女の世紀を旅する
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2007年01月26日(金) 古代ローマの歴史と文化 (2)

<4>帝政ローマ 前27-後395



ローマの平和(パックス・ロマーナー Pax Romana)(前27~後180年 アウグストゥス時代から五賢帝時代までの200年間の繁栄時代)


◎元首政(プリンキパトゥス):前期帝政  前27-後284 

・オクタヴィアヌスは,共和政の伝統である元老院を残しながら、実質的には「市民の中の第一人者(プリンケプス)」を自称し,統治した。その実質は皇帝独裁体制で,事実上の帝政にほかならない。、プリンケプス(元首)は皇帝と呼びうるほどの絶大な権力を持っていたので、プリンケプスの支配する政治,すなわち「プリンキパトゥス」(元首政)の成立をもって、帝政ローマが開始される。


●初代皇帝アウグストゥスの時代 前27-後14

・前27 元老院はオクタヴィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号と属州の半分の統治権を与える。
・アウグストゥス(即ちオクタヴィアヌス)は政治・軍事の全権を掌握し、皇帝支配の基礎を築く。


●後1世紀の諸皇帝  14-96
・ティベリウス
・カリグラ
・クラウディウス
・ネロ→キリスト教徒弾圧(64)
・ウェスパシアヌス
・ティトゥス
・ドミティアヌス


●五賢帝時代 96-180   ローマ帝政の黄金時代
・ネルヴァ(位96-98)
・トラヤヌス(位98-117):ダキア(ルーマニア)を征服し,帝国の版図は最大へ
・ハドリアヌス(位117-138):ブリタニア北部に長城を建設。帝国最大の平和を実現
・アントニヌス・ピウス(位138-161)
・マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161-180):ストア派の哲人皇帝。『自省録』


・イタリア半島の地方都市や属州の出身者が政界に進出

・皇帝の事務行政が膨大になるり,元老院は無力化、共和政の要素は弱体化。

・ローマ風都市の建設:ヴィンドボナ(ウィーン)、ルテティア(パリ)、ロンディニウム(ロンドン  ),コロン(ケルン)などの建設

・季節風貿易:インド(サーターヴァハーナ朝)、中国(漢)などとの海上貿易盛ん。絹、香辛料、宝石などをアジアから輸入。紅海・インド洋上の交易にはギリシア人が活躍(『エリュトゥラー海案内記』)

・属州を経済的に搾取


●危機の3世紀(軍人皇帝時代)

・212 カラカラ帝、アントニヌス勅令を出す:帝国内の全自由民にローマ市民権を付与。万民法の成立

・235-284 軍人皇帝時代:26名の軍人出身の皇帝が乱立(各地の軍団がそれぞれに皇帝を擁立して争う)。ディオクレティアヌス帝によって終止符が打たれる

・ゲルマン人の侵入、ササン朝ペルシア(第2代シャープール1世がローマの軍人皇帝ヴァレリアヌスを破り,捕虜とす)との対立、軍事費増大が財政難を招く




◎専制君主政(ドミナトゥス)の時代(284~):後期帝政 

・形式的にも実質的にも皇帝独裁が確立


(a)ディオクレティアヌス帝(位284ー305)  ペルシア風の専制君主政の開始.元老院を廃止し,専制君主政(ドミナトゥス)を開始


・四分統治の開始:正帝2名、副帝2名、合計4人で帝国領土を分割。自らは東方正帝として首都を小アジアのニコメディアに置く

・軍事力の強化:兵役の義務付け、皇帝直属の機動部隊を編成

・ペルシア風の宮廷儀礼や皇帝崇拝を採用:皇帝崇拝拒否を理由にキリスト教徒に大迫害を加える



(b)コンスタンティヌス帝(位306ー337) 四分統治をやめて帝国を再統一

 313 ミラノ勅令:キリスト教を公認

 325 ニケーア公会議:アタナシウス派(三位一体説)を正統。イエス人性説をとるアリウスは異端として追放されたが,のちに西ゴート族・東ゴート族などのゲルマン人に広まる

 330 コンスタンティノープルに遷都:ギリシア人植民市として成立したビザンティウムに都を移し,皇帝の名をつけてコンスタティノポリスと改称。(現トルコのイスタンブル)帝国の重心は東方ギリシア世界に移り,帝国の東西分裂化を促進

