気ままな日記
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朝から保健所の電話や、ファックスの着信音がひっきりなしである。 理由は、「中国ギョーザ」。 今回は、賞味期限や原材料の偽装表示といった実害の無かったものとはわけが違い、報道も、消費者もお尻に火がついたよう。ニュースの見出しは、ずばり「毒ギョーザ」。これでは、人々の不安感を煽るようなもの。 かくいう私も、問題のひとくち餃子は数回購入、豚肉の野菜巻きは、息子のお弁当に入れた記憶が……。 おなかをこわしたことは過去にあるけれど、因果関係は不明。いつごろ食べたかも覚えていない。 職場の担当者によると、問い合わせの多くは、この時期に流行る感染性胃腸炎の可能性だってあるとのこと。すべての体調の悪さが、今回のギョーザ関連の食品と結び付けられているようだ。 かつての狂牛病騒ぎや、鳥インフルエンザ騒ぎが思い起こされる。当時は、ビーフエキスと書かれた食品は、片っ端から廃棄した。道ばたで弱った鳥が見つかっただけで、じゃんじゃか電話がかかってきて、処理に当たる職員も、完全武装に完全消毒で臨んだそうだが、最近では慣れたのか、消毒もおざなりとか。 熱しやすく冷めやすいわたしたち。 冷凍食品は、調理の手抜きをしたいわたしにとって、まさに蜜の味。しかも安い。 わざと農薬を混入した人間がいるにせよ、製造過程で恒常的に混入しているにせよ、原因がはっきりしないうちは、手抜きはせずに、ちゃんと料理作れよ! ということでしょうか。
昨日は、一向に治らないドライアイを治療すべく眼科へ行く。 ここ数週間の冷え。暖房からの熱風を浴びるほどにしないと、ちっとも温まった気がしないので、皮膚は乾燥でぱさぱさ。その影響が目にも来た。 ただ単に目が乾いているだけではなく、表面が傷だらけになっているとのこと。目の拡大映像で主治医が説明してくれた。 この症状は加齢によって、今後増していくらしい。 以前年上の友人が、具合が悪くて医者に行くと、なんでもかんでも、「加齢によるもの」として片付けられるの、と嘆いていたのを思い出す。 その兆候は、近眼の度の強い目にまっ先にあらわれた。ちょっとやそっとのまばたきでは、涙が出てきた感じはせず、つい、目をぎゅぎゅぎゅっと絞るように閉じることが多くなった。 さて目を潤す方法は? と考えて、効果てきめんだったのは、悲劇的なストーリーの組み立て。悲しい話の主人公に自分を仕立て上げる。涙が湧き出て、潤う潤う。目薬10滴分。 気を良くしたあとで、ふと鏡を見ると白髪がちらほら。カッと目を見開きまばたきもせず、一本一本抜きだしたら、もうこれがやめられない止まらない。せっかくの”うるうる目”は、もとの木阿弥。
老いを美しく、という言葉がある。 老いに美しいもへったくれもない。老いは老い。不便だし、見苦しいことが多くなるのは事実。ついつい独り歩きしている言葉に踊らされ、そうした事実に目を背け「忌み嫌うべきもの」として排除したくなる。 それこそが問題。 「あーん、貴重な黒い髪も一緒に抜いちゃった~」などと鏡に向かって、じたばたじたばたしながらそう思うのでした。
先日事務所に、以前の職場で直属の課長だったM氏が、所用で訪ねてこられた。定年退職後、現在は非常勤職員として、関係機関に勤務しているという。 「やああ、元気でやってる?」などと、相変わらずのM氏節は顕在。しばらくの間、近況報告などさしさわりないことを話す。かつての上司・部下関係も、このように、ひとたびその関係がなくなると、なんとなくくつろいだ雰囲気の会話が進む。 が、こういった時に、話しながらも内心ひそかに困惑することがある。それは、相手の呼び名。課長だった当時は、当然「課長」または「M課長」と呼んでいた。しかし、それはあくまでも、組織内で上下関係があった間の、便宜上の呼称。今は、それがない。彼の方に、新たに先生だの何だのと、新たな肩書きが付いたわけでもない。 そうかといって、ただ「さん」付けで呼ぶのも、なんだか気安過ぎるような気がする。 これは、昔は職場の先輩だったけれど、今じゃ、親しい飲み友達関係、という場合にも言えること。うちとけて話しながらも、やはり心のどこかで、「相手は先輩」ということを意識していて、語尾につい、「ですます調」がちらちら顔を出す。 それはささいなことに違いなく、相手に伝わるほどではないにしても、今一歩よそよそしい感じや、微妙な距離間を生み出しているような気がする。
ここ2,3日底をつく寒さ。 横着者のわたしとしては、特段の用事がないと、こんな日は家の中にずっと冬ごもり状態となる。 昨夜テレビ東京で、”湯治の旅”特集を放送していた。いわゆる旅番組というものを、わたしはめったに見ないのであるが、どういう心境の変化か見る気になった。 全国の秘境(といっても、放送直後から秘境ではなくなるのですが)の湯治場と、そこで働く方たちへのインタビュー、通ってくる方たちの事情をナレーターが紹介していくというおなじみのパターン。 もうもうと湯気のたつ露天風呂、こたつ、入浴後の昼寝。みんなで持ち寄った惣菜、大根を輪切りにして煮た料理。 一歩外に出ると、しんしんと降り続く雪。道を覆い、自動車にこんもりと積もった雪。 外の冬と中のぬくもりの対照に、最後まで見とれる。
