武器が欲しい。それに研究を選んだということだ。でも、もちろん、それだけではなく、面白そうだ、という期待も大いにある。ただ、面白いだけではなくもっと先まで計算しないと、その面白いことを続けることもできなくなってしまうのだから、ある程度の打算も必要だと思うのだ。



2003年05月05日(月) 永遠の向こうへ

今僕のいる場所が
探してたのと違っても
間違いじゃない
きっと答えは一つじゃない
何度も手を加えた
汚れた自画像に ほら
また12色の心で
好きな背景を描き足してく

いろんなこと犠牲にして
巻き添えにして
悦に浸って走った自分を
時代のせいにしたんだ
「もっといいことはないか」
って言いながら
卓上の空論を振り回してばかり
そして僕は知ってしまった
小手先でやりくりしたって
道をつかまえられはしない
(Mr.Children『Any』)


僕は汚れたことに絶望しない。
というか、汚れずに生きていくことなどできはしない。
みんなどこかで汚れていく。
そうやって自画像が出来上がっていく。
それなりの年数を生きてきて、
自分は真っ白だ、というのは、
ただの嘘か、そうでなければ、
綺麗なものしか見ようとしてこなかったのだろう。
(そうではなしに本当に純白の人間がいるのなら、皮肉ではなしに会って話をしてみたい)

小手先でやりくりすることをやめるということは、
汚れることを恐れない、ということでもある。
綺麗なことだけで道をつかまえられはしない。
おそらく、ほとんどの場合において。
それは他の誰かを犠牲にしてでも、
という意味ではないけれど、
自分の何かを犠牲にすることは必要なときもある。
あれもこれも手にいれることは非常に難しいし、
僕はそこまで傲慢でもない。
これはただの諦めだという意見もあるだろうが、
何かを手に入れるために別の何かを潔く捨てることもときには必要だ。
それが、選択する、ということ。
(何も失わずにいつづけられる永遠などないし、何も変わらない永遠などいらない)


2003年05月02日(金) いつか終わる夢

強くなければ生きていけない。
愛がなければ生きていく資格がない。
(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』)

『君は僕を買ったんだよ、テリ-、何とも言えない微笑やちょっと手を動かしたりする時の何気ない仕草や静かなバーでしずかに飲んだ何杯かの酒で僕を買ったんだ。今でも楽しい思い出だと思っている。君との付き合いはこれで終わりだが、ここでさよならは言いたくない。ほんとのさよならはもう言ってしまったんだ。ほんとのさよならは悲しくて、寂しくて、切実な響きを持っているはずだからね』(レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』)


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