337 皇帝自ら洗礼を受けキリスト教徒となる



(c)ゲルマン人の侵入

・375 西ゴート族がドナウ川を越えてローマ帝国領内に侵入⇒ゲルマン民族大移動の開始

・378 アドリアノープルの戦い:西ゴート族はバルカンに南下し,ローマ軍を破る


(d)テオドシウス帝(位379-395)

・382 西ゴート族を「同盟部族」としてローマ領内への定住を認める

・392 キリスト教を国教とす:ギリシア発祥の神々を異端とす

・395 テオドシウス帝の死去、帝国の東西分裂

⇒長子アルカディウスに東ローマ帝国(ビザンツ帝国.395~1453)⇒次子ホノリウスに西ローマ帝国(395~476)を割譲



●ローマ帝国衰退の要因

・奴隷制大農場(ラティフンディウム)の衰退→イタリア半島の経済的地位の低下につながる

・”ローマの平和”による奴隷流入の減少

・属州でのブドウ、オリーブの生産

・小作人制大農場経営(コロナートゥス)への移行:半自由民である小作農民(コロヌス)による生産 

・都市市民への重税。商業・貿易の衰退

・傭兵のゲルマン人化
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●<5>ローマの文化 

<特徴>ギリシア文化の模倣。法学や土木建築など実用面ですぐれる。

<宗教>多神教。が、後期にはキリスト教が広まる。

<文学>

叙事詩 ヴェルギリウス(ローマ建国叙事詩『アエネイス』)、
叙情詩 ホラティウス(『叙情詩集』)、オヴィディウス(『転身譜』)
散文  キケロ(『国家論』『友情論』)

<哲学>

ストア派 セネカ(ネロ帝の師.『幸福論』)、エピクテトス(『語録』)、マルクス・アウレリウス帝(哲人皇帝.『自省録』)


<歴史>

ポリビオス『ローマ史』(政体循環史観) ギリシア人捕虜.小スキピオに厚遇される

リヴィウス『ローマ建国史』 初代皇帝アウグストゥスの厚遇をえて執筆

タキトゥス『ゲルマニア』 古ゲルマン研究の重要史料

カエサル 『ガリア戦記』 簡潔な文はラテン文学の最高峰とされる

プルタルコス『対比列伝』(『英雄伝』)ギリシア・ローマの英雄を比較



<自然科学> 

プリニウス『博物誌』 ヴェスヴィオス火山の噴火(79)に際し,殉職

プトレマイオス『天文学大全』 地球中心の天動説を提唱したギリシア人天文学者

ストラボン『地理誌』 小アジア出身のギリシア人地理学者


<法学>

ローマ法は近代ヨーロッパ法に多大な影響.市民法から万民法へ

534 東ローマのユスティニアヌス帝『ローマ法大全』を編纂(法学者トリボニアヌスらが従事)


<建築>

軍用道路(アッピア街道)、水道橋(ガール水道橋)、公共浴場(カラカラ帝など)、円形闘技場(コロッセウム)、凱旋門(トラヤヌス帝とコンスンンティヌス帝のものが有名),パンテオン(万神殿),フォルム(ローマ市の中央広場)


<その他>

ユリウス暦→カエサルが改良した太陽暦.1582年からグレゴリウス暦へ

ラテン語とローマ字の普及→ヨーロッパ各国の言語に影響(特に旧ローマ帝国領内の国、フランス、スペイン、イタリア、ルーマニア、イギリスなど)

ミトラ教→ペルシア起源の密儀宗教。光明神ミトラを崇拝。帝政ローマ期に霊魂の救済を熱望して一般大衆の間に大流行した。


2007年01月21日(日) 歴史探訪: 古代ローマの歴史と文化 (1)

歴史探訪:古代ローマの歴史と文化




塩野七生(しおのななみ)さんの渾身の力作『ローマ人の物語』が昨年末に完結したが,この本を読むには約1200年続いた古代ローマの歴史のアウトラインを押さえておくことが必要となる。ローマ史は王政→共和政→帝政の順に政体が変遷したが,大きく区分すると,前半の500年間が共和政,後半の500年間が帝政に区分することができる。




ローマ帝国の滅亡はゲルマン人の侵入で滅んだという通説は今ではくつがえされている。帝国衰退のひきがねとなったのは,経済的衰退が原因となっているのは論をまたない。他方,スペインの社会学者・哲学者オルテガ・イ・ガセットは,文化的な面からの野蛮化という面白い指摘をしている。