さて、冬ごもりも2日が限度。連休最終日の今日は、近くのスーパーまで、出向く。その格好と言えば、室内着の上に、パジャマ3点セットに付属してくるチョッキを重ね、マフラー、手袋、厚手の靴下のそろい踏み。そしてダウンジャケットで仕上げ。暖かければそれで良し。 店の入り口にある花屋で、花を売っていた。切り花をまとめたものや、鉢植えもの。チーリップをはじめ、黄色、ピンク、白…。店内にもカラフルな商品は数々あれど、やはり天然の色には、かなわない。 外はまだ冬の色。それだけに、ちらりと見ただけの鮮やかな色が今日はやけにきれいに浮き上がって見えた。
年末年始はのんびりと過ごしたものの、ここ数日、急にお尻に火がついたような、やきもきやきもき落ち着かない日々を過ごしている。 気分転換にと、少し退廃的な雰囲気が漂う、松尾スズキさんのブログを見に行く。彼の監督・出演した、『クワイエットルームへようこそ』や『インザプール』での、誇張された現実世界に、惹かれるものがある。
さて、今日、乗合バスを降りる時に、 「小学生です」と言わずに降りようとした女の子が、運転手さんに注意されていた。こういう密閉された場所で、子供やお年寄りが叱られている場面を見ると、なぜが自分が叱られているような、ピンと張りつめた気分になる。 なんだか自分が叱られているのを目撃されたようなバツの悪さと、その場の雰囲気を悪くしてしまったような責任感混じりの心地である。 駅やデパートで、「もう置いて行っちゃうからね!!」とぶんぶん怒りまくっている母親に、泣き叫びながらなおもとりすがっている幼児を見た時の心境はさらに複雑である。子供が小さい時は、ホント余裕がなくて、つい怒鳴っちゃんだよね、ああ(;_;)、というたっぷりの悔恨の情と、どんなに冷たくされても、「じゃあ、いいよ。置いてけよ」と、そこで鬼母を突き放すことのできない幼児の無力感に対するせつなさと、その鬼と化してる母親に対する怒りと……。思いは錯綜する。 その点、職場で同僚が怒られているのを目撃した時は気が楽である。 こういう場所では、やはり、他人が誉められているところを見るよりも、怒られているところを見るほうが、なぜか安堵した心持。いい気分転換になるのです。これは自己評価に多少問題あり、ですね。
初出勤。電車はガラ空き、窓から見える海もことさら青く富士山もくっきり……。 まずは仕事始め式から。 同じ課の物知り中原さんによれば、、古き良き時代には、仕事初めには、飲食物がふるまわれ、3時ごろには、上司以外は、帰宅したのだそうだ。 今そんなことしてたら、苦情が来ること目に見えている。 昼食には、親睦会からお弁当が出たのだが、さっき父にその話をしたら、 「税金で食ったのか」とひとこと。 違います。親睦会費から出たんです! ときっぱり。 内部からの「ちくり」が多い昨今、「白」は「白」とはっきりと言っておかねばなりません。
午後からは、大量に来ていた年賀状の仕分け作業。 「これだけ来てれば一枚ぐらい(お年玉くじ)当たってるかもね」とわたし。 「切手とか、当たったら誰のものになるんすか」と前に座っている青年。 そこへ、物知り中原さん曰く、 「それはですね。出納簿に臨時収入として記載して、事務所の財産として受け入れるんですよ」 と、存外まともな答え。 ひょとして、郵便の仕分けをしたわたしのものになるのかしら、などとちらとでも思ってしまったわたしは、新年早々恥じ入りました。
謹賀新年。
年が改まったというのに去年の話で恐縮ですが。 昨日は友人ふたりと忘年会。 3人とも両親と同居組。その気安さもあって、普通だったら、年末の大掃除やら片づけやらお節づくりやらで忙しいこの日、こうしてぬくぬくと外でランチなどしているのでした。 しかし、そうはいっても、「脱出」するまでには、皆それぞれに複雑な成り行きがあったらしい。さあて仕事納めだ、休みだ休みだ、と思ってゆっくりしている時に、家の中で年寄りがばたばたと動き回ると、何やら落ち着かない、じっとしているのは何だかいたたまれい、というのは皆共通の思いのようでした。
夜は紅白を観る。 美空ひばりさんの実写は見ごたえあった。 司会者の鶴瓶さんのキャラが全面に出過ぎていたような。ぎこちなさが目立って、ちょっとはらはらした。
深夜12時。新年を祝う汽笛と除夜の鐘、打ちあげ花火の音がしんとした夜の空気を伝わって聞こえてきた。
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