「(人間と動物の違い)自己自身であるところの人間,自己沈潜している人間は,一般に言われているように,常に自己を堅持している者である。それゆえ,自分を決して手放さないし,身失いはしない,また 自分の存在が自分を忘れること,つまり自分でないものに変わってゆくことに我慢ならないのである。周囲の事物,もしくは他人の意見に,引きずられるままにになっているとすれば,私はもう自分自身であることを止め,他者化におちいったのである。他者化した人間,自己疎外の人間は,その正真性を失い,偽りの生を生きているのである。

 自己沈潜および他者化については,人間と動物をくらべればそれが何であるか明らかである。実際,私は,もう何年も前に,ある晴れた日,マドリードのレティロ公園の猿の檻の前に立ったときに,この重大な真理が明瞭となったのである。あらゆる生物において,その機械的本能の中で,もっとも重要なのは「注意力」である。われわれは,われわれの注意力の赴くところにいる。

それゆえ,私は何度も言ったことがあるが,「あなたの気づくことを言ってごらんなさい。そうすればあなたが何者であるかを当てましょう」。レティロ公園の猿を前にして,どうしてこの猿は,一瞬たりとも彼の物理的な周囲,つまり景色に目を注ぐことをやめないのであるかよく考えた。彼の周囲に起こるあらゆる変化に,まるで憑かれたように,一つ一つ注意を払っている。人間だったら,自分の周囲にこのように休みもしないで注意を払い,それに捕らえられ,引きつけられてしまっているのでは,ものすごく大変なことだろうと,私は考えた。

人間は,少なくともしばらくは,自分自身の方へ注意力を引きつけ,注意の方向を動物とは逆に向けるのである。非常に単純に見えるこの能力が,人間を人間たらしめているのである。この能力のおかげで,外部つまり外界の景色に背を向け,それから逃れ出て,自分の内部に入り込むことができるのである。動物は常に外にいる。つまり動物とは永遠に他者なのである――周囲の景色である。自分の家,自分の内部を持たない。したがって自分自身を持たないのである。したがって,周囲世界から静かに,干渉なしに,ほっておかれた場合,動物はもう何ものでもなく,存在することをやめ,寝入ってしまうのである。存在するときは,常に自己疎外の中,永遠の不安と他者による侵害の中に存在するのである。

その反面,人間には,必ずしも自己の外,世界の中にいなくてもよいようにされている。「世界から引き下がっていること」,そして自分の中に引き籠(こも)って,自己沈潜している動物なのである。こういうことから,注意力の変化の跡をたどるだけで,人間の人道化が描いた上昇,下降の曲線そのものを人間の歴史上に印すことができよう。

過度の不安,凄まじい動揺の時代は,人間を自然の中へ引き落とし,動物化させ,野蛮化させる。この過程は,われわれがよく知っている歴史上最大の危機つまり古代ローマ世界の末期に,深刻な形で起こったのである。ローマ文化の中でも,特にあのアントニウス家の世紀に,ストア派の長いひげを生やした哲人皇帝,マルクス・アウレリウス帝(五賢帝最後の皇帝)が,当時では最良の人間であった彼が,『自省録』と題して一冊の本を著した,あの時代が,ひょっとしたら人類が今までに生きた中で最も高い時代であったかもしれないのに,すぐその後に,野蛮時代が続いたのである。

今日,われわれがすでに知っているように,あのローマ帝国末期の残虐な危機は,文化面への蛮人(ゲルマン人)の侵入で起こったのではなく,反対に文化人が蛮人になったということから起こったのである。のちのルネサンスの危機にもこの兆候が欠けていなかった。私自身の世代の直前の世代が,熱狂的に「 ルネサンス人」と呼んだ者は,さしあたって,再野蛮化した人間なのである。チェザーレ・ボルジアは,一つの古い文化の真ん中に突然咲き出した野蛮の典型的なタイプであった。それは「行為」の人間であった。歴史上では,行為の人間が現われ,人々が彼について話し,彼のご機嫌を取り始めると同時に,再野蛮化の時代がやってくるのである。(オルテガ『危機の系譜』(荒木優子訳)理想社)





◎塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読むのに欠かせないローマ史のアウトラインを下記に記載しておきたい。

【目次】
<1>王政ローマ 前753(伝説)-510

<2>共和政ローマ 前510-27
①初期共和政 前510-367{パトリキ(貴族)がプレブス(平民)を支配}
②中期共和政 前367-122{ノビレス(新貴族)の支配}
③後期共和政 前121-27 「内乱の一世紀」(閥族派と平民派の争い)

<3>キリスト教の成立と発展

<4>帝政ローマ 前27-
①元首政(プリンキパトゥス):前期帝政  前27-後284
②専制君主政(ドミナートゥス):後期帝政 284~395(帝国の東西分裂)

→西ローマ帝国(395‐476)と東ローマ帝国(395‐1453)に分裂
※ ローマ帝国の滅亡は395年とされているが,西洋では一般的に476年の西ローマ帝国の滅亡をもって,古典古代としてのローマ帝国が終焉したとみなしているようだ。


●<1>王政ローマ 前753?-510 
*前753? 都市国家ローマの成立、ロムルスがティベル川流域にローマを建設

・イタリア人の一派ラテン人(インド・ヨーロッパ語族)
・エトルリア人(民族不明)の王がラテン人のローマを支配


●<2>共和政ローマ 前510-27

①初期共和政 前509-前367{貴族共和政} 

・前509 ラテン人のローマがエトルリア人の王を追放して王政を打倒、執政官(コンスル、任期1年、定員2名)が支配する共和政を開始

・三身分 貴族:元老院(立法機関)、2名の執政官(コンスル)
     平民:平民会
     奴隷
・パトリキ(貴族):元老院、コンスルなど高等官職を独占
・プレブス(平民):平民会(のち護民官を選出)

・前494 身分闘争始まる:平民が貴族政に不満。参政権を要求。
護民官の設置:平民会から選出。貴族の元老院・執政官の決定に対し,拒否権を持つ
・前450 十二表法の制定:ローマ最古の成文法(旧来の慣習法を成文化)
・前367 リキニウス・セクスティウス法:コンスル2名の内1名は平民      より選出
・前287 ホルテンシウス法:平民会の決議は元老院の承認なしに国法となる。貴族と平民の法的平等が達成。しかし,政治の実権は新貴族(ノビレス)が握り,ギリシアのような完全な民主化は実現されなかった



②中期共和政 前367-122 {新貴族(ノビレス)支配の時代} 

<前半>前367-前264:イタリア半島征服事業

・イタリア半島統一→平民の重装歩兵が活躍→平民の政治的発言力が向上
・ノビレス(新貴族):パトリキ(貴族)と富裕なプレブス(平民)出身者。
・前272 イタリア半島を統一:南伊のギリシア植民市タレントゥム攻略

★イタリア半島の経営:軍道の建設、植民市・自治市・同盟市の設置
〈分割統治〉征服したイタリア都市相互の団結とローマへの反抗を防止する目的.異なる権利を与えることで,仲たがいさせる戦略。(19~20世紀 イギリスがインド帝国でも採用)

・植民市=ローマ市民と同様に,完全に市民権を付与
・自治市=私法上の市民権は認めたが、軍事・裁判上の市民権は認めず
・同盟市=同盟関係のみ。自治権・市民権なし、軍隊はローマに奉仕(のち市民権を求めて同盟市戦争をおこし,市民権を獲得)



<後半>前264-前122:地中海支配をめぐってカルタゴと戦争

★ポエニ戦争 前264-前146  
・ローマ対カルタゴ(フェニキア人の植民市.現チュニス)の対立:地中海貿易をめぐって
(原因)地中海貿易の実権争い(当時ローマは農業国から商業国へと転換)

☆(第1次ポエニ戦争)前264-前241
・ローマの勝利、シチリア島を奪い,属州(プロンヴイキア)とする

☆(第2次ボエニ戦争)前218-前201(ハンニバル戦争)
・カルタゴの名将ハンニバルがローマ軍を撃破(アルプス越え)(カンネーの戦い 前216)
・ローマの将軍スキピオがハンニバルを破る(ザマの戦い 前202)
・その後、停戦。カルタゴは貿易国として再び繁栄→ローマを再び脅かす

☆(第3次ポエニ戦争)前149-前146   
・スキピオの孫の小スキピオがカルタゴを滅ぼす。

*地中海沿岸の征服(地中海貿易支配の確立)、属州の拡大
・属州の獲得、経済的搾取はじまる→ローマ帝国への第一歩
・ヒスパニア(前197)、マケドニア(前148)、ギリシア(前146)、小アジア(前133)がローマの属州へ


★イタリア半島の情勢(ポエニ戦争後のローマ社会)
・中小農民が没落(奴隷制大土地所領であるラティフンディアの発展,属州からの安価な穀物の流入が原因、長年の従軍で土地疲弊)。遊民(無産市民)となりローマ市に流入、農民の没落で重装歩兵が弱体化(国防力の危機)

・属州から奴隷が大量に流入→奴隷制の発展、奴隷の反乱があいつぐ。(前135‐前132シチリアの奴隷反乱)(前73‐前71 剣奴スパルタクスの反乱など)

★グラックス兄弟の改革 前133-前122 自作農の再建をはかる
・兄ティベリウス・グラックス 前133、護民官に就任。元老院を支持する閥族派によって暗殺される
・弟ガイウス・グラックス 前122、護民官に就任。閥族派の反撃を受け,自殺

・改革の目的:大土地所有者の土地所有面積を制限、その制限を越える土地を没収、その土地を没落農民 層に分配。
・グラックス兄弟の改革の失敗後,「内乱の一世紀」が開始


③後期共和政 前121-後27 

★「内乱の一世紀」(前121‐前78) 
*閥族派(オプティマテス.元老院が基盤)と平民派(ポプラレス.平民会が基盤)の抗争が展開 

・前107-104 マリウス(平民派)の執政官(コンスル)時代:軍制改革。無産市民を集めて武装させ私 的軍団を編成(職業軍人制)
・前83-79 スラ(閥族派)の独裁官(ディクタトル)時代、元老院支配をめざし独裁政治を実施。同盟 市戦争(前91‐前88)を鎮圧


★ポンペイウス時代 前77-前60  スラの後継者として閥族派を指導
・前73 剣奴スパルタクスの反乱:将軍ポンペイウスとクラッススが10万人の奴隷反乱軍を鎮圧
・前64 セレウコス朝シリアを滅ぼす:属州シリアの成立
・前60 第1回三頭政治:ポンペイウス(閥族派)、カエサル(平民派)、クラッスス(騎士階級)の3人の将軍が元老院を無視して,寡頭政治を開始


★カエサル時代 前59-前44  マリウスの後継者として平民派を指導
・前59 執政官(コンスル)に就任
・前58 ガリア遠征の開始:ガリア(現在のフランス)を征服
・前49 北イタリアのルビコン川を越えローマ進軍:元老院と結んだポンペイウスを破る,のちポンペイウスはエジプトに逃れたが暗殺される
・前45 終身の独裁官(ディクタトル)に就任:属州の徴税請負人の廃止、元老院はカエサルにインペラトルimperator(凱旋将軍への称号)を贈る。のちの帝政時代に皇帝の公称として用いられる。
・前44 ブルートゥスら共和主義者(元老院派)により暗殺される


★アントニウスとオクタヴィアヌスの抗争 前43-30
・前43 第2回三頭政治:レピドゥス、オクタヴィアヌス(カエサルの養子)、アントニウス(カエサルの部下)の三人が政権を独占
・前36 レピドゥス失脚
・前31 アクティウムの海戦:オクタヴィアヌスがアントニウス、クレオパトラ(プトレマイオス朝エジプト最後の女王)連合海軍をギリシア西北海岸沖で破る
・前30 クレオパトラ死、プトレマイオス朝滅亡(ヘレニズム時代の終了)。ここにローマの地中海制覇が完了

 前27 オクタヴィアヌスがローマ帝政を開始。

彼は元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈られるたので,初代のローマ皇帝はアウグストゥス帝から始まる。

ただし,彼は養父カエサルが元老院を無視し,共和政の伝統を破壊したため暗殺されたことにかんがみ,元老院(共和政の象徴)を存続させ,元老院とプリンケプス(市民の中の第一人者.オクタヴィアヌスはこの称号を名乗った)の共同統治という政治形態を採用した。このため,彼の始めた帝政を一般にプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。

こうしてアウグストゥス帝からの200年間,「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と呼ばれるローマ帝国の繁栄時代が現出することになる。



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